『ドリトル先生と幸せになる犬』
第十二幕 家族とは何か
先生は国崎さんのお家を訪問してそのうえでふわりの前の飼い主の彼等のお話をしました、するとご主人もこう言いました。
「実はあいつ等の旦那の方の職場の人達もです」
「そうしたことをですか」
「はい、あの連中の家に二人目が産まれたことのお祝いに行って」
「そこで、ですね」
「見たそうです」
「やはりそうですか」
「もうその時に証拠の写真や映像も」
どれもというのです。
「撮ったそうなんで」
「だからですか」
「先生にもお話を聞きましたし」
それでというのです。
「もうです」
「このことはですね」
「弁護士の兄貴にも話して」
そうしてというのです。
「あいつ等に引導を渡して」
「そのうえで」
「あの子達を助け出します」
「宜しくお願いします」
先生も応えました。
「人命にも関わることですし」
「余計にですね」
「慎重ですが迅速に」
「そして確実にですね」
「ことを進めて下さい」
「そうします、こうなると思っていました」
ご主人は先生に苦り切ったお顔で言いました。
「あんな連中ですから」
「だからですね」
「ええ、何時かはと」
「そうですね、飼育放棄をした時点で」
「大体わかりますね」
「ペットの飼育放棄をしたならです」
「今度は育児放棄ですね」
ご主人はこの言葉を出しました。
「それをしますね」
「動物を虐待する人はです」
「人間もそうしますね」
「はい、残念なことですが」
先生は沈痛なお顔で言いました。
「そうするものです」
「そこでもうそいつの碌でもない本性が出るんですね」
「弱い者いじめをする人も」
「後々碌でもないことをしますね」
「物事には常に前兆があります」
「あいつ等にとってはふわりにしたことですね」
「昔からそうした人達だったのですね」
先生は彼等がふわりを飼う以前のことをお話しました。
「そうでしたね」
「そうでした」
実際にというのです。
「子供の頃からです」
「命を何とも思わないで」
「思いやりもなくて無神経で幼稚でして」
「おもちゃも飽きたらですね」
「飽きっぽくてすぐに捨てていて」
「自分勝手で浅ましかったのですね」
「そうでした」
実際にというのです。
「本当に」
「そうでしたか」
「ふわりを飼った時も捨てるって思いました」
今は動物の皆と楽しく遊んでいるふわりを見て言いました、ふわりは皆とすっかり仲良しになっています。とても性格のいいふわりは彼等の人気者にもなっているのです。
「そうしたらそうでしたし」
「今度もでしたね」
「二人目が産まれたらその瞬間に」
まさにというのです。
「一人目はもうほったらかしにして」
「見向きもしなくなるですね」
「まだ一歳なのにミルクも碌にあげなくて」
「お風呂にも入れないで、ですか」
「ええ、おむつも一日一回適当に替えて拭きもしないで」
「酷いですね」
「部屋に寝かせたままで部屋も掃除してないそうです」
「完全な育児放棄ですね」
「旦那の方の会社の人が息子の働いているラーメン屋に通っていて」
お客さんとしてです。
「そしてです」
「そのうえで、ですね」
「息子に話してくれました」
「そうでしたか」
「掃除もしていない部屋でほったらかしで二人目ばかりです」
「おもちゃとしてですね」
「遊んでいます」
先生に苦い顔でお話しました。
「二人でつきっきりで」
「そうですか、ではです」
「兄貴に話して」
弁護士のお兄さんにというのです。
「すぐに動きます」
「お願いします、それとふわり」
先生はご主人とお話してから皆と遊んでいるふわりに声をかけました。
「ちょっといいかな」
「どうしたの?」
「うん、君は前のご家族に会った時に彼等を一目見たね」
頭の上にクエスチョンマークを出したふわりに尋ねました。
「そうしたね」
「それですぐにパパのところに行ったわ」
「そうだね、君はあの時何を見たのかな」
「あの人達を見たの、そうしたらね」
もう前のママとパパとは言いません、ふわりも彼等が自分にとって家族では全くないことがわかったのです。
「昔の姿と違ったの」
「どんな姿だったかな」
「お肌はどす黒く濁っていてがさがさでね」
そうしてというのです。
「物凄く痩せて目が淀んでいてお口からは腐った匂いがして髪の毛はボロボロの」
「そうした姿に見えたんだね」
「お化けみたいだったわ」
ふわりはそう思ったのです。
「本当にね」
「それはあれだね」
「あれっていうと?」
「餓鬼だよ、まさにね」
その存在だというのです。
「それはね」
「そうなのね」
「彼等はやっぱり餓鬼になっていたんだ」
あまりにも心が浅ましくてそうなっていたというのです。
「人でなくね」
「そうだったの」
「うん、もう彼等のことはどうでもいいね」
「私のお家はここだし家族はパパとママとお兄ちゃんよ」
ふわりはきらきらとした目で答えました。
「誰でもないわ」
「そうだね、じゃあね」
「これからはなのね」
「ここでずっと幸せに暮らすんだよ」
「そうするわね」
「ふわりは何時までも俺達の娘ですよ」
ご主人も言いました。
「何があっても」
「はい、ですが何かあった時は何時でも呼んで下さい」
先生は約束するご主人に約束しました。
「僕が出来ることで」
「助けてくれますか」
「そうさせてもらいます」
「そうですか、それじゃあ」
「はい、その時は」
先生は笑顔で応えました、そうしてでした。
先生もふわりと遊びました、彼女の前の飼い主の人達とのお話をした後はそうしました。そのうえでお家に帰りましたが。
お家に帰ると動物の皆は先生に言いました。
「よくわかったよ」
「何であの人達の命運が決まったかってね」
「先生が何故そう言ったか」
「よくわかったよ」
「そうだね、飼育放棄をして平気で捨てる人達はね」
先生は皆に答えました。
「育児放棄も平気でだよ」
「するのね」
「ふわりにそうして」
「今度は自分達の最初の赤ちゃんにした」
「そういうことね」
「また次のおもちゃが手に入ったから」
「そうだよ、けれど人間の赤ちゃんにそうしたら」
まだ一歳の子供に育児放棄をすると、というのです。
「命に関わるからね」
「一歳ってまだ赤ちゃんだよ」
こう言ったのはジップでした。
「歩けるか歩けないかどうか」
「そんな子に育児放棄なんかしたら」
どうなるか、トートーは怖くなりました。
「死ぬかも知れないよ」
「お風呂に入れないでおむつ替えるのも拭くのも適当って」
チーチーは呆れています。
「どれだけ汚いか」
「しかもお掃除しないお部屋にずっと置いたままだよね」
「ベッドに寝かしたままで」
チープサイドの家族も言います。
「ミルクも適当で」
「何かあってもおかしくないよ」
「あの、自分達の子供何と思ってるの?」
ガブガブは心から思いました。
「本当におもちゃなのね」
「その赤ちゃんが参るからふわり捨てたんだよね」
ホワイティはこのことを指摘しました。
「命捨ててそれで守った命をそうするってね」
「もう守ってるんじゃなくて完全におもちゃで遊んでるだけで」
ポリネシアも言いました。
「子育ても家族として一緒じゃないのね」
「間違いなくそうだね」
ダブダブも確信しました。
「これは」
「いや、ペットを飼う資格も子供を持つ資格もない人達だったんだね」
「本当に餓鬼だね」
オシツオサレツは断言します。
「この世のあらゆる生きものでも最低だよ」
「餓鬼でしかないよ」
「命の価値なんて何とも思ってなくて」
老馬も言いました。
「おもちゃとしか思ってないんだね」
「全くだよ、ふわりは殺処分になりかけてね」
保健所に捨てられてです。
「今度は一人目の赤ちゃんがね」
「まだ親の手が必要なのに」
「ずっと一緒にいてもらわないと駄目なのに」
「ほったらかしで」
「それでどうなるかわからない状況だね」
「その危機が終わるよ、しかし」
先生はこうも言いました。
「彼等は破滅すると前にお話が出たけれど」
「命運が決した」
「そうなってね」
「それでそれが破滅だってね」
「皆でお話したね」
「そうだよ、育児放棄は法的にも社会的にも実証されれば極めて深刻な事態だからね」
そうだというのです。
「飼育放棄はペットということで人間に対してよりはましだけれどね」
「だからあの人達も生きていけたね」
「親戚全員から縁切られてインスタグラム炎上してご近所から嫌われても」
「会社とかは続けられたね」
「けれど育児放棄は致命傷だよ」
その社会的生命にとってというのです。
「もう社会的生活を営めない」
「それって本当に終わりだね」
「そう思われたら」
「法律でそう判断されたら」
「うん、禁治産者と認定されてね」
そうなってというのです。
「育児出来る能力も普通の仕事をする能力もない」
「もう何も出来ない」
「そうした人だって判断される」
「それじゃあだね」
「子供達も引き離されて」
「それでなのね」
「そう、もうお仕事も何もなくなってね」
子供達も子育て出来る能力がないから親権を放棄させられてです。
「何も出来なくなって社会的にもそう思われてね」
「生きた屍だね」
「そうなるんだね」
「もうこれからは」
「そうなるんだね」
「そしてね」
それでというのです。
「後はどうなるかわからないよ」
「禁治産者ね」
「僕達その言葉について詳しくないけれど」
「そう判断されたら終わるのはわかるよ」
「何も出来ない人だって」
「言うなら廃人だね」
先生はこの言葉も出しました。
「そうした人だね」
「ああ、廃人だね」
「もう社会的なことが一切出来ない」
「そうした人だね」
「禁治産者っていうのは」
「廃人は医学的だけれど」
そのうえでの認定だというのです。
「禁治産者は法的だよ」
「もう何も出来ない」
「確かに飼育放棄に育児放棄だと」
「社会的なことは出来ないね」
「一切ね」
「そうだよ、彼等は他にも色々そうしたことみたいだし」
このこともあってというのです。
「間違いなくね」
「今度の育児放棄で禁治産者と認定されて」
「赤ちゃん達の親でなくなって」
「もう後は何も出来ない」
「そのうえで残り人生を過ごしていくのね」
「それが彼等の命運だよ、そして亡くなったら」
人間の人生を終えたらというのです。
「餓鬼に生まれ変わるよ」
「既に餓鬼だからね」
「それじゃあ亡くなったらね」
「確かに餓鬼になるしかないね」
「餓鬼の一生は一万五千年っていうけれど」
先生はこのことは仏典で知りました、先生は日本語や中国語だけでなくサンスクリット語も読めるので仏教の学問にも秀でているのです。
「その一万五千年の間ね」
「ずっと餓えと渇きに苦しむんだ」
「物凄く長い間だけれど」
「その間ずっと苦しんで」
「そうして生きていくんだ」
「それが餓鬼になった人の末路だよ」
死んでからのことだというのです。
「だから仏教では戒められているんだ」
「浅ましくなってはいけない」
「餓鬼になってはいけない」
「そう教えられているんだね」
「仏教においては」
「そうだよ、仏教ではね」
まさにというのです。
「戒めの一つとしてあるんだ」
「餓鬼にならない」
「浅ましくならず心正しく生きる」
「そうあるべきなんだね」
「命あるものは」
「キリスト教とはまた違う教えだけれど」
それでもというのです。
「いい教えだね」
「そうだね」
「あの人達思い出すと余計にわかるよ」
「ああなってはならない」
「そうね」
「自分はなってはいけないけれど反面教師も見て」
ここで言うのはやっぱりふわりの前の飼い主の人達です。
「そうしていこうね」
「そうだね」
「あの人達はふわりから愛されていたのに」
「それを自分から裏切って捨てた」
「そうして赤ちゃんもそうして」
「餓鬼として終わって」
「餓鬼として苦しむことになるよ」
それからはというのです。
「注がれている愛情を断ち切ってそれを注いでくれた相手を平気で死んでしまえとなれる」
「もういらないでね」
「そして利用出来ると思ったら返せ」
「そんな風じゃね」
「やっぱり神様は見ているから」
「餓鬼になるよね」
「仏教だと仏様だけれどね」
このことは訂正を入れる先生でした。
「やっぱり高次元な存在は見ているから」
「だからだよね」
「そうだよね」
「天罰が下るし」
「他の人達も見ているし」
「報いを受けるね」
「天罰は報いは最後までは反省の為にあるんだ」
それを受けた人がそうなる為にというのです。
「本来はね、けれどね」
「最後の最後のそれは」
「もう成敗だね」
「その為にあるね」
「天罰も報いも」
「そうなんだ」
先生もその通りだと答えました。
「悪いことをした人でも神様仏様は反省の機会を何度も与えてくれるよ」
「天罰や報いがあっても」
「そして世の人も」
「ちゃんとだね」
「その機会を与えてくれるね」
「そうしてくれるけれどもうどうにもならないで」
それでというのです。
「あの人達みたいに成り果てたら」
「もう最後の天罰が下る」
「そして成敗されて」
「終わるんだね」
「そうなるよ、もう彼等は破滅しかないよ」
その運命しかないというのです。
「それを他ならぬ自分達で招いてしまったんだ」
「他から来る災厄は逃れられても」
「自分が招いた災厄からは逃れられないっていうね」
「自業自得だね」
「そして因果応報だね」
「因果応報はこの世の摂理の一つだよ」
先生は言いました。
「悪いことをしたら必ずね」
「報いを受ける」
「それからは逃れられない」
「そうなのね」
「だから彼等も破滅するんだ。彼等は全く自覚していないけれど」
それでもというのです。
「間もなくね。そしてそれでも反省しないよ」
「禁治産者になっても」
「破滅しても」
「社会的に廃人となっても」
「それで破滅したまま腐りきってね」
そうなってというのです。
「残りの人生を過ごすよ」
「何か長くなさそうだね」
「そんな人生ね」
「腐りきったまま生きても」
「然程ね」
「そうだね、そしてその後で餓鬼になるから」
一万五千年苦しむ存在になり果てるというのです。
「救われないね」
「行いをあらためるのは餓鬼に生まれ変わってからかな」
「物凄く苦しんで」
「それからかな」
「そうかもね。餓鬼になることは苦しいから」
それでというのです。
「気付いたら」
「そうはならない様にすることだね」
「私達にしても」
「いつも思いやりや謙虚さを忘れないで」
「それで酷いことをしない」
「浅ましくならないことね」
「僕だって嫌だよ」
先生にしてみてもというのです。
「餓鬼になるのは」
「そうだね」
「あの人達を見てつくづく思ったよ」
「ああなったら駄目だよ」
「餓鬼になったら」
「ふわりみたいな子を作るし」
「自分も苦しむしね」
「そうなるからね」
だからだというのです。
「皆で気をつけていこうね」
「そうしていこう」
「僕達は家族だからね」
「誰かに問題があったら注意して」
「あらためてもらってね」
「餓鬼にならない様にしよう」
「そうしていこうね」
先生は皆に言いました、そうしてでした。
これからも餓鬼にならない正しい心を持って生きていこうお互いに注意していこうと約束しました。そしてです。
皆で晩ご飯を食べました、王子も呼ばれてです。
そうして焼き肉を食べました、その中にはホルモンもありますが。
王子はそのホルモンを食べて言いました。
「内臓も美味しいんだよね」
「うん、生きものはね」
先生もホルモンを食べつつ王子に応えました。
「普通のお肉も美味しいけれど」
「内臓もだよね」
「そうなんだよね」
「何かイギリスにいた時は」
王子は先生のお国のお話もしました。
「あまり内臓を使った料理はね」
「食べなかったんだね」
「あるにはあるけれど」
それでもというのです。
「これといってね」
「有名じゃなくてね」
「食べることは少ないね」
「そうだよね」
「どうにもね」
こう言うのでした。
「どうもね」
「そうだよね」
「ハギスも内臓を使ったお料理だけれどね」
「ああ、ハギスはそうだね」
先生はハギスと聞いて笑顔で言いました。
「内臓を使ったお料理だね」
「けれどハギスってね」
ガブガブはどうかというお顔で述べました。
「色々言われてるわよね」
「美味しいとは言わないね」
「そうよね」
チープサイドの家族がお話します。
「イギリスでもね」
「そうだよね」
「怪獣とか未確認動物とか言われるね」
こう言ったのはトートーでした。
「ジョークにしても」
「私達にしても殆ど食べたことがないし」
こう言ったのはポリネシアでした。
「イギリスにいても」
「日本で見たことないよ」
ホワイティは日本に来てからのことを振り返って言いました。
「一度もね」
「知ってる人も少ないね」
ダブダブも言います。
「日本ではね」
「日本では色々なものが食べられるけれど」
チーチーはお肉を食べながらこう言いました。
「ハギスはないね」
「まあ美味しいものじゃないしね」
老馬もハギスについてお話します。
「これといって」
「ただ内臓を使ったイギリスのお料理ではあるね」
「そうだね」
オシツオサレツはその区分からお話しました。
「あるにはあるね」
「イギリスでもね」
「あの形と色がね」
ジップは実にと言いました。
「独特だよね」
「あとレバーは食べますしソーセージもですね」
トミーはソーセージを食べながら言いました。
「内臓を使っていますね」
「うん、腸だからね」
ソーセージはとです、先生はトミーに答えました。
「だからね」
「具を腸に入れて」
「そうして燻製にしたものだからね」
「これはどの国でも食べていて」
「イギリスでもだからね」
「食べていますね」
「そうだね、まあイギリスは料理自体がね」
そのものがというのです。
「あまりね」
「ぱっとしませんからね」
「だから内臓のお料理もね」
「少ないですね」
「そして有名じゃないよ」
「そうですね」
「日本も昔はあまり内臓は食べなかったというけれど」
先生はお肉を焼きつつ言いました、皆で鉄板を囲んでそれでお箸でその上に置いて焼きながら食べています。
「そうでもないところもあるよ」
「鰻の内臓食べてるよね」
「鮟鱇の肝もね」
「鱈の白子とかね」
「あとこのわたも」
「鮑だって肝食べてるしね」
「魚介類のものを食べてるんだよね」
そうしているというのです。
「昔から」
「このわたは海鼠の内臓だね」
王子はそのこのわたのお話をしました。
「そうだね」
「そうだよ、あれも美味しいよね」
「そうだよね」
「海鼠自体が美味しいけれど」
先生は日本に来てその美味しさを知りました。
「けれどね」
「このわたもですね」
「美味しいよ」
「そうですよね」
「また食べたいね」
そのこのわたをというのです。
「海鼠もね」
「じゃあ今度安かったら」
「買ってだね」
「皆で食べましょう」
「そうしようね」
「そして今は」
「焼き肉を食べようね」
こう言ってです、先生は。
焼いたお肉を食べてです、ビールを飲んで言いました。
「そしてビールもね」
「飲むんだね」
「そう、焼き肉とビールはね」
この組み合わせはというのです。
「かなりいいね」
「そうだよね」
「日本にいたら」
本当にというのです。
「この組み合わせも楽しめるよ」
「焼肉とビールだね」
王子もビールを飲んで笑顔になりました。
「これいいよね」
「そうだね」
「僕も好きだよ、あと日本にいたら」
今度は焼き肉を食べて言いました。
「ビールには枝豆やお豆腐もいいね」
「柿ピーもあるね」
「色々あるよね」
「ビールに合うおつまみがね」
「そうだよね」
「うん、だから僕は今はね」
ビールをごくごくと飲みながら言いました。
「ビールも楽しむよ」
「そうしていくね」
「焼肉と一緒にね」
「そうしていくね、僕もね」
王子はまたホルモンを食べて言いました。
「楽しむよ」
「そうするね」
「うん、それでビールはよく冷えている」
「そうそう、それがいいね」
「それに限るね」
「冷蔵庫に入れておいてね。ただね」
ここで先生はこうしたお話をしました。
「阪神にいた川藤さんだけれど」
「ああ、あの人だね」
「面白い人ですよね」
王子だけでなくトミーも笑顔で応えました。
「あの人は」
「物凄く阪神を愛していてね」
「お話も楽しくて」
「愛すべき人だよね」
「あの人もビールが好きだけれど」
川藤さんもというのです。
「ビールをロックで飲むんだ」
「日本じゃ珍しいね」
「そうした飲み方をされるんですか」
「そうなんだ、ただ勢いよく飲むから」
それでというのです。
「氷が溶ける暇はないそうだよ」
「そこも川藤さんだね」
「あの人らしいですね」
「そうだね、僕もあの人は好きだよ」
先生はビールを飲みつつ笑顔でお話しました。
「まさに好漢だからね」
「浪速の春団治ね」
「そう言われていたのよね」
「ずっと阪神にいて阪神を愛していて」
「今もそうでね」
「阪神愛に満ちた人だよね」
動物の皆も言います。
「何かを全力で愛しているとね」
「それだけで違うよね」
「人間として何かが違うね」
「そうだよね」
「そう、愛情を持っているとね」
それだけでとです、先生は皆にもお話しました。
「人間はそれだけで全く違うんだ」
「そうだよね」
「ふわりの今のご家族もそうだしね」
「愛情があるとね」
「それだけで違うね」
「愛情から色々な素晴らしいものが生まれるしね」
こうもです、先生は言いました。
「思いやりや優しさがね」
「そうだよね」
「そうしたものも愛情から生まれるね」
「そして人の心を素晴らしくして」
「幸せにしてくれるわね」
「だからね」
それ故にというのです。
「愛情は尊いんだよ」
「川藤さんにはそれがあって」
「ふわりの今のご家族にもある」
「そうだね」
「自分以外の生きもの全てが大嫌いなら」
そうした人はというのです。
「自分以外の生きものに嫌われるしね」
「嫌えば嫌われる」
「そう言われてるしね」
「自然とそうなるわね」
「そして誰かを愛していれば」
それならというのです。
「自然とね」
「愛されて」
「そして素晴らしいものも得る」
「そうなっていくね」
「成長もしていってね」
人間としてというのです。
「そうなるよ、ただふわりの前の飼い主の人達はね」
「愛情がなかったんだね」
「ふわりにも赤ちゃん達にも」
「自分達は持っているつもりでも」
「実は違ったね」
「そうなんだ、本当に遊んでいただけだったんだ」
あの人達の場合はというのです。
「これがね」
「そうだよね」
「あの人達の場合は」
「ふわりや赤ちゃんは自分達のおもちゃで」
「おもちゃで遊んでいただけで」
「愛情なんかなかったね」
「全くね」
まさにというのです。
「本当にね」
「そうだね」
「あの人達はそんなもので」
「愛情なんかなくて」
「だから餓鬼になったんだね」
「勿論餓鬼に愛情はないよ」
そうしたものは持っていないというのです。
「あまりにも浅ましくてね」
「そうだよね」
「餓鬼に愛情がある筈がないね」
「もう自分だけだよね」
「餓鬼は」
「そうだよ、愛情どころか」
それどころかというのです。
「自分以外はないよ、人が餓鬼になってもそうで」
「生まれ変わって身体も餓鬼になったら」
「もう飢えと渇きばかりで」
「そうなっていてね」
「それでだよね」
「愛情なんてね」
「本当にないね」
「若し餓鬼が愛情を持てれば」
その時はといいますと。
「餓鬼でなくなるよ」
「その瞬間にだね」
「そうなるのね」
「餓鬼から人間になれる」
「そうなのね」
「そうだよ、愛情を持って」
そしてとです、先生は。
焼き肉をまた食べてビールを飲んでから言いました。
「暮らしていこうね」
「そうだよね」
「浅ましい心を持たない様に注意して」
「そしてね」
「愛情も持っておくことだね」
「そうだよ、それでね」
そのうえでというのです。
「幸せに暮らしていこうね」
「愛情があれば幸せになる」
「そう言うしね」
「それじゃあね」
「楽しく過ごしていこうね」
「これからもね」
「そうしていこうね」
笑顔で応えた先生でした、そして皆と一緒にです。
焼き肉を食べてビールを飲んで楽しく過ごしました、そうしたうえでこの夜も楽しく過ごしました。そうしてでした。
この日から暫く経ってサラがまたご主人のお仕事で日本に来ました。それでいつも通り先生のお家にもお邪魔しましたが。
サラは先生からふわりのお話を聞いてこう言いました。
「何処でもそうした人はいるわね」
「そうだね」
「命を何とも思わない人達が」
「この前遂に親権を放棄させられたよ」
「育児放棄だったから」
「うん、赤ちゃんは大変な状況だったらしいよ」
その子はというのです。
「ずっとお風呂に入れてもらってなくてミルクもね」
「あげられてなかったの」
「あまりね、おむつもあまり替えてなくて拭いてもいなくてずっとベッドに置かれたままだったそうだよ」
「酷いお話ね」
「ふわりにしたことをね」
「そのまま自分達の子供にしたのね」
「そうだよ、それでね」
そのうえでというのです。
「そのことが明らかになって」
「それでよね」
「もうね」
それこそというのです。
「ふわりの前の飼い主の人達は破滅したよ」
「禁治産者にもなって」
「完全にね。禁治産者だから働けなくて」
それも出来なくなってというのです。
「後は廃人としてね」
「生きるだけだね」
「そうだよ、まあ早速酒浸りになってるそうだから」
「あら、もうなの」
「親権も仕事もなくなってね」
禁治産者になってです。
「それでね」
「他にすることがなくて」
「それで自分達が社会人として完全に駄目になって自棄になってね」
それでというのです。
「もうね」
「酒浸りになってるのね」
「夫婦共にね、ずっと飲んでるそうだから」
そのお酒をです。
「もうね」
「長くないのね」
「そうだよ、お酒は溺れるとね」
「毒になるわ」
「そう、だからね」
「その人達は長くないのね」
「そうだと思うよ、心が餓鬼になってね」
サラにもこうお話しました。
「そしてもうすぐね」
「仏教の餓鬼道に行くのね」
「そうなるんだ」
「身体もそうなるのね」
「そしてずっと苦しむんだ」
「私仏教には詳しくないけれど」
それでもとです、サラは先生に答えました。
「地獄に落ちる様なものね」
「簡単に言うとね」
「そうなのね」
「地獄より辛いかもね」
サラにも餓鬼道についてこうお話しました。
「若しかしたら」
「そうみたいね」
「うん、そしてね」
「ずっと苦しんでいくのね」
「餓えと渇きにね」
「それは辛いわね、けれど」
それでもとです、サラは思いました。
「それも自業自得ね」
「因果応報だね」
「あまりにも浅ましく醜い心で」
「そして行いもそうだからね」
「そうなるのよね」
「全ての行いには返ってくるね」
「いい行いにはいいものが」
そしてです。
「悪い行いには悪いものがね」
「全部返って来るよ」
「そうよね」
「だからだよ」
「その人達はもうすぐ餓鬼道に落ちるのね」
「お酒に溺れていってね」
「そうなのね、しかし」
ここで、です。サラはこうも言いました。
「今回のことは出来るだけなかったらいいわね」
「飼育放棄も育児放棄もね」
「そうね。それでこの子ね」
サラは自分のスマートフォンを出してふわりの動画を観ました、ふわりはその動画の中では奇麗な犬用のドレスとリボンで飾られていて。
そしておすわりやお手をしています、それを見て言いました。
「可愛いうえにね」
「頭もいいね」
「それで性格がいいっていうのもね」
ふわりの黒いきらきらした目も見ました。
「わかるわ」
「そうだね」
「こんないい娘を捨てるなんてね」
「そもそもペットは最後まで一緒であるべきでね」
「碌でもない人達よ」
こう言うのでした。
「本当にね」
「それがわかるね」
「ええ、そしてね」
今度はお顔を見せないですがふわりと一緒にいるご家族について言いました、お顔以外のところは見えているので。
「今のご家族はとてもいい人達ね」
「そのこともわかるね」
「ええ」
その通りだと答えました。
「私にもね」
「この娘に相応しいね」
「いい人達だね」
「そう思うわ、この娘は自分に相応しい幸せを手に入れたのね」
「結果としてそうだね」
「酷い目にも遭ったけれど」
飼育放棄、そして保健所に捨てられてです。
「今は違うわね」
「この通りにね」
「幸せになったわね」
「そうだよ」
まさにとです、先生も頷きました。
「見ての通りにね」
「何よりよ。じゃあこの娘をこれからもね」
「観ていくね」
「動画でね」
それでというのです。
「そしてインスタグラムにも載ってるのよね」
「そうだよ」
「そっちも観るわね」
「そうして楽しんでくれるね」
「そうするわ。観ていてもわかるから」
まさにというのです。
「本当にね」
「ふわりが物凄く幸せだってだね」
「ええ、幸せな子を観ると」
「自分も幸せになるね」
「そうなるわ」
実際にというのです。
「だからね」
「これからも」
「ふわりは幸せになっていくよ」
サラに笑顔でお話しました。
「今も充分幸せだけれど」
「その今以上になのね」
「そうなるよ、だからね」
「私達はこの娘を観ていけばいいわね」
「そうだよ、僕達も幸せになれるから」
その幸せなふわりを観てというのです。
「これからもね」
「わかったわ、それじゃあね」
「そうしていこうね」
「是非共ね」
サラは先生に自分も笑顔になって頷きました、動画の中のふわりは家族の人達と一緒に遊んでとても幸せそうでした。先生もサラも他の皆もそのふわりを観て自分達も幸せになっていることを感じました。
ドリトル先生と幸せになる犬 完
2021・5・11