『道化師』




                もう道化師じゃない


 七時が近付いてきていた。芝居のテントに人が集まってきていた。
 テントはかなり大きなものであった。中には区切りまであり、そこでカニオ達も着替えをしていたのである。
「繁盛してますね」
「ああ」
 カニオはテントの中に入って来る客達を舞台裏の入り口からペッペと一緒に見ていた。トニオが彼等の案内をしている。
「さあさあこっちですよ」
「トニオも頑張ってますね」
 ペッペはそっと同僚を立てた。
「ネッダはどうしている?」
 だがカニオはそれには応じずネッダについて聞いてきた。
「ネッダですか?」
「そうだ。今は何をしていた?」
「俺の手伝いで客席の椅子の用意をしてそれからはお金集めてますよ」
「そうか、金か」
「それが何か?」
「いや、何もない」
 カニオはそう言ってその話を終わらせた。
「座長」
 ペッペはそんな彼を慰めるようにして囁いてきた。
「何もないに決まってますから」
「そうか?」
「ええ、きっと。ネッダだって馬鹿じゃありませんし」
 実は違うことを思っていたのだがあえてこう言ったのだ。
「安心して下さいよ。いいですね」
「わかった」
 カニオはそれを聞いてペッペの言葉を信じようと思った。努力をしてだが。
「じゃあそうさせてもらうか」
「そろそろはじまる時間ですよ」
「最後のチェックをしておくか、舞台の」
「はい」
 二人はそう言って舞台裏に引っ込んだ。そしてそのまま消えた。
 客達は次々に席に着いていく。その中にはあのシルヴィオもいた。
「おい、シルヴィオ」
 村の仲間達が彼に声をかけてきた。
「何だ?」
「昼何処にいたんだ?探したんだぞ」
「ああ、ちょっとな」
 シルヴィオはわざと素っ気無い言葉を返した。ネッダのことを気付かれたくなかったからだ。
「散歩してたんだ」
「散歩か」
「そうさ。いい運動になったよ」
「御前はどうも運動不足には見えないけれどな」
「最近何かと食べ過ぎでな」
 笑って応えている。
「チーズをかい?」
「それとワインと。痩せなくちゃ健康に悪いしな」
「気にし過ぎだろ?そんなこと言ってたらうちの親父なんかどうなるんだよ」
 仲間達の中の一人が言った。
「ビヤ樽みたいになってるんだぜ。それと比べれば御前さんなんて」
「若い頃から気を着けてるのさ」
「やれやれ、心配性だね」
「じゃあ酒も控えるんだな」
「ああ、暫くはそうするさ」
(ネッダと駆け落ちして暫くはな)
 心の中の言葉は誰にも話さなかった。そして彼は客席の隅の席に座った。
 そこに金を集めているネッダがやって来た。何気ない様子を装っている。
「カニオ」
「ああ」
 そっと彼に囁いてきた。
「安心していいわ。あの人はあんたの顔は見ていないから」
「そうか。じゃあ明日の朝だな」
「ええ、夜明け前に」
 二人はこっそりと囁き合う。
「待っているからな」
「朝になればあたしは自由に」
「俺とずっと一緒だ」
「わかったわ」
 二人はそれだけ言い合うと別れた。客席が満員になった時にトニオがその手に持つドラムを大きく叩いた。派手な音がテントとその周りを支配した。
「さあ時間ですよ」
「やっとか」
「待ちくたびれたぞ、おい」
 客達はテントの席で口々に言う。
「パリアッチョの復讐、もうすぐはじまります」
 舞台裏からカニオの声がした。
「色男とイチャイチャする女房、その女房にパリアッチョはどんな復讐をするのか。是非お楽しみ下さい」
 今度はペッペの声がした。そして調子外れたラッパの音と共に舞台が開いた。
 舞台は貧弱な書き割りであった。両側にドアがあり、奥に窓が着いた小さな部屋が現わされている。舞台の中央にはテーブルが一つに葦で作られた粗末な椅子が二つ置かれている。その中で道化師の服に身を包んだネッダが心配な顔でウロウロと歩き回っていた。
「あの人、まだ来ないのかしら」
 彼女は役になりきっていた。今はネッダからコロンビーナになっている。
「いつも遅いんだから。逢引の約束をした時は」
 それが彼女の心配の原因であった。そう呟くと遠くからギターの響きが聴こえてきた。
「コロンビーナ」
 それはペッペの声であった。舞台の裏から聴こえて来る。
「今からそっちに向かうよ」
「やっとね、アルレッキーノ」
 ペッペ、いやコロンビーナはそれを聞いて一気に晴れやかな顔になった。
「今からそっちに行くよ。そしてその可愛い顔と唇に接吻を」
 ペッペもまたアルレッキーノになりきっていた。だがネッダのそれ程ではなかった。ネッダは完全にその役になりきってしまっていた。
「小窓を開けて待っていておくれ」
「小窓を」
 それを聞いて舞台の後ろにあったその窓を開ける。
「そこから俺は顔を見せるから」
「それじゃ」
 小窓を開けに行く。だがここで右側の扉から同じく道化師の服を着たトニオがやって来た。バスケットをその手に持っており、その中に買い物をしたと思われるものがあることから召使に扮していると思われる。
「奥様、これはこれは」
「何の用、タデオ」
 コロンビーナはトニオ、いやトニオが演じるタデオをジロリと見据えた。さも邪魔者であるかの様に。
「買い物から帰って参りました」
「そうなの」
「はい」
「パリアッチョ、いえうちの人は?」
「御主人様ですか?」
「そうよ。何処にいるの?」
 トニオはそれを聞いて夕方のことを頭の中で一人オーバーラップさせた。似ていると思った。
「出掛けられましたが」
 一瞬だがトニオに戻っていた。だがすぐにそれはタデオの中に隠れた。
「そうなの」
「左様です」
 恭しく答える。
「だったらいいわ」
「では奥様」
「待ちなさい」
 歩み寄ろうとするタデオを制止して命令する。
「荷物はそこよ」
「はい」
 荷物は部屋の端に置かせた。
「で、お金は」
「こちらに」
 タデオは荷物を置くと彼女の側にやって来た。そして金を差し出した。
「少ないわね」
「ちょっと飲んでおりました」
 下卑た笑いを浮かべながらこう答える。
「ほんのちょっとばかり」
「図々しいわね、いつも」
「まあ御駄賃ってことで」
「フン、まあいいわ」
「ところで奥様」
「何、その手は」
 タデオはコロンビーナの手を握ってきていたのだ。彼女はその手とタデオの顔を険しい顔と目で見ていた。
「それはその」
「生憎あたしは身持ちが固くてね」
 実際のうえでも全く違うことを言う。
「あんたは御呼びじゃないのよ」
 プイ、と腕を振り解いた。
「とっとも出て行くのね、仕事が終わったら」
「そういうことだね」
 そこにアルレッキーノがやって来た口を挟んできた。
「仕事が終わったら帰る。これが正しいのさ」
「そういうこと、またね」
「そういうことですかい」
「ええ」
 コロンビーナはタデオを馬鹿にした目で見ながら述べた。
「さあ、出て行って」
「へいへい」
 タデオは仕方ないといった動作で家を出た。だが家の外でふと呟いた。
「けれど見張ってはやるけれどな」
 そう言って窓から二人を覗きはじめた。見れば二人はテーブルを囲んで楽しそうに話をはじめていた。
「久し振りね」
「ああ、全くだ」
 二人は自然な芝居を続けていた。ネッダもペッペには何も含むところがないからだ。
「お酒あるかな」
「ええ、ここに」
 ネッダは部屋の隅から瓶を取り出してきた。当然実際は只の空瓶である。
「お酒があると尚いい」
「逢引にはお酒っていうこと?」
「ああ、その通りだ」
 アルレッキーノはその言葉に頷いた。
「他に使い道もあるしな」
「使い道って?」
「これさ」
 ここで懐から小さな瓶を取り出してきた。
「それは何?」
「眠り薬さ」
 アルレッキーノはニヤリと笑って答えた。
「これをパリアッチョに飲ませるんだ。酒に入れてな」
「酒に入れて」
「そう、そして二人で逃げよう」
 そのうえで提案してきた。
「二人で」
「そう、二人でさ」
 アルレッキーノはあくまで喜劇として演じていた。村人達はそれを見て笑っている。だがそうは受け取れない者もいた。他ならぬカニオがそうであった。
「何てことだ」
 カニオはその劇を舞台の出入り口から覗き見て陰惨な顔になっていた。
「同じだ、実際と」
 ネッダの逢引の後の言葉を思い出す。
「一緒だ、何もかも」
 彼が暗澹としているうちにも舞台は進む。タデオが騒ぎはじめた。
「あっ、旦那様」
「えっ」
「もう帰って来たの!?」
 タデオの言葉を聞いてアルレッキーノもコロンビーナも驚いて椅子から立ち上がった。
「これはまずい」
「とりあえずあんたは隠れて」
「あ、ああ」
 アルレッキーノはそれを受けて左の扉から出る。カニオはそれをみてまた呟いた。
「ここでも同じだ」
「早く、早く」
 コロンビーナがアルレッキーノを急かしていた。そろそろ出なければならない。
「行くか」
 カニオはそう呟いてパリアッチョになった。そのうえで舞台に出て来た。
「おい」
 パリアッチョになって部屋の中に入る。
「今ここに誰かいなかったか?」
「誰も」
「そう、今はな」
 カニオ、いやパリアッチョはコロンビーナの言葉に意地悪く返した。
「その証拠に椅子が二つ置かれているな」
「タデオがいたのよ」
「タデオがか」
「そうよ。ほら、ここにいるから」
 左の扉からそのタデオがやって来た。
「あたしと一緒にいたわよね」
「はい」
 ここで彼はタデオからトニオに戻っていた。
「そうです」
「本当か!?」
「はい、奥様は何もしていません」
 あえて奥様と言った。本当はここではコロンビーナと言う筈であった。しかし彼はあえてここで奥様と呼んだのである。言い間違いかと言えばそうではなかった。これは計算されていたことであった。
「あの信心深い唇は決して嘘を仰いません」
 大袈裟に言う。村人達はそれを見て爆笑する。だがパリアッチョ、いやカニオは笑ってはいない。これは芝居の台本通りであった。
「そうか」
「左様です」
 トニオはタデオに戻った。それで答えた。
「わかった」
「わかってもらえた!?」
「だが聞きたいな」
「まだ疑っているの!?」
「本当は違うんだな」
 コロンビーナ、いやネッダを見据えていた。パリアッチョからカニオになろうとしていた。無意識のうちに。
「違わないわよ」
「嘘を言え」
「ちょっとパリアッチョ」
 ネッダはこの時まだコロンビーナであった。演技を続けていた。
「いい加減にしてよ、本当に」
「いや、俺はもう道化師じゃない」
「むっ」
「そんな台詞ないぞ」
 タデオとアルレッキーノはそれを聞いてそれぞれ呟いた。
「俺の顔が青ければな」
 確かに蒼白に化粧はされていた。だから村人にはわからなかった。
「それは恥と復讐への望みからだ。男の当然の怒りだ」
「な、何を言ってるのよ」
 コロンビーナから止むを得なくネッダに戻った。
「パリアッチョ」
「違うと言っている!」
 そう、今ここにいるのは道化師ではなくなっていた。カニオになっていたのだ。
「道端で飢え死にしそうになっていた御前を拾って名前を付けてやって育ててきてやったのに。それでこの仕打ちか!」
「おいおい、凄い演技だなあ」
「カニオさんもやるねえ」
 村人達には事情はわからない。やんやと喝采を送るだけである。
「元々一番演技はよかったけどな」
「今日は特別だな」
「まさか」
 だがシルヴィオだけはその劇を見て落ち着きを失っていた。
「俺とネッダのことか?」
 だが誰も彼には目を向けはしない。劇に目を向けている。
「俺はずっと御前のことだけを思い、考えてきた。しかし御前はそれを裏切ってくれた、見事なまでにな」
「うう・・・・・・」
 ネッダはそれを歯噛みしながら聞いている。カニオは彼女を睨んでいたがネッダは彼を睨むことは出来なかった。
「若い男にしか目がないのか、この売女!」
「おお、凄いぞ!」
「こんな凄い芝居ははじめてだ!」
「間違いない」
 シルヴィオは芝居から目を離せなかった。そして確信した。
「俺のことだ」
「じゃあいいわ」
 ネッダは言い返した。ようやくカニオを睨み返すことが出来た。
「そんなにあたしが気に入らないのならね」
「どうしろと言うつもりだ?」
「さっさと追い出したら!?」
「それは違うだろうが」
 売り言葉に買い言葉になってきた。カニオも睨み返す。
「正直に言え。いとしい恋人のところに駆けつけたいってな」
「フン!」
「さあ、早く言え!」
 カニオはさらに詰め寄る。
「その男の名前は。何ていうんだ!?」
「間違いない」
 もうシルヴィオには疑いようのないことであった。
「俺のことだ」
 青い顔で呟く。だが青い顔をしているのは彼だけであり、皆カニオに注目していた。だからそれに気付かれることはなかったのであった。これは幸運であったと言えるだろうか。
「言わないのか!」
「嫌よ!」
 ネッダは言い返す。
「あたしはあんたが望んでいるような女じゃないけれどね、それでも卑怯なことはしないわ!」
「俺を裏切っておいてか!」
「あたしの愛はね、あんたの怒りよりずっと強いのよ!」
「浮気でもか!」
「浮気じゃないわ、本気なのよ!」
 化粧の下の素顔が露になっていた。化粧は崩れてはいない。だがコロンビーナの姿は何処にもなくネッダの顔しかなかったのであるから。もう彼女はコロンビーナではなくなっていた。
「何かおかしいぞ」
「ああ、御前もそう思うか」
 客達はそんな二人のやりとりを見て囁き合う。
「身が入っているにしろ真剣過ぎるよな」
「そうだな。何か本当みたいな」
「嫌な予感がしてきたな」
「恐ろしいことになるかもな」
「おい、トニオ」
 舞台の隅に控えていたペッペが隣にいるトニオに声をかける。
「どうしよう」
「どうしようつってもな」
 ある程度カニオをけしかけた彼にもどうしていいかわからなかった。
「どうするんだよ」
「俺達が間に入るか?」
「入ってどうにかなるのかよ」
「それは」
 ペッペはその言葉に顔を俯かせた。
「どうにもならないかな」
「あれはもうどうしようもないぞ」
「けれどこのままだと」
「わかってるけどよ」
「どうすればいいんだよ」
 二人はオロオロとするばかりであった。もうどうしていいかわからない。その間にもカニオとネッダはさらに頭に血が登っていく。もう誰にも止められない。
「言え!」
 カニオは詰め寄りながらテーブルの上にたまたま置かれていたナイフを手に取る。
「早く言え!」
「誰が!」
 ネッダも下がらない。下がれないと言った方がいいか。
「本気だぞ、あれ」
「間違いない」
「何てことだ」
 村人達もシルヴィオも顔面蒼白となっていた。シルヴィオは元からであったが。
「このままだと」
「ああ、大変なことになるぞ」
「止めるぞ」
「けれどどうやってだよ」
 カニオとネッダのあまりもの剣幕に皆動くことすら出来なかった。シルヴィオも身体が震えていた。
「言わないのか!」
「何があってもね!」
「そうか!それなら!」
 遂にカニオがその怒りを爆発させた。
「これで・・・・・・全てを終わらせる!」
 ネッダに飛び掛かりその胸にナイフを突き刺す。
 ナイフは深々と突き刺さった。それで全ては終わりであった。
「これで・・・・・・」
 カニオは荒い息のままネッダに対して言う。既にネッダの胸は血に染まり彼自身のその顔と衣装に鮮血を受けていた。道化師の白い仮面が血で朱に染まっていた。目は血走り、鬼気迫る形相に成り果てていた。それは人のものではなくなってしまっていた。
「これでも言わないのか!」
「ネッダ!」
 シルヴィオはようやく動くことができた。ネッダに対して叫ぶ。
「シルヴィオ!」
 ネッダは最後の力を振り絞って彼に顔を向けた。そして叫んだ。
「御免なさい、私もうこれで・・・・・・」
 その顔から瞬く間に生気が抜け落ちていく。そのまま舞台の上に崩れ落ちてしまった。
「ネッダ、ネッダ!」
 シルヴィオはそんなネッダの方に駆けていく。舞台の側まで来た。
「何故だ、何故!」
 舞台の上にまでやって来た。すぐに恋人の側に駆け寄りその側に片膝を着く。彼はネッダだけしか見えず、カニオは見えてはいなかった。
「どうしてこんなことに!俺はただ御前と一緒にいたかっただけなのに・・・・・・」
「貴様か」
 ここでカニオはシルヴィオを見据えた。
「えっ!?」
 その声にハッとした。慌てて上を向く。そこには血に塗れた道化師の顔があった。大きく塗られた唇は笑っていたがその笑みは鬼の笑みとなっていた。
 仮面の下は笑ってはいなかった。左目に描かれた涙の化粧のところにも血が付いていた。
「貴様がネッダを!」
「う、うわあっ!」
 逃げる暇はなかった。ネッダを殺したナイフが彼も襲う。彼もまたその胸を刺し貫かれてしまった。
「おい・・・・・・」
「二人殺しちまったよ」
 客達はそれを見て呆然としてしまっていた。
「どうなってるんだ、これ」
「劇じゃねえぞ、これは」
「御客様」
 ここでカニオは立ち上がった。そして客達に顔と身体を向けて言った。
「喜劇は・・・・・・」
 言葉は大きなものであった。静まり返ったテントの中に彼の声だけが響き渡る。
「喜劇は終わりました!」
 その手からナイフが零れ落ちる。それはカラカラと乾いた音を立てて床の上に転がってく。
 その側には骸になりもう動かないネッダとシルヴィオが転がっていた。二人は虚空を見ているだけであった。
 そしてその側に立つカニオも。彼は全てが終わり、全てを失い。そこに立っていた。


道化師   完


                2006・6・16





劇の内容がその前の喧嘩と同じだったのは不運としか言えないな。
美姫 「その所為で、カニオも怒りを思い返してしまったのかもね」
凄いエンディングだったな。
美姫 「ちょっとびっくりしたわ」
ああ、本当に。
投稿ありがとうございました。
美姫 「ありがとうございました」



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