『ドン=ジョヴァンニ』
第二幕 悔い改めぬ先
己の屋敷から逃げ延びたジョヴァンニとレポレロ。今二人はまた夜道を歩いていた。
「レポレロ、いるな」
「いますよ」
余裕の表情のジョヴァンニに対してレポレロは違っていた。彼は全速力でここまで走ってきたので肩で息をしてひいひいと言っていたのである。
「けれどもう」
「もう。何だ?」
「もう辞めさせてもらいます」
たまりかねた声で言うのだった。
「これでもう」
「また妙なことを言う」
ジョヴァンニはレポレロの辞職願いを聞いてこう返すのだった。
「辞めるというのか。私が御前に何をした」
「殺されかかったじゃないですか」
このことを話に出すレポレロだった。
「旦那はさっき私を」
「あれは冗談だ」
「けれど私は本気です」
それは顔にもはっきりと出ていた。
「もうこれでお暇します」
「まあ待て」
だがここでジョヴァンニは去ろうとする彼を呼び止めた。
「いいものをやろう」
「いいものとは?」
「ほら、これだ」
懐から出してきたのは四枚の金貨だった。
「これをやろう」
「まあいいでしょう」
現金なものでそれを受け取ると態度を変えるレポレロだった。すぐにジョヴァンニの手からその金貨を受け取って素早く自分の財布の中に入れてしまった。
「今回だけですよ」
「わかっている」
「これが慣例になってはいけませんよ」
受け取ってから言うから何の説得力もないがそれでも言うレポレロだった。
「あたしの様な人間はお金で誘惑できませんよ」
「まあそれはいいとしよう」
この話を途中で止めさせるのだった。
「御前は私が言うことをしていればいいのだ」
「女遊びを止められては?」
「馬鹿を言え」
この言葉も一蹴してしまった。
「御前は知っている筈だ」
「知っているから言うんですよ」
「では言おう」
ジョヴァンニは半ば売り言葉に買い言葉で言うのだった。
「私にとって女はパンや空気よりも大事なものなのだ」
「それで続けるんですか」
「全ては愛情だ」
こういうことにしてしまうのだった。
「一人の女に対して信義の篤い男は他の者に対しては無慈悲なものだ」
「そんな言葉初耳ですけれど」
「私の言葉だ。当然だ」
だからだというのである。
「私のように寛容な心を持った者はな」
「どうだっていうんですか?」
「万人を愛するものだ」
そういうものだというのだ。
「女達はこのことを知らないで私の好意を偽りと言うのだ」
「だといいですけれどね。それで今度は何をお望みですか?」
「ドンナ=エルヴィーラの侍女だが」
「ここにも連れて来てるんですか」
「いない筈がない」
彼は断言した。
「私にはもうそれがわかるのだ」
「また勘ですか」
「勘こそが最も重要なのだ」
それこそがだというのである。
「それでだ。見たことはないのか」
「ええ、全然」
主の問いに対して首を横に振って述べる。
「どんなのですか?」
「結構いいぞ」
彼女ももうチェックしているジョヴァンニだった。
「それでだ」
「ええ。それで?」
「今度は彼女だ。いいか」
「真夜中にですか」
長い夜である。この夜の喧騒の中で実に様々なことが起こっている。
「陥落させに行くんですね」
「その為にこれがあるのだ」
何時の間にかその手にマンドリンを持っている。
「そしてだ」
「そして?」
「御前の服を借りる」
「えっ、私の服をですか?」
「そうだ。御前の服だ」
こう彼に告げるのだった。
「御前の服をな。借りるぞ」
「どうして旦那が自分の服で行かないんですか?」
「侍女に貴族の服で出る奴がいるものか」
こうしたことにまで気を回すジョヴァンニだった。
「いないな。そうだな」
「まあそうですけれど」
「わかったら着替えるぞ」
早速自分のマントと上着を脱ぎはじめていた。
「いいな」
「わかりましたよ。それじゃあ」
何だかんだでそれに頷くレポレロだった。そして主と服を交換する。ジョヴァンニはレポレロの服を着てからそのうえで。ある家の窓のすぐ下に向かうのだった。
「その家だったんですか」
「ここから感じる」
また勘であった。
「ここからな」
「相変わらず物凄い勘ですね」
レポレロも呆れるばかりだった。
「相手がいる場所までわかるなんて」
「女のいる場所には独特のものがあるのだ」
これはジョヴァンニにしかわからないことだった。
「だからだ。今ここでな」
「じゃあまあやって下さい」
主の服を着ているレポレロは少し離れた場所でこう言うだけだった。
「お好きなように」
「うむ。それではな」
窓辺の下に来た。そうしてマンドリンを手に歌おうとする。だがここであの声が聞こえてきたのだった。
「鎮まるのです、私の邪な心よ」
「げっ、この声は」
今何処からか聞こえてきた声を聞いて顔を顰めさせたレポレロだった。
「ドンナ=エルヴィーラさんの声じゃないですか」
「胸の中で動揺するのは止めて。あの信仰を知らない裏切り者に憐れみを持ってはいけないのよ」
「まずいですよ、これは」
レポレロは顔を顰めさせて主に告げた。
「あの人とまた鉢合わせしたら」
「私はチャンスを逃がさない」
彼は言うのだった。
「御前はそこに立っていろ」
「ここにですか?」
「そうだ、ここだ」
自分の前に立たせるのだった。そしてそのうえで。
「エルヴィーラよ」
「えっ!?」
主が自分の後ろから大声でその最も会ってはならない相手の名前を言ったのを耳にして思わず声をあげた。
「今何て」
「私の愛する人よ」
「あの声は」
「そうだ。私だ」
さらに言うジョヴァンニだった。
「許しておくれ」
「神様、何ということでしょう」
エルヴィーラの声が感激したものになっていた。
「何という不思議な感激が私の胸に蘇るのでしょう」
「またあの人は」
レポレロはそんなエルヴィーラの声を聞いて顔を顰めさせた。
「まだ旦那のことを信用するのか」
「降りてくるのだ美しい宝よ」
ジョヴァンニはさらに言う。
「わかってくれるだろう、御前こそ私の心が恋焦がれるその人なのだ」
「私が」
「そう、そなただ」
その偽りでしかない言葉を続ける。
「私は後悔し続けているのだ」
「いえ、嘘よ」
流石にここでは疑念も生じさせたエルヴィーラだった。
「貴方を信じないわ、この悪党」
「信じてくれないのか」
「信じられないわ」
こう言うのも当然のことだった。エルヴィーラが言うのも。
「信じてくれないのなら私は死のう」
ここでも演じるジョヴァンニだった。
「今ここで」
「あのですね」
呆れ果てたレポレロはここでジョヴァンニに対して囁いた。
「これ以上続けたらあたしはもう笑ってしまいますよ」
「さあ、愛する人よ」
だがさらに言うジョヴァンニだった。
「ここにおいで」
「神よ、これは何という試練でしょう」
そう言われてまた嘆きの言葉を出すエルヴィーラだった。
「行くべきか止めるべきかわからない」
そしてこんなことも言った。
「御守り下さい、軽々しく信じてしまう私の心を」
「さて、これでいい」
ジョヴァンニはエルヴィーラの声が何処かに消えたのを確認して満足した笑みを浮かべた。
「陥落は時間の問題だ。私のようなことができるのはそうはいないぞ」
「嘘偽りの多いその口は女の人をたぶらかしてばかり」
レポレロはここでまた一人呟くのだった。
「神様はあの人の心を守ってくれるのかね」
「さて、どうなるかだな」
「旦那の心臓は青銅でできてるんですか?」
ジョヴァンニのあまりものやり方に思わずこう返すレポレロだった。
「本当に。どうなんですか?」
「あの女がここに来たらだ」
だがジョヴァンニはレポレロの皮肉に構わずに彼に言うのだった。
「行って抱いてやるのだ」
「抱けばいいんですね」
「そして二言か三言優しく囁くのだ」
「囁くんですね」
「私の声を真似てだ」
こうも言い加える。
「そしてあの女を何処か他のところに連れ出すのだ」
「若しそれであたしだってばれたらどうするんですか?」
「御前が上手くやれば気付くことはない」
また随分と無責任な言葉だった。
「御前さえ上手くやればな」
「あたしがって」
「さて、開いたぞ」
言っているそのそばからだ。そのエルヴィーラが今いる家の扉が開いたのだった。
「それではな」
「あたしがって」
「どうするか見ておいてやる」
完全にレポレロになりすますつもりであった。
「御前の姿でな」
「とんでもない山師だ」
「私はここよ」
エルヴィーラは闇夜でもわかる程に顔を赤らめさせていた。そのうえで扉から出て来たのである。
「ここにいるわよ」
そしてさらに言うのだった。
「私の涙がその心を清めたと信じていいのね。最愛のドン=ジョヴァンニは後悔して私のところに戻ってきたと。そう信じていいのね」
「その通りだ」
レポレロはジョヴァンニの口真似と声色を作って言うのだった。
「エルヴィーラよ」
「酷い人」
だがここでエルヴィーラはこうそのジョヴァンニだと思っているレポレロに対して言うのだった。
「私がどれだけ多くの涙を流し多くの溜息をついたのか知らないの?」
「私がか」
「そうよ、貴方がよ」
「気の毒に」
こう言ってエルヴィーラに歩み寄るレポレロだった。何とかジョヴァンニを演じている。
「だがもう」
「私をもう離さないのね」
「勿論だ」
ここでエルヴィーラを抱き締めるのだった。エルヴィーラは体格も背丈もジョヴァンニとは違うことにまだ気付いてはいなかった。
「このまま」
「いつも私だけのものでいてくれるのね」
「誓おう」
彼はまた答えた。
「今ここで」
「愛しい人」
その言葉を受けていよいよ感激するエルヴィーラだった。
「ならこのまま永遠に」
「まんざらではないかな」
この中でまた呟くレポレロだった。
「こんなお芝居も」
「私の宝」
「私の女神」
その呟きを止めてまた芝居に入るレポレロだった。
「もうこれで」
「私はもう熱くて燃えてしまいそう」
「それで灰になりそうだ」
「段々調子に乗ってきたな」
ジョヴァンニはそのレポレロの芝居を見て呟いた。
「どうしたものか」
「もう私を騙さないのね」
「絶対に」
「私に誓ってくれるかしら」
「誓うとも」
本当に調子に乗っているレポレロだった。
「夢中で口付けしてその手にかけて。そしてその美しい瞳に」
「やや、危ないですぞ」
今度はジョヴァンニがレポレロのふりをして言うのだった。
「追手だ。旦那、下手をしたら」
「ドン=ジョヴァンニ、ここは」
「う、うむ」
レポレロは自分をジョヴァンニと思っているエルヴィーラの言葉に頷くのだった。
「去りましょう、難を避ける為に」
「わかった。それでは」
こうして二人は姿を何処かへと消した。あとに残ったジョヴァンニは一人になったところで満足した笑みを浮かべて。そのうえで窓辺の下にまた立つのだった。
そうしてマンドリンを掲げて上を見上げて。歌いはじめるのだった。
「さあ窓辺においで私の宝よ」
こう歌うのだった。甘い声で。
「私の涙を慰めて欲しい。私に慰めを与えてくれないならば」
さらに歌う。
「貴女の目の前で死んでしまいたい」
これは偽りの言葉である。
「貴女のその口元は蜂蜜より甘く心は砂糖の様な甘さに満ちている」
これも同じだ。
「私の宝よ、これ以上来るしまさせないでその姿を見せて欲しい」
ここまで歌うとだった。窓辺に誰かが出て来ようとしていた。彼はそれを見て満足した笑みを受かべて一人こう呟くのであった。
「来たな、もう少しだ」
順調にいっていると思っていた。ところがこの夜道に。物騒な者達が来た。
「ここにいるかも知れないよ」
「ここに?」
「いるっていうんだねマゼット」
「うん、ひょっとしたらね」
マゼットが彼等の先頭にいる。見れば彼等はあの村人達だ。皆その手にそれぞれ銃やら棒やら持っていてかなり物騒である。
その彼等を見てジョヴァンニは。また呟くのだった。
「あれはマゼットか」
「待て、誰かいるな」
「気付いたか?」
「誰だ?そこにいるのは」
マゼットは小銃を手にそのジョヴァンニに問う。
「誰なんだ、一体」
「一人でもないし気をつけるか」
ジョヴァンニはそれを聞いてまたしても呟く。そうしてそのうえでマゼットに応えるのだった。
「貴方はマゼットですか?」
「そうだけれど」
「そうか、よかった」
ジョヴァンニはここでは芝居をしていた。
「それは何よりです」
「何よりだって?」
「わかりませんか?」
こう彼に対して言うのだった。
「私ですよ。あのドン=ジョヴァンニの召使の」
「あの男の召使というと」
「はい、レポレロです」
完全にレポレロになりきっていた。
「どうもです」
「そうか。貴方か」
彼はあまりレポレロには敵意を持っていないようである。それが彼に化けているジョヴァンニには好都合に働いたのであった。
「それではだ」
「ええ」
「貴方に聞きたいのですが」
やはり敵意は持っていなかった。穏やかな態度で聞いてきた。
「あの男は何処にいます?」
「旦那ですか」
「ええ。今何処に」
このことを尋ねてきたのだった。
「いるんでしょうか。それで」
「うちの旦那を探し出してどうされるんですか?」
「それはもう決まってますよ」
言わずもがなといった調子だった。
「あの男をとっちめる為にね。こうして銃やら棒やら持って探してるんですよ」
「ふん、できるものか」
ジョヴァンニはそれを聞いて内心馬鹿にした言葉を呟いた。
「私を殺すことなぞな。誰にもできるものか」
「それであの男は何処に」
「ええ、実はですね」
レポレロに戻って応える。
「私ももう旦那にはこりごりでしてね」
「それでどうされるんですか?」
「貴方達のお仲間に入れて下さい」
こう提案するのだった。
「是非。考えもありますし」
「考えですか」
「ええ。半分はあっちに」
夜道の一方を指差して村人達に告げる。
「他の人はあっちに」
続いてもう一方を。
「静かにそっと奴を探すんですよ。ここから遠くありません」
「そうか」
「なら」
「特にです」
彼はさらに彼等に告げるのだった。
「一組の男女が広場にですね」
「広場に」
「そう、広場の辺りを散歩していたらです」
二人がその辺りに言っていると察しをつけての言葉である。
「そして窓辺で恋を囁くのを聞いたら痛い目に逢わせてやるんですよ」
「ではそれが」
「ドン=ジョヴァンニ」
「ええ、そうです」
そしてここで頷いてみせるのだった。
「それがあたしの旦那ですよ」
「よし、わかった」
「それがか」
「頭には白い羽の付いた帽子を被って」
さらに言うのだった。
「腰には剣がありますからすぐにわかりますよ」
「よしっ!」
「じゃあ見つけて懲らしめてやる!」
「それでマゼット」
続いてマゼットにも声をかけるのだった。
「あんたはあたしと一緒にな」
「貴方とですか」
「後は我々でやって」
「それはどうして」
「何があるかすぐにわかるから」
己の魂胆は隠していた。
「だから。いいね」
「はい、わかりました」
マゼットは完全に彼をレポレロと信じて頷く。村人達はそれぞれ向かい後には二人になった。二人になるとレポレロに化けているジョヴァンニはマゼットに対して尋ねるのだった。
「それでですね」
「はい」
「旦那を殺すんですか?」
尋ねるのはこのことだった。実は自分のことをである。
「本当に。殺すんですか?」
「はい、そうです」
はっきりと答えるマゼットだった。
「それが何か?」
「あばらを痛めつけるか肩を砕いてやる位ではないんですか」
「いえ、殺してやります」
マゼットは怒りに満ちた声で言うのだった。
「絶対に。こうなったら」
「そうですか。それではです」
「ええ」
なおも彼をレポレロと信じて応える・
「その為の武器は」
「これです」
言いながら自分の銃をジョヴァンニに見せた。
「後はこれです」
「ピストルですね」
「この二つでとっちめてやりますよ」
怒りに満ちた言葉で述べるのだった。
「絶対にね」
「成程」
その銃とピストルを受け取りながら頷くジョヴァンニだった。
「この二つの他には」
「まだ足りませんか?」
「まあいいだろう」
「そうですか」
「ではうけとるのだ」
ここでいきなり銃とピストルでマゼットを殴りつけるのだった。
「痛っ!」
「これがピストルの分だ」
実際にピストルで殴っている。
「そしてこれがだ」
「うわっ!」
「銃の分だ」8
今度も銃で殴りつけていた。マゼットは殴られて倒れ伏した。ジョヴァンニはその彼をさらに銃とピストルで殴っていくのであった。
「止めてくれ、何なんだ」
「黙れ、当然の報いだ」
ジョヴァンニにすればまさにそうであった。
「これで許してやるから有り難く思え」
「何なんだ一体」
マゼットは何が何なのかわからないまま倒れ伏す。ジョヴァンニはそれを見届けてから姿を消す。その彼と入れ替わりに出て来たのはツェルリーナだった。
「マゼット!」
「えっ、ツェルリーナかい?」
それはツェルリーナだった。彼女はマゼットが倒れ伏しているのを見ると慌てて彼のところに駆け寄った。そしてすぐに彼の頭を抱き抱えるのだった。
「どうしたの、一体」
「レポレロにのされたんだ」
「レポレロっていうとあの」
「そうだ、あの悪党の召使だ」
彼はまだ自分を叩きのめしたのはレポレロだと思っている。
「あいつが僕を」
「大丈夫?」
「あまり大丈夫じゃないよ」
ツェルリーナに抱き締められたままの言葉だった。
「酷くやられたよ」
「それで何処が痛いの?」
「ここが」
まずは右肩を指差した。
「それにこことここも」
「随分やられたのね」
「うん、全くだよ」
右の腿と胸も指差しての言葉であった。
「左手も左足の甲も」
「けれど折れてもいないし曲がってもいないわ」
マゼットの指差した部分を見てとりあえずはほっとするツェルリーナだった。
「よかった。それじゃあ」
「それじゃあ?」
「一緒に帰りましょう」
にこりと笑ってマゼットに告げるのだった。
「一緒にね。帰りましょう」
「わかったよ。それじゃあ」
「あとこれからは」
さりげなく彼に対して囁くツェルリーナだった。
「もう焼き餅を焼いたりしないでね」
「わかったよ」
痛みの中で頷くマゼットだった。
「これでもうね」
「若し貴方がもっと賢くなったら」
こう言うのだった。
「よく効く薬をあげるわ」
「薬?」
「そうよ。天然自然の飲みにくくなくてお薬屋さんも知らないものよ」
マゼットを抱きながら話してみせる。
「私が持っているそのお薬はバルサモみたいなもので」
「バルサモみたいなものなんだ」
「そうよ。バルサモみたいなものよ」
バルサモとは気付けに使う香料のようなものである。
「貴方がそれを試したいのならね」
「うん」
「あげてもいいから。けれどね」
「けれど?」
「それが私の何処にあるのか知りたくはなくて?」
ここでふと話を変えてきたようなツェルリーナだった。
「私の何処にあるのか」
「君の何処かにあるのかって」
マゼットは今のツェルリーナの言葉に目をしばたかせた。彼女が何を言ってきたのかどうにもよくわからず困惑した顔にさえなっていた。
「それって一体」
「ほら、ここよ」
ツェルリーナはそのマゼットの手を取って自分の胸のところにやった。そうしてそのうえでさらに彼に対して言うのであった。
「ここにあるのよ」
「ここになんだ」
「なおったかしら」
さらに言うツェルリーナだった。
「これでもう」
「うん。それじゃあ」
「さあ、行きましょう」
ここでマゼットを立たせるのだった。
「そして帰りましょう」
「うん。それじゃあ」
二人は立ち上がってからそのうえでこの場を後にする。二人の仲は元に戻った。この頃レポレロはエルヴィーラと共に公園にいた。
「松明の灯りが大勢来ているな」
「ええ」
エルヴィーラはまだ彼がレポレロだとはわかっていない。それを考えればレポレロの演技もかなりのものである。少なくともエルヴィーラにはばれてはいない。
「隠れましょう」
「そうだな。あの松明達が行ってしまうまで」
「けれど」
ここでエルヴィーラはレポレロのあることに気付いたのだった。
「怖いの?」
「怖い?」
「そうよ。声が震えてるけれど」
エルヴィーラはこのことには気付いたのだった。
「どうしたの。いつもだったらこんな状況でも平気なのに」
「いや、別に」
今は誤魔化すレポレロだった。
「何もない。ただ」
「ただ?」
(困ったな)
これは心の中での言葉だった。
(どうやったらエルヴィーラさんから逃げられるかな。もう何時ばれるやら)
「そうだ」
レポレロは半ば自分に対しての言葉を出した。
「恋人よ」
「ええ。どうしたの?」
「ここにいて欲しい」
エルヴィーラを公園に置こうというのだ。
「ここにね。いて欲しいんだよ」
「私を置き去りにしないで」
彼女は反射的にそのことを拒んだ。
「一人にしないで。どうか」
「それはそうだけれど」
それを言われると弱るレポレロだった。エルヴィーラはまだ彼をジョヴァンニと思いながら弱い可憐な女の声を出してみせたのであった。
「暗い場所にただ一人でいると胸騒ぎがするの」
「胸騒ぎが」
「ええ。恐ろしさが私の胸を襲ってきて死んでしまいそうよ」
「けれど何か松明が」
見ればさらに近付いてきていた。
「どうしようか、本当に」
彼が困っているその時にオッターヴィオ達はあれこれと話をしていた。レポレロが見て震えている松明の主は彼等だった。見れば二人の周りにはアンナやオッターヴィオの家の者達が集まっていた。彼等も彼等で人を集めてそのうえでジョヴァンニを追っているのだ。
「愛しい人よ」
「はい」
アンナはオッターヴィオの言葉に応えていた。
「涙を拭って下さい」
「わかっています」
今彼女は何とか涙を抑えていた。そのうえでオッターヴィオに応える。
「それは」
「もうすぐですから」
オッターヴィオはこうもアンナに言うのだった。
「御父上の仇を取れるのは」
「そうですね。それでは」
アンナはオッターヴィオのその言葉にこくりと頷いた。
「あと少しだけの我慢ですから」
その間にレポレロは何とか逃げようとしていた。彼も彼なりに必死である。しかしその必死な彼のところにやって来たのはマゼットとツェルリーナであった。村人達も一緒である。
「遂に見つけたぞ悪党」
「ここにいたのね」
「んっ!?マゼット君じゃないか」
「ツェルリーナちゃんもいるわ」
ここで二人は彼等に気付いたのであった。
「もう追い詰めているな」
「それじゃあ私達も」
二人は自分の家の者達を連れて前に出た。そうしてジョヴァンニに化けているレポレロを取り囲んでしまったのだった。
「さて、どうするんだ?」
「悔い改めるのかしら」
マゼットとツェルリーナが彼を問い詰める。
「罪を悔いて修道院に入るのか」
「それともここで成敗されるの?」
「待って下さい」
だがここでエルヴィーラが出て来て彼等とレポレロの間に入るのだった。
「どうかここは」
「えっ、エルヴィーラさん」
「貴女がどうしてここに」
オッターヴィオとアンナは彼女が出て来たのを見て驚きの声をあげた。
「お姿が見えないと思ったら」
「どうしてなのですか?」
彼等はエルヴィーラには驚いた。しかしであった。オッターヴィオはここで厳しい言葉をあえて出すのであった。
「この悪党はやっぱり成敗しなければ」
「そうです。何があっても」
「えっ、成敗!?」
それを言われて蒼ざめた声を出すレポレロだった。
「じゃああたしはここで」
「あたし!?」
皆今の一人称にいぶかしむ顔になった。
「この悪党があたし!?」
「どういうことなの!?」
「殺されるのだけは御免だよ」
今度はこう言うレポレロだった。そして。
羽根帽子とマントを取って姿を見せて。こう彼等に言うのだった。
「お許し下さい皆様」
「レポレロさん!?」
「間違いないわ」
「私はレポレロです」
驚く彼等にまた告げるのだった。
「何とぞ命ばかりは。どうかお助け下さい」
「まさかこれは」
「かつがれたのか?僕達は」
「何とか命だけは持って逃げないと」
レポレロは今は何としても助かろうと必死だった。
「そうしないと本当に殺されてしまう」
「まさかこんなことになるなんて」
「何が何なの?」
皆もこれには面食らっている。しかしその中でツェルリーナはレポレロに対して尋ねた。
「さっきマゼットを酷い目に遭わせたのは」
「私をあざむいたのね」
エルヴィーラも言うのだった。
「まさか」
「しかも何かをしでかす為にここに来たのか」
オッターヴィオはこのことをレポレロに問うた。
「どうしてなんだ?」
「もう許さないわ」
「私もよ」
エルヴィーラとツェルリーナは本気で怒っていた。
「もう絶対に」
「覚悟しなさい」
「いや、僕にやらせてくれ」
オッターヴィオも名乗り出るのだった。
「この男は許せない」
「いえ、僕がやり返します」
レポレロがとりわけ怒っていた。
「さっきはよくもやってくれたな」
「ですから私じゃないですよ。許して下さい」
レポレロはその彼等に囲まれながら必死に泣いて懇願していた。
「お慈悲を、どうかお慈悲を」
「お慈悲をって」
「またそんなに謝って」
皆まずはレポレロのその泣いて懇願する姿に拍子抜けしてしまった。
「はいつくばってまで」
「そこまでしなくても」
「訳をお話します。しかしですね」
「しかし?」
「あたしがやったんじゃないですよ」
このことを必死に言うのだった。
「エルヴィーラさん」
「え、ええ」
「ずっと最初にいましたよね」
エルヴィーラにアリバイの証言を頼むのだった、
「一緒に。それにです」
彼はさらに言うのだった。
「ツェルリーナさん」
「どうしたの?」
「マゼットさんのことは知りませんし」
それは本当に彼の知らないことである。だから本気で話すのだった。
「ずっとエルヴィーラさんと御一緒だったんですよ。それで何ができるっていうんですか」
「そういえば確かに」
「言われてみれば」
ここで皆顔を見合わせて言い合うのだった。
「その通りよね」
「そうだね」
「オッターヴィオさん」
オッターヴィオに対しても言うレポレロだった。
「信じてくれますよね、アンナさんも」
「どう見たって嘘をついてるようには見えないし」
「そうよね」
オッターヴィオもアンナもそれは肌でわかった。
「彼は今は」
「そこまで演技が上手ではないみたいだし」
そうしたところまで見抜くアンナだった。
「これはどうも」
「その通りね」
「化けていたことは申し訳ありません」
レポレロはまだ平身低頭だった。
「本当にすいませんでした!」
そして隙を見ていきなり立ち上がり全速力で逃げ出した。それはまさに脱兎の如くであった。
「あっ」
「もう逃げた」
皆またしても唖然となった。今度はレポレロの逃げ足の速さにだ。
「それにしても何て速い」
「もういなくなったわ」
「皆さん」
その中でオッターヴィオが一同に告げてきた。
「あの男がアンナの御父上を殺した犯人であることは間違いありません」
「そうですね」
「確かに」
ツェルリーナとマゼットが今の彼の言葉に頷いた。
「さもなければあんな小細工はしませんね」
「ではやっぱり」
「まず訴えるべきです」
オッターヴィオの考えてそのうえで述べることは常識の中でのことであった。
「そのうえで復讐を果たすことを約束します。神の御守護と義務と恋の求めによって」
そのうえで彼は言うのであった。
「その間に僕の恋人を慰めて下さい。そしてその美しい睫毛の涙を乾かして欲しいのです。そして」
「そして?」
「彼女に告げて下さい」
さらに言葉を続ける。
「僕があの男の悪事に復讐することを。あの男が死んだという知らせだけを持って皆さんのところに帰って来るということを」
「ええ。それじゃあ」
「私達も協力させて下さい」
マゼットとツェルリーナは彼の今の言葉を受けて協力を申し出たのだった。
「殿様、僕も及ばずながら」
「私もです」
「それは有り難い」
オッターヴィオは二人の協力の申し出に満面の笑顔になった。
「ではマゼット君、ツェルリーナさん」
「はい」
「どうか」
「行こう、皆で」
アンナも当然一緒であり村人や家の者達と共にまたジョヴァンニを探しに向かうのだった。
そこに残っているのはエルヴィーラ一人だった。一人になった彼女は思い詰めた顔になって言うのであった。
「あの男は何という罪を犯したのでしょう」
声もまた思い詰めたものになっていた。
「天の裁きも近いでしょう。既にあの人の頭上には運命の雷が落ち」
ジョヴァンニが裁かれる姿を脳裏に思い浮かべる。
「死の淵が口を開いているわ。けれど私は」
思い詰めたものがさらに深くなっていた。
「どうして裁かれて欲しいと思いながらも救われて欲しいと思えるのかしら」
呟きながらさらに。言葉を続けるのであった。
「あの男は私を欺いてまた不幸を与えたというのに。私は裏切られ捨てられたというのに」
辛い顔での言葉であった。
「それでも私はあの人の為に慈悲を請いたい。私が苦しみに遭うと復讐を欲するのに彼の苦しみを思うと私の心は胸騒ぎを覚える。どうしてなのかしら」
最後にふう、と溜息をついてその場を後にする。そして彼女もこの場を後にするのであった。
悠々と逃げ延びているジョヴァンニは低い塀をひらりと飛び越えて墓地に出た。夜の墓地はしんと静まり返り何もない。あるのは立ち並ぶ石の墓標達だけであった。彼はその中に入ったのである。
「さて」
ジョヴァンニは明るい月明かりの中で呟いた。
「レポレロはどうなったかな」
「旦那、ここだったんですか」
「おお、いいところで会ったな」
そのレポレロが来たのを見ての言葉である。
「無事なようだね」
「奇跡でしたよ」
レポレロはまたしても忌々しげに言葉を返してみせた。
「全く。どういうことなんですか」
「どういうこととは?」
「危うく殺されるところだったんですよ」
口を尖らせながらの言葉であった。
「本当にね。危なかったですよ」
「しかし生きているな」
「運がよかったですよ」
このことは強く実感しているレポレロだった。
「全く以って」
「うむ。それではその幸運に応えて御前に褒美をやろう」
「褒美っていいますと?」
「面白い話だ」
それが褒美だというのである。
「それを話してやるがどうだ?」
「それってあれですよね」
レポレロにはそれが何なのかすぐにわかった。
「女の話ですよね」
「それでだ」
レポレロの問い詰めをよそに話をはじめてみせるジョヴァンニであった。その話とは。
「先程道で若くて美しくて華やかな娘に出会った」
「またですか」
「その娘を追い掛けて手を取ったのだが」
「それでどうなったんですか?」
「私から逃げようとする。しかし声をかけたら」
「はい、声をかけたら」
何だかんだで主の話を聞くレポレロだった。もう顔を向けてもいた。
「どうなったですか?」
「私と御前を取り違えたのだ」
楽しそうにレポレロに対して話すのだった。
「御前とな。どうだ」
「何でまたあたしと」
レポレロはそれを聞いて首を傾げさせた。それがどうしてかわかりかねたのだ。
「旦那を間違えたんでしょう」
「まあ話はまだ続く」
ジョヴァンニは笑ったまま彼に対してさらに話すのであった。
「それからその娘はな」
「ええ」
「私の手を取ってだ」
実際に手を取られる動作もしてみせるジョヴァンニであった。
「私に対して言ってきた。私の愛しいレポレロとな」
「!?まさか」
ここで眉を顰めさせるレポレロだった。
「それは」
「それだ。貴方は私の愛しい人とな」
また話すのだった。
「御前も隅に置けないものだ」
「ええ、確かにいますけれど」
レポレロはその眉を顰めさせたまま主に言葉を返したのだった。
「あたしにも。女房以外にもね」
「何時の間にそんな相手がいたんだ?確か御前の奥方はもっと歳を取っていた筈だな」
「そうですよ。あたしと同じ歳ですよ」
彼にもちゃんと女房がいるようである。
「それはね」
「そして恋人もか」
「そうですよ、いますよ」
居直っ返答であった。
「けれどそれがどうしたんですか」
「大したものだ。わしの従者だけはある」
ジョヴァンニはここではそのレポレロを褒めていた。
「しかし人の気配を感じてここに来たからな」
「何もなかったんですね」
「何かあればよかったのだがな」
「御冗談を」
今のレポレロの言葉は本気であった。
「あれは洒落になりませんよ」
「いやいや、結構なことだそれも」
だがジョヴァンニは大笑いしてこう言葉を返すのだった。
「それもな。それはそれで面白いではないか」
「その笑いもだ」
しかしここで、であった。
「この夜の明けぬうちに終わるだろう」
「むっ!?」
ジョヴァンニは今聞こえた言葉にふと動きを止めた。そしてレポレロに対して問うのであった。
「今喋ったか?」
「いいえ」
レポレロは首を横に振ってそれを否定した。
「あたしは何も」
「では何者の声だ?今のは」
「まさか」
ここでレポレロは血相を変えて言うのであった。
「旦那をよく知っている他の世界の霊とかじゃないんですか?」
「馬鹿を言え」
ジョヴァンニはそれは怒りの声で否定した、
「そんなことがあるものか」
「大胆不敵な悪党よ」
「そこにいるのか」
また声がした。それはジョヴァンニの背中からであった。すぐにそちらを振り向き問うのであった。
「何者だ、一体」
「死者に安らぎを」
また声がした。ジョヴァンニはもうその剣に手をかけている。
「何処にいるのだ」
「ほら、やっぱりそうじゃないですか」
ここが墓地ということもあり。レポレロは震える声で言うのであった。
「これはやっぱり」
「私をからかっているのだな」
だがジョヴァンニはこう考えていた。そして自分の後ろに立っている石像を見た。それは。
「これはあれだな」
「ええ、あの人ですね」
「あの騎士長だ」
彼だというのである。見ればそれはまさにあの騎士長の石像であった。
「もう葬られていたのか」
「というか生きている間にお墓まで用意していたんですか」
実に用意がいいと言えることであった。
「それですぐに葬られて」
「ふむ。それでレポレロよ」
「はい」
「御前は読み書きができるな」
だからこそ傍にいつも置いているのだ。レポレロはジョヴァンニの秘書的な役割も果たしているのである。
「確かな」
「その通りですけれど」
「ではこの碑銘を読んでみるのだ」
石像の下に書かれている碑銘を指し示して彼に命じるのだった。
「この碑銘をな」
「暗くてどうも」
「目は慣れてきていないか?」
「まあ一応は」
その碑銘を見ながら主に答えている。
「ええとですね」
「うむ。何と書いてあるのだ?」
「わしをこの世の果てに追い悪辣な者に」
まずはこう書かれているのであった。
「ここで復讐を待つ・・・・・・これって」
「ふん、言うものだ」
ここまで読んでその言葉に暗い顔になるレポレロであったがジョヴァンニはいつものように平然として返すのであった。
「それではだ」
「ここを去られた方がいいと思いますけれど」
「馬鹿を言え」
やはりそうはしないのであった。
「それではだ」
「それでは?」
「この石像に言おう」
その石像を見上げての言葉であった。
「これから宴に招こうとな」
「えっ、本気ですか!?」
「そうだ、本気だ」
ジョヴァンニは顎が外れんばかりに驚くレポレロに対して平然と答えた。
「私は本気だ」
「そんな。あれを見て下さいよ」
レポレロは主のその言葉に対して震える手で石像を指し示して言うのだった。
「あの目を」
「目をか」
「あたし達を見てるじゃないですか」
見ればその通りだった。確かに二人を見下ろしてきている。
「それでもですか?」
「そうだ。それでもだ」
「今にも動いて言葉を出してきそうだ」
「それならそれで面白い」
ジョヴァンニの態度は変わらない。
「では伝えよ」
「勘弁して欲しいですよ」
「言えば金貨五枚だ」
「わかりましたよ」
褒美に弱いレポレロの性格をよく知っているジョヴァンニの作戦勝ちであった。
「それじゃあですね」
「伝えるのだ」
「あのですね」
こう前置きしてから語るレポレロだった。
「偉大なる騎士長殿であられた高貴な石像様」
こう彼に声をかける。しかしここで言葉を止めて。
「やっぱりもう怖くて言えませんよ」
「金貨六枚でどうだ」
「六枚ですか」
「そうだ。これではどうだ」
「わかりましたよ」
やはりお金に弱いレポレロであった。それに頷きもう一度言うのであった。
「無茶で寒気がしますけれど」
「涼しくなっていいではないか」
ジョヴァンニだけが平気であった。
「六枚だぞ」
「わかってますよ。それでですね」
お金につられてまた言葉を出すレポレロであった。
「大理石でできているとはいえうちの旦那が呼んでいまして」
「覚えているな」
ジョヴァンニは石像を見上げて告げた。
「私のことは」
「・・・・・・・・・」
石像は答えない。だが恐ろしい目で見下ろしているように見える。
レポレロはその間にもう一度気を取り直して。また言うのであった。
「あたしじゃなくて旦那が貴方を宴にお招きしたいというんですよ」
「・・・・・・・・・」
「うわあっ!」
今の石像を見て。レポレロは飛び上がってしまった。
「旦那、今の見ましたよね!」
「見たぞ」
ジョヴァンニに顔を向けて必死に言うと彼はここでも平然としていた。
「頷いたな」
「頷いたじゃないですか」
「その通りだ」
そしてまたしても。騎士長の声が聞こえてきたのだった。
「今私は確かに頷いた」
「やっぱり。何と恐ろしい」
「ふむ、言葉を出せるなやはり」
ジョヴァンニだけが平然な調子が続く。
「では答えてもらいたいものだ」
「もう一度あの恐ろしい声を聞きたいんですか!?」
「構わん」
レポレロにもこう返す。
「それはな」
「無茶にも程がある」
「卿は宴に来るのか?」
「身体が言うことを聞かない」
レポレロはその身体をがたがたと震わせていた。
「息が止まりそうだ。もう逃げ去ってしまいたい」
「この石像が宴に来る」
「来ないで欲しいですよ」
「全く不思議な話だ」
ジョヴァンニは石像を見上げたままさらに言うのだった。
「では仕度をはじめよう」
「お屋敷でですね」
「そうだ。では行くぞ」
こうしてジョヴァンニは腰が抜けそうになっているレポレロを引き摺ってそのうえで自身の屋敷に戻った。その頃アンナとオッターヴィオはジョヴァンニの屋敷に向かいながら話をしていた。
「もうすぐですね」
「もうすぐであの男の屋敷に」
「そうです」
先程と同じやり取りであった。
「もうすぐです。神の思し召しが私達に与えられるのは」
「御父様の仇を」
「貴女が失われた堪え難いものは」
「それは」
「若し貴女が望まれるならばですが」
オッターヴィオは謙虚に言葉を出してきた。
「僕の心と手と愛情で明日には優しく清められます」
「今はそうしたことを言う時では」
ないとアンナは言う。オッターヴィオはそのアンナにさらに言うのだった。
「ですがそれは」
「それは?」
「貴女が新しい悲しみで僕の深い悲しみをさらに深めようとするものです」
「貴方の悲しみを」
「そうです。それは酷いことです」
辛い顔でアンナを見ながら告げたのだった。
「それは」
「私が酷い人だというのね」
アンナは今のオッターヴィオの言葉を受けてさらに辛い顔になった。
「私は貴方のことを最も大切に思っているのに」
「大切に」
「そうよ。貴方だからよ」
オッターヴィオの目を見詰めての言葉だった。
「けれど今は」
「今は」
「愛を語れません」
こう彼に告げるのだった。
「今の私には」
「アンナ・・・・・・」
「言わないで」
その辛い顔でオッターヴィオに告げた。
「貴方は私にとってかけがえのない人」
「はい」
「冷たくなんてしないわ。現に私は貴方とずっと共にいたい」
「それはわかっています」
二人は互いの感情を確かめ合った。
「ですが」
「私の真心も貴方の苦しみを鎮めたい」
こう願ってはいるのだ。
「若し貴方がその深い悲しみで私を救って下さるのなら」
「そうならば」
「神が御覧になられています」
神をその言葉に出してみせてまで語るのであった。
「私達に対して御加護を与えて下さるでしょう」
「では僕はです」
オッターヴィオはアンナの今の深い悲しみを知り彼女自身に告げるのだった。
「貴女の歩みに従おう」
「頷いて下さるのね」
「僕は貴女の為にあります」
跪くようにしての言葉であった。
「ですから」
「ですから」
「共に苦しみを分かち合いましょう。その溜息も共に」
「有り難う」
今はオッターヴィオのその言葉に頷くアンナだった。
「私のこの悲しみを受け止めてくれて」
「受け止めない筈がありません」
彼は最初からこのことを覚悟しているようであった。
「だからこそここにいるのですから」
「有り難うございます」
「いえ」
二人は抱き締め合った。その悲しみは癒えないまでも。それでも互いの温もりは感じ合うのであった。
ジョヴァンニは今は広間にいた。村人達を招いたあの舞踏の間ではなかった。今はそこにいて大きなテーブルを出させて美酒と御馳走を前にしていた。
「さて、用意はできたな」
「ええ、それはもう」
レポレロが彼の傍に立って頷く。
「できましたけれど」
召使達が蝋燭にも火を点けていく。そうして灯りが点いた中でさらに話をしていくのであった。
「では次は音楽だ」
「はい、どうぞ」
後ろに控えていた楽師達がレポレロの言葉と指揮者のはじまりを受けて演奏をはじめた。
ジョヴァンニはここで席に着く。そうして楽師達に顔を向けて告げるのだった。
「曲はだ」
「曲は」
「コシ=ファン=トゥッテだ」
「コシですか」
「そうだ。女は皆そうする」
こうレポレロに対して述べた。
「それを頼む」
「旦那はあのオペラが好きですね」
「大好きだな」
応えながら今は馳走を食べている。
「それにしてもこの料理はだ」
「料理人の自慢のものですが」
「美味いな」
御満悦といった様子であった。
「実にな」
「そうですか。それは何よりです」
「酒はだ」
「ええ。お酒は」
「マルツィミーノを頼む」
それだというのである。
「それをな」
「わかりました。どうぞ」
「うむ」
グラスにレポレロがその酒を注ぐのを見守る。レポレロはそれが終わるとこっそりと雉肉を焼いたものをつまみ食いするがジョヴァンニは見て見ぬふりをするのだった。
そしてそのうえで彼は。曲が変わったのを聴いて言うのだった。
「これはあれだったな」
「そうです、フィガロの結婚です」
そのオペラの曲なのだった。
「それのアリアですね」
「もう飛ぶまいこの蝶々か」
その曲だとわかっているのだった。
「いい曲だな」
「この曲を作った人は天才ですね」
「その通りだ。永遠に名前が残るな」
ここまで褒めるモーツァルトだった。
「それで」
「はい」
「ところでだ」
ここでジョヴァンニは口一杯に頬張るレポレロに対して意地悪を仕掛けてきた。
「今口笛を吹けるか?」
「えっ、口笛をですか」
「そうだ。吹けるか?」
美酒を楽しみながら相手を横目に見つつ問うのだった。
「今吹けるか」
「いえ、それは」
それを尋ねられてしどろもどろになるレポレロであった。
「ちょっと」
「できないのか」
「あのですね」
言い訳がましい様子にもなる。
「あたしはですね」
「できないのか」
「すいません、ちょっと」
「ふん、まあいい」
わかっていて仕掛けているからここで止めてやるのだった。
「それではな」
「やっぱりここにいたのね」
ジョヴァンニが意地悪を止めたところで。またエルヴィーラが彼のところに駆け込んできたのだった。レポレロはぎょっとなっているがやはりジョヴァンニは平気である。
「ここに」
「今度は何の用だ?」
「私の愛の最後の試練を」
エルヴィーラは思い詰めた顔でジョヴァンニに告げるのだった。
「貴方と試したい為にここに来たわ」
「またそのことか」
「貴方の嘘と偽りは忘れます」
それも流すとまで告げた。
「ですから」
「ですから。何だ?」
「貴方と共に」
こうも彼に告げるのだった。
「永遠に」
「それで私に何を望むというのだ?」
ジョヴァンニは彼女が己に何かを求めているのを察していた。そうしてそのうえで問うたのである。
「何をだ?一体」
「生活を変えて」
彼女の願いはそれであった。
「是非。もう今の様な生活は」
「それは無理だな」
ジョヴァンニは表情を変えずに答えた。
「絶対にな」
「そうやって何時か天罰を受けるというの!?」
「神なぞいはしない」
ジョヴァンニはエルヴィーラの忠告を無視した。
「そんなものはな」
「旦那もそこまでやるのかね」
レポレロは感心しながらも呆れてもいた。
「全く。ここまできたら意固地ってやつだよ」
「快楽あっての人生だ」
そしてジョヴァンニは言うのだった。
「美酒と飽食あっての人生だ」
「その考えが駄目なのよ」
「そして何よりも美女だ」
エルヴィーラの必死の言葉も聞いてはいない。
「そういったものがなくて何が人生なのだ」
「う、うわあっ!」
「何だあれは!」
今度は部屋にいた召使達と楽師達が蒼ざめた声をあげて必死に逃げた。そしてエルヴィーラも後ろを振り向いて蒼白になった。
「まさか。そんな」
そして後ずさりしてそのうえで。彼女も去るのだった。
「あのエルヴィーラさんが逃げ去った!?」
「確かにな」
レポレロとジョヴァンニは今の彼女を見て述べた。
「あの人が逃げ去るなんて」
「何が起こったのだ?」
「う、うわ・・・・・・」
次の瞬間にはレポレロも蒼白になって声を震わせた。
「本当に来た・・・・・・」
「何が来たのだ?」
「旦那、悪いことは言いません」
その蒼白の顔でかつ必死になってジョヴァンニに告げるのだった。
「今すぐここから逃げるべきですよ」
「逃げるだと?何からだ?」
「だから来たんですよ」
前を見据えて蛇に睨まれた蛙の顔になっていた。
「あの方が」
「ふむ。あれは」
ここでジョヴァンニは部屋の扉の方を見た。そこから出て来たのは。
「ドン=ジョヴァンニよ」
「ふむ、来たか」
「宴に招かれたので来た」
「き、来た!」
遂に飛び上がったレポレロだった。
「もうこれで。逃げられない!」
これで彼は逃げ出そうとするができなかった。仕方なくテーブルの下に逃げ込む。それで必死に難を逃れようとするのであった。
これで二人だけになった。ジョヴァンニと騎士長は部屋で対峙した。ジョヴァンニは己の席に座っており騎士長は立っている。互いに見やっている。
「さて、それではだ」
「うむ」
「まずは来てくれて何よりだ」
ジョヴァンニは騎士長を見据えたまま言うのだった。
「それではだ。レポレロ」
「いえ、いませんよ」
レポレロはここでは必死に自分がいないものとしようとした。
「いませんよ、何処にも」
「馬鹿を言え」
だがそんな言い逃れが通用する状況ではなかった。ジョヴァンニに無理矢理テーブルの下から引き出されるのであった。
「そんなことができるものか」
「できるものかって」
「出るのだ」
丁度ジョヴァンニの傍にいたので座ったままの彼に右手で引き摺り出された。
「そして食事をもう一人前だ」
「あの、誰もいませんけれど」
「だから御前が持って来るのだ」
何を言っている、といった態度であった。
「すぐにな。いいな」
「わ、わかりました」
「待つのだ」
だが騎士長は行きかけたそのレポレロを呼び止めるのだった。
「私には必要がない」
「そりゃまたどうしてですか?」
「私は天上の食べ物を食べる者だ」
だからだというのである。
「地上のものはいらぬ」
「いらないんですか」
「それとは別の重大な考えと他の願いが私をここに導いたのだ」
「卿をか」
「そうだ」
ジョヴァンニの問いにも答えるのだった。
「その通りだ」
「駄目だ、腰が抜けちまった」
レポレロは完全に動けなくなってしまった。
「何て恐ろしいことになったんだ」
「ではその願いとは何だ」
ジョヴァンニは騎士長に対して問うのであった。
「それは何だ」
「そなたはわたしをこの宴に招いてくれたな」
「如何にも」
ジョヴァンニはこう騎士長に返した。
「それがどうかしたか」
「私はそなたの為すべきことも知っている」
騎士長はまた言ってきた。
「だからこそ答えるのだ」
「何をだ?」
「私の場所に晩餐に来るのか」
彼に誘いをかけてきた。
「私の場所に。どうだ?」
「ふむ。卿の晩餐にか」
「どうするのだ?」
「断るに決まってますよね」
レポレロは何とかテーブルに手をかけてそのうえで立って主に問うた。
「こんなお誘いは」
「決まっている」
ジョヴァンニはその彼の方を振り向かずに述べた。
「それはな」
「嫌ですよね」
レポレロは絶対にこう答えて欲しかったのだ。
「こんなお誘い絶対に」
「絶対に?」
「そうです、絶対に断りましょう」
こう主に告げ続ける。
「本当に。恐ろしいことになりますよ」
「だからもう私は決めている」
やはりレポレロの方を振り向かないジョヴァンニであった。
「私は行く」
「えっ!?」
レポレロはここでいよいよ血相を変えた。蒼白な状態から今度は卒倒しそうになった。
「じゃあ旦那は」
「招いてくれて礼を言う」
ジョヴァンニは立ち上がり騎士長の方に歩み寄る。レポレロは硬直してしまっている。
「それではだ」
「約束の証にだ」
騎士長は己に近付いてくるジョヴァンニに告げるのだった。
「私に手を預けてもらいたい」
「いいだろう」
その言葉に従い手を預ける。するとその騎士長の手は。
「石の手か」
「そうだ」
地の底から響き渡る様な声だった。
「逃れないのか?」
「行った筈だ」
その石の手に掴まれてもまだ平然としているジョヴァンニであった。
「私は行くと」
「では告げよう」
そのジョヴァンニの言葉を受けてさらに言う騎士長であった。
「今の生活を止めよ」
エルヴィーラと同じことを告げるのだった。
「今の生活をだ。懺悔をしてな」
「私に懺悔をせよというのか」
「そうだ」
やはりそれだというのだ。
「最早猶予はならん」
「私は悔い改めない」
だがそれでもジョヴァンニはこう答えるのだった。
「決してな」
「悔い改めるのだ、悪党よ」
騎士長はなおも彼に告げる。
「さもなければだ」
「どうだというのだ」
「御前の行く場所は一つしかない」
地の底から響き渡る様な声がまた響いた。
「それはだ」
「だから旦那」
レポレロも後ろから必死に主に告げる。
「もうここまで来たら」
「言った筈だ」
ジョヴァンニは蒼白にすらなっていない。手を掴まれてもそのまま立っていた。
そうして。彼は言うのだった。
「嫌だとな」
「何て無茶苦茶な」
レポレロは今度は完全に呆れていた。
「本当にこのままだとどうなるか」
「時間はない」
また騎士長が告げてきた。
「その証に見るのだ」
「な、ななななななっ!!」
レポレロはまた驚きの声をあげた。騎士長が消えると辺り一面紅蓮の炎に包まれ。そして地が割れそこから不気味な声が聞こえてきたのだ。
「貴様の罪を悔い改めるのだ」
「さもなければ我等が引き立てていこうぞ」
「これは悪霊達か」
ジョヴァンニはもう自由になっていた。しかしそれでもまだ退こうとはしない。その場に立ち炎に囲まれたうえで立っているのである。
「地獄の悪霊達か」
「そうだ、その通りだ」
「どうするのだ?」
恐ろしい声が響いてくる。
「悔い改めるのか?」
「どうするのだ」
「例え魂を引き裂かれようとも」
だがジョヴァンニはその悪霊達に対しても言うのだった。
「身体を潰されようともだ」
「旦那、本当にこのままじゃ」
レポレロは主の結末を見た。
「地獄に」
「さあ、どうするのだ?」
「生き方をあらためるのか」
「馬鹿を言え」
ジョヴァンニは毅然として返した。
「悔い改める位ならばだ」
「どうするのだ?」
「地獄か?」
「そうだ、地獄だ」
彼は毅然として言うのだった。
「地獄に行ってやろう。喜んでな」
「よかろう」
「それではだ」
無数の悪霊達が地の底から姿を現わしてきた。どれも人か魔物かわからない異形の姿をしている。その彼等がジョヴァンニを取り囲んだ。
次の瞬間には炎がジョヴァンニと魔物達を取り囲む。しかしその中でもジョヴァンニはその態度を変えていなかった。
「地獄にも美女達はいるだろう」
笑ってさえいた。不敵な笑みである。
「ならば私はその美女達と遊ぼうぞ」
「いいだろう」
「ではそうするがいい」
こうしてジョヴァンニは悪霊達と共に紅蓮の炎の中に消えた。すると炎は消え部屋は元に戻った。後には呆然となるレポレロだけが残された。
そしてこの場に。残された者達が来たのだった。
「さあ、遂に追い詰めたぞ」
「悪党、覚悟しなさい!」
まずはマゼットとツェルリーナが言う。
「叩きのめしてやるからな」
「とっちめてやらないと気が済まないわ」
「その通りです」
アンナも言うのだった。
「あの男を鎖につないでやります」
「そう、この僕の手で」
オッターヴィオはその手に銃を、腰に剣を持っている。何時でも戦えるようにしてあった。
「捕まえてやる。若し逃げようとするならば」
「いえ、あの方は逃げませんよ」
だがここでレポレロが言うのだった。
「というか逃げられなくなりました」
「!?それは」
「どういうことなんだ?」
「貴方達が探しているあの方はですね」
さらに彼等に話すのであった。
「遠くへ行ってしまいました」
「遠くに!?」
「一体何処に」
「恐ろしい人が来ました」
彼は震えた。あの時のことを思い出したのだ。そうしてその中で語るのであった。
「あの石像が」
「石像!?」
「若しかして」
オッターヴィオはいぶかしんだがアンナにはすぐわかったのだった。
「御父様が」
「はい、そうです」
「そうだったの」
ここで遅れてやって来たエルヴィーラが頷いた。
「あの恐ろしい石像はアンナさんの」
「そうだったんですよ。あの方に悔い改めよと迫って」
「それで?」
「どうなったんだ?」
「あの方は悔い改められるのを拒まれて」
このことも話すのだった。
「そして」
「そして?」
皆身を乗り出さんばかりにしてさらにレポレロに問うた。
「地獄の炎から悪霊達が出て来まして」
「悪霊達が」
「まさか」
「そのまさかですよ」
レポレロはそれを否定しなかった。しなかったというよりはできなかった。何しろ他ならぬ自分自身が見たものであったからだ。できる筈がなかった。
「出て来てそれで地獄に引き込んだのです」
「何ということ」
「恐ろしいこと」
「あの方は堂々と行かれましたよ」
自分でもわからなかったがジョヴァンニの最期まで話すレポレロであった。
「地獄にも美女がいるだろうと仰って」
「そう。あの人らしいわ」
それを聞いて何故か納得するエルヴィーラであった。
「それもまた」
「全ては天が復讐してくれたんだ」
オッターヴィオはこうは言うがそれでも少し寂しそうであった。
「僕はこれでもう安らぎを得た」
「そうね」
アンナも何処か力が抜けてしまった感じであった。
「もうこれで」
「アンナ、僕達を悩ませるものはもうなくなったよ」
「ええ」
その力が抜けてしまった感じが続くアンナであった。頷いてもそうであった。
「そうね。本当に」
「じゃあこれで僕達は」
「少し待って」
婚礼に関してはこう返すのだった。
「それは。少し待って欲しいの」
「それはどうしてなんだい?」
「まだ悲しみは完全に消えていないから」
だからだというのである。
「だから。御願い」
「そうだね」
アンナのその申し出に何故かオッターヴィオも素直に頷いた。若さ故の性急さは何処かに消えてしまっていた。
「恋する人は愛する人の望みに従わないといけないからね」
「私は修道院に入りましょう」
エルヴィーラの言葉にも感情が薄れていた。
「そしてそこでもうずっと」
「ツェルリーナ」
「マゼット」
彼等はお互いに顔を見合わせていた。しかし先程までより楽しそうではなかった。
「じゃあ家に帰って」
「そうね。幸せな生活をはじめましょう」
「あたしも少し休んで」
レポレロは面白そうではなかった。それが何故かは自分でもわからないようである。
「それから新しい旦那を探すとするか」
「あの悪党は死んだけれど」
「地獄に落ちたけれど」
そして皆で言い合うのだった。
「死んでしまうとどうにも」
「味気ないものですね」
「罪深い者は報いを受けるけれど」
「いなくなったらいなくなったで」
「まことに寂しいもの」
「全く以って」
そして全員で言うのであった。
「いなければいないで」
「味気なくなるものなのかしら」
皆何処かジョヴァンニを懐かしむのであった。悪党ではあっても。今彼は地獄で美女達を探し悪霊達と剣を交えているのではないかと思いながら。何処か懐かしんでいるのであった。
ドン=ジョヴァンニ 完
2009・8・12
いやー、去り際までらしいと感じたな。
美姫 「寧ろ反省はしてない、って感じだったわね」
本当に最後まで悪役というか、その役割らしかった。
美姫 「面白い話だったわね」
うんうん。投稿ありがとうございました。
美姫 「ありがとうございました〜」