『フィガロの結婚』
第一幕 戦闘開始
広く豪奢な白い屋敷の中。その一室。今一人の若い男が何やら必死に丈を測っていた。
「五、十、二十、三十」
屈んで床の寸法を測っている。茶色の癖のある髪を後ろにやっており目は黒い。やたらと動きそのうえ光の強い目である。何処か抜け目がなさそうだ。
顔は愛嬌がありにこにことした感じだ。四角くそれでいて陽気である。背は結構高い。服は水色のシャツにライトブラウンのズボンでサスペンダーをしている。
「うん、こんなものかな」
「そうじゃないかしら」
横では小柄な若い娘が鏡を覗きながら色々と髪をいじったりメイクをチェックしたりしている。時折ポーズをつけたりもしている。
こちらの娘は鼻が少しだけ上を向いているが金髪の少し癖のある髪を後ろで束ね青い目は奇麗でやはりこちらもかなり強い頭の回転の早さを思わせる光がある。顔は小さく愛くるしい。童顔とも言っていい。白いエプロンの下に淡い青とストライブのスカートに青っぽいブラウスを着ている。その彼女が彼に応えていたのだ。
「ねえフィガロ」
「何だい、スザンナ」
ここでお互いの名前を呼び合う。
「この帽子どうかしら」
「いいよ、ぴったりだよ」
フィガロはスザンナが持っていた帽子を被ったのを見て寸法を測るのを止めて彼女に告げた。
「似合ってるよ、最高に」
「よかった。自分で作った介があったわ」
スザンナはフィガロの言葉を聞いてにこにことなった。部屋にはまだ何も入っておらずあるのはその鏡だけである。
「とても奇麗で可愛いよ」
「そう。ところでフィガロ」
スザンナは今度はフィガロに目をやってきた。
「さっき何を測っていたの?」
「ああ。ベッドの寸法だよ」
フィガロはそうスザンナに答えた。
「それを測ってたのさ」
「この部屋に?」
「そう。伯爵様がわし等に下さるベッドのな」
にこにこと笑ってスザンナに言う。
「それをさ。どうだい?」
「それは貴方だけどうぞ」
スザンナはフィガロのその言葉を聞いてにこりともせず返すのだった。
「それはね」
「何か随分邪険だな」
フィガロはスザンナの様子からすぐにそれを察した。
「何かあったのかい?」
「はっきり言ってそのベッドは頂きたくはないわ」
「またどうしてだい?この部屋だって」
フィガロはスザンナの言葉に首を傾げながら言ってきた。
「伯爵様がこのお屋敷の中で一番いい部屋を下さったのに」
「それはそうでしょうね」
「このお部屋は奥方様が御前を御呼びになっても伯爵様がわしを呼んでもすぐに行けるじゃないか。居心地もいいし何処が不満なのだ」
「じゃあ言うわね」
スザンナは自分の前に来たフィガロを見上げながらまた言ってきた。
「伯爵様が貴方を三キロも遠くへ使いにやるわね」
「うん」
「そしてその間に伯爵様がこの部屋に来られるのよ。私のところにね」
「!?どういうことなんだ?」
「これでわからないの?」
「さて」
スザンナの言葉にもまだ首を傾げている。
「何が何だか」
「伯爵様がどんな方か知ってるわよね」
「奥方様よりもずっと長い付き合いだよ」
少し得意そうにスザンナに述べた。
「それは何度も言ってるよな」
「そうよね。かなり女好きな方よね」
「惚れっぽいね。奥方様との時もそうだった」
その時のことをここで思い出すのだった。
「それでお屋敷の中でも。奥方様以外にも」
「何っ!?」
ここでフィガロはやっとわかった。
「じゃああれか。伯爵様は間も無くイギリス大使だ」
「ええ。ロンドンに行かれるわね」
「わし等も一緒だ」
フィガロとスザンナも呼ばれているのである。
「わしは使い走りで御前は秘密の伯爵夫人で大使夫人」
「いいお話でしょ」
「そうだな。こんなにいい話はない」
言いながら立腹している。
「よし、それならだ」
「覚悟を決めたのね」
「伯爵様、若し踊られたければ」
ここでギターを奏でる動作をしながら言い出すのだった。
「わしはこうしてギターを奏でて差し上げます。若し学校において下さればわしはカプリオーラ、バレエの跳躍を教えて差し上げましょう」
「それはいいのね」
「そう。しかし」
彼は言うのだった。
「謀略は許しませんよ。そうそうお勝手な謀略は」
これが彼の決意だった。
「巧妙な策略、大胆な振る舞い。こちらの武器でその様な目論見は全て覆してみせますよ」
「じゃあフィガロ。後は」
「ああ、やるぞ」
こう言い合う二人だった。その頃屋敷の白い廊下では二人の初老の男女があれこれ話をしていた。二人は白い絹のカーテンと窓の向こうのエメラルドグリーンの草原を見ながら話をしている。男の方が背が高く太めで威厳を持たせようとしているがどうにもおかしさというか滑稽さも併せ持っている男だった。服は緑の貴族の服で襟や袖のフリルに膝までのズボンと編み上げ靴にシルクの靴下が彼が貴族であることを示している。
女の方はスザンナとほぼ色違いである。エプロンは白だがスカートはブラウンでブラウスは赤っぽい。赤茶色の髪で結構皺が目立つが中々奇麗ではある。どういうわけかフィガロに似ている感じがする。
「のうマルチェリーナ」
「何ですか、バルトロさん」
「今日を待っておったのじゃな」
「勿論ですよ」
マルチェリーナはその手に契約書を出してからまたバルトロに述べた。
「この日にこれを出せば二人の結婚式は終わりですね」
「ふむ。借金を払えなければ御前と結婚するとあるな」
「これを見せれば」
にこにことしてバルトロに語る。
「フィガロは私と結婚するんですよ」
「随分年齢が離れておるのう」
「愛があれば年の差なんて」
勝手なことを言い出した。
「そうじゃないですか」
「うむ。フィガロにはわしも借りがある」
実は彼は元は伯爵夫人の保護者だった。その財産を狙って彼女と強引に結婚しようとしたのだがそこでフィガロに邪魔されて伯爵に彼女を取られてしまったのだ。それで恨みがあるのだ。
「それではここは仇討ちじゃ」
「仇討ちですね」
「仇討ちこそ賢い者に残された楽しみ。恥や不名誉を忘れるのは卑劣なことじゃ。下賎な輩のすることじゃ」
こう言うのであった。
「悪知恵を働かせ才気を以って思慮深くかつ良識を喪って動けばやりおおせる」
「では私に協力して下さいますね」
「御前とわしの仲ではないか」
「ええ。かつては一度は夫婦だった」
「そうそう」
意外な関係である。
「子供はどっかに行ったがのう」
「あの子は何処に」
このことを思い出すと悲しい顔になったがそれは一瞬だった。バルトロはまた言い出した。
「目次を読み尽くすまで本を読んでも曖昧な言葉や同義語は何たかの混乱から見つかる。このセヴィーリアに知られた賢者バルトロ様がフィガロを御前の二番目の夫にしてみせようぞ」
「期待していますよ」
「うむ、期待しておるように」
こんな話をしてから二人は別れた。マルチェリーナは廊下を歩いているとここで前にスザンナを見た。早速言うのだっや。
「あの美しい真珠の玉をお嫁さんにしようと言っていたわね」
「私のことね」
当然スザンヌも彼女に気付いていて声も今聞いた。それですぐにわかった。
「けれど世の中行き着くところはお金。先立つものはまずそれ」
「言うわね」
スザンナはそれを聞いてむっとした。
「誰でも自分の値打ちは知っているわよ」
「控えめな目つきでおしとやかな素振りだけれど」
今度は聞こえないようにしながらスザンナを見ていた。
「野ってきたわね」
「やり過ごそうかしら」
お互いに剣呑な調子である。
「ここは」
「何で可愛い花嫁さんなんでしょう」
スザンナはそのまま通り過ぎようとしてマルチェリーナは喧嘩を売ろうとする。するとここでばったりと出会ってしまったのであった。
「どうぞ」
マルチェリーナはわざとにこりと笑って慇懃にスザンナに言ってきた。
「お通りなさい。花嫁さん」
「いえいえ、どうぞ」
スザンナもスザンナでにこにこと顔では笑って表面は慇懃にマルチェリーナに言うのだった。
「気高い奥様、そちらこそ」
「お先にどうぞ」
「いえいえ、貴女様こそお先に」
早速剣呑な鍔迫り合いとなってきた。
「花嫁さんがお先に」
「奥様こそお先に」
「伯爵様のお気に入りの」
「スペイン中の憧れの方が
「気高く」
「お召し物も」
「気位高く」
「お年もお年で」
マルチェリーナもスザンナも言葉に殺気を込めてきていた。顔はまだにこにことしているがそれだけに凄みのあるやり取りになってきていた。
(これ以上は腹に据えかねるわね)
(笑わせないで。老いぼれの巫女様)
お互いに腹の中では限界を向かえていた。しかし今は遂にはお互い通り過ぎた。その際無言であるが互いに視線を交えることなく殺気だけを交えさせて後にするのだった。
「あの人とバルトロさんだけは気が許せないわ」
スザンナはマルチェリーナの姿が消えてからこう言いそのうえで伯爵の部屋に入った。部屋は様々な装飾品で飾られ見事なものである。とりわけ肘掛け椅子は見事でそこには伯爵の上着があった。絹の見事な上着であり緋色である。
「奥方様の先生だっていっても」
「ねえスザンナ」
ここで一人の男の子が入って来た。服は白い貴族のもので顔はまるで女の子のようだ。睫毛は長く多くて黒い目は星の様にきらきらとしている。唇は小さく紅く頬は紅色で肌は雪の様だ。やや細長く端整というよりも悩ましい。髪は黒く長く癖がある。小柄で身体つきまだ幼さが残る。その彼が部屋に入って来たのだ。
「ここにいたんだ」
「ケルビーノ」
スザンナは彼に気付いてその名を呼んで顔を向けた。
「何かあったの?」
「大変なことになったんだ、僕の愛しい人」
「貴方の愛しい人!?」
ケルビーノのその言葉に目をぱちくりとさせた。
「私が?」
「そう、君が」
こう言うのである。
「君がだよ」
「どうしてよ。それでね」
「うん」
「大変なことって!?」
話を強引にそこにやった。ややこしくなることを嫌ってだ。
「どうしたの?今度は」
「昨日のことだけれど」
ケルビーノはスザンナのその問いを受けて俯きながら述べてきた。
「バルバリーナと二人で遊んでいたら」
「伯爵様お気に入りの?」
「うん。そこをその伯爵様に見つかって」
実にタイミングが悪いと言えた。
「それで出て行けって言われてたんだよ」
「いつものことじゃないの?」
スザンナはそれを聞いても至極穏やかであった。
「毎回毎回そういうことの繰り返しじゃない」
「若しその時も奥方様のおとりなしがなかったら」
「それも一緒じゃないの?」
それだけ同じことを繰り返しているケルビーノだった。
「結局は」
「何か随分冷たいね」
「だってバルバリーナだけじゃないですよ?」
実際にかなりクールな口調のスザンナだった。
「私にも奥方様にも色々と見たり声をかけたりしているわよね」
「奥方様はあまりにも気高くて」
「御立派な方よ」
実際彼女はその伯爵夫人の侍女なので彼女のことはよく知っていた。彼女にとってスザンナはただの侍女ではなく頼りになる親友でありパートナーであり参謀でもあるのだ。
「本当にね」
「君はいつもあの方のお側にいてお顔を見られて」
「ええ」
「着物をお着せになったり脱がしたり」
「侍女だから当然ね」
そう言われても全く動じていない。相変わらずの態度だ。
「それは」
「ところでその手にあるのは?」
「奥方様のおりボンと夜のお冠ものよ」
こうケルビーノに答えた。
「それがどうかしたの?」
「それを貸してくれないかな」
そう言っていきなりそのリボンや冠ものをその手に取ってしまった。
「あっ」
「凄いね。とても優しくて幸せで美しいリボンだよ」
ケルビーノはそのリボンを手にもう感激していた。
「いい感じだよ」
「早く返してくれないかしら」
「嫌だよ。ずっと持ってる」
こう言って聞こうとしないのだった。
「そのかわりにさ。これどうぞ」
「!?何これ」
彼が手渡したその楽譜を見て怪訝な声をあげた。
「楽譜!?」
「これを奥方様と君とバルバリーナと」
「私にも?」
「マルチェリーナと他にもお屋敷の全ての女の人に」
「皆にって」
「聴かせて欲しいんだ。僕の曲」
「貴方作曲できたの?」
さらに怪訝な声でケルビーノに問うとすぐに返事が返ってきた。
「実はそうなんだ」
「実はって」
「僕は自分で自分がわからなくなっているんだ」
今度はリボンや冠ものを持ちながら半ば恍惚として言いだした。
「時には火の様になって時は氷の様になってどんな人を見ても僕の顔を赤くさせるし胸の鼓動を弾ませるし。愛という言葉だけで心は乱れるしもう自分でも説明できない望みが僕に恋を語らせて」
「大丈夫なの?」
「目覚めていようと恋を語り水にも影にも山にも」
さらに言葉を続ける。
「花にも草にも泉にも。木霊に大気に風に。皆悪戯に言葉の響きを何処ともなく運び去ってしまうものだけれど」
「それで?」
「それでも若し誰も聴いてくれなかったら僕は自分ひとりで恋を語るよ」
「そうなの」
「そうだよ・・・・・・あっ」
ここでケルビーノは後ろの物音を聞いた。
「伯爵様!?」
「早く隠れなさい」
スザンナが強い声でケルビーノに告げた。
「今のうちにね」
「それじゃあすぐに」
とりあえず椅子の中に隠れる。スザンナはそこに伯爵の上着をかけて隠す。するとその瞬間に緋色の上着に赤いズボンの背の高い男が部屋に入って来た。
その背の高さがまず目につく。姿勢も堂々としており顔も威厳がありまるでギリシア彫刻の様だ。とりわけ知性を強く感じる。黒い髪を格好よく後ろに整え前に幾分か垂らしている。その青い目の光もかなり強い。彼がこの屋敷の主であるアルマヴィーヴァ伯爵である。
「伯爵様・・・・・・」
「スザンナ、何かあったのかね?」
「いえ、別に」
「ならいいがな」
伯爵は言いながら少しずつスザンナに近付く。それと共にその知性を感じさせる顔に好色さも含ませてきた。気品はあるがそれも入るのだった。
「ところでだ」
「何でしょうか」
「私は間も無くイギリス大使になる」
「おめでとうございます」
「陛下からそう仰せつかった。それでフィガロを連れて行こうと思うのだが」
「それで宜しいと思います」
スザンナを狙うように見下ろす伯爵に対して返す。
「それでだ」
「それで?」
「そなたもな」
これに好色なものがさらに宿った。
「どうじゃ。それで」
「私は間も無くフィガロの妻となりますが」
「だからじゃ」
それを理由とするのだった。
「私はそなたにのう。色々と目をかけておるしじゃ」
「さて、伯爵様はどちらに?」
ここでまた部屋の外から声がかかってきた。
「どちらにおられますかな」
「むっ?バジーリオの声か」
伯爵はその声に顔を向けて言った。
「でこれはまずいか」
「どうされますか?」
「ここに隠れるとしよう」
椅子を見ていうのだった。
「そこにはそこはいけません」
「何故じゃ?」
椅子に隠れようとすると止めてきたスザンナに首を傾げる。
「ここに隠れても別にいいじゃろう」
「いえ、それが駄目なのです」
伯爵にはわからない話であった。
「それは」
「何故じゃ、話がわからんぞ」
わからなくて当然であった。
「何もないじゃろうに」
「あっ」
早速その椅子の裏に大きな身体を隠す伯爵だった。スザンナはとりあえずそこにまたその上着をかける。とりあえずケルビーノまで隠れているように配慮はした。何とか隠し終えるとそこにそのバジーリオが入って来た。もじゃもじゃの白髪の顔の細長い男で青い上着とズボンにはちゃんと刺繍と袖や襟のフリルがある。やはり彼も貴族であった。
「バジーリオさん」
「おお、スザンナ」
とりあえず挨拶をする二人だった。
「ごきげんよう」
「はい、こんにちは」
「ところでじゃ」
バジーリオは顔を上げるとまたスザンナに対して言ってきた。
「伯爵様はどちらに?」
「さて」
その問いに首を傾げて隠す。
「私にもわかりません」
「そうか。フィガロが探しておるのじゃがな」
「フィガロが?」
スザンナはフィガロと聞いて声をあげた。
「またどうしてかしら」
「わしは今まで道義的に人妻を愛する男がその夫を憎むということを聞いたことがない」
「それはどういう意味ですか?」
「伯爵様は御主を気に入っている」
スザンナの目の色を見ながら述べてきた。
「わかるな。これで」
「さて。何のことでしょうか」
内心頭にきたがそれでもそれは隠して彼に返すスザンナだった。
「それは。どころで御用がないのなら」
「ああ、いやいや」
追い出されようとするところで立ち止まるバジーリオだった。彼もしつこい。
「そうではなくてのう」
「間段愛かあるのですか?」
「わしは思うのじゃよ」
また言い出すバジーリオだった。
「恋をする相手を選ぶようにな」
「恋する相手を?」
「うむ。皆がするように気楽な抜け目ない相手の方がよい」
スザンナに囁くように告げた。彼の目こそ抜け目がない。
「若僧やお小姓よりもの」
「小姓というとケルビーノかしら」
「あの小僧にも困ったものじゃ」
バジーリオはここで腕を組んで困った顔をしてみせる。
「あちこちうろうろして女の子に声をかけてのう」
「いつものことですね」
ここでも取り合おうとしないスザンナだった。だがバジーリオの話は続く。
「まあそうじゃがな。しかしじゃ」
「しかし?」
「あの小僧の歌は誰にあてたものか」
「お屋敷の女の人全部ではないでしょうか」
「移り気もそこまでいくと見事じゃな」
半分彼に感心してはいた。
「まあそれでもじゃ。あの小僧はちと過ぎる」
「それは同意します」
「奥方様への目も。ちょっと注意しておくかのう」
「そうあちこちに言うのもよくないと思いますけれど」
ちくりとバジーリオに嫌味を返した。いい加減腹に据えかねたのだ。その嫌味に。
「どう思いますか?」
「わしは皆が言っていることをそのまま言っているだけじゃがのう」
「何だとっ!?」
それまで自分の妻の話が出て気が気でなかった伯爵がここで遂に出て来た。
「皆が言っていると!?」
「伯爵!?」
「まさかこんなところで出て来るなんて」
これにはもうスザンナも弱ってしまった。思わず頭を抱え込んでしまった。
「もう滅茶苦茶だわ」
「ケルビーノめ、怪しいと思っていたら」
「しまった、これは失言だったぞ」
「だから言っていたじゃないですか」
怒る伯爵に慌てるバジーリオに頭を抱えるスザンナ。最早事態はどうしようもない状況になってしまっていた。
「変なことは言ったら身の破滅だと」
「そんなことははじめて聞いたぞ」
「心の中で言っているんです」
「そうか。しかし困った」
「おのれケルビーノ」
伯爵は怒ったままである。
「こうなったら容赦はせん。即刻追放だ」
「ううむ、まさかこうなるとは」
「バジーリオさん、責任取って下さいね」
「責任と言われても」
元々軽い気持ちだったのでそこまで覚悟はない。その間に伯爵はさらに怒り出す。
「ロジーナへの色目だけは許さん。私の愛する妻にはな」
「勝手なことを仰るな」
「それは同感です」
二人はこっそり伯爵にとって身も蓋もないことを言いはする。
「けれどこのままじゃ」
「うむ。困ったのう」
「昨日のことだった」
怒り続ける伯爵はまた言った。
「御前の従妹の部屋が閉まっていた」
「はい」
バジーリオはとりあえず伯爵の怒っている話を聞く。
「妙に思って戸を叩くと慌ててバルバリーナが出て来た。変に思い」
「変に思い?」
「部屋の中を探し回った」
伯爵はここで椅子に顔をやる。
「そしてテーブル掛けを静かに持ち上げると」
「どうされました?」
「あの小僧がいたのじゃ」
言葉と共に勢いのまま椅子の上着を剥ぎ取ると。
「ここにもいたか!」
「なっ!?」
「何でこんなに悪いことが次々に」
スザンナは今度は右手で額に手をやった。
「起こるのかしら」
「流石にこれはわしも考えなかったのう」
バジーリオも言葉がない。
「よくもまあこんなことが起こるものじゃ」
「どうも」
ケルビーノは椅子の中で小さくなっていた。
「お邪魔しています」
「お邪魔ではないわっ」
流石に呆れて先程までの怒りはない伯爵だった。
「こんなことばかりではないか、御前は」
「気のせいです」
「気のせいではないっ」
結局怒りは元に戻った。
「すぐにフィガロを連れて来い」
「は、はい」
バジーリオはとりあえず伯爵の言葉に頷いた。
「それでは」
「スザンナ」
そのうえでスザンナに顔を向けて問うてきた。
「これは一体どういうことだ」
「後でよく言って聞かせますので」
とりあえずスザンナは何とか冷静さを取り戻して伯爵に返した。
「それで」
「終わらせるというのか?」
「はい、そうです」
ここは強気に出ることにしたのであった。
「それで」
「過ちにしては随分な言い様だな」
伯爵の今の言葉はスザンナには聞こえなかったし聞こえていても無視されたものであった。
「しかしこいつは何時ここに来たのだ」
「伯爵様がここに来られた時です」
スザンナはこう伯爵に話した。
「その時に私に奥方様へのとりなしを頼んでいまして」
「それでか?」
「はい。それで伯爵様が来られてここに隠れたのです」
「しかしだ」
伯爵はスザンナのその話を聞いて首を捻った。
「私がこの椅子の裏に隠れていた」
「はい」
「何故それで見つからなかったのだ?私に」
「伯爵様は椅子の裏でしたね」
「うむ」
スザンナの言葉に頷く。
「その通りだが」
「私は椅子の席に隠れていましたので」
ケルビーノはこう彼に答えた。
「だからです」
「そうか。しかしということはだ」
ここで伯爵はあらたなことに気付き目を顰めさせた。
「私とスザンナの話を聞いていたな。そうだな」
「一生懸命聞かないようにしていました」
実に苦しい言い訳であった。
「だから御安心を」
「けしからん奴だ」
それを聞いてまた目を怒らせる伯爵だった。
「やはりこの屋敷から出て行ってもらうとするか」
「それは。それだけは」
「むっ!?」
しかしここでバジーリオが声をあげた。気付けばまた扉のところから人の話し声が聞こえてきたのだった。
「人が来ます」
「何っ、またか」
伯爵は彼の言葉を聞いて思わず声をあげた。
「今日はまた賑やかだな、この部屋は」
「やあやあやあ」
部屋にまず入って来たのはフィガロだった。まずは伯爵に対して一礼する。
「伯爵様、どうも」
「御前か?」
「探しました。実はですね」
「何かあったのか?後ろからまだ声がするが」
「はい。さあ入ってくれ」
「んっ!?」
見れば彼の後ろから町民や農民達が次々と入って来る。老いも若きもいる。そうして彼等は伯爵の前に来て一礼してから言うのだった。
「どうも伯爵様」
「うむ」
伯爵は威厳を以って彼等に対する。彼の領地の者達である。その間にフィガロはスザンナのところに来てそっと囁くのだった。
「じゃあはじめるぞ」
「何を?」
「まあ見ていてくれよ。さあ皆さん」
「はい」
町民や農民達がフィガロの言葉に応える。
「伯爵様に感謝の御言葉を」
「伯爵様、有り難うございます」
彼等はまず伯爵に対して礼の言葉を述べるのだった。
「私達からの心からの感謝をお受け取り下さい」
「あの忌まわしい領主権を完全に廃されたこと」
「心から感謝しております」
「ふむ。あれか」
伯爵はすぐにそれが何かわかった。所謂初夜権である。領主は領民の初夜にその新妻の床に入るという権利である。実際にはごく一部の地域以外でなかったという。当然このセヴィーリアにもない。
「あれは只の伝説だ」
「そうなのですか」
「ましてやあんなものは汚らわしく忌々しい話だ」
これは彼が本当にそう思って完全に否定したものである。
「忌まわしい伝説は否定されなければならぬ。だからこそそうしただけだ」
「では伯爵様。わし等も」
絶好のタイミングでフィガロが恭しく出て来た。
「これで完全に安心して結婚できますね」
「伯爵様、有り難うございます」
すかさずスザンナもフィガロの横から言う。
「これで私達は何の不安もなく」
「その通りだ」
(計ったな)
内心舌打ちするがそれでも表面上は理性的であった。
「私がその式の用意をしよう。フィガロもスザンナも諸君等も楽しみにしておくのだ」
「有り難うございます。それでは」
「楽しみにしております」
「いやあ、本当にいい御領主様だよ」
「全くだ」
フィガロとスザンナが明るく応える後ろで彼等は本心から伯爵を讃えていた。伯爵は彼等にとっては実にいい領主でもあるのだ。
「今日は盛大に祝わせてもらおう」
「フィガロとスザンナをな」
こんなことを言いながら彼等は消えた。その後はフィガロとスザンナが相変わらずここぞとばかりに伯爵を讃えてみせて既成事実化を狙っていた。
「有り難うございます」
「これで夫婦の純潔が完全に保たれます」
「夫婦の純潔はこの世で絶対のもの」
伯爵も強引に言わせられる。本心でないことを。
「それは護られなければならない」
「その通りです」
「しかしだ」
ここで伯爵はケルビーノに顔を向けた。見れば彼は椅子に座ったままでしょげかえっている。項垂れたままで話す素振りすらない。
「そなたはまだ沈んでいるのか」
「伯爵様がお屋敷から追い出すと仰るからです」
「それはまた」
フィガロはスザンナの説明を聞いて述べた。
「こんなめでたい日に可哀想に」
「私達の結婚式の日に」
「皆が伯爵様を讃えているのに」
「お許し下さい」
ケルビーノはあらためて伯爵に赦しを乞うがそっぽを向かれている。しかしフィガロがとりなす。
「まあそう仰らずに」
「ならん」
「まだ子供ではないですか。ですから」
「そなたが考えている以上に大人だぞ」
スザンナもとりなすが彼女にも同じであった。
「だからならん」
「そう仰らずに」
「許してあげて下さい」
「ふん。ならばだ」
元々優しいのか伯爵はこれでいささか折れた。だがいささかだったのでケルビーノに対してこう告げたのであった。
「では御前はこれから将校だ」
「将校!?」
「私の連隊の中に士官の欠員が一つあった」
そのことを言うのだった。
「御前はそれだ。今すぐ行くように」
こう言い捨てて足早に部屋を後にする。バジーリオは胡麻をするようにしてそのすぐ後について行った。残ったのはそのケルビーノとフィガロ、スザンナとなったがここでフィガロは内心思った。
(これはいい)
何と実は伯爵の今の処置に満足していたのだった。
(スザンナにも寄って来ているしな。いなくなって幸いだ)
彼には彼の思惑があった。しかし今はそれを隠してケルビーノに対して先輩の威厳を以って告げるのだった。
「行く前にだ」
「行く前にって・・・・・・」
フィガロにまで言われて泣きそうな顔になるケルビーノだった。
「フィガロまでそんなこと言うの?」
「残念だがな」
ここでも本心は隠している。
「しかしだ。出発する前に言おう」
「何を?」
「運命を左右する時だからな」
やたらと勿体をつけている。
「言おう。それは」
「それは?」
「この言葉だ。さて、言おう」
早速はじめてその言葉は。
「もう飛ぶまいこの蝶々。夜も昼も跳びまわり花の周り飛び回る罪作りなこの蝶々」
まずはケルビーノへの皮肉だった。
「可愛いナルシス、愛しのアドニス」
今度はケルビーノをこう例える。
「奇麗な羽毛も華やかな飾りの帽子も派手な服も長い髪ももうないのだ」
「どうしてなんだい?」
「軍人だからだ。軍人は化粧もない。大きな口髭生やし」
「髭・・・・・・」
ケルビーノは咄嗟に自分の鼻の下を触ってしまった。今は生える素振りすらない。この時代貴族達は髪を伸ばし化粧をして髭を剃っていたのである。
「大嚢背負い肩には銃に腰にはサーベル」
完全に軍人である。
「高い襟に大きな帽子。名誉は高く財布は軽い。ファンダンゴの代わりに泥の中や山や谷を行進する」
「な、何だよそれ」
ケルビーノはフィガロの話を聞いて思わず声をあげる。
「全然よくないじゃないか」
「雪や暑さもものとせずラッパの音に合わせて進む」
「うわ・・・・・・」
さらに嫌な気持ちになってきていた。
「臼砲や大砲の音が響き弾丸の音が耳をつんざく。さあケルビーノ」
「地獄じゃないか、それって」
「輝かしい栄光と勝利に向かうのだ。偉大なる軍人の栄光に向かって」
「最悪じゃないか、それって・・・・・・」
フィガロの囃しの言葉にこの上なく落胆するケルビーノだった。スザンナから前線には出ないと言われてもそれでもだった。彼の落胆は人生で最大のものだった。しかもフィガロは囃しながら楽しく足踏みのダンスまで踊っていた。
何か聞いた事のある名前だと思って調べてみたら。
美姫 「前に投稿して頂いた作品の続きみたいな話なのね」
これだけでもちゃんと分かるけれど、前作を知っていれば更に楽しめるかも。
美姫 「それにしても、伯爵がね」
一体どうなるのやら。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。