『ドリトル先生の落語』
第一幕 日本のお笑い
ドリトル先生はこの時神戸の自宅でテレビを観ていました、居間でちゃぶ台のところに作務衣姿で座布団の上に座って見ていますが。
「いや、面白いね」
「漫才面白いよね」
「日本のお笑いもいいよね」
「イギリスのお笑いもいいけれど」
「こちらもね」
「日本はお笑いの文化も発達しているからね」
先生は学者さんとして言いました。
「そちらを楽しむこともね」
「いいよね」
「それもまた」
「そして笑う」
「それもいいね」
「そうだよ、特に関西はね」
先生達が今暮らしているです。
「その本場だしね」
「そうそう、日本のお笑いのね」
「それになるんだよね」
「特に大阪だね」
「あの街よね」
「食べものとお笑いがね」
この二つがというのです。
「大阪名物だよね」
「そうなんだよね」
「食べものも美味しくて」
「しかもお笑いもある」
「そんな素敵な街よ」
「大阪はね」
「だからいいんだよね、それでね」
先生は動物の皆にテレビの漫才を観つつさらにお話しました。
「今僕達が観ている漫才も」
「関西弁だしね」
「それでやってるしね」
「この漫才コンビ八条芸能の人達で」
「あの芸能事務所本社大阪だからね」
「吉本興業や松竹芸能もね」
こうした芸能事務所もというのです。
「大阪にあってね」
「そこからだよね」
「活動しているからね」
「東京にも進出して」
「そうしているから」
「日本のお笑いは」
まさにというのです。
「大阪が本場だよ」
「漫才もそうで」
「落語もだよね」
「東京にもお笑いはあるけれど」
「どっちかっていうと」
「関西だね、それで僕としてもね」
先生は優しい笑顔でお話しました。
「こうして関西のお笑いを観るのが好きだよ」
「そうだね、先生もね」
「お笑い好きだよね」
「日本の漫才や落語が」
「よく観てるね」
「それで好きだよ、ただね」
こうも言う先生でした。
「それは芸能だけじゃなくて学校でもね」
「そうそう、落語研究会とかあるよね」
「日本の大学には」
「八条大学にもあるしね」
「高等部にも」
「漫才部があって」
「落語研究会とかもね」
「そこでお笑いをやってるから」
部活としてというのです。
「またいいんだよね」
「そうそう」
「日本はお笑いは学校でもやっている」
「それで垣根が広い」
「そうしたお国なのよね」
「そうだよ、それで漫才や落語もね」
これもというのです。
「学んでいくよ」
「お笑いもまた学問だね」
「本当に」
「それでだよね」
「落語も学ぶのね」
「そうするんだね」
「そうしていくよ」
先生は笑顔でお話してでした。
実際に今は漫才を観て楽しみました、ですがその夜ご飯を食べている時にトミーにこんなことを言われました。
「最近日本のお笑いがよくないとです」
「言われてるんだ」
「どうもタレントさん達がです」
お笑いを行うその人達がというのです。
「今一つ以上に」
「よくないんだ」
「年配の人がよく言われています」
「ううん、昔のお笑いと今のお笑いは違うしね」
「違いますか」
「そうだよ、昭和と今ではね」
どうしてもというのです。
「お笑いもね」
「また違うんですね」
「昭和のお笑いもあれば」
「今のお笑いもあって」
「それでね」
そのうえでというのです。
「お年寄りから見ると」
「今のお笑いはですね」
「面白くないかもね」
「何かテレビに出てる」
王子も言ってきます、皆で納豆をかけたご飯とお豆腐のお味噌汁にアジのフライと南瓜の煮込みを食べています。
「お笑い芸人の人達がね」
「よくないのかな」
「そう言う人もいるね」
「ううん、日本ではテレビはね」
「評判落としてるね」
「面白いかっていうと」
それはというのです。
「ユーチューブの方でね」
「やってる人達の方がね」
「ゴールデンタイムで」
その時間帯でというのです。
「適当に作ったみたいなバラエティ番組で」
「ギャラが安いとかで集めたタレントさんばかりで」
「番組やってもね」
「面白くないよね」
先生も言います。
「やっぱり」
「そうだよね」
「そうした番組が多くて」
それでというのです。
「テレビに出てる人達もね」
「あまり、だね」
「人を笑わせるじゃなくて」
「テレビに出て有名になる」
「そういうことばかり考えていたら」
それならというのです。
「やっぱりね」
「よくないね」
「それだとね」
「あの、実は僕もです」
トミーはお味噌汁を飲みつつ言ってきました。
「最近の日本のテレビ番組は」
「面白くないね」
「笑わせようとです」
その様にというのです。
「気が見られないですし」
「トミーもそう思うんだ」
「はい、それで昔の漫才を観ていると」
「ユーチューブとかでもあるしね」
「やっぱり面白いんですよ」
「あれだね、全力で笑わせる」
王子は言いました。
「その気がないと駄目なんだよね」
「ただ番組作って放送する」
「それだけだとね」
「面白い筈がないよ」
「そうだね」
「というかね」
チーチーが言ってきました、皆も食べています。
「適当に法則枠埋めるだけの番組だとね」
「作る方も適当になるね」
ガブガブも言います。
「枠埋めるだけって思ったら」
「面白い番組ってそうした番組を作ろうって思わないと」
「作れないわね」
チープサイドの家族はその核心を指摘しました。
「その気がないと」
「もうね」
「ただ枠埋めて放送すればいい」
「そんな考えで作ってもね」
オシツオサレツも二つの頭で言います。
「面白くなるか」
「そうなる筈がないからね」
「しかも出て来るタレントさん達も」
ダブダブもぴしゃりと指摘します。
「適当に集めた感じで」
「ただ人気があるとか事務所が大きいとか」
ジップも言うのでした。
「そういうので出してね」
「もう考えて出してなくて」
ホワイティもどうかという声です。
「出る人達も笑わせるって気がないんだね」
「そんな人達が出てもね」
ポリネシアは浮かない声でした。
「本当に面白くならないわよ」
「だから今の日本のテレビは面白くないんだね」
トートーも思うのでした。
「そうした番組とタレントさんばかりだから」
「本当に今はユーチューブの方が面白いよ」
老馬ははっきりと言いました。
「だって面白い動画にしようって思って作ってるからね」
「そういうことだね、面白い番組を作って」
先生も言いました。
「笑わせようっていうタレントさん達でないと」
「何が面白いか」
「そうなるよね」
「本気で笑ってもらう」
「そのつもりでないとね」
「バラエティ番組が兎に角酷いね」
先生は言いました。
「さっき今のお笑いと昔のそれは違うと言ったけれど」
「そのことも抜いてもね」
「今のテレビは面白くないね」
「そこにあるお笑いも」
「そうよね」
「うん、お笑いはどんな状態の人でも笑わせる」
先生は言いました。
「そうでないとね」
「それが出来たら」
王子は言いました。
「面白いよね」
「そうだよ、基本豊臣秀吉さんかな」
「というと?」
「秀吉さんは鳴かぬなら鳴かせてやろうだったね」
「不如帰だね」
「実は信長さんも家康さんもね」
この人達もというのです。
「鳴かせてやろうだったけれどね」
「その実はだね」
「信長さんは実はそうした人でね」
「かっとなる人じゃなくて」
「家康さんもどんどん動く人でね」
待つ人でなくてです。
「それでだよ」
「三人共鳴かせてやろうだね」
「それでお笑いはね」
「笑わせてやろうだね」
「どれだけ落ち込んでいる人でも」
笑えない様な人でもというのです。
「笑わせる」
「それがお笑いだね」
「笑う門には福来たるとも言うね」
「うん、笑ってるとね」
「そこから幸せが来るというのはね」
そうしたことがというのです。
「実際にあるよ、というか笑っているということは」
「いい状態でね」
「それ自体がね」
まさにというのです。
「いいんだよ」
「そういうことだね」
「そうだよ、本当に笑うことと」
「笑わせることはだね」
「いいことだよ」
「だからお笑いもいいんだね」
「イギリスはジョークとユーモアの国だけれど」
先生は祖国のお話もしました。
「日本のお笑いもまたね」
「いいよね、漫才も落語も」
「本来はね、あとアニメや漫画や小説でも」
「日本人のお笑いはいいね」
「ギャグ漫画なんてね」
先生は笑顔で言いました。
「本当に凄い漫画は転げ回る位面白いからね」
「そうした漫画ありますよね」
トミーも笑顔で言ってきました。
「日本には」
「凄いギャグ漫画がね」
「ありますよね」
「それも多くね」
「先生が言われる通りに笑い転げる様な」
「そんな漫画がね」
実際にというのです。
「あるからね」
「アニメでもそうで」
「小説でもでね、それでお笑いにルールはね」
これはといいますと。
「僕は別になくてもね」
「いいっていうんですね」
「人を傷付けるなといっても自分をネタにするなら」
「いいんですね」
「人を貶めるのはよくなくても」
それでもというのです。
「自分をそうするのはね」
「いいですね」
「だから下品とされる下ネタも」
これもというのです。
「いいとね」
「先生はお考えですね」
「そうなんだ」
「子供用のギャグ漫画なんか下品なの当たり前だしね」
王子もアジのフライを食べつつ言ってきました。
「笑わせたらね」
「いいんだよ、上品なお笑いもよければ」
「下品なお笑いもだね」
「いいんだよ、それこそね」
「笑わせる」
「それが第一だよ」
「漫才でも落語でもで」
そしてというのです。
「漫画でもアニメでもだね」
「小説でもね」
「ライトノベルってお笑いもあるしね」
「そうしたことはね」
本当にというのです。
「前面にね」
「出していっていいね」
「そうだよ」
こうお話するのでした、そしてです。
先生はお食事を終えるとお風呂に入ってご自身のお部屋に入って学問をしてから寝ました。そして翌朝です。
朝ご飯を食べながらテレビを観ていると狂言師の人が結婚したというニュースを放送していました。そのニュースを見て先生は言いました。
「そうそう、狂言もね」
「お笑いだよね」
「日本の」
「そうなのよね」
「そうだよ、室町時代からのね」
一緒に食べている動物の皆にお話します。
「日本のお笑いだよ」
「そうだよね」
「それで昔からやっていて」
「今もそうで」
「有名なのよね」
「そうなんだ、実際観てみてもね」
その狂言をです。
「面白いしね」
「絶妙だよね」
「仕草とかもね」
「観ていると思わず笑ってしまう」
「そんなものだよね」
「ああしたお笑いがあるのも」
それもというのです。
「本当にね」
「日本だよね」
「日本のお笑いね」
「それだよね」
「そうだよ」
まさにというのです。
「本当にね」
「いや、色々あるのね日本のお笑いって」
「漫才に落語に」
「漫画やアニメや小説でもあって」
「狂言でもあって」
「新喜劇なんかもいいね」
先生はこちらもと言いました。
「そうだね」
「あっ、そうそうそっちもあったよ」
「新喜劇もね」
「関西じゃ毎週放送してるけれど」
「あれも面白いね」
「観ていたら」
「大阪でね」
ここでもこの街の名前を出すのでした。
「やってるね」
「昔からね」
「あれを毎週楽しみにしてる人もいるし」
「舞台を観に行く人もいるし」
「いいよね」
「うん、兎角ね」
それこそというのです。
「日本のお笑いも色々だね」
「お笑いも文化」
「それが発達していることも素晴らしい」
「笑う門には福来たる」
「そういうことだね」
「そうだよ、じゃあ今度狂言もね」
これもというのです。
「観る機会があったら」
「その時はだね」
「楽しむんだね」
「そうするんだね」
「そうするよ、幾ら辛くて苦しくても」
そうした状況でもというのです。
「笑えたらね」
「それだけで違うね」
「本当に」
「だから笑う」
「まずは」
「そうすることだよ」
こう言うのでした、そして。
先生はトミーにです、笑って言いました。
「今朝のサラダだけれど」
「どうですか?」
「美味しいよ」
にこりと笑って言うのでした。
「凄くね」
「先生今笑っていますが」
「こうした時もね」
「笑えますね」
「そうだよ、お笑いを観て」
「美味しいものを食べる」
「他にもね」
先生は笑顔のまま言いました。
「笑えたらね」
「それでいいですね」
「不平不満ばかりで」
「笑っていないと」
「人相が悪くなって」
そうなってというのです。
「それで健康にもね」
「悪いですね」
「病は気からというけれど」
「不平不満ばかりで」
「心がそうしたもので一杯で」
それでというのです。
「出す言葉もね」
「そうしたものばかりだと」
「本当に健康もね」
「悪くなりますね」
「けれど笑っていると」
それならというのです。
「明るくね」
「それならですね」
「健康にもね」
「なりますね」
「だから笑うことだよ」
まずはというのです。
「本当にね」
「何といっても」
「だからお笑いは文化としてもね」
「素晴らしいですね」
「そうだよ」
まさにというのです。
「大事にして発展もね」
「させるべきですね」
「いいお笑いを」
先生はサラダを食べつつ言いました。
「そうしていくべきだよ」
「それでテレビはですね」
「うん、昨日お話したけれどね」
先生はヨーグルトをドレッシングにしてかけているサラダを美味しく食べながら言います。レタスにトマト、胡瓜に人参という組み合わせです。
「ああしてね」
「適当に作ったバラエティで」
「これまた適当にね」
「出してるタレントさんばかりで」
「しかもそのタレントさん達もね」
この人達もというのです。
「ただね」
「テレビに出て有名になりたい」
「そして売れっ子になりたいとね」
その様にというのです。
「思っているだけで」
「笑わせようじゃなくて」
「他にやること思いつかなくてね」
「お笑い芸人になっただけですね」
「そうした人達ばかりだから」
「面白くないんですね」
「だからよく見たら」
そうしたタレントさん達と、というのです。
「目がね」
「笑ってないですね」
「自分が笑ってないネタなんてね」
「面白い筈がないですね」
「笑わせようと思ったら」
人をというのです。
「もうね」
「まじ自分がですね」
「面白いと思わないと」
「笑えないですね」
「そうだよ」
まさにというのです。
「そんな人達ばかり出て」
「しかも適当に作られた番組なんて」
「もうね」
それこそというのです。
「面白い筈がないよ」
「そういうことですね」
「だからね」
それでというのです。
「テレビはあのままじゃ駄目だし」
「そしてテレビを観ても」
「お笑いの勉強にはね」
「ならないですね」
「そのまま観てもね」
そうしてもというのです。
「全くね」
「反面教師として観るならいいですね」
「その場合はね」
「反面教師ですね」
「そうだよ」
まさにというのです。
「それになるよ」
「昔はテレビが一番だったんですよね」
「けれどその一番だったことにね」
「胡坐をかいて」
「そしてね」
それでというのです。
「全くね」
「努力しなかったんですね」
「これはテレビ全体のことだよ」
「お笑いだけじゃなくて」
「テレビはマスコミの中でも一番影響力があるね」
「目と耳から情報が直接頭に入って」
「インパクトがあるからね」
「雑誌や新聞、ラジオよりもですね」
「影響力が強いよ、ただ点けていれば」
テレビをというのです。
「そうしたらね」
「目と耳に入るんで」
「例えば。実際に日本のマスコミの常だけれど」
先生はこう前置きしてお話しました。
「意図的な偏向報道で自分達の思うままに視聴者を煽動しようとすれば」
「テレビは物凄く使えますね」
「そうだよ、そうなるから」
だからだというのです。
「テレビ業界の人達はね」
「自分達が万能とでしょうか」
「実際に思ってやりたい放題やって」
そしてというのです。
「そのうえでね」
「いい番組を作るとかはですね」
「誰もがいつも観ると思って」
「それで視聴率を稼げて」
「そしてね」
そのうえでというのです。
「視聴者を煽動出来る」
「そう思って」
「やりたい放題のうえに」
偏向報道でも何でもです。
「それでね」
「そのうえで、ですね」
「努力もね」
「しなくなって」
「どんどん詰まらない番組ばかり作って偏向報道もね」
これもというのです。
「ばれて」
「それで皆観なくなりましたね」
「昔テレビを観ると愚かになると言われたけれど」
「そうした意味でそうなるとですね」
「皆わかってね」
「観なくなったんですね」
「面白くない、しかも悪影響を受ける」
先生は冷静にお話しました。
「それではね」
「いいことがなくて」
「観なくなくなったんだよ」
「それが日本のテレビの現状ですね」
「そしてね」
先生はさらにお話しました。
「状況が悪くなると貧すれば窮すで」
「いい考えも浮かばなくなって」
「ここで努力するならいいけれど」
「それで自分達の過ちに気付く」
「それならいいけれど」
それでもというのです。
「相変わらずね」
「努力しなくて偏向ばかりで」
「さらにね」
「視聴者が去ってるんですね」
「そうだよ、だから観ても」
テレビをというのです。
「どんどんね」
「面白くなくなるんですね」
「そうだよ、だからテレビでお笑いはね」
「勉強出来ないですか」
「新喜劇は実況だから舞台のお笑いがわかるけれど」
それでもというのです。
「そもそも最近漫才番組もね」
「変なバラエティ番組ばかりで」
「お笑い自体をすることがなくてね」
それでというのです。
「本当にね」
「お笑いの勉強がですね」
「出来なくなってるんだ」
こうお話するのでした。
「これがね」
「そうなんですね」
「だからお笑いを勉強しようと思ったら」
「テレビでなくですね」
「実際の漫才にね」
「ユーチューブですね」
「そういったものを観るといいよ」
「そうですか」
「つくづくテレビはね」
この媒体はというのです。
「堕落したとね」
「言えるんですね」
「うん、ああなったらね」
「もう終わりですか」
「そう思うよ」
心から言うのでした。
「僕としてもね」
「そういえばです」
トミーは先生にお話しました。
「八条大学、高等部の方も」
「落語研究会や漫才部もですね」
「テレビを観ていないんだね」
「顧問の先生も言われてるそうです」
「テレビを観てもお笑いの勉強にならないとだね」
「そうみたいです、ネットの動画を観て」
そしてというのです。
「漫画やアニメはいいですが」
「あんなバラエティ番組はだね」
「制作が手抜きだらけで」
それでというのです。
「しかも出ている人達の質もです」
「よくないからだね」
「そう言われてるそうです」
「やっぱり皆思うことは同じだね」
「今のテレビはですね」
「碌なものじゃないよ」
先生はサラダを食べつつ言いました。
「だからアニメやドラマ以外はね」
「観ない方がいいですね」
「あとスポーツの実況もいいけれどね」
「その三つ全部減ってますね」
トミーもサラダを食べつつ言いました。
「テレビって」
「そうだね」
「昔はゴールデンタイムでそうしたものやってましたね」
「そうだったんだよ」
これがというのです。
「本当にね」
「時代劇とかやっていて」
「けれど今はね」
「ああした番組ばかりですね」
「クイズ番組でもね」
「何か視聴者の人が出なくて」
それでというのです。
「全くですね」
「適当な感じだね」
「そうですね」
「歌番組も減ってね」
「そんな適当なバラエティばかりで」
「内容が面白いならいいけれど」
それでもというのです。
「その内容がね」
「あの通りで」
「それでネットの方が面白いなら」
それならというのです。
「皆だよ」
「ネットの方に流れますね」
「そうなるよ、こんな状況が続くなら」
「もうテレビはですね」
「完全に駄目になるよ」
「お笑いだけじゃなくて」
「他のことでもね」
そうなるというのです。
「僕も観たくないしね」
「僕もですね」
こうしたお話をしながらです。
先生はトミーと一緒に今朝はサラダを楽しみました。そして登校してこの日は井原西鶴さんの本を読んでいましたが。
先生は読みながらです、唸って言いました。
「いや、面白いね」
「西鶴さんの本はだね」
「大坂の人情を書いていて」
「ユーモアもあって」
「そうなのね」
「うん、大坂は町人の町だったから」
それでというのです。
「文学もね」
「町人のもので」
「面白いんだね」
「武士の人達のそれみたいに堅苦しくなくて」
「言うなら庶民的なんだ」
「この頃からお笑いの要素はあったかな」
大阪にはというのです。
「町人の町だった頃からね」
「そういえば織田作さんもだったわ」
ダブダブはこの人のことを思い出しました。
「お笑いも書いていたわ」
「大阪の人達の人情を書いてね」
ポリネシアも言います。
「放浪したりもして」
「面白い作品もあるね」
トートーも言いました。
「ユーモアのある」
「浄瑠璃のお話もあって」
「忍者も書いて」
チープサイドの家族は織田作さんのそうした作品のお話をしていきます。
「そしてユーモアもある」
「そんな風でね」
「織田作さんもそうでね」
「西鶴さんもなんだね」
オシツオサレツは二つの頭で言いました。
「そうなんだね」
「お笑いもあるんだね」
「純文学ってお笑いの感じないけれど」
ホワイティはオソツオサレツの背中から言いました。
「織田作さんは違うんだね」
「むしろ純文学にお笑いを求めるなっていうのもね」
それもと言うガブガブでした。
「違うかな」
「笑って楽しんでもいいよね」
チーチーも言います。
「そうしても」
「読むなら何かを得られるべきで」
ジップはとチーチーに続きました。
「そこにお笑いがあってもいいね」
「それじゃあ織田作さんの作品もいいよ」
老馬は言い切りました。
「お笑いがあってもね」
「そうだよ、笑いは悪いことじゃないんだ」
先生は断言しました。
「むしろね」
「笑うなと言うとか」
「それはだね」
「かえってよくないね」
「そうだね」
「本当に健康にいいしね」
笑うことはというのです。
「それにだよ」
「笑う門に福来る」
「そうも言うしね」
「まず笑う」
「それがいいね」
「何でも貧乏神はね」
先生は日本のこの妖怪のお話もしました。
「悪口を言っているお家に入るらしいよ」
「へえ、そうなんだ」
「貧乏神ってそうなの」
「悪口を言っているお家に入るんだ」
「そうなんだ」
「人やものごと、何でもね」
それこそというのです。
「悪口を言っていると」
「そのお家にはいる」
「それで貧乏にするんだ」
「そうなんだね」
「いや、貧乏になるのは」
貧乏神の名前となっているそれはといいますと。
「貧乏神が直接かっていうと」
「違うの?」
「そうなんだ」
「そうじゃないんだ」
「貧乏神は人の悪口を食べて生きる妖怪なんだ」
そうだというのです。
「だから特に夜にそうしたお家にね」
「入って」
「それで悪口を食べて栄養にする」
「そうするんだ」
「それで太っていくんだ、けれど悪口ばかり言う人ってどうかな」
先生は実際にそうしたお顔になって皆に尋ねました。
「傍にいたら」
「いい気持ちしないね」
「やっぱりいいお話聞きたいから」
「悪口ばかり言う人なんてね」
「傍にいて欲しくないよ」
「そうだね、だからね」
それでというのです。
「悪口ばかり言う人は嫌われて相手にされなくなるね」
「そうなるよ」
「そんな人本当に傍にいて欲しくないから」
「離れるよ」
「自然と誰もね」
「そうなってお仕事もね」
これもというのです。
「なくなるからね」
「嫌われて」
「同じ職場の人達にも」
「そうなって」
「それでね」
そのうえでというのです。
「貧乏になるからね」
「ううん、それだとね」
「貧乏神が来なくてもそうした人って貧乏になるね」
「必然的に」
「そうなるわ」
「僕もそう思うよ」
実際にというのです。
「貧乏神が悪いんじゃなくてね」
「悪口ばかり言う様だと」
「そんな人は嫌われて」
「お仕事もなくなるから」
「貧乏になるんだね」
「同じ仕事をこなす人でも」
それでもというのです。
「やっぱりだよね」
「ああ、性格がいい人に頼むね」
「それで悪口ばかり言う人だとね」
「もう皆離れるよね」
「近寄りたくもないし」
「悪口ばかり言う人の性格はどうか」
それはというお話にもなります。
「わかるよね」
「悪いよ」
「悪口ばかり言う人って」
「不平不満ばかりで」
「もうね」
「いいことはないよ」
「そうだよ、同じお仕事なら」
それならというのです。
「性格のいい人に頼むからね」
「そして性格が悪い人は避けられる」
「一緒に働いても気分よくないしね」
「悪口ばかり聞いてだと」
「自分も言われる様だったら余計にだよ」
「それでお仕事もなくしていって」
そしてというのです。
「遂にはね」
「貧乏になる」
「しかも人も寄って来なくて」
「誰からも相手にされなくなって」
「それでだね」
「さらに悪口を言うんだね」
「不平不満を溜め込んでね」
そうなってというのです。
「そうなるよ、そしたら貧乏神はね」
「尚更だね」
「悪口を食べる」
「そうなっていくのね」
「まさに」
「そうだよ、悪口を言う人のお顔は」
先生は今度はそちらのお話をしました。
「よくないお顔をしているね」
「そうなのよね」
「人相が悪くなってるよ」
「悪口を言ってると」
「どうしてもね」
「笑顔も悪意が出た歪んだものになるね」
例え笑っていてもというのです。
「そうだね」
「笑顔でもそんな笑顔は駄目だよね」
「悪意が出ていると」
「それならね」
「そんな笑顔は駄目ね」
「そうだよ」
先生はまさにと答えました。
「本当にね」
「そうそう」
「笑顔は笑顔でも」
「悪意が出た笑顔はね」
「出すものじゃないよ」
「素直に心から楽しく思えて」
そしてというのです。
「笑えないとね」
「駄目だよね」
「笑うにしても」
「それが笑いだよね」
「正しい笑いだよね」
「僕が思うのはその笑いだよ、悪意のある笑いはね」
それはというのです。
「浮かべると自分の心を蝕んでいくよ」
「悪口と同じで」
「そうしたものね」
「貧乏神が来る様な」
「そんな笑顔だね」
「そんな笑顔で言うこともね」
悪意のある歪んだです。
「悪口だね」
「確かに」
「そうだよね」
「落語や漫才で笑うものじゃないわ」
「アニメや漫画や小説を目にするものでも」
「また違うわ」
「お笑いには良質なものと悪質なものがあるとね」
先生はこうも言いました。
「言われていてね」
「良質なお笑いだね」
「それで笑うといいのね」
「心には」
「そうだよ」
微笑んでお話するのでした。
「だからそうしたお笑いをね」
「観ていくことだね」
「僕達も」
「そうすることだね」
「そうだよ、良質なお笑いは心もね」
これもというのです。
「よくするんだよ」
「そう思うとね」
「笑うことって大事だね」
「そしてお笑いも」
「本当にね」
「笑えない人は不幸だよ」
先生はこうも言いました。
「それだけでね」
「確かにそうだね」
「笑えたらそれだけで幸せになれるし」
「笑えないならね」
「それだけで不幸になるね」
「テレビから人が離れた原因は他にもあってね」
先生はあらためてこの媒体のお話をしました。
「夜の報道番組はずっといつも不況を言っていたからね」
「日本じゃそうだったんだ」
「毎晩言ってたんだ」
「不況って」
「景気が悪いって」
「実は日本の経済はそんなに悪くなかったし今もそうだけれど」
それでもというのです。
「言葉の力特にテレビで映像まで入れると強くて嘘もゴリ押ししたらね」
「実際はそうでなくても不況って言い続けたら」
「そう思えるんだね」
「視聴者の人達も」
「自然に」
「それでずっと不景気だって思っていたんだ」
かつての日本人はというのです。
「けれどそう言ってる人達が実は何億もの年収得ていたからね」
「スポーツ選手のトップじゃない」
「毎日不況言ってて年数億って」
「ある意味凄いね」
「マスコミの人達だけなんて」
「マスコミ栄えて国滅ぶ様な」
そうしたというのです。
「酷い状況でそれがネットで検証されてわかって」
「ああ、皆怒ったんだね」
「不況ばかり言ってる人が年何億も貰う」
「そうした状況がわかったんで」
「だからだね」
「そうだよ、そんな害にしかならない番組なんて誰も観ないから」
それでというのです。
「尚更ね」
「テレビから離れたんだね」
「手抜きのバラエティ番組ばかりで」
「そんな報道番組もあるから」
「それでだね」
「実際不況と言われる中で巨人は青天井のお金の使い方をしていたよ」
このプロ野球のチームはというのです。
「あそこはマスコミが親会社でね」
「ああ、お金あったんだ」
「不景気って言いながら」
「巨人は」
「ちょっと見ればわかったしね」
不景気の正体がです。
「不景気って言ってる人達がお金持ちならね」
「誰だっておかしいと思うね」
「そしてそんな人達に怒るね」
「そうだね」
「そうなるね」
「そうだよ、だからもうテレビはどんどん落ち目になってるんだ」
こうしたこともあってというのです。
「そして貧すれば窮するで」
「悪い手ばかり打って」
「さらに悪くなってるんだね」
「日本のマスコミは」
「そうだよ、特にテレビがそうだから」
それでというのです。
「傾く一方なんだよ」
「だから観ない方がいい」
「お笑いでも」
「そうだね」
「そういうことだよ」
こう言ってでした。
先生は今は井原西鶴の本を読んでいきます、そして日本のお笑いについてさらに学んでいくのでした。