『ドリトル先生の長崎での出会い』
第十幕 教会の中で
先生は今も長崎の街をフィールドワークしています、そうしながら今も一緒にいる動物の皆に言いました。
「プッチーニさんは蝶々夫人だけじゃないね」
「そうそう、色々な作品を作曲していて」
「歌劇界きってのヒットメーカーだね」
「多くの名作を生み出した」
「そんな作曲家さんだね」
「イタリア生まれでね」
歌劇の本場のです。
「あの国で生まれ育ってね」
「確かお父さんに音楽を教わって」
「叔父さんに詳しく教えてもらって」
「作曲家さんになったね」
「お父さんはとても優しかったけれどね」
それでもというのです。
「叔父さんは厳しくて」
「よく怒られて」
「そうしながら成長したんだよね」
「あの人は」
「そして学校で学んだんだ」
音楽のというのです。
「先生は作曲家のポンキエッリさんだったよ」
「何かとても優しくてもの静かで」
「オウッチーニさんの才能を見抜いて」
「おおらかに見守っていたね」
「そこで後に有名になるマスカーニさんとも知り合ったよ」
その学校でというのです。
「カヴァレリア=ルスティカーナで知られるね」
「あの人とだね」
「よく知られてるね」
「そうだね」
「そして作曲家になって」
そうしてというのです。
「マノン=レスコーやラ=ボエームを作曲して」
「世に知られたね」
「そうなったね」
「そこからだね」
「そうだったんだ、それまでは妖精ヴァッリやエドガールを作曲したけれど」
それでもというのです。
「知られる様になったのはね」
「マノン=レスコーとかだね」
「そうした作品で知られて」
「ラ=ボエームが大人気で」
「知られたね」
「そうだったんだ、この二作品はパリが舞台で」
そうであってというのです。
「次のトスカはイタリアのローマがね」
「舞台だね」
「まさにプッチーニさんのお国だね」
「あの国が舞台だね」
「そうだったんだ、イタリアが統一されてね」
そうなってというのです。
「まだ何十年か経った頃だったけれど」
「ローマはイタリアの首都になっていて」
「そのローマを舞台にしたね」
「そうした作品ね」
「だからラ=ボエームとか以上に実際にあった場所が出ているよ」
作品中にというのです。
「ファルネーゼ宮殿やサン=タンジェロ城がね」
「そうなってるね」
「ファルネーゼ宮殿は今はフランス大使館で」
「サン=タンジェロ城は観光名所になってるね」
「そうだよね」
「そのトスカも大人気で」
そうであってというのです。
「アメリカを舞台にした作品もあるよ」
「西武の娘だったね」
「丁度西部劇の時代のカルフォルニアで」
「保安官さんとか出て来るね」
「衣装もそうした感じで」
「思い切った位の異色作でね」
西武の娘はというのです。
「驚くよ」
「歌劇で西部劇なんてね」
「よく考えたね」
「ガンマンの世界なんて」
「酒場もそうした風でね」
「そうした作品を生み出すのもね」
それもというのです。
「プッチーニさんの才能でね」
「凄いよね」
「つくづくね」
「そうした作品まで作曲するなんて」
「しかも中国が舞台の作品もあって」
アメリカの西部劇だけでなくというのです。
「まだあるよ」
「そうだね」
「まだあるね」
「プッチーニさんの作品は」
「トゥーランドット、プッチーニさんの最後の作品になったけれど」
この作品がというのです。
「中国が舞台でお城はね」
「紫禁城だっていうね」
「北京にある」
「それで京劇も採り入れた」
「衣装も中国の作品だね」
「そうだよ、スフィンクスみたいな謎かけもあって」
そのトゥーランドットにはというのです。
「音楽も中国風な部分もあって」
「名作だね」
「プッチーニさんは最後まで名作を残してくれたね」
「そうだったね」
「そうだったんだ、名作を多く生み出したんだ」
そうした人だったというのです。
「とはいっても失敗作と言われる作品もあるよ」
「これだけ名作があっても」
「それでもだね」
「失敗作もあったね」
「プッチーニさんも」
「つばめはね」
この作品はというのです。
「他の作品に比べてね」
「評価低いね」
「そうだね」
「そう言われてるね」
「そうなんだ、あと三部作という作品もあって」
それでというのです。
「この作品は変わっていて」
「三幕構成でもね」
「一幕ずつ違う作品だね」
「そうなっているね」
「そうなんだ、外套と修道女アンジェリカとジャンニ=スキッキ」
そのそれぞれのタイトルも言いました。
「三作品からなっていて」
「それぞれ作風が違って」
「確か神曲をモチーフにして」
「地獄、煉獄、天国だね」
「それぞれそうなっているね」
「そうなんだ、あと脚本はね」
こちらはといいますと。
「プッチーニさんはこだわりが強くて」
「ラ=ボエームとかはイッリカさんとジャコーザさんが書いて」
「西武の娘やトゥーランドットは別の人で」
「かなりこだわったんだったね」
「そうだったね」
「ワーグナーさんは自分で書いていたけれど」
脚本もというのです。
「けれどね」
「プッチーニさんは作曲専門で」
「そこは違うね」
「作曲だけで」
「脚本まではしなかったね」
「音楽の才能と脚本のこれはまた違うからね」
だからだというのです。
「プッチーニさんはあくまでね」
「音楽だね」
「音楽の人だったのね」
「そうだったのね」
「そうだよ、ただプッチーニさんはカルフォルニアにも中国にもね」
そういった国々にはというのです。
「行ったことがなくてね」
「日本にもだね」
「そうだったのよね」
「それでもね」
「それぞれの国の音楽を再現したね」
「それが出来たんだ」
そうだったというのです。
「これもね」
「才能だね」
「プッチーニさんの音楽の」
「それ故だね」
「そうだよ、そして蝶々夫人は」
先生はプッチーニさんの他の作品のことをお話してでした、長崎の坂の一番上から海を観てお話しました。
「成功作だけれど初演ではね」
「評判悪かったね」
「何か散々な有様で」
「観客の人達の態度も悪くて」
「酷かったんだったね」
「そうなんだ、もうとんでもない舞台になって」
そうであってというのです。
「ある晴れた日だってね」
「この作品の中で一番の名曲で」
「作品の代名詞にもなってるけれど」
「歌手の人も泣きながら歌ったね」
「そうだったね」
「そうなんだ、名作だけれど」
蝶々夫人はというのです。
「これがね」
「初演は散々だった」
「その評価は」
「そうだったね」
「けれどプッチーニさんはその初演の時観客席にいたけれど」
それでもというのです。
「失敗は初演だけでね」
「後で正当な評価を受ける」
「そう確信していたんだね」
「そうだったね」
「そうなんだ、作曲した人ご自身がね」
まさにというのです。
「確信していたんだ」
「蝶々夫人が名作だって」
「それですぐに正当な評価を得るって」
「名作と言われる様になるって」
「プッチーニさんはわかっていたのね」
「そうだよ、そして実際にね」
先生は微笑んでお話しました。
「そうした評価を得ているよ」
「そうだね」
「名作だってね」
「素晴らしい作品だって」
「そう言われているね」
「プッチーニさんは確かに名作が多いけれど」
それでもというのです。
「一番の名作は何か」
「そう言われるとね」
「蝶々夫人って言う人もいるね」
「そうだね」
「それ位の作品だってね」
その様にというのです。
「言われているよ」
「確かに名作よ」
ダブダブはきっぱりと言いました。
「プッチーニさんの作品の中でもね」
「確かに名作が多いけれど」
プッチーニさんにはとです、トートーも言います。
「その中でもだよね」
「お話も素敵だし」
ホワイティも言いました。
「CDを聴くだけでも素晴らしいよ」
「多くの名歌手が歌ってるしね」
チーチーはこのことをお話しました。
「歴史に残る様な」
「上演されることも多いし」
それでと言うジップでした。
「人気作そして名作であることがわかるよ」
「日本のよさがこれ以上はないまでに出ているし」
老馬はこう言いました。
「素敵な作品だからね」
「本当にプッチーニさん第一の名作じゃないかな」
ガブガブも思うことでした。
「蝶々夫人はね」
「私達先生と一緒に多くの歌劇も聴いて観てきたけれど」
ポリネシアはそれでもと言いました。
「蝶々夫人は特に素晴らしい方よ」
「そうそう、何度観てもね」
「感動するわ」
チープサイドの家族も言います。
「最後まで観たら泣くわ」
「自然とね」
「歌劇の中でも屈指の名作じゃないかな」
「他の作曲家さんの作品も入れてね」
オシツオサレツも二つの頭で言います。
「悪いところがない」
「そこまで言っていい位のね」
「日本人は舞台が日本だけに思い入れが強いけれど」
「そのことを抜いてもね」
「蝶々夫人は名作だよね」
「世界中で人気で豹かも高い」
「名作中の名作だね」
「だからね」
そうした作品だからだというのです。
「ミス=サイゴンも生まれたよ」
「蝶々夫人をモチーフにしてね」
「そうしてだね」
「あの作品も出来たね」
「そうなったね」
「そうだよ、子孫の人達を書いた作品もあるしね」
「そうした作品が生まれる位にね」
「蝶々夫人は名作だよね」
「最高の作品の一つね」
「歌劇において」
「そうだよ、そしてね」
それでというのです。
「この長崎にね」
「今もだね」
「蝶々さんの親戚の人達の子孫がおられるかも知れないね」
「侍女のスズキさんの子孫も」
「そうかも知れないんだね」
「そしてね」
そのうえでというのです。
「今は幸せに暮らしていたら」
「いいね」
「そうだね」
「あの人達はね」
「そうしてくれていたら」
「そしてね」
そうであってというのです。
「中尉の子孫の人達もね」
「そうしてくれていたらね」
「いいよね」
「そうであるなら」
「本当にね」
「そう思うよ、そして今から大浦天主堂に行くけれど」
先生は海から天主堂の方を見てお話しました。
「あちらはカトリックだね」
「そうなんだよね」
「先生は国教会でね」
「宗派が違うね」
「キリスト教でも」
「その違いはね」
このことはというのです。
「日本ではあまり考えられないけれどね」
「結構以上にどうでもいいよね」
「日本だとね」
「キリスト教の宗派の違いって」
「仏教でもそういうところあるしね」
「今は僕もそうした考えになっていて」
それでというのです。
「天主堂にもね」
「行けるね」
「普通に」
「そしてお祈りも出来るね」
「そうだよ、そしてね」
そうであってというのです。
「蝶々さんはキリスト教に改宗していたけれど」
「どの宗派かな」
「そういえば気になるね」
「そのこともね」
「プッチーニさんはイタリア人でね」
だからだというのです。
「宗派はカトリックだったと思うけれど」
「そうだよね」
「イタリアはまさにカトリックのお膝元だからね」
「バチカンがある」
「そうした国だからね」
「プロテスタントはね」
イタリアではというのです。
「殆どね」
「信者さんいないよね」
「あの国は」
「スペインやポルトガルもそうだけれどね」
「イタリアは言うまでもないね」
「そうだからね」
だからだというのです。
「プッチーニさんもカトリックだったと思うけれど」
「蝶々さんはどうかな」
「あの人は」
「アメリカって元々プロテスタントの国で」
「当時は今よりプロテスタントが主流だったね」
「だからね」
そうしたお国だったからだというのです。
「中尉もね」
「プロテスタントだね」
「その可能性が高いね」
「やっぱり」
「そうなるね」
「ワスプって言葉があるけれど」
先生はこの言葉も出しました。
「WASPって書いてね」
「アメリカは最初イギリスからの移民の人達が建国して」
「プロテスタントの人ばかりだったから」
「清教徒の人達がね」
「ピルグリム=ファーザーズだね」
「ホワイト、白人でね」
そうであってというのです。
「アングロサクソンで」
「そしてプロテスタント」
「そうなっていて」
「宗教はプロテスタント」
「それがアメリカの主流だったね」
「だからマッカーサー元帥は実は当時のアメリカで主流でなかったんだ」
日本で有名なこの人はというのです。
「あの人はケルト系でカトリックだったからね」
「そうだよね」
「ケネディさんもアイルランド系でカトリックで」
「カトリック最初の大統領って言われたね」
「当時そのことも話題だったね」
「そうだったから」
だからだというのです。
「中尉の宗派も」
「何だったか」
「プロテスタントだね」
「あの宗派だね」
「その可能性が高いね」
「そう考えているんだ」
先生としてはです。
「実はね」
「その辺りもきになるね」
「蝶々夫人について考えると」
「ついついね」
「そうだね、それじゃあね」
先生は皆にあらためて言いました。
「これからね」
「大浦天主堂行こうね」
「是非ね」
「そうしようね」
「これからね」
こうしたお話をしてでした。
先生達は大浦天主堂に入りました、そしてお祈りをしようとしたら礼拝堂のその前に女の人がいました、その人はといいますろ。
「あの人だね」
「そうだね」
「先生が前に擦れ違った」
「あの人だね」
「着ている着物も同じだし」
「あの人だね」
「間違いないよ」
先生ははっきりとわかって言いました。
「あの人だよ」
「奇遇だね」
「こんなところでお会いするなんて」
「本当にね」
「全くだよ」
先生も少し驚いています。
「人と人の出会いはわからないね」
「全くだね」
「そう言うしかないね」
「つくづくね」
「これまでも思っていたけれど」
それでもというのでした。
「神様の奇跡のね」
「最たるものだよね」
「思わぬところで思わぬ人と出会って」
「それが人生を変えたりするから」
「だからね」
「もう不思議とかしかね」
その様にというのだ。
「言えない出会いが多いね」
「そうなんだよね」
「人と人の出会いってね」
「そうしたものがあるよね」
「奇跡みたいな」
「そうしたものがね」
「そうだね、奇跡はね」
それはというのです。
「この世にあってね」
「それは神様がもたらす」
「そうだよね」
「そうしたものよね」
「本当にどうしてかわからない位の出会いってあるから」
「人生さえ変える様な」
「神仏はいないという人はね」
それこそというのです。
「まず人と人の出会いからだよ」
「考えるべきだよね」
「それがどれだけ不思議なことであるか」
「そしてそれに何があるか」
「そのことをね」
「そうした存在を信じることが出来れば」
神仏をというのです。
「それだけで間違えることが減るしね」
「そうだよね」
「神様も仏様も信じないでね」
「自分の力だけで生きていくっていっても」
「間違えること多いね」
「そう言っている人で僕は見たからね」
先生は残念そうに言いました。
「極左活動家になっていたり日本の皇室は反対でも北朝鮮の世襲の独裁はいい」
「そうなるとね」
「もうどうにもならないのよね」
「それこそ」
「そこまで間違えるとね」
「ああはなるまいってね」
その様にというのです。
「思われる様な人になったら」
「終わりだよね」
「人として」
「神仏を信じないとね」
「そうした人になる可能性があるね」
「そうだよ、神仏を信じると」
そうすると、というのです。
「それが倫理観にも常識にもなるからね」
「無神論者の人達に倫理観がないって訳じゃないけれど」
「非常識とか」
「そうした人になる可能性が高いよね」
「そうだよね」
「半グレとかどうしようもない不良とかいう人達もね」
そうした人達もというのです。
「倫理観がないことは見てわかるけれど」
「ああした人達もだね」
「信仰心がないね」
「神様も仏様も信じないね」
「信仰は本当に倫理観も形成するから」
そうなるからだというのです。
「あればね」
「それならだよね」
「それでいいよね」
「本当にね」
「それならね」
「そうだよ、神仏を信じられるならそれでよくて」
そうであってというのです。
「素晴らしいことだよ」
「全くだね」
「無神論者で間違える人達を見ていると」
「とんでもない間違いをしているからね」
「それを見ていると」
「信仰がある方がいいね」
「全くだよ」
先生は心から言いました。
「蝶々さんはまず武士道があったけれどね」
「武家の娘さんでね」
「それがあったね」
「そうだね」
「あの人は」
「けれどキリスト教もあって」
改宗したこの宗教もというのです。
「その信仰もだよ」
「生きていて」
「蝶々さんを形成していたね」
「そうだね」
「その前は仏教のね」
この宗教のというのです。
「信仰もあったしね」
「神仏を信じていて」
「その倫理観もあったね」
「そうだね」
「そうだったね」
「だからこその悲劇でもあったけれど」
その結末はです。
「蝶々さんも間違っても北朝鮮みたいな国を見たらね」
「おかしいって言うよね」
「好きになんてならないよね」
「絶対に」
「そうだよね」
「倫理観があるからね」
確かなそれがです。
「絶対にそうだったよ、しかし」
「しかし?」
「しかしっていうと?」
「うん、あの人は」
着物の若い女の人を見て言いました、見れば見る程蝶々さんを思い出させる雰囲気なのが印象的です。
「教会にいてもただ見回っていて」
「あっ、お祈りしていないね」
「そうだね」
「何かを感じ取っている様な」
「そうした風だね」
「うん、不思議とね」
それこそというのです。
「そうした感じだね」
「そうだね」
「キリスト教徒じゃないね」
「そんな感じがするね」
「あの人は」
「日本はキリスト教徒じゃなくてもね」
それでもというのです。
「教会に行くしね」
「仏教徒でもね」
「逆にキリスト教徒でもお寺行くし」
「神社にも行くし」
「天理教だってね」
「そうしたお国柄でね」
そうであってというのです。
「普通にね」
「仏教徒でも教会お参りするし」
「神父さんや牧師さんも言わないし」
「それが普通だから」
「お坊さんも神主さんもね」
「お互いの祭事を楽しんだりするし」
「お寺の人達が家族でクリスマスお祝いしても」
先生は笑って言いました。
「悪くないしね」
「お盆もお正月もお祝いするし」
「そうだしね」
「だったらいいよね」
「日本ではね」
「そうだよ、そしてね」
先生はさらに言いました。
「この天主堂は観光地でもあるし」
「尚更だね」
「誰が来てもいいね」
「そうだね」
「そうだよ、そしてね」
そのうえでというのでした。
「あの人も何かありそうだね」
「あの白人の人と同じで」
「それを感じるね」
「どうもね」
「根拠はないけれど」
「根拠は後でわかったりする時があるね」
そうだというのです。
「そうだね」
「その時わからなくてもね」
「実はあった」
「そうだってことがね」
「うん、若しかして本当に」
先生はこうも思いました。
「蝶々さんと中尉の因縁がね」
「蝶々夫人で描かれた」
「それがだね」
「今また蘇るかも知れない」
「そうかも知れないんだね」
「そしてそれは繰り返されるんじゃなくて」
そうでなくというのです。
「今度は幸せになる」
「あの時の過ちが正されて」
「そうしてだね」
「そのうえでだね」
「今度こそ二人が結ばれる」
「そうなるかもね、悲劇は繰り返されるものじゃないよ」
そうだというのです。
「決してね」
「全くだね」
「そんなものは一度でいいわ」
「もっと言えば起こって欲しくないし」
「絶対にね」
「皆もそう思うね、本当にね」
実にというのです。
「悲劇はね」
「一度でいいね」
「起こっても」
「そして因縁が蘇るなら」
「それならだね」
「今度は幸せになる」
そうなるというのです。
「それこそがだよ」
「最高だね」
「最高の結末だよね」
「何と言ってもね」
「蝶々さんにしても」
「そう思うよ」
先生は皆にお話しました、そしてその人が先生達のことに気付かないで教会を後にしてからでした。
先生と皆はお祈りをしてからその場を後にしました、それからです。
皆にです、また長崎の坂の多い道を歩きつつ言いました。
「蝶々さんは確かに親戚の人達に縁切りされてね」
「実は中尉は一時だけで」
「そうした状況でね」
「辛かったね」
「大変な状況だったね」
「そうだったけれど」
それでもというのです。
「支えてくれる人達がいてくれたからね」
「救われていたね」
ホワイティが応えました。
「その分ね」
「侍女のスズキさんがいたね」
「あの人がね」
チープサイドの家族も言います。
「いつも蝶々さんの傍にいて」
「蝶々さんを支えていたね」
「シャープレスさんもいたわ」
ダブダブはこの人のことを言いました。
「領事さんのね」
「シャープレスさんもいい人だったね」
ガブガブはこのことを認めました。
「蝶々さんを気遣ってね」
「中尉にその過ちを指摘してね」
「反省、後悔を促してね」
オシツオサレツも言います。
「蝶々さんのことを思いやって」
「いい人だったよ」
「ああした人達がいてくれて」
そしてと言うトートーでした。
「蝶々さんはその分救われていたね」
「当時は人種的偏見、宗教的偏見が強かったけれど」
それでもと言うジップでした。
「シャープレスさんみたいな人もいたからね」
「そうそう、偏見のない人がね」
チーチーも言います。
「ちゃんといてくれたからね」
「だから蝶々さんを気遣って」
ポリネシアはシャープレスさんのことを心から言いまsita.
「よくあのお家に来ていたみたいだしね」
「心ある人もいてくれて」
そしてと言う老馬でした。
「蝶々さんもその分救われていたね」
「スズキさんとシャープレスさんがいてくれて」
先生も言います。
「どれだけよかったか」
「全くだね」
「当時のアメリカは確かに人種的偏見が強くて」
「中尉よりも遥かに酷い人もいたけれどね」
「後で排日移民法なんてとんでもない法律が出来て」
「二次大戦の時は西海岸の日系人の人達は収容所に入れられて」
「大変だったけれどね」
それでもというのです。
「ちゃんとだよ」
「シャープレスさんみたいな人もいて」
「正しいことを言って行っていたね」
「そうした人もいたんだね」
「そうだよ、日系人を収容所に送った時も」
その時もというのです。
「日系人の人達を守った知事さんがいたよ」
「そうだったね」
「それも偏見に満ちた群衆の前に出て」
「それで堂々と言ったね」
「日系人の人達を守ることを」
「ハーストみたいに偏見を煽ったマスメディアもあればね」
それと共にというのです。
「その知事さんみたいにだよ」
「身を挺して守った」
「正義を貫いた人達がいたね」
「偏見を持たなかった人達が」
「そうだったね」
「一つの正義は百の邪悪に勝るというけれど」
それと共にというのです。
「まさにだよね」
「そうだね」
「スズキさんがいてくれてね」
「シャープレスさんもいてくれて」
「それでだね」
「それだけでも救われていたね」
「そう思うよ、そしてね」
先生はお顔を少し上げてお空を見ました、そのうえで皆にこんなことを穏やかな声で言ったのでした。
「スズキさんはきっと蝶々さんの冥福を祈って」」
「それでだね」
「シャープレスさんもだね」
「蝶々さんの息子さんの為に尽力したね」
「きっとね」
「その筈だよ」
まさにというのです。
「あの人もね」
「息子さんも孤独じゃなかったね」
「シャープレスさんがいてくれて」
「当時ハーフってアメリカでも珍しくて」
「何かとあっただろうけれど」
「それでもね」
そうであってもというのです。
「きっとね」
「あの人もだね」
「孤独じゃなかった」
「お家に暗い影があっても」
「それでも」
「その筈だよ」
こう言ったのでした。
「息子さんもね」
「そう思うと救われるね」
「蝶々さんも息子さんも」
「大変な中でも」
「それでもね」
「完全に孤独な人もいなければ」
そうでなければというのです。
「どうしても救われない人もね」
「いないね」
「絶対に誰かいてくれて」
「光はあるね」
「そうだね」
「そうだよ、絶対にね」
それこそというのです。
「誰かがいてくれて」
「それでだね」
「光はあるね」
「希望は」
「どんな状況でも」
「そうだよ、絶望しても」
それでもというのです。
「きっとね」
「誰か手を差し伸べてくれる人がいてくれて」
「希望はあるから」
「諦めたら駄目だね」
「もう終わりだって」
「そうした時こそ落ち着いて」
そうしてというのです。
「そのうえでね」
「周りを見る」
「そうしたら誰かがいてくれている」
「希望もある」
「そして助かるね」
「周りにそんなものないと言う様な人がいても」
それでもというのです。
「神様仏様がだよ」
「本当にね」
「用意してくれているね」
「常に」
「そうした人を」
「そして希望を」
「そうだよ、人は人でしかなくて」
何を言ってもというのです。
「神様じゃないからね」
「そうだよね」
「そのことも忘れたら駄目だね」
「人は人でしかなくてね」
「その力は限られている」
「だから変なことを言ってもだね」
「助けてくれる人や希望はあるんだよ」
どんな状態でもです。
「絶対にね」
「蝶々さんもスズキさんやシャープレスさんがいてくれたし」
「息子さんだってそうだし」
「だからだね」
「絶望してもだね」
「終わりだって思わないで」
「生きることだよ、蝶々さんは恥を注ぐ為に自害したけれど」
蝶々さんの悲しい最期のこともお話しました。
「自殺はね」
「本当に駄目だね」
「どんな状況になっても」
「それだけはしないで」
「生きないとね」
「駄目だよね」
「自殺しても」
先生は俯いて言いました。
「何がいいのか」
「よくないよね」
「絶望したまま死ぬから」
「よかったって思って自殺する人なんていないから」
「だからね」
「したらいけないね」
「そうだよ、自殺する位なら」
それこそというのです。
「その場から逃げることだよ」
「逃げてもいいよね」
「逃げるにも決断が必要で」
「決断するにも勇気が必要だし」
「悪いことじゃないよ」
「逃げるなって言っても」
それでもというのです。
「自殺したり心が壊れたら元も子もないからね」
「そうなる前に逃げる」
「それが大事だよね」
「本当に」
「逃げるのも勇気だよ」
「逃げたら駄目な時があっても」
先生はそれでもと言いました。
「自殺を考える位の状況なら」
「もう逃げる」
「そうすることだね」
「誰かにすがってもいいし」
「また希望もあることをだね」
「見ることだよ、自殺する前に落ち着いて」
そうしてというのです。
「周りを見てそしてね」
「だれかにすがる」
「希望もあることを理解する」
「そして逃げることも必要だね」
「時として」
「そうだよ、蝶々さんは自害して」
そうなってというのです。
「誰もが悲しんでいるね」
「うん、ああするしかなかったにしても」
「蝶々さんは武家の娘さんだから」
「どうしてもね」
「そうなってもね」
「だから自殺なんて駄目なんだ」
絶対にというのです。
「残された人達がどれだけ悲しむか」
「残念に思って」
「無念に」
「そう思うからね」
「駄目だね」
「そうだよ、僕は逃げてもいいと思うから」
自分だけではどうしようもない状況ならです。
「そこで逃げるなって言う人が手を差し伸べるならいいけれど」
「我慢しろとかね」
「今の状況に」
「どうしようもない人に」
「それならね」
「もうね」
それこそというのです。
「そうした人の言うことは聞かないで」
「逃げないとね」
「自殺するか心が壊れる前に」
「そうしないとね」
「そうだよ、逃げてもいいし」
どうしようもないと思った時はというのです。
「周りも見てね」
「手を差し伸べてくれる人がいてね」
「希望もあるから」
「生きることだね」
「絶対に」
「そうだよ、生きていれば」
そうしていればというのです。
「またね」
「いいことがあるね」
「状況が変わって」
「そのうえで」
「そうなるからね」
だからだというのです。
「絶望した時こそ」
「落ち着く」
「周りを見る」
「そしてすがってもいい」
「希望を見て」
「逃げてもいいね」
「そうだよ、生きることが大事だよ」
こう言ってでした。
先生は皆と長崎の街を歩いていきました、そしてホテルの夕食の後で皆を長崎の古い料亭に案内するのでした。