『ドリトル先生とサーカスの象』




                第十幕  子供達が観て

 サーカスを大勢の人達が観に来ています、もう連日連夜満員でサーカス団の人達は大忙しとなっています。
 その状況にです、団長さんは先生にお昼の大学の食堂で一緒にお昼ご飯を食べながら笑顔で言いました。
「いや、忙し過ぎてです」
「嬉しい悩みですね」
「はい、やはり忙しいということは」
「繁盛していますね」
「そういうことですから」
 だからだというのです。
「本当にです」
「嬉しいですね」
「大変ですが」
 それでもというのです。
「有り難いです」
「それは何よりですね」
「やはり利益がありませんと」
「どうにもならないですね」
「若し利益を無視して何かを行えば」
「赤字になって仕方ないです」
「その時はよくとも」
 やっていけてもというのです。
「やがて何もかもがです」
「やっていけなくなります」
「共産主義はそうなりましたしね」
「はい、共産主義は色々と問題がありました」
 先生は海老フライカレーを食べつつまさにと答えました、団長さんが食べているのはハンバーグカレーです。
「一見ユートピアの様で」
「誰もが幸せになれますね」
「そうした社会ですが」
「利益を考えないので」
「収益を。他にも様々な問題がありますが」
「収益を考えませんと」   
 団長さんはそうであるならと言いました。
「赤字になり」
「その赤字が膨らみまして」
「どうにもならなくなりますね」
「事実ソ連はです」
「そのことも問題でしたね」
「共産主義により経済運営も失敗していましたし」
「財政もですね」
 赤字のことからです、団長さんは言いました。
「破綻しましたね」
「そうなりました、僕は丁度です」
 まさにと言う先生でした。
「イギリスにいた頃にです」
「共産主義が知られる様になっていましたね」
「そうでした、そしてです」
「ソ連ですね」
「あの国家を観ても当時は」
「評価されていましたね」
「ユートピアだと」
 まさにそれそのものだというのです。
「観る人がいました」
「この世にユートピアがあるか」
「それはです」
「有り得ないですね」
「この世は人の世であり」
「人がユートピアを生み出せるか」
「それが出来るのは神だけです」
 まさにというのです。
「人が出来ることではありません」
「そうなのですね」
「はい、そして」 
 それにというのです。
「共産主義は発展は考えますが」
「収益はですね」
「考えないので」
「赤字が膨らみますね」
「そうなります、それではです」
「何時か破綻しますね」
「事実破綻しました」
 共産主義国家の財政はというのです。
「ソ連もそうなりました、そしてサーカス団もです」
「収益がないとです」
「やっていけないですね」
「はい」
 まさにというのです。
「それは」
「そうですね、ですすから」
「今の状況はです」
 先生にハンバーグをスプーンで切ってそれと一緒にご飯を食べつつ言います。見れば海老フライもハンバーグもご飯の横に置いてその上にルーをかけています。
「非常にです」
「いい感じですね」
「全く以て」
「それは何よりですね」
「はい、ですが」
 それでもというのです。
「人手がもうです」
「足りないですか」
「そうです、ですから事務所の方に言って」
「助っ人を頼んでいますね」
「グループの中から」
「こうした時グループの中の企業だといいですね」
 先生は微笑んで応えました。
「その中で人でも融通出来ますし」
「はい、臨時で助っ人が来てくれて」
「そうなりますので」
「非常にです」 
 団長さんも微笑んでお話します。
「有り難いです」
「そうですね」
「それで、です」
 さらに言うのでした。
「人手も今は足りませんが」
「やがて助っ人の人達が来てくれて」
「そちらも何とかなります」
「それはいいことですね」
「全く以て、これで最後までです」
 今回の公演のというのです。
「やれそうです、後はです」
「怪我がないことですね」
「事故も」
「そうしたことがない、無病息災ですね」
「はい、それがです」
「一番ですね」
「収益があってです」 
 そうしてというのです。
「無病息災なら」
「それが一番ですね」
「ですから」
 それでというのです。
「このままです」
「怪我や事故がない様に」
「注意しつつです」
「やっていかれますね」
「そうします、そして今はです」
「カレーをですね」
「いただきます」
「それでは」
 こう話してです。
 二人でカレーを美味しく食べました、そしてカレーを食べ終わると先生は団長さんと別れて動物の皆と楽しくです。 
 博物館に行きました、そちらの昔の生きもののコーナーで象のことを観ますが皆はその進化の歴史を観て言いました。
「最初はお鼻が短くて」
「長くなっていったんだね」
「進化の中で」
「それで分布も広かったんだね」
「北米や中国にもいて」
「日本にもだね」
 こうお話するのでした。
「マンモスもいて」
「色々あったんだね」
「象もね」
「今に至るまで」
「そうなんだ、だから大昔の日本人は象を見ているよ」
 そうだったというのです。
「そして狩りもしていたよ」
「そうだったね」
「ナウマン象をね」
「石器時代はそうだったね」
「日本がまだ大陸とつながっていた頃に日本人のご先祖様が来て」
「ナウマン象を狩ってもいたね」
「そうだよ、けれどナウマン象がいなくなって」
 そうなってというのです。
「ずっとね」
「日本人は象を見ていなかったね」
「象という生きものを知らなかったね」
「そうだったね」
「中国では南方にいてね」
 この国ではというのです。
「見た人もいたよ、ただ妖怪扱いだったね」
「鯨もだよね」
「妖怪扱いだったね」
「中国に普通にいない生きものだったから」
「当時の中国だと」
「当時の中国は黄河流域だけで」
 その国土はというのです。
「長江流域はまだでね」
「商の頃だった?」
「殷とも呼ばれる」
「その国の頃はまだそうで」
「徐々に拡大していったね」
「そして象は今の中国のかなり南にいて」
 そうであってというのだ。
「その辺りが中国の領土になるのはもっと後でね」
「当時は象を見た中国人は少なくて」
「妖怪扱いだったね」
「そうだったね」
「当時は」
「そう、そしてね」
 そうであってというのです。
「ローマは剣闘士が戦っていたね」
「色々な生きものと戦っていたから」
「ライオンや豹と」
「そして鰐ともで」
「何でもホッキョクグマまで連れて来ていたらしいし」
「象ともだね」
「当時のローマにとって欠かせないショーで娯楽だったから」
 剣闘士の戦いはというのです。
「象もだよ」
「連れて来てね」
「剣闘士に戦わせていたね」
「そうだったね」
「戦いでも見たしね」  
 ローマではというのです。
「カルタゴ軍との戦いで」
「そうそう、カルタゴ軍象を使っていたね」
「象に乗って戦っていたよ」
「ローマの人達その象を見てびっくりしたね」
「そうだったね」
「そう、そしてね」
 そうであってというのです。
「アレクサンドロス大王も出会っているよ」
「ローマの前のね」
「マケドニアのあの王様もだったね」
「インドまで行って」
「象と象を使う軍隊と戦っているね」
「そうだったよ、けれど日本ではね」
 この国ではというのです。
「残念ながらね」
「ずっとだね」
「象を見ていなかったね」
「長い間日本に象はいなかったから」
「だからだね」
「そうだよ」
 まさにというのです。
「そうであってね」
「それでだね」
「江戸時代にだったね」
「はじめて象を見たんだよね」
「日本にやって来て」
「その時は大騒ぎだったんだよ」 
 皆に笑顔でお話します。
「江戸じゅうがね」
「どんな生きものかわからなくて」
「それでだよね」
「文章でどんな姿か聞いても」
「想像も出来なかったね」
「そうであってね」
 それでというのです。
「どんな姿か皆で言い合って」
「それでだよね」
「実際に象を見て」
「びっくりしたんだね」
「もう中国では皇帝が飼っていて」 
 そうしていてというのです。
「パレードにも出していたけれど」
「あそこは特別だよね」
「国が大きくてね」
「国力も段違いだったから」
「象だって飼えたね」
「そうだったよ、けれどね」 
 それがというのです。
「日本ではね」
「象はいなくて」
「見た人もいなくて」
「どんな生きものかわからなくて」
「そうなったね」
「そして将軍様に謁見する為に日本に来て」
 その象がというのだ。
「今お話している通りにね」
「大騒ぎになったね」
「そうなったね」
「本当にね」
「上に下への」
「そうなってね」
 それでというのです。
「それから像を知ったよ」
「それでだよね」
 ここでトートーが言いました。
「その将軍様は吉宗さんだよね」
「あっ、そのお話聞いたことがあるよ」 
 ホワイティはトートーのお話に応えました。
「その将軍様が誰か」
「いや、そこで吉宗さん出て来るなんてね」
 それはと言うジップでした。
「面白いね」
「暴れん坊将軍が有名で」
 それでと言うダブダブでした。
「お米にこだわってしかも薩摩芋や白砂糖を広めた人だけれど」
「象にも会ってるんだね」
 チーチーは笑ってお話しました。
「それもはじめて」
「しかもだね」
 老馬が言うことはといいますと。
「帝にもお会いしているね」
「それで官位も貰ったそうだね」
「当時は官位がないと帝に謁見出来なかったのよね」
 チープサイドの家族はそれでとお話します。
「それでよね」
「その象さんは官位も貰えたね」
「いや、そうした歴史があったなんてね」
「つくづく面白いね」
 オシツオサレツは二つの頭でお話します。
「象のことを調べても」
「何かとわかるね」
「これが学問だね」
 ガブガブは目を閉じて笑顔で言いました。
「まさにね」
「そうしたことを知ることがだよ」 
 先生もその通りだと答えます。
「学問だよ」
「そうだよね」
「学問はいいものだね」
「じゃあその学問を学んで」
「そうしてね」
「これからまたね」
「学んでいくよ、象のこと以外のこともね」
 さらにというのです。
「学んでいこう」
「そうしていこうね」
「是非ね」
「そうしていこうね」
「ずっとね」
「そうだよ、博物館を観て回るのも学問だよ」
 今自分達がしていることはとです、先生は言いました。
「まさにね」
「そうだね」
「じゃあ象の歴史を学んで」
「他の歴史のこともね」
「学んでいきましょう」
「そうしようね」 
 こうしたお話もしながらです、先生は皆と一緒に博物館で象の歴史を学びました。そしてその後でなのでした。
 研究室に戻りまた論文を書く為に本を読んで執筆も行いますが。
「イタリア語はわかりやすいね」
「ラテン語が基だからだね」
 研究室に来ている王子が応えました。
「だからだね」
「そう、ラテン語を覚えるとね」
 先生は王子に答えました。
「もうね」
「イタリア語はわかりやすいね」
「そうだよ、そしてね」
 先生はさらにお話しました。
「イタリア語がわかるとね」
「スペイン語やポルトガル語もわかりやすいね」
「フランス語もね」
「そうだよね」
「これはスペイン語を覚えてもそうでね」
 そうであってというのです。
「イタリア語やフランス語をね」
「簡単に覚えられるね」
「そして何億もの人とお話出来るんだ」
「スペイン語は中南米全体で使われているからね」
「だからだよ」 
 それでというのです。
「お互い方言位の違いだから通じるし」
「ラテン語を覚えたら」
「イタリア語はわかりやすくてね」
「他のラテン系の言語もわかりやすくて」
「何億との人ともお話が出来てね」 
 そうなってというのです。
「凄くね」
「便利だね」
「こうしてイタリア語の文献も読めるしね」
「すらすら読んでいるね」
「うん、ただね」
「ただ?」
「日本でこのことを知っている人は少ないね」 
 先生は王子にいささか残念そうにお話しました。
「英語は注目されるけれど」
「物凄く多くの人が使ってるから」
「そうだけれどね」
「イタリア語はね」
「スペイン語は注目されだしているけれど」 
 それでもというのです。
「これがね」
「イタリア語はだね」
「そうじゃないんだよ、それぞれの言語にランクとかはないけれど」
 それでもというのです。
「会話人口はあるしね、学ぶコツもあるしね」
「イタリア語はどちらもいいんだね」
「しかも文字も一つだしね」
「それは大きいよね」
「アルファベットだけでね」
「このこと凄く大きいよ、何しろね」 
 王子は先生にたまりかねた様な口調でお話しました。
「日本語なんてね」
「文字は三種類でね」
「平仮名、片仮名、漢字でね」
「文法も独特で読み方もね」
「複雑だしね」
「音読みとか訓読みとかね」 
 その読み方のお話もします。
「やっぱりね」
「複雑でね」
「こんな難しい言語ないよ」
「その日本語と比べたら」
「イタリア語はわかりやすいね」
「ラテン語が基だしね」
 このこともあってというのです。
「他の言語ともやり取りが出来るし」
「いいよね」
「うん、日本語は他の言語とのやり取りもね」
 こちらもというのです。
「とても難しいしね」
「翻訳をするにしても」
「例えば聖書を翻訳するにしても」
 キリスト教のこの本をというのです。
「ラテン語からイタリア語はね」
「物凄く楽だね」
「教会はそもそもラテン語だからね」
「イタリア語わかるとわかりやすいね」
「そうだしね、ルターさんはドイツ語に翻訳したけれど」
 聖書をというのです。
「こちらもね」
「日本語を訳するより楽だね」
「そうだよ」
 こう言うのでした。
「その方がね」
「イタリア語とドイツ語は違うけれどね」
「言語体系がね」
「イタリア語はラテン系でね」
「ドイツ語はゲルマン系でね」
「ゲルマン=アーリア系ともいうね」
「だからね」
 そうであってというのです。
「またね」
「違うね」
「けれど同じ文法だからね」
「発音や単語が違ってもね」
「まだ楽なんだ」
「ラテン語の聖書をドイツ語に翻訳する方がね」
「それでルターさんも出来たんだ」
 そうだったというのです。
「苦労してもね、しかしその苦労も」
「日本語なら」
「遥かにだよ」
「難しいものになるね」
「つくづく日本語は難しいよ」 
 先生は苦笑いで述べました。
「こんな難しい言語はね」
「他にないね」
「他の生きものの言語でもね」
「日本語よりずっと楽だね」
「そうだよ」 
 こう言うのでした。
「本当に難しい言語だよ」
「そうだね、僕も苦労しているしね」
「今もだね」
「学んでもね」
 それでもというのです。
「日本に結構長くいてね」
「日本語に囲まれてもね」
「それでもだよ」
 これがというのです。
「随分とね」
「難しいね」
「今もそう思っているよ」
「僕もだよ、英語の方がずっと簡単でね」
「イタリア語もだね」
「そうだよ、こうして本を読んでいても」
 イタリア語の文献をというのです。
「すらすらと読めてね」
「頭にも入るね」
「そうなっているよ」
「そうなんだね」
「しかも他の言語もわかるから」
 スペイン語やポルトガル語、フランス語がというのです。
「何億の人とも会話出来る様になって」
「いいよね」
「英語だってね」
 先生は母国の言語をまた出しました。
「何億の人が使っていてね」
「世界中で通用してね」
「しかもドイツ語と同じ言語体系だから」
「ゲルマン=アーリア語族でね」
「ドイツ語も学びやすいよ」
「英語を身に着けるとね」
「そうなるんだ、だから僕はドイツ語の文献も楽に読めるよ」
 そうだというのです。
「後でそちらも読むけれど」
「楽だね」
「そうだよ、中国語もね」
「アルファベットじゃないけれどね」
「覚えたら十億以上の人と会話が出来て」
「中国語の文献も多いしね」
「それに漢字の数は多いけれど」
 それでもというのです。
「漢字だけだよ」
「文字の種類はね」
「そして文法は同じだからね」
「ラテン語や英語とね」
「わかりやすいよ」
「僕も中国語わかるよ」
 王子もでした。
「漢字を覚えていけばいいしね」
「そうだね」
「確かに数は多いけれどね」
「漢字は表意文字だよ」
 先生はそうだと指摘しました。
「だからその文字にある意味を理解するとね」
「覚えやすいね」
「そしてわかりやすいよ」
 そうだというのです。
「これがね」
「そうだね」
「そしてね」
 そうであってというのです。
「一つの字を覚えたら」
「他の字にもなっていくね」
「そうだよ、だから日本語よりもね」
「覚えやすいね」
「詠み方も一種類だしね」
「そこもいいね」
「うん、それが日本語となると」
 今自分達が暮らしている国の言語になると、というのです。先生は王子に少し苦笑いになってお話しました。
「もうね」
「滅茶苦茶なんだよね」
「何度もお話している通りにね」
「文献を読むことも難しいね」
「そう、そしてね」
 それにというのです。
「変な思想家の人だと造語もどんどん造ってね」
「いきなりだね」
「普通に書けばいいのに」
 そうすればわかりやすいというのです。
「片仮名、横文字と言われる他の国の単語でだよ」
「表現するね」
「冷静に見ているをドライと言うと」
「何か違う感じがするね」
「あと漢字の熟語を物凄く使ってね」 
 そうしてというのです。
「小説や原作をしている漫画で登場人物に延々と喋らせる」
「思想家だけじゃなくて小説家でもだね」
「そんな人がいるんだよ」
「そうなんだね」
「そしてね」
 そうであってというのです。
「小難しい文章を羅列するんだ」
「それぱっと読んでわからないね」
「例えば専門用語や人物名だと」
 それならというのです。
「作品の後の説明でどういった人かとか書くね」
「うん、戦前の小説で海外の思想家の名前が出ても」
 王子はそれでもとお話しました。
「作品や本の後の方の詳とかで説明が書かれてるね」
「それでわかるけれど」
「変な文章はだね」
「日本語では特にね」
「わかりにくいね」
「そう、そしてね」
 先生はさらにお話しました。
「何を書いているかわからない文章は実は」
「中身がないね」
「幼稚な言葉で下品な罵倒を言い募ることと同じだよ」
 そうだというのです。
「それはね」
「読んだり聞く価値がないってことだね」
「中身がない文章なんてね」
「どの国の言葉でもそうだね」
「そう、けれどそんな小難しい文章を読んで」
 そうしてというのです。
「読み解く、苦労してね」
「無駄な苦労だね」
「けれどそうしてね」
「読み解いてだね」
「難しい文章書いたこの人は凄い」
「そこに深いものがあるって誤解するんだね」
「実は中身がなくてもね」
 それでもというのです。
「そう誤解してね」
「読み解いた自分も凄い」
「そうも錯覚するんだ、けれど実はね」
「中身がないね」
「日本語のあまりもの難しさを用いると」
 そうすると、というのです。
「時にはね」
「そんな文章も書けるんだね」
「そうだよ」 
 これがというのです。
「実はね」
「そうなんだね」
「そう、そして」
 それにというのです。
「中身がある日本語はわかりやすいよ」
「書く人もわかりやすく書いているね」
「それも普通かそれ以上の品性で大人も子供もわかる」
「幼稚でもない」
「そうした文章でね」
「あの、難しい文章ってあれでしょ」
 ダブダブが言ってきました。
「日本語だと適当に横文字や熟語羅列したらいいんでしょ」
「そうだね」
 老馬はダブダブの言葉に頷きました。
「他の言語でもそうだけれどね」
「日本語だと特にだね」
 ホワイティもダブダブの言葉に頷きます。
「そうなるね」
「そうそう、そこはね」 
 まさにと言うトートーでした。
「日本語の難しさを応用したらね」
「造語も適当に造ったらね」
「尚更よね」 
 チープサイドの家族もお話します。
「もうね」
「難しい文章を作りやすいよ」
「確かに横文字や熟語沢山使ったら物々しく見えるね」
 ガブガブも思いました。
「それでね」
「そうして一見物凄いことが書いてある文章の出来上がり」
 ポリネシアの口調はちょっとシニカルでした。
「中身がなくてもね」
「いや、日本語で難しい文章って実は簡単に書けるんだね」
 チーチーはある意味関心しました。
「横文字や熟語、造語を多用すればいいから」
「幼稚で下品な罵倒なんて論外だけれど」
「そうした文章もよくないね」
 オシツオサレツは二つの頭で思いました。
「中身がないなら」
「読み解くだけで時間の無駄だよ」
「何を書いてるかわからない文章なんてね」 
 ジップも言います。
「一見してそれだと離れた方がいいね」
「何か難しい言葉を長々言ってもね」
 それでもと言う老馬でした。
「意味はないんだね」
「そうだよ、実際僕がある思想家の本を読んでもね」
 先生は皆にもお話しました。
「何を書いているかわからないんだ」
「文章がそうしたもので」
「一見すると難解で」
「読んでもわからないんだね」
「それでも読み解くとね」
 そうすると、というのです。
「これがね」
「中身がない」
「そうしたものだね」
「それも全く」
「そうだね」
「そうだったんだ、その人はそうした文章を書いている時は教祖だったんだ」
 そう扱われていたというのです。
「戦後最大の思想家とかね」
「言われていたんだ」
「戦後の日本で」
「そうだったのね」
「それが読んでわかる文章を書く様になったら」 
 そうしたらというのです。
「普通の思想家どころかテロをやるカルト教団の教祖を褒めてね」
「ああ、賢いどころかね」
「とんでもない愚かな人だったんだ」
「テロやる人を褒める様な」
「そんな人だったんだ」
「そう、最も浄土に近い人じゃないかとか言って」
 そうであってというのだ。
「もうその時点でね」
「愚かだね」
「そんな風だとね」
「駄目だね」
「読む価値ないね」
「そんな人だったんだ」
 その実はというのです。
「これがね」
「そんな風だったんだ」
「何かどうでもいい人だったんだね」
「その実は」
「戦後最大の思想家どころか」
「そうであってね」 
 それでというのです。
「熟語が物凄く多い熟語を羅列した台詞を延々と喋る小説を書いても」
「同じだね」
「その思想家さんと」
「中身がない」
「そうしたものね」
「そうだよ、日本語で難しい文章を書くことは案外楽なんだ」
 そうだというのです。
「只でさえ難しいからね」
「尋常じゃなくね」
「文字が三種類あって」
「文法も独特で」
「横文字も熟語もあって」
「音読み、訓読み、訓読読みってあるし」
「そこまで揃ってるからね」
 だからだというのです。
「本当にだよ」
「難しい文章を書こうと思えばね」
「案外簡単だね」
「難しい言語で難しい文章を書こうと思ったら」
「そうしたものね」
「そうだよ、難しい言葉の羅列を読むと」
 そうすると、というのです。
「油断すると錯覚するからね」
「こんな難しい文章を読んでね」 
 王子がまた言ってきました。
「まずは戸惑うね」
「何この文章ってね」
「それで読んでだね」
「読み解くんだよ」
「熟語一つ一つを」
「文章全体をね」
「それで読み解いてだね」 
 王子はさらに言いました。
「読み解いた自分は凄い」
「難しい文章を読み解いてね」
「そしてこうした文章を書いた作家さんは凄い」
「そして崇拝する様になるんだ」
「そうなるんだね」
「しかしね」
 先生は強い声で言いました。
「何度も言うけれど」
「その実はだね」
「そうした文章はね」
「中身がなくてね」
「読んでもね」
「何も得られないね」
「そして面白いか」
 そうした文章がある作品がというのです。
「果たしてね」
「面白いんじゃなくて読み解くだけだね」
「そうだよ」
 まさにというのです。
「これがね」
「そう、そしてね」
「そのうえでね」
 さらにというのです。
「そんな文章ばかり書いていると」
「面白さはだね」
「書く人も求めていなくて」
「考えてもいないね」
「人間の力は限られていてね」
「小難しい文章を書くことに集中していたら」
「思想も実は中身がなくてね」 
 そうであってというのです。
「小説でもだよ」
「小難しい文章の羅列に集中していて」
「キャラクターやストーリーはね」 
 小説で本来必要な要素はというのです。
「全くね」
「中身がないね」
「そうだよ」
 そうだというのです。
「だからそうした小説とあたっても」
「読まなくていいね」
「そう思うよ」 
 先生としてはです。
「そしてね」
「他の作品を読むことだね」
「面白いね」
「普通の文章を書いている」
「そうしてね」
 それでというのです。
「思想書もだよ」
「同じだね」
「確かな思想書は読んでわかりやすいよ」
「宗教もそうだね」
「そもそも思想、哲学は宗教から生まれているよ」 
 先生はこのこともお話しました。
「そうだからね」
「宗教書でも同じだね」
「聖書はわかりやすいね」
 ここでまたこの書のお話をしました。
「読んでもね」
「うん、凄くね」
 王子はその通りだと答えました。
「仏教でもそうだし古事記や日本書紀もね」
「わかりやすいね」
「読んでるとね」
「天理教の教典もそうだね」
「わかりやすいよ」 
 王子はそうだと答えました。
「すらすら理解出来てね」
「頭に入るね」
「そうなるよ、お経も漢字、漢文がわかるとね」
「わかりやすいしね」
「そうだね」
「真理は常に単純明快なんだ」
 先生は言い切りました。
「論語も孟子もわかりやすいよ」
「儒教だってね」
「老子も荘子もね」
 老荘思想もというのです。
「そうなんだ、それで小難しく書いて言うなら」
「まやかしだね」
「そうだよ、まやかしであってね」
 それでというのです。
「読んでもね」
「中身がないね」
「時間の無駄ともね」
 読んでもというのです。
「言えるよ」
「そうしたものに過ぎないね」
「そう、日本語の難しさを応用すれば」
「簡単に書けるね」
「技術もね」  
 それもというのです。
「実はね」
「あまりいらないね」
「そうなんだ」
「じゃあ逆ね」
 王子は先生に言いました。
「日本語でわかりやすく書くことは」
「そうだよ、そちらの方が大事だよ」
「技術としてだね」
「だからまともな思想家の人の文章はね」
「わかりやすいね」
「小説家でもね」
 このお仕事の人達でもというのです。
「そうだよ」
「わかりやすいね」
「そう、そしてね」
 それでというのです。
「わかりやすい文章を書くことだね」
「そのことを心掛けるんだね」
「他の言語でもそうだけれどね」
「日本語はだね」
「難しいだけにね」
 だからこそというのです。
「気を付けないとね、日本語でわかりやすい文章を書ける人は」 
「凄い人だね」
「そうだよ」
 実際にというのです。
「本当にね」
「そういうことだね」
「うん、ただ学問の文献は」
「専門用語が多くなるね」
「どうしてもね、だからね」
「専門用語も学んで」
「そしてね」
 そのうえでというのです。
「読まないといけないよ」
「そうだね」
「いや、日本語は専門用語もね」
「難しいね」
「そうなんだよ」 
 王子に苦笑いでお話しました。
「他国の言葉を日本語訳したものもね」
「多いね」
「学問の言葉でないけれど」
 それでもというのです。
「ヴァンパイアは日本では吸血鬼と呼ぶね」
「日本ではね」
「これも日本語にしたものだしね」
「血を吸う妖怪だからだね」
「吸血鬼になったんだ」
「そうだね」
「最初は夜叉と表現していたよ」 
 ヴァンパイアはというのです。
「芥川龍之介はね」
「あの人がなんだ」
「そう、最初にね」
「日本で吸血鬼の作品書いたんだ」
「日本語に訳してね」
「あの人英語も出来たしね」
「死霊の恋という作品でね」
 先生はそのタイトルもお話しました。
「その作品でだよ」
「夜叉って表現していたんだ」
「それで死霊というのは」
 タイトルのそれはといいますと。
「吸血鬼は死んでね」
「死体に魂が入っているからね」
「だから死霊となって」
 それでというのです。
「血を吸うからね」
「夜叉だね」
「そうしたイメージでね」
「芥川さんも訳したんだ」
「それが最初で」
 それでというのです。
「おそらく鬼は中国では幽霊だね」
「魂でね」
「血を吸う死霊、死体に入ったね」
「それで吸血鬼だね」
「そうなったんじゃないかな」
 こう王子にお話しました。
「訳されていってね」
「成程、そうなんだ」
「元々日本にもいたしね」 
 吸血鬼はというのです。
「中国にもね」
「キョンシーがそうだね」
「そして日本だと首が飛ぶろくろ首がね」
「吸血鬼だね」
「そうだしね」
「結構あっさり日本に入ったんだね」
「吸血鬼という言葉はね、日本に入る中で」
 海外のものがというのです。
「訳されてもいっているんだ」
「そしてそのことも独特だよね」
「日本語ならではのね」
「素直にヴァンパイアってすればよかったかな」
「横文字でね」
「そうかも知れないね」
「僕もそう思う時があるよ」
 先生は王子に笑ってお話しました、日本語のそうしたこともお話したのでした。








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