『友人フリッツ』




                              第二幕 さくらんぼの二重唱

 スーゼルはこの日果樹園にいた。木々にはよく熟れた美しいさくらんぼが多く実っている。彼女はそれを一つ一つ手に取ってそのうえで食べていた。
「これを是非」
 食べながら思うのだった。
「フリッツさんいも」
 後ろには農場が見える。そこでは多くの人が働いている。緑が周りにも後ろにもある。そして牛達がゆっくりと歩き子供達が明るく笑っている。青い空が広がりとてものどかな世界であった。
 彼女はその中で思うのであった。
「フリッツさんにも」
「さあ娘さん」
「よく御聞き」
 そしてであった。農場や果樹園から農夫達の明るい歌声が聴こえてきた。
「恋は大切なもの」
「忘れてはいけない」
「そして手放してもいけない」
「とても大切なものなんだよ」
 こう歌っていた。
「遠くに去った恋は二度と戻らない」
「帰っても来ない」
「だから娘さん」
「恋をしたならば」
 スーゼルはその歌が自分に対するもののように思えた。それでじっと聴くのだった。
「何があっても手放してはいけないよ」
「神様に誓ってね」
「そうね」
 スーゼルは彼等の歌に頷いた。そうしてそのうえで言うのだった。
「何があっても。奇麗な騎士さんを見初めたら」
 言いながら彼の顔を思い浮かべる。
「それでもう手放してはいけないわ」
 さくらんぼを止めるのを止めて今度は足元にある花を摘みだした。そしてその花を一つに束ねていくのであった。花束の様に。
 そうしているとだった。そこに誰かがやって来た。それは。
「あっ」
「やあ、マドモアゼル。いや」
 微笑んで言葉を訂正させた彼だった。
「フロイラインだったかな」
「フリッツさん、どうしてここに」
「どうしてってここは僕の果樹園じゃないか」
 微笑んで驚いて立ち上がってきたスーゼルに対して答える。
「そうじゃなかったかい?」
「それはそうですけれど」
「だったら僕がいてもいいよね」
 微笑を続けながらの問いであった。
「今ここに」
「はい、それはもう」
「それでフロイライン」
「スーゼルでいいです」
 お嬢様と呼ばれるとであった。気恥ずかしくなるスーゼルだった。それでついつい顔を赤らめさせてこう言葉を返したのである。
「スーゼルで」
「そうですか。ではスーゼルさん」
「はい、フリッツさん」
「ここはどうかな」
 こう彼女に問うてきたのだった。
「この果樹園は。楽しいかな」
「はい、とても」
 少し顔を赤らめさせたうえでの返事だった。
「楽しいです」
「そう。それはよかった」
「それでですけれど」
 さらに言ってきたスーゼルだった。
「あのですね」
「うん。どうしたんだい?」
「これを」
 顔をさらに赤くさせて。その手に集めていた花束を渡したのだった。
「どうぞ。受け取って下さい」
「あっ、お花をかい」
「お花。好きでしたよね」
「うん、どれでもね」
 誕生日の時そのままの会話であった。
「大好きだよ」
「ですからどうぞ」
 こう言うのだった。
「御願いします」
「有り難う」
 その花束を笑顔で受け取るフリッツだった。
「喜んで飾らせてもらうよ」
「はい、それでですね」
 さらにであった。スーゼルの言葉は続く。
「あの、今度は」
「今度は?」
「これを」
 言いながらだった。上を指差す。するとそこには。
「差し上げたいのですが」
「さくらんぼをかい」
「いけませんか?」
 指差した後で彼に問い返した。
「これは」
「いや、有り難い申し出だよ」
 フリッツはにこりと笑って彼女の今の言葉に返した。
「じゃあ御言葉に甘えて」
「受け取って頂けるのですね?」
「この真っ赤に熟したさくらんぼ」
 フリッツは笑顔でスーゼルに言葉を返しだした。
「是非受け取らせてもらうよ」
「有り難うございます」
「さくらんぼを二人で食べて」
「そうです」
「そして幸せになるんだね」
「御願いです、幸せになって下さい」
  スーゼルは言いながら側にあった脚立に登った。そのうえで上にあるさくらんぼを一つずつ摘み取る。そのうえで足元に来たフリッツに手渡すのだった。
「どうぞ」
「うん、有り難う」
 受け取った側からそのさくらんぼを食べるフリッツ。その味は見事なものだった。
 甘酸っぱく口の中を忽ちのうちに支配していく。それが一つではない、幾つもある。それが彼をいたく喜ばせたのである。スーゼルは次々とそれを手渡す。
「お好きなだけどうぞ」
「頂くよ。それに君も」
「私もですか」
「そうだよ。食べて」
 スーゼルを見上げての言葉である。
「そして二人で幸せになろう」
「私も幸せになっていいのですね」
「幸せは一人だけのものじゃないよ」
 フリッツらしい言葉だった。
「だから君もね」
「有り難うございます。それでは」
 彼女もその言葉に応えてさくらんぼを食べる。それは先程と変わらず美味しかった。
 二人でそのさくらんぼを食べて幸せになっているとだった。馬に挽かれた台車に乗ったダヴィッド達がやって来た。彼の他にフェデリーコ、ハネゾー、ペッペもいる。ペッペはその手に持っているバイオリンで陽気な音楽を奏でてそれを果樹園の中に聴かせていた。
「さあ皆さん」
 ペッペは明るく果樹園の中にいる皆に声をかけていた。
「陽気に歌いましょう」
「この世は楽しいことばかり」
「悲しみよさようなら」
 フェデリーコとハネゾーも能天気なまでに明るい。
「ですから楽しみましょう」
「明るく騒ぎましょう」
「やあフリッツ」
 ダヴィッドはスーゼルと一緒にさくらんぼを食べていたフリッツに気付いて声をかけた。
「そこにいたのかい」
「ダヴィッド、来てくれたのかい」
「うん、楽しませてもらっているよ」
 こう友人に返すラビだった。
「おかげでね」
「それは何よりだよ」
 フリッツは友人が楽しんでくれていると聞いてその顔を綻ばせた。
「それじゃあだけれど」
「うん。何だい?」
「これからちょっと行くかい?」
「行くとは?」
「いや、馬車が来たから」
 彼等が今乗っているその馬車を見ての言葉である。
「だからね。農場や他の場所を見回ろうと思ってね」
「そうだね。ただ僕は」
「どうしたんだい?」
「遊び過ぎて少し疲れたよ」
 ちらりとスーゼルを見てから言うのだった。
「それで休みたいのだけれど」
「ここでかい」
「うん、いいかな」
 こうフリッツに対して問うのだった。
「それで」
「いいとも」
 断る理由なぞないといった言葉だった。
「それじゃあ僕は皆と見回りに行くから」
「僕はここに残って」
「交代しよう」
 笑顔で言いながら馬車に向かう。そしてダヴィッドは降りフリッツは乗った。丁度いい具合に人が入れ替わった形になったのである。
 こうしてフリッツは馬車を進ませダヴィッドは残った。ダヴィッドはスーゼルから水筒の水を一杯貰った。それを飲んで彼は言うのだった。
「いや、スーゼルは」
「はい」
「リベカみたいだね」
 彼女のその可愛らしい顔を見て優しい声で言うのだった。
「聖書のね」
「そんな、私は」
「いや、本当だよ」
 あくまでこう言うのだった。旧約聖書の創世記第二十四章に出て来るそのリベカだというのである。
「本当にね」
「そのリベカとはどんなことをしたのですか?」
「水を与えてくれて疲れを癒してくれた」
 彼女を見ながらの言葉だった。
「もっともそれは井戸の水で水筒ではなかったけれど」
「では私とは違うのではないですか?」
「いや、同じだよ」
 しかし彼がこう答えるのだった。
「それはね」
「私がその人と同じになるんですか」
「疲れを癒す水をくれたからね」
 だからだというのである。
「同じだよ。本当に」
「そうですか」
「そうさ。そしてね」
 さらに話すダヴィッドだった。
「若しもだよ」
「若しも?」
「若し君がリベカだったら」
 その聖書の心優しい女だとしたらだというのである。
「その時はどうするんだい?」
「どうするかですか」
「そうだよ。君はどう応えるかな」
 やはりスーゼルを見ながらの言葉であった。
「君が想う人がいたならば」
「やはり同じです」
 その問いにこう答えるリベカだった。
「こうしてお水を差し上げたいと思います」
「そうか、お水をだね」
 今の返答に目を細めさせたダヴィッドだった。
「そうだよ。それでいいんだよ」
「有り難うございます」
「それでだけれど」
 さらに言おうとした。しかしであった。
「特に何もなかったね」
「皆真面目に働いてくれてしかも何もかも豊かだ」
「いや、全くだよ」
 少し離れた場所から話し声が聞こえてきた。フェデリーコ、ハネゾーと明るく話すフリッツの声がである。その声を聞いたスーゼルは。
「あっ、いけないわ」
「いけない?」
「少し用を思い出しました」
 これを理由にしているのはダヴィッドには明らかであった。しかしそのことはあえて言葉には出さず聞いているだけにしたのであった。
「ですから。すいません」
「そうか。それだったら仕方ないね」
 ダヴィッドは微笑んで彼女の言葉に応えた。
「それじゃあまたね」
「はい、また」
 スーゼルは丁寧に一礼してからそのうえで場を後にした。ダヴィッドはその彼女を見送りながら。一人こう思わずにはいられなかった。
「あの娘しかないな」
 こうである。
「彼と結ばれるのは」
「やあダヴィッド」
 その彼にフリッツが声をかけてきた。やはりフェデリーコ、ハネゾーと一緒である。当然ペッペも一緒にいてバイオリンを奏でている。
「どうだい?元気になったかい?」
「ああ、フリッツ」
 ダヴィッドは彼にも笑顔を向けて応える。
「おかげさまでね」
「そうかい。それは何より。ところで」
「ところで?」
「スーゼルは?」
 気になるような顔で問うてきたのだった。
「何処だい?姿が見えないけれど」
「ああ、ちょっとね」
 この辺りはスーゼルと同じく誤魔化して応えるダヴィッドだった。
「ちょっとね。用事を思い出したそうでね」
「何だ、それは残念だね」
 それを聞いて心から残念そうな顔になるフリッツだった。
「折角ワインを持って来たのに」
「それで一杯かい」
「お水よりワインの方がいいだろう?」
 殆どの人間にとってその通りである言葉であった。
「だからと思って持って来たんだけれどね」
「それは残念だったね。それでだけれど」
「うん。それで?」
「スーゼルは近々幸せになるよ」
 まずは思わせぶりに微笑んでの言葉であった。
「幸せにね」
「あれっ、もう幸せになっていないのかい?」
「これからだよ。彼女はね」
「うん、彼女は?」
「近いうちに結婚するよ」
 今度はにこりと笑ってみせての言葉である。
「近々ね」
「えっ!?」
 それを聞いたフリッツは瞬時にその表情を変えた。その後ろではフェデリーコとハネゾーがワインとさくらんぼを楽しんでいる。ペッペはここでもバイオリンを奏でている。
「結婚するのかい、あの娘が」
「そうだよ、どうやらね」
「馬鹿な、そんなことは有り得ないよ」
 何故かそれを必死に否定しようとするフリッツだった。
「絶対にね。有り得ないよ」
「何故そう言えるんだい?」
「何故って?」
「今君はかなり必死に見えるけれど」
 友人を気遣う顔を作って彼に問うのだった。
「一体全体。どうしたんだい?」
「いや、別に」
 ここで少し落ち着きを取り戻して返した。
「何もないけれど」
「本当にそうかい?」
「そうだよ。何もないよ」
 そうは言っても自分でも動揺していたのはわかった。今ではかなり収まっているがそれでもである。動揺しているのは明らかであった。
「何もね」
(けれど)
 心の中で呟きもした。
(何でこんなに焦っているんだ?今の僕は)
(さて)
 そしてダヴィッドはダヴィッドで彼のそうした動揺を見抜いて心の中で言うのだった。
(彼も間違いないな。どうしようかな)
「ああ、フリッツ」
「カテリーナが来たよ」
「あれっ、どうしたんだい?」
「お客様です」
 彼女はフリッツの側まで来てこう告げてきたのだ。
「それでお屋敷に戻って頂きたいのですが」
「ああ、そうなのか」
 客が来たとなればだ。主としては戻らなくてはならなかった。それで彼女の言葉に頷いたのだった。
「それじゃあこれで」
「はい、お戻り下さい」
「じゃあさ、僕達も一緒に」
「戻ってもいいかな」
「私も宜しいでしょうか」
 三人はここでフリッツに同行を願い出てきた。
「ああ、いいよ」
「よし、じゃあ一緒に馬車に乗ろう」
「それで屋敷に戻って」
「そこでも楽しく」
「そうだね。どんなお客人かはわからないけれど」
 今はまだそこまではわからない。しかしそれでも明るく楽しく接したいと思っていた。この考えはここでも変わらないのであった。
「そうしようか」
「それじゃあ」
「それでダヴィッド」
 フリッツはここでも彼に声をかけた。
「君も一緒にどうだい?」
「いや、僕はいいよ」
 彼は右手の平を軽く前に出してそのうえで微笑んで答えた。
「まだここにいてさくらんぼを御馳走になるよ」
「そうか。じゃあゆっくりと楽しんでいてくれよ」
「うん、そうさせてもらうよ」
 こうして彼等はダヴィッドを残してカテリーナも馬車に乗せてそのうえで屋敷に戻った。馬車のその出発の鈴の音が聞こえるとだった。スーゼルが入れ替わりに戻って来たのだった。
「あれっ、用事は終わったんだ」
「あっ、はい」
 一人残っていたダヴィッドに応えるのだった。
「今終わりました」
「そうか。それは何よりだよ」
「それでですけれど」
 今度はおずおずとなって彼に尋ねてきた。
「あの、フリッツさんは」
「今お屋敷に戻ったよ」
 こう彼女に答えるのだった。
「今ね」
「そうですか」
 ほっとしたような、それでいて残念そうな言葉であった。それが表情にも出ている。
「そうなのですか」
「うん、それでだけれど」
「はい」
「気分はどうだい?」
 そんな彼女に対してあえて問うたのであった。
「今の気分は」
「気分ですか」
「寂しいかい?それとも安心しているかい?」
「それは」
 実はあまりにも見事に言い当てられているので戸惑いを覚えた。そして彼は見越したうえでさらに彼女に対して言うのであった。
「その・・・・・・」
(よし、これでやり方は決まったな)
 ここでも心の中で呟くダヴィッドだった。
(それなら)
「さあ娘さん」
「よく御聞き」
 ここでまた農夫達の明るい歌が聴こえてきた。
「恋は近くにあってこそだよ」
「遠くにあってはいけないもの」
 また恋の歌を歌っていた。
「遠くに去ってしまった恋は」
「もう二度と戻って来ない」
「そう、絶対に」
 こう歌うのだった。
「だから決して離してはいけないよ」
「一度掴んだら」
「その通りだね」
 ダヴィッドはわざとスーゼルに聞こえるようにして呟いた。
「恋は一度見つけたらね。何があってもね」
「何があってもですか」
「そう、手放したらいけないよ」
 こう言ってみせるのである。
「絶対にね」
「そうなのですか」
 歌声とダヴィッドの言葉に俯いて考える顔になったスーゼルだった。話はまた動こうとしていた。確実に。



フリッツの心境に変化が。
美姫 「スーゼルを見てダヴィッドは何か考え付いたみたいよね」
うーん、何をするつもりなんだろう。
美姫 「話も終盤っぽいし、どうなるかしらね」
次回を待ってます。
美姫 「待ってますね」



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