『イドメネオ』
第二幕 王の苦悩
イドメネオは宮殿の己の部屋にいた。白く広大なその部屋において彼はアルバーチェだけを置いていた。そして立ってい
る彼に対して彼もまた立って話をしていた。
「アルバーチェよ」
「はい」
「私の従者達はもう知っているが」
「そうですか」
「だが彼等には沈黙を守らせている」
まずこのことを彼に告げる。
「誰も話すことはない。そしてだ」
「そして?」
「そなたにも言っておきたい」
「何をでしょうか」
「私は何とか助かることができた」
あの嵐のことを語る。
「しかしだ。あの海獣はポセイドン神の僕だった」
「やはりそうでしたか」
「あの牛のことでな。送り込まれたのだ」
「それは察していましたが」
「問題はそれだけではない」
苦渋に満ちた顔で彼に告げた。
「生き長らえることができた私の前にポセイドン神が姿を現わされ」
「ポセイドン神が!?まさか」
「そう、そのまさかだ」
彼は言うのだtった。
「生贄をな。私が最初に出会った者にだ」
「それは誰ですか?」
「我が子だ」
「我が子!?まさか」
「そう、そのまさかだ」
驚くアルバーチェに対して強張った顔で語った。
「イダマンテだ。我が子だ」
「何ということ」
「何故このことをそなたに話したのかわかるか?」
これまでアルバーチェに背を向けていたがここで彼に顔を向けてきた。
「何故か。わかるか」
「何故でしょうか」
「助言を欲しい」
強張った顔で彼に告げた。
「そなたの助言が。クレタきっての賢者であるそなたのな」
「この国を去られることです」
アルバーチェはこう答えた。
「難を逃れて。それが妥当です」
「それか」
「そうです」
沈痛な顔でイドメネオに答えた。
「ですからここは」
「わかった。では我が子をアルゴスに行かせよう」
「アルゴスですか」
「そうだ。そしてだ」
アルゴスという国を出してさらに告げる。
「エレクトラもな。アルゴスは彼女の故国だからな」
「だからですか」
「すぐに行かせるように話を進めてくれ」
狼狽した顔でアルバーチェにまた告げる。
「秘密を守ってな」
「わかりました。それではすぐに」
「これで難を避けられればいいがな」
「若しもです」
ここでアルバーチェは言った。
「若しも貴方の苦しみと私の望みが同じならば渡すが貴方の御言葉にすぐ従うのと同じ様にその悲しみもすぐに消え去って
しまうでしょうに」
「アルバーチェ・・・・・・」
「玉座に伴うものがどういったものか。やはり玉座を望む者は学び、そして知らなければなりません」
「その通りだ」
「さもなくば王座は望まないに越したもの。望むなら嘆かないようにしなければ。例え苦悩しか出会わなくとも」
「では。頼む」
「・・・・・・はい」
沈痛な顔で王の言葉に頷いた。彼も今はそれしかなかった。王は沈痛な顔で部屋を去りそのまま宮殿の外に出るのだった
。
宮殿の前では。イーリアに出会った。すぐにイーリアが口を開いてきた。
「若しもです」
イーリアがイダマンテに対して言う。
「ギリシアの地にデロスの神、太陽が現われるならば今日がその日です」
「この日がか」
「ですから王様」
じっとイドメネオを見詰めてさらに言う。
「よくぞ戻って来られました。本当に」
「トロイアの優しい姫よ」
イドメネオはここで彼女に言葉を返した。
「再び晴れやかな心を戻して欲しい。そして苦悩を忘れ私を頼ってくれ」
「はい」
「これからの私は貴女と貴女の同胞達に友情の確かな証を約束しよう」
「有り難うございます。例え祖国と父を失っても今ではこのクレタが祖国であり貴方様が父です」
「そこまで言ってくれるか」
「はい。最早苦しみも悲しみも思い起こすことはなく」
こうイドメネオに語る。
「今や喜びと満足に変わっています。最早」
「有り難い言葉だ」
「王様ですから」
(しかし)
ここでイドメネオは引っ掛かるものも感じていた。
(何故だ。この様な苦境において突如として変わるとは。まさかとは思うが)
イーリアの目を見て不吉なものを察した。
(何ということだ。イダマンテよ)
既に彼がとろいあの者達に何をしたのかも知っていた。
(彼女と彼等の鎖を解くのは早過ぎた。それによりそなたは生贄に捧げられ私と彼女は悲しみに襲われる。何という恐ろしい
ことだ)
「王よ」
「うむ」
それでもイーリアの言葉には応える。仮面を被り。
「ですから私はもう」
「そうなのだな」
「はい」
熱い目で微笑むのだった。
「その通りでございます」
「それはいいことだ」
(だが)
ここから先はとても言うことができなかった。
(恐ろしい運命だけは。言うことができないのだ)
「では私はこれで」
「ではな」
イーリアは去った。それを見届けた王は。また呟くのだった。
「しかし。何故だ」
彼の嘆きの理由はもうはっきりとしていた。
「海から逃れたというのにまたもこの胸に残ってしまった。前に増して不幸な海を。ポセイドンはこの胸のうちの胸にも荒
波を立たせられるのか」
嘆きの言葉を続ける。
「残忍な神よ、せめて教えて欲しい。これ程難破に近いというのに私の心はどのような邪悪な運命によりすぐにも難破する
ことを阻まれているのか」
嘆き続ける。すると今度はエレクトラがやって来た。
「王様」
「エレクトラ姫か」
「はい、アルバーチェ殿より聞き及びました」
こうイドメネオに述べるのだった。まずはそれからだった。
「私のことを心より思って下さっておられるのですね」
「人としてとうぜんのことだ」
彼は奢ることなくこう返した。
「このことは」
「左様ですか。それでも」
慈悲を受けるエレクトラはこう言われてもあえて述べた。
「その無限の温情、そして私の感謝は」
「貴女を守る責務はイダマンテにある」
「イダマンテ様にですか」
「そうだ。私は我が子のもとに行き今すぐに私の意向と彼の義務を伝え貴女の望みが適うようにしよう」
「私は多くの不幸を味わってきました」
父の死と母の変節、母の愛人の仕打ち、そしてそれへの復讐。それ等の荒波が彼女を乙女から猛女に変えていたのだ。し
かしそれを忘れようともしていた。
「ですが今は私よりも甘い喜びを味わった者はいないでしょう。私はクレタからあのかたと共に祖国に戻る」
「そう、その通りだ」
「私の心は小さ過ぎます」
「というと?」
「これ程の喜びには耐えられません」
恍惚として語った言葉だった。
「これ程までの喜びには」
「そのことを今から伝えに行く」
イドメネオはどうしても暗くなってしまう己の心を何とか立ち上がらせていた。
「それでは」
「はい」
彼はそのまま姿を消した。一人になったエレクトラはさらに言うのだった。
「あの恋敵から遠く離れたならばその時こそあの方を完全に私のものに。あの方の全ては私のもの」
こう思うともう己を抑えることができなくなっていた。
「憧れのお方、例え別の恋人の為に」
もう一人の女を見据えていた。
「貴方が私によそよそしくされても私は傷付くことはない。厳しい恋は私をより駆り立てる」
これがエレクトラだった。
「貴方の胸から遠のいた情熱を身近な情熱が追い払う。愛の手はより力を持つもの。そう」
ここでまた言う。
「愛しいお方が側にいれば」
こう最後まで言ったところで遠くに何かを聞いた。
「あれは」
それは調べであった。
「遠くから聴こえるあの心地良い調べは私を呼んでいる。祖国に戻るようにと」
それを感じて港に向かう。するとそこには多くの船乗り達がいた。船も数隻ある。
「これは姫様」
「どうも」
「はい。シドンの地よ」
港からクレタを見やる。
「ここは私にとって涙と苦悩と不幸な恋の場所だった。しかし」
「積み荷はそこだな」
「ええ」
後ろでは船乗り達がせっせと動いている。しかし彼女は今はそれを見てはいない。
「今から持って来ますんで」
「無理はするなよ」
「わかってます」
「寛大になった運命が私をここから連れ出してくれる。だから」
エレクトラの顔は恍惚になっていた。
「私はこのシドンの地を許し。嬉しい門出に際して安らかにここを去り、別れを告げよう」
「海は穏やかだな」
「そうだな」
後ろではまた船乗り達が話をしている。
「今のうちだな」
「そうだ。今のうちにだ」
海を知る彼等は早いうちの出発を望んでいた。
「早く行かないとな」
「ポセイドン様は気紛れだからな」
「全くだ」
「優しい西風よ」
エレクトラはまだ喜びの中にいた。
「御前達だけが吹く冷たい北風の猛りを静めて。心地良い微風だけでいいの」
彼女もまた平穏を願っていた。
「御前達によって愛が四方に」
「むっ、あれは」
「王様だな」
ここで船乗り達の様子が変わった。
「王子様も御一緒だな」
「供の方々も。何かあったのか?」
「戦か?まさかな」
それはすぐに否定された。
「トロイアとの戦が終わったばかりだ。それはないか」
「ああ、それはないな」
そんな話が行われていた。その間にイドメネオは威厳を必死に保ちながらイダマンテに対して語っていた。
「それでだ」
「はい」
「私は期待している。そなたが彼の地において多くのことを学び多くの偉業を果たすことを」
「私がですか」
「そうだ」
真実は必死に隠していた。周りの者達も。
「王になるには今からなのだ。それが後の支えになるぞ」
「わかりました。それでは」
「私より、今のそなたよりも」
厳かさを必死に保ってまた言う。
「さらに立派になるのだ。よいな」
「畏まりました」
「王様」
ここにエレクトラも来た。恭しく彼に頭を垂れる。
「お別れの言葉をお許し願えますか」
「うむ」
エレクトラに対しても答える。
「是非共」
「お別れです。そしてクレタと王様に幸があらんことを」
「そなたにもな。それではだ」
彼はまた我が子に顔を向けた。
「行くのだ。今から」
「ええ」
こうしてイダマンテはエレクトラと共にクレタを去ることになった。イドメネオはこれで難を逃れたと思った。しかしそ
うはならなかった。
「何っ!?海が」
「まさか」
ここで突如として海が荒れだしたのだった。
「荒れ狂っている」
「また急に!?」
「どういうことでしょうか」
「何故。急に」
事情を知らない兵士達は呆然とするばかりだった。
「ポセイドンよ、どうして」
「何があったのですか?」
「まさか」
「いや、ひょっとすると」
しかしイドメネオと共にいる従者達はここで顔を強張らせるのだった。
「あのことで」
「お怒りなのか」
海は先程までの静寂が嘘の様に荒れ狂い空には雷が鳴っている。稲妻が光り落雷まで落ちる。嵐まで吹き荒び遂にはその
海からあの巨獣が出て来た。
「またあの獣だ!」
「何故あれがまた!」
「王よ、まさか」
アルバーチェが蒼ざめた顔でイドメネオに声をかける。
「ポセイドン神は納得されていないのでは」
「そうか」
イドメネオは沈痛な顔で彼に応えた。
「誤魔化しは効かないということか」
「くっ、それではどうすれば」
「海が怒っている」
イドメネオはその海を見つつ述べる。
「ポセイドン神が。私に対して」
「我等に非があるのか?」
「罪人がいるのか?」
船乗り達は口々に言う。波は港も打っている。それが人を飲み込むようになるのも時間の問題であった。
「だとすれば誰だ」
「誰なのだ」
「私だ」
イドメネオは俯いて呟いた。
「私だけでよいのだ。罪人は」
「王よ」
「だが何故だ」
アルバーチェの慰めの言葉は聞かなかった。聞くことができなくなっていた。
「何故イダマンテに。何故だ」
「王よ、危険です!」
「ここは!」
兵士達が王の周りを取り囲んで叫んだ。
「お逃げ下さい!」
「どうか!」
「駄目だ、逃げろ!」
「ここにはいられない!」
獣も波も迫ったのを見て船乗り達も遂に逃げ出しはじめた。
「王様も!ここは!」
「このままでは!」
「私だけでいい筈だ」
だがそれでもまだイドメネオは虚ろに呟いていた。
「それが。どうして」
「逃げろ!」
「来るぞ!」
人々は逃げはじめた。
「嵐に飲み込まれるぞ!」
「獣から逃れろ!」
こう叫びつつ逃げるのだった。イドメネオも兵士やイダマンテに護られつつ港から退避した。クレタの平穏は海により破られたのだった。
皮肉な事に息子が生贄となったけれど、国を去らせる事で回避させようとしたんだな。
美姫 「でも、結局は神の怒りに触れてしまったようね」
下手な策で余計に怒っているかもしれないけれど。
美姫 「やっぱり怒りを静めるには、予定通りに贄を捧げるしかないのかしら」
一体どうなるんだろうか。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。