『ドリトル先生の落語』
第二幕 大学の落語研究会
ユーチューブの動画で昭和の漫才の舞台を観てです、先生はトミーに対してこんなことを言いました。
「いや、面白いね」
「昔の漫才はですか」
「うん、笑わせようってね」
その様にというのです。
「本気で思ってね」
「漫才をしていますね」
「舞台でね」
そちらでというのです。
「本気でやってるよ」
「だから面白いんですね」
「そうなんだ、お笑いに命を賭けると言うと」
先生は自宅の居間でちゃぶ台の前に座って観ながら言うのでした。
「大袈裟かも知れないけれど」
「それでもですね」
「全力でね」
「お笑いをやったら」
「その人達の技量があっても」
今は二人の漫才です、それで人達と言ったのです。
「やっぱりね」
「気迫があって」
「本気だとね」
「面白いんですね」
「それに最初は技量が備わってなくても」
それでもというのです。
「後でね」
「備わっていきますね」
「お笑い、漫才や落語のね」
「練習をしますね」
「そうするからね」
「技量も上がっていきますね」
「そうだよ、それこそね」
まさにというのでした。
「寸暇を惜しむ位のね」
「練習をして」
「そしてね」
その結果というのです。
「技量もね」
「上がっていきますね」
「そうだよ、次第にね」
「よくなっていきますね」
「うん、けれどね」
それでもというのでした。
「笑わせるっていうね」
「気がないとですね」
「練習をしてもね」
「身が入っていなくて」
「それでね」
そうした風でというのです。
「よくならないんだ」
「練習もやる気あってですね」
「そうであってこそね」
まさにというのです。
「よくなるんだ」
「そういうことですね」
「それがないから」
「今のお笑いはですね」
「駄目だよ、それにね」
先生は首を傾げさせてこうもお話しました。
「ほら、しゃもじを持って他の人のお家に上がり込んでご飯を貪る」
「あの嫌そうなお顔の落語家さんですね」
「あの人は嫌われてるね」
「特に野球ファンの人達に」
「そうだよ、あの人は野球のことで知ったかぶりして」
「自分が応援するチーム以外のチーム自体を馬鹿にしていますね」
「球界で問題があっても」
そうした時もというのです。
「自分が応援するチームの太鼓持ちでね」
「他のチーム、選手もファンの人達も馬鹿にするので」
「だからね」
それでというのです。
「あの人はね」
「嫌われいますね」
「嫌いな人の芸なんて笑えないね」
「はい、むしろ見ただけで」
その姿をというのです。
「ユーチューブの動画でもです」
「すぐに切りたくなるね」
「あの落語家さんはそんな人ですね」
「だから最近ね」
「お仕事全くないそうですね」
「そんなことばかり言って性根もね」
こちらもというのです。
「非常にね」
「悪いので」
「だからね」
それでというのです。
「あの人は嫌われて」
「もう芸以前ですね」
「それでね」
「嫌われていて」
「ああなったらね」
それこそというのです。
「お笑いをする人として」
「おしまいですね」
「座に出る時に野球の音楽をかけるけれど」
「野球のですか」
「私を野球に連れてってね」
それだというのです。
「アメリカでラッキーセブンにかかる」
「あの曲ですね」
「けれどそんな曲はね」
「あの人に相応しくないですね」
「そんな人だよ、一つのチームばかりでね」
「他のチームを馬鹿にする人は」
「本当の野球ファンじゃなくて」
それでというのです。
「自分が知らなくても嫌われる様なことをする人は」
「お笑い芸人じゃないですね」
「あの人は落語家じゃないよ」
先生は断言しました。
「只の嫌われ者だよ」
「それに過ぎないですね」
「そうだよ」
「だからもうお仕事がなくなって」
「それでね」
そのうえでというのです。
「誰からもね」
「相手にされなくなっていますね」
「誰も嫌いな人には笑わなくて」
「助けもしないですね」
「何しろ自分が応援しているチーム以外の全部のチームを馬鹿にしているんだよ」
「それならそのチームの関係者全てからですね」
「嫌われるのも道理で」
それでというのです。
「それで今はね」
「そうなっているんですね」
「そうだよ、他の人のお家に上がり込んでご飯を漁っても」
「面白くもないですね」
「むしろその行いを知っている人から見れば」
そうすればというのです。
「人のご飯を食べても」
「面白くもないですね」
「座を観てもね」
「腹が立つだけですね」
「だからね」
先生はさらに言いました。
「お笑いをする人はまずは」
「嫌われないことも大事ですね」
「クラスでも嫌われてる人が何かをしてもね」
「白い目で観られるだけでですね」
「それと一緒でね」
「お笑いをすると」
「嫌われることは絶対にだよ」
それこそというのです。
「避けなくてはいけないよ」
「むしろ好かれることですね」
「そういうことだよ」
「笑わせる、好かれる」
「お笑いは実はね」
「厳しい道でもありますね」
「そうなんだ、本物のね」
まさにというのです。
「お笑い芸人はね」
「しっかりした人ですね」
「ただ昔の芸人さんは破滅的な人生もね」
「送ってきた人もいますね」
「何でも芸の肥やしと言って」
そうしてというのです。
「遊んでお金の使い方もね」
「滅茶苦茶で」
「それで破滅的な人生を歩んだ人もね」
「いたんですね」
「横山やすしさんとかね」
先生は残念そうにこの人のお名前を出しました。
「あの人のお笑いは凄かったけれど」
「破天荒に生きて」
「そして問題もね」
「かなり起こしましたね」
「そうした人もいたよ」
かつてはというのです。
「肝硬変になってドクターストップかかっても」
「それでもまだ飲んで」
「漫才も出来なくなっていたけれど」
最後の方はです。
「それでもそうした生活で」
「確か五十歳位で」
「今それ位だと若いけれど」
「亡くなってしまいましたね」
「うん、こうした人もいたんだ」
「昔のお笑いの人は」
「藤山寛美さんも借金かなりあったしね」
この人もというのです。
「昔の芸人さんはね」
「破天荒な人もおられましたね」
「そうだったよ」
こう言うのでした。
「昔の日本はね」
「ううん、けれどね」
ガブガブはここで言いました。
「横山やすしさんとか何処か憎めないね」
「近くにいたら大変だと思うけれど」
チーチーも言います。
「確かに憎めないね」
「破天荒で滅茶苦茶でも」
トートーは思いました。
「いなくなったら寂しい人だね」
「動物園の猛獣みたいな感じかしら」
こう言ったのはダブダブでした。
「遠くで観るべき人ね」
「けれど遠くから観ていても」
「面白くてね」
オシツオサレツも二つの頭で言います。
「そして憎めない」
「何処か暖かさもあって」
「実際そうした人の目って暖かいよ」
ホワイティはお顔のそこを言いました。
「お笑いやる時も笑っていてね」
「お笑いに真剣で必死で」
ジップも言いました。
「命を賭けてるって感じでね」
「そうした人なら」
ポリネシアは思いました。
「確かに憎めないわね」
「昔のお笑い芸人さんってそうだったんだね」
老馬の言葉はしみじみとしたものでした。
「私生活は破天荒でも憎めなかったんだ」
「けれど今はね」
「どうも違うのよね」
チープサイドの家族は昔から今を思いました。
「お笑いに真剣じゃない人がいて」
「目も笑ってなくて」
「そうだね、昔と今じゃお笑いは違っても」
先生はスマートフォンの動画を観つつ皆にお話しました。
「今のお笑いの人の中にはね」
「嫌われる人とかいて」
「お笑いに真剣じゃない人がいたりする」
「そしてテレビに出て有名になることばかり考えて」
「笑わせるんじゃないんだね」
「そうだよ、今お話した落語家さんは」
自称野球通のです。
「本当にお顔をテレビとか観ただけで本気で怒る人いるから」
「それはまた極端だね」
「滅茶苦茶嫌われてるね」
「そんなに嫌われる人なんだ」
「相当性格悪いんだね」
「生き方はお顔、人相に出るというけれど」
先生はこのことからもお話しました。
「あの落語家さんの人相は」
「ああ、物凄く悪いですね」
トミーもまさにと答えました。
「さっき僕嫌そうって言いましたけれど」
「人を笑わせる人の人相じゃないね」
「権力とか権威とかに媚びて生きてきて」
「自分より下と見た人を馬鹿にしてきたね」
「そんな人生を歩んできた人のお顔ですね」
「ああした人は清潔なことなんてね」
世の中のというのです。
「一切ね」
「無縁だったんですね」
「そんな人生を歩んできたんだよ」
「そうなんですね」
「人間そんな人生を歩んだら駄目だよ」
先生は心から述べました。
「幾らお金があって立場が出来ても」
「嫌われるだけですね」
「そうだよ、そして最後はね」
「ああしてですね」
「お仕事自体がなくなって」
そうしてというのです。
「誰からもね」
「助けてもらえなくなりますね」
「何もなくなるよ」
「そして寂しくですね」
「余生を過ごすことになるよ」
そうなるというのです。
「ああした人はね」
「全部自業自得ですね」
「そうだよ」
まさにという返事でした。
「ああした人はお笑い以前だよ」
「最早ですね」
「お顔を観ただけで本気で怒られるなら」
それ位嫌われるならというのです。
「芸を観てもらえないですしね」
「その前にお顔観たくないですからね」
「そんなのは論外だよ」
お笑い以前だというのです。
「本当にね」
「お笑いは嫌われたら終わりだね」
「もう芸以前だね」
「その辺り俳優さんや女優さんより厳しいわね」
「どうにも」
「そう言われたら」
「そうなんだ、面白いはいい要素で」
先生は皆にもお話しました。
「そこにはね」
「嫌われないだね」
「そのことも大事だね」
「嫌われることをしないで」
「好かれることだね」
「しかも性格って顔にも出るね」
人相にもというのです。
「横山やすしさんは破天荒でもね」
「人相悪くなかったね」
「実際目も暖かかったし」
「そうした人だったから」
「嫌われてもいなかったんだ」
「問題ばかり起こして漫才が出来なくなってね」
そうしてというのです。
「どうにもならなくなっても気に掛ける人は結構いたんだ」
「自称野球通の落語家さんと違って」
「そうした人がいたんだ」
「大変な時も」
「元相方の人も密かにご家族を援助していたそうだし」
そうしたこともあったというのです。
「やっぱりね」
「破滅型の人でも」
「気に掛ける人達がいてくれて」
「助ける人達もいたんだ」
「そうだったのね」
「あの人もね、残念ながらお酒で若くしてだったけれど」
五十歳で世を去ってしまったけれどというのです。
「そうした人だったんだ」
「そう思うと残念だね」
「尚更ね」
「問題を起こさなかったら」
「そう思うよ」
「僕もだよ、けれど破天荒でない横山やすしさんは」
それはといいますと。
「ちょっと想像つかないしね」
「そう言われるとね」
「確かにそうだよね」
「無茶苦茶じゃない横山やすしさんって」
「どうもね」
「あの人は演じたところがあるしね」
こうもです、先生は言いました。
「横山やすしという漫才師をね」
「本名は違いましたね」
「そうだよ、あの芸名を貰ってね」
トミーに答えて言いました。
「それでね」
「横山やすしになったんですね」
「それでね」
「それからはですね」
「横山やすしとして生きていて」
「横山やすしを演じて」
「それでね」
そのうえでというのです。
「ああしたね」
「破天荒な人になったんですね」
「そうした人を演じていたんだよ」
「そうだったんですね」
「素顔はね」
芸名のそのお名前を離れると、というのです。
「小心だったそうだよ」
「意外だね」
「そうだね」
「お話を聞いてるとね」
「随分喧嘩っぱやいところもあって」
「強気な感じだけれど」
「矢鱈と喧嘩っぱやかったこともね」
先生はこちらのお話もするのでした。
「本当に強い人は喧嘩しないね」
「ああ、余裕があってね」
「心にね」
「それに暴力の酷さを知っていて」
「喧嘩はしないね」
「暴力教師を見ればわかるね」
日本によく見られる最低な人達のお話もしました。
「何故生徒をいつも殴って蹴って罵るのか」
「生徒って子供だしね」
「まだほんのね」
「大人である先生と比べて身体小さいし」
「力もないしね」
「格闘技をしていてもまだまだ未熟だし」
「それに先生と生徒じゃ立場が圧倒的に違うね」
先生はこのこともお話しました。
「そうだとね」
「反抗どころか意見も言えないね」
「中々ね」
「教える立場と教えられる立場」
「先生に権力があるね」
「それも生徒から見れば絶対の」
「そんな圧倒的に有利な状況があるからだよ」
先生は皆に非常に否定的にお話しました。
「暴力を振るうんだよ」
「考えてみれば最低だね」
「相手が何も出来ないから暴力を振るう」
「力も弱くて反抗出来る立場にない」
「そんな相手だから暴力を振るうんだね」
「そうするんだよ」
まさにそうだというのです。
「先生はね」
「そんな先生を何とかしないとね」
「日本の深刻な問題だよ」
「暴力を受ける生徒の人達が可哀想よ」
「本当にね」
「全くだよ、そしてね」
先生はさらにお話しました。
「こんな先生達が強いと思えるかな」
「いや、本当の強さってね」
「自分より弱い相手を殴ったり蹴ったりすることじゃないから」
「罵ったりもね」
「そんなのはヤクザ屋さんのすることだしね」
「そう、本当の強さは自分の大事なものを守れる力でね」
先生は言いました。
「そんなものじゃないよ」
「そうだよね」
「間違ってもね」
「そんな力じゃないね」
「絶対に」
「相手が何も出来ないと思って振るう力は卑怯だよ」
先生は断言しました。
「自分より強いと思った相手にはね」
「絶対に向かわないね」
「むしろへこへこするね」
「そんな人は」
「そうだよ、そんな先生はヤクザ屋さんと同じで」
そうした類の人でというのです。
「人間として最低でね」
「小心者だね」
「自分より強い人には向かわない」
「弱いと思った相手にばかり向かう」
「そんな人だから」
「そうだよ、そして横山やすしさんもね」
この人もというのです。
「無茶苦茶だったのはね」
「横山やすしという人を演じていて」
「実は気が小さくて」
「それで滅茶苦茶やってたんだ」
「その実は」
「そうだったんだ、どっしりと構えてね」
そうしてというのです。
「しっかりした行動を取るのがね」
「本当に確かな人」
「そういうことだね」
「小心じゃないんだね」
「そういうことだね」
「そうだよ」
皆に朝こうしたお話をするのでした。
そしてそのうえで皆とさらにお話をしていくのでした、漫才のそれを。
先生は他に落語も観ました、そのうえで翌日登校するとキャンバス内の掲示板にとあるポスターを見ました。そのポスターはといいますと。
「ふうん、落語研究会なんだ」
「略して落研だね」
「この大学の落研が落語の舞台やるんだ」
「寄席やるんだね」
「今度そうするんだね」
「そうだね、この大学は部活も盛んだからね」
先生も言います。
「それでだね」
「そうだよね」
「それで落研も活動していて」
「寄席もやるんだね」
「そうなんだね」
「そうだよ、だからね」
それでというのです。
「今度行うってね」
「ポスター作って宣伝してるんだ」
「何時何処で行うか」
「見たらこの大学の中だね」
「ホールの一つでするんだ」
「そう書いてあるね、面白そうだね」
先生は微笑んでです、一緒にいる皆に言いました。
「これは」
「そうだよね」
「じゃあ行ってみる?」
「そして落語聞く?」
「そうしてみるよ」
先生は笑顔で答えました、そしてです。
そのうえで研究室に入って学問をしました。井原西鶴さんの論文を読んで自分も書きますがその中で皆に言いました。
「次は物理の論文だけれどね」
「ああ、それからはなんだ」
「次の論文は決まってないんだ」
「そうなのね」
「そうなんだ、依頼がなくてもね」
論文を書いて欲しいとです。
「自分が学びたいものがあるとね」
「学んで書く」
「そうするのが論文だよね」
「学問だよね」
「先生はそう考えてるね」
「そう、だからね」
それでというのです。
「物理の次も書きたいけれど」
「ううん、それがだね」
「まだ見つからないんだね」
「先生は」
「そうなんだ、まあゆっくりと考えるよ」
先生は微笑んで言いました。
「焦ってもね」
「そうそう、仕方ないしね」
「先生は元々焦らないしね」
「それも絶対に」
「そうした人だから」
「今回もだね」
「焦らなくてね」
それでというのです。
「じっくりと考えるよ」
「そうするね」
「それじゃあゆっくり考えよう」
「今は西鶴さんの論文書いてるし」
「次は物理があるし」
「そうだからね」
「まあ物理の論文を書いてる時にでもね」
「考えていこう」
「そうしようね」
こうしたお話もしてでした。
先生は論文を書いていきました、そしてです。
お昼はおうどん、きつねうどんと牛丼を食べました。食堂で食べましたが先生はそのおうどんを食べて言うのでした。
「ここのきつねうどんは美味しいね」
「そうだよね」
「牛丼もね」
「凄く美味しいね」
「いいよね」
「両方ね」
「そうだね、そういえば落語でもね」
こちらでもというのです。
「食べもののお話が多いんだよ」
「そうなんだね」
「落語と言ってもお話は多いんだね」
「何かとあるんだね」
「そうなのね」
「そうなんだ、一口に言ってもね」
落語とです。
「ネタは色々あって怪談もね」
「あるんだ」
「幽霊とか妖怪のお話も」
「そうしたのもあって」
「食べもののお話もなのね」
「あってね」
それでというのです。
「お話は実に多いんだ」
「ううん、そうだったんだ」
「落語のお話って多いんだ」
「怪談とか食べものとか」
「何でもあるんだね」
「そうだよ、だからこそ面白いんだ」
おうどんを食べて言うのでした。
「酢豆腐なんてものもあるし」
「酢豆腐?」
「お豆腐のお料理?」
「お豆腐にお酢をかけて食べるの?」
「お豆腐にぽん酢は美味しいけれど」
「そうなのかな」
「いや、実はね」
先生は酢豆腐と聞いてそうしたお料理かと考えた先生に笑顔でお話しました。
「また違うんだ」
「えっ、違うんだ」
「お豆腐にお酢かけたのじゃないんだ」
「また違うんだ」
「そうしたお料理なの」
「そうなんだ、これは知ったかぶりの若旦那にね」
お話の内容を紹介しました。
「腐ったお豆腐を酢豆腐を言って食べさせるお話なんだ」
「へえ、そうなんだ」
「酢豆腐じゃなくて腐ったお豆腐なんだ」
「そうしたのなんだ」
「だからね」
それでというのです。
「また違うんだ」
「成程ね」
「一体何かと思ったら」
「騙して食べさせるんだ」
「知ったかぶりの若旦那さんに」
「そうしたお話でね」
それでというのです。
「また違うから」
「わかったよ、そうなんだね」
「そうしたお話なんだ」
「食べもののお話でも」
「そうしたお料理がある訳じゃないんだね」
「そうだよ、まあお豆腐にお酢をかけて食べることはね」
このこと自体はというのです。
「やろうと思えば出来るね」
「それも簡単にね」
「というかぽん酢かけるの普通だし」
「それ結構美味しそうだね」
「言われてみれば」
「僕もそう思うよ」
こうお話するのでした。
「お豆腐好きだしね」
「そうだよね」
「今はおうどんと丼食べてるけれど」
「先生お豆腐もお好きだし」
「それじゃあね」
「そちらも好きだよ」
こう言ってです。
先生はおうどんをさらに食べます、そして薄揚げの後で麺をすすって笑顔でこんなことを言いました。
「この薄揚げと麺の組み合わせがね」
「いいんだよね」
「よく合うよね」
「大阪名物だけれどね」
「この神戸で食べても美味しいね」
「そうなんだよね」
皆に食べつつ言いました。
「落語では食べものお話も多いと言ったけれど」
「おうどんのお話もあるよね」
ジップが言ってきました。
「やっぱり」
「あとお蕎麦もだね」
トートーはこちらの食べものについて言及しました。
「ありそうだね」
「落語って江戸時代のイメージあるし」
「それだとね」
チープサイドの家族も言います。
「おうどんもお蕎麦もね」
「お話に出そうだね」
「お豆腐も出たし」
ポリネシアは酢豆腐のお話からお豆腐を出しました。
「それならね」
「お刺身とか天麩羅もあるかも」
食いしん坊のガブガブはこうした食べものも出しました。
「特にお寿司」
「如何にもありそうね」
ダブダブはガブガブの言葉に頷きました。
「確かにね」
「関西だと納豆はなさそうだね」
ホワイティはこの食べものはと思いました。
「昔は関西では納豆は食べなかったし」
「それでも東京の方じゃあるかもね」
老馬はこちらで納豆を食べることから考えました。
「食べるから」
「食べるならお話になる」
「それが落語だね」
オシツオサレツはこう言いました。
「そうだね」
「そうなるね」
「そうだね、あと落語は創作されてもいっているよ」
先生は皆にこうもお話しました。
「昔からのものだけでなく」
「へえ、今もなんだ」
「江戸時代からのお話だけじゃなくて」
「今も創られていってるんだ」
「新しいお話が」
「そうなんだ、だからね」
それでというのです。
「食べものについてもね」
「今の食べものでもいいんだ」
「おうどんやお蕎麦だけでなくて」
「今僕達が日本で食べている様な」
「そうしたものもあるんだ」
「そうだよ、例えば僕が今食べている牛丼でも」
それも食べて言うのでした。
「いいんだよ」
「そうなんだねね」
「牛丼で落語してもいいんだ」
「お話創っても」
「それでお話しても」
「いいんだよ、それでね」
そのうえでというのです。
「洋食でもいいしね」
「じゃあナポリタンとかオムライスとか」
「そんなものでもいいんだ」
「落語でお話しても」
「それでもなんだ」
「いいんだ、それとね」
それにと言う先生でした。
「スポーツもいいし」
「へえ、そっちもいいんだ」
「スポーツを落語でお話しても」
「それでもなんだ」
「この前お話した嫌われている落語家さんもね」
そのお笑い以前の人もというのです。
「野球の落語をやってるみたいだよ」
「そうなんだ」
「あの人も創作してるんだ」
「そうなんだね」
「うん、ただ嫌われていて」
それでというのです。
「そのお話を聞く以前の人も多いだろうね」
「本当に嫌いな人のネタとか聞く気になれないしね」
「お顔見るだけで嫌なら」
「そこまで嫌いなら」
「そうだよ、知ったかぶりして他の人を馬鹿にする様なら」
それならというのです。
「お笑い以前だよ」
「人を馬鹿にするならお笑いは出来ない」
「自分をネタにするのはいいけれど」
「それでもだね」
「人を馬鹿にするならだね」
「お笑いはしたら駄目だね」
「そうだよ、けれどその人もね」
嫌われている落語家さんもというのです。
「創作をしてるし」
「それなら他の人もだね」
「お笑い創作出来るね」
「そうなんだね」
「そうだよ」
まさにというのでした。
「それも落語の魅力だよ」
「成程ね」
「今もお話が生み出されている」
「現在進行形で」
「そうなってるんだね」
「落語は」
「昔からあるお話を古典落語と言ってね」
そうしてというのです。
「今生み出されている落語は創作落語と言われるよ」
「二つあるんだね」
「落語って」
「実は」
「そうなんだ、そしてね」
先生はさらにお話しました。
「創作落語も面白いならね」
「ああ、残るんだね」
「後世に」
「それで語られていくんだ」
「そうなるのね」
「そうだよ、今も生きていて続いている」
おうどんを食べて言うのでした。
「そうしたものだよ」
「じゃあ漫才と同じだね」
「漫才も今も続いているけれど」
「落語もなんだ」
「それも江戸時代からだね」
「そうなってるんだね」
「そうした文化だよ、しかし普通にね」
先生は考えるお顔になってこうも言いました。
「日本ってこうした文化もあるからね」
「落語にしてもそうで」
「他にもあるからね」
「つくづく凄い国だね」
「江戸時代からの文化があったりして」
「もっと言えば六世紀や七世紀の歌が残ってるんだよ」
今も尚というのです。
「万葉集にね」
「ああ、そうだね」
「万葉集ってその時代の歌も収録されていて」
「それで今も詠まれてるね」
「そうだったね」
「そうしたお国だから」
日本はというのです。
「歌舞伎だってずっと残ってるし浄瑠璃もだしね」
「ううん、江戸時代からの文化も残ってるね」
「何かと」
「日本って国は」
「そうなってるね」
「このことも驚くべきことで」
それでというのです。
「僕としてもね」
「びっくりだね」
「もう何といっても」
「今も生きているということに」
「創作されていっていることに」
「しかも面白いから」
実際に観てというのです。
「尚更ね」
「凄いよね」
「全く以て日本は凄い国ね」
「文化的にもね」
「だから学びがいもあるよ」
先生は学者さんとしても言いました。
「何かとね」
「そう思うと先生学校に来てよかったね」
「本当にそうだよね」
「学びがいのある国だから」
「尚更ね」
「そう思うよ、ただ日本語はね」
言語のことは少し苦笑いになりました。
「僕は幸い言語は得意だけれど」
「そうそう、無茶苦茶難しいよ」
「文法が他の多くの国のものと全く違うし」
「単語ごとに分かれてないし」
「しかも文字三つもあって」
「新しい言葉も次々に出て来るしね」
「尚且つ方言もそれぞれかなり違うからね」
このことについても言う先生でした。
「全く以てね」
「独特過ぎるよね」
「そして難しいよね」
「難しいにも程がある」
「そんな言語だよね」
「そう思うよ」
心から言う先生でした。
「バスク語も難しいけれど」
「日本語もだよね」108
「相当だよね」
「というか日本語の方が難しい?」
「ひょっとして」
「そうかもね」
「そう思うよ」
先生も否定せず答えました。
「そして落語はね」
「その日本語でね」
「それでやるからね」
「時には難しい場合もあるよね」
「日本人でもそうかな」
「そうみたいだよ」
先生はまた答えました。
「昔の言葉とかね」
「知らなかったりするしね」
「そういえば昔の日本語って今より文字多かったんだ」
「それもかなり」
「二百位あったんじゃなかったかしら」
「明治維新で整理されるよりは」
「そうだったしね」
このこともあってというのです。
「昔の日本語はね」
「今から見ると」
「かなり難しいね」
「どうにも」
「そのこともあるし」
「日本人が聞いても」
「落語は難しい時があるね」
「そう思うよ」
実際にというのです。
「僕もね」
「やっぱりそうだね」
「日本語は難しいから」
「日本人にしてもね」
「困る時があるね」
「落語にしてもね、落語家の人も」
お話する人達もというのです。
「相当にね」
「勉強してるね」
「日本語についても」
「それでお話してるのね」
「寄席で」
「そうだよ、本気で落語をしたいなら」
それならというのです。
「もうね」
「ネタを勉強して」
「文化とかも」
「それで日本語自体も勉強する」
「そうしないと駄目なんだね」
「そうなんだ、奥が深くて楽しくて難しい」
先生はこうも言いました。
「それがだよ」
「落語だね」
「そうなんだね」
「そして漫才もだね」
「ひいては」
「そうだよ、お笑いは真剣にしたら」
それならというのです。
「本当にね」
「真剣に勉強してするもので」
「奥が深い」
「そして楽しく難しい」
「そうしたものだね」
「そうだよ、ではこの寄席を観に行こう」
大学の落語研究会のそれをとです、先生は笑顔で言いました。
「そうしようね」
「うん、是非ね」
「どんなのか観よう」
「そして笑おうね」
「皆でね」
今から笑顔で言う先生でした、そして実際に寄せを観に行くのでした。