『フィガロの結婚』
第二幕 絶体絶命
はめ込み式ベッドがありそれにはカーテンまである。当然天幕もだ。しかも全て絹である。そうした白く豪奢なベッドを中心としてその部屋はあった。
左手には衣装部屋に通じる扉がありそこからは香水の香りが漂っている。奥にも右手にも扉がある。その部屋に今一人の艶と気品を併せ持った女性がいた。
豊かな金髪を上で纏めている。それを白く小麦粉でしている。顔は白く穏やかで彫がある。青い目ははっきりとしていてやや切れ長で大き目の口とよく合っている。その唇も紅く化粧している。何処か白人だけでなく他のものも微かに感じさせる異国情緒も併せ持っている。そうした長身の美人だった。
服は奇麗な白のドレスだ。この艶と気品を併せ持っている女性が今その部屋の椅子にもたれかかり憂いに満ちた顔をしている。彼女はふとその中で呟いた。
「愛の女神がおられたら」
こう呟くのだった。
「慰めの手を下さい。私の悲しみと憂いに対して」
こう言うのである。
「私にまたあの幸福の日々を。どうか」
こう呟いているとそこにスザンナが入って来た。スザンナはまず彼女に一礼してい挨拶をした。
「奥方様、参りました」
「スザンナ」
彼女が伯爵夫人である。夫人はスザンナの顔を見ると少しだけ元気を取り戻したのは微笑んで彼女に顔を向けて述べるのであった。
「さっきの話だけれど」
「はい」
「また聞かせてくれるかしら」
こう彼女に言うのであった。
「さっきの話の続きを。いいかしら」
「お話した通りですが」
「続きがあるわよね」
さらにスザンナに問うた。
「だから。御願い」
「そうですか」
「貴女に言い寄ってきたのね」
ここで夫人は曇った顔になった。
「それじゃあ」
「ですかそれで」
スザンナは悲しい顔になる夫人に言ってきた。
「どうして奥方様のことに嫉妬されるのですか?」
「私のことにね」
「はい。もう奥方様を愛してはおられない」
だから浮気をするのだと。スザンナはこう考えているのだ。この辺りはまだ人生経験が浅いと言えるものであった。仕方ないことではある。
「それならどうして」
「男の人は皆そうなのよ」
夫人はその悲しい顔でスザンナに述べた。
「自分は浮気者ですぐ居直るのに結局は皆嫉妬深くくて」
「そうなのですか」
「けれどフィガロは違うでしょうね」
咄嗟にこう言ってスザンナの曇りかけた心を拭く。
「彼は貴女のことを本当にね」
「そうですか。それなら」
「こんにちは、奥方様」
ここでそのフィガロが一礼してから恭しく入って来た。
「御機嫌麗しゅう」
「いいところに来てくれたわ」
スザンナはそのフィガロに対して言った。
「奥方様が貴方を待っていたわ」
「わしをですか」
「ええ」
夫人は気品のある物腰で静かにフィガロに対して答えた。
「そうなのよ」
「何の御用件かはわかっています」
彼は明るく夫人に答えるのだった。
「何の御心配もいりません」
「そうなの?」
「伯爵様の浮気性はいつものことですね」
「ええ、まあ」
だからこそ困っているのである。
「それでこっそり領主権をと考えてもおられるようですが」
「あれは御伽話ではなくて?」
「まあ流石にそれは無理でしょう」
フィガロもそう見ていた。
「それでも浮気心はおありですから」
「どうするの?」
「スザンナがその気になれば」
「そんなことは有り得ないわ」
スザンナは少しムキになってフィガロに返した。
「私はそれは絶対に」
「そう。しかし伯爵様はロンドンに私とスザンナを連れて行く」
「ええ、それはもう聞いているわ」
夫人もこのことは知っていた。
「私も。だけれどそれでも」
「若し私とスザンナがそれを断ればマルチェリーナの話を出して来るでしょう」
フィガロも彼女が自分に変な気持ちを持っていることはわかっていた。
「何せこっちには借金もありますから」
「じゃあ駄目じゃない」
スザンナはそれを聞いてすぐに述べた。
「借金があるのなら」
「大丈夫だよ。答えはここにあるから」
けれどフィガロは陽気に己の頭を左手の人差し指で指し示しながら述べるのだった。
「ここにね」
「考えがあるのね」
「バジーリオを使って」
当然自分達の敵なのは承知している。
「それでですね。一枚の書付けをわざと届けさせるのです」
「あの人になのね」
「はい」
笑顔で夫人の言葉に答える。
「それでですね。舞踏会の時間に奥方様が意中の恋人と逢引を為さるとお知らせして」
「えっ、そんなことをしたら」
しかし伯爵夫人はそれを聞いて顔を強張らせた。
「あの人とても嫉妬深いのに」
「だからですよ。伯爵様が非念を持たれてそれで動けばそれでいいんですよ」
「それでなのね」
「そうです。奥方様は潔白ですから伯爵様が勝手に騒がれただけ」
ここでも笑いながら話す。
「そうなればわし等はそれを楽しく見ているだけ。如何でしょうか」
「伯爵様はいいけれど」
スザンナは彼はいいとした。
「けれど」
「けれど?」
「バルトロさんにマルチェリーナがいるのよ」
顔を顰めさせてフィガロに対して言う。
「あの二人が邪魔よ」
「何、ここで使える奴がいるだろう?」
「誰なの、それは」
「ケルビーノさ」
「ケルビーノが!?」
「そう。あいつがその逢引の相手なんだよ」
彼はここでまた種明かしをした。
「あいつに女装をさせて御前の代わりにそこに行かせる」
「ええ」
「ところが奥方様は別の場所におられて不意に出られるから伯爵様は大驚き、こういうわけで」
「どうかしら」
夫人はここまで聞いたうえでスザンナに顔を向けて問うた。
「フィガロの考えは」
「悪くはないですね」
スザンナは頭の中で吟味したうえでこう述べた。
「それもで」
「じゃあそれでいいのね」
「はい。私もそう思います」
スザンナはフィガロの案に賛同した。これで話は決まりだった。しかし話は決まっただけでまだはじまってはいなかった。夫人は今度はこうフィガロに問うたのだ。
「それで何時から取り掛かるの?」
「伯爵様は今狩りに出ておられます」
「ええ」
「数時間は戻られません。私はその間にケルビーノをここに呼びます」
「それで彼を着替えさせる」
「そう。まあスザンナがいいかな」
そして今度はこう言った。
「奥方様に化けてその逢引の場所に向かうのは」
「そうね。では奥方様、それも」
「ええ、御願いするわ」
夫人はスザンナの提案に対しても頷いた。
「それでね」
「わかりました。それでは」
「じゃあわしはこれで」
フィガロは早速動きだした。
「ケルビーノを呼んで来る。それじゃあ」
「ええ。御願いね」
こうしてフィガロは部屋を後にした。二人はそれを見送る。夫人はフィガロがいなくなるとすぐにスザンナに顔を向けて言うのだった。
「ケルビーノはあの人が貴女に言い寄るのを聞いてしまったのね」
「はい、それで」
だからであるのは夫人ももう知っているのだった。
「今から連隊に」
「可哀想なこと」
素直にケルビーノに同情していた。
「そのせいでこのお屋敷を去るなんて」
「全くです。あっ、もう来ました」
ここでケルビーノが部屋に入って来た。見れば士官の軍服と帽子だ。それで仕草はまだ貴族のそれで軍人のものではなく敬礼ではなく一礼をするのだった。
「ようこそ、士官殿」
「そんな因果な呼び方は止めてくれよ」
ケルビーノは泣きそうな顔でスザンナに返した。
「僕は嫌なんだよ。奥方様とお別れするなんて」
「どうしてかしら」
「それはとてもお優しいから」
スザンナに応えながら熱い目を夫人に向けている。実はスザンナにも。
「だからだと」
「そしてとてもお美しい」
ケルビーノの心を見透かしたように言ってみせてからかう。
「そうよね」
「それはないよ」
「そうかしら。ところで」
スザンナは今度は別のことでケルビーノをからかってきた。
「さっきの歌だけれど」
「歌って!?」
「だからあの歌よ。奥方様にお聞かせしたら?」
くすりと笑いながらケルビーノに告げた。
「そうしたら?」
「歌?」
夫人は彼女の言葉に顔を向けて問うた。
「それは誰の歌なの?」
「さて」
これは最初はあえて言わないで含み笑いであった。
「それはですね」
「ああ、わかったわ」
夫人はケルビーノがここで顔を真っ赤にさせて俯いてしまったのを見て全てを察した。
「そういうことね」
「はい。それじゃあ歌ってみなさい」
「スザンナ、私のギターを貸してあげるわ」
「どうも」
早速その部屋の端に置いてあったギターを取って奏ではじめる。ケルビーノはそれに合わせて歌うのだった。
「恋はどんなものかお知りの貴女」
右手を拳にして胸の前にやって左手で握りながら歌う。
「どうかこの僕に教えて欲しい」
「教えて欲しい?」
「僕の心に恋があるかどうか。僕がそれを感じているか」
これが今の彼の心そのものだった。
「それを教えて下さい。僕には何もかもが新しくてよくわからないのです。憧れに満ちた感情があって」
さらに歌う。
「ある時は喜んである時は辛くて。凍るようになったかと思えば燃え上がって。幸せになることを捜し求めていますけれどそれがどんなものかわからず」
「つまり何もわかってないのね」
スザンナはギターを奏でながら呟いた。
「つまりは」
「ただ溜息が出て嘆いて胸はときめき震えて」
歌もまた自然に出て来ていた。
「夜も昼も心は休まらず。けれど僕は今この感情そのものが好きで」
そしてさらに歌っていく。
「恋はどんなものかお知りの貴女。どうかこの僕に教えてください」
「美味いわね」
夫人は彼が歌い終えたのを確かめてから感想を述べた。
「貴方にそんな才能があるなんて」
「そうですね。何でもできるのね」
スザンナもこのことに感心していた。
「ところで」
「何?」
今度はケルビーノに声をかけてきた。
「フィガロに呼ばれたのよね」
「うん」
スザンナの問いに正直に答える。
「そうだけれど」
「ならいいわ。そうね」
スザンナはここでケルビーノの顔をまじまじと見る。見れば見る程少女めいた美貌を持つ中性的な妖しい美しさを持つ顔立ちだ。
「上手くいきそうね」
「上手くいきそうって!?」
「何でもないわ」
スザンナは今はケルビーノには答えなかった。
「奥方様」
「ええ」
そして夫人に声をかけ彼女もそれに応えるのだった。スザンナはここで部屋の扉の方に向かいその鍵をそっとかけたのであった。
「鍵を?」6
「用心の為です」
こう述べるのだった。
「誰かが入って来ても私達は悪いことはしていませんけれど」
「それでもはってことね」
「そうです。では」
「まずは帽子ね」
「はい」
スザンナは早速衣装部屋から帽子を取って来てそれをケルビーノに被せる。その時ケルビーノは懐から書類を落とした。見ればその書類は。
「あれっ、これは」
「ええ。サインがないですよね」
「迂闊ね」
夫人もスザンナもその書類を見て言うのだった。
「折角の書類が」
「伯爵様も随分慌てておられたみたいで」
「あの人にしては珍しいわね」
夫人はその辞令の書類を見てまじまじと言うのだった。伯爵は仕事はできるのだ。だからこそイギリス大使にも任命されたのである。
「こんなことを忘れるなんて」
「全くですね。けれどこれで」
「ええ。ケルビーノは将校にならなくて済むわ」
「そうですね。まあそれはいいとして」
「いいの!?」
それまで上機嫌だったケルビーノが今の言葉に顔を曇らせた。
「僕とても嬉しいのに。軍隊に行かなくていいから」
「いいのよ。とにかく」
「う、うん」
「ここに座って」
ケルビーノをさっきまで夫人が座っていた椅子に座らせる。そのうえで彼の顔を見る。そのうえで言うのだった。
「また随分と奇麗な顔ね」
「そうだろ?実は自慢なんだ」
「睫毛も長いし」
まずはそれがスザンナの目に入ったのだ。
「物腰だって穏やかだし。こんなに奇麗なんて」
「スザンナ」
夫人が惚れ惚れとするスザンナを注意してきた。
「男の子の顔を女の子みたいに言うのは」
「けれどこんなに奇麗ですから」
こう言ってその彼の顔を夫人にも見せた。
「女の子みたいですよね」
「それはね」
実は彼女もそれは同意ではあった。
「そうだけれど」
「ですよね。さて」
ここでスザンナは懐からあるものを取り出したのだった。それは」
「リボン?」
「この子が私から貰おうとしたリボンです」
こう話すのだった。
「それをですね。こうして」
帽子につける。それから今度はまた化粧室に入ってそこから女ものの服を持って来たのだった。
「これを来てもらって」
「ええ。それにしても本当に」
伯爵夫人も遂にここで自分の本音を言った。
「奇麗ね。女の子と思ってもいいわ」
「全くですよ。こんなに奇麗だなんて」
二人で言い合いながらケルビーノを化粧して飾っていく。しかしここで扉を激しく叩く音がしてきた。
「誰!?」
「何故鍵をかけているのだ?」
伯爵の声だった。扉を叩きながら言っている。
「何があったのだ?」
「まずいわ、うちの人だわ」
夫人は伯爵の声を聞いてさらに言った。
「どうしようかしら」
「まずはですね」
「え、ええ」
「この子を部屋に隠しましょう」
スザンナの提案で咄嗟にケルビーノを部屋に隠すことにしたのだった。
「とりあえずは」
「そう。それじゃあ」
「はい、今すぐに」
「誰と話をしている?」
二人で話しているその間にも伯爵の言葉は大きくなるのだった。
「早く開けろ。いいな」
「さあ、今」
「ええ。中に入って」
「は、はい」
二人はとりあえずケルビーノを衣装部屋の中に放り込んだ。そのうえでやっと鍵を開けた。するとその扉から伯爵が肩を怒らせて入って来たのだった。
「何故鍵を?」
「着替えていましたから」
夫人はその伯爵に対してこう答えるのだった。
「それで」
「気が得ていただと!?」
「そうなのか」
「はい、そうです」
スザンナは明るい声で伯爵に応えた。
「その通りです」
「そうなのか」
「けれどそれが何か?」
「それならそれでいい」
伯爵はそれはいいとしたのだった。
「しかしだ」
「しかし?」
「この手紙だ」
「フィガロが書いた手紙・・・・・・」
スザンナは伯爵が出して来たその手紙を見て思わず呟いた。
「あれは」
「むっ!?」
ここで伯爵は衣装部屋に顔を向けた。何かを聞いたらしい。
「衣装部屋で何か倒れたのか?」
「そうですか?」
夫人は今の伯爵の言葉には知らないふりをした。
「私は何も」
「誰かいるのか?」
伯爵は衣装部屋に顔を向けながら怪訝な顔になってきた。
「まさか」
「そんな筈がありません」
「いや、いるな」
伯爵は直感的にそう悟っていた。
「そうだな。そういえばスザンナは?」
「ああ、そういえばですね」
何時の間にかいなくなっていたスザンナの話が出て来たのでそれに乗ることにしたのだった。
「スザンナが今衣装部屋に入っています」
「何時の間に!?」
「動きの早い娘ではないですか」
「それはそうだが」
確かにスザンナは今はいない。それが絶好の理由付けになっていた。
「しかし。まことか」
「その通りですが」
「その割りには疑っているではないか」
伯爵は眉を顰めさせて自分の妻に問うた。
「違うか?」
「それは気のせいです」
「そうか?困っているようだが」
何処までも疑う伯爵だった。しかも実際勘もいい。
「ううむ」
「ですから」
「ではスザンナ」
伯爵は衣装部屋の前に来てそのうえでスザンナを呼んだ。
「早く出て来るのだ」
「それはなりません」
伯爵は血相を変えて伯爵の前に立って言った。
「スザンナは今は出て来られないので」
「何故だ?」
「ちょっと事情が」
「事情!?」
「はい、そうです」
「事情とは何だ」
「何でもありません」
「何でもない筈がないだろう」
そんな話をしているうちにスザンナが部屋に戻って来た。とりあえず何かの用事をして帰って来たのだが今の伯爵夫婦のやり取りを見て首を捻るのだった。
「一体何が?」
「あの娘は今花嫁衣裳が似合うかどうか試しているので」
「そうか。ここに」
彼は言うのだった。
「ここに情人がいるのだな」
「疑ってるわね」
二人はそれぞれお互いのことがわかってきたのだった。
「やっぱり」
「さあ、スザンナ。早く出て来るのだ」
「まだ駄目よ」
二人は衣装部屋に向かって言う。まるで言い争いだ。
「早く。ここに」
「貴女は貴女のことをしなさい」
「とりあえずは」
スザンナは様子を見る為にまずは部屋のカーテンの陰に隠れた。しかし伯爵はさらに言うのだった。
「どうしても開けないのか?」
「大変だわ」
スザンナはそのカーテンの陰から囁いた。
「破局か醜聞か両方か。大騒ぎになるわ」
「それでは開けられるか?」
伯爵は夫人がどうしても前に立ちはだかるので彼女に対して言ってきた。
「この扉を」
「この扉をですか」
「そうだ。開けられるか?」
あらためて彼女に問うのであった。
「この扉を。さもなければ私が」
「何をされるのですか?」
夫人は夫の今の言葉に眉を顰めさせた。
「貴婦人の尊厳を損ねられるおつもりですか?」
「そんなつもりはないが」
「それでは」
「私もその様なことはしない」
伯爵も貴族なのでそれはわきまえているつもりだったのだ。
「しかしだ」
「しかし?」
「道具は取って来よう。それでそなたに開けてもらおう」
「私にですか」
「私が開けなくともそなたが開ければそれでいい筈だ」
とりあえずマナーに反していないことを頭の中で考えながらの言葉だった。
「そうだ。だからだ」
こう言って部屋を出るがここで召使の部屋に通じる扉に鍵をかけた。そうしてそのうえで部屋を後にしようとする。伯爵は一人になったがそこで悲嘆に暮れてしまうことになった。
「大変なことになったわ」
「いや、待て」
伯爵はここで不意に足を止めた。
「そなたも共に」
「私もですか」
「そうだ。では奥方よ」
自分の妻の手を取っての言葉だった。
「腕を。それでは」
「わかりました」
「スザンナはそこにいるように」
一応スザンナということにして衣装部屋の方に顔を向けて述べた。
「よいな」
「参りましょう」
夫人は己を何とか奮い立たせながら部屋を後にした。こうして二人がいなくなるとすざんなが部屋の中に出て来る。それと共にケルビーノも出て来た。
「何とかしないといけないわね」
「早く逃げないと」
二人はそれぞれ言う。
「どの扉にも鍵かけられてるし」
「けれど何とかしないと」
「もうすぐ伯爵が」
とにかくどうにかしなければならない。さしものスザンナも焦るばかりだった。しかしであった。ここでケルビーノが言うのだった。
「そうだっ」
「そうだ!?」
「逃げればいいんだ」
彼は言うのだ。
「逃げればいいんだよ」
「何言ってるのよ」
だがスザンナは彼の言葉に目を顰めさせる。
「扉は全部閉められているのに」
「扉が駄目なら窓があるよ」
しかし彼はこうスザンナに話す。
「窓がね」
「貴方まさか」
「そう、そのまさかさ」
早速窓の方に行く。そうしてそこから屋敷の庭を見下ろすのだった。エメラルドの芝生と様々な色彩の花が咲き誇っている実に美しい庭である。
「ここからね」
「逃げるというのね」
「うん。これなら」
「危ないわよ」
スザンナは今度は顔を顰めさせてケルビーノに告げた。
「そんなことしたら下手したら怪我じゃ」
「けれど見つかったら終わりじゃないか」
ケルビーノも必死の顔で言う。
「だったら」
「危ないわよ、だから」
「植木鉢に当たっても平気さ」
しかしケルビーノは彼女の話を聞こうとしない。
「だから。それっ」
「あっ!」
こうしてすぐに飛び降りた。スザンナは慌ててバルコニーの方に向かう。すると彼はもう庭の遥か彼方に行ってしまっていたのだった。
「何て早いの。けれどこれで」
助かったと思った。するとここで正面の扉の鍵が開く音がしてそこから伯爵と伯爵夫人が入って来たのであった。
「あら、いけないわ」
スザンナは鍵の音がした時点ですぐに化粧室に飛び込んだ。そうして隠れるのだった。
彼女の姿は二人には見られなかった。伯爵は妻の方を見て言っていた。
「これでいよいよ」
「ですからお止め下さい」
化粧室の扉の前に来た夫をまだ止めようとしていた。
「それはいけません」
「だから何故だ?」
夫もその妻に対して問う。
「扉を開けてはならないのは」
「ですからスザンナが」
「そんなことはもうどうでもいい」
伯爵は遂に居直ってきた。
「この部屋の中に誰がいるのか確かめてやる」
「それは」
「言えぬのか?」
「貴方が疑いを持たれるような者ではありません」
必死にそう主張するのだった。
「今晩の余興に罪な悪戯を考えていまして」
「今宵の?」
「そうです」
正直に言ってしまおうかとも思えてきていたのだった。
「ですから。それは」
「それは誰だ」
だがそれは逆効果で彼は余計に興味を持ったのだった。
「やはりこれは」
「それは」
「申してみよ」
妻を見据えて問うのだった。
「それは一体誰だ?」
「男の子です」
「男の子というと」
「はい、ケルビーノです」
俯いて白状したのだった。
「あの子が」
「またあいつか」
伯爵は彼と聞いてまたしても怒った顔になるのだった。
「毎度毎度いつも私の前に現われる」
「はい・・・・・・」
「しかもまだ出発していないのか。何という奴じゃ」
いい加減腹に据えかねて扉を開けようとする。その時に言うのだった。
「出て来い」
ケルビーノがいると確信しての言葉である。
「悪戯小僧。もう容赦せぬぞ」
「あなた、何もそこまで」
夫人は今になってもまだケルビーノを庇う。
「あの子が可哀想です」
「そうやって甘やかすからにはやはり疚しいことがあるのだな」
「それは・・・・・・」
それは否定しはする。しかし伯爵は信じない。
「ですが疑いは持たれないで下さい」
「まだ言うつもりか?」
「はい。襟を開き胸をはだけて」
「襟に胸だと!?」
失言だった。この言葉が余計に伯爵を刺激する。
「まさかそなたは」
「ですからそのお怒りは間違っています」
「間違っている!?私がか」
「そうです。これ以上疑われるなら私も怒ります」
こう返す夫人だった。
「もう。それ以上は」
「では鍵を」
伯爵も引くところは引くが引けないものは引こうともしない。
「早く」
「あの子は潔白です」
「そんな筈がない」
当然ながら伯爵はそんな言葉は聞かない。
「そなたもあの小僧もな」
「悪気はないのです。あの娘は」
「ならばこそ会ってみせよう」
伯爵はもう完全に頭にきていた。
「その潔白を証明する為にも!」
「ああ!」
伯爵が扉を開けると夫人は絶望の声をあげて両手で顔を塞いだ。その扉から出て来たのだ。
「んっ!?」
「えっ!?」
二人はその扉から出て来た人間を見て思わず声をあげた。何とそこにいたのは。
「スザンナ!?」
「どうしてそこに!?」
夫人の今の言葉は幸い彼女の夫には聞こえなかった。
「何故ここにそなたがいるのだ」
「私はケルビーノではありませんが」
そのスザンナは陽気な笑顔を作って伯爵に対して述べる。
「ケルビーノはいませんよ」
「どうなっているのだ!?」
流石にこうなっては伯爵も首を捻るしかなかった。
「何故スザンナがそこに」
「何故なの!?」
当然夫人もこの事態を理解できなかった。
「どうしてここに」
「御二人ともわかっておられないわね」
スザンナはそんな二人を見てこっそり呟いた。
「なら好都合だわ」
「御前一人なのか」
「はい」
にこりと笑ってその困惑している伯爵の問いに答えた。
「その通りですわ」
「部屋の中を調べるぞ」
「どうぞ」
伯爵の言葉に笑顔のまま答える。
「お好きなように」
「それではだ」
こうして彼は部屋の中に入って行く。その間にスザンナは夫人のところに歩み寄ってそのうえでそっと彼女の耳元で囁くのだった。
「実はですね」
「ええ」
「ケルビーノはあちからか」
こう言って窓の方を指差すのだった。
「逃げました」
「そうだったの」
「はい。ですからもう安心です」
夫人を落ち着かせるようにして微笑んで述べるのだった。
「何もかも」
「そう。よかったわ」
夫人はここまで聞いてようやく落ち着きを取り戻した。そこに伯爵が戻って来た。
「誰もいない・・・・・・」
「私だけがいました」
「ではこれは私の勘違いだったのか!?」
「そうなりますわね」
やはりここでもにこにこと笑っているスザンナだった。
「これは」
「大変なことをしてしまった」
伯爵はここで遂に己の過ちを認めた。
「すまぬ」
そして妻に対して頭を下げる。
「そなたに迷惑をかけてしまった」
「それは」
「ちょっと焦らしましょう」
スザンナがそっと夫人に囁く。そんな伯爵を横目で見つつ。
「ここは」
「そうね。それじゃあ」
「許してくれ」
「それは」
伯爵の詫びの言葉をスザンナに言われるまま焦らす。
「どうしましょうか」
「申し訳ないことをした」
「おわかりですね?」
「うむ。もう二度とこんなことはしない」
また言う伯爵だった。
「だから許してくれ」
「ですがあなたは先程私に対してあれ程」
「そのことも謝る」
伯爵も夫人の顔を見ながら必死に謝罪する。
「だからだ。どうしてもだ」
「私の心は深く傷付きました」
「スザンナ」
伯爵はここで彼女の助け舟を求めた。
「そなたからも言ってくれ」
「私がですか」
「そうだ。私が悪かった」
彼も今は必死だった。
「だからそなたからも」
「愛して下さっているとは思えなくなってきました」
夫人もスザンナに合わせている。
「もう」
「だからそれは」
「何故この様な報いを受けるのか。私は」
「そろそろいいのでは?」
またスザンナがそっと囁く。
「もうこれ位で」
「そうかしら」
「物事は何事も加減が必要ですよ」
楽しげに笑いながら彼女に囁くのだった。
「ですから」
「そうね。じゃあもう少しで」
「はい」
「もう二度とこんなことはしない」
伯爵はさらに謝っていた。
「だから。是非」
「そうですわね」
ここでやっと伯爵は言うのだった。
「それではもう」
「済まないことをした。しかし」
許してもらえてほっとする伯爵だった。しかし彼はここでまたあることに気付くのだった。
「そういえばだ」
「何か?」
「何故だ?」
ここで今度は首を捻ってきた。
「何故ケルビーノが中にいたのだ?」
「貴方を試す為です」
「私をか?」
「そうです」
ここでは貫禄を見せるかのような夫人だった。
「そういうことです」
「しかしだ」
だが伯爵もさるものだった。中々鋭い。
「先程そなたは震えておどおどしていたではないか」
「それは貴方をからかう為です」
腹を括った夫人はかなり強くしたたかであった。
「御気になされぬよう」
「しかしこの手紙は?」
今度は手紙を出す伯爵だった。
「かなり酷い内容だな」
「それはフィガロがしたことです」
「あの男がか」
「はい。バジーリオに持たせたものです」
ここでも腹を括って言い切る。
「彼が」
「また隋分と意地が悪いではないか」
「他の人を許して差し上げないと御自分も許されませんわ」
「奥方様の仰る通りです」
スザンナはすかさず夫人の言葉のフォローに回る。
「ですから」
「ああ、もうわかった」
伯爵も遂に観念したのだった。
「仲直りをしよう。ロジーナ、だから」
「スザンナ、困ったわ」
夫人は自分の名前を言われて遂に観念するのだった。彼女もまた。
「私は優しいのかしら」
「その優しさこそが素晴らしいのです」
そっと夫人に微笑んで囁く。
「奥方様にとっては」
「それではやはり」
「それじゃあここは」
「私が悪かった」
伯爵はなおも頭を垂れる。
「だからだ。ここは」
「わかりましたわ」
ここで夫人も彼を許すのだった。
「それではこれで」
「はい」
こうして二人は和解したのだった。夫人は静かに微笑んでスザンナの顔を見ている。彼女の顔を見ながら微笑んでいるのだった。
その瞬間に今度はフィガロが入って来た。にこやかに笑って言うのだった。
「伯爵様」
「フィガロ」
「はい。外に楽隊が到着しました」
伯爵に対して恭しく一礼してから述べるのだった。
「ラッパの音を御聞きください。笛の音も」
「フィガロか」
「はい。貴方の愛すべき民達が楽しく歌ったり踊ったりしているところへ参りましょう」
こう伯爵に対して告げるのだった。
「婚礼の式へ」
そのままスザンナを連れて部屋を出ようとする。しかしその彼を伯爵が呼び止めるのだった。
「まあ待て」
「何か?」
「そんなに急ぐことはないぞ」
「皆が私を待っていますので」
だがフィガロはにこやかに笑って伯爵の言葉に切り返そうとする。しかし伯爵はそのフィガロの切り返しにさらに切り返してみせたのだった。
「疑いは出掛ける前に取り去るべきだ」
「まずいわ」
スザンナはそれを聞いて顔を曇らせた。
「まさかとは思うけれど」
「この手紙のことをはっきりさせてやろう」
伯爵は今自分が持っているそのフィガロの手紙を見て言うのだった。
「それでフィガロよ」
「はい」
「この手紙を書いたのは誰だ?」
「さて」
首を横に振って肩をすくませてとぼけてみせる。
「誰のことでしょうか」
「知らないというのか」
「そうです」
尚もとぼけ続ける。
「私は何も」
「ドン=バジーリオに渡したのではなくて?」
スザンナも事情が理解できなくなってフィガロに問うた。
「その手紙は」
「そうではないの?」
夫人もそう思っていたので首を傾げている。
「私もそうとばかり」
「何が何なのか」
スザンナに対しても夫人に対してもとぼけるばかりだった。
「わかりません」
「浮気男のことを知らないの?」
「庭で今夜何が」
「起こるのか知らないのか」
「全くです」
スザンナにも夫人にも伯爵にもとぼけるのだった。
「知りません」
「言い訳をしても無駄だぞ」
伯爵はフィガロに対して警告してきた。
「そなたの顔に書いてある。私にはそなたが誤魔化そうとしているのがわかっているのだぞ」
「顔がそう思っているだけです」
相変わらずのフィガロである。
「私は嘘をついてはいません」
「ちょっとフィガロ」
「何を考えているの?」
スザンナと夫人も完全に訳がわからなくなりフィガロの側で囁いて問うてきた。
「いつもの機転はどうしたのよ」
「私達はもう秘密を言ってしまったのよ」
怪訝な顔でフィガロに問う。
「もう何を言っても」
「もう」
「さあ。何と答えるのだ?」
伯爵はいよいよフィガロを問い詰めてきた。
「そなたは」
「一向に何も」
「ならば認めるのか?」
「いいえ」
あくまでこう言うのだった。
「何のことやら」
「だからお芝居は終わったのよ」
「これ以上何をしても」
「芝居を愉快に終える為に劇場の慣例に倣うのさ」
しかしフィガロは不敵にスザンナに言葉を返すのだった。
「だから」
「だから?」
「伯爵様」
フィガロはここで伯爵に顔を向けて一礼してから述べるのだった。
「私達の婚礼はこれに続いてと決めております」
「その劇場の慣例とやらか?」
「その通りです」
あくまで飄々とした態度のフィガロであった。
「ですからもうこの話は終わりにして」
「どうせよというのだ?」
「私達の御願いをどうぞ」
「むう」
はぐらかされ通しの伯爵はここで扉を見て苛立ちを見せだした。
「マルチェリーナもまだ来ない。遅いな」
「さて、これで誤魔化したかな」
フィガロは内心笑っていた。これで潜り抜けたと思った。しかしここで。またしても思わぬ展開になるのだった。
作業服の男が部屋に飛び込んで来たのだ。彼は肩で息をしながら伯爵に対して言うのだった。
「伯爵様、大変です」
「どうしたのだ?」
「とんでもないことが起こりました」
「どうしたのだ、アントーニオ」
伯爵はここで彼の名を出して問うのだった。
「一体全体」
「バルコニーの側の鉢植えが壊されました」
「鉢植えが!?」
「はい、よりによってこのカーネーションが」
部屋のすぐ外から車を持って来た。見ればそこには無残に壊された鉢植えが置かれている。それを見て伯爵は怪訝な顔になる。
「庭師のそなたが一番大事にしていた鉢植えだったな」
「よりによってそれがです」
こう言ってまた泣きそうな顔になる。
「何ということか」
「フィガロ」
スザンナと夫人がまたそっとフィガロに囁く。
「気をつけてね」
「いいわね」
「まずいな」
フィガロも怪訝な顔になるのだった。
「ここは」
「それでどうするの?」
「まあ任せてくれ」
フィガロはここでその持ち前の根性を見せるのだった。そうして言う。
「ここはな」
「そうなの」
「そう。伯爵様」
フィガロは早速伯爵に対して言うのだった。
「その酔っ払いはなにをしにここに?」
「しかし誰がそなたの鉢植えを?」
「何者かがバルコニーから飛び降りて」
「この部屋のバルコニーからだな」
「はい」
こう言葉を続けるのだった。
「そうしてです。男の身なりをしていましたが」
「男か」
「ケルビーノか」
伯爵とフィガロがそれぞれ呟く。
「やはりあいつか」
「成程な」
二人共それぞれわかるのだった。
「よし、これで攻められるぞ」
「ふむ、これで守りきれるぞ」
またそれぞれ言う二人だった。ここで伯爵はフィガロに対して言うのだった。
「そなたはまず静かにするのだ」
「わしが酔っ払いだというのか」
アントーニオもフィガロのさっきの言葉にムキになっていた。
「わしは今はしらふだぞ」
「何処がだ。昼間から飲み過ぎだ」
「わしは一滴も飲んではおらん。飲むのは夜と決めておる」
「そうだな」
当然ながら伯爵もそのことは知っている。だからその言葉に納得した顔で頷いた。
「そなたはそういう者だ。だからこそまた聞くが」
「はい」
「この部屋のバルコニーから男が一人だな」
「そうです」
アントーニオは素直に伯爵の言葉に答える。
「その通りです」
「それではだ」
伯爵もおおよその察しがついたのだった。
「その者はだ」
「はい、私です」
しかしここでフィガロが名乗り出たのだった。
「それはわしです」
「えっ!?」
「何っ!?」
この言葉には伯爵達だけでなく夫人もスザンナも絶句したものだった。
「まさかそんな」
「嘘でしょ!?」10
「いやいや、わしが言うのが遅れていました」
彼はここぞとばかりにはったりを続ける。
「申し訳ありません」
「馬鹿な、そんな筈がない」
しかしそれにアントーニオがすぐにクレームをつける。
「何時の間にそんなに大きくなったのだ?飛び降りた時はずっと小さかったというのに」
「誰がこのままの格好で飛び降りるものか」
そのアントーニオに平然と返すフィガロだった。
「身軽にならなければな」
「嘘をつけ、嘘を」
「わしは嘘は言わんぞ」
「そうよ、フィガロ程正直な人はいないわよ」
スザンナもここぞとばかりにフィガロに加勢してきた。
「それは保障できるわ」
「ふむ」
しかし伯爵はここで考える顔になる。顎に右手をかけたうえでだ。
「アントーニオ。そなたはどう思う?」
「私にはそうは見えませんでした」
アントーニオはここでも正直に述べるのだった。
「あれは小僧ですね」
「そうか。やはりな」
伯爵はアントーニオの言葉にまた納得した顔になる。
「それではな」
「まあそうでしょうね」
ところがフィガロはここでもフィガロであった。相変わらず平然としている。
「あの小僧、街から馬でここに来ましたから。戻って来て」
「いや、それは違う」
アントーニオはここでもフィガロと対立する。
「わしは馬は見ていないぞ」
「何が何だかわからんぞ」
伯爵もいい加減話が把握できなくなってきて困った顔になる。
「もうこの話はこれ以上話しても無駄か」
「そうなりそうね」
「はい、そうですね」
夫人とスザンナも顔を見合わせて言い合う。
「それならいいけれど」
「けれど。この妙な流れがどうなるか」
「そえでフィガロ」
伯爵はむっとした顔になってフィガロに声をかけてきた。
「そなたがこのバルコニーからだったな」
「はい、飛び降りました」
彼は伯爵に問われても平然としたものだった。そしてバルコニーを指差して話す。
「あのバルコニーから」
「それは何故だ?」
「恐ろしさのあまり」
「何が恐ろしいのだ?」
「あちらでスザンナを待っていたのです」
右手の召使の部屋を指差しての今度の言葉だった。
「あちらでです」
「何故あそこで?」
「少し楽しもうと思いまして。ところが外で伯爵様のお声がしまして」
「私の声が?」
「書いたあの手紙のこともありまして」
その手紙のことも話すのだった。丁度いいタイミングだった。少なくともフィガロにとっては。
「それで恐ろしさのあまり飛び降りて足の筋を痛めてしまいました」
「むう」
伯爵はあまり信じてはいない顔でフィガロが足をさすっているのを見ている。そしてここでアントーニオも半信半疑な顔になってそのフィガロに問う。
「ではこの手紙もあんたのものか?」
「その通り」
フィガロは彼が差し出したその手紙を見て答える。
「それを早くわしに戻せ」
「いや、待て」
だが伯爵が横から口を出してきた。
「これは私が貰っておこう」
「はい、それでは」
「あっ」
フィガロは伯爵がアントーニオから手紙を受け取ったのを見て声をあげたがこれは演技だった。実際は内心会心の笑みを浮かべていたのだった。
(これでよし)
「そうね、とりあえずはね」
「上手い具合になってきたわ」
スザンナも夫人も彼の顔を見て納得した顔で頷く。しかしここで一切のことに気付いていない伯爵は手紙の中身を少しだけ見てからフィガロに問うのであった。
「フィガロ、それでだ」
「はい」
「これは何の手紙だ?」
「ええとですね」
とりあえず芝居をすることにしたのだった。懐から何枚もの手紙を出してそれでチェックはする。しかしそれでも全てはわかりかねていた。
「これは」
「借金の証書ではないのか?」
「いや、居酒屋のメニューだ」
「これ以上は話がややこしくなるだけだ。それではだ」
伯爵はここで一つの決断を下した。
「アントーニオ」
「はい」
「そなたは少し下がっておれ」
彼はとりあえずここはアントーニオを下がらせることにしたのだった。
「よいな」
「はい、わかりました」
彼もまだ釈然としなかったがそれでも今は下がるのだった。これでまた四人になったが伯爵はここぞとばかり手紙を取り出して言うのだった。
「この手紙だが」
「それは・・・・・・」
その手紙を見て最初にうめきに近い声をあげたのは夫人だった。
「フィガロ、あれは」
「ああ」
スザンナとフィガロも顔が一気に険しくなってしまっていた。それは隠せなくなっていた。
「あいつの辞令書だな」
「そうね。どうしましょう」
「さて、これだが」
伯爵は余裕たっぷりにフィガロに問うてくる。
「どういうことだ?」
「ああ、それですが」
しかしフィガロも流石である。ここでいつもの機転を動かさせたのであった。
「あれですよ、あれ」
「あれとは?」
「あいつがわしによこしたものですよ」
「あいつがか」
「そう、あいつがです」
こう伯爵に返すのだった。
「あいつがわしによこしてくれたんですよ」
「何の為にだ?」
「実はですね。辞令の文章で欠けている場所がありまして」
「何っ!?」
流石に命令の書類なので伯爵もこれには目を鋭くさせた。
「何処にだ?」
「印がありません」
またしてもいいタイミングで突っ込みを入れてフィガロに加勢するスザンナだった。
「それが」
「そうです、それです」
そしてフィガロもそれに合わせるのだった。
「ですから。それでわしに」
「うむ。ではもうこの話はこれで終わりだ」
渋々ながらケルビーノの処置を不問にすることにした伯爵だった。
「では。こうしよう」
「有り難き御言葉」
伯爵は辞令書を破いてしまった。夫人とスザンナはその光景を見て言うのだった。
「この状況さえ乗り切れれば」
「はい」
「後はもう何も困ることはないわね」
「難破する心配はありませんわ」
「しかし」
伯爵は二人が頷き合うのに気付かず一人腕を組み呟く。
「何が何だか。私にはわからんことばかりだ」
「まあ地団駄踏んでも無駄だろうな」
フィガロはそんな伯爵を見て会心の笑みを浮かべている。
「わしよりもわかっちゃいないんだからな。わかっていないことは弱いからな」
とりあえずこれで場は凌げたと思われた。ところがここでまた新たな来客だった。しかも今回はやけに賑やかで騒々しい面子であった。
「伯爵様、どうか」
「御聞き下さい」
「是非共」
マルチェリーナにバルトロ、バジーリオだった。伯爵は三人の姿を見てまずは眉をあげそのうえで言うのだった。
「ふむ。私にとってはいいことだ」
彼等の来訪のことであるのは言うまでもない。
「復讐をさせてくれる。これで一安心だ」
「まずいわね」
「全くです」
夫人とスザンナは三人を見て顔を顰めさせていた。
「折角このままいけると思っていたのに」
「厄介な連中が」
「三人の間抜け共が来たな」
フィガロはとりあえず鼻っ柱は強いままだった。
「一体何をしてくるのだ?」
「では聞こう」
伯爵は悠然さを装って三人に対して向かい合った。
「そなた達の申し出は何だ?」
「はい、実はですね」
マルチェリーナが伯爵の前に進み出て申し出て来たのだった。
「私とフィガロは」
「うむ」
ここでフィガロの方を見て話をするのだった。
「婚約の約束をしました。それが果たされることを主張します」
「えっ!?」
「婚約!?」
フィガロもスザンナもこれには思わず絶句してしまった。
「そんなことが!?」
「ここで?」
「静かにせよ」
伯爵は己の優位を確信しつつその二人と妻の顔を見つつ述べた。
「ここではな」
「くっ・・・・・・」
「それでです」
今度はバルトロが前に進み出て申し出る。
「私は彼女の名誉と正しさを守る為弁護人となることになりました」
「それは許されないわよ」
夫人が怖い顔になってバルトロに対して言ってきた。
「貴方だけは。それは」
「静粛に」
しかしここで伯爵は余裕を見せて妻を静かにさせるのだった。
「私が話を聞いているのだからな」
「うう・・・・・・」
「私は証言の為に」
最後に出て来たのはバジーリオだった。
「フィガロが借金の代わりに婚約のことを約束したことを」
「よし、わかった」
伯爵は内心得意げに笑いながら頷いたのだった。
「ではその契約を読んでみよう」
「まずいわ、これは」
「そうね。こうなってしまったら」
スザンナも夫人も今の自分達の状況を理解する他なかった。
「本当にフィガロとマルチェリーナが」
「そうなってしまったら貴女は」
「はい、おしまいです」
こういうことだった。
「何もかも」
「茫然自失とはこのことだ」
そしてさしものフィガロもどうしていいかわからなくなってしまっていた。
「地獄の悪魔がここにやって来たようだ」
「さて、形勢逆転だな」
三人に対して伯爵は悠然とした態度になっていた。
「見事な打撃だ。幸運の神々がやって来たようだ」
「そうですね。これで」
「恨みを晴らせる」
「善き哉善き哉」
その伯爵の周りではマルチェリーナ達三人が上機嫌で笑っている。三人を完全に味方につけている伯爵は別の三人、とりわけフィガロを見てにんまりとしている。両者の立場は完全に変わってしまっていた。
ハラハラする展開があったかと思えば。
美姫 「今度はかなり面倒な事になっているわね」
伯爵にとっては良い方向に向かったか?
美姫 「色々と策略が交差してややこしくなっているわね」
うーん、どうなるんだろう。
美姫 「次回も待っていますね」