『カルメン』
第二幕 酒場にて
セビーリア城壁近くの酒場リーリャス=パスティア。濃褐色の木でできた床と壁の店である。そこにカルメンはいた。他にも彼女の仲間達が集まっていた。
男もいれば女もいる。カルメンはその中で一際大きなテーブルの上に座っていた。そうして歌っていた。スペインの扇情的な歌を。
「響きも鋭く鈴を打ち鳴らせばその不思議な音に釣られてジプシー女が立ち上がる」
「ジプシー女も立ち上がる」
周りの者もそれに合わせて歌う。それによりさらに扇情的になる。
「ダン場リンが調子を取れば狂おしくかきたてるギターに合わせていつもの歌といつものルフラン」6
「いつもの歌といつものルフラン」
「さあ歌い踊ろう」
「浅黒い肌になびく腕輪は銅と銀で。風邪になびくショールは赤とオレンジの縞模様」
「それこそがジプシーの色」
彼等もまたジプシーだ。だからこう歌うのだった。
「踊りと歌が一つになってはじめは遠慮がち。それが次第に速さを増して高鳴っていく」
「さらに高鳴って」
「それは」
「ジプシーの男は腕も折れよと力の限りに楽器を奏で目も眩むどよめきが起こる」
「そしてその中で」
歌でカルメンに問うのだった。
「ジプシー女は有頂天。歌のリズムに乗って燃えて狂って熱があがって」
カルメン自身も上気していた。その声と顔で激しく歌うのである。
「何もかも忘れ酔いしれて踊りの渦の中に身を任す」
「それがジプシー女の悦び」
「踊りの悦び」
激しく歌うのであった。歌い終わると店の中に騎兵隊の将校達が入って来る。そうして店の親父の前に集まるのだった。
「わかっていると思うが」
「だから知りませんって」
太った親父が困った顔を作って彼等に述べる。
「私は何も」
「しかしだ」
その中にはスニーガもいる。彼は険しい顔で親父を見ていた。
「そうした情報が入っている」
「この店が密輸商人のアジトだとな」
他の将校達も険しい顔で親父を問い詰める。
「だからだ」
「どうなのだ?」
「だから何もないんですよ」
親父はその困った顔を作りながら彼等に対して言い繕う。
「本当ですよ」
「ふん、逃げるのか」
「まあいい」
親父の言葉を信じてはいないがここで許すことにしたのだった。そうして彼等はそれぞれ席に着く。
「では客になろう」
「酒と食い物を」
「はい、只今」
客になるのなら文句はなかった親父はすぐに注文を受けて酒と食べ物を彼等に提供する。彼等は飲み食いをしながらカルメン達と話をするのであった。
「あら、大尉さんもいるのね」
カルメンはここでスニーガに気付いた。
「お暇なようで」
「また随分と嫌味だな」
スニーガは少しヤブ睨みにしてカルメンに言葉を返した。
「彼のことかな」
「そうよ。そろそろよね」
「ああ、昨日出た」
そうカルメンに答える。
「また手柄を立てさせないといかんな。あの男は優秀だからな」
「随分高く買ってるのね、あの伍長さんのこと」
「だから伍長にしたんだ」
スニーガはそうホセについて語るのであった。
「坊さんになる筈が遊びで身を持ち崩して騎兵隊に入ったというからまたゴロツキかと思ったがどうして」
「いい伍長さんなのね」
「あいつはきっと立派な軍人になる」
こうまで評する。
「だからだ。あの程度の間違いは何でもないようにしてやるさ」
「嬉しいわ。じゃああたしも機嫌をなおして」
にこりと笑う。そうしてテーブルから降りて椅子に座る。そうして赤ワインを飲もうとすると。
外から派手などよめきが聞こえる。店のすぐ側だった。
「ここで飲もう!」
「そうだ!」
「何かしら」
カルメンはその騒ぎ声を聞いてふと外に目をやる。
「誰か来たの?」
「ああ、エスカミーリョね」
仲間の一人浅黒い肌に黒髪の女メルセデスが言うのだった。
「そういえば今日はセビーリアにいたわね」
「エスカミーリョ?」
「今話題の闘牛士よ」
今度答えたのは燃えるような赤い髪の女であった。フラスキータである。
「グラナダのね」
「闘牛士か」
「それはいい」
大男のダンカイロと小男のレメンダートも言う。この四人もカルメンの仲間でジプシーだ。なお密輸商人でもある。カルメンもまたそうである。
「この店に是非来てもらおう」
「賑やかにな」
そう言って一旦店の外に出て彼等を招き入れる。するとドヤドヤと男達が入って来る。その中央には背の高い立派な男がいた。
目は吊り上がり君だがそこには強い光がある。黒い髪を奇麗に後ろに撫でつけその引き締まった顔は髭を奇麗に剃っていて若々しいものを見せている。
逞しい身体を白いブラウスと黒いズボンで包み赤いベルトと上着はスペインのものである。彼がエスカミーリョ、その噂の闘牛士である。
「ようこそセニョール」
「どうぞこちらに」
将校達が笑顔で彼を迎える。エスカミーリョも笑顔でそれに応える。
「やあやあこれは」
「さあ一杯」
「ワインを」
「宜しいのですね」
「どうぞ」
将校達はまた彼に対して言う。赤ワインを満たした杯を彼に手渡すのであった。
「まずは一杯」
「是非共」
「わかりました。それでは」
エスカミーリョは笑顔でその杯を受け取った。そうしてそれを右手に高々と掲げ高らかに歌うのであった。
「皆さんの杯に返礼させて下さい。何故なら軍人と闘牛士は戦いを好む同士気が合いますから」
「その通りだ」
「流石にわかっているな」
将校達はエスカミーリョの今の言葉に機嫌をさらによくさせた。
「祭りの日に闘牛場は満員、上から下まで満ちている。客達は大騒ぎで叫び足を慣らして興奮の坩堝」
「まるで戦場だ」
「確かに似ている」
「今日は武勇の祭り。血気盛んな人々の祭りだから、さあ構えはいいか!」
高らかな声をまたあげる。右手の杯が剣に見える。
「トレアドール!」
叫ぶとワインを飲み干す。杯は上に投げられる。それと共にエスカミーリョは剣を構える動作をする。上着を脱ぎそれを左手に持ってマントに見せる。そのままトレアドールであった。
「構えはいいか」
「そうなる?」
「不意に場は水を打ったように静まり返る」
エスカミーリョは前を見据え構えたまま歌う。
「どうした?叫び声も足も止み皆息を飲む。その時だ!」
「何が起こった!」
「囲い場が跳ね上がり牛が飛び出す!巨大な黒い牛が!」
「牛が!」
皆その光景を目に見ていた。それで本当に叫んだ。
「来るぞ!前に!馬が倒されピカドールが引き摺られる」
「まずいぞ!」
「それは!」
見えない筈の光景が目に思い浮かぶ。誰の目にも。
「牛のあまりもの強さに観客達は息を飲む。言葉さえもない。牛は背中に突き刺さる槍をものともせず猛り狂い突き進む。闘牛場は血の海になっていく」
「血が!」
「まさに戦場だ!」
「だがその時だ!」
エスカミーリョはいよいよ叫ぶ。その目の前に牛を見て。
「御前の出番だトレアドール!」
剣を引いて構え。そして。
「構えはいいか!さあ!」
突いた。それと共に身を翻す。
「戦え。だが」
「だが!?」
「忘れるな、トレアドール」
自分自身に対しての言葉であった。
「恋が」
ここでカルメンを見る。
「恋が御前を待っているぞ。黒い瞳のあの女の恋が!」
そう言って最後の突きを入れて牛を仕留めた。あまりにも勇壮でかつ派手な歌であった。
「即興の歌ですが」
「いやいや」
「お見事!」
誰もが拍手をするエスカミーリョの鮮やかな歌であった。
彼はその拍手の中でカルメンに近寄る。そうして彼女に声をかけるのであった。
「名前を聞いておきたいな」
「どうしてかしら」
「今度の牛を倒す時にあんたの名前を叫びたいからさ」
ニヤリと笑って言う。口説きの言葉であった。
「それでね。駄目かな」
「カルメンシータよ」
カルメンはそれを受けて微笑んで彼に名乗った。
「カルメンシータっていうのか」
「カルメンでもどちらでもいいわよ」
「そうか。わかったカルメン」
彼はこの名で呼ぶことにした。そのうえでまたカルメンに声をかけるのであった。
「若し俺があんたとを愛してあんたに愛されたいと思ったらどう答えてくれるんだい?」
「愛してくれるのはどうぞ」
カルメンはエスカミーリョの問いにまずは素っ気無く答える。だがすぐにその目を鋭く、そのうえで熱くさせてまた言うのであった。
「けれど愛されるのは当分考えないことね」
「成程ね」
エスカミーリョは今の一言でわかった。
「そういうことだな」
「そういうこと。またね」
「ああ、わかった」
「セニョール」
ここで将校達がまたエスカミーリョに声をかける。
「これからお芝居でもどうですかな」
「そうですな」
エスカミーリョも笑顔でそれに応える。
「では御言葉に甘えて」
「それでは皆さんも」
「是非共」
「トレアドール、俺達と一緒に」
彼等は上機嫌で店を後にする。後にはカルメン達だけが残った。
「さて、と」
カルメンが席を立って仲間達を見回してから言う。
「今度の話だけれど」
「ああ、それならな」
ダンカイロも席を立つ。そうして店の中央に来て話すのだった。
「いい話がある」
「どんな話かしら」
カルメンがそのダンカイロに問うた。立ったまま。
「イギリスの船が来るんだ」
「イギリスの!?」
「ああ、その船の中のを少しちょろまかしてだ」
ダンカイロは笑いながら仲間達に説明を続ける。
「後で高く売るんだ。お宝をな」
「悪くないわね」
「そうね」
それを聞いてフラスキータとメルセデスがそれぞれ言う。
「皆でやるぞ。特に」
「あたし達ね」
「そうだ」
声をあげたカルメンに対して応えるのだった。
「御前等がこの話の鍵だ」
「どういうことかしら、それって」
カルメンはその理由をダンカイロに尋ねた。
「よかったら教えてくれないかしら」
「はっきり言えばたらし込むのさ」
ダンカイロは笑ってカルメンに答える。
「その船に乗っている船長をな。色仕掛けで」
「その間にってことね」
「ああ。詐欺にしろ騙りにしろ盗みにしろだ」
そのうえでの言葉であった。
「そうした仕事は女の方がいい。色仕掛けで誤魔化せるからな」
「そうしてたぶらかしている間に」
「船長には強い酒を飲ませればいい」
ダンカイロはこうも述べる。
「それだけでいいからな」
「じゃあいつも通りね。楽だわ」
カルメンにとっても他の三人にとっても慣れた仕事である。だから笑って言葉を返すことができたのだ。
「それじゃあ頼めるな」
「ええ、いつも通りね」
「そういうことなら」
「喜んで」
三人はそれに乗った。これで話は決まりだった。
「よし、それじゃあ」
レメンダートがここで仲間達に対して言う。
「すぐに行くか、港までな」
「ああ」
セビーリアは港町である。川辺にありそこに港を持っている。欧州ではよくある川辺の港町なのだ。それがこの町を発展させてきたのである。
彼等はその港に行こうとする。だがここでカルメンが言う。
「待って」
「どうしたんだ、カルメン」
「人を待っているのよ」
カルメンは立ち上がって店を出ようとする皆に対して述べた。
「だから少し待って」
「人を!?」
「誰なんだい、それは」
彼等はそれを聞いて顔をいぶかしめさせる。そうしてカルメンに問うた。
「後になってから追い着くから」
「そういうわけにはいかないよ」
レメンダートはそうカルメンに対して告げた。
「皆でやらないとな。成功するものも成功しない」
「それはわかってるわよ」
それでもカルメンは待つというのだった。
「それでもね」
「一体誰なのよ」
「その人って」
フラスキータとメスセデスはそれが気になっていた。
「あの兵隊さん?」
「ひょっとして」
「そうよ」
そしてカルメンは二人のその言葉に頷くのであった。その鋭い目で。
「営巣に昨日まで入っていたね」
「じゃあ来るかもな」
ダンカイロはそこまで話を聞いて腕を組んで述べた。
「ひょっとしたら」
「来るかね」
しかしレメンダートはそれにはいささか懐疑的であった。
「そんなので」
「昨日出たのなら大丈夫だろ」
それが彼の予想であった。
「多分だが」
「だから待つわ」
カルメンはまた言うのだった。
「ここでね。何なら賭けるかしら」
「二週間前に金貨をヤスリを仕込んだパンを差し入れたわよね」
「それ使わなかったし」
女二人はそれを言って否定的であった。
「それでも駄目だったから」
「やっぱり駄目なんじゃ」
「それはもうすぐわかるわ」
しかしカルメンには自信があった。余裕の笑みを浮かべていたからだ。
「だから待つわ」
「やれやれ。じゃあ今日の仕事は・・・・・・むっ」
「止まれ」
不意に店の外から声がした。若い男の声だ。
「そこに行くのは誰だ、アルカラの龍騎兵」
「竜騎兵」
「まさか」
四人はその声を聞いてまさかと思った。カルメンの笑みが確信のものになる。
「愛しい女の呼ぶ所、行かねば男がすたる」
「ほら」
カルメンは遠くから近付いて来るこの声を聞きながら仲間達に対して言うのだった。
「ならば通れ、名誉と恋。それが全てだから」
「言っているわね」
「ああ」
「ということはだ」
四人はカルメンの言葉と店の外の声に顔を見合わせて納得するのだった。
「俺達にはそれが全てだ、アルカラの龍騎兵」
「なあカルメン」
ここでダンカイロはカルメンに対して言うのだった。
「どうせならあの兵隊さんも連れて行くか?」
「そうできたらいいわね」
カルメンは考える目をしてダンカイロに対して述べた。
「無理だと思うわ。糞真面目だから」
「また厄介なのに惚れたな」
ダンカイロはカルメンのその言葉に苦い顔で言葉を返した。
「御前らしくない」
「男前だったからね」
それがカルメンの返答であった。
「だからよ」
「そうか。まあ誘うだけ誘ってみたらどうだ」
「そうね」
カルメンもそれに乗った。やるだけやってみようと思ったのだ。
「それじゃあやってみるわ」
「ああ、じゃあ皆」
ダンカイロは他の面々に声をかけた。
「俺達は一旦席を外そう」
「カルメンに任せるのね」
「そういうことだ。じゃあな」
「ええ」
仲間達は店の奥に消えカルメンだけになった。そうするとすぐに店にホセが入って来た。
「いらっしゃい」
「来たよ、カルメン」
軍服姿のホセだった。営巣にいたせいか少しやつれている。
「御免なさいね、私のせいで」
カルメンはまずは営巣のことを謝る。
「怒っているでしょうね」
「そのことならいい」
「いいの」
「ああ、俺はわかったんだ」
胸に花があった。あの黄色い花が。それこそが何よりの証であった。
「俺の本当の気持ちが。カルメン」
カルメンをじっと見詰めて言う。
「俺は御前が」
「ホセ」
一旦はその言葉をかわして言うのだった。
「ジプシーの女はね。借りた借りは返すのよ」
「そうなのか」
「ええ、だからね」
熱い目と声をホセに向けながら言葉を続ける。
「今もね。踊りを見せるわ」
「ジプシーの踊りか」
「ここで皆にも見せたけれどね」
「皆に!?」
ホセはその言葉にいぶかしむ顔になった。
「誰なんだ、それは」
「大尉さんよ」
「大尉に」
スニーガのことであった。ホセは階級だけでわかった。
「お見せしたのだけれどね」
「何てことを」
「あら、妬いてるのね」
顔を赤くさせらホセに微笑む。
「カナリアみたいね。色も性格も」
「この軍服が黄色いからかい?」
「そうよ。けれど今は」
ここでまたホセに言う。
「あんたのために踊るわ。いいわね」
「ああ、是非共」
ホセもそれに応える。
「頼むよ、そのジプシーの踊りを」
「わかったわ。あら」
カルメンは辺りを見回してあることに気付いた。
「カスタネットがないわ。あんたが隠したのね」
「馬鹿な。俺はそんな」
ホセは生真面目な顔で言葉を返す。
「そんなことはない」
「焼き餅焼かなくていいから」
「そういうことじゃない。ここにあるじゃないか」
必死になった顔でテーブルの上を指差す。見ればそこに本当にあった。
「ここに。ほら」
「やっぱり隠していたのね」
カスタネットを差し出してきたホセにまたこう言って笑ってみせた。
「本当に焼き餅なんだから」
「俺をからかってるのか?」
「だって好きだから」
ここでは少女のようになったのだった。
「それでよ」
「それでなのか」
「ええ」
「じゃあカルメン」
ホセも本気だった。もう逃れられることはできなかった。自分ではそれに気付かないままカルメンに対して言葉を続けるのであった。
「俺の為に。踊ってくれ」
「わかったわ。それじゃあ」
カスタネットを手にあのテーブルの上にあがる。そうして歌い踊りはじめるのであった。
「そこに座ってね」
「ああ」
ホセを目の前に座らせて歌い踊る。ホセは黙ってそれを見ている。その踊りが終わりに近付いた時だった。と奥からラッパの音が聞こえてホセの顔が変わった。
「カルメン、待ってくれ」
「どうしたの?」
「ラッパの音だ」
ホセが言うのはそれであった。
「あの音を聞いたら」
「帰るとでもいうの?」
「それしかないんだ、兵隊のことはわかっている筈だ」
帰営ラッパである。それが絶対であることは言うまでもないことである。
「じゃあいいじゃない」
「いいって?」
「そうよ。演奏が来たのよ」
カルメンにしてはそうである。さらに機嫌をよくさせて踊ろうとさえする。
「ラッパの音に乗ってね。それで」
「冗談じゃない。俺は帰らないといけないんだ」
しかしカルメンはそれに取り合おうとはしない。それどころか不機嫌な顔でホセを見据えてくるのだった。
「何よ。そんなのが怖いの、ラッパなんかが」
「兵隊にとっては敵より恐ろしいものだ」
その通りであった。規律の方が恐ろしいのが軍人である。兵士をして敵より下士官を恐れさせよというのはプロイセンのフリードリヒ大王の言葉である。それは即ち下士官がその規律を守らせる者だからである。ホセも下士官である伍長だからそれはわかっているのだ。
「好きになったのに、そんなことで」
「俺は兵隊なんだ」
ホセは言い返す。
「だから帰らないと」
「じゃあ帰ったら」
怒った顔でホセに言い返す。
「帽子にサーベルに弾薬持って。さっさと帰りなさい」
「何だ、その言い方は」
今の物言いにホセも激昂した。
「俺だって行きたくはないんだ」
「じゃあここにいればいいじゃない」
「けれど出来ないんだ」
それを言うのだった。どうしてもと。だがカルメンの言葉は止まらない。
「ラッパが怖いのならラッパに従えばいいのよ、ほら帰りなさいよ」
「帰ったらどうするんだ」
「そのままよ」
冷たく言い放つ。その鋭い視線と共に。
「そのままね。お別れよ」
「俺は御前を愛しているのに」
「だったらそれを見せるのね」
またしても冷たく言い放つ。
「今あたしに」
「信じないのか、俺を」
「何を信じるっていうのよ」
言葉はあくまで冷たい。
「ラッパなんか怖がる臆病者の何を」
「どうしても信じないっていうのか」
「ええ」
目も鋭い。相変わらず。
「その通りよ」
「じゃあ聞いてくれ」
ここまで言われてはホセも引き下がれなかった。彼は言う。その胸にあった黄色い花を手に取って。それを他ならぬカルメンに見せながら言うのであった。
「御前の投げたこの花をずっと手放さなかったんだ。もう枯れてしまっているけれどそれでも赤い香りは決して消えはしなかった」
そうカルメンに語る。
「ずっと瞼を閉じながらその香りを嗅ぎながら闇の中で思い浮かべるのは御前のことだけだ。憎んだり呪ったりもしたけれどそれでどうして御前みたいな女に巡り合ったのかと思った。けれど気付いたんだ」
カルメンをじっと見て。言葉を告げる。
「俺の望み、希望はたった一つしかないってことに。それは御前と会うことだった。だから俺は今ここに来たんだ」
もうカルメンから目を話せない。言葉も自然と出る。
「カルメン、俺は御前のものだ。御前が好きなんだ」
「じゃあついて来て」
そうホセに告げた。
「あたしに。いいわね」
「御前と一緒にか」
「そうよ。遠い山の中まで」
そうホセに告げる。
「あたしと一緒に来れるわよね、そこまであたしが好きなら」
「軍を捨ててか」
「あたしと一緒なら何の問題もないわよ」
目がうっすらと笑う。誘う目だ。誘惑する女の目であった。
「そうでしょ。上官もラッパも気にせずに青い空の下であたしと自由に暮らすのよ」
「自由なんかどうでもいい」
ホセはそれを聞いて呟く。
「青い空もいい。俺が欲しいのは」
思いは募る。その募る思いのまま呟く。
「御前だけがいればいいんだ」
「さあ、あたしと一緒に行きましょう」
またカルメンは誘う。
「遠い山と空の世界に。何処までもね」
「しかしそれをすれば俺は」
軍人としての名誉がまた彼に語り掛ける。それは今までの彼にとって絶対的なものであった。その絶対的だったものが彼に対して語り掛けるのであった。
「あんたの馬に乗って一緒に駆けるのよ」
またカルメンは誘惑する。
「二人でね」
「二人で。それじゃあ」
「そうよ、何処までも一緒よ」
何時までとは言わない。しかしホセはそれには気付かない。それがドン=ホセという男であった。カルメンはカルメンでありホセはホセであったのだ。
「さもなければ」
「俺を受け入れないっていうのか」
「そうよ。さあ、どうするの?」
じっとホセを見据えて問う。
「あたしと一緒になるの?それとも」
「それとも」
ホセは進退極まった。どうすればいいかわからない。だがそこで店に誰かが入って来た。
「誰なの?」
「俺さ」
明るく、聞き慣れた声であった。それはスニーガの声であった。彼が店に入って来たのである。
「ちょっと飲み直しに来たんだが・・・・・・むっ」
ここでホセに気付いた。
「忠告するが」
険しい顔でホセに対して告げてきた。ここで彼が出すのは軍としての規律であった。
「ラッパが鳴っている。早く帰るんだな」
「どうするの?」
ここでまたカルメンがホセに問うのだった。
「帰るの?それとも」
「今ならまだ間に合うぞ」
スニーガもホセに対して言う。
「帰ればな。そしてまた手柄を立てれば伍長に戻れる」
「あたしと一緒に行くの?どうするの?」
「俺は」
「今答えを聞くわ」
カルメンはホセを追い詰めてきた。
「どうするの、決めるのね」
「決めるしかないのか」
「そうよ」
ここでまた突き放す。
「どうするの、それで」
「決めた」
追い詰められてであったが。彼も決めた。その決断は。
「御前と行く」
「本気ね」
「ああ、二言はない」
空を仰ぐ。そのうえでの言葉であった。
「御前と行く。ずっとな」
「わかったわ。皆」
「おう」
「やっとか」
ここでダンカイロ達が出て来た。そうして彼等の思わぬ登場に戸惑うホセを尻目にやはりホセと同じく戸惑うスニーガを取り囲む。彼にピストルを突きつけてレメンダートが言う。
「悪いけれどこのまま一時間程大人しくしてもらうよ」
「俺達も仕事があるんでな」
「では貴様等はやはり」
「ああ、そうさ」
レメンダートはニヤニヤと笑いながらスニーガに答えた。
「その密輸団さ」
「ホセ」
スニーガはまたホセに顔を向ける。そうして言うのだった。
「御前はそれでいいんだな」
だがホセは答えない。顔を背けるだけであった。
「・・・・・・そうか、なら仕方がない」
スニーガもそれ以上言わなかった。これでホセの運命は決まってしまった。
「以後君は脱走兵だ、いいな」
「ということよ」
カルメンはホセの側まで来た。そうしてホセに対して声をかける。
「わかったわね」
「・・・・・・ああ」
ホセはこくりと頷く。もう逃げることは出来なかった。
「わかったよ。もう俺はこれで」
「世界をねぐらに気ままに生きるのよ」
それこそがジプシーの暮らしであった。カルメンはそれをホセに対してたたえてみせるのであった。
「自由にさすらってね」
「自由よりも」
またホセは自由を否定する。それよりも。
「御前と一緒にいられる。それだけでいい」
こうしてホセはカルメンと共に生きることになった。これ以後このセビーリアでホセを見た者はいなかった。彼は密輸団の一員としてカルメンと共に生きることになったのであった。
軍を抜けて愛の逃避行を選んだか。
美姫 「てっきり軍に残って、みたいな展開かと思ったけれど」
うーん、これで終わりじゃないって事は、まだ何かあるんだろうな。
美姫 「一体何が起こるのかしらね」
そんな気になる次回は……。
美姫 「この後すぐ!」