『ドン=パスクワーレ』
第二幕 淑女豹変
「もう終わりだ」
エルネストは一人屋敷の今にいた。そしてそこで嘆いているのだった。
「もうローマを去ろう」
悲しみに満ちた顔での言葉だった。
「そしてそれから遥かな土地を求めよう。そこで僕は生きるんだ」
こう言ってその場から消えようとする。しかしここでマラテスタとヴェールを被った小柄な女性が部屋に入って来た。エルネストは二人を見て悲しみに満ちた声で呟いた。
「マラテスタさんと妹さんだな」
「おお、来たか」
ここで正装になっているパスクワーレも部屋の中に入って来た。そうしてそのうえで満面の笑みで二人を見て言うのだった。
「早いのう」
「何事も迅速に」
マラテスタは少しおどけたようにしてパスクワーレに胸を張って告げた。
「それが私ですから」
「そうじゃったな。それでその娘じゃな」
「はい」
ここでも胸を張って告げた。その彼の後ろに女性はいるが兄の長身に必死に隠れようとしている。パスクワーレはその彼女を見て満足そうに述べた。
「ほう、これは」
「修道院から出たばかりですので」
彼女を庇うふりをしながらマラテスタはパスクワーレに話すのだった。
「ですから」
「初々しいのう」
パスクワーレはそんな彼女を見てにこにことしている。
「それはまた」
「はい、それでですね」
「うむ」
「式ですが」
「ああ、その前にじゃ」
ここでパスクワーレは言うのであった。
「見ておきたいものがあるのじゃがのう」
「見ておきたいものとは?」
「顔じゃ」
まずはこう話してきた。
「顔を見たいのじゃが」
「ああ、妹の顔ですね」
「左様。見ていいかな」
「どうぞ。さあソフロニア」
マラテスタは彼女に顔を向けて優しい声をかける。その間エルネストは沈んだ顔をして部屋の隅にいる。部屋を出る機会を逃してしまってそこにいるのだ。
「ヴェールを取りなさい」
「わかりました」
「あれっ」
ここでエルネストは彼女の声を聞いてふと思った。
「この声は」
似ていると思ったその矢先だった。白いヴェールから出て来た彼女は。
「あっ・・・・・・」
「おっとと」
ここでマラテスタはすっと驚きの声をあげそうになった彼のところに来た。そうしてその大きく開かれてしまった口を自分の手で閉じてしまったのだった。
それから。彼の耳元でそっと囁くのだった。
「今は静かにね」
「静かに?」
「そうだよ。君の悪いようにはならないから」
こう囁くのであった。
「むしろいいようになるから」
「いいようにって」
「話はこれから変わるから」
こうも彼に告げた。
「だからね。いいね」
「はあ」
「わかったら静かにね」
このことを再び告げた。
「わかったね」
「わかりました」
マラテスタのその言葉に頷く。その間パスクワーレは自分の花嫁となるその女性を見てもう今から有頂天という有様であった。
「これはいいのう。別嬪さんじゃ」
「お気に召されましたか?」
マラテスタはすぐに彼の傍に来てこう問うてみせる。
「妹は」
「うむ。それではじゃ」
「式ですね」
「公証人を呼ばなければのう」
「それは御安心を」
にこやかに笑って彼に告げるのであった。
「もう既に」
「おお、それはいい」
パスクワーレは彼の言葉を受けて満面の笑みを浮かべた。
「それではじゃ」
「はい、契約書にサインを」
それも用意していたマラテスタだった。それをすぐにパスクワーレに差し出す。
「どうぞ」
「うむ。それではじゃ」6
ここでは威厳を出すようにしてサインをするパスクワーレだった。しかしそれがかえってひょうきんな面持ちになっているのは彼ならではだった。
「これでよいな」
「はい、有り難うございます」
「いや、わしは幸せ者じゃ」
「幸せなことは幸せだな」
マラテスタはぽつりと言った。
「何だかんだで気のいい人だし嫌われていないし」
「さて、それではじゃ」
「ええ」
顔を彼に戻してそれに応える。
「いよいよ式じゃが」
「あっ、待って下さい」
ところがここでマラテスタがパスクワーレを止めるのだった。彼を掴むようにして。
「まだです」
「まだとは?」
「証人のサインが必要ですよ」
こう言うのであった。
「結婚の」
「おお、そうじゃったそうじゃった」
言われてこのことを思い出したパスクワーレであった。
「何しろ前の結婚は四十年前じゃったからすっかり忘れておったわ」
「前の奥様とですね」
「まあ新しい妻の前で言うのも何じゃが」
一応ソフロニア、正体はノリーナに気を使いながら言う。
「いい嫁じゃったのう。奇麗なだけでなく気が利いて料理も上手でな」
「そうでしたね。あの人は」
「全く。わしより先に死におって」
腕を組み歩きながら悲しい顔をするパスクワーレだった。
「おかげで寂しいやら悲しいやらじゃ」
「ですがそれも終わりで」
「うむ。わしは新たな幸せに入る」
気を取り直してこう言うのであった。
「これからのう」
「はい。それでですね」
「証人じゃな」
「二人必要です」
パスクワーレに対して告げた。
「まずは私で」
「頼むぞ」
早速サインをするマラテスタであった。これでまずは一人であった。
しかし一人だけである。それを見てパスクワーレはさらに言った。
「もう一人じゃが」
「あっ、彼がいるじゃないですか」
わざと気付いたふりをしてエルネストに顔を向けるのであった。
「エルネスト君が」
「おお、そうじゃったな」
パスクワーレは本当に思い出したのだった。実は有頂天になっていた為甥の存在を見事なまでに忘れ去ってしまっていたのである。
「御前がおったわ」
「僕のサインでいいんだね」
「うむ、よかろう」
やたらと勿体ぶって甥に告げた。
「何だかんだで御前はわしのたった一人の肉親だ」
「そうだね」
「例え何があっても御前の面倒は見てやるから有り難く思え」
「わかったよ。とりあえずはだね」
「サインじゃ」
それをしろというのであった。
「よいな」
「わかったよ。それじゃあ」
叔父の言葉を受けて彼もサインをした。これで証人達のサインは終わった。
これを見てパスクワーレはまた言った。
「よし、では式をじゃ」
「いえいえ、まだですよ」
だが再びマラテスタに止められてしまったのであった。
「まだですよ」
「証人も二人サインをしたのではないのか?」
「まだです。花嫁のサインが必要じゃないですか」
「おっと、そうじゃったな」
言われてそのことも思い出したパスクワーレだった。
「肝心の花嫁のことを忘れておったとはのう」
「有頂天過ぎるな、ちょっと」
またマラテスタは一人呟く。
「どうやら。思った以上に楽にいきそうだな」
「さて、どうなるのかな」
エルネストはサインを終えると部屋の隅に戻ってそこからことの成り行きを見ていた。
「何か随分と変なことになりそうだけれど」
「それではじゃ」
また言うパスクワーレであった。
「花嫁のサインをじゃな」
「わかってますよ。ではソフロニア」
「はい」
ソフロニアに化けているノリーナは慎ましやかな態度を装って楚々と前に出る。そうして彼女もサインをするのであった。これで全ては終わった。
かに見えた。パスクワーレは今度こそ、と思いここで遂に飛び上がって言い出した。
「では式じゃ、婚礼の式じゃ」
「何を言ってるのよ」
だがその彼に対して。顔を上げたノリーナがきつい顔で言うのであった。
「式なんて必要ないわ」
「何じゃと!?」
「それよりもよ。貴方はそこに立っていなさい」
いきなりノリーナが態度を変えてきたので面食らったパスクワーレに対してさらに言うのであった。
「そこにね。いいわね」
「わしに立っていろというのか」
「姿勢を正して」
しかも注文までするのだった。
「気をつけでね。わかったわね」
「わしは兵隊ではないぞ」
気をつけとまで言われて困惑しながら抗議するパスクワーレだった。
「それでどうしてなのじゃ」
「つべこべ言わないのっ」
有無を言わせないノリーナの口調だった。
「貴方は黙っていなさい」
「黙っていよとは何事じゃ!?」
また言われてさらに困惑するパスクワーレだった。
「わしはじゃな。御前の」
「亭主が何だっていうの!」
今度はまるで鬼の如き剣幕だった。
「旦那だからって偉そうにできると思ったら大間違いよ!」
「大間違いも何もあるものか!」
パスクワーレはたまりかねた顔でノリーナに抗議する。しかし彼はあくまで彼女をマラテスタの妹ソフロニアだと信じ込んでいるのであった。
「どういうことじゃ。これは一体」
「黙りなさい!」
今度はぴしゃりであった。
「いいわね。それ以上は喋ることを許さないわ」
「な、何事じゃこれは」
「こういうことなんだ」
「成程」
二人のやり取りのうちにそっとエルネストの側に来たマラテスタは彼に囁くのだった。
「ノリーナさんも完全にわかっているからね」
「そうですか。それにしても」
「いや、予想以上だよ」
すっかりノリーナにしてやられているパスクワーレを見ながらまたエルネストに囁いた。
「この有様はね」
「いや、確かに」
「さて、どうなるかな」
マラテスタは二人、というよりはノリーナの動きを楽しそうに見守るのだった。
ノリーナはベルを鳴らした。すると屋敷の使用人達が皆部屋に入って来た。彼女はすぐにその使用人達に対して告げるのであった。
「私がこの屋敷の新しい主です」
「主はわしじゃ」
「貴方に発言権はないわ」
弱々しいながらも言おうとしたパスクワーレをここでもぴしゃりだった。
「黙っていなさい」
「無念じゃ・・・・・・」
「いいわね。だから」
彼を黙らせてからさらに使用人達に対して告げる。
「全ては私の言うことに従いなさい」
「わかりました、奥様」
「それでは」
使用人達もノリーナの登場にまずは驚いてそれぞれ顔を見合わせていたがそれでもここで彼女に対して頭を下げたのであった。
「それでです」
「はい」
「何でしょうか」
「まずは貴方達全員の給料を倍にします」
「えっ!?」
「倍に!?」
「そうです」
驚く彼等に対して再度告げるのだった。
「倍です」
「じょ、冗談ではないぞ」
その言葉を聞いたパスクワーレは慌てふためいてノリーナに抗議した。
「今でもかなり高い給料を払っているんじゃぞ。それで倍といったら」
「黙っていなさい!」
またしても一喝であった。
「貴方には何も言わせません!」
「ううう・・・・・・」
一喝されすっかりしょげ返ってしまったパスクワーレだった。見れば完全に小さくなってしまっている。
「何たることじゃ・・・・・・」
「そして新しいメイドを入れて」
ノリーナの指示はさらに続く。
「馬車の新調、あとは」
「あとは?」
「家具は全て取り替えます」
それを行うというのであった。
「そう、全てです」
「な、金が減っていくぞ」
あまりにも次々に言うノリーナの指示に真っ青になるパスクワーレだった。
「このままでは。そんなことに金を使わせるか」
「文句があるのかしら」
「ある、ないわけがないわ」
必死に新妻に抗議するパスクワーレだった。
「そんな無駄遣いをしてじゃ。誰かに寄付をするならともかく」
「家の主は私です」
「わしじゃ」
抗議するが結婚前の元気さは何処にも無く弱々しい。完全に負けている。
「わしじゃ。わしが家長じゃぞ」
「妻の言葉は絶対よ」
そしてノリーナは完全に彼に勝っていた。それを確信しての今の言葉だった。
「逆らうっていうのかしら」
「逆らうも何もじゃな」
言いはするがどうしても負けてしまっていた。
「この屋敷は」
「もう言う必要はないわ」
それを見透かしたノリーナにこれで封じられてしまった。
「さあ、後はよ」
「はい、奥様」
「次は」
「悪夢じゃ」
パスクワーレはその場にへなへなとへ垂れ込みながら呟いた。
「こんなことがあっていいのか」
「さて、まずはこれでよしだね」
「まずはですか」
茫然自失となり虚しく上を見上げるパスクワーレを見ながら言うマラテスタに問うエルネストだった。
「いきなり凄いことになってますけれど」
「いやいや、あの人にはあれ位が丁度いいんだよ」
マラテスタの目はずっとパスクワーレにある。そのうえでエルネストに告げるのだった。
「あれでね」
「はあ。そうなんですか」
「さて、これからもっと動くよ」
マラテスタはこうも言ってにんまりと笑った。
「どうなっていくかな」
「見ものってわけですか」
あれこれと動きはじめた使用人達に部屋の中央でふんぞり返るノリーナ、パスクワーレにとっては悪夢がはじまっているのであった。
パスクワーレが気付けば屋敷の中は使用人達が右に左に動き回り商人達が次々に出入りしてくる。彼は居間のソファーに座りながら灰になったかの様に崩れ込んでいた。
そうしてその中で。こう呟くのであった。
「悪夢じゃ」
両手で頭を抱え込んで呟いていた。
「何でこうなったのじゃ。何が起こっているのじゃ」
今起こっていることをどうしても認めたくなかった。その間にも使用人達が部屋の中を走り回っている。
「絵も取り替えて」
「それでコートはあっちに」
「銀の食器は?」
「さて、ベッドも取り替えて」
「無茶苦茶ではないか」
自分の周囲を走り回る彼等の声を聞きながらまた呟くのだった。
「しかもじゃ」
前にあるテーブルの上には領収書の山であった。
「僅か一日でここまで使うのか。これではじゃ」
彼が最も恐れることが脳裏をよぎった。
「破産じゃ」
それであった。それを恐れるのだった。
「破産してしまう。これ以上の贅沢は何があってもじゃ」
「奥様、これで宜しいのね」
「ええ、これでいいわ」
パスクワーレが呟くその前に赤い髪の小柄なメイドを伴ったノリーナがやって来た。見れば見たこともないような派手な、金と銀の刺繍まである絹のドレスに身を包んでいた。帽子も白く大きい見事な羽根帽子である。
「さて、それじゃあ」
「待て」
パスクワーレは彼女に気付いて声をかけた。
「何処に行くのじゃ?」
「お芝居を観に」
平然とこう答えるノリーナだった。
「行って来るのよ」
「馬鹿な、今日じゃと」
それを聞いて大いに驚いて思わず席を立ったノリーナだった。
「今日は何の日かわかっておるのか」
「何の日だったかしら」
「結婚したのは今日じゃぞ」
血相を変えた顔で彼女に告げた。
「初夜でもう外出か。そんな嫁がいるものか」
「さっきも言ったけれど屋敷の主は私よ」
「いいや、わしじゃ」
その血相を変えた顔で妻の前に出て来て主張する。
「だから行かせぬ、絶対にな」
「絶対になのね」
「そうじゃ、絶対にじゃ」
強い声で妻に告げるのだった。
「何があろうともな」
「わかったわ。それじゃあ」
「早く部屋に戻れ」
絶対に許さない口調であった。
「何があってもな・・・・・・うぐっ!」
「こうするだけよ」
左手で思い切りパスクワーレの頬を平手打ちしたのであった。そのあまりもの威力の前に老人は大きく吹き飛ばされてしまった。
そこから何とか体勢を立て直し。思いきり抗議するのだった。
「な、何をするのじゃ!」
「誰が何と言おうが行くわ」
こう言って喚く夫の前を過ぎ去っていく。
「それだけよ」
「ゆ、許さん!」
はたかれた頬を押さえながら遂に怒りを爆発させたパスクワーレだった。
「離婚だ、離縁だ、絶縁じゃ!」
「それでは奥様」
「ええ」
彼が喚くのをよそに平然と部屋を後にするノリーナだった。残されたのは老人だけであった。
「とんでもない女じゃ」
今更ながらこう言うパスクワーレだった。
「わしはどうすればいいのじゃ・・・・・・んっ!?」
ここで彼は床にあるものを見つけた。それは手紙だった。
「あいつの手紙か?」
ノリーナのものだとすぐに察した。それでその中を読んでみると。今度は使用人達と同じく右に左に慌しく動き回ることになってしまったのであった。
「今度はこれか!」
手紙を読みながら絶叫するのだった。
「密会じゃと!浮気じゃと!不倫じゃと!」
顔を真っ赤にして叫ぶ。両手に持っている手紙を今にも破りそうである。
「最早勘弁ならん!おい!」
「はい」
声をかけられた若い男の使用人が主の言葉に応えた。
「何でございましょうか元旦那様」
「元ではないわ、元では」
今の彼の言葉にはムキになって言い返した。
「わしは今でもこの屋敷の主じゃぞ」
「ですが新しい奥様は」
「決めた。あいつは離縁じゃ」
怒りに満ちた声での言葉であった。
「もうな。許さん」
「カトリックで離婚はできませんが」
「それでも離縁じゃ」
使用人の突込みにさえムキになってしまっていた。
「もう許さんわ。教皇様に掛け合ってでも離婚してやる」
「はあ。左様ですか」
「そしてじゃ」
その真っ赤にさせてしまった顔でさらに言う。
「マラテスタを呼ぶのじゃ」
「マラテスタさんをですか?」
「またこの屋敷におるな」
「ええ、多分」
こう答える使用人であった。
「そう思いますけれど」
「ならばすぐにここに呼ぶのじゃ。よいな」
「わかりました。それじゃあ」
「あの悪魔をこの屋敷から永久追放にしてやる」
ノリーナはすっかり悪役であった。彼にとっては。
「地獄に落とし首を跳ね焼けた棒で串刺しにし」
「また偉く物騒ですね」
「お次は水責めにして最後は皮を剥いでやるわ」
「後宮からの逃走ですね」
ここまで主の怒りを聞いた使用人はこう述べた。
「それは」
「まあそうじゃ」
今の使用人の突込みには少し時間を置いて返したのだった。忌々しげな調子で。
「とにかくじゃ」
「マラテスタさんですね」
「すぐに読んで来るのじゃ」
再び彼に対して告げた。
「よいな」
「ええ、それじゃあ」
「わしもじゃ」
使用人が去ってから彼も動いた。
そそくさと部屋を後にする。相変わらず使用人達はあれこれと動き回っている。
「ええと、それはこっちで」
「それはあっち」
「絹のドレスは?」
「ここです」
彼等はあれこれと動き回り右に左であった。
「それでカーテンは」
「はい、全部絹ですよね」
「それもピンクのな」
「他には?」
とにかく誰もが動き回っているのだった。
「お花はそこで」
「あとお庭に入れるのは?」
「確か日本の花だったかと」
「日本というと桜か?」
「はい、それと梅です」
花もなのだった。ノリーナはそれも注文させたのである。
「あと中国の陶器とアメリカの馬に」
「馬もか」
「それも五頭。元の馬もそのままで」
「餌代だけでもかなりだな」
「それで元の家具ですが」
元からあった家具の話も為されるのだった。
「全て私達に下さるそうで」
「おいおい、それはまた」
「気前がいいっていうか」
「それでですね」
使用人達の喧騒は続く。その中であの若い使用人がマラテスタを部屋の中に案内してきた。エルネストも一緒である。
彼は部屋に入りまずはパスクワーレを探した。しかし彼は何処にもいなかった。
「あれっ、何処に行かれたのかな」
「パスクワーレさんが呼んだのだよね」
「はい、そうです」
使用人はマラテスタの問いに対して答えた。
「それで御呼びしたんですが」
「まあそのうち来るだろうね」
マラテスタは至って穏やかに使用人に述べたのだった。
「すぐにね」
「左様ですか」
「僕はここで待っているから」
こう告げてチップのコインを渡したうえで使用人を下がらせた。それは部屋の中にいる他の使用人達に対してもだった。
「暫くこの部屋にはパスクワーレさん以外入れないでね」
「わかりました」
「それでは」
使用人達は彼の言葉とコインを受けて部屋を後にする。これでエルネストと二人になりその中であらためて彼に対して言うのであった。
「それでですが」
「はい」
「今夜で全てが終わります」
エルネストに顔を向けて話す。今二人はそれぞれソファーに座りそのうえで向かい合って話すのであった。
「全てがです」
「終わりますか」
「ノリーナさんが密会の手筈を整えておられますので」
「つまり僕がその相手になるというのですね」
「ええ、その通りです」
まさにそれだというのである。
「おわかりですね」
「ええ、よく」
こう答えることができたエルネストだった。
「それでしたら」
「では話が早いです」
マラテスタも彼の言葉を聞いてにんまりと笑う。
「さて、後はパスクワーレさんですが」
「少しやり過ぎにも思えますけれどね」
またこうしたことを言うエルネストだった。
「ここまでやるのは」
「ですからこれ位でいいのですよ」
しかしマラテスタもまた言うのであった。
「あの人には。貴方も御存知の筈ですが」
「ええ。子供の頃から」
両親を早くに失いそのうえで叔父に引き取られて育てられていたのである。だからよく知っているのである。まさに親代わりであったからだ。
「気はいいんですけれどね」
「その分騒動ばかり引き起こす人ですから」
「全く。何をしても騒動になりますから」
「天性のものですね、あれは」
こうまで言うマラテスタだった。
「あの人は」
「確かに。それでですけれど」
「はい」
「叔父さんは何処に行ったのでしょうか」
まだ戻らないのでそれで怪訝な顔になるのだった。そのうえで再び部屋を見回すがやはりいない。このことに少し戸惑うエルネストだった。
それでも少し待っているとだった。パスクワーレが部屋に飛び込んで来たのである。息を切らしてそのうえでマラテスタを見つけて言うのだった。
「おお、やっと見つけたぞ」
「御呼びでしたよね」
「うむ、しかしわしも探しておったのじゃ」
この辺りに騒動を引き起こす何かがあると言ってよかった。
「実はのう」
「そうだったのですか」
「そして出会えた。実にいいことじゃ」
「確かに。それでですけれど」
「うむ」
一呼吸置いてからそのうえでマラテスタに対して述べてきた。
「君の妹のことじゃが」
「ソフロニアのことですか」
「あれは酷過ぎないか?」
たまりかねた顔で彼に告げた。
「全く。わしは殺されそうじゃ」
「あれは普通では?」
「いや、普通ではない」
少しばかり落ち着いてきて額を自分のハンカチで拭きながら述べるのだった。
「あんな女ははじめてじゃ」
「歴史的にローマの女は強いものですが」
それでは定評がある。というよりはイタリアといえば女が強い場所である。この時代は多くの国に分かれていたがそれでも何処でも女は強い場所だったのである。
「ですから普通では?」
「だから普通ではない」
たまりかねた顔はそのままだった。
「あんな女はな。浪費の限りではないか」
「ふむ。ですが見事な家具が揃いましたな」
全くの他人事で部屋の中を見回しながらの言葉であった。
「これは。流石我が妹」
「流石も糸瓜も道楽もないわっ」
パスクワーレは今の彼の言葉にまたしてもたまりかねて言う。
「このままではわしは破産じゃ。どうすればいいのじゃ」
「どうすればとは」
「こんなことではじゃ」
そして今度の言葉は。
「エルネスト、おおそこにいたか」
「そこにじゃなくてさっきからいたけれど」
こう叔父に返す。実はパスクワーレは自分の惨状を訴えることに必死で甥の存在を今の今まで完全に忘れてしまっていたのである。
「叔父さんが部屋に来た時から」
「そうじゃったのか」
「そうだよ。それでどうしたの?」
「御前まだあの若い未亡人と付き合ってるのか?」
「うん」
まさかあの浪費家の新妻がその未亡人だと答えるわけにもいかず芝居で返すのだった。
「そうだけれど」
「ノリーナとかいったか」
彼女の名前を思い出すパスクワーレだった。
「確かのう」
「そうだけれど」
「あれはあまり金持ちではないから」
何故甥と彼女の結婚を許さなかったのか、理由も自分から言うパスクワーレだった。
「結婚を許さなかったが」
「今はどうなの?」
「後悔しておる」
苦々しい顔での言葉であった。
「心の奥底からのう」
「けれどもう僕はこの屋敷を出て行くし」
「御前の代わりがあれか」
あれが誰かはもう言うまでもなかった。
「何たる不幸じゃ、何たる災厄じゃ」
泣きそうな顔になって嘆くのだった。
「神よ、この老いぼれに何たる禍いを与えるのですか」
「まあ落ち着かれて」
マラテスタは立ったままコーヒーを飲んでいた。
「丁度コーヒーが来ましたよ」
「おっ、そうか」
気付けばノリーナが家から連れて来たあのメイドがコーヒーを持って来ていた。マラテスタだけでなくエルネストも立ったまま飲んでいる。そしてパスクワーレにも白いカップが手渡されるのだった。見ればオーストリア製の贅沢な陶器のカップと皿である。
それを見てパスクワーレは。また言うのだった。
「まさかこのカップも」
「はい」
メイドはこの屋敷でも無機質な声を出した。
「その通りです。奥様があらためて」
「こんなものまで買ったのか」
黒いコーヒーが中にあるそのカップを見てこれまた泣きそうな顔になるパスクワーレだった。
「全く。何処までとんでもない女じゃ」
「いえいえ、このカップは見事ではないですか」
マラテスタはその彼に対して穏やかな笑顔で声をかけた。
「そんなに悲しむことではありませんよ」
「わしは悲しい」
しかし彼の心は変わらなかった。
「とてものう」
「ですからここはコーヒーを飲まれて」
「それにじゃ」
差し出されたコーヒーを左手に持ち右手であの手紙をマラテスタに差し出したのであった。
「これじゃが」
「手紙ですか」
「今度は浮気じゃ」
目を滲ませ口を日本の梅干を食べた様にさせての言葉であった。
「浮気じゃぞ。浪費だけでなく」
「おや、そんな筈は」
マラテスタはここでもとぼけてみせたのだった。
「あれに限って」
「しかしこの手紙はじゃ」
「ふむ。では疑っておられるのですね」
「疑ってるも何も確信じゃ」
それだというのである。
「逢引の約束じゃぞ。相手はわからんがのう」
「成程。それで私を御呼びしたのですね」
「そうじゃ」
やっとここで本題に入るのだった。実に長い前置きであった。
「場所は手紙の中に書いておる」
「ふむ」
コーヒーをここで飲み終えメイドにそれを手渡す。そのうえで実際に手紙を開いて読んでみる。そしてそこに書かれていた場所とは。
「この屋敷の庭ですか」
「大胆なことにじゃ」
コーヒーを飲みながらも全く落ち着いていないパスクワーレだった。
「わしのこの屋敷の庭でじゃぞ」
「今夜逢引ですか」
「許さん、浪費も許さんがこれも許さん」
もう顔を真っ赤にさせて話す。
「断じてな。それでじゃ」
「私にどうせよと」
「証拠を押さえて離婚してやる」
こう言うのであった。
「こうなればのう」
「離婚はできませんが」
マラテスタもカトリックの話を持ち出す。
「パスクワーレさんは教皇様ともお知り合いですしそんなことをされては」
「寄付は弾む」
この辺りは実に即物的ではあった。
「それで認めてもらうわ」
「ふむ。そのうえで離婚をですね」
「このままではわしは金も面目も何もかも失ってしまう。だからじゃ」
「わかりました」
一応頷きはするマラテスタだった。とはいってもここでも演技であるが。
「それでは及ばずながら協力させてもらいましょう」
「頼むぞ。おおエルネスト」
ここでまた甥に声をかけるのだった。
「御前にも協力してもらうぞ」
「けれど僕は」
そう言われてバツが悪そうに言葉を返すエルネストだった。
「もうこの屋敷から」
「あれはなしじゃ」
何と一日にしてその話を覆してしまったのだった。
「なかったことにする」
「なかったことに」
「御前はわしの跡を継げ」
話を完全に元に戻してしまった。
「よいな。だからじゃ」
「この屋敷に残っていいんだね」
「そしてマラテスタさんと二人でじゃ」
矢次早の言葉である。
「今夜庭に張り込むのじゃ」
「浮気の現場を押さえるんだね」
「そうして離婚してやる」
鼻息も荒い言葉だった。
「それでじゃ」
「わかったよ。じゃあ」
エルネストも芝居で叔父に返すのだった。
「僕もね」
「よし、当然わしも行く」
パスクワーレ自身もだというのである。
「これで話は終わりじゃ」
「それでは今夜」
「うむ」
ここでやっとコーヒーを飲み干すパスクワーレだった。エルネストはもう飲み終えている。メイドは三人のカップを何気なく受け取り持っている盆の上に置いていた。
「頼んだぞ」
「わかりました」
「それじゃあ」
パスクワーレの言葉に頷くマラテスタとエルネストだった。夜に遂に決まろうとしていた。
その夜。エルネストは屋敷の庭にいた。緑の木々も茂みも色とりどりの花々も今は暗闇の中にその姿を消してしまっている。あるのはその濃紫の空に浮かぶ黄色い三日月だけである。
「何と心地よいのだろう」
エルネストはその中で言うのだった。
「叔父さんには困ったことだけれど僕には幸せが訪れようとしている。やっと」
さらに言葉を続けていく。
「ノリーナと。永遠に」
「エルネスト」
ここでその彼女の声がした。
「そこなのね」
「うん、ノリーナ」
声がした方に顔を向けて答えるのだった。
「そうだよ。僕はここだよ」
「わかったわ」
その声に応えて左手からノリーナがやって来た。外出の時の派手なドレスと帽子のままである。
その姿で恋人の前に来て。それからしかと抱き合うのだった。
「やっと。こうして」
「普通に話ができるね」
「ええ。何か話が滅茶苦茶になってるけれど」
一旦恋人から離れてそのうえでまた言うのだった。
「それでもね」
「叔父さんのせいでね」
楽しそうに笑って言うエルネストである。
「こんなことになってしまったね」
「あの人のことは知っていたけれど」
彼女も知っている程ローマでは有名人なのである。
「それでもあれは」
「子供の頃から困ってるよ」
「そうでしょうね」
そのことはよくわかるノリーナだった。
「あれだけ騒ぎを起こす才能があったら」
「動けば絶対に騒ぎになる人だからね」
悪気はないのに、である。パスクワーレは悪意やそういったものはないのだ。
「本当に困ったことにね」
「それもうすぐなのね」
「そうだよ。来るよ」
「じゃあ」
「うん」
真面目な顔になって頷き合う。その時だった。
「いたぞ!あそこだ!」
不意にそこにパスクワーレが出て来たのであった。マラテスタも一緒である。
「遂に見つけたぞ。逃がさん!」
「来たわ」
「それじゃあ」
エルネストはこっそりとノリーナの言葉に頷きその場から消える。彼と入れ替わる形になってパスクワーレとマラテスタがノリーナの前に飛び込んで来たのだった。
その小太りの身体を舞わせてやって来たパスクワーレは。怒りに満ちた声でノリーナに対して告げた。
「浮気をしていたな。離婚じゃ!」
「離婚ですって!?」
「浮気は絶対に許さん」
ノリーナを右手の人差し指で指し示しながらの言葉であった。
「だから離婚じゃ。そうしてじゃ」
「そうして?」
「エルネストに嫁を貰う」
こう言うのであった。
「その相手はノリーナじゃ」
「ノリーナですって!?」
「そうじゃ、ノリーナじゃ」
まさか本人が目の前にいるとは夢にも思っていないパスクワーレだった。
「ノリーナと結婚させる。御前は屋敷を出て行け」
「ええ、そうさせてもらうわ」
ノリーナはわざと不愉快に満ちた声で述べてみせた。
「あの女は大嫌いだから」
「何っ、知り合いじゃったのか」
「そうよ。もう昔から大嫌いなのよ」
忌々しげな顔にもなっていた。
「あの女と同じ屋根の下で暮らすなんて考えただけでもぞっとするわ」
「では話は早い」
パスクワーレはそれを聞いてあらためて言った。
「この屋敷を出て行くのじゃ」
「言われないでもそうしてやるわよ」
「よし。それではじゃ」
パスクワーレは満足した顔でその言葉を受けた。そうして、であった。
「エルネスト、いるか?」
「叔父さん、現場を押さえたんだね」
少し離れた場所からこう叔父に問う声がしてきた。
「そうなのかい?」
「そうじゃ。そしてじゃ」
甥に対してさらに言うのだった。
「ここに来るのじゃ。御前に話したいことがある」
「僕に?」
「だから早く来るのじゃ」
こうも告げる。
「ほら、早くじゃ」
「わかったよ。それじゃあ」
叔父の言葉を受けてその場に出て来た。その彼に告げられた言葉は。
「夕方の話じゃがな」
「ノリーナとの結婚のこと?」
「それを許そう」
こう話すのだった。
「そしてわしの跡も継げ。財産もやる」
「本当に?」
「わしは嘘は言わんぞ」
少なくともそれはないのである。騒動を巻き起こすことはあってもだ。
「決してな。それは御前が一番知っておることではないか」
「まあそうだけれど」
「ではわかるな」
あらためて甥に告げる。
「わしは御前に全てを譲る」
「結婚もだよね」
「その通りじゃ。証人もおるぞ」
「はい、確かに聞きました」
この場ではそれまで黙っていたマラテスタが出て来て述べた。
「そして決して忘れることはありません」
「わしもそれは同じじゃ」
また言うパスクワーレだった。
「では明日ノリーナを連れて来るのじゃ」
「いや、その必要はないよ」
エルネストは叔父の言葉を受けて楽しく笑ったうえで述べたのだった。
「その必要はね」
「それはどういうことじゃ?」
「だってもうここにいるから」
そしてこうも言うのである。
「もうね」
「ここにとは!?」
「はじめまして」
ノリーナがパスクワーレに対してあらためて恭しく一礼するのだった。スカートの両端をそれぞれの手に持ってそのうえで、である。
「ノリーナでございます」
「馬鹿を言うでない」
パスクワーレは最初それを質の悪い冗談だと思った。
「御前はソフロニアではないか」
「いえ、ノリーナでございます」
しかしあくまでこう返す彼女だった。
「私は」
「どういうことなのじゃ?」
「ああ、私が考えたことでして」
マラエスタがここでまた言うのであった。
「実はですね。エルネスト君とノリーナさんの為に」
「この二人の為に?」
「わざと妹ということにしてパスクワーレさんの御前に連れて来たのです」
ここで彼に真相を打ち明けたのであった。
「それで騒ぎを起こしてこういう流れにした次第です」
「何っ、それではじゃ」
真相を聞かされたパスクワーレはまずは驚いた顔になった。そのうえで。
「皆が皆わしを騙していたというのか?」
「そうなりますね」
怒りだした彼にしれっと返すマラテスタだった。
「実際のところは」
「あれだけ浪費してひっぱたいて怒鳴って」
「申し訳ありません」
そのことは謝るノリーナだった。
「お芝居は徹底的にしないといけませんし」
「お金がどれだけ消えたと思ってるんじゃ」
パスクワーレはこのことを特に抗議するのだった。
「全く。好き放題しおって」
「けれど叔父さん」
エルネストがその怒る叔父に告げてきた。
「あれ位じゃ我が家にとっては全くどうってことないじゃない」
「黙れ、御前もグルじゃろうが」
「そうだけれどね。あれ位じゃ何てことないじゃない」
「むう、それはそうじゃが」
少し落ち着いて頭の中で計算した上での返事だった。
「あの程度ではのう」
「家の使用人も給料があがっていい家具とかを貰えて喜んでるし」
「それはいいことじゃな」
「じゃあいいんじゃないの?」
叔父に対して言うのであった。
「それで」
「そうじゃな。それもその通りじゃ」
甥に言われて納得した顔になるのであった。
「ではよいか」
「うん。じゃあ」
「結婚は許す」
落ち着きを取り戻しあらためて甥に告げた。
「跡も継がせるし財産もやろう」
「有り難う、叔父さん」
「有り難うございます」
エルネストだけでなくノリーナも彼に対して礼を述べる。そしてまたマラテスタが言うのであった。
「では。話も終わりましたし」
「寝るか」
「いえいえ。家の人全てに起きてもらって」
彼は笑いながらパスクワーレに告げる。
「皆で祝いましょう」
「二人の結婚をか」
「そうです。本物の証明書もありますし」
言いながら結婚証明書を見せるのだった。
「ですから」
「そうか。ではサインをした後は」
「屋敷中で祝福です」
「わかった。ではとびきりのワインと御馳走を出してじゃな」
「祝おうではないですか」
早速音頭を取るマラテスタであった。
「皆で」
「そうじゃな。それでは」
マラテスタの顔に満足している顔で頷くパスクワーレだった。そうして今高らかに持っていた鈴を鳴らし。
「さて、これから二人を祝おうぞ」
早速使用人達が全て出て来て瞬く間にテーブルを用意してワインに御馳走も出していく。そのうえでワインを並々と注いだ杯を持って。
「乾杯!」
「乾杯!」
皆で祝うのだった。けたたましい騒動は最後は賑やかな宴で終わったのであった。
ドン=パスクワーレ 完
2009・9・30
物凄く大掛かりな騙し方だ。
美姫 「それでも揺るがないパスクワーレの家って」
いや、本当にあらゆる意味で凄い人だ。
美姫 「でも、何とか丸く収まって良かったわね」
確かにな。今回も楽しかったです。
美姫 「投稿ありがとうございました」