『イーゴリ公』
第一幕 敗北
ルーシーの軍勢は敗れた。遊牧民ポーロヴェッツの馬を使った戦術の前に敗れ去ったのだ。それにより多くの兵士達が死に諸侯も多くが死んだ。イーゴリ公も行方が遥として知れなかった。
「公爵様はどうなったのだ」
ルーシーの民衆はそれを聞いていた。その為混乱の中にあった。
「戦死されたらしい」
当然ながらそうした噂もあった。
「戦死か」
「ならば我々はどうなるのだ」
イーゴリ公は彼等にとっては守護神に等しい存在である。だからこそ彼がいないということは全てを失ったのに等しいのだ。彼等の不安は尽きなかった。
「このままではポーロヴェッツの思うままだ」
「奴等は鬼だ」
所謂モンゴルと言われる者達の一つである。彼等の苛烈さはよく知られていた。
「その鬼が攻めて来るなら」
「我々はもう」
彼等は絶望の中に入ろうとしていた。それを止める者もいなかったのだった。
今そのポーロヴェッツは軍をルーシーから僅かの距離で駐屯させていた。そこを本拠地にして一気に攻め込むつもりだったのだ。
そこには娘達もいた。遊牧民である彼等にとって戦場も生活の場も変わりはない。だからこそ娘達も今ここにいるのであった。
「乾いているわね」
「そうね」
娘達は口々に言う。見れば黒い髪と瞳の娘達でその服は遊牧民の質素な服である。その服で楽しそうに舞っていた。
「日の光も弱いし」
「寂しい場所ね」
「けれどここもすぐに離れるわ」
娘の一人が言った。
「そして次の大地は」
「豊かな黒い大地」
黒土である。ウクライナの大地は穀倉地帯なのは彼等も知っていた。だからこそその大地を目指しているのである。
「そこには」
「幸せがある」
彼女達はそう歌いながら舞っている。遊牧民達の舞を。それはルーシーのものとは全く違う舞だった。粗野でありながら美しい、そうした舞いであった。
「水気があり花が咲く大地」
「乾いた大地を去って」
「そうして愛しい人達が待っている場所」
こうも言う。やはり彼女達も娘であった。恋人のことを思うのだった。
「けれど今日はこれまでね」
「そうね」
見れば陽が落ちようとしていた。夜が迫っていた。
「けれど夜になれば」
「恋人達との時間がはじまるわ」
しかしそれに悲嘆してはいなかった。それはそれで楽しみであるようだった。
「彼等との出会いは私達の最大の楽しみ」
「甘美な時間」
そんなことを楽しげに話していた。その彼女達の中に一人の少女が混じった。彼等の中では一際華やかな服を着ている。黒い華麗な装飾が施された遊牧民の服である。その服を着て彼女達の中に入るのだった。
黒い瞳と髪が彼女もまたポーロヴェッツの娘であることを教えていた。切れ長で澄んでおりその黒は夜の黒だった。それが白い肌と見事な対比を見せていた。それと共に美貌もまた際立たせていたのだった。ルーシーのものではない、東の美貌であった。
「私の愛する方は来られるかしら」
彼女は娘達の言葉を聞きながら思うのだった。
「今ここに。来られるのかしら。いえ、若しかして」
ここでふと危惧を覚えた。
「私がここでお待ちしていることを知らないのかしら。伝え忘れて」
それを思うと胸が張り裂けそうになる。夜の闇の中でその顔を暗くさせた。
「それでも。私は」
だが希望を思い出し。呟くのだった。
「貴方を待つわ。もう夜だから」
そう、夜だった。娘達が楽しみにしている夜だった。
「御会いできる時間だから。だからここに」
「甘美な時が来るわ」
娘達も言う。
「私達の待っていた時間が」
「そう、それはもうすぐ」
黒い服の娘も言う。
「甘美な時がはじまるわ」
「コンチャコーヴァ様」
ここで娘達はその黒い服の娘の名を呼んだ。彼女はポーロヴェッツのハーンの娘、言うならば彼等の王女なのである。高貴な女なのだ。
「夜です」
「はい」
コンチャコーヴァはまずは彼女達の言葉に頷く。そうして言うのだった。
「お父様が仰っていました」
「ハーンがですか」
「何と」
「この前の戦いの捕虜達ですが」
イーゴリ公の軍の捕虜達である。彼女達の父や兄、恋人達が破った者達である。
「慰めよとのことです」
「殺さずにですか」
「お父様は彼等の奮闘を見て寛大な処置を取ることを決められました」
それだけの度量がこのハーンにあるということだった。彼等は戦いを行う一方でその相手と交易をしたりする意外とさばけた者達であるのだ。
「ですから彼等をもてなせとのことです」
「何とお優しい」
「偉大なるハーンよ」
「わかりましたね」
コンチャコーヴァはあらためて娘達に問うた。
「そのことが」
「はい」
「それではお水を」
「それと食べ物を」
娘達はコンチャコーヴァに応えて次々に述べる。
「用意して」
「肌も髪も違うあの人達をもてなしましょう」
早速捕虜達は一時的に幽閉されていた牢から解放されテーブルに案内された。そうしてそこで娘達の歓待を受けるのであった。彼等の中にはそれに涙を流す者達もいた。
「鬼だと思っていたが」
「このようなことをしてくれるとは」
「我等のハーンに感謝するのだ」
彼等への歓待の責任者である将軍の一人が彼等に対して言う。もう夜でかがり火の中での歓待になっていた。見れば将軍もまたその宴の中で酒と肉を楽しんでいた。
「貴殿等の勇敢さを認められたのだ」
「我等の」
「そうだ。貴殿等は我々に敗れた」
将軍はこのことに関しては誇らしげであった。胸さえ張っている。
「だが。その戦いは見事だった」
そのうえでこう言う。
「それを認められ今こうして歓待しているのだ。特に」
「特に」
「貴殿等の主だ」
イーゴリ公のことだ。
「あの者は立派だった。彼の奮闘には私もまた心を打たれた」
満足した笑みでの言葉であった。
「見事だ。だからこそ貴殿等をこうするのに躊躇いはない」
「左様ですか」
「貴殿等に侮辱は与えぬ」
彼はこうも告げた。
「安心するがいい。よいな」
「はい、それでは」
「公爵とハーンに感謝をして」
捕虜達は笑顔でその歓待を受けた。彼等の中には何時しか娘達に笑顔を向けている者までいた。彼等の中に入ろうとさえしていた。
その中でウラジミールは一人その中から離れた。だが途中で見張りの兵に見つかってしまった。
「申し訳ありませんがここから先は」
「駄目なのか」
「はい、御辛抱下さい」
そう彼に言うのだった。
「貴方はまだ捕虜であられますので」
「しかし向こうには」
「これ以上は私が処罰を受けます」
兵士は申し訳なさそうに彼に言う。
「ですから」
「わかった」
彼もこう言われては仕方がなかった。引き下がることにしたのだった。
「それでは」
「お待ち下さい」
だがここで声がした。見れば王女の侍女がそこに来ていた。
「この方はいいのです」
「宜しいのですか?」
「王女様が責任を持たれますので」
侍女はそう兵士に告げたのだった。
「ですから」
「左様ですか。それでは」
「はい」
兵士に対して何かを渡した。そうして彼を去らせた。侍女はそれからまたウラジミールに顔を向けて告げるのであった。
「どうぞ。御行き下さい」
「申し訳ありません」
ウラジミールはその彼女に礼を述べるのだった。
「このようなことをして頂いて」
「王女様の為です」
侍女はそう答えた。
「ですから」
「わかりました。それでは」
「王女様がお待ちです」
そう告げて彼女も姿を消した。ウラジミールはその彼女に感謝の情を抱きながら一人思うのだった。
「夕焼けは色褪せ夜が大地を包み込んだ」
今の時間であった。
「草原も暖かく優しい夜に包まれた、僕の心と同じく」
それを自分にも重ね合わせる。
「僕はその中で心を躍らせ君に会いに行く。君は待っていてくれているだろうか」
恋人のことを思うのだった。
「待っていてくれ、僕は君に恋焦がれ君の愛が欲しい。だからこの夜の中君の下へ向かうのだ」
足を進める。その中でまた思うのだった。
「君はいてくれるか、待っていてくれるか、君の抱擁に出会えその中に身を沈めることができるのか。星達よ教えて欲しい」
上を見上げれば星達が瞬いていた。それが夜の空を彩る。濃紫の空に無数の星達がそれぞれの輝きを放ちウラジミールを見下ろしていたのだった。
「この夜の中、君の下へ」
今彼はそこに来たのだった。その愛しい者がいる場所に。見ればその黒服の姫がいた。
「ウラジミール」
コンチャコーヴァはまず彼の名を呼んだ。その低めだが美しい声で。
「貴方なのね」
「はい、私です」
ウラジミールも彼女に応えるのだった。
「今ここに」
「来てくれたのね」
コンチャコーヴァは恍惚とした声で彼に問う。それと共に姿を現わすのだった。8
「私のところに」
「そうです」
ウラジミールはまた彼女の問いに応える。そうしてその前へ駆け寄るのだった。
「私は貴女に会う為にここに来たのです」
「私は待っていました」
コンチャコーヴァもそれに応えて言う。
「貴方をここで」
「同じなのですね」
「はい」
こくりと彼の言葉に対して頷いてみせた。
「私達はもう同じです」
「これからずっと」
そう言い合って抱き合う。抱き合えばすぐにお互いのぬくもりを感じるのだった。そのぬくもりを感じながらまたそれぞれ言い合うのだった。
「私は貴女と共にありたい」
「私もです」
二人の気持ちは同じであった。またしても。
「このまま一緒にずっと」
「では私の夫になって下さるのですね」
コンチャコーヴァはそうウラジミールに問うた。
「これからずっと」
「それができればどんなにいいか」
了承の言葉だった。彼もそれ以外のことは言えなかった。
「後は」
「父上が許して下されば」
それだけであった。二人の間にあるものは。
「私は貴方と共に」
「最も大切な人と」
「そう呼んで下さるのですね」
コンチャコーヴァは今娘として最高の喜びを感じていた。愛しい者の最も素晴らしい言葉を受けたのだから。それは当然であった。
「この私を」
「何度でも」
ウラジミールも言うのだった。
「私もですわ」
コンチャコーヴァもそれは同じであった。
「私の父上も同じお考えだと思います」
「では後は」
ここでウラジミールは気付くのだった。
「私の父上だけですね」
「貴方のお父様は何と」
他ならぬイーゴリ公のことである。彼等の間にはもう一つ考えなければならないことがあった。こちらはコンチャコーヴァの父よりも複雑な問題があった。
「わからない」
ウラジミールは苦い顔でそう答えた。
「父は捕虜だ。私もそうだから」
「何も言えないのね」
「考えることすらできない」
彼は言うのだった。
「今の状況にどうしようもなくなっているから」
「そうですの」
「はい。しかし私は」
それでもウラジミールは言うのだった。
「それでも貴女を」
「私も貴方を」
二人は秘密の逢引の中でそう言い合うのだった。だがどうしても二人の間にあるものを忘れることができなかった。それはどうしようもなかった。
公爵はその中で一人たたずんでいた。宴にも出ず自身に与えられたパオの前で立っていた。夜空の星達を見てただ立っているだけであった。
その中で彼は呟く。己の虚しい心境を。
「疲れ果てた魂には夢も休息もなく夜が訪れても慰めも忘却もない」
その二つすら得られない。彼の嘆きは多きかっら。
「私はこの夜の闇の中で昔のことを悔やむだけ、宴も勝利もなく今あるのは惨めな結末と破壊があるだけ。敗北とはこのようなものだった」
それを感じれば感じる程辛くなる。その辛さがさらに彼を責め苛むのであった。
「祖国の為に命を捨てたが軍は壊滅しこうして虜囚として生き恥を晒しているだけ。何という運命か。だが」
彼は顔を上げたままであった。うなだれることはない。それもまた言うのだった。
「必ず私はルーシーに帰る。そうして愛する祖国と妻を」
妻の顔が夜空に浮かぶ。愛する者の存在がさらに心を奮い立たせるのだった。
「守ってみせる。何があろうとも。しかし」
それでも思うのは。祖国の危機であった。
「妻もまた悲嘆にくれ祖国は敵の馬蹄に怯え続けている。全ては私のせいだ」
また己を責め苛む。どうしようもなく。
「希望はなくとも。何があろうとも必ず」
しかし誓う。神と他ならぬ己自身に対して。
「私は祖国を守る。妻もまた」
空はまだ暗い。しかし公爵はそれでも上を見続けている。その彼のところに彼の従者がやって来たのだった。
「公爵、ここにおられましたか」
「どうした?」
「ここからお逃げ下さい」
彼はそう公爵に申し出てきた。その前に片膝をついて。
「ここからか」
「そうです、馬は私は手配します」
彼は公爵に申し出る。その真摯な言葉で、
「ですから」
「私にか」
「なりませんか」
従者は公爵に問うた。
「ルーシーの為に」
「よせ」
だが彼は。従者を制止するのだった。
「それはならん」
「何故ですか?」
「それは危険だ」
彼が従者の言葉を拒むのは彼が危険だからではなかった。
「そなたが危険だからだ。いいな」
「私のことは構いません」
従者はそう述べて主の言葉を受けまいとした。
「それは覚悟のうえですから」
「それでも駄目だ」
彼はあくまで従者のことを気遣いそれを受けないのだった。
「わかったな。気持ちだけ受け取っておく」
「左様ですか」
「そうだ。わかったら下がれ」
彼は言った。
「わかったな」
「わかりました。それでは」
従者は下がる。公爵はその心だけを受け取っていた。それで寂しい顔になるのだった。
「その通りだが。私一人でそれは果たされるのならば」
「公爵、ここにおられたか」
そこに一人の壮年の男がやって来た。巨大な身体をしており見事な髭を顔中に生やしている。その髭と髪の色、その顔立ちから彼もまたポーロヴェツであることがわかる。その服は黒と赤で豪奢に飾られそれから彼がただのポーロヴェツの者ではないのがわかる。それも道理、彼こそがポロヴェーッツのハーンであり公爵の宿敵であるコンチャーク=ハーンであったのだ。ルーシーにとっては恐べき敵でありポーロヴェツにとっては偉大なる英雄、そうした男であった。
彼は公爵のところに来た。そうして低く威厳に満ちているがそれと共に穏やかで親しげな声を彼にかけるのであった。
「公爵、そこにおられたか」
「貴方か」
公爵は彼に顔を向けた。決して憎しみを向けているのではなかった。むしろ互いに認め合うような、そうした雰囲気の中にあった。
「心が冴えぬようだが」
「何でもない」
「狩の弓や犬が悪いのならわしのを貸すが」
「いや、いい」
遊牧民にとっては最高の気遣いを公爵に見せた。公爵はそれをまずは丁寧な物腰で断ったのだった。
「どちらもいい。だが」
「だが?」
「今の私はこうして貴殿の虜囚だ。それ以外の何者でもないのだから」
「何を言う」
ハーンは公爵のその言葉を首を横に振って否定した。
「貴殿は虜囚ではない。客人だ」
「客人と呼んでくれるか、この私を」
「そうだ」
ハーンは堂々と言った。
「ポーロヴェツは勇者を粗末にはしない」
それが彼の言葉であった。
「だから貴殿も貴殿の兵達も誰一人として粗末には扱ってはいない。違うか?」
「確かに」
公爵もそれはわかっていた。それには素直に感謝していた。
「それはわかっている」
「戦場で貴殿と戦ってわかったのだ」
ハーンは戦場での公爵のことを彼自身に対して述べた。
「貴殿はわしの友とするのに相応しいとな」
「そこまで私を買ってくれるのか」
「草原の民は嘘は言わぬ」
それが彼等の誇りであった。
「決してな。勇者に対しては」
「私をまたそう呼んでくれるか」
「その勇者に対してまた言おう」
そのうえでまた告げてきた。
「貴殿が望むものは弓でも犬でも。いや、剣も天幕も馬も」
どれも遊牧民達にとってはまたとない宝である。
「欲しいものなら何でも。授けるぞ」
「私にそうする価値があるというのか」
「わしは草原の主だ」
その自負は絶対のものだ。草原を支配する者は何も恐れない。昔から言われている言葉である。
「何者をも恐れず、誰もが恐れるこのわしを恐れぬ貴殿を粗末にしたことがあるか?」
「いや」
それは決してない。だからこそすぐに答えることができた。
「貴殿は私を非常に重く扱ってくれる。それは事実だ」
「そうだな。では何が欲しい」
「帰る」
彼が欲しいのはそれだけであった。
「私が欲するのはそれだけだ」
「ならば帰るがいい」
何処までも寛大なハーンであった。しかしそれには約束があった。
「ただしだ」
「何だ?」
「我が行く手を遮らぬな」
つまりは味方になれと。そういうことであった。
「ならばよいが」
「有り難い言葉だが」
公爵にはそれを受けるわけにはいかない理由があった。それを彼に対して告げる。
「私はルーシーの者だ。だからその申し出を受けることはできない」
「わしと戦うというのだ」
「そうだ」
堂々とハーンを見据えての言葉だった。
「私も誇り高きルーシーの貴族、その誇りにかけて嘘は言うわけにはいかない」
「それをわしに言うのだな」
「そうだ。私は自由になったなら必ず再び剣を手にし馬に乗る」
戦場に向かうというわけだ。
「そうして軍と共に貴殿の前に姿を現わすだろう」
「見事だ」
ハーンはその言葉を受け怒るどころか賞賛さえした。
「そうでなくてな。わしが見込んだだけはある」
「やはりそれは」
「わしは人を見る目は確かだ」
公爵が買い被りだと言おうとしたのを察してまた告げるのだった。
「何度も言うがな。では宴に来てくれ」
「私を呼んでくれるのか」
「無論だ。では行くぞ」
そう言って彼を招く。招いた場所ではもうポローヴェッツの娘達が待っている。ハーンはそこで自分の席に公爵を座らせた。そうして娘達の舞を見守るのだった。
華麗な舞であった。何時しかそれに男達も加わり華麗なものに勇壮が加わる。それは見事な対比であった。
公爵はそれを見てもまだ楽しまなかった。その中で一人考えに耽るのだった。遠くに離れてしまった祖国と妻のことを想い。一人考えに耽っていた。
いきなり負けて捕虜に。
美姫 「でも、待遇は決して悪いものではないみたいね」
だな。しかし、捕虜の状態からどうするんだろう。
美姫 「息子の方は恋に落ちてるしね」
うーん、今回の話はどんな話になるんだろうか。
美姫 「次回も待ってますね」
ではでは。