『道化師』




               第一幕 衣装をつけろ


 八月十五日。この日はキリスト教世界においては重要な日である。聖母マリアが昇天した日であり聖母被昇天祭の日である。この日はとりわけカトリックの国々では華やかに祝われる。それはバチカンのお膝元であるイタリアでも同じことであった。
 十九世紀の終わり、イタリアはまだ統一されたばかりであった。統一の熱気はヴェルディという一人の音楽家に象徴されていた。だがその熱気はイタリア南部の田舎ではそれ程強くはなかった。そこは昔ながらの古い、統一される前のイタリアが存在していたのだ。
 そのイタリア南部のカラブリア地方である。祭りを祝う村人達がそこで朗らかな顔をしていた。
「今日だったよな」
「ああ、今日だよ」
 彼等は何かを待っていた。そして村の向こう側を見ていた。
 やがてそこに調子外れたトランペットの音が聞こえてくる。派手なだけで上手くはない。だがその音は村人達にとって歓迎すべきものであったのだ。
「来たぞ」
「ああ」
 その音を聞いて笑顔で頷き合う。次第に一台の荷馬車が近付いてきた。
「来たぞ、あの人達が」
「道化師の一座が。ここまで来たぞ」
 この時代娯楽はあまりない。ましてや田舎ともなると娯楽といえばたまにやって来る流しの劇団位であった。今この村に来たのはそうした流しの劇団である。祭りの時にいつもやって来る、道化師の一座であった。
「用意しておいてよかったな」
「ああ」
 村人達の何人かがそう話していた。
 見れば村の広場にテントで芝居小屋がもうけられている。そこで劇をしてもらうつもりなのだ。
「またあの芝居が見られるんだな」
「カニオの旦那も。律儀だよな」
「全くだよ」
 そのカニオという男の名前を聞いて皆頷く。
「いつもこの祭りの時には来てくれて」
「わし等を楽しませてくれる」
「真面目で冗談一つ言わないのに」
「劇じゃ派手に笑わせてくれる。大した御仁だよ」
「じゃあその御仁を出迎える準備をするか」
「ああ」
 彼等は口々に言った。
「酒を用意して」
「出迎えよう」
 村人達も笑顔であった。だがその中で一人笑顔でない者がいた。
「ネッダが来たか」
 見れば男らしい荒々しげな顔立ちの若い男であった。その身体つきも声も男を感じさせる。黒い髪はまるでギリシア神話の英雄の様に長く伸ばし、風にたなびかせている。その目も黒く輝いていた。
「今度こそは」
「おいシルヴィオ」
 そんな彼に他の村人達が声をかけてきた」
「何だ?」
「何だじゃないよ」
 村人達はそんな彼に対して言った。
「カニオさん達が来るんだぞ」
「ああ」
「出迎えの準備をしよう。ほら、もうそこまで来てるじゃないか」
「わかった。じゃあ行くよ」
「早くしろよ」
 その馬車を名残惜しそうに見ていた。だが彼は行かなければならなかった。彼がその場から姿を消すと馬車は村の入り口まで来た。
 その馬車は驢馬に曳かれていた。そしてその手綱は小柄な若い女に握られていた。
 見ればジプシーか軽業師が着る様な衣装を着ている。顔は化粧をしていないが瑞々しい肌と大きな栗色の目を持っており、唇は赤く小さい。そして髪は縮れた赤茶色でそれが彼女の美しさを引き立てていた。その美しさは若く、健康的なものであり小柄な身体によく合っていた。
 その彼女が手綱を握る馬車が村に入る。すると子供達が声をあげた。
「いらっしゃい!」
「今日は何をしてくれるの!」
「それははじまってからのお楽しみよ」
 彼女は子供達にそう言った。大人達もやって来た。
「けれど何をするのかは知りたいよな」
「ああ。何をするんだろうな」
「よかったら教えてくれないか」
「だからそれは」
 彼女は答えに窮していた。だがここで馬車の中から太鼓を叩く音が大きく鳴り響いてきた。
「うわっ!」
 皆突然聞こえてきたその音に思わず黙ってしまった。見れば馬車の後ろに大きな、人間の身体の半分程もある大きな太鼓と撥を持つ初老にさしかかろうという男がいた。
 黒い髪に黒い目、そして突き出た腹を持っている。顔は愛嬌のある人なつっこい顔だがその目の光は鋭かった。彼は太鼓を叩いた後でニヤリと笑っていた。
「カニオさん」
「どうも」
 彼は村人達の声に応えた。
「御久し振りです、皆様」
 それから一礼してこう述べる。
「またこちらに御邪魔させて頂きました」
「御邪魔じゃないよ」
「そうさ、楽しみに待ってたんだから」
「それは有り難い御言葉」
 まずは彼等に礼を述べる。
「それで今日は何をしてくれるんだい?」
「はじまるのは何時だい?」
「早く教えてくれよ」
「まあお待ち下さい」
 カニオはそう言ってまずは村人達に静かになってもらった。それから馬車から降りて答えはじめた。
「まずはじまる時間ですが」
「ああ」
「何時だい?」
 それが問題だった。
「午後七時です」
「夜か」
「丁度いい時間だ」
「そして演目は」
「演目は」
 それが村人達の最大の関心事であった。視線をカニオに集中させた。
「道化師の復讐です」
「道化師の復讐!?」
「左様です」
 彼は恭しく答えた。なお道化師はイタリア語ではパリアッチョと呼ぶ。
「女房に声をかける間男、それを見た道化師は二人にどんな復讐を仕掛けるか、どんなこんがらがった陰謀があるのか、是非お楽しみ下さい」
「面白そうだね、何か」
「面白くないものなんて上演しません」
 カニオは胸を張ってそう返した。
「ですから是非おいでになって下さい」
「わかったよ」
「それじゃあ七時だね」
「はい」
 彼は答えた。まずは宣伝は成功であった。
「それでは早速用意に取り掛かりますので」
「その前に一杯どうだい?」
「いえ、それは」
 彼の後ろでは一座の者達が降りて道具を下ろしていた。そして早速準備に取り掛かっていた。
「準備がありますので」
「そうですか」
「御好意申し訳ありませんが」
「いやいや、真面目だね、あんたは」
「全くだ。その真面目さがいいよ」
「真面目なのが取り得でね」
 カニオは笑って返す。
「道化師ではありますが」
「それは仮面だと?」
「いえ、その時はなりきります」
「おお」
「だからあんなに演技が立派なんだな」
「そういうことです」
 彼の演技には定評があった。コミカルなものからシリアスなものまで。一通り何でも出来る、立派な役者であった。古い時代にはこうした役者が時としてこうした田舎でドサ周りをしていたのである。
 その後ろでは手綱を持っていた女が降りようとする。そこへ一座の者が一人向かおうとする。鋭い目をした男であった。
「ん!?」
 カニオは彼に気付いた。そして怒鳴る。
「こら、トニオ!」
「へ、へい」
「余計なことはするな!」
 それまでの様子が一変して粗野なものとなる。そのトニオを怒鳴って下がらせる。
「さっさと用事をしろ、いいな」
「わかりやした」
 小さくなって答える。だが顔は不平に満ちたものであった。
「全く」
「どうしたんです、急に」
「何でもありませんよ」
 彼はそう言いながら女の方へ行く。
「ほら、ネッダ」
 そして彼女の名を呼んで手を貸す。
「降りな」
「はいよ」
 女は名前を呼ばれてそれに応じる。そしてカニオの手を借りて馬車から降りた。
「相変わらず奇麗な奥さんだね」
「こりゃどうも」
 カニオはそれに応えてにこりと笑う。そして村人達の方に戻ってきた。
「結婚してもう何年かな」
「あいつが子供の頃に拾ったのが十年以上前で結婚して五年ですか」
「もうそんなになるのか」
「ええ。結構経ちましたね」
「それでも相変わらずお熱みたいですな」
「まあそれは」
 そう言われて照れ臭そうに笑う。
「小さい頃からずっと可愛がってきましたしね」
「愛情を込めてね」
「本当にね。今でも結婚出来たのが夢みたいですよ」
 語る彼の顔は温かいものであった。本当にネッダを愛していることがわかる。
「ずっと流しの一座にいて」
「うん」
「このまま終わるのかなって思っていたらこの歳で女房を持ててね。有り難いことです」
「あんたも苦労してきているからね」
「ええ」
 カニオは昔を思い目を細めたり、悲しい顔になったりした。
「ずっとね。苦労してきましたよ」
「それでもここまでこれたんだ」
「真面目にやってきたおかげで。神様に感謝しなくちゃね」
「座長」 
 先程のトニオとは別の一座の者が彼に声をかけてきた。若くてひょろ長い黄色の髪の男である。
「何だ、ペッペ」
「もう荷物はあらかた降ろしましたよ」
「そうかい、御苦労さん」
 彼に優しい言葉を送る。
「じゃあいい頃合だね」
「どうだい、あっちで一杯」
「悪くないですね」
 村人達の誘いに目を細める。
「ペッペ、どうだい?」
「じゃあ御一緒に」
 ペッペはカニオの言葉に頷いた。その横ではトニオがムスッとして道具をいじっている。
「トニオ、御前も来るか」
「俺はいいです」
 だが彼はカニオの誘いを断った。
「驢馬の手入れでもします」
「そうか」
「座長さん、気をつけなよ」
 ここで村人の一人がカニオに悪戯っぽく笑って囁いてきた。
「あいつ、あんたのかみさん狙ってるよ」
「へえ」
 彼はそれを聞いてにっと笑ったが目は真剣であった。よく見れば笑っているのは作りであり不快さを感じているのがわかった。
「そうした冗談はね」
「好きではないのかい?」
「芝居と現実の生活は違いますよ。そりゃ舞台の上で女房が色男と同じ部屋にいてもおどけた御説教で済ませます。しかし」
「本当だったら?」
 あえて問うてみせる。
「そんなあっさりとはいかないでしょうね。そりゃ当然です」
「そうなのか」
「そういうことです。何せ私は女房がいない生活なんてもう考えられませんから」
「惚れてるんだね」
「ぞっこんでさ」
 笑って答える。
「いいねえ、そこまで惚れているなんて」
「俺も見習わないとな。それにしても奥さん」
「はい」
 ネッダもペッペ達を手伝っていたが今はカニオの側に来ていた。
「幸せですね。こんなに惚れてもらえて」
「ええ、まあ」
 応えはしたがその返事には心がない。しかしカニオはそれには気付かなかった。
 そこにバグパイプの音が聞こえてきた。パイピ吹きも祭りなのでやって来たのだ。
「今度はパイプ吹きだ!」
「あっち行こう!」
 子供達は今度はそっちへ飛んで行く。その好奇心のままに動いている。
「じゃあ私達は教会へ」
「そうね」
 女達は教会へ。今日は聖母マリアを祝う日なのだから。
「七時ですよ」
 カニオは忘れずに彼等に声をかける。
「いいですね」
「はい」
「では七時に」
「来て下さいね。面白いですから」
「じゃあその用意の時間まで」
「御馳走しますよ」
「こりゃまたどうも。じゃあペッペ」
「はい」
 ペッペは座長の誘いににこりと応える。
「ネッダ、御前はどうするんだい?」
「今は飲む気分じゃないから」
「そうか」
 カニオは妻のその言葉を聞いて少し残念そうな顔になった。
「じゃあ行ってくるからな」
「ええ。時間になったら戻るのよね」
「勿論さ。で、何処にいるんだい?」
「芝居小屋よ」
 彼女は素っ気なく答えた。
「そこにいるから」
「そうか、芝居小屋か」
 この言葉は二人同時にそれぞれ離れた場所で言った。
 一人はカニオ、そしてもう一人はトニオ。二人はそれぞれネッダを見ながら呟いたのであった。
「そこで化粧とかしておくから」
「わかった。それじゃあ芝居の時にな」
「ええ」
「またな」
 カニオはにこやかに笑ってネッダに別れの言葉を贈った。その物腰には心からの信頼があった。だがネッダはそうではなかった。その顔と物腰には何故か憂いがあったのであった。
 ネッダは芝居小屋の側で一人になった。そして岩の上に座り込んで考えに耽っていた。
「またあの目で私を見ていた」
 カニオの目を思い出して身震いしていた。
「いつもいつも。私を見ている」
 そこに恐怖を感じていたのだ。実は彼女は今の生活が気に入らなくなっていたのだ。
「真夏の日差しの中でも私はあの人の側。このままずっとあの人の側なのかしら」
 ふう、と溜息をつく。
「ずっと。小鳥達みたいに空を飛べたら。青い空と黄金色の雲の間を越えて。飛んでいけたら。どんなにいいのか」
 鳥になりたい、心からそう思っていた。
「ずっと遠くへ飛んでいけたら。すぐにでも飛んでいけたら。鳥になれたら」
 心からそう願う。そこへトニオがやって来た。
「何の用?」
 トニオをジロリと見据えて言う。
「ちょっとね」
 卑しい笑みを浮かべながら彼女に近付いていく。
「用があってね」
「あたしにはないわよ」
 冷たくそう言い返す。
「うちの人のところに行ったら?今頃楽しく一杯やってる頃よ」
「今は酒はいいのさ」
「じゃあ休んでたら?」
「まあ話を聞いてくれよ」
 トニオはその鋭い目を隠し、下卑た声で言った。
「俺だってな、人間なんだ」
 まずはこう切り出す。
「夢もあるし願望もある。心臓だって鳴るんだ」
「それはあたしもよ」
「まあ聞いてくれ。わかるだろ」
 次第にネッダに近付いていく。
「俺が何を考えているのさ」
「別に」
「わからないのか、俺の気持ちが」
「あたしには関係ないからね」
「そう言わないで聞いてくれよ」
 やはり下卑た声で言う。
「俺はな、ネッダ」
「何を言うつもりなの?」
「わかるだろ。俺だって誰かを好きになることはないんだ」
「面白いわね」
 侮蔑した笑みでそれに返す。
「舞台の練習を今ここでするなんて」
「そんなことを言うのか」
「何度でも言ってあげるわ」
 目もまた侮蔑したものになっていた。
「それは舞台で言うのね」
「ネッダ」
「下がった方がいいわよ」
 その声と目が険しくなった。
「あたしがどんな女か。わかってるでしょう」
 その側にあった鞭を手に取った。
「どっかに行くのならよし、さもないと」
「そういうわけには」
「じゃあこの鞭で接吻してあげるわ」
 トニオを睨み据えていた。
「さもないと」
「やろうっていうのか」
「あたしはね。誰かの腕ずくにっていうのは嫌いなのよ」
「何だと」
「誰の手でもね。無理やりものにはされないわよ」
「くっ」
「わかったわね」
 もう一度彼を見据えて言う。
「もう言わないわよ」
「チッ」
 ここまで受けて彼は引き下がった。
「わかったよ」
「じゃあね。舞台で」
「ああ」
「舞台は舞台だから。現実と一緒にしないことね」
「じゃあな」
 彼は渋々ながら立ち去った。そして後にはまたネッダ一人となった。
「あたしをものにできると思ったら大間違いよ」
 彼女は鋭い声で呟いた。
「あんたみたいな奴に。どうにでもなる筈がないじゃない」 
 そう言い終えると懐から煙草を取り出した。それに火を点けて一服しているとネッダ達が村に来た時に彼女を見てその名を呟いたあの男がやって来た。
「ネッダ、そこにいたのか」
「シルヴィオ」
 ネッダは彼女を見て思わず声をあげた。
「どうしたのよ、こんなところにまで」
「探していたんだよ」
 彼は言った。
「酒場とか。そしてやっと見つけたんだ」
「けど今は」
「明るいっていうのかい?」
「そうよ、人の目があるわ」
 実は二人はカニオにも他の誰にも隠れて付き合っていたのだ。所謂不倫というものである。初老にさしかかり、陰気で異様に嫉妬深いカニオよりも若々しくて闊達な雰囲気の彼に心惹かれていたのだ。若い女の性と言うべきか。
「大丈夫だよ」
 だが彼はネッダのその心配を打ち消した。
「何でそんなことが言えるの?」
「カニオもペッペも飲みに行っているのを知ってるからさ」
「馬鹿、さっきまでトニオがここにいたのよ」
「あいつが?」
「ええ。あたしに言い寄ってきたわ」
 嫌悪感を露にして言う。
「けれど鞭で追っ払ってやったわ」
「身の程知らずな奴だ」
「そう思うでしょ。それを教えてやったわ」
「いいことだ」
 シルヴィオはそれに頷いた。
「それでね」
「何?」
 ネッダの側に来て抱き寄せようとする。ネッダはそれに応えて煙草を消して立ち上がり彼の腕の中に抱かれる。抱かれながら尋ねた。
「何時まで。あんな一座にいるんだい?」
「何時までって」
「またすぐにここを出て行くんだろ?」
「仕方ないじゃない」
 ネッダは悲しい顔をしてそれに返した。
「あたしは旅芸人なのよ。渡り鳥みたいにあちこち出歩いて」
「そうなのか」
「そうよ。だから仕方ないのよ」
「じゃあ俺はまた御前が来るまで待たなくちゃいけないのかい?」
「御免なさい」
「御免なさいじゃないよ」
 シルヴィオはこう言った。
「俺はもう我慢できないんだ」
「こうしえ会えるのに?」
「何時でも会いたいんだよ」
 彼は剥き出しの若々しさを向けてきた。それがネッダにはたまらないのだ。
「何時でも」
「だからそれは」
「ネッダ」
 彼はここでネッダの名を呼んできた。
「俺は本気なんだ」
「本気って」
「一緒に行かないか?今夜」
「今夜って一体何を考えてるの!?」
「決まってるだろう、駆け落ちさ」
 その言葉に迷いはなかった。
「駆け落ち!?」
 だがネッダはその言葉にギョッとした。
「シルヴィオ」
 そして恋人を見る。
「それは」
「嫌なのか!?」
「いえ、違うわ」 
 ただその勇気がないだけだった。
「そんなことしたら」
「それしかないんだ」
 ネッダのことしか頭にない彼にはそれしか思いつかなかったのだ。
「俺達が一緒になるには」
 必死の顔で言う。
「けど」
「あの時言ったじゃないか」
 拒むネッダに対して語り掛ける。
「二人ではじめて会ったあの時に」
「ええ、それは」
「じゃあいいだろ!?」
 ネッダを誘う。
「俺と一緒に」
「けどそれは」
「ネッダ」
 彼女の名を呼ぶ。そしてその目を見据える。
「御前は。俺と一緒になりたくはないのか?」
「いえ」
 勿論一緒になりたい。そしてカニオの元から離れたかった。
「けれど」
「けれどもそれもない」
「何か騒がしいな」
 トニオはネッダのいる方から声がしているのに気付いた。今までふてくされて寝ていたのだ。
「何だ!?」
「明日の朝だ」
「明日の朝だって!?」
 彼はシルヴィオの声に気付いた。
「何をなんだ?明日の朝とは」
「一緒に行こう」
「一緒に」
 気になってネッダの方を覗き込む。それを見て目を顰めさせる。その直後に邪悪な、悪魔の如き笑みを浮かべた。
「成程、こういうことか」
 彼はネッダとシルヴィオを見てさっきの借りを返す時が来たのを悟った。それだからこその笑みだった。
「よし」
 そして場を離れる。そのまま何処かへと消えた。
「それで・・・・・・いいな」
「・・・・・・ええ」
 戸惑いはまだ残っていた。だが今決めた。
「わかったわ。明日の朝に」
「ああ」
「一緒に。行きましょう」
「ネッダ」
「カニオ」
 互いの名を呼んで再び強く抱き合う。
「明日の朝になれば俺達は一緒になれるんだ」
「そして二人でずっと一緒に」
「暮らそう」
「幸せに」
「こっちです」
 トニオが戻って来た。その後ろにはカニオがいる。
「何なんだ、見せたいものがあるって」
 彼は楽しく酒を飲んでいたのを邪魔させて少し不機嫌だった。
「御前の不始末じゃないな」
「それだったら呼びませんよ」
 そんなことでわざわざ座長を呼んだりはしない。それにトニオの顔はあの邪悪な笑みのままであった。陰が彼の顔に差していた。
「親方、よく目を凝らしていて下さいよ」
「誰か逢引でもしているのか?」
 面白くなさそうにそう問い掛ける。
「生憎俺はそうしたことには興味はないぞ」
「まあ逢引です」
「やっぱりそれか」
 それを聞いてさらに不機嫌になった。
「全く。御前も好きだな」
「ただし、只の逢引じゃありません」
「じゃあ何なのだ?」
「それは見てのお楽しみということで」
 カニオはトニオに案内されてネッダの方に行く。一方ネッダはその頃トニオと二人で服の乱れをなおしていた。
「夜明けな」
「ええ」
 二人は服の乱れを整えながら話をしていた。
「そこの下で待ってるからな」
「わかったわ。じゃあそこでな」
「それで二人で」
「一緒に行こう」
「そうよ・・・・・・!?」
 だがネッダは突如として顔色を変えた。
「行って、シルヴィオ」
 そして恋人に対して言う。
「いきなりどうしたんだ!?」
「あの人が来たわ。早く消えて」
「あの人ってまさか」
「話してる暇はないわ。だから」
「ああ、わかった」
 シルヴィオはそのまま後ろへ駆けて行った。それを確認したカニオも遠くから駆けて来る。
「待て!」
 だが距離があった。シルヴィオは後ろの垣根を飛び越えて消えた。そしてそのまま何処かへと消えて行ったのであった。
「糞っ、逃がしたか」
 カニオはそれを見て肩で息をしながら舌打ちした。
「ねっ、あっしの言った通りでしょ」
「ああ」
 彼は一緒にいるトニオの言葉に頷きながらネッダのところに来た。ネッダはまるで鬼の様な目でトニオを睨んでいた。
「やあ」
「やってくれるわね」
 わざとらしい挨拶をしたトニオにそう言葉をかける。
「やれることをやるのさ」
「フン」
「だがもっと上手くやれるぜ」
「やってみたら。舞台の上で」
「じゃあそうさせてもらうよ」
 二人は取り込まれんばかりの悪意を胸にそうやり取りをしていた。トニオも顔は笑っていたが目は笑ってはいなかった。
「ネッダ」
 カニオはネッダに顔を向けてきた。怒りで真っ赤である。
「何かしら」
 だが彼女はふてぶてしく、しれっとした態度であった。
「誰といた」
「誰ともいないわ」
「嘘をつけ、じゃあさっきの男は何だ」
「知らないわ」
 シルヴィオの顔が知られていないことをいいことにシラを切る。
「何にも」
「そんなことを信じると思っているのか」
「信じる信じないは別よ」
 ネッダはふてくされて返す。
「けれど。証拠はないでしょ」
「何ィ!?」
 その挑発的な言葉に怒りが頂点に達した。
「言わないつもりか!」
「だから知らないって言ってるでしょ!」
 ネッダも負けてはいない。カニオを睨み返して言う。
「何度言えばわかるのよ」
「そんな戯言誰が信用するか」
「じゃあ信用しないならそれでいいじゃない」
 開き直りとも取れる言葉だった。どのみち腹は決まっているのだ。
「そうか、そういうことか」
 カニオはそこまで聞いて怒りに震えながら言った。
「それならこっちにもな!」
「何をするってのさ!」
「これで全てを終わらせてやる!」
 カニオは腰からナイフを取り出してきた。
「それであたしに言うことを聞かせるつもりなの!?」
 ネッダはカニオを睨み続けていた。それでも臆するところはなかったのであった。
「無駄なことよ、そんなのじゃ」
「言わないというのか」
「ええ、そんなおもちゃで!?フン、馬鹿にしないで欲しいわね」
「おもちゃかどうかはすぐにわかるさ」
「なら見せて欲しいわね」
「このっ!」
 その言葉に激昂した。ナイフを振りかざす。
「待って下さい、座長!」
 そこにペッペが来た。慌てて二人の間に入る。
「何やってるんですか、一体!」
「そこをどけ、ペッペ!」
 それでもカニオは行こうとする。
「俺はこいつに用があるんだ!」
「とにかく落ち着いて下さい」
 彼は激昂するカニオを必死に宥めていた。
「落ち着いて下さい、ねっ」
「しかし」
「とにかく」
 カニオの手を取る。そしてナイフを外す。
「気を鎮めて下さい。いいですね」
「・・・・・・わかった」
 カニオもようやくそれに頷いた。一応は落ち着きを取り戻す。
「ネッダも」
 ペッペは今度はネッダに顔を向けた。
「そんなに挑発的にならないで」
「あたしは別にそんなふうにはしていないわよ」
「まだ言うのか」
「座長」
 今度はトニオも間に入った。
「まあ落ち着いて」
「・・・・・・わかったよ」
 トニオにも言われてまた落ち着いた。
「そうです。落ち着いてね」
「それだけでいいんだな」
「そうですよ。誰だって頭に来る時はありますけれど」
「・・・・・・・・・」
 カニオはペッペの言葉を黙って聞いていた。落ち着きはかなり戻ってきていた。
「ネッダ、さあ行くんだ」
「何処に!?」
「何処にってもうすぐ芝居じゃないか」
 ペッペは彼女にこう言った。
「着替えに行くんだ。いいね」
「それでいいのね」
「ああ。さあ早く」
「わかったわ」
 ネッダはそれに従ってその場をそそくさと離れた。こうしてとりあえずの難は逃れた。
「さてと」
 ペッペはあらためてカニオに顔を向けた。そして言った。
「座長も」
「俺か?」
「はい。そろそろ着替えましょう。時間ですし」
「もうそんな時間か」
「ええ」
 夏なのでまだ日は高い。しかし教会を見下ろせばそこから人がぞろぞろと出て来ていた。
「ですから。ね」
「わかったよ」
 憮然としながらもそれに返す。
「じゃあ用意をはじめるか」
「そうそう」
 ペッペは内心ほっとしていた。とりあえずの危機は去ったからだ。
 だがここで彼は勘違いをしていた。それはとりあえずの危機であり危機は完全に去ったのではなかったのだ。またカニオは完全に落ち着いたと思っていた。だが彼の心はくすぶっていた。彼は二つのことに勘違いをしていた。これが大きな惨事にとなることにも気付いていなかった。
「じゃあ俺達もそろそろ」
「着替えるのか?」
「だから時間だって」
 トニオにも言った。
「だからな、行くぞ」
「わかったよ。おっと」
 トニオはここで忘れ物に気付いたふりをした。そっとカニオと擦れ違う。
「これを持って行かないとな」
「何だい、それ」
「俺のおまじないさ」
 それは一本の折れた釘だった。
「いつも芝居の時はポケットの中に入れてるんだ」
「釘をかい?」
「気付かなかったのか?今まで」
「今はじめて知ったよ。御前がそんなもの持ってたなんて」
「気付かなかったのか」
 だがこれは当然であった。何故なら今適当に思いついたことだったからだ。
 釘を拾う。拾いざまに側にいるカニオに囁いた。これが本来の目的である。
「明日の朝逃げるつもりらしいですよ」
「!?」
 カニオはその言葉を聞いて目を凍らせた。
「多分相手の男は芝居に来ますから。その時注意していればいいです」
 トニオはまた囁いた。
「上手くやるには今は知らんふりをすることですぜ」
 最後にこう囁いた。それで彼は離れた。
「もう拾ったか?」
「ああ、今な」
 芝居は続けていた。
「じゃあ座長」
 ペッペはトニオが側に来るとまたカニオに声をかけた。
「俺達は向こうで着替えますんで。それじゃ」
「ああ」
 カニオは呆然とした声で返した。そしてペッペ達が去ると彼もまた着替えの為にテントの中に一室に入った。
 そこには衣装箱と木のテーブル、そして椅子が置かれていた。木の古いテーブルの上には小さな鏡があった。化粧用であるのは言うまでもない。
 その鏡を覗き込みながら着替える。一言も漏らさずに表情も硬い。道化師の服を着たが笑ってはいなかった。
 着替え終えると今度はテーブルに着いた。そして鏡を見ながら化粧をはじめた。
 徐々にカニオから道化師になっていく。しかし彼は不意に道化師になった自分を見て声を漏らした。
「こんな時でも芝居か」
 苦渋に満ちた声で呟く。
「こんな時でも。俺は芝居をしなくちゃならないのか」
 次第に感情が昂ぶってきた。
「糞ッ!」
 そしてテーブルを叩いた。
「何を言っていいのか、何をしていいのか、全くわかっていないというのに。俺は芝居をしなくちゃならんのか!」
 激昂して叫ぶ。
「これでも俺は人間なのか!?いや、違う!」
 鏡に映る自分自身に対して言う。
「御前は、俺は道化師なんだ!衣装を着けて化粧をして人を笑わせる。俺は、御前は道化師なんだ!」
 何時しか泣き叫んでいた。
「アルレッキーノがコロンビーナを奪っても」
 舞台での役の名前である。彼は道化師の役なのは言うまでもない。
「俺は、御前は笑うんだ。それで御客様は大喜びさ!それでいいんだ!」
 だが。彼はカニオなのだ。道化師はそれでよくてもカニオはどうなるのか。
「苦悩を涙と滑稽に変えて、すすり泣きも悲しみもしかめっ面に変えて。笑うんだよ、道化師は!」
 カニオであるのか道化師であるのか。それすらもわからなくなっていた。
「笑えよ道化師!御前の愛の終焉に!笑うんだよ、俺の心を苦しめる悩みと絶望に!笑えばいいだろ、道化師よ!」
 鏡に映る道化師は泣いていた。テーブルを叩いて泣いていた。
「糞っ!」
 また叫んだ。鏡を拳で叩き割った。
 そこに映るカニオ、いや道化師は泣いていた。壊れた鏡に散り散りになった彼が映っていた。
 その全ての鏡で泣いていた。人を笑わせる筈の道化師が泣いていた。何をしていいのか、何を笑えばいいのかわからずに。





駆け落ちは上手くいくのか、それとも夫がそれを阻止するのか。
美姫 「ちょっとドキドキするわね」
ああ。どんな展開が待っているんだろう。
続きが気になる。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。



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