『ドリトル先生の競馬』




               第八幕  神戸と馬

 先生はこの日も学問に励んでいました、図書館で次の論文についての飼料を探してその資料に目を通していました。
 その中で動物の皆が先生に言ってきました。
「一ノ谷ってこの辺りだったんだね」
「兵庫県のことだったんだね」
「福原って何処かって思ったら」
「この兵庫県で」
「実際にこの辺りで軍勢が動いていたんだね」
「源氏と平家の」
「そうだったんだね」
「そうだよ、ちなみに平家も源氏もここで戦って」
 そうしてというのです。
「源義経さんが勝敗を決したんだ」
「そうだよね」
「義経さんが鵯越えをしてね」
「そうして勝ったんだったね」
「そうだったね」
「そうだよ、あの人がね」
 まさにというのでした、先生も。
「平家の思わぬ奇襲を仕掛けたんだよ」
「この兵庫県の山を駆けて」
「それでその山を一気に駆け下りて」
「それでだったね」
「平家の砦を奇襲して」
「それで戦いを決めたんだったね」
「そうだったんだ、そうなったのも」
 まさにというのです。
「義経さんの軍略の賜物だったんだ」
「義経さんって馬使うの得意だったのかな」
「騎馬隊を使うことが」
「壇ノ浦では海の上で戦っていたけれど」
「戦争に凄く強かったのかな」
「あの人はどんな場所でもね」
 それこそというのです。
「見事に戦える人だったんだ」
「まさに戦争の天才だったんだ」
「それで一ノ谷でも見事に戦って」
「源氏を勝利に導いた」
「そうしたんだね」
「そうだよ、ただ長野県でも思ったけれど」
 ここで残念なお顔になって言う先生でした。
「義経さんもね」
「平家に勝って」
「それでだよね」
「その後でお兄さんの頼朝さんと仲違いして」
「そうしてだよね」
「最後はね」
「奈良の吉野や北陸に逃れて」
 そうなってというのです。
「東北まで逃れてね」
「そうしてだよね」
「最後は」
「衣川で」
「討たれてとされているよ」
 先生は皆に悲しいお顔でお話しました。
「実は生きていたというお話もあるけれどね」
「北海道の方に逃れたんだよね」
「確かね」
「あそこで死なないで」
「そう言われているんだよね」
「そうだよ、いつも思うけれどそうあって欲しいよ」
 先生は心から思って言うのでした。
「あのまま死んだらあまりにも悲しいからね」
「そうだよね」
「戦いが終わったらお兄さんに殺されるとかね」
「悲し過ぎるわ」
「どう考えても」
「そうだね、しかし頼朝さんは」 
 この人のこともお話した先生でした。
「やっぱり僕は好きになれないよ」
「どうしてもだよね」
「義経さんのことだけじゃないから」
「木曽義仲さんも殺してるし」
「平家も根絶やしにして」
「どうかという家臣の人も殺すし」
「邪魔な人は全部殺すっていうのは」 
 それはというのです。
「世界では結構あってもね」
「世界的にどうか、だよね」
「そんな人は」
「中国でも欧州でも」
「そして日本でもね」
「実は織田信長さんもあそこまでじゃなかったし」
 頼朝さんみたいに敵は全て根絶やしにしなかったというのです。
「降った敵は結構許してたし」
「そう思うとね」
「頼朝さんって嫌だよね」
「どう考えても」
「あの人については」
「好きになれないね」
「そう、僕は信長さんは好きだけれど」
 それでもというのです。
「頼朝さんはね」
「というか好きな人少ないよね」
「日本でもね」
「どうしても」
「信長さんは人気があるけれど」
「頼朝さんは」
「そうだよ、義経さんが人気があるだけに」
 この人とは逆にというのです。
「頼朝さんは余計にね」
「不人気だね」
「というか好きな人いないよね」
「ああした人は」
「どうしても」
「そうだね、それで一ノ谷では」
 先生はこちらのお話に戻しました。
「義経さんは本当に凄いことをやったよ」
「馬で山道なんて進めるの?」
「そもそもね」
「それに崖みたいな山を一気に下るとか」
「そういうのも出来るの?」
「果たして」
「サラブレッドでは出来ないよ」
 先生は皆にまずはこの馬から答えました。
「レースで使うね」
「高等部の方でもあるね、サラブレッド」
「昨日見た乗馬部でも」
「あの馬じゃ山道は進めないよね」
「ましてや山を下るなんて」
「サラブレッドはレースに特化した馬だからね」
 そこで走る為の馬だというのです。
「だからね」
「あの馬に乗ってもね」
「山道は進めない」
「そして勿論山を下ることも」
「出来るものじゃないね」
「レースの馬と軍用馬は違うよ、それに」
 先生は皆にさらにお話しました。
「当時の馬は今の馬よりずっと小さかったからね」
「そんなお話もしていたね」
「そういえばね」
「先生前僕達にお話してくれたね」
「昔の日本の馬は今の馬よりずっと小さかった」
「そうだったって」
「道産子みたいな馬だったんだ」
 当時の日本の馬はというのです。
「本当にね」
「それで軍用馬で」
「そうした馬だったから」
「それでだね」
「山道を進むことが出来たし」
「山を下ることも出来たんだ」
「そうだよ、とはいっても」
 ここでこんなことを言う先生でした。
「この戦い方はあくまで義経さんだけが思い付いて実行した」
「そうした戦い方だったんだ」
「あくまで」
「他にはなかったんだ」
「山道を進んで山を下るとか」
「崖みたいなところを」
「普通山は平地で乗るものだよ」
 そうした場所でというのです。
「馬では進まないよ」
「そう言われると」
「そうだよね」
「モンゴルでもそうだし」
「東欧でもそうだし」
「平原だから」
 そうした場所だからだというのです。
「馬に乗ってもね」
「思いきり進めるよね」
「どんな場所でも」
「普通にね」
「そうだよ。そこはね」
 まさにというのです。
「義経さんでないと」
「考えつかなかったし」
「実行に移せなかった」
「そんな戦い方で」
「特別なものだったんだ」
「日本でも馬は山では進みにくかったし」
 この国でもというのです。
「しかも義経さんは狭い山道を通ったんだよ」
「すぐ傍が崖の」
「そんな場所を通るとか」
「普通ではとてもだね」
「考えつかないもので」
「ましてや一気に駆け下りるなんて」
「あの人は鹿でも下りられるなら馬でもと言って下りたけれど」
 それでもというのです。
「こんなこともね」
「考えつかないし」
「実行にも移さない」
「そうしたものなんだね」
「普通は」
「そうしたことが出来たから義経さんは天才だし」
 戦いの、というのです。
「凄いけれど」
「義経さんだからであって」
「普通のことじゃない」
「そうしたものなの」
「実際にこうしたことをした人は戦史でも稀だよ」
 そうそうないことだというのです。
「僕の知る限り義経さんだけだよ」
「険しい山道を馬で通って」
「その馬で一気に崖みたいな場所を駆け下りる」
「そんなことをしようと思ってした人は」
「それこそ」
「何度も言うけれど馬は平地を通るものだから」
 そうした生きものだからだというのです。
「そんなことはしないよ」
「それじゃあね」
「高等部の乗馬部の人も出来ないね」
「そうしたことは」
「とても」
「出来るものじゃないよ、とても」
 それこそと言う先生でした。
「常識の外にあることだから」
「僕でも絶対に無理だしね」
 老馬が言ってきました。
「狭い山道を通るとか」
「幾ら道産子みたいな馬でも」
 どうかとです、ジップも首を傾げさせました。
「やっぱり難しいね」
「鹿は違うよ」
 馬とはです、トートーは指摘しました。
「そもそもね」
「身体の大きさや体格も違うわ」 
 ガブガブも指摘します。
「鹿と馬じゃね」
「蹄も違うよ」
「そもそもね」
 チープサイドの家族も指摘します。
「馬は本当に平地を走ったりする為のもので」
「鹿は山道を走ったりする為だから」
「むしろ僕の方が山道に強いかもね」
 ダブダブが自分が豚であることから言いました。
「豚は猪の親戚だからね」
「猪なら山に住んでるから」
 ポリネシアがダブダブに応えます。
「山道も平気ね」
「けれど馬はどうか」
 チーチーも思うことでした。
「やっぱり無理だよ」
「その無理をして勝つとか」
 ホワイティはどうかというお顔と声になっています。
「無茶もいいところだね」
「この辺りの山って六甲でしょ」 
 ポリネシアはこのことを指摘しました。
「あんなところが舗装されていないなら馬では無理よ」
「どう考えてもね」
「あんなところは無理だけれど」
 オシツオサレツもポリネシアと同じ考えです。
「それを果たすなんて」
「信じられないよ」
「だから僕も他に知らないんだ、奇襲は一杯あるけれど」
 それでもというのです。
「ああした奇襲はね」
「ちょっと以上にだね」
「ないもので」
「あんな奇襲は他にない」
「先生も知らないんだ」
「僕の不勉強かも知れないけれど」
 それでもというのです。
「他はないよ」
「というか本当に道産子で出来るの?」
「今の道産子で」
「六甲の山を進んで」
「それで下りるとか」
「しようとしたら絶対に止められるね」
 先生は断言しました。
「人も馬も危ないからね」
「だからだよね」
「どう考えても」
「そんなこと無茶だから」
「しないね」
「しないよ」
 先生はまた答えました。
「死んだら元も子もないから」
「義経さんは出来たけれど」
「それでも確かやった人は僅かだし」
「やっぱりそうそう出来ないね」
「そんなものだね」
「そうだよ、試しにね」
 それこそと言う先生でした。
「乗馬部の先生に聞いてみればいいよ」
「実際にそんなことが出来るのか」
「一ノ谷の戦いみたいなことが」
「僕達にも」
「そのことが」
「そうだよ、絶対にね」
 それこそというのです。
「普通は出来ないからね」
「そうしたものだね」
「やっぱり」
「じゃあ乗馬部の先生にお話しても」
「奇想天外なものだね」
「きっとね、けれど皆興味がありそうだし」
 先生はここで皆の表情を見ました、見れば実際にそうしたお顔になっています。それで皆に対して言うのでした。
「今日も乗馬部に行こうか」
「うん、じゃあね」
「そうしてね」
「乗馬部の先生に聞いてみましょう」
「実際に一ノ谷の戦いみたいなことが出来るか」
「そのことを」
「そうしてみようね」
 こうお話してでした、先生は実際にこの日も高等部の乗馬部に行ってそうして乗馬部の武田先生に一ノ谷の戦いみたいなことが出来るか聞いてみました、すると武田先生は先生にとてもというお顔で答えました。
「とんでもないです」
「とんでもないことですか」
「あんなことをすれば」
 それこそというのです。
「当時の馬でもです」
「落ちてしまいますね」
「僕もあの戦いのことは知っていますけれど」
 それでもというのです。
「実際にやったら」
「物凄く危険ですね」
「山道を通るだけでも」
 それだけでもというのです。
「危険です」
「馬は平地を進むものなので」
「ですから」 
 それでというのです。
「山道を進む、しかもあんな風には」
「今もですね」
「そんなことしろとか言った人は」
 それこそというのでした。
「とんでもない人ですよ」
「そしてそのとんでもない人がですね」
「義経さんです」
「そうなりますね」
「はい、それは道産子でもそうですし」
 小型で頑丈なこの馬でもというのです、当時の馬に近いという。
「ましてやサラブレッドでは」
「とてもですね」
「出来る筈がありません」 
 到底という返事でした。
「これこそ」
「やっぱりそうですね」
「僕もしませんし」
「生徒達にもですね」
「させません」
 絶対にという口調での言葉でした。
「何があっても」
「それが常識ですね」
「はい、ただ」
 ここで武田さんは先生にこうも言いました。
「流鏑馬はさせています」
「日本の神事ですね」
「神社で行われていますね」
「この八条町の八条大社でも」
「はい、毎年何度かしていまして」
 それでというのです。
「今度の秋祭りでも参加させてもらいます」
「秋のですか」
「そうです」
「それでは今年の流鏑馬をする人は」
「僕なんですが」
 ホフマン君が出て来て言ってきました。
「いいのかどうか」
「あっ、君がなんだ」
「先生にどうかと言われたんですが」
 凄く複雑な表情での言葉でした。
「いいんでしょうか」
「ひょっとして信仰のことでかな」
「僕はプロテスタント、ルター派ですから」
「神道の神事にはだね」
「神社に行く位ならいいと思いますが」
 それでもというのです。
「流石に神事は」
「別にいいのが日本だよ」
 先生はどうかというお顔のホフマン君ににこりと笑って答えました。
「だからね」
「流鏑馬もですか」
「参加してもね」
 例えプロテスタントの人でもというのです。
「いいよ、というか周りで誰かこのことを知っていて反対する人はいるかな」
「いないです」
 一人もという返事でした。
「日本の人達も海外の人達も」
「そうだね」
「不思議と」
「それ位はもうね」
「問題じゃないですね」
「そう、信仰はあっても」
 それでもというのです。
「他の宗教を認めて」
「その神事に参加することも」
「そしてそれを楽しむこともね」
 そうしたことをしてもというのです。
「信仰への裏切りじゃないよ、むしろね」
「むしろ?」
「他の宗教や文化を理解する」
「そういうことなんですね」
「君はドイツ人だから」
 先生はホフマン君に彼のお国のことからもお話しました。
「ゲルマン、北欧の神話に馴染んでいるね」
「はい、プロイセンの方には別系統の神話がありましたけれど」
「どれかというとだね」
「はい、北欧神話がです」
「ドイツには馴染んでいるね」
「妹がルーン文字のおまじないが好きで」
 かつての北欧の文字、魔力があると言われている文字のそれがというのです。ホフマン君は先生にお話しました。
「それでお守りを買ってあげたことも」
「あるね」
「それと同じですか」
「要するにね、それで日本でもね」
「流鏑馬をしてもですね」
「神様は怒らないよ」
 そうしたことはないというのです。
「キリスト教の神様はね、むしろ頭から否定してね」
「認めないことはですね」
「この学園にこんなことをする人はいないけれど」
 先生はホフマン君にさらにお話しました。
「他宗教だからって神社とかを燃やしたり壊そうとか」
「そうしたことの方がですね」
「ずっとしたらいけないよ」
「そうなんですね」
「そんなことをしたら」
 それこそというのです。
「キリスト教の神様も悲しむよ」
「その方が」
「そうだよ、本当に」
「そうですか」
「そう、それで」
 まさにというのです。
「君もだよ」
「神事に参加していいですね」
「是非ね、それと流鏑馬は」
 先生はこの神事自体についてもお話しました。
「馬に乗りながら弓矢を使うから」
「かなり難しいですね」
「馬も弓もね」
 そのどちらもというのです。
「相当な腕でないとね」
「的を射抜くことは出来ないですね」
「そうだよ、だから君も頑張ってね」
「実は乗馬とです」
 それにというのです。
「ドイツではアーチェリーもしていました」
「それでだね」
「選ばれたみたいですね」
「どっちも経験があるならね」
「選ばれますね」
「うん、ただね」 
 先生はホフマン君にさらにお話しました。
「アーチェリーと日本の弓道は同じ弓を使うものでも」
「それでもですね」
「また違うから」
 だからだというのです。
「そこはね」
「よくわかってですね」
「やってね」
「じゃあ弓道のことも」
「この学園にはアーチェリー部があってね」
「弓道部もありますね」
「だったら弓道部もね」
 これもというのです。
「学んでね」
「そうしてですね」
「流鏑馬をするといいよ」
「参加するのなら」
「それならね、そして本当に他宗教のものでも」
 それでもと言う先生でした。
「参加して楽しんでお互いを理解し合う」
「そのことがですね」
「神様の思し召しだよ」
「むしろですね」
「本当に間違ってもね」
「他宗教を認めないで攻撃したらですね」
「それは神様への信仰じゃないから」
 このことは心から言う先生でした。
「間違ったね」
「信仰ですね」
「熱心に信仰することはいいことでも」
「間違ったことは、ですね」
「したらいけないよ」
 くれぐれもという口調で、です。先生はホフマン君にお話しました。
「何があってもね」
「そうしたことにも注意して」
「そうしてね」
「やっていくことですね」
「そうだよ、じゃあ流鏑馬もね」
「やらせてもらいます、あと秋には大会もありますし」
 こちらもというのです。
「それに向けて」
「頑張っていくね」
「そうしていきます、流鏑馬に大会に」
「秋は忙しいね」
「そうですね、ただ馬達は今は太っていますが」
「その太っていることもね」
 このこともというのです。
「いい結果になるよ」
「秋にですね」
「夏に太る位食べていればね」
「体力の心配はないですね」
「だからね」
 それ故にというのです。
「きっとだよ」
「このことはですね」
「いい結果になるよ」
「秋に」
「流鏑馬も大会も」
 どちらもというのです。
「馬があってね」
「その馬の体調が万全なら」
「絶対にいい結果になるよ」
「それじゃあ」
「その健康な馬達とね」
「頑張っていきます」
 ホフマン君は先生に笑顔で答えました、そうして乗馬の練習を続けます。その彼を見てからでした。
 先生は動物の皆に笑顔でお話しました。
「じゃあ図書館にね」
「うん、戻ってね」
「また資料を読んでいこうね」
「そうしようね」
「是非ね、それと」
 先生は皆にさらに言いました。
「研究室に帰ったらね」
「あっ、紅茶だね」
「お茶の時間になったらね」
「研究室に戻って」
「ティータイムだね」
「そちらも楽しもうね」
 毎日そうしている様にというのです、そして実際にです。
 先生は三時にはティータイムを楽しみました、ミルクティーに三段のティーセットにクッキーとバウンドケーキ、エクレアを置いてです。
 ミルクティーを飲みつつお菓子を食べていきます、そこで。
 先生は皆にここではこんなことを言いました。
「こうしてお茶を楽しむとね」
「先生は満足だよね」
「学問が出来てティータイムを楽しめたら」
「それで」
「そうなんだ、本当にね」
 飲みつつ言うのでした。
「これだけでね」
「凄く幸せになれるね」
「先生にとってはね」
「もう学問とお茶」
「この二つが欠かせないね」
「そうだよ、だから僕は今とても幸せだよ」
 エクレアを食べつつにこにことしています。
「本当にね、そして乗馬部の馬の諸君もね」
「あっ、何か幸せそうね」
「目を見ていたらね」
「皆優しい目できらきらとしていて」
「生き生きとしていたわ」
「充分に運動して食べて寝て」
 そうしたことが出来ていてというのです。
「皆から大事にしてもらえてね」
「日々充実していて」
「優しさの中にあって」
「それでなのね」
「彼等も幸せなんだ」
「そうだね、そうした生活なら」
 本当にというのです。
「馬の諸君も幸せだよ」
「そうだよね」
「ただ運動出来て食べてるだけじゃなくて」
「優しく接してもらえてね」
「大事にされているなら」
「それだけで」
「こんないいことはないよ」
 本当にと言った先生でした。
「酷く扱われていたらわかるからね」
「先生にはね」
「人にも動物にもね」
「そうしたことはわかるから」
「幸せでもね」
「酷い境遇にいたら目や表情や動きに出るんだ」
 どうしてもというのです。
「だからね」
「乗馬部の馬さん達は幸せで」
「いいっていうんだね」
「先生みたいに幸せで」
「僕も嬉しいよ、出来るだけ多くの人や生きものが幸せなら」
 それならというのです。
「こんないいことはないよ」
「そうだよね」
「先生はそのことが願いだよね」
「この世界の人や生きものが幸せになる」
「皆が」
「神様も人も生きものも」
 その皆がというのです。
「共に幸せであって欲しいよ」
「そこに学問も文化もあって」
「文明も進歩していく」
「そうあって欲しいんだね」
「平和でね」
 このこともです、先生は忘れていません。
「そうあって欲しいよ」
「先生は文明も進歩すべきだって言うよね」
 このことはホワイティが指摘しました。
「いつも」
「科学も産業もあっていいって」
 ポリネシアも言います。
「どんどん発展すべきだって」
「それは決して悪いことじゃないってね」
「先生いつも言ってるわね」
 チープサイドの家族も先生に言います。
「自然の、地球の中で調和していって」
「進歩すべきだって」
「原子力でも遺伝子のことでも」
 ジップはそうした技術のお話もしました。
「問題はどうあるかだって」
「決して否定しないね、先生は」 
 ダブダブも言います。
「無闇に否定しても文明も地球もよくならないって」
「何でも否定して原始時代に帰られるか」
 チーチーは先生のその言葉を指摘しました。
「先生はいつも言うね」
「それは無理だって」
 ガブガブも先生の言葉を指摘します。
「それが先生の考えね」
「原子力は環境に注意していくべきでね」
「遺伝子操作はそれを言ったらあらゆる動物や植物がそうだって」
 オシツオサレツも先生のお話から言います。
「無闇に否定出来ない」
「そうしたものだって」
「若し原子力発電をなくしたら」
 どうなるかは老馬が先生のいつもの言葉から言いました。
「どの国も電力がかなり制限されるって」
「若し原子力発電をなくしたいなら」
 トートーも言います。
「今よりずっと我慢しないといけないってね」
「クーラーや暖房を我慢してね」
 先生は穏やかな声でお話しました。
「生きていくことになるよ」
「今よりずっと」
「そうなるんだね」
「原子力発電がないと」
「あの発電力が凄いことは事実だよ」
 このことは間違いないというのです。
「新聞を刷るにもテレビ番組を制作して放送するにも」
「電気って必要だしね」
「じゃあ原子力発電をなくしたら」
「その時は」
「まずそう主張する人達こそ」
 まさにというのです。
「第一に我慢することが人としての在り方だね」
「そうなるよね」
「自分達が言うならね」
「まず自分達がだよね」
「我慢すべきだね」
「新聞もテレビもなくてもね」
 結局というのです。
「今はインターネットもあるしね」
「そんなにいらないよね」
「特にテレビって電力使うし」
「番組制作して放送して」
「それならね」
「真っ先にテレビだね」
 原子力発電がなくなって電力を規制することになったらというのです。
「あれの放送を減らして」
「観ない様にしてね」
「我慢すればいいね」
「それで他の場所もね」
「食べるお店とかはいいにしても」
 こうしたお店はいいというのです。
「変なお店とかテレビはね」
「本当にだよね」
「テレビってよく原子力発電反対って人いるけれど」
「そうした人達こそね」
「我慢すべきよね」
「夏でもスーツじゃなくて」
 報道番組のお話をするのでした。
「着飾った和服みたいに暑いのじゃなくて」
「涼しい服着てね」
「撮影する場所の冷房もカットして」
「番組自体も減らして」
「テレビを観ない様にすればいいね」
「そうすべきだよ、まずテレビこそ」
 何といってもというのです。
「原子力発電を全て廃止したなら」
「使うべきじゃないね」
「その時は」
「そうだよね」
「それで日本でそうしたことを言う人達で不思議なことは」
 先生はクッキーを食べながら首を傾げさせました、挟まれているその中にジャムがたっぷりと入っている。
「日本の原子力発電は平和利用で北朝鮮はね」
「あそこも原子力発電あるしね」
「それどころか核兵器造ってるし」
「日本より遥かに問題だけれど」
「そっちの全廃は言わないのね」
「そこがおかしいよ、熱心に全廃を言うある作家さんは」
 日本にいるこの人はといいますと。
「決めつけと断定ばかりで」
「先生が絶対に言わない」
「そうしたことばかりなんだ」
「全然学問的でも論理的でもないね」
「自分の正義に酔っている様な人だから」
 だからだというのです。
「そのお話を聞いてはいけないよ」
「それじゃあね」
「そんな人達の言うことは注意して聞いて」
「現実から考えないといけないね」
「理性的に科学的に」
「若しも福島で被爆して」 
 震災の時に事故があったそこで、です。
「毎朝鼻血が出るなら」
「とんでもないことだよね」
「もうすぐに病院行った方がいいよね」
「鼻血出す位になってるなら」
「その時は」
「相当な放射線を浴びているから」
 毎朝鼻血を出す位ならとです、先生はお医者さんとしてお話します。
「命に関わる位だから」
「だからこそ」
「それで、だね」
「すぐに病院で診察を受けて」
「入院しないといけないね」
「そうだよ、だからね」
 それ故にというのです。
「その人もおかしなことを言っているよ」
「日本の漫画でもあったね」
「そうなっているって町長さんも出て」
「あの漫画もおかしいね」
「先生あの漫画全体に言っているけれど」
「あの漫画程おかしな日本の漫画はないよ」
 先生は紅茶を飲みつつ皆にお話しました。
「出て来る人が皆とても短気で無教養で野蛮な人ばかりだし」
「先生と真逆の人達ばかりじゃない」
「それだと」
「短気で無教養で野蛮って」
「それこそ」
「そうした人達ばかりで主張が全く文明的でも科学的でもなくて」
 それでというのです。
「インスタント食品や冷凍食品も否定しているしね」
「自然食ばかりで」
「そういえばビニールハウス栽培も否定していて」
「そうした食品全然使わなくて」
「化学調味料も否定していて」
「どれも必要だからあって」
 インスタント食品も化学調味料もです。
「食べ過ぎないならいいしね」
「そうだよね」
「コーラだって毎日飲むとかしないといいし」
「問題は食べる量で」
「そこを考えるもので」
「昔あった買ってはいけないとかいう本もそうだったけれど」
 あの漫画もというのです。
「程度とか考えていなくてそもそもの根拠の統計が出鱈目だったりするから」
「ビニールハウスの栽培でも」
「季節や土壌も関係していて」
「いつも栄養価が極端に低いか」
「そんな筈がないんだね」
「本当にあの漫画程非科学的で非文明的な漫画はないよ」
 先生にしては珍しい断言でした。
「反面教師として読まないとね」
「駄目なんだね」
「それで日本で原子力発電や遺伝子操作に反対している人達も」
「その漫画と同じで」
「注意しないと駄目なんだね」
「若し本気で原子力発電に反対しているなら」
 それならというのです。
「北朝鮮のそれもとなるよね」
「あそこの技術や目的を考えたら」
「日本より遥かに危険だし」
「そこで言うべきよね」
「日本で以上よりも」
「原発事故を起こした元総理大臣はそれまで原発反対とか言っていたかな」
 このこともです、先生は指摘しました。
「そもそも」
「そう言われたら」
「してない?」
「それまでは」
「自分がとんでもないことをするまでは」
「ああした人もいるから」
 だからだというのです。
「日本でのこうした問題は注意が必要だよ」
「言っている人達も胡散臭くて」
「その主張に自分がまずってことはなくて」
「そして科学的な根拠もおかしい」
「だからだね」
 それ故にというのです。
「注意しないとね、若しそこまで科学とか文明を否定するなら」
「それならだよね」
「もうそういうのを全部捨てて」
「原始的な生活に戻る」
「そうあるべきだね」
「テレビも新聞も科学や文明の最たるものだよ」
 その中にあるものだというのです。
「勿論漫画もね」
「それならだよね」
「もうそういうものを否定するのなら」
「そうしたことを自覚して」
「そのうえで考えるべきだね」
「そもそも紙は木から出来るね」
 このことも言う先生でした。
「だったら森林資源のことも考えないと」
「駄目だよね」
「無駄な森林資源を消費しない」
「新聞や漫画で」
「そのことも考えないとね」
「若し他の人に規制を強制して自分達が自由に使うなら」
 それならといいますと。
「それは権力者の傲慢にもなりかねないし悪ともね」
「考えられるんだね」
「その場合は」
「そうした場合こそだね」
「悪なんだね」
「自分達が涼しい部屋で電力を使い放題で一般市民は冷房を使うななんて」
 それこそというのです。
「あれこれ理由をつけてもね」
「報道する義務とか」
「そう言ってもだね」
「説得力がないね」
「僕はそう思うよ、本当にね」
 まさにというのです。
「何かを絶対に駄目だとかいうことは」
「先生はしないね」
「どういったものにも危険がある」
「そのことを頭に入れて」
「そうして科学を考える」
「文明もね」
「それが先生だよね」
 皆もこう言います。
「だからよね」
「今だってだね」
「原子力発電についてもね」
「公のこと全体も考えて」
「そしてだよね」
「どうあるべきかを考えて言ってるよね」
「社会全体を考えると」
 先生のお話は神妙なものになっています、そのうえでの言葉でした。
「原子力発電もだよ」
「重要だよね」
「あながち否定出来ない」
「電力のことを考えると」
「全廃はどうかってなるね」
「日本の事故は当時の政府が問題で」
 その対応がというのです。
「ちゃんとした対応だったらね」
「事故は起きなかったんだね」
「あの時の総理大臣あの時から原発反対って言い出したけれど」
「責任逃れだよね」
「絶対に」
「僕もそう思うよ、だからね」
 それでというのです。
「原子力発電のことは」
「否定しないで」
「安全に安全を考えて」
「そしてだね」
「文明に役立てていくべきだね」
「僕はそう考えているよ」
 まさにと言ってです、そうしてでした。
 先生は皆と一緒に原子力発電のことも話していきました、それは否定するものではなくどうあるべきかというものでした。








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