『ドリトル先生と幸せになる犬』




               第七幕  楽しい動画

 先生はこの時動物の皆と一緒に国崎さんのお家にお邪魔していました、そのうえで皆で仲良くふわりを見ていますが。
 ふわりは国崎さんの奥さんがものを書こうとしますと。
 ケージから出てペンを取って咥えて奥さんに差し出します、奥さんはそれを観て先生に言いました。
「こうしていつもなんですよ」
「必要なものをですね」
「持って来てくれます」
「大きいものならです」
 息子さんも言ってきました。
「あるところに駆けていって」
「そうしてですね」
「はい、ここにあるって」
 その様にというのです。
「鳴いて教えてくれるんです」
「そうですね、ふわりはトイプードルの中でも特に頭がいい娘で」
「性格もですね」
「抜群にいいので」
 だからだというのです。
「そうしたことをです」
「してくれるんですね」
「実はです」 
 先生はご家族にお話しました。
「前の家族のところにいた時も」
「いつもですね」
「助けられたら、お姉ちゃんになるから」
「そう思ってですね」
「はい、考えていたんですよ」
「赤ちゃんが泣いたらですね」
 奥さんは先生のお話を聞いて言いました。
「それをあの二人に教えて」
「はい、おむつを持ってきたり」
 前の飼い主達にです。
「赤ちゃんにおもちゃを貸してあげたり」
「そうしたことをしてですね」
「お姉ちゃんとしてです」
 つまり家族としてというのです。
「飼い主達を助けようとです」
「凄いですね」
「ふわりは自分のことは考えません」
 先生はふわりの性格のことをお話しました。
「どうしたら家族を助けられるか、喜んでくれるか」
「そのことをですね」
「考える娘です」
「だから今もですね」
「こうしてです」 
 まさにというのです。
「家族を助ける為に言われなくても」
「動いてくれるんですね」
「そうなんです」
「本当にいい娘ですね」
「そんな娘をもういらないで捨てるんですから」
 ご主人は忌々し気なお顔と声で言いました。
「あいつ等は本当に最低ですね」
「そもそも一度家族に迎えていますね」
 先生はこのことからお話しました。
「そうですね」
「そして自分達の子供が産まれるまで可愛がっていたんですよ」
「そうしでしたね」
「まあああなるって思ってましたが」
 ご主人はです。
「あいつ等があんな連中だって知っていましたから」
「飽きっぽくてですね」
「自分達のことしか考えなくて」
「思いやりもなくて」
「命のことなんて知ろうともしない連中だって」
 そうした人達だと、というのです。
「わかってましたんで」
「それで、ですね」
「ふわりを捨てるってわかってました」
「そうでしたね」
「はい、そして今俺達が一緒にいます」
「それでずっとですね」
「一緒ですよ」
 一生というのです。
「本当に」
「そうです、生きものは命で」
「それで、ですね」
「そのことを念頭に置いて」
「家族に迎えたらですね」
「一生一緒にいて大事にしないと」
 そうしなければというのです。
「駄目です」
「そうですね」
「そしてふわりのこうしたこの性格はですね」
「はい、とても」
 それこそというのです。
「知る以前でした」
「おもちゃとして可愛がっていただけでしたからね」
「あいつ等はふわりの外見しか見ていなくて」
「性格や頭はですね」
「もう全くです」
「大事なのは内面です」
 先生は穏やかですが確かな声で言いました。
「生きものも」
「外見だけで判断するのは最低ですね」
「はい」
 まさにというのです。
「このことは」
「そうですね」
「ふわりは確かに素晴らしい外見です」
 その可愛い外見のお話もしました。
「トイプードルの中でもです」
「特にですね」
「可愛い娘です、顔立ちも毛並みもスタイルも」
「どれもですね」
「かなりです、ですが」
「性格と頭はですね」
「外見よりも遥かにです」 
 それこそというのです。
「最高です」
「そうですね」
「はい、そのことをわかってもらえると」
 先生としてもというのです。
「僕も嬉しいです」
「そうですね、それで先生がお話してくれた通り」
 ご主人は先生に笑ってお話しました。
「ふわりの動画をです」
「こうしてものを取って来てくれたり大きなものがある場所を教えてくれたり」
「そうした時をですね」
「撮影して」
 そしてというのです。
「ユーチューブに投稿しています」
「そうしてくれていますか」
「はい、そして」
 ご主人はさらに言いました。
「ふわりの散歩の時や普通に家にいる時も」
「動画にですか」
「撮影しまして」
 そしてというのです。
「投稿しています、服を着せた時も」
「リボンを付けたりですね」
「その時もです」
 まさにというのです。
「動画にです」
「あげていますね」
「ケーキをあげたりした時も」
「そうですか」
「それで動画の視聴数がです」 
 ご主人はこちらのお話もしました。
「毎日投稿していますがどれも何十万回もです」
「視てもらっていますか」
「はい」
 実際にというのです。
「そうなっています」
「それは何よりですね」
「抜群に可愛くて頭がいい」
「そうした娘なので」
「大人気です、ですが」
 ご主人はいぶかしむ顔で先生に尋ねました。
「俺達としてはふわりが人気なのはいいことですが」
「それでもですか」
「お金の話をしますと広告代も凄くて」
「有り難いですね」
「貯金してます」
 そちらのお金はといいうのです。
「そうしていますが」
「このことがですね」
「何かあいつ等に関係あるとか」
 ふわりの前の飼い主の人達にです。
「言われてますが」
「はい、それは事実です」
「そうなんですか」
「ええ、種を蒔いています」
 そうだというのです。
「今は。そしてその種はです」
「種を蒔くとですね」
「そこから実りますね」
「そうなりますね」
「きっと実のります、ご家族には間違いなくいいものが実りますが」
 その種からというのです。
「果たしてどうなるか」
「あいつ等は」
「これからです」
「そうですか、俺はあいつ等は関係ないと思いますが」
「まあそれは今後です、若しかすると関係ないかも知れませんが」
「ひょっとするとですか」
「関係あるかも知れません」
 そうだというのです。
「これは」
「そうですか」
「はい、ですから」
 先生は穏やかな声でお話しました。
「これから次第です」
「じゃあ俺達はですね」
「ふわりを楽しく過ごされて下さい」
「そして動画もですね」
「あげて下さい」
 先生は終始穏やかな声でした、そしてです。
 先生は国崎さんとのお話を終えて帰りました、この時ふわりはご家族と一緒に先生を玄関まで見送ってくれました。
「先生、さようなら」
「さようなら、また会おうね」
「私今最高に幸せよ」
 その黒いきらきらとした優しい目で言うのでした。
「私をおもちゃじゃなくてね」
「家族としてだね」
「凄く可愛がってくれるから」
「そのことがわかったね」
「おもちゃを可愛がるのと家族を可愛がるのは違うのね」
「そうだよ、君はおもちゃもずっと大事にするけれど」
 これもふわりのいいところです。
「君の前の飼い主みたいな人達はね」
「おもちゃで遊んでよね」
「そして飽きたらすぐに捨てるんだ」
「そうなのね」
「けれど今の君のご家族は」 
 国崎さん達はというのです。
「君を命のあるね」
「家族としてよね」
「接しているからね」
「そうね、家族としてね」
「可愛がってもらっているからだね」
「私凄く幸せよ」
 先生に笑顔で言いました、尻尾も元気よく振られています。
「最高に」
「そして君はこれからその最高の幸せがね」
「ずっと続くのね」
「そうだよ」
 まさにというのです。
「そうなるからね」
「何の不安や心配もなくなのね」
「ご家族と一緒に過ごすんだよ」
「パパともママともお兄ちゃんとも」
「素晴らしい人達とね」
「わかったわ、これからもそうしていくわ」
「それじゃあね」
「ええ、また来てね」
「そうさせてもらうよ」
 先生はふわりにも笑顔で言いました、そうしてです。
 笑顔のままお家に帰りました、すろとこれまでご家族とふわりを黙って見ていた動物の皆が先生に言ってきました。
「ねえ先生、ふわりだけれど」
「本当に凄く明るい娘ね」
「最初に会った時を思えば」
「物凄く明るいわね」
「まるで太陽だったよ」
「人も生きものも辛いことがあったら暗くなるよ」
 先生は皆にその時のふわりのことからお話しました。
「どうしてもね」
「辛いこと、嫌なことがあったら」
「それで悲しくなってね」
「心も折れてよね」
「それで辛い気持ちになって」
「それでよね」
「暗くもなるんだ」
 そうなるというのです。
「どうしてもね」
「そしていいことがあったら」
「明るさを取り戻す」
「そうなるんだね」
「そういうことだよ、だからふわりもね」
 彼女もというのです。
「暗くなっていてね」
「今はいいことばかりだから」
「先生ともお話したから」
「それで明るくなったんだ」
「そういうことね」
「いや、明るさを取り戻したんだ」
 元々明るかったというのです、ふわりは。
「そうだったんだ」
「そうなんだ」
「ふわりは元々明るかったんだ」
「それが飼育放棄されて怒鳴られて」
「挙句に捨てられて」
「暗くなっていたんだ」
「そうだよ、これまで可愛がられていたのにそんな目に遭ったら」
 それこそと言う先生でした。
「やっぱりね」
「暗くなるね」
「どうしても」
「僕達だってそうなるかも」
「先生にそんなことされたら」
「皆そうだよ、人間だって同じ様な目に遭えば」
 先生はお茶を飲みつつ悲しいお顔になってお話しました。
「悲しくなるよ」
「そうだね、とても辛いことがあって」
 トートーが言いました。
「先生も今言ったけれど」
「暗くなる人って本当にいるね」 
 ジップも言いました。
「まるで別人みたいに」
「それまで明るかったけれど」
「それが本当に変わって」 
 チープサイドの家族も言います。
「暗くなって」
「それで無口になって俯いて」
「失恋とかいじめとかで変わるってね」
 ホワイティも思うことでした。
「本当にあるね」
「僕達だけじゃないね」 
 しみじみとです、老馬は思いました。
「こう考えると」
「人間も同じだから」
 ガブガブは深く考えて言葉を出しました。
「人の心を傷付けないことね」
「先生はこのこともよく言っているわね」
 ポリネシアも知っていることです。
「人の身体も心も傷付けたらいけないって」
「トラウマになって本当に性格を変えて」
「その人にとんでもない悪影響を与えることもあるからって」
 オシツオサレツは二つの頭で言いました。
「だからだね」
「人の心は傷付けたら駄目だね」
「性格が変わるまでのことってね」
 ダブダブは思いました。
「やっぱり相当なことだよね」
「そしてふわりもだね」
 チーチーはここで彼女のことを思いました。
「そうしたことがあって暗く悲しくなっていたんだね」
「そうだよ、あとふわりは性格が変わって朝から晩まで吠えるということで捨てられたね」
 先生はふわりのこのこともお話しました。
「そうだったね」
「そうそう、奥さんも赤ちゃんも参る」
「ずっと鳴いて五月蠅くて」
「そう言われて捨てられたんだよね」
「殺処分のある保健所に」
「何もなくて性格は変わらないよ」
 そもそもというのです。
「人間も生きものも」
「今言った通りに」
「何かあってだね」
「性格って変わるね」
「そうだよね」
「何もなくても急に性格が変わってずっと吠えるとかね」
 そうしたことはというのです。
「犬でもないよ」
「実際はその時はふわりは性格は変わってなくて」
「赤ちゃん産まれたらずっとケージの中に入れられて」
「お散歩も連れて行かれなくなって相手もされなくなって」
「鳴いても応じてくれない」
「そうなってだね」
「ずっと家族を呼んでいただけだね」
 動物の皆もこのことは聞いています。
「そりゃ誰だって鳴くよ」
「吠えていたんじゃないよ」
「これ立派な飼育放棄だし」
「その時点で生きもの飼う資格ないね」
「最低ね」
「そうだよ、トイプードルは無駄吠えをすることもあるけれど」
 それでもというのです。
「家族、普通の人ならね」
「そこで原因考えるよね」
「どうして鳴くのか」
「それをね」
「狭い場所に閉じ込めたままで散歩も行かない、遊ぶこともしない、相手にもしない、これじゃあね」
 それこそというのです。
「誰だってだね」
「ストレス溜まるし」
「辛くなるよね」
「そうなってね」
「ここから出してとかなるよね」
「ふわりは出してとは言わなかったね」
 そもそもというのです。
「我慢強い娘だし」
「そうだね」
「私はここにいるって言ってただけで」
「ずっとね」
「聞こえないのって」
「赤ちゃんが泣いたことを知らせたり」
「僕以外の人にはね」
 それこそというのです。
「生きものの言葉はそうそうわからないね」
「そうだよね」
「先生は特別だから」
「犬の言葉もわからないし」
「このこともあったね」
「しかしね」
 それでもというのです。
「これまで言った通りにね」
「そうだよね」
「性格は急に変わらないし」
「それでだよね」
「鳴くのには理由がある」
「そうだよね」
「そう、そしてね」
 それでというのです。
「鳴く理由を考えなくてね」
「それでだよね」
「五月蠅いから捨てる」
「もういらないってね」
「これは家族に対することじゃないね」
「そうだよね」
「そう、これはね」
 本当にというのです。
「最低の行いだよ」
「人間としてね」
「家族に対する所業じゃないね」
「家族じゃなくてもね」
「何といっても」
「そうだよ、そのことは」
 本当にというのです。
「絶対にしたらいけないよ」
「全くだよ」
「そんな人達は絶対に生きものを飼ったら駄目だよ」
「そして子育て出来る?」
「果たして」
「そんな人達が」
「言うまでもないね、僕は結婚どころかお付き合いしたこともないけれどね」 
 それでもというのです。
「そんなことはね」
「もうね」
「言うまでもないね」
「そんなことそれ以前よ」
「何かと」
「そうだよ、やったらいけないよ」
 こう言ってでした。
 先生は苦いお顔でお茶を飲みました、そしてまた言いました。
「そうした人達が世界中にいる」
「嫌なことだね」
「ふわりの前の飼い主の人達みたいな人達がね」
「普通に世の中にいる」
「こんなことってね」
「本当に嫌になるよ」
 動物の皆も言うことでした。
「全く以てね」
「あんな人達はいたら駄目だよ」
「少しでもいなくなって欲しいよ」
「反省してね」
「そうだね、ただ世の中反省しない人もね」
 こうした人達もというのです。
「いるね」
「そうだよね」
「日本でもいるね」
「国会の中継でもね」
「野党の人達とかね」
「全く反省しない人は繰り返すよ」
 同じことをというのです。
「何度でもね」
「悪いと思っていなくて」
「注意もしていないから」
「だからだね」
「何度でも繰り返すんだね」
「常識で考えたらね」
 先生は強い声で言いました。
「飼育放棄は許されないことだね」
「何があってもね」
「命なんだよ」
「幾ら自分達の赤ちゃんが産まれても」
「それまで可愛がっていたのにそんなことするなんて」
「人間性としておかしいよ」
「命は種類は別でも同じ価値があるんだ」
 先生は言いました。
「だから自分達の赤ちゃんもふわりも」
「一緒にだよね」
「愛情を注がないといけないわね」
「大事にしないとね」
「そうよね」
「それが普通なんだよ」
 こう言うのでした。
「本来はね」
「そうだよね」
「それが自分達の子供出来たらね」
「公平にしないとね」
「ましてや保健所に捨てるなんて」
「性根が見えているわ」
「こんな人達は子供が二人や三人出来たらね」
 先生はその場合もお話しました。
「出来がいい方を依怙贔屓したりしてね」
「出来が悪いと思ったら育児放棄」
「そうするのね」
「虐待したり」
「そんなことをするのね」
「今の日本では毒親という言葉があるけれど」
 所謂悪い親です、世の中残念なことにそう呼ぶしかない人がいることも先生は知っているのです。例え知りたくなかったことでも。
「まさにね」
「毒親だね」
「じゃあふわりの前の飼い主達もだね」
「将来毒親になるんだ」
「そうなるのね」
「そうなってもおかしくないね」
 実際にとです、先生は答えました。
「だって自分の娘って言っていたふわりを平気で捨てたんだよ」
「殺処分されかねない場所に」
「考えれば考える程酷いね」
「物凄い冷たさだね」
「本当に命を何と思っているのかしら」
「こうした人と付き合うと危ないよ」
 先生は皆に忠告しました。
「普段仲良くてにこにことしていてもね」
「自分達に都合が悪くなったら」
「その時にだね」
「あっさり掌を返して」
「それで切り捨てるんだね」
「そうしてくるよ」
 ふわりの前の飼い主みたいな人達はというのです。
「何度も言うけれど犬の命を何とも思っていない人が人の命を大事にするかな」
「そんな筈ないね」
「命は命だから」
「自分達の都合次第でね」
「平気で切り捨てるね」
「そうするね」
「最悪後ろから刺してくるよ」
 そうしたことをしてくるというのです。
「ふわりだって同じだね」
「信じていたのにね」
「それも心から」
「物凄く愛情を向けて」
「愛されていると思っていたのに」
「何の迷いもなく殺されるかも知れない場所に捨てたんだよ」
 保健所にというのです。
「だったらね」
「そうした人達を信じたら」
「何時裏切られるかわからないね」
「そして酷いことになるね」
「そう、こうした人達もいるんだ」
 世の中にはです。
「それも全く反省しないね」
「そんな人達がいる」
「本当に残念なことだね」
「最低な人達だけれど」
「いるんだね」
「もうこんな人達は仏教で言う餓鬼道に堕ちているかもね」
 そこまでになっているというのです。
「人間でなくなっていてね」
「その心があまりにも酷くて」
「人間ですらなくなっていて」
「それでだね」
「餓鬼になっているんだ」
「そうかもね、餓鬼になると」
 人間の心を失ってです。
「本当に反省もしなくてただただ浅ましくてね」
「恥知らずでだね」
「卑しくて」
「それで浅ましい」
「そんな人になるんだね」
「そうだよ、僕も仏教を学んでね」
 先生は宗教学者でもあるので仏教も詳しく学んでいます、キリスト教を信じていますが仏教や神道、他の宗教も認めているのです。
「わかったよ」
「人間あまりにも酷くなると」
「それならだね」
「餓鬼になるんだ」
「生きていても」
「堕ちていって」
「そうだよ、そして死ぬとね」
 その時はといいますと。
「本物の餓鬼になるんだ」
「生きていた時は身体はそうでなかったけれど」
「今度は身体もそうなるんだね」
「そして住んでいる場所も」
「餓鬼の世界になるんだ」
「何もかもね、だから餓鬼を供養しない人もいるよ」
 餓鬼が人間だった頃どれだけ浅ましいか知っていてです。
「卑しい人を助けてなるものかってね」
「そうした考えも何だかね」
「そうした人こそ救うのが仏教だし」
「そこでそうしないのもね」
「ちょっと、だね」
「まあそうした考えもあるよ」
 餓鬼を供養しない人もです。
「特に嫌いな人が餓鬼になったと思ったら」
「ああ、死んでも許すか」
「そう思ってだね」
「それでだね」
「そうするんだね」
「そう、だからね」
 それでというのです。
「相手の人を相当憎んでいたらね」
「あっ、それじゃあ」
 ダブダブはここでふと思いました。
「国崎さんのご主人だとね」
「ふわりの前の飼い主の人達嫌い抜いてるからね」
 ジップはダブダブに応えました。
「いつも凄い憎々し気にお話するし」
「奥さんも息子さんもね」
 トートーも言いました。
「凄く嫌ってるから」
「前の飼い主の人達が若し餓鬼になっても」
「供養はしないでしょうね」
 チープサイドの家族はこう思いました。
「実際に」
「そうなっても自業自得って思ってね」
「まあね、酷いことをしたら報いがあるよ」
 こう言ったのはホワイティです。
「だから餓鬼になるのも自業自得だよ」
「それでそうした人を死んでも許さないのもね」
 ポリネシアはホワイティに続きました。
「一つの考えかしら」
「酷いことをしたら報いがある」
 ガブガブの言葉は冷静なものでした。
「それは事実よ」
「ふわりに酷いことをしたから許せない」
「一つの考えではあるね」
 オシツオサレツは二つの頭で考えてお話しました。
「確かに碌でもない人達だし」
「その人達がどうなっても知らないっていうのはね」
「だから餓鬼になっても供養しない」
 老馬も言いました。
「それは考えとして一つの方法かな」
「命を何とも思わず迷惑を撒き散らし害毒を垂れ流す人生を送ると」
 そして餓鬼に堕ちると、というのです。
「もうね」
「餓鬼に生まれ変わって」
「常に餓えと渇きに苦しんで」
「そしてだね」
「助ける人もいないんだね」
「禅宗のお坊さんはお食事の時に餓鬼にお布施をするけれどね」
 この人達はというのです。
「けれどね」
「それでもなんだね」
「そうした人達が出るのも自然なんだ」
「人間の時の行いを見れば」
「そうしたことをする人も」
「うん、僕はどうかと思うけれど」
 それでもというのです。
「そうした人もいるよ」
「餓鬼は決して助けない」
「嫌いな人がそうなっていると思って」
「そして卑しくて浅ましいから」
「そのことを知っているから」
「そうする人もいるよ、餓鬼になるのは地獄に堕ちるより辛いかもね」
 こうも言う先生でした。
「若しかしてね」
「あっ、そうかもね」
「色々聞いているとね」
「餓鬼になるのって地獄に堕ちるより辛いかも」
「むしろね」
「うん、だから人は酷いことをしないことだよ」 
 絶対にというのです。
「そして浅ましいこともね」
「しないことだね」
「所謂人として外道は行いはね」
「そうしたことはしないで」
「徳を積むことね」
「それが大事だよ、しかし」
 こうも言う先生でした。
「僕も気をつけないとね」
「いや、先生は大丈夫だよ」
「先生程命を大事にしている人いないわよ」
「それに謙虚で優しくて」
「いつもいいことをしてね」
「無欲だしね」
「いや、人間油断すると堕ちるよ」
 そうなるというのです。
「努力しないとね」
「じゃあいつもなんだ」
「気をつけていて努力する」
「それで己を高める」
「そうしないと駄目なんだ」
「先生でもなのね」
「そうだよ、人間は誰でも餓鬼になるかも知れないんだ」
 その可能性はあるというのです。
「油断して努力しないとね」
「そう思うと怖いね」
「誰でも餓鬼になるかも知れないって」
「それで先生もだね」
「注意しているんだ」
「キリスト教徒でもね」 
 そのキリスト教徒としてのお言葉です。
「悪いことをしたら地獄に落ちるね」
「そうそう、最後の審判でね」
「地獄に落ちるね」
「そうなるね」
「ダンテの神曲にあるね」
 この有名な文学作品にというのです。
「地獄に落ちたらどうなるかってね」
「それぞれの犯した罪によってね」
「様々な地獄に落ちてるね」
「ローマ教皇でも誰でも」
「そうなっているね」
「そうだね、まあムハンマドはキリスト教の地獄には実はいないけれど」
 ダンテの神曲ではそうなっていてもというのです。
「あの人はイスラム教の開祖だからね」
「イスラム教の世界の人だから」
「そちらの天国に行ってるわね」
「そうなっているね」
「間違いなくね、コーランは面白くてね」
 イスラムの聖典はというのです。
「聖書では悲しい結末ばかりだけれど」
「そうそう、コーランでは違っていて」
「ハッピーエンドばかりなのよね」
「聖書で出て来る人もコーランだとね」
「ハッピーエンドで終わるのよね」
「どんな困難も勇気と知恵、信仰で打ち破ってね」
 コーランではそうなっているとのことです。
「そしてね」
「幸せを手に入れる」
「アッラーのご加護で」
「そして祝福されるんだね」
「そうだよ、だから読んでいて痛快なんだ」 
 コーランはというのです。
「聖書もいいけれどね」
「コーランもいいんだね」
「面白いんだね」
「そうなのね」
「しかもためになるしね」
 人間のそれにもなるというのです。
「読んでいいよ、しかしね」
「しかし?」
「しかしっていうと」
「何かあるの?」
「いや、旧約聖書の神様はよく怒るけれど」 
 それでもというのです。
「コーランの神様はまず怒らないんだ」
「そういえばそうだね」
「先生前にも言ってたわね」
「コーランの神様は滅多に怒らなくて」
「凄く寛容なんだね」
「それで人間も強いね」 
 コーランではというのです。
「神のご加護以前にね」
「自分で何とかするんだね」
「苦難があっても」
「そうなのね」
「そうなんだよね、少年漫画みたいにね」
 そうした感じでというのです。
「困難を突破してね」
「幸せになる」
「凄く前向きな本なのね」
「そしてイスラム教の教えも」
「逆境は乗り越えるものなんだ」
 例え目の前に存在してもというのです。
「神様もやたらと試練を与えないしね」
「じゃあ目の前にある?」
「自然と」
「そしてその試練を人は自分の力で突破する」
「そうした流れが多いんだ」
「僕が読むとね。神様を信じて前に進んで」
 そしてというのです。
「その苦難をね」
「知恵と力で突破する」
「本当に日本の少年漫画みたいね」
「それじゃあね」
「明るいね」
「友情、努力、勝利もあるかな」
 先生は笑って日本の少年漫画の三つの要素を出しました。
「考えてみたら」
「ううん、凄いね」
「かなり明るそうね」
「けれどそうした本を読んでもね」
「人間を磨けるのね」
「正しく読めばね」
 そうすればというのです。
「なれるよ」
「そうだね」
「人間色々と努力してね」
「反省もしてね」
「そして自分を磨いていくことね」
「さもないと餓鬼になるのね」
「そうだよ、ふわりの今のご家族は」
 この人達はといいますと。
「ふわりを育てて愛情を注いでね」
「そうしてだね」
「心を磨いているんだね」
「あの人達は」
「子育てから学ぶことも多いというしね」
 このことはサラや他の人達から聞いたことです、何しろ先生は結婚したことも誰かとお付き合いしたこともないからです。
「あの人達はね」
「ふわりと一緒にいて」
「そして育てて愛情を注いで」
「その中でだね」
「心もよくなっていっているのね」
「トイプードルのこともふわり自身のこともよく見て学んでね」
 そうしてというのです。
「自分達はどうかと顧みながらね」
「そうしてふわりを飼っているから」
「だからだね」
「その中で磨かれていっているのね」
「ご自身も」
「そうだよ」 
 まさにというのです。
「あの人達もね」
「そうなんだね」
「ただ飼うだけじゃないんだ」
「自分達も変わっていく」
「磨かれていくものだね」
「そうだよ、また癒されもするし」
 生きものを飼う中でというのです。
「僕もそうなっているしね」
「あっ、先生いつも言ってるね」
「僕達を見ていつも癒されてるって」
「助けてもらってるって」
「そうね」
「そうだよ、皆と一緒にいてね」
 先生もというのです。
「どれだけ癒されてるか、そしてね」
「助けてもらってる」
「そう言ってくれてるわね」
「実際にね」
「そうだよ、国崎さん達もね」
 ふわりの家族の人達もというのです。
「そう言ってるね」
「そうだよね」
「いつもふわりを見て癒されてるって」
「一緒にいて」
「そう言っておられるわ」
「アニマルヒーリングだよ」
 これだというのです。
「それを受けてるんだ」
「生きものと一緒にいて癒される」
「一緒に遊んで」
「そしてその姿や仕草を見て」
「それだけで違うんだ」
 心から癒されるというのです。
「そのこともあるし」
「育てる中で調べて学んだ」
「そして経験も積んで知っていって」
「それで成長していく」
「そうもなるのね」
「これは育児でもだよ」
 こちらでもというのです。
「本当にね」
「一緒にいて」
「それでなのね」
「自分も成長していく」
「そうなっていくんだ」
「そうだよ、飼育放棄や育児放棄をする人はね」
 こうした人達はといいますと。
「自分でね」
「自分が成長するチャンスを無視している」
「そういうことね」
「だからふわりの前の飼い主の人達も」
「成長しないのかしら」
「おもちゃと遊んでいるだけだから」
 それでというのです。
「おもちゃと遊んでも学べるけれど」
「ただ遊んでるだけ」
「何かを知ろうともしない」
「ふわりを二年以上可愛がっていたそうだけれど」
「ただ遊んでるだけ」
「それだけで」
「そう、本当にそれだけでね」
 ふわりをおもちゃとして遊んでいるだけでというのです。
「何も知ろうとも学ぼうともしなくてね」
「それで赤ちゃんっていう新しいおもちゃが手に入って」
「ふわりという古いおもちゃは無視して」
「それで五月蠅いから邪魔になって捨てた」
「それじゃあね」
「全く成長していなかったんだ」
 ふわりと一緒にいる間というのです。
「国崎さんのご主人が言うには前からそうした性格だったそうだし」
「飽きっぽいって言ってたし」
「何かに愛情を注ぐ人達でもなくて」
「とんでもなく自分勝手で」
「そして知ろうとも学ぼうともしない」
「しかも命を何とも思わない人達で」
「ふわりと一緒にいても成長しなくてね」 
 そしてというのです。
「ふわりを捨てたんだ、けれど若し反省したら」
「成長出来るんだね」
「その時は」
「そうなのね」
「それが出来るよ、ただね」
 それでもと言う先生でした。
「気付かないとね」
「同じこと繰り返すわね」
「反省しないで」
「それで余計に悪くなる」
「餓鬼に堕ちるのね」
「そうなるよ、あの人達は気付いていないだろうけれど」
 自分自身ではというのです。
「それでもね」
「今がだね」
「反省する時で」
「ここで反省して心を入れ替える」
「そうしていけば」
「変われるんだね」
「よくね、人間でいられて」
 そうしてというのです。
「例え死んでもね」
「餓鬼にならないのね」
「それで済むんだね」
「それじゃあだね」
「ここで反省する」
「それが大事なんだね」
「そう思うよ、人はそうした時があるよ」
 まさにというのです。
「反省したり後悔したりしてね」
「心を入れ替えて」
「そして行いや考えをあらためる」
「そうした時が」
「うん、そしてね」
 そうした時を経てというのです。
「成長していくんだ」
「そうだよね」
「そうしたものだよね」
「反省なくして成長なしだよね」
「後悔もなくして」
「そうした経験があってこそ」
「色々な経験があって成長するけれど」
 命あるものはというのです。
「反省や航海は辛いものでもね」
「そうしたこともないとね」
「成長しないよね」
「どうしても」
「だからふわりの前の飼い主の人達も成長してくれたら」
 それならというのです。
「僕もいいと思うけれどね」
「そうだよね」
「そうなって欲しいよね」
「本当にそう思うよ」
「私達だってね」
 皆もこう言いました、先生も皆も今は真剣なお顔になっていました。ふわりと彼女の前の飼い主の人達そして反省と後悔について思いながら。








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