『友人フリッツ』
第一幕 賭けのはじまり
十九世紀末のアルザスはドイツ領だった。しかし住民にとってはそんなことはどうでもいいといったところがあった。
「それで言葉はどっちなんだ?」
「一応ドイツ語らしいぞ」
「まあどっちも喋れるからいいか」
「そうだな」
フランスから割譲されたのでどっちの言葉を主に喋るべきかで問題になったが彼等はあっさりとドイツ語にしてしまった。国と国の関係はとりあえずどうでもよかったのだ。
それで大事なのは何かというと。それぞれの人生だった。今このアルザス、ドイツ語で読むとアルサスでも有名な地主の一人であるフリッツ=コブスは自身の立派な屋敷のダイニングルームにおいてユダヤ教のラビの服を着て帽子だけ脱いでいる少し年配の男と話をしていた。
部屋は広い。壁にある絵はやけに絵の具を使っていて色彩が鮮やかだ。鋭い目に険しい顔立ちのそのラビは一見すると聖職者には見えない。背もそれなりにあり身体も引き締まっていて軍人に見える。しかし服を見ると紛れもなくユダヤ教のラビである。黒い目をしていて髪の色も黒である。その彼がフリッツと対しているのだった。
「それでだけれど」
「うん」
フリッツはその彼の言葉に応えた。フリッツは品のある彫がやや深い顔をしている。目は青く整っている。口髭も形がよく鼻が高いこともあり実にノーブルな印象を与える。薄いブラウンの髪を後ろに撫で付けている。ダークブラウンのズボンに白いシャツに赤いベスト、それに紅のネクタイという実に洒落た格好だ。その姿で立派なソファーに座ってラビと対していた。
「あの絵は」
「ゴッホだよ、ダヴィッド」
その絵を描いた画家の名前を告げた。
「あれがね」
「そうか、あれがゴッホかい」
「どうかな凄くないかい?」
「凄いっていうかね」
ダヴィッドはそのゴッホの絵を見ながら友人の言葉に応えた。
「激しいね」
「激しいかい」
「勢いに任せて書き殴った様な感じだね」
ダヴィッドはゴッホの絵をそう見たのだった。
「何かね」
「その書き殴った様な勢いがいいんだよ」
だがフリッツはそれこそがいいというのであった。
「斬新じゃないか」
「斬新だけれど僕にはどうも抵抗があるね」
「そうなのか」
「レンブラントは好きだけれど」
オランダにいたユダヤ人の画家である。ルネサンスの頃の画家で代表作は夜警である。
「こういう絵はどうも」
「まあ人それぞれだからね」
フリッツもそれはいいとしたのだった。
「ただね」
「ただ?」
「このゴッホだけれど」
今度は画家について話すのだった。
「僕とある点について同じだったんだよ」
「同じだったって?」
「生涯独身だったんだよ」
このことが同じだったというのである。
「死ぬまでね。独身だったんだよ」
「そうだったのか」
「聞くところによると何度も激しい恋をして何度も失恋したらしいけれど」
「それは君と違うね」
「恋なんて馬鹿馬鹿しいものさ」
それは一笑に伏したフリッツだった。手を軽やかに動かしてそのうえでの言葉だった。
「全く以ってね」
「馬鹿馬鹿しいっていうのかい」
「そうさ」
彼は笑って述べた。
「恋だの愛だの。馬鹿馬鹿しいよ」
「それじゃあ結婚も」
「ゴッホは傷付いてばかりだった」
フリッツはまたゴッホの話をした。
「恋をし続けたからね。恋なんてしたらそれが破れた時に痛い思いをするだけさ」
「かつての君みたいにかい」
「いい経験だったよ」
ここで顔を曇らせてしまったのだった。
「全くね」
「あれは君が悪いんじゃない」
ダヴィッドは彼を落ち着かせるようにしてフリッツに告げた。
「彼女と周りが悪いんだ」
「けしかけられて告白したら泣いて逃げられて」
そのかつてのことを自分から言うフリッツだった。彼がまだ十五の時のことだ。
「それで女の子全部からあれこれ言われてけしかけた奴は逃げてそれからずっと周りにこのことを言われ続けてね。あの時つくづく思ったよ」
「何てだい?」
「もう二度と恋とか愛なんてしないってね」
言葉は微塵も動かないものだった。岩の様に堅い決意がそこにあった。
「絶対にね」
「それはこれからもかい」
「そうさ、これからもね」
はっきりとダヴィッドに答えたのだった。
「もうね。絶対にだよ」
「そうか。もう四十になるのに」
「四十になっても五十になっても六十になってもだよ」
つまり永遠にというわけだ。
「僕は結婚なんてしないよ。またあんな思いをするだけだからね」
「女の子はああした娘ばかりじゃないよ」
「それでもだよ」
彼は言葉を変えなかった。
「もうね。あんな思いはしたくないからね」
「だからかい」
「そうさ、本当に何があってもだよ」
言葉はさらに強いものになっていた。
「僕はこのままで充分に幸せだからね」
「だといいけれど。ただ」
「ただ?」
「一人は寂しいと思うけれどね」
こう言わずにはいられなかった。
「やっぱりね」 ここから
「いや、全然寂しくないよ」
ところがそうではないと答えるフリッツだった。
「全くね」
「寂しくないのかい」
「まず君がいるし」
ダヴィッドを見て笑って述べるのだった。
「子供の頃からの友人の君がね」
「まずは僕かい」
「そう、そして」
「やあやあフリッツ」
「ここにいたんだ」
ここで三人来た。陽気な顔をした穴熊に似た男とこれまた明るそうな顔の狐に似た男、それに小鳥みたいな顔をしたメイドの三人である。
「旦那様」
「何だい、カテリーナ」
フリッツはメイドに対して言葉を返した。
「フェデリーコとハネゾーを連れてきた」
「実はですね」
「まずはフリッツ」
穴熊に似た男が言ってきた。
「どうしたんだい、フェデリーコ」
「実はだね」
「うん、ハネゾー」
今度は狐に似た男に応える。
「どうしたんだよ、二人して」
「おめでとう」
「はい、これ」
二人はここであるものをフリッツに差し出してきた。それは一枚の絵だった。
「これは」
「ゴーギャンだよ」
「タヒチから貰って来たんだ」
二人はこう言いながらこれまた大胆なデザインの絵を見ながら述べた。
「君が好きだと思ってね」
「お祝いにね」
「お祝い?」
祝いと言われてまずは怪訝な顔になったフリッツだった。
「そんなことをする必要があったかな」
「何言ってるんだ、今日は誕生日じゃないか」
「君のね」
二人はこう彼に言うのだった。
「君の四十歳のね」
「自分の誕生日を忘れてしまっていたのかい?」
「ああ、そういえばそうだったね」
実際に言われて思い出した彼だった。
「今日だったか」
「そうだよ。今日だよ」
「今日が君の四十歳の誕生日なんだよ」
「ふうむ。やっと思い出したよ」
半分他人事の様に呟いたフリッツだった。
「僕の誕生日は今日だったね」
「そうそう」
「それでなんだよ」
「有り難う」
あらためて礼を述べるフリッツだった。
「それはね」
「それで今度だけれど」
「若いカップルが結婚するんだ」
二人は絵を渡してから今度はこう彼に話してきた。
「今度ね」
「それも伝えに来たんだけれど」
「ああ、それだったら」
フリッツはそれを聞いて気さくに応えた。そうしてこう言うのだった。
「お金を貸すよ、その二人にね」
「貸してあげるのかい?」
「彼等に」
「何をするにもまずお金が必要だからね」
彼はここでも気さくに笑っていた。
「だからね。期限は」
「期限は?」
「何時にするんだい?」
「僕が二百歳になった時でいいよ」
こう二人に話すのだった。
「その時にね」
「おお、それはまた」
「太っ腹だね」
「ははは、褒めたって何も出ないよ」
フリッツは二人の褒める言葉に笑って返した。
「何もね」
「いや、本当に」
「凄いよ」
しかし二人はそれでもこう言うのだった。
「こんなに気前がいいなんて」
「そんな人いないよ」
「そうかな。僕は別に」
「本当だって」
「彼等も喜ぶよ」
二人はこうもフリッツに言う。
「本当にね」
「これは間違いないよ」
「彼等か」
その彼等が誰なのかはもう言うまでもなかった。フリッツはそれを聞いて顔を暗くさせた。そうしてそのうえでこんなことを言ったのだった。
「彼等も可哀想だよ、君達もね」
「僕達もかい?」
「どうしてだい?」
フェデリーコとハネゾーは今の彼の言葉に首をそれぞれ左右に傾げさせた。実に好対称である。彼等が話している間にカテリーナは昼食の用意を進めていた。
「何でだい、それは」
「またどうして」
「愛の為に心を痛めるからだよ」
だからだというのだった。
「本当に気の毒なことだよ」
「いや、それは違うね」
しかしここでダヴィッドがフリッツに言ってきた。
「それは君もだよ」
「僕も?またそんなことを言うのかい」
そう言われても笑うだけのフリッツだった。
「僕はそんなことは絶対にだね」
「この世に絶対のものはないさ」
こう反論するダヴィッドだった。
「神の御教え以外にはね。神様もそれぞれだけれど」
「ううむ、だとすると」
「フリッツ君も遂に年貢の納め時かな」
フェデリーコとハネゾーは少し冗談を交えて述べた。
「四十にして」
「ようやく」
「それはないね。絶対にね」
フリッツは笑ってそれは有り得ないとした。
「何があってもね」
「果たしてそうかな。まあいいさ」
しかしダヴィッドは今は席を立ったのだった。そうして彼が書いていたその二百歳になったら返済するという契約書を持って席を立つ。
そのうえで。フリッツ達に今は暇乞いをするのだった。
「それじゃあこれを二人に手渡して来るから」
「うん、頼むよ」
「任せておいてくれ給え」
今は去るダヴィッドだった。残ったフリッツ達はカテリーナが用意したその昼食をワインで乾杯する。暫くは楽しく酒と食事を楽しんだ。
「いや、美味いね」
「全く」
二人の客人は上機嫌でフリッツの家の昼食を楽しんでいた。
「君の家の食事は何時でも」
「最高だよ」
「楽しんでくれているかな」
フリッツはズッキーニと大蒜やピーマン、それにオニオン等をくたくたになるまで煮たものを食べながら応えていた。他には鶏肉を焼いたものにジャガイモ、それとパンが置かれている。エスカルゴもある。
「今日も」
「うん、見た通りね」
「こうしてね」
ワインは赤だった。それも楽しく飲んでいる。
「フランスになってもドイツになっても」
「こうやって楽しく過ごせる」
「全て君のおかげだよ」
「僕のおかげじゃないよ」
フリッツはまた謙遜して述べた。
「神の思し召しだよ」
「それでかい」
「それでこんなに楽しいのかい」
「そうさ」
まさにそれだというのである。
「だから神に感謝して」
「楽しく明るくだね」
「この幸福を」
こんな話をしているとだった。カテリーナが来た。そうしてフリッツに対して声をかけてきた。
「旦那様」
「んっ、何だい?」
「お客様です」
こう彼に告げるのだった。
「宜しいでしょうか」
「ああ、いいよ」
フリッツはまたしても気さくに言葉を返した。
「それで誰かな」
「スーゼルさんですが」
「ああ、あの娘なんだ」
スーゼルの名前を聞いても笑顔になるフリッツだった。
「じゃあ通して。一緒に食事でもどうかって」
「わかりました」
主のその言葉に応えてだった。カテリーナは黒髪を頭の後ろで団子にした小柄な少女を連れて来た。青い服とスカートで白いエプロンが映える。顔はやや丸く鼻もあまり高くはない。しかし初々しい顔立ちで垂れ目気味の黒い目に大きめの口元が印象的だ。何処かアジア系の顔立ちである。
「やあ、スーゼル」
「はい、旦那様」
その少女スーゼルはまず彼をこう呼んできた。
「お誕生日おめでとうございます」
「旦那様なんていいよ」
フリッツは席を立った。そのうえで彼女のところに来て笑顔で告げた。
「そんなね」
「宜しいのですか」
「ただ君の家に家を貸しているだけじゃないか」
彼女はフリッツの借地に住んでいる家の娘なのである。
「それだけなのに」
「いいんですか」
「そうだよ。そんなことで何で旦那様なんて言うんだい?」
ここで部屋に残って側に立っているカテリーナに対しても言った。
「君もだよ、カテリーナ」
「私もとは?」
「堅苦しくなくていいんだよ」
こう言うのである。
「全然ね。僕だって君達がいないと困るんだし」
「そうなのですか」
「そうだよ。君達がいてくれるから僕は安心して他の仕事ができるんだよ」
彼の仕事ということである。
「本当にね」
「私が使用人の仕事をすることで、ですね」
「その通り」
まさにそうだという。
「だから。旦那様とかおっくうな呼び方でなくていいんだよ」
「では何と呼べば」
「フリッツでいいよ」
名前でいいというのであった。
「もうね。気軽にね」
「ではフリッツさん」
「うん」
こう呼ばれてまんざらでもないのだった。
「それで御願いするよ」
「わかりました」
「それでフリッツ様」
「様付けもよしてくれないか?」
今度はスーゼルへの言葉である。
「それも」
「駄目なのですか」
「だから。そんなに堅苦しいのは好きじゃないんだよ」
また彼女に告げる。
「いいね」
「はい、それでは」
本人の言葉を受けて。彼女も遂にこう言った。
「フリッツさん」
「うん」
笑顔で彼女に応えることができた。
「それで何だい?」
「これです」
ここでその手に持っていた花束を差し出したのだった。その花束は。
「すみれかい」
「はい」
にこりと笑って彼に差し出すのだった。
「どうぞ」
「有り難う」
受け取ったフリッツも品のいい笑顔で応えた。
「有り難く受け取らせてもらうよ」
「御気に召されたでしょうか」
手渡してから気恥ずかしそうにフリッツに問う。
「すみれは」
「花は何でも大好きだよ」
笑顔のままスーゼルに述べる。
「とてもね」
「それならいいのですが」
「それじゃあ」
受け取ったうえでさらに言うフリッツだった。
「いいかな」
「何ですか?」
「今度君の家に行っていいかな」
こう彼女に問うのだった。
「今度ね。いいかな」
「私の家にですか?」
「駄目かな」
こう彼女に問い返す。
「それは」
「あの」
そう言われたスーゼルは戸惑った顔になる。
「それは」
「駄目なのかい?」
「私の家は小さくて汚いですけれど」
申し訳なさそうに言うのだった。
「それもかなり」
「いや、そんなことはないよ」
彼女のその謙遜を否定しての言葉であった。
「君の家のことはね」
「ですが」
「そして御礼をしたいんだ」
優しい声でスーゼルに声をかけ続ける。
「是非ね」
「私に御礼なんて」
「いや、こちらとしてもね」
「御礼をですか」
「そうだよ。させてほしいんだ」
こう言うのであった。そうして。
「そうだ。まずは」
「はい?」
「座って」
まだ食事中だった。それで彼女にも食事を勧めるのだった。
「何か食べてよ」
「食事ですか」
「好きなものを食べていいよ」
また言うフリッツだった。
「君の好きなものをね。カテリーナ」
「はい」
「彼女の分も運んでくれないか」
「わかりました。それでは」
「あと君の分も」
彼女のものもだというのだ。
「持って来て。一緒に食べよう」
「私のもですか」
「他の皆はもう食べたかな」
彼女以外に家にいる使用人達のことである。
「それはどうかな」
「はい、もう」
食べたと答えるカテリーナだった。
「皆食べました」
「それなら仕方ないな。君も入ってね」
「有り難うございます」
こうして彼女も食事に入ることいなった。皆で食べる。ここでダヴィッドが戻って来た。
「ああ、食事中かい」
「君もどうだい?」
フリッツも食べている。その食べるのを少し止めて彼も食事に勧めるのだった。
「食事に」
「僕もいいのかい」
「君の分もあるよ」
こう言って勧めるのだった。
「だから是非ね」
「悪いね、いつも」
「いいさ。人間食べないと生きていけないからね」
笑顔でこう友人に言うのだった。
「さあ。だから」
「美味しいよ」
「是非君もこの楽しみを味わってくれないか?」
フェデリーコとハネゾーも彼を誘う。
「さあ、皆で」
「是非ね」
「そこまで言うのなら」
ダヴィッドも頷くのだった。
「言葉に甘えて」
「さあ、楽しんでくれ」
フリッツは自分から彼のコップにワインを注ぐ。そのうえで彼に差し出す。
「そして飲んでくれ」
「有り難う」
礼を述べてからその杯を受け取るダヴィッドだった。
「それじゃあ」
「さて、この楽しい宴に」
「足りないものは何もなし」
フェデリーコとハネゾーは相変わらず楽しくやっている。その後馳走も次々と食べていく。
「それにしてもスーゼルちゃんは」
「奇麗になったな」
「全くだよ」
ダヴィッドは二人の陽気な言葉に真面目な顔で頷いた。
「本当にね。大きくなったし」
「そうですか?」
「それにとても奇麗になったよ」
彼女を見ながら言うのだった。
「とてもね。奇麗になったよ」
「奇麗にですか」
「うん、なったよ」
彼はさらに言う。
「立派な娘さんになったね」
「そうだね、本当に」
「奇麗になったよ」
フェデリーコとハネゾーも彼の今の言葉に頷く。
「今じゃこの辺りで一番の美人さんかな」
「カテリーナも可愛いけれどね」
「有り難うございます」
それまで何も言わず食べていたカテリーナも今のハネゾーの言葉にはにこりとなった。
「そう言って頂けると何よりです」
「そういえば」
「音楽はあるかな」
フェデリーコとハネゾーはふと言った。
「ピアノか何か」
「誰か演奏できるかな」
「じゃあ私が」
スーゼルがそれを受けて立とうとする。しかしそれはフリッツが止めた。
「ああ、お客様はいいよ」
「ですが」
「何なら誰か来てもらうし。誰がいいかな」
そう考えているとだった。不意に窓の外からバイオリンの音が聴こえてきた。
「おや?」
「これはタイミングがいいな」
「誰から」
ダヴィッドを含めた三人がその音に顔を向けると。ダヴィッドが窓の外に対して声をかけた。
「来てくれないか?」
「宜しいのですか?」
「うん、是非」
こう声をかけたのだった。すると暫くして部屋の中に浅黒い肌の若い女がやって来た。波がかった黒髪を長く伸ばしている。はっきりとした顔立ちの美女である。赤と黒の服が極めて目立つ。当然ながらその手にはバイオリンがある。弦もその手に持っている。
「ようこそ」
「お招き頂き有り難うございます」
その女がダヴィッドに礼を述べた。
「ジプシーのペッペです」
「ああ、ペッペかい」
彼女の名前を聞いてすぐに頷くフリッツだった。
「誰かって思ったら」
「暫くぶりです、旦那様」
「フリッツでいいよ」
彼女にも気さくに言うフリッツだった。
「フリッツでね」
「それでは。フリッツさん」
「うん」
その呼び方に気さくに笑って応える。
「それで何だい?」
「フリッツさんに音楽を捧げたいと思いまして」
「それでさっきの音楽をなのかい」
「そうです」
こうフリッツに述べるのだった。
「それで来たのですが」
「そうだったのか」
「如何でしょうか」
フリッツの顔を見て問うペッペだった。
「曲は」
「よかったよ。けれど」
曲は満足できた。しかしそれでもまだ聞きたいことがあった。そして彼は実際にそのことを彼女に対して問うたのであった。
「何で僕に音楽を?」
「フリッツさんの人徳にです」
「僕のって」
「貧しい子供達をいつも助けておられるではありませんか」
彼女はこのことを彼に告げた。
「そうですね」
「あれは」
それを聞いてこう返したフリッツだった。
「当然のことだから」
「当然だと仰るのですか?」
「そうだよ。困った人を助けるのは当然のことじゃないかい?」
フリッツは特に何でもないといった様子で言葉を返した。
「それは」
「いや、そう言えること自体が凄いよ」
「そうそう」
今の彼の言葉にこそ突込みを入れるフェデリーコとハネゾーだった。
「それはね」
「そういう人は滅多にいないよ」
こう言うのだった。
「全くね」
「それが人徳なんだよ」
「そういうものかな」
そういった自覚はない彼だった。そんなことを言っているとだった。ベルが鳴った。
「おや、またお客さんかな」
「旦那様・・・・・・いえフリッツさん」
「ああ、何だい?」
若い男の使用人が部屋に入って来た。そのうえでフリッツに対して挨拶をしてから告げてきた。
「馬車が来ました」
「馬車がかい」
「はい、スーゼルさんの馬車です」
こう告げたのだった。
「あの方の為に御呼びした馬車がです」
「また用意がいいね」
それを聞いたフリッツは感心した声で述べた。
「もう用意してあるなんて」
「それでですが。スーゼルさん」
「はい」
今度はスーゼルが応えた。
「それでは私は」
「はい、それでは」
「また来てくれないかな」
ダヴィッドが席を立った彼女に対して声をかけた。
「またね」
「はい、それでは」
にこりと笑ってそのうえで一礼してフリッツの屋敷を後にしたスーゼルだった。彼女が姿を消すとダヴィッドは満足した顔になっていた。
そんな彼を見ながら。フリッツは声をかけてきた。
「そうだ、今度だけれど」
「今度とは?」
「あの娘を結婚させるよ」
こう言うのである。
「近いうちにね」
「そうなのか、それじゃあ」
「それじゃあ?」
「君も同じだね」
にこりと笑って彼に言葉を返した。
「君もね」
「僕がかい?」
「そうだよ。君も結婚するよ」
ペッペが好意で演奏する中でフリッツに対して話すのだった。
「近々ね」
「だからそれは有り得ないよ」
しかしフリッツはここでも笑ってそれを否定する。
「絶対にね」
「絶対にかい」
「だから僕は恋とか結婚には興味がないんだよ」
彼はまだ笑っていた。そのうえでの言葉だった。
「全くね」
「興味がないんだね」
「そうだよ、全然ね」
あくまでこう言うのだった。
「そういうものにはね」
「果たして死ぬまでそう言えるかな?」
「言えるよ。だったら」
今のダヴィッドの言葉を受けてだった。彼は少し強気になってこう言ってきた。
「賭けよう」
「賭けるのかい」
「葡萄園を賭けよう」
それを話に出してきたのだった。
「クレルフォンティーヌの葡萄園を賭けよう。それでいいね」
「おいおい、あの葡萄園とは」
「また随分と大きく出たな」
「全く」
話を聞いていたフェデリーコとハネゾーがそれを聞いて驚きの声をあげてきた。
「そこまで自信があるっていうのか」
「それはまた」
「そうだよ。絶対にないからね」
フリッツは胸を張って言い切ってさえいた。
「何があってもね」
「それはどうかな」
ダヴィッドは彼の自信を聞いても余裕に満ちた顔をしていた。
「果たして」
「まあいいさ。僕の心が動くことはないからね」
ワインを見ながら上機嫌に話すフリッツだった。
「何があってもね
「フリッツさんは頑固だから」
ここでカテリーナが言う。
「だからそれはないと思います」
「だといいけれどね」
ダヴィッドの自信は変わらない。フリッツと同じく。そんな話をしているとここでペッペが演奏を止めたのであった。
「音楽は終わったのかい?」
「いえ」
そうではないというのだった。
「これからです」
「これからなのかい」
「はい、本番です」
にこりと笑ってこうフリッツに話してきた。
「本番でうが」
「何があるんだい?」
「やあやあフリッツさん」
「こちらですか」
「どうもこの度は」
「お誕生日おめでとうございます」
村人達と子供達だった。彼等はにこやかに笑ってそのうえでフリッツに恭しく挨拶をしてきたのである。
「もう四十でしたね」
「お元気で何よりです」
「お邪魔させて頂いた理由はですね」
「一体何なのですか?」
彼等がいきなりどかどかとやって来たのでまずは目をしばたかせるフリッツだった。
「お客様でしょうか」
「いえ、お祝いに参りました」
「フリッツさんの誕生日を」
しかし彼等はにこやかな笑みのままこう述べるのだった。
「その四十の誕生日を」
「ここで」
「そうなのでしたか」
彼等の話を聞いてそのうえで納得したフリッツだった。
「僕の為に」
「それで音楽をと思いまして」
「歌もです」
こう言うのだった。
「それを宜しいでしょうか」
「是非に」
「そうなのでしたか」
「はい、そうです」
またペッペが彼に言ってきた。
「それでは」
「うん、じゃあ御願いするよ」
彼等のその好意を喜んで受けることにしたフリッツだった。
「是非ね。そして」
「そして?」
「何かありますか?」
「皆さん」
村人達にも子供達にも告げた言葉であった。
「それではですね」
「それでは?」
「何かありますか?」
「音楽の後で皆で楽しくやりましょう」
皆に告げるフリッツだった。
「お酒に御馳走で」
「ではフリッツさん」
カテリーナがここでフリッツに告げてきた。
「皆さんの分の御馳走とお酒も」
「うん、用意しておいて」
「わかりました」
そんな話をしてからであった。あらためて音楽を楽しむ。しかしフリッツは自分が結婚するなどとは夢にも思っていなかった。まだこの時は。
今回の主役は人徳がかなりある人みたいだな。
美姫 「結婚を賭けにして、どんな話になるのかしらね」
最後は結婚する事になるみたいだけれど、その過程が楽しみだな。
美姫 「そうよね。次回も楽しみにしてますね」
待ってます。