『カルメン』
第一幕 出会い
スペインセビーリア。今その煙草工場の前で兵士達が集まっている。彼等はここに駐屯地があり街の警護にあたっているのである。
「しかしあれだな」
黄色の派手な軍服である。それは騎兵隊の軍服だ。子供達や女達に人気の軍服でもある。馬に乗ればその人気がさらに高まる。
「何か最近煙草工場の方が騒がしいな」
「そうだな」
兵士達は煙草工場の方を見て話をする。見れば赤茶色の煉瓦の大きな建物がそこにある。
「何かあったのか?」
「この前人を募集していただろ」
「ああ」
黒髪の兵士が茶髪の兵士の言葉に頷く。
「その時に一人の女が入ったんだが」
「誰だい?それは」
「カルメンっていう女さ」
茶髪の兵士はそう同僚に語る。
「そいつが来てから何かと騒がしいんだ」
「そうだったのか」
「あの」
ここで青い服を着て長い金髪を後ろで編んでいる小柄な少女が兵士達のところに来た。そうしておずおずと彼等に声をかけたのであった。
小さな顔は目鼻立ちがはっきりしていて麗しい感じである。特に目が印象的でやけにみらびやかな光を放つ青い目である。兵士達はその少女を見て思わず口笛を吹きそうになったが流石にそれは不謹慎なので止めた。そうして礼儀正しく少女に声を返すのであった。
「はい、お嬢さん」
「私達に何か御用で」
「伍長さんを探しているのですが」
少女はそう兵士達に述べた。
「どちらに」
「伍長なら俺だが」
ここで一人の兵士が出て来た。背が高く立派な鼻をしている。
「悪いけれどお嬢さんみたいな娘は知らないけれど。告白なら受けるよ」
「いえ」
「違うのか。何だ」
少女が首を横に振ったのでまずは落胆してみせるがそれは一瞬のことであった。
「違う伍長さんでして」
「伍長っていっても多いですよね」
「ああ」
その伍長は黒髪の兵士の言葉に応えた。
「それでどの伍長さんかな」
「ドン=ホセです」
少女はその名を出してきた。
「ここにいますか?」
「ああ、あいつならな」
今ここにいる伍長は少女の言葉に応えた。
「中隊は違うけれどもうすぐ来るよ」
「ここにね。当番の交代で」
「そうですか、すぐに」
少女は伍長と茶髪の兵士の言葉に笑顔になった。実に晴れやかな笑顔であった。
「そうだよ。まあもうちょっと待てばね」
「わかりました」
その透き通った白い笑顔で伍長の言葉に応える。
「ではここで待たせてもらいます」
「ここはちょっと寒いんじゃないかな」
伍長はここでふとこう言ってきた。
「すぐ側に教会があるからそこに入っているといいさ」
「教会ですか」
「うん。少なくともここみたいにそのまま風は来ないしね」
そう少女に勧める。
「そこでどうかな」
「わかりました」
少女も笑顔で伍長の言葉に頷いた。
「それでは御言葉に甘えまして」
「うん。交代の時はすぐにわかるから」
伍長は親切にもそれについても言うのだった。
「そこにいていいよ」
「すぐにですか」
「ラッパが鳴るから」
だからだというのだ。
「それに子供達もはしゃぐしね。本当にすぐわかるよ」
「わかりました、ではその時にまた」
「うん、またね」
少女はそこまで話を聞いてまずはこの場から姿を消して教会の中へ入った。古い教会であり煉瓦のあちこちにヒビが入っている。だが彼女はそれを気にせず中に入るのであった。兵士達はその少女を見送った後で伍長に言うのだった。
「ドン=ホセ伍長も隅に置けませんね」
「全く」
「あいつ、あんな可愛い知り合いがいたのか」
伍長も羨ましそうに言う。
「全く。何て幸せな奴なんだ」
そんな話をしているともう交代の時間であった。遠くからラッパの音が聴こえてきて兵士達が銃を右肩に置いて整然と行進して来る。子供達がそれを見て早速彼等の真似をして行進しだした。
「交代の部隊と一緒に来たんだ、さあラッパを鳴らせ」
明るく言いながら兵士の行進の真似をしている。
「頭を上げて進むんだ。一、二、一、二」
「肩を引いて胸を張って。腕はこうまっすぐに」
「一、二、一、二」
兵士達はそんな彼等を温かい笑顔で見ている。そこで行進の先頭にいる厳しい口髭の将校の軍服の男が命令を出した。
「縦隊、止まれ!」
兵士達はその言葉に従い行進を止める。そうして将校はその彼等にまた指示を出すのだった。
「それぞれの持ち場につくように」
「了解っ」
兵士達は敬礼でそれに応える。そうしてそれぞれの持ち場につく。その中に少し小柄で黒い髪をした細い男がいた。
目は黒く何処かか細い顔である。だがその顔立ちは非常に整っていて美男子であると言えた。黄色い軍服が誰よりも似合い一際目立っている。その彼のところにあの伍長がやって来て声をかけるのであった。
「おい、ホセ」
「何だい?」
ホセと呼ばれた彼はそれを受けて同僚に顔を向けてきた。
「御前に会いに来た女の子がいたぞ」
「俺にか」
「ああ、青いスカートで金髪を後ろに編んだな。可愛い娘だ」
「ミカエラだ」
ホセはそれを聞いてすぐにわかった。
「ミカエラだ。間違いない」
「御前の妹かい?」
「まあそんなところだ」
ホセは屈託のない笑顔でそう説明する。
「そうか、ここまで来たのか」
「教会の中にいる。もうすぐここに来る」
伍長はそうホセに告げた。
「一応は言ったからな。それじゃあな」
「ああ、有り難う」
「礼には及ばんさ。それじゃあな」
彼はそこまで言うと自分達の列に入る。そうして行進をしてその場から離れるのであった。ホセはこうして一人になった。だがそこに中隊を率いていたあの将校がやって来た。
「ドン=ホセ伍長」
「はい、スニーガ大尉」
ホセは彼の名と階級を呼んで敬礼をした。スニーガも彼に返礼する。
「一つ聞きたいことがあるのだが」
「何でしょうか」
「あの煙草工場だがな」
「はい」
「あそこには誰が働いているのか」
「女達です」
ホセはそうスニーガに説明する。
「確か五百人程です」
「そうか、随分多いな」
スニーガはそれを聞いて考える顔になった。
「美人がいればいいのだがな」
「美人ですか」
「そうだ、あの」
ここで彼は先程のホセと同僚の話を口にするのだった。
「その青い服の」
「先程のお話ですか」
「君の知り合いだったな。確かミカエラといったな」
「はい、そうです」
ホセはスニーガの言葉に応えて頷く。
「みなしごでして。うちのお袋が小さな頃に引き取って私と一緒に育てていました」
「では君の妹みたいなものだな」
「そうです、一応は婚約者ということになります」
「何だ、それは残念だ」
スニーガはそれを聞いて苦笑いを浮かべた。
「私の出る幕はないな」
「申し訳ありませんが」
「まあいい。それでだ」
スニーガは苦笑いをすぐに消してまたホセに問う。
「彼女は幾つかな」
「十七になります」
ホセは素直にミカエラの年齢も述べた。
「早いもので。もうそんなになります」
「人間歳を取るのは早いものだ。それにしても」
周りが慌しくなってきた。街の若者達が急にやって来たのだ。
「そろそろ煙草工場の仕事が終わるな。彼女を迎えに来たのだな」
「どうやらそのようで」
ホセもそれに応える。
「では誰か彼氏のいない娘でも探すかな」
「誰かいればいいですね」
「一人位はいるだろう」
スニーガは少し楽天的に言うのだった。
「五百人もいれば」
「そうだと思いますが」
「まあ君には関係のない話だな」
今度はホセに顔を見せて笑ってみせてきた。
「婚約者がいる君には」
「それはそうですが」
「しかし。これでは警備の邪魔になるな」
見れば若者達だけでなく煙草工場からも女達が出て来る。そうして笑顔で話をしていた。
「待っていたぜ」
「こっちこそよ」
あちこちで恋人同士の笑顔が見られている。
「浮気はしていなかったでしょうね」
「そっちこそどうなんだよ」
「決まってるでしょ」
笑顔で彼氏に言葉を返す。
「そんなの。絶対にないわ」
「信じているぜ」
「どうなんだか」
そんな話をしている。ここれふと警備の兵士の一人が言う。
「あれ、おかしいぞ」
「どうしたんだ?」
「カルメンシータがいない」
彼はそう同僚に応えるのだった。
「何処にいるんだ?」
「そういえばそうだな」
同僚の兵士もその言葉に応える。
「そろそろ出て来るんじゃないのか?」
「そろそろか」
「おっと、噂をすれば」
ここで彼は声をあげた。
「出て来たぜ」
「やれやれ、やっとか」
兵士は煙草工場の方を見て声をあげる。待ち遠しいといった声であった。
「いつも待たせるな」
「そうか?」
「そうだよ」
彼の主観ではそうである。
「あいつらしいけれどな」
「まあカルメンはな」
同僚の兵士もそれに応えて言う。
「そういうのはわかってるな」
「そうだな」
仲間の兵士達もそれに合わせる。
「けれど見ろよ」
「出て来たぜ」
「おっ、やっとか」
ここで工場から一人のあだっぽい女が出て来た。白いスカートに白い服を着てその上から黒い縁や肩に金糸の刺繍がある上着を羽織っている。白いスカートはくるぶしが見えていてソックスは白だ。それと対比するかのように靴は紅の鮮やかなものであった。上着からは胸がかなり見えている。
小柄で黒く長い波がかった髪を上で束ねている。鼻が高く浅黒い肌に凛とした顔立ちをしている。とりわけその細い眉と合っている黒い目の視線の強さが印象的であった。彼女がカルメンであった。
「よおカルメン」
「今日も元気そうだな」
兵士や若者達がそのカルメンに声をかける。カルメンは彼等のところに足を進めて言うのだった。
「元気なのは元気よ。ただ」
「ただ。何だい?」
「あたしは今面白くないのよ」
「面白くないのか」
「ええ、そうなのよ」
言いながらその手に黄色い花を出す。鮮やかな黄色い花だった。
「恋を忘れているから」
「恋だって!?」
「じゃあ俺と」
「生憎だけれど」
言い寄る男達は笑顔で擦り抜ける。そうしてカルメンに見向きもしないホセに気付いた。そうすると何かを見たように楽しげに笑う。そうして言葉を紡ぎはじめた。
「恋は言うことを聞かない小鳥、飼い慣らすのなんてとても無理なのよ」
「恋はか」
「そうよ」
男達に応えてひらひらと蝶の様に動きながらホセをひらり、ちらりと見る。ホセはその彼女の視線に気付いて顔を顰めさせる。
「幾ら呼んでも無駄、来たくなければ来ることはないのよ」
「おやおや」
「それはまた」
「脅してもすかしても無駄なこと。おしゃべりな人も駄目なら黙っている。そう」
またホセを見る。ホセもそれに気付いてまた顔を顰めさせる。
「何も言わない人が好きかも。恋はジプシーの生まれ、掟なんかありはしない。好きにならなかったら」
「どうするんだい?」
「あたしの方から好きになってやるわ」
また男達の言葉に応える。顔はやはりホセに向いている。
「あたしに好かれたら危ないわよ」
「だったら俺が」
「それでね」
また舞いながら言う。
「鳥を捕まえたと思ったらすぐ羽ばたいて飛んでいく。恋は遠くにあったら待つしかないけれど待つ気がなくなったら」
「その時に来るのか」
「それが恋。辺りをすばやく飛び回って行ったり来たり戻ったり。捕まえたらするちと逃げてまたやって来る。だから」
最後にまたホセを見て。言う言葉は。
「あたしが好きになったら危ないよ」
そう言って花を高らかに投げた。ホセがそれを受ける。受け取った瞬間に目と目が合う。カルメンは笑ったがホセはだんまりとしている。しかし二人の目が合ったのは事実であった。皆それは意識せずにカルメンを囃し立てるが。
「そうかい」
「だったら俺と」
「だから気が向けばよ」
また男達に笑顔で返す。
「わからない男は嫌われるわよ」
「またそんなことを言う」
「随分と冷たい話だよ」
カルメンはそんな男達とあれこれ話をする。そうして酒場の方に消える。ホセはそれを見届けると首を傾げる。そうして花を手にしたまま言うのだった。
「また随分と派手な女だ。カルメンか」
カルメンの名をはじめて呟く。
「何か有名らしいがそれにしても」
ここで花を見る。
「随分香りの強い花だな。これはまた」
「伍長さん」
ここで彼に声がかかった。それは彼にとっては非常に懐かしい声であった。
「その声はミカエラだね」
「ええ、そうよ」
左に顔を向けると彼女がいた。にこやかに笑ってそこにいた。
「村から来たのか」
「ええ、お義母さんに言われて」
「そうか、母さんからか」
「これを貴方に届けて欲しいって」
そう言って出してきたのは一通の手紙であった。
「それとお金と」
「お金には困っていないが」
「それでもよ。是非にって」
「そうか、有り難いな」
ホセはミカエラから母の愛情を受けて目を細ませる。だが母の愛情はこれで終わりではなかった。
「それにね」
「まだあるのかい?」
「ええ、貴方には最も値打ちのあるものよ」
「俺にはかい」
「そうよ。何だと思うかしら」
楽しそうに微笑んでホセに問うてきた。丁度彼を見上げて。
「何かな、わからないや」
「じゃあ言うわね。それはね」
「うん、それは」
ミカエラは話しはじめた。ここに来る時に何と言われたのかを。
「一緒に教会にいた時に抱いてこう言ったのよ。セビーリアのホセにずっと待っているからって」
「俺をか。母さんが」
「そうなのよ。そして」
「そして?」
「キスをしてくれたわ」
今度はそれを伝えてきた。
「このキスをホセにも贈って欲しいって。そう私に言って」
「キスをか」
「駄目かしら。お義母さんのキス」
ホセを見上げて問う。
「それは」
「いや、是非」
ホセには断る理由はなかった。笑顔でミカエラに応える。
「頼むよ。母さんからのキスを」
「わかったわ。じゃあ」
ミカエラはそれを受けてホセの首に両手を回した。そうして彼の左の頬に優しくキスをしたのであった。ホセはそのキスを受けて温かさを知った。母の、そしてミカエラの。
「懐かしい。故郷を思い出すよ」
「お義母さんを思い出すのね」
「ああ」
ミカエラの言葉に満面の笑顔で応える。
「故郷も。懐かしいよ」
「よかったわ、そう言ってもらえると」
「それに」
ここでホセはふと言うのだった。
「誘惑にかかりそうになくなったよ」
「誘惑って?」
「ああ、何でもない」
それは誤魔化した。
「何でもないよ。ところでこれからどうするんだ?」
「村に帰るわ」
ミカエラはこうホセに答えた。
「もうこれでね」
「そうなのか」
「お義母さんのところにね」
「じゃあこう伝えてくれないか」
ミカエラが故郷に帰ると聞いて彼女に託を頼んだ。
「何て?」
「有り難うって」
まず言うのはこの言葉であった。
「そして愛しているって。いいね」
「ええ、わかったわ」
ミカエラは笑顔で彼の託を受けた。
「きっと伝えておくわ」
「そして帰ったら」
「帰ったら」
「きっとこのキスを返すよ」
そう言うのだった。
「絶対にね。きっと」
「わかったわ。それじゃあね」
「うん、また」
ミカエラはそのままこの場を去った。ホセは一人になった。一人になった彼はミカエラから貰った手紙の封を切って読みはじめる。そこにはホセのこととミカエラのことが書いてあった。彼はそれを読んで母がどう思っているかを知った。その母の愛情にまた心打たれるのであった。
「そうだ、ミカエラだ」
彼は呟いた。
「あの女ではなく。俺にはミカエラがいるんだ」
何故かカルメンのことを意識していた。しかしこの時はまだ自分では気付いてはいなかった。花を手に持ち続けていることさえも気付いてはいなかったのだ。
「軍役を終えたら故郷で」
これからのことを考えていた。その時だった。
不意に酒場のある方が騒がしくなる。それを聞いてスニーガも兵士達もホセのところにやって来た。
「どうしたんだ!?」
「騒ぎが起こったようです」
ホセがスニーガに言う。
「酒場の方からですが」
「カルメンだ!」
酒場の方から女の声が聞こえてきた。それも複数の。
「カルメンがやったんだ!」
「違うわよ!」
それを否定する複数の声がまた聞こえてきた。
「マヌエリータじゃないか!先に言ったのは!」
「違う、カルメンだ!」
また言い返す言葉が出た。
「カルメンが悪い!」
「マヌエリータよ!」
「喧嘩の様だな」
スニーガは酒場の荒れようを見て呟いた。
「どうやら」
「そのようですね」
ホセも彼に応えて言う。
「それならすぐに」
「いや、待て」
だがここで女達が酒場から軍の方に来た。そうして口々に言うのだった。
「聞いて下さい!」
「あの女が!」
「あの女だと」
「カルメンが!」
「マヌエリーヌが!」
互いに激しい言葉を述べ合う。スニーガにはどちらがどちらなのかわからない。それにたまりかねて言い返すのだった。
「もういい、ドン=ホセ伍長」
「はい」
ホセは彼の言葉に応える。
「兵を連れて酒場の方に行け。そうして事件の張本人が誰か調べてきてくれ」
「わかりました、それでは」
敬礼をしてすぐに兵達を連れて酒場に向かう。その間も女達は騒いでいるがそれを押しのけて中に進むのであった。喧騒は激しくなるばかりであった。
暫くしてホセと兵士が戻って来た。カルメンを連れていた。
「ほら、見なさい」
女達の何割かが誇らしげに主張する。
「やっぱりカルメンじゃない」
「違うって言ってるでしょ」
すぐに反論が後の何割かから返って来た。
「いい加減にしなさいよ」
「そっちこそ」
「御前等はもういいっ」
スニーガもたまりかねて女達に言う。それからホセに対して問うのであった。
「それでどうだった?」
「いや、大変でした」
ホセはまずスニーガにこう述べてきた。
「大変だったか」
「三百人からの女が上を下への大騒ぎで。あまりにも五月蝿いので」
「ここよりもか」
「さらにでした」
ホセもうんざりした顔で述べるのであった。
「その中で左頬に十字の傷を受けている女がいまして」
「ナイフだな」
「そうです。その前にいたのが」
ホセはここでカルメンを見る。そこで何か言おうとしたがカルメンの鋭い視線に怯む。だがここでスニーガが上官として彼に問うたのであった。
「その女か?」
「そうです」
そのうえでやっと答えるのであった。
「この女です」
「ふむ、御前か」
スニーガはカルメンを見て言うのだった。
「カルメン、御前が」
「喧嘩を売られたからよ」
カルメンはふてぶてしくスニーガに言葉を返す。
「だからよ。それでしょ?」
こう述べた上でホセに顔を向けて問う。
「伍長さん。そうよね」
「それは存じませんが」
ホセはカルメンには答えずにスニーガに対して報告を続けた。
「葉巻を切るナイフを使って」
「それでか」
「はい、ナバラ生まれは嘘は言いません」
ここで己の生まれを出してまで誓うのであった。
「その血に誓って」
「わかった。ではカルメン」
スニーガはカルメンに顔を向けて問うてきた。
「何か言いたいことはあるか」
「別に」
しかしカルメンは相変わらずふてぶてしい態度のままであった。
「何もないわよ」
「しかし怪我をさせたのは事実だな」
「何も言わないわ」
「まあいい。伍長」
言わないのなら言わないでよかった。スニーガはまたホセに声をかける。
「この女を縛って連れて行け」
「監獄までですね」
「そうだ、暫く頭を冷やしてもらう」
ジロリとカルメンを見て言うのだった。だがそれでもカルメンのふてぶてしい様子は変わりはしない。少なくとも全く怯えても動じてもいないのがわかる。
「ここはな。美人だがな」
それに関して少し残念そうであった。
「だがそれでもだ。ジプシーの歌は監獄で歌え」
「何処でも歌ってあげるわよ」
ここでもカルメンは平然としていた。
「ジプシーにとってはね。何処でも同じだから」
「言ったな。では望み通りにしてやろう」
スニーガもその言葉を買った。彼にしては高く。
「連れて行け。わしは命令書を書いて来る」
「はっ、それでは」
ホセが敬礼する。スニーガはそれに返礼してその場を去る。後にはカルメンとホセと兵士達が残ったがそれでもカルメンの態度は相変わらずであった。平然とホセに対して言うのであった。
「縄がきついわ」
「我慢しろ」
ホセは半ば無視するようにして言い返した。
「少しの間だ」
「あら、厳しいのね」
「御前が悪い」
ホセはここでも半ば無視していた。この時までは。
「だが。そんなに痛いのなら少し緩めてやるか」
「あら、その花」
カルメンはホセが近寄るとその胸にある黄色い花に気付いた。
「さっきあたしがあげた花ね」
「それがどうした?」
「持っていてくれたのね」
そう囁いてホセに笑う。ホセは今カルメンの縄を少し緩めていた。その彼に囁くのだった。
「ねえ」
「何だ?」
「逃がしてよ」
「馬鹿言え」
最初は取り合わなかった。
「そんなことができるものか」
「逃がしてくれたらバラキの石をあげるわ」
「バラキ?」
「小さな石でね」
カルメンはその石について説明をはじめた。
「持っていればどんな女からも愛される石なんだけれど」
「興味はないな」
まだこの時はそうであった。
「そんなものは。わかったら大人しくしろ」
「そう。ところであんた」
「今度は何だ?」
「ナバラの生まれだってさっき言ってたわよね」
「ああ」
ホセはその言葉には答えた。警戒する目でカルメンを見ながら。
「ナバラの何処なの?」
「エリソンドだ」
ホセは素っ気無い声で答えた。
「それがどうかしたか?」
「ふうん、じゃあ一緒だね」
カルメンはそれを聞いて言うのだった。
「一緒!?じゃあ御前も」
「エッチャラールよ」
にこりと笑ってホセに対して告げた。
「そこの生まれなのよ」
「だが御前は」
ホセは生まれを名乗ってきたカルメンに対して言った。
「ジプシーの女じゃないか。それでどうして」
「そうよ」
「それでどうしてナバラの生まれなんだ。それも俺に逃がしてもらいたい為の嘘なんだろう?」
「正直に言えばそうよ」
悪びれずに言うのだった。
「けれど。これから言うのは本当のことよ」
「それは何だ?」
「あんた、あたしが気になっているわね」
「馬鹿を言え」
ホセは頭からそれを否定しようとした。
「そんな筈が」
「じゃあその花は何?」
ここでその黄色い花を言ってきた。
「それは。どうして持っているのかしら」
「たまたまだ」
ホセは苦しい言い逃れをした。
「たまたまだ。それだけだ」
「本当に?」
「そうだ、もう話し掛けるな」
たまりかねて離れて言った。
「いいな、もう何も聞かないからな」
「じゃあこれからは独り言ね」
それでもカルメンは言うのだった。
「セビーリアの城壁近くの馴染みの店のリーリャス=パスティアの店に」
「あの店に?」
ホセも知っている店だった。明るい雰囲気の飲み屋である。
「セギディーりゃを踊ってマンザリーヤを飲みに行くのよ。馴染みのその店に」
「そうなのか」
ホセはそれを聞いて無意識のうちにカルメンにほんの少し近付いていた。
「一人じゃ詰まらない。二人で一緒に行くのよ」
「誰とだ?」
「あたしの大事な恋人と。今度出来た恋人に」
ホセに応えるようにして言う。
「空気みたいに自由なあたしの心は言い寄る男をダースで数えて気に入らないと諦める。けれど日曜も近いから好いてくれる人がいたら好いてくれるわ」
「馬鹿馬鹿しい」
そうは言ってもやはり無意識のうちにカルメンに近付いていた。さっきよりさらに。
「あたしの心が欲しいのは誰かしら。何時でもどうぞ。いい時にいらしたとあのお店に案内してげるわよ」
「リーリャス=パスティアにか」
「ええ」
ホセはついついカルメンに尋ねてしまっていた。
「そうよ。新しい恋人と一緒にね」
「そうか」
「将校さんとね」
「じゃあ俺ではないな」
ここではホセはしらばっくれた。
「それじゃあ」
「あたしの将校さんはちょっと違うのよ」
「どう違うんだ?」
「伍長さんなのよ」
「うっ」
カルメンの言葉を笑みを浮かべた視線に言葉を詰まらせた。
「ジプシー女はそれで結構。満足よ」
「カルメン」
ホセは暗い目になっていた。その目でおずおずとカルメンに問うのだった。
「リーリャス=パスティアだな」
「ええ、そうよ」
「わかった」
これで終わりだった。ホセは陥落した。
「それじゃあ」
カルメンの後ろに回って縄を解く。それが済んだ時にスニーガが戻って来たのであった。ホセはカルメンから離れた。カルメンもカルメンで両手を後ろに隠す。これで終わりであった。
「ホセ伍長」
「はい」
敬礼と返礼の後でスニーガはホセに声をかけてきた。
「命令書を持って来た。今から連れて行け」
「わかりました」
「すぐにだ、いいな」
「はい、それでは」
カルメンの側に向かう。するとカルメンが側で囁いてきたのだった。
「それじゃああの店でね」
「ああ」
二人は歩きはじめる。そうして。
「恋はジプシーの生まれ」
またあの言葉を歌うように口ずさむ。
「掟なんか知ったことじゃない。好いてくれなくてもあたしから好いてやる」
「その続きは監獄でな」
「けれど」
スニーガが言ったところでカルメンの目が光りそうして。
「あたしが好いたら危ないよ」
そう言って動いた。ホセを突き飛ばし逃げ出したのだった。
「あっ、しまった!」
「追え!」
兵士達とスニーガが叫んだ時には遅かった。カルメンはもう人ごみの中に消えていた。後には彼女の高笑いだけがあった。
「カルメン」
ホセは倒れながらもカルメンの笑い声がする方を見ていた。そうして呟くのだった。
「約束だぞ、絶対に」
この後でホセは拘束され取調べを受けた。そうして降格と一ヶ月の拘留を命じられた。彼にとってもこれが運命だったのである。
カルメンという言葉は聞いた事があったけれど。
美姫 「例によって話は知らないのね」
ああ。カルメンの誘惑に負けて逃がしたと言う形かな。
美姫 「そんな感じよね。でも、婚約者がいるのに」
妹みたいとも言っていたからな。ともあれ、二人はこの後無事に合流するのだろうか。
美姫 「どんな話なのか楽しみね」
ああ。次回も待ってます。