『ドリトル先生の長崎での出会い』
第八幕 長崎の美人さん
先生は長崎に戻ると早速ホテルで休んで朝お風呂に入ってから和風の朝ご飯を頂きました、その朝ご飯を食べるとすぐにです。
動物の皆と一緒に長崎の街に出ました、すると皆さっきまで食べていた朝ご飯のことをお話しました。
「白いご飯美味しかったね」
「お味噌汁もね」
「焼き魚にお漬けものもあって」
「生卵に海苔もあって」
「美味しかったね」
「そうだね、ハウステンボスでは洋食を食べていたけれど」
それでもと言う先生でした。
「和食もいいね」
「日本にいて長いしね」
「僕達もすっかり和食に馴染んだね」
「そうした意味で日本人になったね」
「ハウステンボスに居心地のよさを感じても」
「そうだね、日本のお家にも住んでるしね」
神戸ではというのです。
「畳と障子のあるね」
「襖とね」
「お布団で寝る」
「そうしたお家で暮らしてるし」
「尚更だね」
「そうだね、本当にね」
にこにことして言う先生でした。
「和食にも親しんできたね」
「全くだね」
「凄く美味しく感じるわ」
「朝に食べても」
「そうしてもね」
「いいね、その美味しい朝ご飯を食べて」
先生はそうしてと言いました。
「今日も楽しく過ごそうね」
「是非ね」
「今日は学会があるしね」
「それにも出席してね」
「長崎の街をフィールドワークして」
「楽しもうね」
皆も笑顔で応えました、そうしてです。
先生は学会まで長崎の街を観て回ってそれから学会に出席して色々な人の学説を拝聴しました。それが終わるとまたです。
長崎の街をフィールドワークしますが皆こんなことを言いました。
「しかし坂道が多いね」
「つくづく思うね」
「長崎の街ってね」
「そうだね」
「うん、これがね」
まさにと言う先生でした。
「長崎の特徴だね」
「全くだね」
「兎に角坂道が多いね」
「そしてその坂道が曲がりくねっている」
「上下にね」
「そんな風だね、だからね」
先生は坂道の一番上から海を観て言いました。
「グラバー園もああした場所にあるんだ」
「あそこも坂になってるね」
「山のところにあって」
「そうなってるね」
「海が奇麗ね」
「そうだよ、平地よりもね」
長崎はというのです。
「坂が多いね」
「そうだね」
「ここにいたらね」
「そのことを実感するね」
「本当に坂が多い街よ」
「ハウステンボスはオランダの街を再現したけれど」
それでもというのです。
「オランダは坂道がないね」
「そうそう、あの国はね」
「平地の国よ」
「海を埋め立てて出来たね」
「そうした国よ」
「それで平地ばかりで」
そうしたお国でというのです。
「標高もないけれどね」
「そうそう、あの国はね」
「海抜幾らもないね」
「だから海面が上がると困るのよね」
「少しでもね」
「けれど長崎は違って」
この街はというのです。
「本当にね」
「坂が多くて」
「まさにオランダと正反対だね」
「そのことがね」
「それを思うよ、佐世保だってね」
ハウステンボスがあるこの街もというのです。
「そうだったね」
「結構坂道あったね」
「そこから基地見えたね」
「軍艦だってね」
「アメリカ軍の空母があったわ」
「そのことも違うから」
だからだというのです。
「面白いね」
「全くだね」
「長崎の坂道の多さもね」
「色々勉強になって」
「先生も楽しんでいるね」
「歩くのが少し大変でも」
それでもというのです。
「このことは面白いよ」
「全くだね」
「それじゃあね」
「これからも歩こうね」
「この長崎の街をね」
「そうしようね」
笑顔でお話してでした。
皆で坂道を歩き続けました、そして夜の闇が近付く頃にはホテルへの帰路につきました。その時にです。
ふとです、先生は着物を着て黒髪を整えた小柄な黒い目の若い女性と擦れ違いました。そうしてでした。
先生は振り返ることなくです、皆に言いました。
「蝶々さんみたいだね」
「着物着て黒髪でね」
「しかも黒い目で」
「小柄でね」
「まさに蝶々さんだったね」
「舞台のね、何かね」
さらに言う先生でした。
「不思議な感じがするね」
「そうだね」
「長崎で蝶々さんみたいな人と擦れ違うって」
「不思議ね」
「どうも」
「そうだね、ハウステンボスで中尉を思い浮かべる人がいて」
そうしてというのです。
「そのうえでね」
「長崎で蝶々さんを思わせる人がいる」
「何かあるかもね」
「これはね」
「若しかして」
先生はふと気付いたお顔になって言いました。
「蝶々さんの親戚の人達の子孫も」
「ああ、まだね」
「長崎におられるかもね」
「そうかも知れないわね」
「蝶々さんは武士のお家での出でね」
そうであってというのです。
「お父さんは切腹しているね」
「そうそう」
「それで蝶々さんもね」
「お父さんの様に自害したね」
「誇りを持ってね」
「それがあの作品の結末で」
蝶々夫人のというのです。
「蝶々さんの親戚の人達はね」
「蝶々さんが結婚の時にキリスト教に改宗して」
「親戚のお坊さんが怒ってね」
「その時に皆縁切りするんだよね」
「それで蝶々さんは孤独になるね」
「侍女のスズキさんはいても」
それでもというのです。
「お子さんとずっとね」
「あのお家でね」
「中尉を寂しく待っていたんだよね」
「健気にね」
「ずっとね」
「その時に二重唱で桜の枝を揺さぶってがあって」
この歌がというのです。
「舞台が移るまでにハミングコーラスがあって」
「何よりもあのアリアを歌うね」
「独唱をね」
「ある晴れた日に」
「蝶々夫人の中で一番有名な歌をね」
「あの曲は名曲だよ」
先生はある晴れた日についてもお話しました。
「プッチーニさんそして歌劇には実に多くの名曲があるけれど」
「その中でもだよね」
「ある晴れた日は名曲中の名曲だよね」
「そう言っていいわね」
「本当に」
「そうだよ、あれだけの名曲はそうはないよ」
先生は遠くを見る様な目で言いました。
「多くの歌劇の中でもね」
「まさにプッチーニさん渾身の曲で」
「プッチーニさん多くの名作と言われる歌劇を残していて」
「その中で名曲も多いけれど」
「とりわけだよね」
「ある晴れた日は名曲だね」
「そう言うべきだよ、そのある晴れた日を歌うのも」
このこともというのです。
「蝶々さんが中尉を待つ中でのことでね」
「親戚の人達は寄り付かなくて」
「縁を切っていて」
「けれどまだだね」
「その親戚の人達が長崎にいるかも知れないんだね」
「ひょっとしたらね、スズキさんの子孫の人がいても」
それでもというのです。
「不思議じゃないしね」
「そうなのね」
「中尉の子孫の人達がいて」
「中尉と蝶々さんとの間に生まれた」
「そして蝶々さんの親戚の人達も」
「まだ長崎におられるかも知れないんだね」
「ひょっとしたらね」
こう言うのでした。
「そうかも知れないよ」
「若しそうだったら」
ダブダブが言いました。
「蝶々さんの親戚の人達も後悔しているのかしら」
「中尉みたいにね」
「そうなっているのかしら」
チープサイドの家族も思いました。
「蝶々さんに酷いことをした」
「そうね」
「その人達がそうしても」
チーチーはそれでもと思いました。
「子孫の人達は関係ないよ」
「贖罪の意識はあっても」
それでもと言う老馬でした。
「それはその人だけのことだよ」
「どうして子孫の人達に罪があるのか」
「その人達がした訳じゃないのに」
オシツオサレツは二つの頭で思い言いました。
「それでもね」
「罪の意識なんて持つものじゃないよ」
「そうだよ、色々事情があっても」
それでもと言うホワイティでした。
「反省や後悔をしなくていいよ」
「その人がしたことじゃないなら」
ジップも言うことでした。
「悪いと思ったら駄目だよ」
「原罪ってあるにしても」
トートーはキリスト教のこの考えをお話しました。
「このこととは別だね」
「原罪は人間には悪の部分もある」
ガブガブは先生が昔教えてくれた言葉を思い出しました。
「そういうことだよね」
「こうしたことは原罪でないでしょ」
ポリネシアも指摘しました。
「また別よ」
「そうだよ、原罪については僕はこう考えているよ」
神学者でもある先生は皆にお話しました。
「アダムとイブは楽園を追放されたけれど」
「それは知恵を備えたからで」
「かえってよかったかも知れないね」
「人が知恵を得たなら」
「そうであるなら」
「うん、そしてね」
そうなってというのです。
「文明にも辿り着けたしね」
「色々学べる様にもなったし」
「よかったかも知れない」
「そうだっていうよね」
「先生は」
「そう、そしてね」
そうであってというのです。
「原罪は人間には善悪があって」
「その悪の部分だね」
「最初は白紙でね」
「サルトルさんが言っていたけれど」
「そこから生きていって備える」
「そうしたものだね」
「そう、そしてね」
そうであってというのです。
「原罪は人の悪の部分だってね」
「その様にだね」
「先生は考えているね」
「それは誰もが持っているから」
「だからだね」
「そう、本当にね」
だからだというのです。
「蝶々さんの親戚の人がしたこととは別だよ」
「そうだね」
「あの人達の行動が問題でも」
「子孫の人達に罪はない」
「反省も公開もする必要がないね」
「全くね」
それこそというのです。
「中尉の子孫の人達と同じで」
「全くだね」
「その人達がしたことじゃないから」
「あのお坊さんの子孫でもね」
「することはないよ」
「そうだよ、若しね」
それこそというのです。
「僕がその人達にお会いしたら」
「そう言うね」
「悪いと思うことはない」
「反省も後悔も必要ない」
「その人達は」
「そうだよ、その人達がそうしたことをしなかったら」
それならというのです。
「もうね」
「いいよね」
「そうだよね」
「本当にね」
「その人達は」
「全くだよ」
まさにというのです。
「それに当時の日本にも偏見があったね」
「キリスト教に対して」
「そして改宗した人達に対して」
「偏見があって」
「蝶々さんも縁切りされたんだったね」
「だからお坊さんも怒ったんだ」
蝶々さんの親戚のです。
「ボンズさんといったけれど」
「キリスト教が駄目だった」
「当時日本で禁教が解かれたばかりで」
「それでだん」
「偏見が強かったね」
「そもそも島原の乱があったしね」
先日その場所だった原城の城跡のことを思い出しつつ言いました。
「あそこは」
「切支丹って言われて」
「ご禁制でね」
「幕府が厳しく取り締まっていたね」
「信仰を棄てないと死罪にまでして」
「日本の歴史でも珍しい位にね」
そう言っていいまでにというのです。
「徹底して禁じたけれど」
「それはどうしてか」
「侵略の手段にしていて」
「しかも民の人達を売り飛ばして奴隷にしていた」
「だからだね」
「そう、それでね」
そうなっていてというのです。
「禁じたからね」
「そうだったね」
「当時のキリスト教は」
「幕府も国と民の人達を守る為にね」
「そうしたね」
「むしろ侵略と奴隷を認めなかった」
そうしたというのです。
「幕府の英断だったかも知れないよ」
「確かに進行を棄てないと死罪だったけれど」
「日本も民衆の人達も守ることだったし」
「犠牲は出ても」
「それでもだね」
「それに疑わしいと罰するのでなくて」
そうでなくというのです。
「踏み絵でね」
「確かめてるね」
「切支丹かどうか」
「ちゃんとね」
「そうしていたね」
「そして死罪にする時も信仰を棄てるかどうか聞いてね」
そうしてというのです。
「信仰を棄てるとね」
「それでよしだったね」
「それでね」
「助けたね」
「そうだったからね」
だからだというのです。
「欧州の十字軍や異端審問より遥かにましでね」
「理性的だったね」
「それもかなり」
「本当に切支丹かどうか確認して」
「死罪の時も信仰を棄てたら助けたんだから」
「そして奴隷制度を絶対に認めなかった」
そうだったというのです。
「そう考えるとね」
「幕府はよかったね」
「奴隷なんてあっては駄目だし」
「今の価値観にしても」
「それに反対するなんて凄いよ」
「だからね」
それでというのです。
「このことは評価出来るよ、そして当時の偏見はね」
「やっぱりあったね」
「キリスト教に対して」
「特に親戚にお坊さんがいたし」
「尚更だね」
「作品中みたいに強かったかは疑問に思うけれど」
それでもと言う先生でした。
「やっぱりね」
「偏見があって」
「それでだね」
「蝶々さんと縁切りをした」
「そして子孫の人達が反省や後悔をしていたら」
「間違いだね」
「そうだよ、間違いであって」
それでというのです。
「持つものじゃないよ」
「そうだね」
「本当にね」
「その人はその人」
「ご先祖のことは関係ない」
「そうだね」
「そう思うよ、若しまだ長崎におられてもね」
それでもというのです。
「その必要はないよ、あくまでね」
「前向きにだね」
「生きるべきだね」
「そうあるべきだね」
「そうだよ」
まさにというのです。
「そうあるべきだよ」
「本当にそうだね」
「反省することはない」
「あくまで前向きに」
「そうあることだね」
「中尉の子孫の人達もそうで」
同じ様にというのです。
「蝶々さんの親戚の人達もだよ」
「反省も公開も必要ない」
「その人達がそうしたことをしなかったらいい」
「偏見を持たなかったらいい」
「それでいいのね」
「そうだよ、歌劇には結構差別を扱った作品もあるけれどね」
それでもというのです。
「蝶々夫人もだよ」
「そうだね」
「まさに差別を扱っているね」
「人種的なものに」
「宗教的なものに」
「蝶々さんはその犠牲でもあるんだ」
差別のというのです。
「実はね」
「そうなるんだね」
「偏見の犠牲でもあるんだ」
「悲劇のヒロインだけれど」
「その悲劇は何であるか」
「そう、偏見がね」
これがというのです。
「とても大きいよ、アメリカには人種的偏見があって」
「日本には宗教的偏見があった」
「その二つの偏見があって」
「蝶々さんはああなったんだね」
「とても悲しい結末に至ったのね」
「ああした」
「そうなんだね」
「そうだよ、偏見がどういったものか」
先生は悲しいお顔でお話しました。
「知ることだよ」
「全くだね」
「蝶々さんみたいなことがあるから」
「だからだね」
「それでだね」
「そう、本当にね」
それこそというのです。
「偏見を知ってね」
「持たないことね」
「そしてない様にする」
「そう努力することだね」
「それが大事だね」
「そうだよ、自分が偏見を持たれたら嫌だね」
先生は皆に言いました。
「そうだね」
「うん、そうだね」
「そう言われるとね」
「偏見を持たれて差別されたらね」
「凄く嫌だね」
「偏見は時と場所ですぐに入れ替わるよ?」
先生はこのこともお話しました。
「白人が一番偉いか」
「そんな筈ないしね」
「絶対にね」
「違うことは科学的に実証されてるし」
「時と場所で変わるね」
「僕達は今日本にいてね」
今度はご自身達のことをお話しました。
「アジア系の人達のなかにいるね」
「そうだとね」
「アジア系の人達から差別されることだってね」
「普通にあるね」
「そうだね」
「時代によってはね。そうしたお話もあったしね」
実際にです。
「小泉八雲さんだって尻尾があるとか思われてお風呂覗かれたりしたよ」
「ラフカディオ=ハーンさんだね」
「あの人にもそんなことがあったんだ」
「物凄く日本が好きで」
「日本人になった人だけれど」
「あの時の白人至上主義は産業革命が起こってね」
そうしてというのです。
「白人がその技術を持っていた」
「それだけだったね」
「そしてその技術で凄い軍事力を持っていた」
「経済力も」
「それだけだったね」
「だから日本や他の国が産業革命以降の技術を手に入れたら」
そうなったらというのです。
「今みたいになったんだ」
「そうだね」
「全く変わらなくなったね」
「白人至上主義ってその程度だったんだね」
「所詮はね」
「そんなものでしかなくて」
それでというのです。
「技術なんて同じ人間ならだよ」
「誰でも備えられるね」
「努力したら」
「そうしたら」
「人種や民族や宗教は関係ないよ」
一切というのです。
「それこそね」
「全くだね」
「その通りだね」
「そんなもので決まらないね」
「何もね」
「そしてね」
そのうえでというのです。
「宗教だってね」
「人それぞれの考えでね」
「信念があってね」
「それを尊重することが大事だね」
「他の宗教も」
「キリスト教が一番偉いって勘違いしたから」
だからだというのです。
「十字軍や異端審問が起こってね」
「他の宗派も認めなくなって」
「同じキリスト教の中でも」
「そうもなってね」
「それでだね」
「沢山の恐ろしいことが起こったわね」
「そうだよ、そしてね」
先生はさらにお話しました。
「他の考えを認めないならナチスやソ連だよ」
「同じだよね」
「ああした国々とね」
「自分達以外は認めないで大勢の人達を殺した」
「ああした国々と同じだね」
「ユダヤ人やロマニや資本家や地主の人達でもね」
ナチスやソ連が攻撃した人達もというのです。
「同じ人間だね」
「そうだね」
「その人間を攻撃してね」
「多くの命を奪った」
「あの人達と同じだね」
「ああした人達になりたくないなら」
ナチスやソ連の様なというのです。
「絶対にだよ」
「偏見を持ったらいけないね」
「そしてない様にしないと駄目だね」
「これからは」
「そうだね」
「そうだよ」
まさにというのです。
「本当にね」
「そうだよ、何があってもね」
それでもというのです。
「偏見を持たない様にすることだよ」
「全くだね」
「自分自身は」
「そして世の中から少しでもなくす」
「そうしないと駄目だね」
「蝶々さんはその偏見でね」
人種と宗教のそちらでというのです。
「自害したからね」
「差別は駄目だよ」
「偏見を持ったらね」
「それが大変なことになるから」
「気を付けないとね」
「僕も思うよ、命は同じなんだよ」
そうだというのです。
「そして考えもね」
「そうだね」
「蝶々さんからそのことも教えてもらったね」
「この長崎で」
「そうだね」
「そうなったよ、僕もね」
こう皆にお話しました。
「そして二度とね」
「蝶々さんみたいな人は出て欲しくないね」
「偏見の犠牲者は」
「そうだね」
「そう思うよ」
こう言うのでした、そしてです。
先生はその日はホテルでじっくりと休みました、そして次の日も長崎の街をフィールドワークしました。その中で。
先生はまた中華街に行ってそこで長崎ちゃんぽんを食べましたがにこりと笑ってこんなことを言いました。
「色々な具が入っているのがいいね」
「お肉にお野菜に」
「蒲鉾だってね」
「色々入っていて」
「美味しいわね」
「そうだね、長崎名物だけあって」
それでというのです。
「美味しいよ、麺の上の色々な具もね」
「いいんだよね」
「今僕達が言ってるけれど」
「それもまたね」
「太い緬に白いスープに加えて」
「そちらもね」
「そうだね、こうしてね」
先生はさらに言いました。
「色々なものがある」
「それがいいね」
「若し具が一種類だとね」
「こんな味は出せないね」
「どう考えても」
「そうだよ、無理だよ」
とてもというのです。
「本当に」
「お肉にお葱にね」
「きくらげやもやしもあって」
「そして蒲鉾もある」
「量も多いし」
「それがいいんだよ、これはね」
先生はさらに言いました。
「世の中もそうだね」
「そうそう」
「やっぱり一つの人種や宗教だけだとね」
「よくないね」
「お料理と同じで」
「サラダだってね」
この食べものもというのです。
「お野菜が一種類だとね」
「とてもね」
「味がよくならないよ」
「そのお野菜だけだと」
「サラダにもならないかな」
「そうだね、何種類ものお野菜があって」
そうであってこそというのです。
「本当にね」
「美味しいね」
「そうなるよね」
「サラダだってね」
「ちゃんぽんだってそうだね」
「そして世の中もだよ、食材や調味料を何種類も使って」
そうしてというのです。
「お料理は作るしね」
「一つだけだと」
「とてもね」
「美味しくならないね」
「そうよね」
「そうしたものだよ」
こう皆に言うのでした、そしてです。
先生はちゃんぽんと一緒に焼き餃子それに炒飯を食べます、そうしたものも食べてさらに言うのでした。
「ちゃんぽんだけじゃなくて」
「餃子や炒飯もあると」
「尚更だよね」
「楽しめるね」
「そうだね」
「そう、だからね」
それでというのです。
「本当に何種類もだよ」
「お料理を食べていいね」
「それもまたよしだね」
「一つのお料理に食材や調味料を何種類も使って」
「お料理自体も何種類もだね」
「食べるといいんだよ」
笑顔で言うのでした。
「偏食にもならないしね」
「偏食は駄目よ」
ダブダブは一家の料理番としてぴしっと言いました。
「身体によくないわ」
「そうそう、何でも沢山食べないとね」
食いしん坊のガブガブの言葉です。
「よくないよ」
「お野菜や草だってね」
「色々な種類があるからね」
オシツオサレツも二つの頭で言います。
「色々食べないとね」
「身体によくないよ」
「お米や麦に加えて」
「稗や粟も食べることね」
チープサイドの家族も言いました。
「穀物にしても」
「種もだよ」
「そういえば偏食の人って不健康だよ」
トートーはぴしゃりと指摘しました。
「どうもね」
「何か精神的にもどうかってなるわね」
ポリネシアはお身体の健康以外のことも言いました。
「偏食の人って」
「やっぱり何でも食べることだね」
ホワイティも言いました。
「偏見なくね」
「偏見と偏食も同じなんだね」
チーチーはこう考えました。
「よくないものだね」
「先生は何でも食べて偏見もないから」
ジップはそれでと言いました。
「いつも健康で精神的にも確かだね」
「そんな先生だから僕達いつも一緒にいるし」
老馬も言います。
「他の人達や生きものもだね」
「そうである様にしているよ、若しね」
ここで先生は皆にある人のことをお話しました。
「アメリカの大統領にもなった酷いことばかり言う」
「あの人だね」
「あの人偏見の塊だね」
「何でも凄い偏食なのよね」
「もう悪いことしか言わないけれど」
「明らかに自分のことしか考えてなくて」
「モラルも恥も外聞もないけれど」
皆も言います。
「最低と言うしかないね」
「何か最低と言ってもまだ足りないっていう意見もあるけれど」
「ああなるとね」
「人として終わりだね」
「支持する人達を見ても」
「どうしようもなくレベルの低い人多いしね」
「あの人は嘘ばかり言うよね」
先生はこのことも指摘しました。
「そうだね」
「うん、本当にね」
「あの人の言うことって嘘のオンパレードだよ」
「嘘を大声で吹聴してるね」
「息をする様に嘘をしているよ」
「嘘と罵倒と偏見しかね」
それこそというのです。
「言わない感じだね」
「品性もないよね」
「人を騙すことに一切抵抗がないね」
「あんな人を支持する人もね」
「どうかっていう人も多いし」
「そう、偏見の塊はどんな人か」
サンプルを挙げる様に言いました。
「まさにね」
「あの人だって言えるね」
「最低過ぎる人だね」
「人としていいところがない」
「実際スキャンダルも多いしね」
「ありとあらゆる種類のね」
「あんな人を支持する人が日本にもいるけれど」
それでもというのでした。
「まともな人は凄く少ないね」
「うん、とんでもなくレベルの低い」
「知性も品性も感じられない」
「全くね」
「そんな人ばかりだね」
「本当にね」
「人は自分と同じレベルの人を支持するよ」
先生はちゃんぽんを食べつつ指摘しました。
「類は友を呼ぶとも言うしね」
「同じレベルで集まって」
「同じレベルの人を支持する」
「そうするんだね」
「だから偏見の塊で嘘に普通に騙される人は」
そんな人はというのです。
「それこそね」
「レベルが低いね」
「あの人と同じだね」
「偏見の塊で嘘吐きで恥も外聞もない」
「自分のことしか考えない人とだね」
「そうだよ、それこそね」
まさにというのです。
「そんな人になったら」
「終わりだね」
「その人達もね」
「最早ね」
「あの人はモラルもないから」
だからだというのです。
「偏見を隠さないしやりたい放題だね」
「うん、酷いよ」
「市民の人達のことなんて一切考えていないの丸わかりで」
「私利私欲ばかりで」
「女の人にもお金にも権力にも汚いし」
「いじめっ子気質でね」
「そんなやりたい放題や偏見や私利私欲やいじめを肯定してくれる」
先生はとても嫌そうにお話しました。
「自分達にあるね」
「だからあんな人を支持するなら」
「恥も外聞もなくていいってしてくれるなら」
「力さえあれば何をしてもいい」
「やりたい放題でもいいっていうなら」
「もうね」
それこそというのです。
「人生を真剣に見つめ直して」
「考えをあらためないとね」
「駄目だよね」
「中尉や蝶々さんの親戚の人達と同じだね」
「いや、あの人達以下かもね」
「そんな風だね」
「中尉や親戚の人達よりもね」
さらにというのでした。
「あの人は酷いね」
「うん、酷いね」
「中尉はあれでもまだ品性があったしね」
「反省も後悔したし」
「親戚の人達だってね」
「あそこまでは酷くなかったし」
「副大統領候補の人もね」
この人もというのです。
「あんまりにもだしね」
「ああ、そうだね」
「子供を産んだことがない女性は駄目だとか言うし」
「同性愛者の人だってね」
「そうした考えだからね」
「子供を産んだことがなくても」
それでもというのです。
「何か問題かな」
「そうだよね」
「そもそもね」
「問題ないよね」
「考えてみたら」
「そうだよ、全くだよ」
それこそというのです。
「問題はないよ」
「子供が欲しくても得られない人いるし」
「神様からの授かりものだしね」
「それで人の価値は決まらないね」
「そうだね」
「そうだからね」
そうしたものだからだというのです。
「それで人の価値を決めて駄目だとか言うのは」
「間違った価値観だね」
「どうしてもね」
「そう言うしかないね」
「同性愛もね」
このこともというのです。
「キリスト教では否定されていても」
「それも人それぞれだね」
「キリスト教以外の宗教もあるし」
「他の価値観だってね」
「あるしね」
「日本では同性愛は否定されていないね」
このことも言うのでした。
「全く」
「そうそう、本当にね」
「日本では同性愛は否定されていないよ」
「昔からね」
「そのことで罪になった人はいないよ」
「僕も否定しないよ」
先生ご自身もというのです。
「全くね」
「そうだよね」
「先生にその趣味はなくてもね」
「否定しないよね」
「全くね」
「その人の嗜好だからね」
そうであるからだというのです。
「否定する理由はないよ」
「それが駄目だとかね」
「言うことないよね」
「むしろ駄目だって言う人の方が問題だよ」
「むしろね」
「だからこの副大統領候補の人もね」
この人もというのです。
「かなりだよ」
「問題だね」
「価値観がおかしいね」
「偏見強いわね」
「どう見ても」
「そしてこの人を支持しても」
そうであってもというのです。
「やっぱりね」
「おかしいね」
「レベルが低いね」
「そう言うしかないね」
「そう思うよ、倫理もね」
支持する人達のです。
「おかしいよ」
「そう思えるね」
「本当に」
「その時点でね」
「そうだよ、おかしいことが明らかな人を支持する」
そのことはというのです。
「それが出来るのはね」
「おかしな人だね」
「同じレベルでね」
「同じ位おかしい」
「そんな人だね」
「偏見や罵倒、やりたい放題を許容してくれると思って」
そうしてというのです。
「そんな人を支持するなら」
「それならだよね」
「もう終わりだよね」
「人として」
「見下げ果てたと言うべきかしら」
「そうだよ、偏見も罵倒も当然よくないし」
それにと言う先生でした。
「やりたい放題、幾ら力があってもね」
「それをいいとするなら」
「自分達が行うなら」
「それならだね」
「しかも自分が率先して行うんじゃなくて」
そうでなくというのです。
「力を持って行く人の後についていくなら」
「卑怯だね」
「そうした意味でもレベルが低いよ」
「そんな人ってね」
「自分が率先しても最低なのに」
「そしておこぼれにあずかろうっていうなら」
そうした考えならというのです。
「卑しいことこの上ないよ、ましてその人の悪事がどんどんばれても言い繕うなら」
「尚更だね」
「どうにもならないね」
「そんな人はね」
「最低と言っても足りないわよ」
「そうした人には絶対になりたくないし」
そうであってというのです。
「心掛けているよ」
「先生はね」
「そんな人達にならない様に」
「あの人達も見て」
「そうしているわね」
「民主主義は鏡でもあってね」
こうも言う先生でした。
「どういった人を支持するか」
「それでその人がわかるね」
「最低な人を支持する人は最低だって」
「わかるね」
「人は同じレベルの人を支持するからね」
だからだというのです。
「恥も外聞もモラルもない平気で悪事を働いて嘘を大声で吹聴して偏見の塊で私利私欲ばかり貪ってやりたい放題する人を支持するなら」
「そんな人達だね」
「最低な人達ね」
「何処までも卑しい」
「そうした人達ってことね」
「そうだよ、日本はいい国でも」
それでもというのです。
「おかしな人達もいることはね」
「覚えておかないとね」
「ごく一部でも」
「それでもね」
「そうした人達はどこまでも堕ちるけれど」
そうなるけれど、というのです。
「そんな風にはならない」
「そうなることだね」
「僕達は」
「絶対に
「そのことを心掛けていかないとね」
こうしたことを言うのでした、長崎ちゃんぽんを食べながら。