『ドリトル先生と奇麗な薔薇達』
第三幕 薔薇の寄生虫
先生は日笠さんとのティーパーティーの次の日は大学で講義を行ってその後はご自身の研究室で学問に励んでいました。
麻酔の本を読みつつです、動物の皆に言いました。
「今日の紅茶はローズティーだね」
「うん、そうだよ」
「昨日薔薇だったしね」
「今日はローズティーにしたんだ」
「どんどん飲んでね」
「嬉しいね、ミルクティーもいいけれどね」
先生はそのローズティーを飲みながら笑顔で応えます。
「僕は他の紅茶も好きでね」
「そうだよね」
「先生どんなお茶も好きだけれど」
「来日してからそうなったけれど」
「やっぱり一番は紅茶で」
「色々な紅茶飲むね」
「そのことも来日してからね」
まさにその時からというのです。
「そうなってけれどね」
「イギリスにいた時はミルクティーだけで」
「他の紅茶は飲まなかったけれど」
「今はそうなったね」
「ローズティーも飲む様になったね」
「イギリスにいるとね」
どうしてもというのです。
「飲むお茶はというとね」
「ミルクティーしかないよね」
「出るお茶っていうとね」
「まさにミルクティーで」
「他にはない感じだね」
「だからね」
それでというのです。
「来日するまでは」
「ミルクティーばかりで」
「ローズティーもあまり飲まなかったね」
「他にはハーブティーもあったけれど」
「ミルクティーばかりだったね、先生は」
「他の人もそうだったね、紅茶の国だけれど」
それでもというのです。
「その紅茶がね」
「他にない感じだったね」
「ミルクティーばかりで」
「もうね」
「他にはなかったね」
「全くだよ、けれど今はね」
そのローズティーを飲みつつ言うのでした。
「こうしてだよ」
「ローズティー飲んでるね」
「他のお茶もで」
「色々飲んで」
「そうしてるね」
「そう、だからね」
それでというのです。
「今日はこうしてだよ」
「ローズティーを飲むね」
「そうするね」
「それも楽しんで」
「そのうえで」
「学問もするよ」
こう言って本を読むのでした、そしてです。
本を読みながらきりのいいところで栞を入れます、そのうえで皆に対してこんなことを言ったのでした。
「実は二世紀には麻酔があったんだよ」
「ああ、中国にね」
「三国志にも出て来る華佗さんが使っていたね」
「そうだったね」
「そうだよ、ただね」
先生は皆にさらにお話します。
「華佗さんの医学書は失われたんだよね」
「そうだよね」
「華佗さんが亡くなった時にね」
「燃やされたんだよね」
「そうなったね」
「このことを残念だと言う人もいるよ」
華佗さんが書いた医学書が失われたことがというのです。
「麻酔だけじゃなくて色々なことが書いてあったらしいから」
「華佗さんは名医だったね」
「それも歴史に残るまでの」
「その華佗さんの残した書だから」
「残念に思う人もいるね」
「それがね」
それでもというのでした、先生は。
「華佗さんは言うなら天才だったからね」
「まさか華佗さんだけが出来たとか」
「華佗さんだけが理解出来たとか」
「そんな風だったんだ」
「そもそもいきなりだよ」
そう言ってよかったというのです。
「麻酔使う人が出た風なんだよね」
「華佗さんが急に使いだした」
「そんな風だったんだ」
「あの人が麻酔を使いだした」
「それまで誰も使っていなかったのに」
「そうだったからね」
それでというのです。
「その華佗さんの書もね」
「果たして理解出来たか」
「華佗さん以外の人が」
「そのことが問題だね」
「実は」
「兎に角華佗さんは突出した天才で」
そうした人手というのです。
「他の人とは違ったんだ」
「ううん、そういえばね」
「華佗さんからずっと麻酔使う人出なかったね」
「言われてみれば」
「どの国にもね」
「そうだしね、華佗さんは凄過ぎるよ」
先生は唸ってこうも言いました。
「医学の歴史全体を見てもね」
「麻酔だけじゃなくて」
「そちらのこともだね」
「何かと凄かったんだね」
「そうなんだ、ただ麻酔があったら」
それならというのです。
「もうそれだけでね」
「全く違うね」
「そうだよね」
「手術の際の痛みって凄いから」
「ついつい痛みで暴れるからね」
「そして手術の間意識があったら」
このことについてもお話するのでした。
「どうか」
「とんでもないよね」
「やっぱり麻酔って必要よね」
「外科手術にはね」
「痛みと意識がなくなる」
手術の間です。
「本当にこのことはね」
「大事だね」
「それだけで全く違うわ」
「本当にね」
「そうだよ、医学の進歩に」
このことにというのです。
「麻酔はどれだけ貢献したか、そして多くの命を救ったか」
「そう考えるとね」
「麻酔って本当に大きいね」
「その存在が」
「麻酔を生み出すまでも」
この時までもというのです。
「大変だったしね」
「日本でもね」
「奥さんが実験に申し出て」
「それで失明したりとか」
「大変だったね」
「何かを生み出す、発展するにあたってね」
その時にというのです。
「犠牲が出てしまうこともあるんだよ」
「時としてね」
「医学もそうで」
「麻酔も然りだね」
「むしろ医学はね」
先生は難しいお顔で言いました。
「その発展にあたって」
「犠牲が出た」
「それもかなり」
「そうなんだね」
「そうだよ、このことはね」
どうしてもというのです。
「事実だからね」
「否定出来ないね」
「今に至るまでにどれだけの犠牲が生じたか」
「数多くの犠牲が出たね」
「そのことはね」
どうしてもというのです。
「否定出来ないよ」
「そう考えるとね」
「色々考えてしまうね」
「医学の発展には多くの犠牲も生じた」
「そのことについて考えたら」
「どうしてもね、ただね」
ここで先生はこうも言いました。
「犠牲を忘れないで」
「これからに役立てる」
「それが大事だね」
「医学の発展に」
「そうだよ、麻酔にしてもだよ」
今学んでいることについてもというのです。
「知ることだよ」
「数多くの犠牲が出た」
「そのうえで生み出された」
「そうしたものだってことを」
「そうだよ、そして麻酔がない時代は」
その頃のこともです、先生はお話しました。
「強いお酒を飲んで酩酊させたりね」
「ああ、酔うとね」
「それで痛み感じないし」
「意識もなくなるし」
「動けなくもなるね」
「あと気絶させたりもしてね」
こうしたやり方もあったというのです。
「その間にだよ」
「手術していたんだ」
「そんな風にしていたんだ」
「麻酔がなかった時代は」
「そうしていたのね」
「そうなんだ、人は工夫をするね」
先生は皆にお話しました。
「だからだよ」
「麻酔がないならないで」
「そうしたことをしていたんだ」
「その頃は」
「そうなんだ、ただ凄い人もいて」
先生は強い声で皆に言いました。
「麻酔なくても手術を受けた人もいるよ」
「関羽さんだよね」
「その華佗さんから手術を受けた」
チープサイドの家族がその人が誰か言いました。
「あの人だね」
「麻酔を断ったんだよね」
「それで傷口を開かれて骨を削られて」
ジップは想像するだけで痛そうだと思いつつ言いました。
「物凄い手術だってけれど」
「関羽さんは全く平気で」
それでと言うチーチーでした。
「囲碁してお喋りしてたんだね」
「物凄いわね」
ガブガブは思わず唸ってしまいました。
「私達にはちょっと無理よ」
「絶対に相当痛かったのに」
「それでも平気だったなんてね」
オシツオサレツも二つの頭で言います。
「想像を絶するよ」
「関羽さんならではだね」
「豪傑だったっていうけれど」
それでもと言うダブダブでした。
「こんなこと関羽さん以外に出来ないね」
「普通の人じゃ我慢出来ないわ」
ポリネシアは心から思って言いました。
「絶対にね」
「関羽さんは強かったけれど」
ホワイティの口調はしみじみとしたものでした。
「痛みも平気で耐えることも出来たんだね」
「強くて忍耐力もある」
老馬はその手術の有様を想像しつつお話します。
「関羽さんは本物の豪傑だね」
「だから今も人気があるんだね」
トートーは思いました。
「そうなんだね」
「こんな人は流石に滅多にいないよ」
先生も皆に言います。
「だから例外としてね」
「考えることだね」
「関羽さんみたいな人は」
「滅多にいない」
「そうだって」
「そうだよ、関羽さんか関羽さんみたいな人でないと」
それこそというのです。
「無理だよ」
「そうよね」
「ここにいる誰も出来ないよ」
「そんな痛みに耐えるなんて」
「それも平気で」
「どうしても最低でもみじろぎはするよ」
手術をした時にというのです。
「痛みでね」
「我慢出来ない痛みってあるからね」
「感覚ってあるからね」
「どうしても」
「感覚は嘘を吐かないから」
「そう、言葉では嘘を吐けても」
そうであってもというのです。
「けれどね」
「感覚は嘘を吐かないからね」
「観ても聞いても」
「味わっても」
「考えても」
「そして感じても」
「それでだよ」
どうしてもというのです。
「そのことは否定出来ないよ」
「嘘って言葉だけだからね」
「五感は嘘吐かないからね」
「言葉で自分を誤魔化せても」
「五感は嘘を吐かないからね」
「痛みを感じたら」
そうしたらというのです。
「本当にね」
「それに我慢出来なくもなるよ」
「あまりにも痛いと特に」
「それで身じろぎもするよ」
「どうしても」
「だから麻酔が必要なんだよ」
手術の痛みに耐える為にというのです。
「その痛覚、それに意識もね」
「なくさないとね」
「手術の間」
「そうしないとね」
「やれるものじゃないからね」
それでというのです。
「どうしてもだよ」
「麻酔が必要だったね」
「なかった頃はお酒とかで工夫して」
「華佗さんも生み出したんだね」
「そうだね」
「そうだよ、ただ華佗さんの麻酔はどんなものかわかっていないけれど」
ここでまたこの人のお話をする先生でした。
「この人は天才だったっていうね」
「そうだよね」
「それもかなりの」
「歴史に残るまでの」
「薬の調合も天才で」
そづであってというのです。
「麻酔の調合もだよ」
「他の人には出来ない」
「そんなものだったんだ」
「レシピがあっても」
「それを書いた本があっても」
「そうだったかもね、超一流の料理人のレシピをね」
お料理に例えて言うのでした。
「果たしてね」
「普通の料理人が作られるか」
「誰でも出来るか」
「それなりの力量がないと無理な場合もあるわね」
「お料理にしても」
「そうだよ、だからね」
それでというのです。
「僕もさっき言ったんだ」
「例え華佗さんの書が残っていても」
「そのまま医学の発展に役立てられたか」
「それはわからなかったんだ」
「どうしても」
「そうも思うよ」
先生としてはというのです。
「本当にね」
「つまりオーバーテクノロジーだったんだ」
「華佗さんの医学は」
「当時としては」
「だって千六百年は後になって」
それからというのです。
「麻酔が出て来たんだよ」
「そう思うと凄いね」
「華佗さんの技術は」
「桁が違うね」
「華佗さんはそこまでの天才だったんだ」
「お薬の調合もね」
こちらもというのです。
「何でもそれぞれの素材を目分量で完璧にしたそうだしね」
「そんな人だったんだ」
「本当に天才だったんだ」
「いや、突出した天才だね」
「それはまた」
「皆もそう思うね、そんな人だったから」
それでというのです。
「スポーツで言うと大谷翔平さんみたいなことが他のプロ野球選手に出来るか」
「出来ないよね」
「流石に」
「投打二刀流なんて」
「とてもね」
「世の中ごくごく稀にだよ」
先生は唸る様にして皆に言うのでした。
「天才の中の天才と言っていい」
「とんでもない人が出るね」
「有り得ないまでに凄い人が」
「そうだね」
「大谷翔平さんもそうで」
この桁外れの人もというのです。
「そしてね」
「華佗さんもなんだ」
「桁外れの人だったんだ」
「もう有り得ない位の」
「そうだったとね」
その様にというのです。
「僕は思うよ」
「そんな人の書だとね」
「本当に理解出来ないかもね」
「並の人だと」
「読んでも理解出来なくて」
「実現出来ないかもね」
「そうも思うよ、大谷さんのトレーニングメニューや生活の様子を知って」
そうしてというのです。
「そのままに出来るか、してもね」
「大谷さんになれるか」
「流石に無理じゃないから」
「あの人みたいになるなんて」
「流石にね」
「だからメジャーでも驚かれているんだ」
世界中から凄い野球選手が集まる場所でもというのです。
「ベーブ=ルース以上だってね」
「野球の神様って言われた」
「あの人以上に凄いって」
「そう言われてるんだね」
「あの人は」
「大谷さんには近付けるよ」
このことは可能だというのです。
「けれどね」
「大谷さんの域に達することが出来るか」
「それはどうか」
「難しいことだね」
「そう思うよ」
先生はというのです。
「本当にね」
「流石にそうよね」
「大谷さんはまた違うから」
「バッターとしてもとんでもないけれど」
「ピッチャーとしても超人的だから」
「あそこまで至ることはね」
とてもというのです。
「普通の才能では無理よ、そして華佗さんもね」
「同じなのね」
「あまりにも才能が凄過ぎた」
「だから華佗さんの様に出来るかっていうと」
「他のお医者さんが」
「無理だったんじゃないかな」
先生は皆に考えるお顔で言いました。
「あまりにもオーバーテクノロジーな感じがするよ」
「そう言われるとわかるね」
「私達にもね」
「実際千数百年華佗さんみたいに出来た人いないしね」
「麻酔とか外科手術とか」
「そんなこと出来た人って」
「何しろ百二十歳に達していて」
それだけ長生きしてというのです。
「お肌は瑞々しかったそうだしね」
「仙人さん?」
「そこまでいったら」
「もう普通じゃないわよ」
「百二十歳って」
「今でもギネスに載る位長生きでね」
そうであってというのです。
「しかもそれで元気だったそうだから」
「ううん、人間離れしてるよ」
「最早ね」
「本当に野球で言うなら大谷さん」
「そこまでの人だったんだ」
「そうだったよ、だから麻酔もね」
この技術もというのです。
「当時そして長い間華佗さんだけが出来た」
「そんなものだったんだ」
「じゃあ華佗さんの医学書が残っていても」
「その通りに出来たか」
「無理だったかも知れないんだね」
「そうかもね」
こんなお話をしながらです。
先生は麻酔について学んでいきました、そして気分転換にローズティーも楽しんでいましたがそこで、でした。
ふとです、皆も先生と一緒に紅茶を飲みつつ言いました。
「薔薇って食べることも出来て」
「こうして飲みものにも使えるからね」
「いいお花だよね」
「形もよくて」
「香りもでね」
「そうだね、ただね」
先生は皆に笑顔でお話しました。
「奇麗な薔薇には棘があって手入れもね」
「必要だよね」
「それを行うこともね」
「大事だよね」
「そうだよ、薔薇にしてもね」
このお花もというのです。
「寄生虫の心配があるよ」
「そうだよね」
「何もせずに奇麗になるか」
「そうじゃないよね」
「これが」
「そう、奇麗なままでいる様にするには」
薔薇の花達がというのです。
「やっぱり努力がだよ」
「必要だね」
「どうしても」
「何もせずに奇麗なままでいられない」
「そうだね」
「そのことはね」
どうしてもというのです。
「覚えておかないとね」
「そうだよね」
「植物園の薔薇園もだよね」
「手入れは怠っていないね」
「そうだね」
「勿論だよ、イギリスはガーデリングでも知られているけれど」
そうであってというのです。
「薔薇の手入れもね」
「好きな人は欠かしていないね」
「お庭に薔薇を置いてね」
「そうして手入れしてるね」
「ガーデニングで薔薇がお好きな人達は」
「そうしているからね、薔薇にも寄生虫がいることは」
このことはというのです。
「本当にね」
「忘れたら駄目だね」
「どうしても」
「それで手入れして」
「ちゃんとしないと駄目だね」
「その点あの植物園は立派だよ」
日笠さんと一緒に参加させてもらったティーパーティーの時に観た色々な薔薇達を思い出しつつ言うのでした。
「本当にいつもね」
「手入れしていて」
「奇麗にしているからね」
「素晴らしいよね」
「植物園の人達も頑張ってくれているね」
「寄生虫もいないしね、ただ」
こうも言う先生でした。
「一つ気になることはね」
「何?」
「何かな」
「あそこに問題あるの?」
「うん、植物園全体に言えることだけれど」
そうであるけれど、というのです。
「日本人ならではのところが見えるね、薔薇の置き方とか」
「あっ、左右対称じゃないね」
「そういうのないよね」
「薔薇園もそうで」
「他の場所もね」
「お庭みたいにしていても」
それでもというのです。
「左右対称じゃないね」
「欧州や中国だと左右対称にするのに」
「日本は違うよね」
「自然の配置を再現する」
「そんな風だね」
「そのことを実感するよ」
植物園に行ってもというのです。
「立派に手入れされていて」
「それと共にね」
「自然のまま」
「左右対称じゃない」
「そうした植物の配置だって」
「人工の川やお池をもうけていても」
そうであってもというのです。
「自然の在り方を再現してるね」
「そうそう」
「そうなんだよね」
「日本だとね」
「植物園でもね」
「あの植物園でも感じるよ」
先生はしみじみとしてお話しました。
「ああ、日本だなってね」
「薔薇園でもね」
「見事に左右対称じゃないから」
「自然を再現したかの様な配置でね」
「道にしてもね」
「欧州の宮殿だと」
先生はイギリスやフランスの宮殿を思い出しつつ言いました。
「お庭、庭園は左右対称で」
「道だってね」
「左右対称でね」
「奇麗に整えてるよね」
「同じ奇麗に整えていてもね」
そうであってもというのです。
「本当にね」
「そこが違うね」
「日本のそうしたところがわかるね」
「薔薇園でも」
「イギリス風にティーパーティーを行っても」
それでもというのです。
「イギリス生まれの僕から見ると」
「そこがだよね」
「日本だなって思ったね」
「そうだね」
「そうだよ、そしてね」
そのうえでというのです。
「面白いと思ったよ」
「日本にいるってね」
「日本ならではだってね」
「そう思ったね」
「先生も」
「そうだよ、まあイギリスの趣をね」
それをというのです。
「再現している場所もあるね」
「そうだよね」
「そうした場所も植物園にはあるね」
「欧州風の場所や中国風の場所も」
「しっかりとね」
「うん、けれど基本は」
それはといいますと。
「やっぱりね」
「日本だよね」
「日本だけあって」
「そうなってるよね」
「庭園も」
「それが面白いね、いや日本の薔薇園でティーパーティーなんて」
先生は笑顔でお話しました。
「実にいいよ、紅茶も美味しかったしね」
「というか薔薇やけに健康じゃない?」
こう言ったのはホワイティでした。
「日本だと」
「お花全体がそうじゃないかな」
老馬はホワイティの言葉を受けて言いました。
「どうも」
「土がいいからかな」
トートーはそこに理由を求めました。
「それでかな」
「あとお水だね」
ジップは土だけでなくこちらもと言いました。
「何と言っても日本のお水は質がいいからね」
「あと気候もあるわよ」
ガブガブはこちらのお話をしました。
「日本の気候って四季があるからね」
「寒暖があってね」
「それがまたいいのかもね」
チープサイドの家族もお話します。
「お花には」
「勿論薔薇にもね」
「物凄く植物豊かな国だけれど」
チーチーはお花だけのお話をしませんでした。
「四季や日本の自然が大きいんだ」
「だから薔薇もいいのかな」
ダブダブは首を傾げさせつつ言いました。
「食べても美味しいし」
「やっぱりそうしたものがいいとお花もよくなるね」
「土にお水に気候もだと」
オシツオサレツはここでも二つの頭で言いました。
「お花もよくなって」
「食べても美味しいのかな」
「思えばイギリスって土もお水もよくないから」
それでと言うポリネシアでした。
「薔薇にも影響するね」
「そうだね、兎に角日本は土もお水もよくて」
先生は皆の言葉に頷いて言いました、その手には今もローズティーがあってとても美味しく楽しんでいます。
「気候もいいからね」
「それが僕達を快適にさせてくれているけれど」
「植物にもそうで」
「ひいてはお花にも」
「それで薔薇にもだね」
「そう、薔薇もね」
このお花もというのです。
「質がいいね」
「食べても美味しいしね」
「紅茶にしても」
「勿論お菓子にもで」
「観ても健康そうだね」
「そうだね、いや日本はお花も奇麗になるなんて」
先生は笑ってお話しました。
「素敵な国だよ、平安神宮に行ったら」
「京都のね」
「あちらのお庭も奇麗だね」
「本当に」
「薔薇はないけれどね」
それでもというのです。
「それでもね」
「色々なお花があって」
「どのお花も奇麗なんだよね」
「さっき僕達が話した日本のお庭でね」
「川も人工だけれど奇麗で」
「それで色々なお花があるね」
「そしてどのお花もね」
彼等のことを思い出しながらお話しました。
「実に奇麗だね」
「色々なお花があって」
「それでね」
「凄く奇麗だよね」
「うっとりする位」
「しかもそこに和歌まであるから」
日本のこの歌がというのです。
「凄くね」
「いいよね」
「和歌まであるなんて」
「最高だよね」
「そう、そしてあちらもね」
平安神宮もというのです。
「お花の質がいいよね」
「勿論手入れされてのことだけれど」
「そもそも土とお水がいいから」
「だから奇麗なんだよね」
「健康的で」
「しかも適度に暖かくて寒いことが」
日本の気候がというのです。
「いいね、しかし」
「しかし?」
「しかしっていうと?」
「どうしたのかな」
「僕は一体日本の素晴らしさにどれだけ触れればいいのかな」
楽しそうに笑ってです、先生はこんなことも言うのでした。
「一体ね」
「お花もいいなんてね」
「そして薔薇も」
「そうした国だってね」
「素晴らし過ぎるね」
「全くだよ、本当にね」
まさにというのです。
「この国は素晴らしいものに満ちているよ」
「日本に来てよかったね」
「先生はね」
「そして僕達も」
「全くだね」
「そうだよ、日本は素晴らしいものに満ちているよ」
本当にというのです。
「何かとね、薔薇だってそうだしね」
「しかもティーパーティーのお菓子も美味しくて」
「勿論紅茶も」
「そちらもよかったね」
「うん、紅茶はお水が大事だけれど」
そうであるけれど、というのです。
「日本のお水は最高だからね」
「今飲んでいるお水もだよ」
「日本のお茶だしね」
「元は水道水だけれどね」
「神戸のお水だよ」
「いや、水道水は馬鹿にしてはいけないよ」
先生は普通に飲んでいるこのお水のお話もしました。
「絶対に」
「あっ、水道水にも科学の粋が集まっているからね」
「濾過して浄化してね」
「奇麗にして」
「そのうえで皆のところに届けているから」
「物凄く清潔になっているからね」
だからだというのです。
「絶対にだよ」
「馬鹿に出来ないね」
「水道水も」
「そうよね」
「そうだよ」
まさにというのです。
「水道水はね」
「そうだよね」
「物凄く素晴らしいものだから」
「決して馬鹿に出来ない」
「普通に美味しく飲めるね」
「確かに市販のミネラルウォーターは美味しいよ」
このことは事実だとです、先生も認めます。
「けれどね」
「水道水もだよね」
「馬鹿に出来ない」
「美味しい」
「そうだね」
「そうだよ、清潔で美味しくなる様になっているから」
それ故にというのです。
「本当にね」
「馬鹿にしてはいけない」
「とても美味しいね」
「そうだよね」
「美食家だからと言って」
それでというのです。
「水道水を飲まない人はね」
「間違ってるね」
「それは本当の美食家か」
「疑問よね」
「昔はね」
かつてはというのです。
「やっぱり技術的に未熟でね」
「水道水は美味しくない」
「そうだったんだね」
「かつては」
「カルキが強くて」
そうであってというのです。
「夏は特に、だったけれど」
「日本でもね」
「それでそのまま飲まないで一旦沸騰させたりして」
「カルキ抜いてから飲んでいる人いたわね」
「夏だと麦茶にして」
「そう、そこから冷やしてね」
そうもしてというのです。
「飲んでいたよ」
「そうだったね」
「昔はね」
「日本でもそうだったわね」
「水道水は」
「けれど今は技術も上がって」
水道水を浄化したりするそれもというのです。
「カルキの匂いや味もね」
「なくなったね」
「それで夏も普通に飲めるね」
「そうなっているわね」
「そうだよ、もう今はね」
それこそというのです。
「水道水はね」
「決して馬鹿に出来ないね」
「そのまま美味しく飲める」
「勿論こうしてポットでお湯を作って」
「お茶にして飲んでもいいわね」
「美味しいんだね」
「そうだよ、水道水を馬鹿にするなら」
それならというのです。
「もうね」
「それこそだよね」
「こうして普通に飲めない」
「食べものだってそうだね」
「水道水を使っているからね」
「その通りだよ、水道水を馬鹿に出来ないよ」
今もローズティーを飲みつつ言うのでした。
「絶対にね」
「そうしたことがわかっているのも先生だね」
「ちゃんとした知識がある」
「そのうえでお話して動く」
「それも先生だね」
「科学の知識はちゃんとないと」
そうでないと、というのです。
「困るからね」
「自分も周りも」
「そうなるよね」
「どうしてもね」
「そうなるからね」
だからだというのです。
「僕はいつも意識してるよ」
「科学への知識」
「正しい知識を備える」
「そうしているね」
「そうだよ、ただこの世に万能のものはなくて」
こうも言う先生でした。
「科学だってね」
「同じだよね」
「科学も万能じゃない」
「そして絶対じゃないね」
「神のお力の一つだからね」
科学はというのです。
「それでね」
「そのこともだよね」
「しっかり頭に入れてるね」
「そして万能視しない」
「絶対視もしないね」
「そうしたら失敗するよ」
科学を万能とか絶対とか思ってはというのです。
「まして進歩していくものだし」
「今の化学で何でも語るとね」
「失敗するよね」
「そうなるね」
「そうだよ、今の科学をそう思って」
万能や絶対のものと、というのです。
「何でも語るとね」
「とんでもない間違い犯すよね」
「もう恥ずかしいことこの上ない」
「そんな間違いをするわね」
「まして未来の技術を語ったら」
現代の科学の知識でというのです。
「こんな滑稽な失敗はないっていう位のね」
「間違いを犯して」
「目も当てられないわね」
「そうよね」
「一九四〇年代の科学の知識だとね」
これならというのです。
「もう一九八〇年代のこともだよ」
「語れないね」
「とても」
「それこそ」
「全くだよね」
「あらゆる学問が進歩、発展して」
そうしてというのです。
「そのうえでね」
「新しいこともわかるし」
「それは科学もだから」
「今の科学で未来のそれを語っても」
「意味がないね」
「むしろ今の科学の予想よりもだよ」
それよりもというのです。
「凄いものがね」
「生まれるね」
「そうしたことあるよね」
「本当に」
「漫画やアニメの話でもね」
創作の世界のそれでもというのです。
「それこそだよ」
「全くだよね」
「未来の科学技術は語れないわよね」
「今の科学技術では」
「とても」
「飛行機なんて無理だと言った人がいた筈だよ」
先生は言いました。
「けれどだね」
「飛行機は生まれたね」
「そして今世界中で飛んでいるわ」
「そうなっているよ」
「人間は気球や飛行船でお空を飛んでも」
このこともというのです。
「気球が出る百年前は誰が出来るなんてね」
「思ったか」
「飛行機だって」
「そちらもね」
「けれどライト兄弟は果たしたよ、今は無理でも」
そうであってもというのです。
「未来はわからないよ、だから創作のことでもね」
「今の技術では語れない」
「無理だと言えない」
「そうよね」
「そうだよ、無理だ不可能だと言って」
今の科学技術で未来のそれをというのです。
「子供の夢を壊したとか言って笑っているならな」
「無意味だね」
「そんな主張は」
「そしてそんなことを書いた本は」
「そんなことを言う人は」
「こんな人はこの世で最も無駄なことの一つに励んで」
今の科学技術で未来のそれを語るということをというのです、先生は穏やかですが確かな声で言うのでした。
「生きているならね」
「無意味でね」
「無駄なことに情熱を費やして」
「無駄な人生歩んだわね」
「こんな無駄な人生もないよ」
先生は断言しました。
「僕がいつも思っていてね」
「時々言ってるね」
「学問は進歩するもので」
「科学もそうだから」
「今のそれで未来は語れない」
「そうだって」
「悪事しかしない人生、何の努力もしないでふんぞり返っているだけの人生も無駄だけれど」
それと共にというのです。
「そうした人生もだよ」
「無駄よね」
「つまらない人生だね」
「本当に」
「全くだよ、世の中無駄はないと言うけれど」
先生はこうも言いました。
「その時無駄なことをしたと思っても」
「後でそれもいい経験だったってね」
「わかったりするよね」
「それも人生だよね」
「けれどこうした人生はね」
どうにもというのです。
「無駄と言っていいよ」
「無駄なことしてね」
「無駄に人生を消費した」
「そんなものだね」
「そんなことを書いた本なんてこれ以上はないまでにつまらなくて」
そうであってというのです。
「そんな本でお金を儲けてもね」
「つまらないね」
「こんな下らない人生はないね」
「本当に」
「そうだよ、世の中それに学問の進歩を否定というか知ろうともしない」
そうしたというのです。
「これ以上はないまでに愚かでね」
「意味がない」
「そんな人生よね」
「そんな人のそれは」
「全く以てね」
こう言うのでした、そしてです。
先生は本を読むのでした、人類の進歩を考えその一部となっている麻酔についての本をどんどん読んでいくのでした。