『ドリトル先生の競馬』




               第六幕  日本のビーチ

 先生はこの時八条町のビーチに動物の皆と一緒にいました、青い海と晴れ渡ったお空に白く輝く砂浜と見事な雲達も見えます。
 そして水着姿の子供や若い男女が明るく遊んでいます、ですが先生は海やお空は見ていても人は見ないで。
 海の家でカレーライスを食べています、スーツにネクタイそれに革靴という恰好で海の家にいるとです。
 動物の皆が笑って先生に言いました。
「何か場違いだね」
「スーツでこうした場所にいるとね」
「日本では季節的にもね」
「決定的に違うね」
「先生以外だと」
「僕は基本スーツだからね」
 見ればブレザーも脱いでいません。
「だからだよ」
「この季節の海でもだね」
「先生はスーツだね」
「スーツ姿でいて」
「それでカレーを食べているんだね」
「この海の家で」
「そうだよ、これはアフリカでもだったしね」
 日本より暑いあちらでもというのです。
「だからだよ」
「今もだね」
「スーツなんだね」
「スーツ姿でいて」
「そしてだね」
「カレーを食べているのね」
「カレーを食べて」
 そしてというのです。
「ラーメンも食べたいね」
「そっちもだね」
「この海の家で食べるのね」
「ラーメンも」
「そっちも」
「そうするよ、海の家にいると」 
 それならというのです。
「どうしてもそうしたものが食べたくなるね」
「あと焼きそばも」
「何かこう味の濃いものがね」
「どうしても食べたくなるわね」
「夏の海では」
「そう、だからね」
 それでというのです。
「ラーメンも食べるよ」
「それで何ラーメンかしら」
 ガブガブは先生にこのことを尋ねました。
「一体」
「ラーメンといっても色々だよね」
「そうなのよね」
 チープサイドの家族もこのことについてお話します。
「醤油ラーメンとか塩ラーメンとか」
「味噌ラーメンとか豚骨ラーメンもあるし」
「関西は基本醤油ラーメンかな」
 こう言ったのはチーチーでした。
「関西の薄口醤油を使った」
「京都や和歌山が有名で」
 老馬はラーメンというとこの地域を思い出しました。
「あと奈良は天理ラーメンってあったね」
「大阪でもよく食べるし」
 ダブダブは関西の中心のお話もしました。
「神戸でもでね」
「それで関西のラーメンっていうと」
 まさにと言ったトートーでした。
「やっぱり醤油ラーメンかな」
「北海道のラーメン美味しかったね」
 このラーメンのことはホワイティがお話しました。
「今思い出しても」
「それで九州だと豚骨だったね」
 ジップはこちらのラーメンを思い出しました。
「そういえば」
「それでこの海の家では何ラーメンを食べるか」
「ちょっと気になるね」
 オシツオサレツが二つの頭でお話します。
「一体ね」
「先生が何を食べるか」
「私達も食べるけれど」
 それでもとです、最後にポリネシアが言いました。
「さて、何ラーメンかしら」
「このお店のラーメンは醤油ラーメンだよ」
 先生は皆に答えました。
「そちらだよ」
「そっちなのね」
「このお店のラーメンは」
「じゃあカレーの後はね」
「醤油ラーメンを食べるのね」
「そうしようね、しかし海の家にいると」
 こうも言った先生でした。
「どうしても味が濃いね」
「そうそう、海の家のお料理ってね」
「味が濃いね」
「他のお店に比べて」
「しかも味が濃いお料理が多いし」
「味付け自体もね」
「海にいると」
 それならというのです。
「日光を浴びて汗をかくししかも海で泳いでね」
「潮がお口の中に入ったり」
「そうなるからね」
「どうしても味が濃くなる」
「そうなるんだね」
「そうだね、僕も海にいたら」
 先生にしてもというのです。
「泳がないにしてもね」
「それでもだよね」
「身体が濃い味を求めて」
「それでだね」
「そうしたものを食べたくなるね」
「そうなるんだよ」
 実際にというのです。
「それで食べているんだ」
「今はカレーをね」
「シーフードカレー食べてるね」
 見れば大盛のカレーです、そのカレーを食べています。
「そしてだね」
「そのうえでだね」
「後はラーメンを食べて」
「そしてだね」
「そのうえで」
「デザートもかな」
「うん、今日のデザートは」
 先生はお店の壁のお品書きを見て皆に言いました。
「アイスクリームがいいかな」
「昨日かき氷食べたしね」
「今日はこちらね」
「日本の夏の海はこちらも売ってるし」
「だからだね」
「うん、アイスを買って」
 そうしてというのです。
「食べようか」
「いいね」
「じゃあデザートはアイスだね」
「カレーもラーメンも食べて」
「そのうえで」
「そちらも食べるよ」
 アイスクリームもというのです。
「そうするよ」
「それじゃあね」
「アイスも食べましょう」
「それでアイスを食べて」
「そのうえでね」
「次は海に出る?」
「そうして食べる?」
「それじゃあね」
 皆でお話してでした、そうして。
 カレーライスを食べてそれからです、醤油ラーメンも食べてでした。それからアイスも食べて砂浜に出てです。
 皆で一緒に海を見ますが。
 動物の皆はビーチパラソルの下に安楽椅子を出してその上に寝てくつろいでいる先生にこう言いました。
「やっぱり泳がないね」
「水着にもならないし」
「先生はそうだね」
「やっぱりスポーツとは無縁ね」
「海の楽しみ方も」
「うん、泳ぐとかね」
 とてもというのです。
「僕にとってはね」
「本当に縁がなくて」
「それでだね」
「今も泳ぐとかしないで」
「スーツのままでくつろいでいるね」
「そうしているんだね」
「そうだよ、もうこれでね」
 それこそというのです。
「充分だよ」
「そうだよね」
「じゃあこのままだね」
「くつろいで」
「それで時間を過ごすんだね」
「ティータイムにはティ―セットを楽しんで」
 このことも忘れていません。
「そうして帰ろうか」
「海のティータイムだね」
「それも楽しむんだね」
「そこも先生だね」
「海もティータイムっていうのが」
「そうだね、それでお茶は」
 先生はその具体的な内容のお話もしました。
「アイスティーにしようね」
「海だしね」
「今日はそれだね」
「ホットティーじゃなくて」
「そちらだね」
「そしてセットは」
 こちらはといいますと。
「冷えたものがいいかな」
「そうだね」
「冷たい飲みものには冷たいお菓子」
「それを楽しんだね」
「今日のティータイムは」
「そうしようね、メロンや葡萄に」
 それにというのです。
「ソフトクリームがいいね、いや」
「いや?」
「いやっていうと」
「お茶は冷えた麦茶にして」
 先生はこちらにしようかと皆に言いました。
「セットもね」
「和風にするの」
「日本の夏の」
「そちらにするの」
「西瓜に水羊羹に餡蜜でどうかな」
 先生が出したのはこの三つでした。
「どうかな」
「いいんじゃない?」
「そう言われるとね」
「夏に相応しいし」
「麦茶とも合うし」
「いいと思うわ」
「そのセットは」
 動物の皆もそれならと言います、そうしたお話もしながらです。
 先生は今はビーチでくつろぎました、皆はその周りで先生と一緒にお昼寝を楽しみました。その中で、です。
 ふとです、先生は皆にこんなことを言いました。
「あそこに見た子達がいるね」
「あれ武田さんよね」
「アロハシャツと膝までのズボンの人は」
「他の子は乗馬部の子達ね」
「皆水着姿ね」
「男の子も女の子も」
 見れば皆そうです、そうして楽しくビーチバレーをしたり砂で色々作ったり泳いだりして楽しんでいます。
 それを見てです、皆も言いました。
「楽しそうだね」
「部活の時も楽しそうだけれど」
「あの時とは別の楽しさね」
「その楽しさを満喫している」
「そんな感じね」
「そうだね」
「海で遊ぶ楽しみもね」 
 皆も顔を起こして彼等を見てお話します。
「青春だね」
「お友達とこうした場所で遊ぶことも」
「このことも」
「またいいね」
「そうだね」
「ああした青春もいいね、僕の青春は」
 先生の青春はどういったものかといいますと。
「読書と学問だったね」
「それ今もじゃない」
「じゃあ先生は今も青春?」
「青春の中にいるのかしら」
「もう結構歳を取ったけれど」
「サラにはずっと子供みたいだって言われるし」
 妹さんにはです。
「その頃の心が今もあるってね」
「言われるんだね」
「サラさん以外の人にも」
「そうなんだね」
「うん、そう言われることは」
 本当にというのでした。
「あるね、そうなると」
「うん、先生はね」
「実際にそうよね」
「まだ青春だね」
「ずっと子供の頃の心を持っているし」
「若かりし日のね」
「学問に励んで」
 そうしてというのです。
「今よりも多くのものを学んで知りたい」
「先生はそうだね」
「いつもそう考えていてね」
「学問に励んで」
「そうして色々なことを知っていっているからね」
「僕はやっぱりね」
 先生ご自身の言葉です。
「まだ青春の中にいるかな」
「長い青春だね」
「十代から今もって」
「そんな青春先生だけかな」
「そう思うと幸せかな」
「青春が幸せだっていうのなら」
「そうかもね、ただ青春時代は色々悩んだりもするよ」
 そうした要素もあるというのです。
「振り返ると些細なことでもね」
「色々悩んで苦しんで」
「どうしようかって思って」
「それでだね」
「色々あったりもするのね」
「そうしたものでもあるよ、いいことばかりかというと」
 幸せばかりかというとです。
「そうでもないよ、そして僕もね」
「悩んだんだね」
「十代の頃は」
「そうだったんだね」
「そうだったよ、それでもどの悩みも」 
 今振り返ると、というのです。
「些細なものだったよ」
「今思うと」
「けれどその時は凄く悩んだんだね」
「どんな悩みでも」
「真剣に悩んでいたんだね」
「そうだったよ、中には自分勝手なものもあったよ」
 悩みの中にはです。
「それでもとても自分勝手なものはなかったと思うけれどね」
「そうした悩みもあるよね」
「実際にね」
「自分が悪かったり他の人にとんでもない迷惑かける悩みでも」
「悩むことは悩むね」
「人ってそうだね」
「そんなことで悩む様なことはね」
 若き日の先生はというのです。
「なかったと思うよ」
「まあ先生はそうした人じゃないよ」
「自分勝手な人じゃないから」
「そこは安心していいわ」
「嘘も吐かないしね」
「誠実な人だから」
「そうであったらいいね、酷い場合は」
 先生は皆に八条学園高等部乗馬部の人達が遊んでいるのを見ながらそのうえで動物の皆にお話しました。
「自分が潰した話を仲間の人が再開したいから来てくれと言ってね」
「来なかったのね」
「そうなのね」
「うん、そこで自分のことで悩んでいて」
 それでというのです。
「来なかったとか言ってたよ」
「自分が悪いのに?」
「自分がお話潰したのに」
「仲間の人が話を再開したいから来てくれって言ったのに」
「来なかったの」
「悩んでるって嘘をついてね」
 しまも自分のことでというのです。
「その彼は後でとんでもないことをして居直って遂に皆から見放されたけれどね」
「酷い人ね」
「最低かも知れないね」
「とんでもないことをして居直るって」
「どんなことか知らないけれど」
「犯罪者自分の知り合いだったから職場の鍵を渡して盗難に遭わせたんだよ」
 そうしたことをしたというのです。
「会社の悪事を見過ごせないとか言ってね」
「それも犯罪じゃない」
「泥棒を助けてるじゃない」
「会社の悪事って何か知らないけれど」
「それなら警察に言えばいいのに」
「実際は法律に触れることじゃなかったよ、けれどね」
 それでもというのです。
「それでもそんなことをして」
「居直ったの」
「そうだったの」
「背信行為と呼ぶなら呼べって言ってね」
 そう言って居直ったというのです。
「開き直ったんだ」
「それ訴えられるよね」
「犯罪だし」
「本当にとんでもないことしたね」
「弁解の余地がないよ」
「だから会社の皆が見捨てて家族もお友達も親戚もね」
 周りの人全員がです。
「その時に絶縁して訴えられて」
「有罪だよね」
「開き直ってるし」
「どうしようもないよね」
「それじゃあ」
「有罪を受けて賠償金もね」
 会社に対するそれもというのです。
「要求されて」
「破滅したんだ」
「そうなったんだね」
「まあ破滅しないとね」
「おかしくない人だね」
「実際に破滅したよ」
 現実としてそうなったというのです。
「賠償金は財産全て差し押さえられて働かさせられて返済させられて」
「刑務所にも入った」
「そうなったのかしら」
「なったよ、それで刑務所から出たら」 
 その後はといいますと。
「禁治産者にされたよ」
「というか最初からだね」
「そうならない方がおかしいね」
「最初は皆知らなかったのかな」
「その人がそんな人だって」
「そうだろうね、こうした悩みはね」
 その人のそれはといいますと。
「振りだろうね」
「悩んでいる振り」
「その悩みは嘘だったし」
「仮に悩んでいても」
「こうした振りもしなかったから」
 先生はというのです。
「僕はこのことでもよかったかもね」
「うん、その人最悪だよ」
「最低でもあるわね」
「そんなことするなんて」
「どうかしてるわ」
「だから皆から見放されて縁を切られたんだ」
 そうなったというのです。
「常識では考えられないことをして居直るんだから」
「それじゃあね」
「仕方ないね」
「そんなことをしてわからないなら」
「それこそだよ」
「何を言っても反省しなかった人みたいだし」
「それじゃあね」
「僕もね」
 先生は難しい、困った様なお顔で言うのでした。
「その人には随分忠告したけれど」
「それでもだね」
「聞かなかったんだね」
「それも全く」
「そうだったんだ」
「心を広く持ちましょうよって言われたよ」
 その様にというのです。
「このままじゃ駄目だよって言っても」
「えっ、何それ」
「先生って絶対に怒らないし」
「言葉が荒くなることもないし」
「いつも穏やかで」
「公平で謙虚に言うのに」
「その先生にそう言うなんて」
 動物の皆も驚きました、先生の今のお話には。
「その先生にそう言うの」
「ある意味凄いよ」
「しかも忠告されているのに心を広くとか」
「逆に言うなんて」
「僕は生涯で一度だけ思ったよ」
 その時にというのです。
「この人には何を言っても無駄じゃないかって」
「何を言っても聞かない」
「何を言っても理解しない」
「わかろうともしない」
「その様にだね」
「先生も思ったんだ」
「うん、その時にだけ思ったよ」
 まさにその時にというのです。
「そして見放すべきかともね」
「思ったんだ」
「先生にそう思わせるって」
「凄いなんてものじゃないよ」
「悪い意味で超人?」
「有り得ない人だよ」
「性善説を言う人だったけれど」
 それでもというのです。
「性善説っていうのは信頼関係が第一だね」
「信じないとね」
「成り立たない理論よね」
「その人を」
「それが性善説よね」
「けれど絶対に信じたら駄目な人だけを信じて」
 そうしてというのです。
「自分は他の人との信頼関係を徹底的にぶち壊し続けてもね」
「平気だったみたいだね」
「それこそ」
「そんな人だったんだ」
「その人は」
「うん、それで誰からも信頼されなくなったよ」 
 先生はその人のことを思い出してお話しました。
「自分は自覚していなかったけれど」
「本当にどうしようもないね」
「そんなとんでもない人いたんだね」
「じゃあもうね」
「今は破滅してるね」
「そうなっているのね」
「そうなっているから」
 絶対にというのです。
「もう僕もね」
「どうしようもないみたいね」
「先生ですら」
「先生が何を言っても」
「それでも」
「実際に無駄に終わったし」
 先生は残念そうに言うばかりでした。
「再会してまた会っても」
「それでもだよね」
「どうしようもなくて」
「意味がないね」
「これじゃあ」
「うん。心から思うよ」
 こう言ってでした、そのうえで。
 先生は三時になると冷たい麦茶を飲みました、そうして日本の冷たい和菓子を食べてそれからさらにでした。
 西瓜を食べます、それから言うことは。
「いや、ここで西瓜を食べてもね」
「いいね」
「そうだよね」
「夏はやっぱり西瓜だね」
「日本の夏は」
「それこそ」
「日本は夏はね」
 先生は三角に切られた西瓜を先から食べつつ言いました。
「果物やお野菜が美味しいけれどね」
「西瓜が一番?」
「何といっても」
「そうかな」
「西瓜が」
「一番いいかな」
「そうかもね、冷やして」
 そうしてというのです。
「そうしてね」
「それでだよね」
「こうして食べる」
「切る形は色々だけれど」
「それでも食べるとね」
「それ自体でだよ」
 まさにというのです。
「西瓜は最高に合うよ」
「日本の夏に」
「そうだよね」
「西瓜だよね」
「これだよね」
「本当にね、しかし」
 ここでまた言う先生でした。
「イギリスにも西瓜はあるけれど」
「イギリスの夏にはね」
「日本の夏程合わないかも」
「こうして食べてみると」
「西瓜はやっぱり日本の夏?」
「そうよね」
「そうだね、イギリスの夏よりも」
 先生は西瓜を食べています、一切れ食べてもう一切れ食べます。そうしてそのうえでこう言ったのでした。
「日本の夏の方がいいかもね」
「そうだよね」
「西瓜にはね」
「イギリスの夏はね」
「お庭に出てティータイムかな」
「ホットティーで」
「それがいいけれど」
 それでもというのです。
「日本の夏はね」
「こうしてビーチにいたりね」
「花火を見たり」
「出店のものを飲んだり食べたり」
「あと西瓜を食べる」
「今みたいに」
「そして麦茶もだよ」
 これもというのです。
「飲むとね」
「余計にいいね」
「日本の夏には日本の夏の楽しみ方があるね」
「あと朝顔も楽しんで」
「向日葵だってね」
「ああ、その二つを忘れたらいけないよ」
 絶対にとです、先生は応えました。
「お花もね」
「夏のお花見かな」
「朝顔と向日葵は」
「日本の」
「日本のお花となると桜だけれど」 
 春のこのお花だというのです。
「他のお花も一杯あるね」
「そうだよね」
「お花はね」
「桜の時は梅や桃もあるし」
「蒲公英だってあるし」
「五月は皐月」
「六月は紫陽花で」
 皆もこうお話します。
「秋だって沢山のお花があるし」
「勿論薔薇もあるよ」
「百合も菖蒲も菫も」
「そして夏は」
「朝顔と向日葵だね、じゃあ折角だから」
 先生はさらに笑顔で言いました。
「今度は植物園に行って」
「そしてだね」
「朝顔と向日葵見るんだね」
「そうするんだね」
「そうしようね、しかしこの麦茶はいいね」
 先生は麦茶を飲みつつ笑ってお話しました。
「夏によく冷えた麦茶を飲んだらそれだけでね」
「幸せになれるね」
「物凄く美味しくて」
 オシツオサレツが二つの頭で先生に応えました。
「もうそれだけで」
「そうなるね」
「こうした場所で飲んでも」
 ジップも飲んでいます。
「いいしね」
「冷やし方は徹底的だね」
 冷やし方について言ったのはチーチーでした。
「冷蔵庫にずっと入れるとか氷を中に入れるとか」
「どっちもいいけれど」
 ポリネシアはチーチーに続きました。
「とにかく冷やすことだね」
「夏だとそうよ」
 ガブガブもはっきりと言いました。
「麦茶はね」
「冬は普通でいいけれど」
 沸騰して冷ましたものをとです、ホワイティは言いました。
「夏はやっぱり冷やしてだね」
「それもこうした暑い時に飲む」
「これがいいのよね」 
 チープサイドも飲みながらお話しています。
「味も喉越しも最高で」
「身体も心も冷えていってね」
「先生の言う通り最高の飲みものだよ」
 勿論ダブダブも飲んでいます、それもごくごくと。
「日本の夏の冷やした麦茶は」
「それもお砂糖を入れないんだね」
 こう言ったのは老馬でした。
「普通は」
「そこは入れる人もいるみたいだけれど」 
 トートーが言いました。
「僕達は入れないね」
「まあ日本のお茶は普通は入れないね」
 お砂糖はとです、先生も応えました。
「お抹茶にしても緑茶にしても」
「麦茶だってね」
「全部入れないね」
「そうだよね」
「それは」
「そこは紅茶と違うね」
 イギリスのそれはというのです。
「ミルクティーにはよくお砂糖を入れるね」
「これはエネルギー補給の意味もあったね」
「そうだったわね」
「紅茶にミルクとお砂糖を入れることは」
「カロリー補給でもあったね」
「そうだよ、紅茶だけだと」
 ストレートで飲んでもというのです。
「カロリー補給には足りないね」
「そうなんだよね」
「これがね」
「お茶にはビタミンはあるけれど」
「カロリーはないから」
「食べるだけでなくて飲む方からもだよ」
 つまり紅茶からもというのです。
「カロリーを摂取する為にだよ」
「ミルクとお砂糖入れてね」
「そうして飲んでいたんだね」
「ミルクティーは」
「そうだよ、けれど日本ではね」
 先生達が今いるこの国ではというのです。
「お茶に普通はお砂糖は入れないね」
「そうだよね」
「まあグリーンティーには入れるけれどね」
「お抹茶だけれどね」
「冷やして甘くしてね」
「そうして飲んでるね」
「あれはまた違うね」
 普通の日本のお茶とは、というのです。
「どうも」
「そうよね」
「そこは」
「どうしても」
「それに甘いものを食べて」
 また西瓜を食べて言う先生でした。
「飲みものは甘くない」
「この対比いいかも」
「お互いの味が醸し出されて」
「それでだよね」
「いい感じになってるね」
「そうだね、こうして西瓜を食べて」
 水羊羹や餡蜜もあります、それもあったのです。
「冷たいお菓子も楽しむ」
「そしてだね」
「お茶はあえて甘くしないで」
「お茶の味をそのまま楽しむ」
「よく冷えたそれを」
「こんな楽しみ方はないよ」
 まさにと言った先生でした。
「そしてね」
「そして?」
「そしてっていうと」
「若い子達はああしてね」
 乗馬部の皆を観ながら言うのでした。
「ビーチで遊ぶのがいいね」
「青春?」
「それかな」
「この場合は」
「そうなるかしら」
「そうだよ、彼等の青春だよ」
 それになるというのです。
「僕の青春は違ったけれどね」
「夏の青春の楽しみ方だね」
「そうだよね」
「それでだね」
「ビーチで遊ぶのもいいのね」
「うん、彼等の明るい顔を見ていたら」
 ビーチバレーをしたり泳いだり砂で遊んだりしながら笑顔でいる彼等を見てというのです。その様に。
「そうも思ったよ」
「そうかもね」
「ただ先生ここでも水着は見ないね」
「女の子達のそれは」
「女の人のものにも」
「目には入るよ」
 このことは事実だというのです。
「けれどなんだ」
「それでもなんだね」
「興味を持たない」
「そうなんだ」
「先生は」
「どうも僕は女性にも男性にも」
 同性愛に対してもというのです。
「然程興味がないんだね」
「それ自分は恋愛と無縁だと思っているからだよ」
「強くそう思い過ぎているから」
「だからだよ」
「女性に興味を持てないんだよ」
「同性愛についても」
「僕は同性愛は否定しないけれど」
 それでもというのです。
「そちらの好みではないね」
「そうだよね」
「先生同性愛者でもないね」
「そっちの趣味もないね」
「別に」
「うん、昔からね」
 それこそというのです。
「これはないね」
「否定はしないし攻撃もしない」
「それも恋愛だって認めてるね」
「そのこと自体はそうよね」
「人の好みはそれぞれだからね」
 そう考えているからだというのです。
「ましてやこの日本だと普通だしね」
「そうそう、信長さんだってね」
「信玄さんや謙信さん、政宗さんもそうだったし」
「ずっと普通にあったし」
「忠臣蔵もそんな感じするし」
「歌舞伎や文学でも普通に出るし好色一代男なんか」
 井原西鶴さんの代表作であるこの作品もというのです。
「女の人だけじゃないからね」
「美少年もだっていうね」
「そっちも物凄い楽しんでるのよね」
「あの作品だと」
「そうだよね」
「そうした国だから」
 それでというのです。
「もう尚更だよ」
「同性愛は否定しない」
「自分の趣味でなくても」
「そうしているんだね」
「うん、僕はクリスチャンだよ」
 それも敬虔なです。
「キリスト教では同性愛は禁じられているけれど」
「ずっと罪になったしね」
「同性愛者というだけで」
「長い間犯罪扱いされて」
「裁判にかけられてね」
「牢獄に入れられたり」
「死刑にもなったね」
 動物の皆もお話します。
「今思うとわからないけれど」
「当時はそれが常識だったんだよね」
「キリスト教徒の世界だと」
「イギリスでも」
「実は古代ギリシアでは普通だったけれどね」 
 こちらではというのです。
「実はね」
「ああ、ギリシア神話だね」
「あの頃のギリシアでは普通だったね」
「同性愛も普通で」
「神様も英雄達もだったんだ」
「結構普通にあったからね」
 先生は自分が学んできたことをお話します。
「誰も罪に問わなかったんだ」
「そうだったんだよね」
「キリスト教の教義とは違って」
「同性愛は普通だったんだね」
「そうだよ、キリスト教の教えはキリスト教だけのことだよ」
 あくまでそうだというのです。
「けれどね」
「それでもだよね」
「他の宗教では違うんだよね」
「同性愛を認めている宗教も存在している」
「そして最近ではキリスト教徒の中でもね」
「同性愛は認められてきているからね」
「そういうことを見ていると」
 先生としてはです。
「同性愛を認めないことはね」
「よくないっていうよね」
「先生は」
「そうだよね」
「うん、だからね」
 それでというのです。
「僕はこう考えていてね」
「主張しているね」
「同性愛はあっていい」
「自分と違うからって認めないことはいけない」
「そういう風に」
「そうなんだ、しかしその彼等を見ても」
 水着姿の男の子や男の人達を見てもというのです。
「それでもだよ」
「何も思わないんだね」
「そうなのね」
「先生は」
「うん、どうもね」
 実際にというのです。
「これといってね」
「まあそこもそれぞれ?」
「水着姿の人達見てこれといっても思わないことも」
「そのことも」
「そうかもね」
「そうだろうね、まあ僕は恋愛に縁がないとわかっているから」
 ご自身ではです。
「諦めているのかな」
「そうした欲求についても」
「最初から持っていない」
「そう言うのね」
「そうかも知れないね」
 こう皆にお話するのでした。
「だから興味がないのかもね」
「じゃあそこでね」
「発想変えたら?」
「そうしたら?」
「そうしたらどう?」
「それで」
「いやいや、本当に恋愛はね」
 こればかりはと言うのでした。
「縁がないんだよ」
「やれやれね」
「そう言ってばかりね」
「こと恋愛のことについては」
「先生は」
 皆は先生の返事に呆れます、ですが。
 そう言われてもです、先生はこう言うばかりでした。
「いつも皆の気持ちには感謝しているよ」
「感謝はいいの」
「それはね」
「僕達はそれはいいから」
「先生が一歩踏み出してくれたら」
「周りを見てくれたらよ」
「それで充分なのよ」
「周りと言われても」
 先生は安楽椅子に寝転がったまま目だけで周りを見回しました、海や空、砂浜は目に入ってもやっぱり水着姿の人達は目に入りません。
「これといって」
「やっぱりそう言うし」
「もっと前に出たら?」
「そうした意味で周り見るんじゃないの」
「そこはわかって欲しいな」
「だから僕達も言うしね」
「そう言ってもだよ」
 先生は皆に言いました。
「僕はもてないんだよ」
「本当にそうかはね」
「先生の主観だよ」
「物事は主観だけか」
「違うよね」
「先生もいつもそう言ってるし」
「それはね、主観と客観」
 先生は皆に答えました。
「その二つがあるよ」
「そうだよね」
「世の中にはね」
「主観だけじゃないよね」
「客観、周りから見てもよね」
「それじゃあ周りはどう見ているか」
「そこをちゃんとわかったらね」
 それこそと言う皆でした。
「先生の運命は動くよ」
「それも大きくね」
「しかもよく変わるから」
「だからだよ」
「ここは客観も見てね」
「先生の主観だけでなくね」
「そうしてね」
「そうしたらわかるから」 
 先生に熱心に言います、ですが先生はその皆にこう言うばかりでした。
「そうならいいけれど」
「だから何でこのことだけ聞いてくれないのかな」
「人のお話を聞く人なのに」
「どうしてか」
「このことが謎だよ」
「全く以てね」
 皆そんな先生にやれやれです、けれどその先生とビーチでも一緒にいてです。
 楽しい時間を過ごして後片付けをしてからお家に帰りました、そうしてお家の中でも先生と一緒にいるのでした。








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