『ファルスタッフ』
第二幕
洗濯籠の罠
ガーター亭のロビー。あの肘掛け椅子に座るファルスタッフにピストラとバルドルフォが頭を垂れている。二人は何度も何度も懸命に謝罪している。ように見える。
「いえ、本当にすいません」
「反省しています」
「ふん」
ファルスタッフはシェリーを木のカップに入れそれをごくごくとやっている。その赤ら顔で二人の話を聞いている。そのうえで彼等に言うのだった。
「猫が魚に誘われるみたいだな」
「といいますと」
「どういうことでしょうか」
「悪党が古巣に戻った」
何か妙に思慮深い顔で述べるのだった。
「違うか?」
「いえいえ、滅相もない」
「やっぱり私達には旦那様だけです」
「主はか」
「左様です」
「ですから」
蝿みたいに両手をこすり合わせて言う。
「もう一度、御願いします」
「どうか私達を」
「来る者は拒まず」
ファルスタッフは鷹揚に一言出した。
「わしの人生哲学じゃ」
「有り難うございます、流石旦那様」
「感謝します。それでですね」
「何じゃ?」
「御会いしたい方がいるのですが」
バルドルフォがこう切り出してきた。
「わしにか」
「はい、御婦人の方です」
「ふむ」
それを聞いて少し考える顔になった。考える顔は哲学者に見えないこともない。哲学者というよりは胡散臭い破戒僧の方が似合う顔であるが。
「どうされますか?」
「通せ」
こう告げた。
「わかりました。それでは」
「どうぞ」
二人が宿の扉を開ける。するとそこからクイックリー夫人が出て来た。実は彼等はグルというわけだ。
「こんにちは、ファルスタッフ卿」
「ええ、こんにちは」
クイックリーは頭を下げる。ファルスタッフも椅子に座ったままそれに応える。
「お元気そうですね」
「少なくとも酒は美味いですな」
そのシェリーを飲みつつ述べる。
「それで卿は何か?」
「内密のお話でして」
「内密の」
「宜しいでしょうか」
「わかりました。それでは」
彼はその言葉を受けてまずは後ろに控えている二人にコインを数枚投げ与えた。そのうえで言うのだ。
「貰った金だ。好きに使え」
「どちら様からの浄財で?」
「そこの神父とカードをして勝った」
勿論いかさまである。何も知らない純粋な神父を口車に乗せてそうして金を巻き上げたのである。
「それでだ。飲むなり何なりしろ」
「わかりました」
「では暫し」
二人は消えた。ファルスタッフはそれを見届けてからあらためてクイックリーに顔を向ける、そのうえで彼女に対して問うのだった。
「それで如何様ですかな。内密とは」
「奥様のことで」
「奥様?」
「アリーチェ=フォードさんのことで」
「何と、あの奥方の」
丁度狙っている相手だ。その名前が出て思わず声をあげてしまった。
「あの方もお気の毒に」
「また何かあったのですか?」
「貴方のせいですよ」
悲しい顔を作ってファルスタッフに告げる。
「貴方がとんでもない色男だから」
「わしがですか」
「あの方はすっかり貴方に夢中です。お手紙を差し上げましたね」
「うむ」
クイックリーの言葉に答えて頷く。
「それから夢中で。それに仰っていました」
「何と仰っていたのですかな」
椅子から腰を浮かして問う。
「御主人が家を空けられる二時から三時の間に御会いしたいとのことです」
「二時から三時ですか」
「そうです」
こう教える。
「その時間ですと貴方は奥様とお話ができますよ」
「ううむ、それはよきこと」
「ただし」
「ただし?」
「御主人には御気をつけ下さい」
忠告はする。ただしこれはかなり縁起だ。これによりファルスタッフに罠を警戒させないようにしているのだ。人妻なら夫がいる、そのことを言えばかなり違うものだ。それを言ってファルスタッフを現実の世界に入れてそこで動かすつもりでもある。かなり考えての言葉なのだ。
「御主人にですか」
「嫉妬深い方なので」
「うむ。それは承知」
クイックリーの言葉に頷いてみせる。実際に夫のことは頭に入れた。クイックリーの計算通りに彼は動いている。しかし本人は気付いてはいない。
「そしてもう一つ」
「もう一つ?」
「メグのことです」
「彼女がどうかされましたか?」
「あの方もなのです」
「ほう」
彼女にも声をかけていたのでまた身を乗り出すことになった。
「あの方もですか」
「ただあの方の御主人はいつも家におられますので」
「難しいのですな」
「可哀想な方です」
「それはまた。ところで」
「はい」
今度はファルスタッフが問うた。
「何でしょうか」
「御二人はお互いのことにはきづいていますかな」
「いえ」
「それは何より」
これこそファルスタッフの望む最高の状況だった。話を聞いてにんまりと笑う。
「宜しきことですな。それでは」
小銭を取り出してそれをクイックリーへ手渡す。つまりチップだ。
「少ないですがどうぞ」
「あっ、これはどうも。それではこれで」
「うむ、お疲れ様」
クイックリーは一礼してから退室した。ファルスタッフは一人になるとまずは小躍りした。その子供みたいな動作の中で自分自身に対して言う。
「行け、老いたるジョン。老いた御前の身体にもいささかの甘さは残っている。引っ掛かった女はわしの為に皆地獄行きだ。それも全てわしの魅力の為に。アリーチェと財布はこれでわしのもの、いずれはメグもまた」
「あの、旦那様」
「もう宜しいですか?」
「むっ」
小躍りしているところに扉の方からピストラとバルドルフォの声がした。
「何じゃ、もう戻って来たのか」
「旦那様と御会いしたい方がおられまして」
「男の方です」
「何じゃ、男か」
まずはそれを聞いて詰まらなさそうな顔になる。実に素直じゃ。
「男になぞ用は」
「お土産を持って来ておられますぞ」
「お土産とな」
「はい」
「キプロス産のワインです」
「ほう、ワインか」
二人は流石に主の好みがわかっていた。だからこそのここでのワインだった。
「お通ししろ」
「わかりました」
「ではフォンターナさん、どうぞ」
こうして二人にそのフォンターナが案内された。まずはお互いに一礼してからファルスタッフは上機嫌にジョークを飛ばしてみせた。
「酒の湧き出る泉ですな」
フォンターナは泉という意味だ。それを踏まえてのジョークだ。
「何よりですな」
「はじめまして、ファルスタッフ卿」
見ればフォードだ。偽名で来ているのだ」
「御機嫌麗しいようで」
「いえいえ。ああ、御前達は」
「わかっております」
「それでは我々はこれで」
「心置きなく飲むがいい」
鷹揚に彼等を送り出す。また二人になって話をする。フォードが話を切り出してきた。
「まずはですね」
「何でしょうか」
「私は財産は恵まれていますが」
「まずは幸福の基本におられるわけですな」
「幸福の基本ですか」
「左様。人にとっての幸福とは」
ファルスタッフはここでわざと勿体ぶって格言めいて言う。早い話が格好をつけている。
「財産があり健康で美女に囲まれていること」
「その三つですか」
「この三つがなければ不幸以外の何者でもありません。不幸にして私が持っているものは健康のみです」
「一つだけですか」
「残念なことです。ですが御相談には乗りますぞ」
そのまま勿体ぶってフォードに言う。
「して。何の御用件でしょうか」
「実は恋焦がれているのです」
フォードはわざと悩ましげに言ってみせる。これは演技だ。
「どなたですか?」
「フォードという男の妻でして」
「ふむ」
ファルスタッフはここでは表情をわざと消して聞いている。
「その方ですか」
「見詰めても見返して下さらずプレゼントにも反応はなし、私は振られてばかりです」
「愛は休むことがなきもの」
ファルスタッフはここでこう言った。
「この命果てるまで影の様に逃げても逃げてもついて来て追いかければ逃げるもの」
「実に厄介です。ですから貴方のお力をお借りしたいのです」
「わしのですか」
「そうです」
懇願する顔を作って言う。
「まずはこれはほんの気持ちです」
「いや、どうも」
彼が差し出した金貨がふんだんに入った袋を受け取る。外見はやはり表情だが内面はほくほくしてにやけている。しかしそれは顔には出さないのだった。
「あの方は御主人に操を尽くすことだけを考えておられて。それでですね」
「それで」
「貴方に私の代わりになって欲しいのです」
「またそれは随分変わった申し出ですな」
「貴方だからこそです」
こっそりとファルスタッフの自尊心をくすぐる言葉を入れて彼をその気にさせる。
「私が駄目ならもう誰かに陥落させて欲しいのです、城を」
「城をですか」
「その将軍は貴方しかいません」
何処か寓話めいてもいた。自分が駄目なら他人にして欲しいという。ファルスタッフはこう思ったが生憎フォードは本心ではそう思ってはいなかった。ここにその差があった。だがフォードはそれを隠して話すのだ。
「ですからどうか」
「わかりました。それでは」
「有り難い。それでは」
ここで財布を一つ渡す。これもファルスタッフを乗せる為の出費である。
「宜しく御願いしますね」
「いや、どうもどうも」
やはり内面でにやけながら財布を受け取り応える。
「実はもう手筈は整っていまして」
「整っていると」
「左様です。まああと半時間であの方はわしのものですじゃ」
「半時間!?どうしてですか」
「あの方はわしを慕っていまして。それで今から行くのです」
「今にですか」
「二時から三時までの間に」
彼は言った。
「旦那がおられぬので。その間に来るように言われているのです」
「誰にですか?」
「そのアリーチェ夫人にです」
フォードはそれを聞いて内心激怒した。それを隠すだけでも四苦八苦だった。
「そうだったのですか」
「あそこの旦那はメネラーオスかはたまたコキュか」
ギリシア神話のセレネーの夫のスパルタ王だ。セレネーをパリスに奪われた。
「そのうちコキュの印の角の上で花火をつけてやりましょう。間抜けな雄牛の角に」
(何ということか)
フォードは今のファルスタッフの有頂天の言葉に内心怒りで震えた。
「本当に角が伸びるようだ。妻は私の名誉も家もベッドも汚そうとしている。私は騙されからかわれ恥をかけようとしている。私は世間の笑いものだ)
「お楽しみに」
(結婚は地獄だ、女は悪魔だ。だが)
隠れてファルスタッフを見据える。向こうは有頂天なので気付かない。
(見ていろ。必ず一泡吹かせてやるからな)
「では行きますか」
何時の間にか身なりを整えていたファルスタッフがフォードに声をかける。新しい胴着を着て帽子とステッキも持っている。意外と似合っている。
「あの方のところに」
「では途中まで」
「はい、ご一緒に」
「二人仲良く途中まで」
「ええ」
こう言葉を交えさせながら表面上は仲良くファルスタッフについて行く。しかしその内面は怒りと嫉妬と復讐の念で燃え上がりどうにもならなくなっていたのだった。
フォードの屋敷。木造の大きな屋敷だ。後ろに庭が見える大きな窓が中央にあり左右に階段がある。大広間には暖炉と気作りの椅子が幾つもあり上に花瓶を置いた円卓が中央に置かれている。それがまるでアーサー王の円卓のように見える。アリーチェはその円卓の前で女房達と話していた。皆笑顔だが何故かナンネッタだけ元気がない。
「これで準備万端整いましたわね」
「ええ」
クイックリーがアリーチェに笑顔で応える。
「いよいよですわね」
「パーティーは間も無くですわね」
メグも楽しそうに言う。
「首尾よくいきましたわよ」
「有り難う、奥様」
アリーチェはその笑みでクイックリーに礼を述べる。
「罠にかかった鯨がどうなるか」
「見物ですわね」
「全くですわ。もうすぐで罠にかかったとも知らずやって来て」
そのクイックリーに応えて言う。
「報いを受けるのですわ」
「それは何時なの?」
「二時から三時の間よ」
クイックリーはナンネッタの質問に答えた。
「その間に来るように言っておいたわ」
「じゃあ本当にもうすぐじゃない」
時計を見る。もう二時に近い。
「洗濯籠も用意したし。これで」
「それはそうとナンネッタ」
アリーチェはここで娘の様子がおかしいのに気付いた。何故か彼女だけが笑顔ではないのだ。沈んだ顔をしていたのである。口数も少ない。
「どうしたの?元気がないけれど」
「お話してもいい?」
「ええ」
その沈んだ娘の言葉に応える。
「いいなさい。母親は娘の話を聞くものよ」
「じゃあ。いいのね?」
「勿論よ。だから」
娘に対して優しい声をかけて言うように促す。
「言って御覧なさい」
「実はお父様が」
「あの人が」
おずおずと告白しだした娘の言葉を聞く。メグとクイックリーもアリーチェを挟んで彼女の話を聞く。
「私をカイウスさんと結婚させようとしているのよ」
「えっ、それはまた」
「随分と酷い」
「あまりと言えばあまり」
アリーチェだけでなく二人も思わず声をあげる。
「あんな人とよくもまあ」
「何を考えているんでしょ」
「お母様もそう思うわよね」
「勿論よ」
娘の言葉に対して全面的に頷いてみせる。
「当然でしょ、そんなことは」
「やっぱり。石にでも打たれた方がましよ」
「キャベツの芯を弾にした鉄砲で撃たれるようなものよ」
アリーチェの表現もかなりのものだ。母親は娘に対して断言してきた。
「安心しなさい、そんなことはさせないから」
「ええ、そうよ」
「ナンネッタちゃん、安心して」
メグとクイックリーも参戦する。
「私も協力するわ」
「そんなことはさせないからね」
「そう。じゃあ御願いするわ」
三人の心強い味方を得てナンネッタの顔が一気に晴れやかになった。さながら長い雨の後の太陽だ。
「これで私は救われるのね」
「そうよ。さて」
その間に二人の召使い達が洗濯物がたっぷりと詰まった籠を持って来た。アリーチェはそちらに顔をやる。
「それはそこに。それで私が呼んだらその籠をお堀にね」
「落とすのね」
「静かに」
娘の言葉に右目を瞑って微笑んでみせて述べる。
「いいわね」
「わかったわ」
「そういうこと。下がって」
また召使い達に指示を出す。
「あとは舞台の準備は」
「大体できているわ。私のリュートはそこだし」
見ればテーブルの上にはさりげなくリュートも置かれている。
「衝立も広げて。よし」
「ここですわね」
「ここで」
「ええ、そこで」
メグとクイックリーに対して答える。衝立は暖炉と洗濯籠の間に拡げて置かれた。ここまでやったうえでアリーチェは満足した顔で微笑むのだった。
「さてさて、いよいよ開幕よ」
「お芝居がはじまるのね」
「そうよ、最高のお芝居よ」
娘に対してにこやかに笑い軽やかに回って話す。もう喜劇役者になっている。
「陽気な女房達の仕返し。辺りに響き渡るような大笑いの時間、笑い声が巻き起こり戯れ合って矢と鞭で身を固めて煌き広がっていくのよ。喜びと笑いが辺りで、心の中で火事の時の火の粉みたいに煌くの、私達の為に」
「けれどちょっと危ない仕事でありますわ」
メグが笑ってそのアリーチェに述べる。
「あのとんでもない太っちょとの」
「私が見張りますので」
「御願いね、クリックリーさん」
クイックリーに笑顔で声をかける。
「具合が悪くなったら合図をするから」
「私は出入り口を見張るわ」
「貴女はそっちを御願いね」
「ええ」
娘に対しても言う。そのうえでまた言ってみせる。
「あの男に見せてやるわ。身持ちの正しい貞淑な女の悪戯の怖さ、女の中で最も罪深い女とは」
「その女とは?」
「猫を被った女よ」
娘に笑って教える。
「陽気な女房達が見せてあげるわ」
「来ましたわ」
クイックリーが窓の方を見て一同に告げる。
「来たのね」
「ええ。ではクイックリーさんは二階に」
「はい」
「メグさんはあっちの扉に」
「わかりましたわ」
「ナンネッタは出口にね」
「わかったわ」
それぞれ見張りに行かせる。人の配置も整った。そのうえで自分はさりげなくテーブルの側に腰を下ろしてリュートを弾くのだった。優雅に、それでいて朗らかに。その朗らかな場面に主役が来た。
「遂に私はそなたを得たり、輝く花のそなたを得たり」
イタリア人の様に詩を出して口説きだす。家に入っていきなりだった。
「私は幸せで息が詰まりそうだ。この祝福された愛の時の後も生きていけるだろうか」
「まあ」
リュートを弾くのを止めて立ち上がったアリーチェの腰にそっと手を回そうとするがそれはするりと避けられる。アリーチェの身のこなしも若い。
「ようこそ」
「愛しい花よ」
太っちょの騎士は心にもないことを言う。あっても下心に満ちている。
「私はお世辞も花の様な言葉も気取ったことも言えない」
「またそんな」
一発でわかる嘘だった。当然アリーチェにも。
「だが罪の意識がある」
「といいますと」
これも当然嘘だ。そんな殊勝な男ではない。これも有名な話だ。
「フォード氏には申し訳ない」
「主人がですか」
「左様、貴女は騎士の妻になり私は貴女の主人になる。だから」
もうそんなつもりだ。流石にここまで図々しい男はそうはいない。アリーチェもそれを心の中で思いその心の中で舌を出していた。
「貴女は王妃としても相応しい。宝石で飾られた輝かしい胸元を私の紋章でさらに見栄えよくすることを」
「私の胸をですか」
「そう」
実際に彼女の胸を好色そうな目で見ている。
「ダイアが煌き揺れる光の中でその愛らしい足が貴婦人の豊かな絹のドレスに包まれ虹よりも美しい光を放つでしょう」
「私は宝石も金も興味がありません」
優雅に、にこやかに笑ってみせての返事だった。
「首にスカーフを、腰に飾りを」
「それだけですか」
「後は頭に花。それで充分ですわ」
そう言って花瓶の白い花を一輪取って頭に差す。本当にそれだけだった。
「これだけで」
「人魚の如き美しさだ」
「お上手ですわね」
「二人きりで。何という幸せ」
「どうされますか?」
「罪を犯すでしょう。恋はチャンスを逃さずです」
実に自分に都合のいい言葉だ。
「ファルスタッフ様」
「貴女を想うことは罪なのか」
「いえ、それは」
「私がノフォーク侯爵にお仕えしていた時はスマートで爽やかで軽やかで優雅でした」
「今と同じですわね」
「それは」
笑って否定するがまんざらではない。その証拠に言葉を続ける。
「その頃私は春の四月であり五月、指輪の中を潜り抜けられる位スマートで」
「けれど貴方は」
アリーチェは白々しい文句を続けるファルスタッフに対して言ってきた。
「愛しておられるのではないのですか?」
「貴女だけですが」
「メグは。どうなのですか?」
「知りません」
これまた平気で嘘をついた。
「本当ですか?」
「はい、貴方だけです」
そう言ってアリーチェを抱こうとする。
「ですから。今は」
そのまま一気にいこうとする。ところがその時だった。
「奥様!」
二階からこっそりと下りてきていたクイックリーがいきなり出て来てアリーチェに大声で叫ぶ。
「どうしたの?」
「メグさんが貴女にお話があると来ていますわ」
「メグが!?」
「はい、そうです」
「むっ、これはまずい」
もう一方の狙っている相手なのでファルスタッフは当然バツの悪い顔になる。
「ここは何とかしないと」
「もう凄い有様でこちらに来ておりますが」
「そう。それじゃあ」
「ここにいてはまずいな」
「どうされますか?」
「隠れましょう」
とりあえずは、であった。ファルスタッフは言うのだった。
「何処かに」
「それでしたら」
「いい場所がありますわ」
その時とばかりに、内心会心の笑みを浮かべつつアリーチェとクイックリーはファルスタッフに対して告げた。実にさりげなくを装って。
「衝立の後ろに」
「そこですな」
「ええ、そこに」
「どうぞ」
「わかりました。では」
ファルスタッフはそれに従いその衝立の後ろに身を隠す。巨体だが何とか隠れることができた。それと入れ替わりにそれまで見張りだったメグが大慌てで来たのだ。
「奥様、大変なことになりましたわ!」
「芝居でないの?」
アリーチェは側に飛び込んで来たこっそりとメグに囁く。
「そこまでする必要はないわ」
「御主人が」
「主人が?」
「戸口のところで間男を捕まえるって大声で叫んでおられるわ」
「お芝居じゃないのね」
「本当よ」
真顔で、しかも小声でアリーチェに囁く。それでもう充分だった。
「もうえらい剣幕でね」
「ああっ、アリーチェさん!」
今度はクイックリーが窓の外を見て叫ぶ。
「御主人が顔を真っ赤にされて何やら叫び回りがなりたてていきり立って。まるで嵐の様ですわ」
「まさか」
「本当です。何やら大勢の殿方を引き連れて来られて。庭を囲んでもう戸口のところまで」
「間男を許すな!」
そのフォードの声が聞こえてきた。
「何があろうとも。狩りのはじまりだ!」
「猪を狩れ!」
「鼠一匹逃がすな!」
彼に従う男達の声も聞こえる。
「では屋敷の中に!」
「はい!」
乱暴に戸口が開けられる。そうして家の中にずかずかと入るのだった。カイウス達が後ろにいる。
「どうしたんですか、あなた」
「洗濯籠か」
フォードは洗濯籠を見ずに洗濯籠を見ていた。その目が険しい。
「籠には誰がいる」
「洗濯物ですわ」
「嘘を言え、この浮気女」
しかしフォードは妻の言葉を全く信じない。
「金庫を探すぞ。カイウスさん」
「はい」
彼の後ろにいたカイウスが応える。
「鍵をお渡しします。これで金庫を調べて下さい」
「わかりました」
「そしてあなた達は」
「はい」
「何でしょうか」
大勢の男達が彼に応える。
「公園に通じている出口を塞いで下さい。あの御仁は太っているが動きが速いので」
「わかりました。それでは」
「その様に」
「御願いします。さてわしは」
洗濯籠を漁りだした。血走った目で洗濯物を次々と服を取り出す。しかし何もないので遂に籠をひっくり返してしまった。
「ええい、忌々しい」
「まるで台風のようですわ」
「全く」
メグとクイックリーはそんなフォードを見て顔を顰めさせる。喜劇が邪魔されたと思っていた。しかしそれで終わりではない。フォードはさらに言うのだ。
「ベッドの下も竈の中も風呂場も井戸の中も屋根裏も酒蔵も探すぞ」
「家中をですね」
「そう、家中だ」
バルドルフォの言葉に応えていう。
「とにかく見つけ出す、いいな」
「わかりました」
ピストラが答える。その間女房達はあれこれ相談していた。喜劇が邪魔されるどころではないのがわかってきたのだ。おうなれば彼女達も必死だ。
「あの男を何処に」
「洗濯籠の中は?」
「駄目ですわ、あそこは」
クイックリー、メグ、アリーチェがそれぞれ顔を見合わせて言い合う。
「太り過ぎだから」
「全く面倒な」
「とにかく私は」
アリーチェは一旦その場を離れた。
「主人を何とかしないと」
「ええ、行ってらっしゃいませ」
「暫し」
その場はメグとクイックリーだけになった。ここでファルスタッフが顔を出してきた。
「愛しのメグよ」
「ファルスタッフ様」
「愛する貴女に助けて欲しいのです」
こうメグに懇願する。
「どうか」
「どうしましょう」
「やはりここは」
クイックリーは何とかその場を逃れるべく。ある考えに至った。それは。
「洗濯籠に」
「太過ぎませんか?」
「いや、いけた」
ファルスタッフが応える。見れば何とか籠の中に入っていた。
「何とかいけましたぞ」
「ではすぐに」
「ええ、かくして」
二人は先程フォードが散りばめた服を次々とファルスタッフの上に被せていく。その巨体が忽ちのうちに消えていく。二人も必死だ。
二人が必死にファルスタッフを隠しているとそこにナンネッタとフェントンが来る。二人はファルスタッフのことは気付きもせずに二人の世界の中で話していた。
「何か騒がしいけれど」
「かえって好都合よ」
ナンネッタはこうフェントンに告げる。
「だって私達に目が行かないでしょう?」
「それもそうだね」
「だからいいのよ」
にこりと笑っての言葉だった。
「好都合よ。それでね」
「何処に行くんだい?」
「二人きりになれる場所よ」
こう言いながらさっきまでファルスタッフがいた衝立のところを指差す。勿論二人は不良の老騎士のことなぞ知りもしない。実に気楽だ。
「そこでじっくりお話しましょう」
「そうだね。それじゃあ」
「二人で」
衝立の中に隠れる。それと入れ替わりにフォードがカイウス、ピストラ、バルドルフォを連れて広間に戻って来る。やはりファルスタッフを探している。
「女たらしめ、許さんぞ」
フォードは血走った目で周囲を見回しながら言う。
「八つ裂きにしてくれる」
「フォードさん」
その彼にカイウスが声をかける。ピストラとバルドルフォは周囲を見回している。四人は完全に一体になって血走った目になってしまっていた。
「何か?」
「家の中が滅茶苦茶ですが」
「しかしあの男がここにいるのは確かなのです」
今のフォードにとってはそんなことはもうどうでもいいのだった。
「ですから」
「構わないのですね」
「そうです」
はっきりと言い切る。
「一体何処に。タンスの中は」
今度は洋服ダンスを見る。すぐにピストラとバルドルフォがタンスに急行しそこを開けて調べる。フォードはその二人に対して問うた。
「いましたか?」
「いません」
二人はフォードに顔を向けて答えた。
「何処にも」
「そこにもいないか」
「道具箱の中にもいません」
カイウスが今度は部屋の端にあった道具箱の中を調べる。しかしそこにもいない。大きな葛篭を忌々しげにかなり乱暴な動作で閉じる。
「何処に隠れた、あの大飯食らいの飲んだくれ」
「ほら吹きの盗人の大嘘吐きが」
フォードも忌々しげに言う。
「何処に行った。待てよ」
「どうされました?」
「そこだ」
彼は遂に衝立に気付いた。
「そこにいるのだ、あの破廉恥漢は」
「あそこにですか」
「そうだ、衝立の中」
その時メグとクイックリーはやっとファルスタッフを籠の中に完全に隠したところだった。服を全部被せたのだ。額の汗を拭いてやれやれといった顔をしている。
「そこに違いないぞ」
「ではあそこを調べますか」
「うむ」
カイウスに対して答える。
「木っ端微塵にして犬みたいに喰らいついてやる」
「犬みたいにですか」
「鼻先を叩きのめしてやる」
もう半分自分が何を言っているのかわからなくなっている。
「神様に祈れ。精々な」
「やっと収めたけれど」
「大変なことになっていますわね」
「ええ」
クイックリーはメグの言葉に頷いている。
「何とか隠しましたけれど」
「どうなるか」
「フォードさん!」
「抑えましたよ、至るところを」
「こちらも見つけました」
広間に戻ってきた男達に対して肩で息をしながら言うフォードだった。
「あの男を。やっと」
「それは一体何処ですか?」
「お静かに」
そう言って衝立の方を指差す。
「あそこです。あそこにあの間男と妻がいます」
「そうですか。ではあそこを」
「はい」
「苦しい」
ファルスタッフは籠の中から顔を出して呻く。
「何時までここにいるんだ」
「じっとしていて下さいな」
しかしここでクイックリーがその頭を籠の中に押し込んでしまう。
「今は」
「うぐぐ」
「キスの音がした」
フォードは信じられない能力で衝立の中の音を聞いた。
「間違いないぞ」
「何と大胆な」
彼の言葉を聞いたカイウスが思わず呻く。実はそれを聞いたのはフォードだけだったのだ。
「ここで接吻とは」
「君達は右だ」
フォードはピストラとバルドルフォに衝立の右に回るように言う。
「それでいいね」
「はい」
「わかりました」
二人もそれに頷いて答える。
「よし。それで私達は左手ですぞ」
「わかりました。それでは」
「ええ」
今度はカイウスに言うとカイウスも頷くのだった。
「そのように」
「御願いします。他の方々はバリケードを作って下さい」
「あの騎士殿が逃げない様にですな」
「とにかく異常に素早いのです」
彼はそれをかなり警戒しているのだt。
「ですから。宜しいですね」
「わかりました、それでは」
「そのように」
「暑い。もう駄目だ」
その中でファルスタッフはまた顔を出そうとするが今度はメグにその頭を押さえられてしまった。そうしてまた中に入れられる。
「うぐぐぐぐ、何時までこんな」
「今はまだです」
「まだか」
「まだですわ」
こう言って頭を押し込む。その間にもフォードは手筈を整えているのだった。
「もう少し」
「せめて風を」
「贅沢ですわ」
それも断る。
「今は我慢なさいませ」
「早く終わってくれ」
「何か言い合っているな」
フォードは津楯に耳を近寄せていた。
「睦言か。それも今のうちだ」
「ではフォードさん」
「はい」
今度はカイウスに対して答える。
「わかっています。では」
「旦那様は歌っているのかな」
「その割には声が高いな」
ピストラとバルドルフォも二人の話を聞いて言い合う。
「だがここにおられるのなら」
「もう終わりか、世紀の悪党も」
「さて、中には誰がいるのかしら」
「大方予想はつきますわ」
メグとクイックリーは洗濯籠の左右にそれぞれ位置して話している。二人は随分と余裕だ。真相がわかっているからだ。
「いい加減に帰りたいのう」
その籠の中には渦中の人物がいる。彼も随分と災難だ。自業自得だが、
「では皆さん」
「はい」
フォードが一同に声をかける。皆それに頷いて答える。
「合図をしますので」
「その時に」
「では」
早速その合図に入る。
「一、二の」
「一、二の」
衝立に手をかけて。それで。
「三っ!」
「出て濃い悪党!」
衝立を倒すとそこにいたのは。あのフたちだった。
「何と!」
「えっ、お父様」
「フォードさん」
ナンネッタとフェントンだった。二人は抱き合ったまま呆然としている。
「どうしてここに」
「何故衝立に」
「何っ、何故御前が」
まさかそこに娘がいるとは思わなかったので呆然としている。
「ここに。しかもフェントン君」
「は、はい」
「娘には近付かないように言った筈だが」
顔を顰めさせて彼に言う。
「全く。君は」
「しかしあの男は何処に?」
カイウスの関心はもうファルスタッフに戻っていた。腕を組んでいぶかしむ顔で言う。
「何処に雲隠れしたのだろう」
「あら、どうなったの」
「あらっ」
「奥様」
メグとクイックリーのところにアリーチェが戻って来た。召使い達を四人程連れている。
「今までどちらに」
「召使い達を集めていたのだけれど」
「そうだったのですか」
「あの破廉恥漢を懲らしめてやる為に」
得意げに笑って手を腰にやってポーズまでして言う。
「支度をしていたのよ」
「それがこの四人なのですね」
「そういうことですわ。さて」
「おや、アリーチェ」
ここでフォードは娘達から顔を話して自分の妻に気付いた。
「今まで何処に」
「細かいお話は後で。それよりも」
「それよりも?」
「本日のメインイベント。さあ」
彼女の合図で四人の召使い達がその洗濯籠を持ち上げる。そのまま窓のところに移動していく。
「いざこの籠を」
「籠を?」
「お堀の中へザブンと」
「そんなことをして何の意味があるのだ?」
「確かに」
「そんなことをしても」
ピストラにもバルドルフォにもわかりかねた。
「意味がありませんぞ」
「一体何なのか」
「それは見てのお楽しみよ」
しかしここでナンネッタが父達に言う。
「だから。見ていて」
「一体何が何なのか」
カイウスも首を捻る。
「何が起こるのか」
「さあ、投げて」
アリーチェが四人にまた言う。もう窓のところに来ている。
「いざ!」
「いざ!」
この声と共に投げられた。洗濯物を撒き散らしながら舞い落ちる。そうしてお堀にダイビングする洗濯籠を皆が見るが落ちた時には。
「あ、あれは!」
「ファルスタッフ卿!」
「これが陽気な女房達の報復!」
お堀の中でもがくファルスタッフを見てアリーチェが宣言する。
「見事それはなったのよ!」
「成程!」
「こういうことだったか!」
皆ここで合点がいった。アリーチェは浮気なぞしておらずそして言い寄った男は。あの有様だ。
「おのれ、厄日だわい!」
水浸しになったファルスタッフは意外にも泳ぎ上手だった。難なく岸まで泳いで身体を起こす。
「何たることじゃ」
「天罰だ!」
フォードの喜ぶ声が響き渡る。彼の嫉妬も見事に消えたのだった。
一時はややこしい事になったかと思ったけれど。
美姫 「アリーチェたちは見事に作戦を続行したわね」
いやはや、逞しいというか機転が利くというか。
美姫 「フォードたちは自分たちの計画が失敗したけれど、結果としてはって感じね」
確かにな。でも、話はまだ終わりじゃないみたいだな。
美姫 「どうなるのかしらね」
次回も待ってます。