『スペインの時』
古都トレド。何処かのどかなこの街の時の流れは実にゆったりとしたものである。街の人々も呑気な感じで非常に穏やかに行き来している。
その中で街の大時計が十二時を示した。鐘が鳴りこのオレンジと青の街に昼が来たことを教えた。
「あれっ、もう昼なのか?」
「そうみたいね」
太って恰幅のいい男に対して彼とは正反対に小柄であだっぽい顔の女が応えた。男は黒いズボンにチョッキを着ていてシャツは黄色がかった白である。女は青いスペインのスカートに黒い背中がよく見える上着である。男の髪は黒で人懐っこい顔をしている。女は黒髪を上で団子の様にしてまとめている。そのあだっぽい顔はやや浅黒く黒い目の光が実に奇麗である。
観れば二人は時計屋の中でのんびりとしている。男は何か時計をいじっていて女は周りを少しだけ掃除している。一応働いてはいるがやはりのどかなものである。店の中は壁の至る場所に時計がかけられている。カウンターのところにも小さな時計が幾つもある。すぐに時計屋とわかるものであった。
「早いもんね。もうお昼なんて」
「そうだよな。飯を食ってちょっとしたら」
「シェスタね」
「食ってすぐにでもいいな」
男はこんなことも言うのであった。
「もうすぐにでも」
「好きにしたらいいわ」
女は男の今の言葉にこう返した。
「あんたの好きなようにね」
「そうするか」
「そうしたらいいわ。いえ、ちょっと待って」
「どうしたんだい?コンセプシオン」
男はここで女の名を呼んだのだった。
「何かあったのかい?」
「今日はあれじゃない」
コンセプシオンと呼ばれた女はここで彼に対して告げた。
「市役所の時計の時間合わせに行く日だったわ」
「ああ、今日だったか」
男はコンセプシオンの言葉を聞いて思い出したように声を出した。
「もうその日か」
「そうよ。だから行かないと」
「じゃあお昼を食べてからね」
「御飯はもう用意してあるから」
コンセプシオンはこう彼に告げた。
「一緒に食べましょう」
「そうだな。じゃあ食べてからな」
「行くといいわ」
こう話をしてから店でもあるこの家の中に消える二人であった。二人が家の中に消えると暫くして痩せて明るく屈託のない顔の若い男が店にやって来た。郵便屋の服を着ていてロバを連れている。やはり黒い目であるが鳶色の目が少し違う印象を与えていた。
「おおい、トルケマダさん」
彼は店の前まで来るとこう言って人を呼んだ。
「いるかい?いたら返事をしてくれよ」
「ああ、ラミーロさん」
コンセプシオンが店から出て彼に応える。
「何の様なの?」
「時計の修理を頼みたくてね」
ラミーロと呼ばれた彼はこうコンセプシオンに告げた。
「それトルケマダさんに頼みたくて」
「旦那なら今出て来るわ」
コンセプシオンはこう彼に離した。
「今御飯を食べ終わったから」
「そうなんだ。じゃあすぐに」
「けれど今日は無理よ」
ところがコンセプシオンは今度はこんなことをラミーロに言うのであった。
「今日はね」
「それはまたどうしてなんだい?」
「今日亭主は市役所に行かないといけないから」
だからだというのである。
「それにね」
「それに?」
「今私の部屋に時計を入れてもらっているのよ」
こう彼に話すのだった。
「だから今日は暇がないわ。悪いけれどね」
「じゃあ帰れっていうのかい?」
「悪いけれどそうよ」
結局言いたいことはそういうことであった。
「だからまた明日来てね」
「やれやれ。困ったなあ」
ラミーロはそれを聞いて諦めて帰ろうとする。コンセプシオンはそんな彼を見て何故か口元を笑わせていた。その彼女の後ろにあの男トルケマダがやって来た。
「あ、駄目だったよ」
「駄目だったって?」
「とても重くてね」
両肩を竦めさせてコンセプシオンに話すのだった。
「二階まで持って行けないよ」
「えっ、そんなに重い時計なの」
「重いなんてものじゃないよ」
たまりかねたような声で言うトルケマダだった。
「だからね。それよりも」
「そう。市役所にね」
「行って来るよ。あっ、ラミーロ君」
ここでラミーロにも気付いたのだった。
「どうしたんだい、今日は」
「家の時計の修理を頼みたくて」
「ああ、じゃあすぐに戻るよ」
ラミーロのその言葉を聞いてすぐに述べたトルケマダだった。
「それまで待っていてくれよ」
「ええ、わかりました」
「それじゃあ」
トルケマダはそのまま店を後にして歩いて市役所に向かった。コンセプシオンとラミーロは二人になったがここでコンセプシオンはラミーロに対して言うのであった。
「御願いがあるけれど」
「御願いですか」
「ええ。うちの亭主が運べなかった時計だけれど」
このことを言うのであった。
「時計ね。私の部屋に運んでくれないかしら」
「奥さんの部屋にですか」
「いいかしら」
ラミーロの顔を見上げて問う。
「それで」
「ああ、別にいいですよ」
ラミーロは二つ返事でそれに応えた。
「僕も待たせてもらっている間暇ですしね」
「お昼はもう食べたのね」
「食べましたよ」
もうそれは食べたというのである。
「とっくに」
「そう。それじゃあいいわね」
彼がお昼と食べたと聞いてそれでいいとしたコンセプシオンであった。
「御願いするわね」
「それで部屋は」
「二階よ」
こうラミーロに告げた。
「二階の左側の一番奥よ。私の部屋は」
「わかりました。じゃあそこに」
「御願いね。じゃあ行って頂戴」
「はい」
「時計は大きくて数字がギリシア数字と中国の文字両方で書かれていて白いのだからすぐにわかるわ」
「また随分と変わった時計ですね」
「わかり易いようにそれにしたの、私のってね」
こんな話をしてからラミーロは店に入った。だがコンセプシオンは店の外に出たままである。そうして店の外、街を見回すのだった。
「まだ来ないわね」
少し苛立ったような顔で呟くのだった。
「いつもはもう来ているのに」
どうやら恋人を待っているらしい。結婚しているがコンセプシオンはどうもそうしたこともお盛んなようである。
「遅いわね」
こう呟いて不満を感じているとだった。茶色い髪に黒い目の白い肌の青年が来た。マントを羽織り羽根帽子で頭を飾り上着もズボンも洒落たものだ。顔立ちは整っているが妙に胡散臭い雰囲気もそこに醸し出している若い男がやって来たのであった。
「ゴンサルベさん」
「どうも、コンセプシオンさん」
ゴンサルベと呼ばれた若い彼は気取った動作で恭しく彼女に一礼してきた。
「今日もお美しい」
「有り難う」
このお世辞には礼の言葉で返す。しかしその表情は少し苛立ったもののままであった。
「それで学校は?」
「もう講義は終わりました」
ゴンサルベは軽やかな声で答える。
「それで今は詩を考えているのです」
「詩をなのね」
「はい。それでコンセプシオンさん」
その軽やかな声でまた話すのだった。
「この詩を聞いて下さい」
「詩を?」
「貴女のその美しさを詠ったものです」
頼まれてもいないのにこう言うのである。
「この詩こそが」
「ええ」
その詩がはじまろうとするところで嫌そうな顔になるコンセプシオンだった。その苛立ちがさらに高まっているようである。その苛立ちの中で呟きもした。
(全く。もうすぐ来るかも知れないのに)
「ああ、麗しのコンセプシオン」
その中でゴンサルベの詩がはじまった。
「貴女のそのお姿を見ていると」
「コンセプシオンさん」
だがここでラミーロが店の中から出て来た。そうしてそのうえで彼女に声をかけてきた。
「時計かけておきましたよ」
「あら、有り難う」
コンセプシオンはそれを受けてゴンザルベから顔を放して応えた。
「おかげで助かったわ」
「ええ。それじゃあ後はゆっくりと」
「いえ、ちょっと待って」
休もうとするラミーロにさらに言うのだった。
「まだやって欲しいことがあるのだけれど」
「あれっ、まだあるんですか」
「そうなの。別の時計をここに持って来て」
「別の時計をですか」
「大きければ何でもいいわ」
条件はこれだけであった。
「人が入るだけの大きさがあればね」
「人が入るだけですか」
「そうよ。私も行くわ」
自分もというのだった。
「それでどの時計がいいのかね」
「選びますか」
「そうしましょう」
こうして二人はゴンザルベをよそに一旦店の中に入った。そうして二人でかなり大きな壁掛け時計を持って来てそのうえでゴンサルベに対して言うコンセプシオンだった。
「ゴンサルベさん」
「あっ、はい」
今まで一人恍惚として詩をろうじていたゴンサルベはコンセプシオンに応えた。
「何でしょうか」
「悪いけれどこの時計の中に入っていてくれないかしら」
「時計の中にですか」
「ええ。後で二人で会いたいから」
くすりとした笑みを浮かべて彼に告げるのであった。
「だから御願いね」
「二人で御会いできる」
それを聞いて下心を覚えるゴンサルベだった。この辺りは実に素直である。
「それでは」
「それまでは時計の中で待って欲しいのよ」
声には誘うものさえ入れてきていた。
「だからね。時計の中に」
「畏まりました」
ゴンサルベはまた畏まって一礼してみせて応えるのであった。
「それではいざその中に」
「はい、どうぞ」
コンセプシオンが開けたその時計の中に入るゴンサルベであった。だがその彼が時計の中に入ると口髭を生やして立派な服を着たやけに太った男が出て来たのであった。
「いやあ、コンセプシオンさん」
「あっ、これは」
「ドン=イニーゴさん」
コンセプシオンとラミーロはその太った男に対して挨拶をした。
「どうしてここに?」
「何かあったんですか?」
「あっ、ラミーロさん」
ここでまたラミーロに対して言うコンセプシオンであった。
「ちょっとお店の中に戻って時計を探してきて」
「時計ですか」
「そう。懐中時計をね」
それを探してきて欲しいというのである。
「それも一番いいのを」
「わかりました。それじゃあ」
ラミーロは素直に応えてまた店の中に入った。今度はコンセプシオンとこのイニーゴが二人になるのであった。
「少し待っていて下さいね」
「ええ」
イニーゴはにこやかにコンセプシオンの言葉に応えた。
「それでは暫く」
「はい」
「ところでです」
ここでイニーゴはその笑みを思わせぶりなものにさせてまたコンセプシオンに言ってきた。
「今日御主人は市役所に行っておられますね」
「はい、そうですけれど」
コンセプシオンはこの時は普通に彼に応えた。
「それが何か」
「御主人は時計の時間合わせに行っておられますが」
イニーゴの思わせぶりな顔と声は続く。
「これは私が市役所に頼んだのです」
「そうだったのですか」
「そうすれば御主人は店を離れる」
彼の笑みがさらに思わせぶりなものになってきた。
「そして奥様御一人となるので」
「それが何か」
「御会いできるので。ゆっくりと二人で」
目が次第に色目になってきた。少しずつコンセプシオンに近付いていく。その中でまたラミーロが戻って来たのであった。
「あの、奥さん」
「ええ。何かしら」
今はイニーゴの言い寄りにあえて無反応を装っていたコンセプシオンはここではラミーロに顔を向けることでその言い寄りをかわしたのだった。
「時計は見つかったのね」
「はい、見つかりました」
立派な懐中時計をコンセプシオンに見せて告げる。
「これはどうでしょうか」
「いいわね」
コンセプシオンはその見事な懐中時計を見て微笑んだ。
「これならいいわ」
「そうですか、それじゃあ」
「ただね」
しかしここでコンセプシオンはまた言うのであった。
「また一つ御願いしたいことがあるのだけれど」
「何ですか?」
ラミーロは素直な調子で彼女のその言葉に応えた。
「あのね、この時計だけれど」
「ええ、これですね」
「そう、この大きな時計」
ゴンサルベが入っているその時計を指し示しての話であった。
「これをお店の中に持って行って欲しいのよ」
「わかりました。それじゃあ」
「御願いするわね」
「すぐにでも」
「あっ、待って」
ところがここでまた言うコンセプシオンであった。
「私も行くわ」
「奥さんもですか」
「その時計はかなり重いから」
だからだというのである。なおこの時計にゴンサルベが入っていることはラミーロにもまだここにいるイニーゴにも全く言ってはいない。
「だからね。一緒に行くわ」
「わかりました。それじゃあ」
「私の部屋に持って行こうかしら」
コンセプシオンはこんなことも言った。
「ひょっとしたら合うかも知れないし」
「ええ、それじゃあ」
こうして二人はゴンサルベが入ったその時計を店の中に二人で持って行くのであった。イニーゴはその場に一人になってしまった。
「あれっ、私だけか」
ここでやっと自分だけが残っていることに気付いた。
「おやおや、どうしようかな」
呑気な調子でこれからのことを考える。考えているとふと店の看板がわりに壁にかけてある大時計がその目に入ったのであった。イニーゴはそれを見て悪戯心を覚えた。
「そうだ、この時計の中に入って奥さんを驚かしてやろう」
こんなことを考えてその時計の中に入り込みにかかった。太っているので入るのに苦労したがそれでもだった。何とか入り込むことができて時計の中に隠れてしまった。
すぐにラミーロが店の外に戻って来た。そうして言うのであった。
「さて、奥さんに言われた店番をしようか」
こう言って立っていたが暫くして何故か髪が乱れ首筋や額から汗を流し息も荒くなったコンセプシオンが出て来た。何処か慌てていて上着の端もなおしたりしている。
「あれ、奥さん」
「あの時計だけれど」
荒くなった息を何とか整えながらラミーロに言うのであった。
「やっぱり私の部屋には合わないわ」
「合わないですか」
「ええ。だからね」
そして言うのであった。
「元の時計にしてきて欲しいの。いいかしら」
「わかりました。それじゃあ」
「御願いするわね」
こうしてまた店の中に入るラミーロだった。コンセプシオンは時計の中に隠れているイニーゴには気付かず一人こう呟くのであった。
「やっぱり学生さんは激しいわ」
どうやらゴンサルベのことらしい。
「全く。あんなに凄いなんて」
何があったのかは知らないが何処か満足した顔である。そしてまた言うのだった。
「あの人だってしょっちゅう女の子と会ってるし」
夫のトルケマダのことである。
「市役所の若い娘とできてるの知らないと思ってるのかしら」
夫の浮気のことを気付いているのであった。
「お互い様よ。これはね」
こう言って自分を免罪する。そうして無意識のうちに時計の傍まで来るとだった。
「奥さん」
不意にイニーゴの声が聞こえてきたのであった。
「奥さん、宜しいですか」
「イニーゴさんですか?」
「はい」
イニーゴはにこやかな声で彼女に答える。
「私ですよ」
「お姿が見えませんが」
「姿を消しているのです」
今度は悪戯っぽく言ってみせた。
「それでですね」
「ええ」
「若者というのはあれですよ」
こんなことを言い出してきたのであった。
「まだまだ経験不足。ですから」
「ですから?」
「相手は中年の男が一番です」
要するに自分のことである。
「相手は。如何でしょう」
「どうかしら」
しかしまだゴンサルベのことを覚えているコンセプシオンはあまり乗り気ではないのであった。
「それは」
「まあ御考えになって下さい」
イニーゴは焦ってはいなかった。
「よくね」
「ええ。そうさせてもらうわ」
「また御伺いしますので」
やはり焦らないイニーゴであった。
「そういうことで」
「ええ。そういうことで」
二人の話が終わるとまたラミーロが戻って来た。何時の間にか店の前にゴンサルベもふらふらと出て来ている。ラミーロは彼の姿を認めて言うのであった。
「どうしてゴンサルベ君がここに?」
「いえ、ちょっと」
満足しきった顔でラミーロに答えてみせた。
「いいことがありまして」
「いいこと。何だい?」
「何でもありませんよ」
流石にこの問いには答えなかった。
「何でもね」
「そうなのか。まあとにかくだね」
「ええ」
「君は帰った方がいいんじゃないかな」
こうゴンサルベに告げるのであった。
「時計を買わないんだろう?だったらね」
「いや、もう少しここにいたいな」
だがゴンサルベは余韻を楽しむような顔でコンセプシオンを見ながら言うだけであった。
「もう少しね」
「別にいいじゃない」
コンセプシオンもそんなゴンサルベの顔を見てくすりと笑いながらラミーロに言うのであった。
「今日はのどかだし別に」
「奥さんがそう言うんならいいですけれど」
彼女が言うならばラミーロに反論はなかった。
「それじゃあ」
「ええ。そういうことでね」
「仕方ないな」
ラミーロは今度はゴンサルベを見て言った。
「じゃあそういうことでね」
「ええ。御願いね」
また彼に告げるコンセプシオンであった。その後でラミーロは彼女のまだ汗に濡れている顔や紅い唇、そしてその首筋や肩、それに黒く上にした髪を見て思うのであった。
「いいよな」
彼女の色香を見ての言葉であった。
「あの人と時計屋やれる旦那さんが羨ましいよ、全く」
「それでラミーロさん」
「はい」
またラミーロに言ってきたコンセプシオンであった。
「お客さんが来たから」
「あっ、そうなんですか」
言われてはっとするラミーロであった。見れば確かに年老いた男が来ていた。
「時計を一つ御願いね」
「ええ。それじゃあ」
こうしてラミーロはまた店の中に入るのであった。そうして時計を取りに行く。ゴンサルベは恍惚として何か詩を言葉にしだしていた。コンセプシオンはここでイニーゴが時計の中に隠れているのに気付いたのだった。
そうして彼に問うのであった。
「どうしてこんなところに?」
「奥さんを驚かせようと思って」
だからだというのである。
「それで中に入ったんですが」
「出られそうですか?」
「無理です」
入ることには入ったが、であった。
「とても。これは」
「そう。困ったわね」
それを聞いて腕を組んで考える顔になるコンセプシオンであった。
「それじゃあどうしようかしら」
「はあ」
「ラミーロさんなら何とかしてくれるかしら」
ラミーロの名前を自分で出したところでこうも思うのだった。
「そうね。顔もいいしスタイルもいいし頼りになるし」
こう思いだすとすぐにさらに考えを進めさせるのであった。
「何か来ないし。かわりに」
待っている恋人が来ないのでラミーロを、というわけだった。ここでそのラミーロが時計を持って帰って来て老人に時計を渡してお金もちゃんと受け取る。そのしっかりとした様子を見てにこりと笑ってそっと彼に歩み寄るコンセプシオンであった。
「ねえラミーロさん」
声が幾分か甘いものになっている。
「一ついいかしら」
「何でしょうか」
「仕事は一段落ついたし」
「はい」
「またお店の中に来て欲しいの」
こう彼を誘うのであった。
「お店の中にね。いいかしら」
「お店の中にですか」
「そう。二人でね」
目は艶を含んだものになっていた。
「いいかしら。それで」
「まさかと思いますけれど」
「そう、そのまさかよ」
このことをラミーロにも隠しはしないのだった。
「だからね。今から二人でね」
「わかりました。それじゃあ」
こうして二人で手を組み合って店の中に消える二人であった。ゴンサルベはまた詩を言葉に出しているしイニーゴは出られない。暫くすると二人はそれぞれ言った。
「参ったなあ、これは」
「帰ろうかな」
実にそれぞれであった。イニーゴは困っていてゴンサルベは帰ろうとする。ところがここでトルケマダが店に戻って来たのであった。
「あっ、これは」
「トルケマダさん」
二人はそれぞれトルケマダの姿を認めて言った。
「おかえりなさい」
「これはどうも」
「やあ、ゴンサルベ君」
トルケマダはまずはにこりと笑ってゴンサルベに挨拶をした。そしてそれから時計の中にいるイニーゴに気付いて声をかけるのであった。
「どうして貴方はその中に?」
「まあ色々と」
言葉を濁すがここでトルケマダは勘違いして言うのであった。
「ははあ、あれですな」
「あれとは?」
「その時計が欲しいのですな」
こう彼に言うのであった。納得したような顔で。
「その時計が。そうですな」
「え、ええまあ」
その場を取り繕う為に彼の勘違いに乗るイニーゴだった。まさか彼の妻を驚かす為だったとも言い寄っていたとも言える筈がなかった。
「そうなんですよ」
「わかりました。それではです」
トルケマダはいよいよ上機嫌になってまた彼に言うのであった。
「その時計はお売りしましょう」
「この時計をですか」
「左様、お店の看板みたいなものですが御気に召されたならです」
売るというのである。商売人としては中々きっぷのいい彼である。
「どうぞです」
「はあ。まあそう仰るのなら」
まさかと思ったが頷くしかなかった。イニーゴはこうしてこの時計を買うことになった。トルケマダは次に懐から新しい懐中時計を出してゴンサルベに声をかけてきていた。
「この時計だがね」
「あっ、いい時計ですね」
「どうかな。勉強しておくよ」
にこやかに笑って彼に言うのであった。
「だから。どうだい?」
「ええ。それじゃあ」
こうしてトルケマダはゴンサルベにも時計を売りつけた。続いて彼はまたイニーゴが隠れている時計のところに来て言うのであった。
「とりあえず貴方にはそこから出てもらわないといけませんな」
「出られないんですよ」
イニーゴの言葉には泣きが入っていた。
「どうしたものでしょうか」
「そうですな。引っ張り出しますか」
トルケマダはこう考えて言うのであった。
「ここは」
「あっ、それでしたら」
ゴンサルベも時計の傍にやって来てトルケマダに対して言ってきた。
「僕も手伝いますよ」
「あっ、悪いね」
トルケマダは快く彼のその申し出を受けるのであった。
「それじゃあ頼むよ」
「ええ。じゃあ」
「よし、二人で」
「せーーーーの」
イニーゴの身体を掴んで引っ張り出そうとする。だがどうしても出ない。何度も何度も引っ張るがやはり出て来ない。これに二人は困ってしまった。
「参ったな」
「出てくれませんね」
「何処かに引っ掛かってるのかな」
こう考えるトルケマダだった。
「ひょっとして」
「イニーゴさんちょっと太り過ぎなんじゃないですか?」
ゴンサルベは首を傾げさせて時計の中のイニーゴに対して述べた。
「やっぱり」
「ダイエットが必要かな」
「そう思いますよ。出られないじゃないですか」
「ううむ、弱った」
とはいっても何処か呑気な様子のイニーゴであった。
「どうしたものか」
「まあまた引っ張ってみましょう」
トルケマダは言った。
「何度でもね」
「そうしますか」
二人で言い合いそのうえでまた引っ張り出そうとする。だがここで店からコンセプシオンとラミーロが出てきたのであった。
やはりコンセプシオンは顔や首筋に汗をかいており息がまだ荒い。そしてそれでいて満ち足りた顔をしている。ラミーロも同じで二人はにこにこと顔を見合わせていた。
「じゃあまたね」
「はい、また」
二人にしかわからない話をする。だがここでコンセプシオンはイニーゴが隠れているその時計のところに夫の姿を認めたのだった。
「あら、帰ってたの」
「どうしますか?」
「まだ私達には気付いていないし」
彼女にとっては好都合であった。
「だからここは」
「素知らぬふりですか」
「貴方はただここを通り掛かっただけよ」
そういうことにしてしまうコンセプシオンであった。
「それで私は店番をしていて」
「はい」
「そういうことにしましょう」
配役をすぐに決めてしまったのであった。
「そういうことでね」
「わかりました。それじゃあ」
「後は」
さらに考えたうえで言うコンセプシオンであった。
「偶然を装って旦那の手伝いに行って頂戴」
「ええ。わかりました」
ラミーロは彼女の言葉に素直に頷くのであった。
「それじゃあ」
「さて、これでいいわ」
コンセプシオンは息を整え汗を拭きながら言った。
「後はいいようになるわ」
彼女の言った通りであった。ラミーロはすぐにトルケマダとゴンサルベのところにやって来て。本当に何気ない調子でこう言うのであった。
「どうしたんですか?」
「ああ、ラミーロ君」
トルケマダもここで彼に気付いたのであった。
「まだ待っていてくれたのか」
「ええ、そうなんですよ」
こうトルケマダに答えるのであった。
「それでどうしたんですか?」
「いや、イニーゴさんがね」
彼はその時計の中に隠れているイニーゴを指し示して言うのであった。
「時計の中から出られないんだよ」
「そうなんですよ」
ここでゴンサルベもラミーロに話す。
「引っ張っても中々出て来れなくてですね」
「そうなんですか」
それを聞いて考える顔になるラミーロだった。
そうして少し考えたうえで。こう二人に話すのだった。
「それじゃあですね」
「ええ。それじゃあ」
「どうするんですか?」
「二人が駄目なら三人ですよ」
二人に言ったのはこのことだった。
「三人で。引っ張ってみましょう」
「ああ、そうだね」
「それがいいですね」
二人も彼の今の言葉に頷くのであった。
「それじゃあ早速」
「三人で引っ張りますか」
「はい。じゃあ」
早速三人で時計の中のイニーゴを掴む三人だった。そうして。
「いいですか」
「はい」
「何時でもです」
二人がラミーロに対して答える。
「いけますよ」
「どうか掛け声を」
「ええ。じゃあ」
ラミーロは二人と息を合わせる。そして。
「一、二の」
「三っ」
「よしっ」
三人力を合わせればすぐであった。イニーゴはこれまでの二人の苦闘が嘘のようにあっさりと時計から出ることができた。時計から出た彼はまずはほっとした顔になって三人に礼を述べるのであった。
「いや、有り難う」
「いえいえ、御礼には及びませんよ」
「そうですよ」
だが三人はにこやかに笑って彼に述べるのだった。
「困った時はお互い様です」
「その通りです」
「まあこれは御礼です」
だがイニーゴはこう言って三人にそれぞれ懐から出した財布の中の金を手渡すのであった。
「助けてももらったのですから当然です」
「そうですか。それでは」
「有り難く」
「受け取らせて頂きます」
三人共金のことにはしっかりしていた。トルケマダは同時に時計の金まで受け取っていた。三人がその金を受け取ってからコンセプシオンは夫のところに来て言うのであった。
「おかえりなさい」
「ああ、只今」
まずはにこやかに挨拶をする二人であった。
「この時計が売れたよ」
「あら、そうなの」
看板にもなっているというその時計を指差して言う夫に対して応えた。
「売れたの」
「いい値段でね。けれどね」
だがここで寂しい顔になるトルケマダだった。
「折角時間を知らせてくれる時計だったのに。別の時計を出しておかないといけないね」
「その心配はないわ」
だがコンセプシオンはここで夫に告げるのだった。
「その心配はね」
「それはまたどうしてだい?」
「だって」
ここでまたにこやかに笑うのであった。
「これからはラミーロさんがね」
「ラミーロ君が?」
「ええ、そうよ」
ラミーロをにこりとした目で見ながらの言葉であった。
「毎朝私に時間を教えてくれるのよ」
「毎朝かい」
「そう、毎朝よ」
また言うのであった。
「だからお店の前に時計を出さなくても別にいいのよ」
「そうか。じゃあラミーロ君」
「はい」
ラミーロは関係を何とか顔に出さないように努力しながら彼に応えた。
「これからも頼むよ」
「わかりました」
「わかってるわよね」
ここでコンセプシオンがにこりと笑ってそっと彼に囁く。
「それでその時はね」
「ええ、わかってますよ」
ラミーロもひそかに笑って彼女に応える。
「それじゃあこれからは」
「宜しくね」
「さて、僕も」
ゴンサルベもそっとコンセプシオンに近寄って囁くのであった。
「宜しく御願いしますね」
「まあいいわ。貴方もね」
コンセプシオンは彼に対しても微笑んでみせたのだった。
「これからはね」
「ええ。そういうことで」
「さて。何があったのかは察しがつくが」
トルケマダはそんな妻と若い男達を見ても呑気なものであった。それが何故かというと。
「わしも市役所のあの娘と遊んだし夜になれば酒場の女の子もいる。それに八百屋のあの娘もな」
彼も彼で楽しくやっているのだった。
「お互い様だ。それで言うのは止めておくのが流儀だ」
「今回は失敗したが次がある」
イニーゴも彼は彼で言うのだった。
「あの奥さんもまんざらではないしな」
「では皆さん」
最後にトルケマダがここにいる者全員に明るく声をかけた。
「夕食は皆で。如何ですか?」
「ええ。それじゃあ」
コンセプシオンが明るく笑って夫の言葉に応える。
「今から用意をするわ」
「皆で明るく楽しく」
トルケマダはまた言う。
「それがスペインの時の過ごし方ですから」
皆笑顔で彼の言葉に頷く。のどかで明るいスペインの昼下がりであった。
スペインの時 完
2009・8・15
この夫婦は似た者同士というか。
美姫 「それで夫婦間が不味くならないのはある意味凄いかもね」
今まであった話としては珍しいかもな。
美姫 「男たちが翻弄されているよな感じだったわね」
確かに。この話も面白かったです。
美姫 「投稿ありがとうございました」
ありがとうございました。