『ドリトル先生と山椒魚』
第五幕 物語のオオサンショウウオ
先生は今ご自身の研究室の中で紅茶を飲みながら本を読んでいます、動物の皆はその先生に尋ねました。
「今度は何の本を読んでるの?」
「生物学の本じゃないね」
「日本語の本だね」
「小説?」
「そちらかしら」
「うん、日本の小説だよ」
先生もその通りだと答えます。
「井伏鱒二の山椒魚だよ」
「前にお話してた」
「その人の代表作で」
「オオサンショウウオを書いているっていう」
「その作品だね」
「そうだよ、この作品はね」
実際にというのです。
「描写の大きさ等を見るとね」
「オオサンショウウオなんだ」
「普通の山椒魚でなく」
「そちらの山椒魚だね」
「読んでいると」
「ほぼ確実にそうだね」
先生は言いました。
「井伏鱒二は広島出身だけれど」
「広島にもオオサンショウウオがいるから」
「井伏さんもオオサンショウウオを知っていて」
「それでだね」
「小説の題材にしたんだね」
「そうだと思うよ、この作品がこの人の事実上のデビュー作で」
そうであってというのです。
「出世作で代表作の一つでもあるんだ」
「物凄い作品なんだね」
「井伏さんにとって」
「極めて重要な作品だね」
「そうだよ、確かこの作品をね」
山椒魚を読みつつ言います。
「太宰治も読んで」
「日本文学で滅茶苦茶有名だけれど」
「それこそ日本人で知らない人はいない位」
「走れメロスとか人間失格とか」
「先生もよく知っている人だね」
「太宰を知らない日本人は本当にいないだろうね」
先生もこう言います。
「教科書にも出るし」
「絶対にね」
「中学や高校の国語や現国の教科書で」
「小学校の道徳の授業でも出るね」
「走れメロスなんて」
「アニメにもなってるし」
「太宰は芥川龍之介や夏目漱石と並ぶよ」
こうした文豪の人達と、というのです。
「あまりにも有名な人だよ」
「だから僕達も知ってるよ」
「先生も太宰さんの作品よく読んでるね」
「太宰さんについての論文も書いたね」
「またそうするね」
「太宰の論文はまた書くよ」
先生もそうすると答えます。
「絶対にね」
「本当に日本文学に名前が残っていて」
「今もよく読まれているから」
「だからだね」
「先生もまた論文を書くね」
「そうするよ」
先生はまた皆に答えました。
「絶対にね」
「そうするね」
「太宰さんは代表作も多いし」
「沢山の人達が読んでいて」
「そして研究もされているね」
「うん、そしてその太宰が終生お師匠さんとしたのがね」
まさにとです、先生は言いました。
「井伏鱒二なんだ」
「そう思うとかなりだね」
「その太宰さんがお師匠さんとしたって」
「かなりの人だよね」
「つくづく」
「その関係は長くてね」
それでというのです。
「戦後は疎遠になったらしいけれど」
「それでもだね」
「終生続いたんだね」
「太宰さんと井伏さんの関係は」
「そうだったんだ」
「そして太宰が亡くなった時は」
その時はというのです。
「かなりショックを受けてお葬式でも重要な役割を果たしたんだ」
「やっぱり絆あったんだね」
「お二人の間には」
「それもかなり強いものが」
「そうだったのね」
「そうだったんだ、太宰は自殺したね」
先生は悲しいお顔で言いました。
「そうだったね」
「玉川上水だったね」
「東京の」
「女の人と心中して」
「人生を終えたんだったね」
「元々躁鬱の気が強かったみたいで」
太宰治という人はです。
「それでだよ」
「それまでも何度か自殺しようとして」
「心中事件も起こして」
「それでだね」
「最後はね」
「心中して人生を終えたね」
「これは終生敬愛していた芥川龍之介の影響もあったかも知れないね」
先生はこうも思いました。
「やっぱり」
「芥川さんも自殺してるし」
「何か遺書でも同じ様なことを書いていたらしいね」
「先生そんなことも言ってたわね」
「言ったよ、芥川は最後の方はかなり精神的におかしくてね」
先生は精神科医でもあるのでこのこともよくわかるのです。
「作品にも出ていて遂にね」
「昭和のはじめの夏の盛り」
「その暑い日にだね」
「自殺して」
「それで人生を終えたわね」
「その芥川に終生憧れていたから」
太宰治はというのです。
「十代の頃に芥川の自殺を知ってね」
「かなり衝撃を受けて」
「作家は最期こうあるべきだとか言って」
「感銘さえ受けていた」
「そうだったらしいね」
「芥川賞を取ろうと必死にもなったしね」
そうしたこともあったというのです。
「そして人間失格と並行して書いていた如是我聞で」
「確か弱くなれ」
「その芥川さんみたいに」
「志賀直哉さんに言ったんだよね」
「自殺する直前に」
「最後の最後まで芥川を慕っていたんだ」
そうだったというのです。
「そんな人でね」
「それで芥川さんみたいに自殺した」
「よっぽど芥川さんを慕っていたんだね」
「太宰さんって芥川さんの悪いこと絶対に言わなかったみたいだしね」
「太宰の心の中にはいつもあの人はいたんだ」
先生は遠い目になって語りました。
「芥川龍之介という人がね」
「そしてその太宰さんが師事した」
「それが井伏さんだね」
「今先生が読んでいる作品を書いた」
「オオサンショウウオを書いた」
「そうだよ、この人はね」
まさにというのです。
「その太宰のお師匠さんでずっと支えていたんだ」
「ううん、まさか文学のお話も出るなんて」
「今回そうなるなんて思わなかったけれど」
「オオサンショウウオって文学にも出るんだ」
「そうなんだね」
「そうだよ、オオサンショウウオは昔から日本にいて」
そうしてというのです。
「文学の題材にもなっていて」
「あと童話でもだね」
「こちらは妖怪として出てるけれど」
「出て来るね」
「そうなんだ、大きくて独特の形だから」
それ故にというのです。
「人を飲み込んだりするね」
「巨大な妖怪だね」
「それで出て来るね」
「何メートルもある」
「怪獣みたいな存在で」
「そうだよ」
先生は皆に微笑んで答えました。
「そちらでもね」
「そういえば日本も川や海の巨大な妖怪多いね」
チーチーはふと言いました。
「オオサンショウウオに限らずね」
「お魚でもいるしね」
トートーも言います。
「北海道にもそんなお話あるし」
「実際鮫とか鯨とかいるしね」
ポリネシアはこうした生きものをお話に出しました。
「お話にもなるわね」
「タキタロウだっているしね」
ダブダブはこの前行った山形県のことをお話しました。
「あと蟹のお話もあるね」
「大蛇とか蛟のお話もあるわよ」
ガブガブはこうした存在のお話をしました。
「日本にはね」
「龍もお水にいるし」
「そうよね」
チープサイドの家族はこの神とさえ言える存在を思いました。
「山よりもね」
「日本はお水に大きな生きもののお話が多くて」
ホワイティも思うことでした。
「むしろ山よりもだね」
「実際にお水の中の方が大きい生きもの多いしね」
「そうそう、海でもね」
オシツオサレツは二つの頭でお話します。
「鯨だってそうだし」
「あとアマゾンのアナコンダも殆ど水棲だしね」
「オオサンショウウオもお水からほぼ出ないし」
老馬はまさにその生きもののことを言います。
「大きいのも当然だね」
「それで大きいからもっと大きなものを想像して」
ジップは考えました。
「巨大なオオサンショウウオの妖怪も出たね」
「オオオサンショウウオは一・五メートルに達するよ」
一番大きな個体でというのです。
「昔の日本人と変わらない位だね」
「あっ、確かに」
「言われるとそうだね」
「昔の日本人は今より小さかったよ」
「摂取している栄養の関係で」
「これは日本人に限らずね」
この国の人達だけではないというのです。
「どの国でもだったね」
「ローマ人だって小さくて」
「オクタヴィアヌスさんで一六〇なかったね」
「カエサルさんは一八五あったらしいけれど」
「あの人は特別ね」
「ベートーベンさんで一六五で」
あまりにも有名な音楽家であるこの人はというのです。
「当時は中背だったんだ」
「今のドイツ人じゃかなり小柄だね」
「ドイツ人って大きい方だけれど」
「一六五だとね」
「今じゃかなり小さいよ」
「日本人でも小柄ね」
「けれど当時のドイツ人では中背だったから」
即ち普通位だったというのです。
「本当にね」
「昔の人達は小さかったね」
「今と比べたら」
「それで当時の日本の人達から見たら」
今より小柄なその人達からです。
「一・五メートルもあったら」
「自分達と同じ位の大きさで」
「びっくりするよね」
「それでもっと大きなのがいるじゃないか」
「そう思うわね」
「だからね」
それでというのです。
「そんな妖怪として山椒魚もだよ」
「出たね」
「日本は生きものの妖怪も多いけれど」
「オオサンショウウオもそうなった」
「そうだね」
「そうかもね」
こうお話しつつです。
先生は井伏鱒二の小説をさらに読んでいってです。
読み終えてです、童話のオオサンショウウオが出る作品も読んでいって皆に紅茶を飲みながらお話しました。
「いい勉強になったよ」
「物語のオオサンショウウオも読んで」
「それでなのね」
「いい勉強になったんだ」
「論文についても」
「なったよ」
実際にというのです。
「こちらもね」
「生物学の論文でも」
「文学を勉強してもなんだ」
「いい勉強になるんだね」
「そちらでも」
「全くの畑違いの様でもね」
学問でもというのです。
「勉強するとだよ」
「それが参考になって」
「いい論文を書くもとになる」
「そうなのね」
「そうだよ、勿論柱は生物学だけれど」
それでもというのです。
「文学の方も学ぶとね」
「いいんだね」
「そちらも」
「大いに参考になる」
「そういうことだね」
「その通りだよ」
まさにというのです。
「だから僕も今回読んだんだ」
「山椒魚は前にも読んだけれど」
「もう一度そうして」
「それで学んだのね」
「そうしたんだね」
「そうだよ、そしてね」
それでというのです。
「読んだけれどよかったよ」
「じゃあまた論文書くね」
「そうするわね」
「文学の方も学んだし」
「尚更」
「そうするよ、あとね」
先生はさらに言いました。
「また動物園に行こうね」
「あちらのオオサンショウウオも観て」
「そうしてだね」
「観察して」
「そして学ぶね」
「うん、それにあちらの方の協力もあるし」
日笠さんにお願いされたそのことがというのです。
「雌のオオサンショウウオが来て」
「そしてだよね」
「結婚して」
「産卵して子供が出来て飼育もする」
「そうしていくから」
「だからね」
その為にというのです。
「実は明日来て欲しいって日笠さんからお願いされているし」
「あっ、いいね」
「好都合だよ」
「日笠さんがお願いしてきたなら」
「丁度いいよ」
「だから行かせてもらうよ」
動物園にというのです。
「そしてだよ」
「オオサンショウウオを観て」
「それで雌のオオサンショウウオを迎える準備もする」
「そうするね」
「これからは」
「そうするよ」
こう言ってでした。
先生は紅茶を飲むと論文を書いていきました、今日も学問に励んでいます。
そして次の日です、先生が皆と一緒に動物園を訪れますと。
日笠さんは入り口でお迎えして先生に言いました。
「お待ちしていました」
「あれっ、待たれることはないですよ」
先生は目を輝かせて言う日笠さんに少し驚いて応えました。
「別に」
「それは私がしたいことで」
「だからですか」
「お待ちしていまして」
そしてというのです。
「これから案内させて頂きます」
「そうなのですか」
「では案内させて頂きます」
早速という口調の返事でした。
「これから」
「ではお願いします」
先生はわからないまま応えました、そしてです。
オオサンショウウオを観てです、彼にお話を聞きますと。
「そういえば僕の名前だけれど」
「そう、まだ聞いていなかったね」
先生も応えます。
「君の名前は何ていうのかな」
「鱒二って言うんだ」
「ああ、井伏鱒二さんだね」
「僕達を小説にした人だね」
「その人から名前を貰ったんだね」
「そうみたいだね」
こう先生にお話します。
「僕はね」
「そういうことだね」
「それでね」
鱒二は先生にあらためてお話しました、自分の傍に来た先生に。
「僕今度結婚するけれど」
「うん、そ娘が来るよ」
「その娘がどんな娘か」
そのことがというのです。
「今凄く不安なんだ」
「そうだね、僕は結婚の経験どころかね」
先生は笑ってお話しました。
「お付き合いしたこともね」
「ないんだ」
「女の人と。男の人ともね」
「ないんだ」
「お友達は有り難いことも沢山いてくれているけれど」
それでもというのです。
「けれどね」
「恋人はなんだ」
「そうしたことに縁が全くなくてね」
笑ってお話します。
「本当にね、だから結婚のことは」
「アドバイス出来ないんだ」
「自分の経験としてはね、けれどね」
「それでもなんだ」
「アドバイス自体はね」
それはというのです。
「出来るよ、知識はあるからね」
「じゃあ何かと聞いて」
「お話させてもらうよ」
「そうするね、いやどんな人が来るか」
結婚相手はです。
「僕は今そのことが気になってるんだ」
「物凄くだね」
「そうなんだ」
先生にお水の中からお話します。
「どうもね」
「成程ね」
「だからね」
それでというのです。
「先生がそれでいいって言ってくれて嬉しいよ」
「それは何よりだよ」
先生もにこりと笑って応えました。
「じゃあね」
「お話させてもらうね」
「宜しくね」
「うん、それでね」
鱒二はさらに言いました。
「どんな娘が来るか聞いてくれるかな」
「日笠さん達にだね」
「いい娘か」
「聞いておくね」
「そして僕にお話してね」
「約束するよ」
「それじゃあね、それでね」
鱒二は一呼吸置いてでした、先生に言いました。
「日笠さんだけれど」
「今回も何かとよくしてもらっているよ」
「どう思ってるかな、先生は」
「いい人だね」
先生は笑顔で答えました。
「とても」
「それだけ?」
「それだけっていうと」
「だからそれだけ?」
先生を見て尋ねます。
「先生は」
「どういうことかな」
「ううん、こうしたことは全く駄目と聞いたけれど」
鱒二はお水の中で困ったお顔になって言いました。
「これはね」
「どうしたのかな」
「どうしたもこうしたもじゃないよ」
それこそというのでした。
「先生本当に駄目だね」
「ええと、何が駄目なのかな」
「それがわからないことが駄目なんだよ」
戸惑う先生に言いました。
「僕でもわかるのに」
「そうなんだね」
「そうだよ、僕も日本の生きものだから言うけれど」
「何をかな」
「先生和歌とか古典読んでるよね」
「日本のだね」
「それもかなりね」
鱒二は先生が大変な勉強家であることも聞いています、兎角学問のことなら万能と言っていい位だとです。
「源氏物語とか伊勢物語も読んだね」
「原文でね」
「外国の人でそれは凄いよ」
このことは手放しで賞賛しました。
「古典の文章は難しいのに」
「源氏物語は英訳の方がすらすら読めるみたいだね」
「今の日本人でもね」
「ちなみに僕はラテン語訳を読んだことがあるよ」
源氏物語のというのです。
「そうもしたよ」
「そっちの方が簡単だね」
「実はね」
「それ凄いよ、ただね」
それでもとです、また一呼吸置いてお話しました。
「先生古典での恋愛は」
「素晴らしいよ、日本の古典で書かれている恋愛はね」
先生は目を輝かせて答えました。
「あの時代に現代にも負けていない素晴らしい心理描写といいね」
「よく読んでるね」
「自然描写もいいしね、繊細でかつ時として大胆で」
「いいんだね」
「そう思うよ」
心から言います。
「僕は大好きだよ」
「うん、それはいいことだよ」
「褒めてくれて何よりだよ」
「けれどご自身はどうかな」
「この外見でスポーツは全く駄目なんだよ」
だからだというのです。
「風流とか優雅とかね」
「そうしたものは無縁なんだ」
「僕は源氏の君でも和歌の作者さん達でもないよ」
「百人一首とか和歌集のかな」
「和歌も好きで詠ませてもらってるけれど」
それでもというのです。
「あんな風にはだよ」
「出来ないんだね」
「だからね」
それでというのです。
「僕はね」
「もてないんだね」
「産まれてから女性に縁がないし」
鱒二にもこう言うのでした。
「それに誰かとお付き合いしたり結婚しなくても」
「いいんだ」
「皆がいてくれて」
動物の皆をにこりとして見て鱒二にお話します。
「トミーがいて王子がいて」
「お友達がだね」
「今は安定したお仕事にいいお家に日本という素晴らしい国に住んでいるから」
「不満はないんだ」
「ないよ」
全くという口調での言葉でした。
「それこそね」
「だから恋愛はなんだ」
「これ以上幸せな状況はないからね」
だからだというのです。
「僕は恋愛や結婚はなくてもいいよ」
「無欲だね」
「そうかな」
「そうだよ、本当に」
こう先生に言うのでした。
「呆れる位にね」
「無欲もいいことだね」
「いいことでも先生はもっと欲を出してもだよ」
そうしてもというのです。
「いいよ」
「恋愛や結婚にかな」
「そうしたらどうかな」
「こんなにもてないのに?」
やっぱりこう言う先生でした。
「本当に僕は産まれてからだよ」
「女の人にもてないんだね」
「女の人のお友達は沢山いてくれているけれど」
子供の頃からというのです。
「けれどね」
「先生はなんだ」
「全くもてないから」
それでというのです。
「求めないよ」
「そう思ってるんだ」
「そうだよ、僕はもてないよ」
全くと言う先生でした。
「だから恋愛や結婚はないよ」
「無縁だね」
「それこそね」
「やれやれだよ、先生はもっと自信を持っていいよ」
「恋愛のことに?」
「もてると思うよ」
「それはないよ」
やっぱりこう言います。
「僕はね」
「そう思い込んでいるだけだよ」
鱒二はわかっていて言います、そしてです。
鱒二は先生にこう言いました。
「先が思いやられるけれどちょっとは周りを見てね」
「周りをなんだ」
「そうしたら気付くかもね」
先生もというのです、こうお話をしてです。
先生はオオサンショウウオのコーナーを隅から隅まで見てとても奇麗なことに笑顔になってでした。
日笠さんにこのことをお話します、その後で。
日笠さんは先生に必死のお顔で言ってきました。
「あの、お昼ですが」
「はい、そちらですね」
「予定はありますか?」
「大学の食堂でと考えています」
「それならです」
日笠さんは先生に申し出ました。
「お弁当を用意してきたので」
「お弁当ですか」
「はい、サンドイッチです」
こちらのお料理だというのです。
「作ってきましたので」
「ご一緒していいですか」
「お願いします」
必死のお顔で言うのでした。
「飲みものは紅茶です」
「いいですね、では」
「はい、こちらに」
動物園の中のベンチに座ってでした。
そうして一緒に食べます、先生よりも日笠さんの方が嬉しそうでした。サンドイッチは色々な種類があって量もかなりでした。
それで先生も満足しました、ですが。
その後で、です。先生は研究所に戻って文献を読みますが皆はその先生に言ってきました。
「ここで何もなし」
「いつも通りね」
「日笠さんだけが必死で」
「当の先生はこの通り」
「困ったことよ」
「何が困ったことかわからないけれど」
それでもと言う先生でした。
「日笠さんのお料理はいつもながら見事だね」
「だからね、先生」
ダブダブも今回ばかりはやれやれとなっています。
「そこで終わりって何なの?」
「お弁当一緒に食べて何も思わないの?」
ガブガブも言います。
「本当に」
「何でそこでいつも終わりなのかな」
チーチーも呆れ貌です。
「本当にね」
「源氏の君じゃななくてもね」
トートーは先程の鱒二とのお話から言います。
「もっとそちらの方も自覚したら?」
「ここまでわからない人って他にないというか」
「このこと限定で思い込み過ぎよ」
チープサイドの家族も言います。
「先生ときたら」
「他のことでは客観的で思い込みもないのに」
「人間誰でも不得意なものはあるけれど」
それでもと言うホワイティでした。
「先生は極端だよ」
「自分は恋愛対象とは考えないのよね」
ポリネシアの言葉も呆れたものでした。
「昔から」
「僕達と巡り合う前かららしいね」
ジップは先生の若き日そして少年時代のことを思いました。
「サラさんが言ってたけれど」
「ずっともてないと思い込んでいて」
老馬も聞いていることです。
「恋愛経験はないんだよね」
「その考えあらためて欲しいよ」
「少しでもね」
素子ツオサレツの言葉は切実なものでした。
「そうなってくれたら」
「僕達も安心出来るのに」
「いや、僕と恋愛程無縁なものはないから」
全くと言うのでした。
「だからね」
「それでなんだ」
「それで終わりなんだ」
「全く何もしない」
「気付きもしないで」
「よく言われるけれど何もないよ」
本当にと言う先生でした。
「僕と恋愛はね、そして日笠さんはね」
「お友達で」
「それでだね」
「何もなし」
「そうだね」
「サンドイッチのお礼はまたしないとね」
お友達として、というのです。
「そうするよ」
「成程ね」
「色々わかったよ」
「僕達これからも骨が折れるよ」
「何かとね」
皆呆れて言います、そしてでした。
そのお話の中で、でした。皆は窓の外を見て言いました。
「それはそうと暑いね」
「今日もね」
「日差しも強いし」
「まさに日本の夏だね」
「そうだね、日本の夏は厄介だけれど」
その暑さと湿気がというのです。
「風情はあるよね」
「そうだよね」
「その風情がいいよね」
「日本の夏はね」
「絵になるよね」
「だから和歌にも詠われているし」
昔からというのです。
「日本人は夏は夏でね」
「楽しんでいるね」
「そうしているわね」
「ずっとね」
「暑いけれど」
「そうだね、お祭りでは花火もあるし」
これが打ち上げられてというのです。
「夏の食べものもあるし」
「お素麺に西瓜に」
「夏の食べものも美味しいよ」
「冷えたビールも素敵だし」
「麦茶もいいよ」
「日本は夏もいいよ」
暑さがかなりのものでもというのです。
「本当にね」
「ここから向日葵が見えるけれど」
「向日葵もいいよね」
「お日様みたいで」
「見ているだけで嬉しくなるよ」
「そうだね、向日葵もいいよね」
先生も窓からキャンバスの中にあるそのお花を見ます、眩い日差しを受けてもう一つのお日様みたいにそこにあります。
「日本の夏は」
「沢山のお花があってね」
「どのお花も絵になってる国だけれど」
「日本は向日葵も合うね」
「日本の夏に」
「そうだね、だからね」
それでというのです。
「今こうして観て」
「いいと思うね」
「詩的だよね」
「ここから見る向日葵も」
「そう思うよ」
先生は文献を手にしつつ言いました。
「全く以てね」
「そうだよね」
「それじゃあね」
「今は向日葵も観て」
「そうして楽しもう」
「そうしようね」
先生は向日葵も観ました、そしてです。
また文献を読みますが皆はその先生に麦茶を出しました。
「水分補給もしっかりね」
「塩分は塩飴あるから」
「どちらも忘れないでね」
「夏だからね」
「そうだね、暑いとね」
どうしてもというのです。
「汗を流して」
「身体の中の水分が出るから」
「塩分もね」
「だからちゃんと水分摂って」
「塩分もね」
「両方を摂ってだよ」
そうしてというのです。
「しっかりやっていかないとね」
「だからスポーツドリンクいいんだよね」
「あれを夏に飲む」
「それがいいのよね」
「そうだよ、あと経口補給水もいいよ」
こちらもというのです。
「あれもね」
「そう言われているけれど」
「その通りだね」
「夏は特にああしたものを飲む」
「それがいいのね」
「そうだよ、あと飲むと身体が冷えるね」
先生は皆が煎れてくれた麦茶を飲みつつ言いました。
「そうなるね」
「それで体温を調節する」
「その効果もあるね」
「あまりにも熱くなってるとよくないからね」
「体温も」
「それを適度に冷やしてくれるね」
「だからいいんだ」
水分を摂取することはというのです。
「こちらもね」
「そうだよね」
「それもいいよね」
「だから夏は沢山水分を摂取する」
「そうしたらいいね」
「そうだよ、もっとも僕は冬でもよく飲むね」
先生は笑ってお話しました。
「水分は」
「いつもお茶飲んでるからね」
「特に紅茶を」
「ミルクティー冬でも一日十杯は飲んでるよね」
「お家でも大学でも」
「朝から飲んで」
起きてすぐにです。
「寝るまでね」
「そうしているね」
「先生はミルクティー大好きだから」
「他のお茶も好きだけれど」
「ミルクティーが一番好きでね」
「それでよく飲んでいるからね」
だからだというのです。
「冬でもね」
「それだけ飲んでるね」
「十杯は普通に」
「そうしているわね」
「だから水分はね」
こちらのことはというのです。
「冬でもだよ」
「かなりだね」
「もう水分は充分」
「そう言っていいかもね」
「そう思うよ、ミルクティーを飲んだら」
大好きなそれをというのです。
「学問だってね」
「はかどるね」
「それも凄く」
「毎日ね」
「そうだよ、ミルクティーはとてもいいよ」
今は麦茶を飲んでいますがこちらのお茶がというのです。
「アイスでもね」
「イギリスじゃアイスないけれどね」
「ミルクティーでも」
「けれど日本ではあって」
「普通に飲んでいるわ」
「そしてね」
そのうえでというのです。
「ペットボトルでもあるね」
「あれがまた美味しいよね」
「凄く甘くて」
「ストレートティーやレモンティーもあるけれど」
「先生はやっぱりミルクティーだね」
「第一は」
「そうだよ、しかし同じメーカーが出している紅茶なのに」
先生はここでは首を傾げさせて思いました。
「三つが三つで別ものに思えるよ」
「同じ紅茶なのにね」
「そうである筈なのに」
「それがどうしてか」
「別の飲みものみたいだね」
「味が全然違ってね」
その為にというのです。
「見たら原材料が違うしね」
「造られているね」
「それが違うね」
「本当にね」
「全く違ってるね」
「だからね」
同じメーカーの紅茶でもというのです。
「味も違うよ」
「それぞれ美味しいけれどね」
「それは事実でも」
「全く別の飲みものかって思う位に」
「違うね」
「そうだよ、本来はね」
先生はここではお家や喫茶店で飲む紅茶のお話をしました。
「基本はストレートティーで」
「そこにミルクを入れたらミルクティー」
「レモンのお汁だとレモンティー」
「そうなるわね」
「ブランデーの場合もあるけれど」
「あと生クリームを沢山入れたらね」
ストレートティーにです。
「ウィンナーティーになるね」
「そうそう」
「基本はストレートティー」
「それだよ」
「そこからなのよ」
「そうなるけれど」
それでもというのです。
「ペットボトルだとね」
「ミルクティーもレモンティーもね」
「元がストレートティーって感じしないね」
「やっぱり最初からそれぞれで造られているよ」
「そんな感じよ」
「そうだね、しかしどれも美味しいから」
ペットボトルの紅茶達もです。
「飲みたくなるね」
「特にミルクティー」
「そちらよね」
「先生としては」
「そうなるよ」
笑顔で言うのでした。
「僕はね。だからまたね」
「うん、ミルクティー煎れるね」
「そうするわね」
「そちらをね」
「今度はホットで頼むね」
塩飴をお口の中に入れつつお願いしました。
「宜しくね」
「そうするね」
「じゃあまた飲んでね」
「三時にはティータイムもあるし」
「その時もね」
「飲もうね、紅茶があると」
大好きなそれがです。
「もうそれでね」
「先生はだよね」
「幸せだよね」
「それだけで」
「そうだていうのよね」
「そうだよ」
まさにというのです。
「幸せは些細なものだよ」
「ちょっとしたことで満足出来る」
「満足しようと思えば」
「そうだね」
「幸せよね」
「だから満足出来たらね」
些細なことでもというのです。
「それでだよ」
「いいね」
「勝ちだよね」
「それだけで」
「そうだよ」
こう言うのでした。
「人生自体もね」
「満足したらだよね」
「それで勝ちだよね」
「そうなったら」
「これはもう環境とかじゃないんだ」
自分の置かれたです。
「お金がなくても地位がなくても」
「それでもだよね」
「自分が満足していたら」
「それならだね」
「それで勝ちだよ、勝ち組負け組なんて言葉もあったけれど」
日本にはです。
「これはお金や地位のことじゃないんだ」
「自分がどう思っているか」
「それ次第だね」
「例え身を立てても満足していないなら」
「負けているってことだね」
「そうなるよ、例えば野心がある人がね」
そうした人がというのです。
「日本やイギリスだと総理大臣になれない」
「そうなるとだね」
「満足していなくて」
「負けてるね」
「そういうことだよ、それは人それぞれで」
満足しているかどうかはです。
「満足していたらね」
「それでよし」
「勝っている」
「そして幸せだね」
「そう、僕はとても幸せだよ」
皆に笑顔で言いました。
「これ以上求めるものはないよ」
「ううん、満足していて幸せなのはよくても」
「それでもね」
「そこで終わるのがね」
「先生は駄目よ」
「もっと頑張って欲しいよ」
皆は残念そうに言います、ですがそれでもです。
先生の傍にいます、そうしたところもありますがとても穏やかで優しい先生が大好きだからそうするのです。