『ボリス=ゴドゥノフ』




                 第二幕  暗転


 ある修道院でのことである。真夜中に一人の年老いた僧侶が蝋燭の暗い灯りを前に一人何かを書き表していた。
「ふう」
 彼はふと顔を上げて一息ついた。
「あと少しだな」
 そう言ってふと微笑んだ。
「私の年代記が書き終わるのは」
 ロシアでは十一世紀から一つの習慣があった。修道僧が年代記という歴史について書かれた記録を書き、社会や為政者のことを後世に伝える習慣があったのである。これはロシアについて調べるうえで非常に貴重なものであり、修道僧達の功績の一つである。
 だがそれは少し前に途絶えていた。正確に言うならば途絶えさせられていた。これは他ならぬイワン雷帝が命じたものであった。
 彼の時代は粛清や弾圧、陰謀が相次いだ。彼の母も最初の皇后もこれで死んだ。そしてこれを後世に知られることを嫌った彼が年代記を書くことを禁じたのである。これはボリスの時代にも続いていた。だが彼は後世の為にそれをあえて破って書いていたのである。
「何時かは私の書いたことが陽の目を見るだろう。そしてその時にこの時代に何があったのか知ってくれる。私はそれで満足だ」
 彼は頬笑みを讃えたまま言った。そしてまた筆を手にした。
「もう少しだ。書いていくか。おや」
 ここで彼の若い弟子がやって来るのが見えた。彼はそちらに顔を向けた。
「グリゴーリィ」
「先生」
 グリゴーリィと呼ばれた若い僧侶はそれに応えて顔を向けた。赤茶色の髪を持った青年である。端整な顔だが鼻の上に特徴的なイボが一つある。そして左手は右手よりも少し短かった。その彼がゆっくりと歩いて来たのである。
「目が覚めたようだな」
「少し悪い夢を見まして」
 穏やかな笑顔の老人とは違い彼は苦笑いで返した。
「そうか」
 老人はそれ以上聞こうとはしなかった。だが彼は考えに入った。
(何故なんだ)
 彼は疑問に思っていた。
(同じ夢ばかり三度も続けて。おかしなことだ)
「ところでだ」
「はい」
 だがここで老人は声をかけてきた。やはり穏やかな笑みを讃えている。
「御前は文字が得意だったな」
「はい」
 彼は答えた。
「貴方が教えてくれたおかげです、ピーメン先生」
「ははは、私のことはいい」
 だが彼は自分の功績を誇ろうとはしなかった。
「私はこうしてここで静かに身を沈めているだけだからな」
「いえ、それは」
「ほんのしがない老人が。御前の様な前途ある若者を弟子にできる。嬉しいことだ」
「有り難うございます」
 褒められて思わず言葉が出た。
「私の様な者に」
「ところでどんな夢だったのだ?」
 ピーメンはグレゴーリィに尋ねてきた。
「私は階段を昇っていました」
 彼は師に言われ夢の説明をはじめた。
「急な階段を。そして塔の上に昇っていました」
「ふむ」
 ピーメンはそれを聞きながら思索に入った。
「そこからモスクワを見下ろすのです。ですが」
 ここで声が震えた。
「下の広場にいる民衆が私を笑うのです」
「笑う」
「はい、嘲笑うのです。それに心を砕かれた私は塔から落ち、そして・・・・・・」
 なおも言った。
「そこで目が覚めるのです。これは一体どういうことでしょうか」
「若い血が騒いでいるのだな」
 ピーメンは話を聞き終えてこう言った。そしてグリゴーリィを温かい目で見た。
「わしもかってはそうだった」
「先生も」
「うむ、かつては酒宴や戦場に身を置いたものだ。若い愚かな日々の話じゃ」
「そんなことがあったのですか」
 グリゴーリィはそれを聞いて心を熱くさせた。
「カザンやリトアニアで戦い、そしてあの雷帝の巨大な宮殿を御覧になられたのですね」
「うむ、かってはな」
 彼は答えた。
「素晴らしい。それに対して私は幼い頃より僧房におります」
「それでよいのだ」
 だが師はここで弟子を宥めてきた。
「よいのですか」
「そうだ。罪深き俗世を若いうちに捨てたことはよいことなのだ。豪奢な生活や女共の甘い声はこの世の真実ではないのだ」
「真実ではない」
「左様、皇帝といえどその黄金色の服の下は我々と変わりはしない。同じ人間だ」
「同じなのですか」
「かつてここに皇帝が来られたことがある」
「皇帝が」
 その答えはまたかなり衝撃的なものであった。その皇帝とは。
「イワン雷帝がな」
「何と」
 グリゴーリィはそれを聞いて驚きを隠せなかった。雷帝が修道院を尋ねて来るなど。彼には想像もできなかったことであった。
「あの方は悩んでおられた」
「雷帝がですか」
「そうじゃ。穏やかな言葉を述べられ悔恨の涙を流しておられた。声を立てて啼いておられたな」
「まさかその様な」
 信じられない話であった。だがそれ以上に彼はピーメンが嘘をつくような者ではないことを知っていた。だからこそその言葉が現実のものとは思えなかったのだ。
「次のフェオードル陛下は宮殿をそのまま祈祷庵に変えられてしまった」
「それは聞いたことがあります」
 彼は病弱で信心深い皇帝であった。だからこそそうしたのであった。
「その最後も立派であった。宮殿は芳しい香りに包まれてな」
「それを今まで書いておられたのですね」
「内緒じゃがな」
 彼は微笑みながらそれに応えた。
「清らかな顔でな。天に旅立たれた」
「まことによい話です」
「今に比べれば。少し前の話だというのにもう遠い昔のことじゃ」
「確かに遠い昔の話の様ですね」
 グレゴーリィは答えた。
「今の時代は。何処か暗いです」
「その理由もわかっている」
 ピーメンはここで暗い顔になった。
「わしは知っておるのじゃ」
「何をでしょうか」
「ディミトーリィ殿下のことをな」
「あれは病死だったのではないのですか?」
 グレゴーリィはそう述べてきた。
「確か。何かの発作だったかと」
「うむ、その通りじゃ」
 ピーメンはそれを認めた。
「わしはその場におったからな。よく知っておる」
「そうだったのですか」
「急に引き付けを起こされて。そして馬車から落ちられたのじゃ」
「事故死だったのですね」
 それを問うと。
「そうじゃ。じゃが不思議じゃ」
「といいますと」
「殿下がそうした御身体なのは皆知っておった。それが何故馬車から身を乗り出しておられたのか。周りの者は止めなかったのかと思うとな」
「何故でしょうか」
「当時の摂政の一人が殿下の御身体の為と称して活発に動かれるよう殿下に言ったのじゃ」
「摂政の一人が」
 当時摂政団がいたのはグリゴーリィも知っていた。そのうえで頷いたのである。
「それがボリス=ゴドゥノフ、今の皇帝だったのじゃ。どうもそれを考えると腑に落ちぬ」
「あえて事故死されるように仕向けた、ということでしょうか」
「可能性はないわけではない。まあそれは年代記には書かぬが。殿下の最後の御姿は無残なものであった。首が折れ、頭から血を流しておられた。そして血の海の中に沈んでおられたのじゃ」
「無残なことですね」
「まだ七歳であられたな」
「七歳ですか」
 これを聞いたグリゴーリィはふと気付いた。
「そしてそれは何年前だったのでしょうか」
 そのうえで問うてきた。ピーメンは何気なくそれに答えた。
「十二年前じゃ」
「十二年前」
 それを聞いたグリゴーリィの顔色が変わった。
「それでは」
「御主と同じ歳になるな」
 ピーメンは彼の表情に何か暗いものが指したことに気付くことなくこう述べた。
「次の皇帝になられる筈だったのじゃが。わしは最後にボリスの話を書いて年代記を終えるだろう」
「はい」
「後は御主に任せる。御主は読み書きは得意だ」
 当時は僧侶といえど読み書きが不得手な者がロシアには少なくなかった。これは貴族においても同じであった。ましてや民衆は読むことすらあたわない。そのほぼ全てが文盲であった。もっともこれもまたロシアだけに限ったことではないが。文字が一部の者達のものであった時代であった。
「後は頼むぞ。この世の全てを書き残してくれ」
「はい」
 グリゴーリィは頷いた。ピーメンはそれを見て満足そうに頷くとゆっくりと立ち上がった。それからまた言った。
「朝になった。私は行こう」
「朝の御務めに」
「そうじゃ。それが終わったら暫く休む。ではな」
「はい」
 ピーメンは暗い部屋を後にした。出る時に蝋燭の火を消すことを忘れない。グレゴーリィはそんな師を見送った。そして
彼がいなくなった後で一人呟くのであった。
「若しかしたら私にも運が」
 そしてニヤリと笑った。笑い終えた後で彼もまた部屋を後にした。修道院から彼の姿が消えたのはその日のことであった。

 この時はまだリトアニアという国があった。後にロシアに併合されロシア革命の時に独立したがスターリンによって強引に併合された。そしてソ連崩壊の時にまた独立した。何度も甦った逞しい国であるがこの時は国がある時代であった。そのリトアニアとロシアの国境の宿屋での話であった。
 大きいがみすびらしい外見の宿屋の前で太ったおかみが縫い物をしていた。彼女は椅子に座って鼻歌を唄いながら上機嫌で何かを縫っていた。
「私は捕まえた、青くくすんだ雄鴨を」
 彼女は上機嫌で唄う。
「御前は私の雄鴨、私の可愛い雄鴨」
 縫う手は止まらない。それどころか歌のリズムに合って調子よく動いていた。
「綺麗な池に放してやろう。そして空高く舞い上がれ」
 ロシアの古い民謡であった。彼女はそれを唄いながらさらに縫い続ける。
「そして私の側に来ておくれ。一緒に楽しい遊びをしよう」
 彼女の前を旅人達が通り過ぎていく。彼女はそれを気にも留めずに唄い続ける。客は今日はまだ来てはいなかった。だがそれでも彼女は上機嫌で唄い続けていた。
 その中二人の大柄のやけに汚れた法衣を着た男が二人やって来た。髪も髭も手入れされておらず手も顔も汚れていた。一目では乞食と全く見分けがつかなかった。一人は赤い髪と髭、もう一人は黒い髪と髭であった。どちらにしろ酷い身なりであった。
「ようおかみさん」
 彼等はそのおかみに声をかけてきた。
「何だい、坊さん達」
「寄進をされませんか」
 彼等はやけに馴れ馴れしい様子で彼女に声をかけてきた。
「寄進?」
「左様、寺院建立の為」
「小銭でもいいですぞ。寄進されれば神の御加護がありますぞ」
「はいはい」
 おかみはそれを聞いて立ち上がり宿の中に入り小銭を何枚か持って来たのであった。
「どうぞ」
「これはどうも」
「おかみさんに主の御加護がありますように」
「いやいや」
 だがおかみは二人の御礼に対して鷹揚に返した。
「こんなことは当たり前ですからねえ」
「その御考えこそ素晴らしい」
「いや、御見事」
 二人は口々におかみの気立てのよさと信仰心の篤さを褒めていた。褒められるとおかみも悪い気はしない。
「寒くありませんか?」
 おかみは二人に尋ねてきた。
「少しばかり」
「酒であったまりたい気分ですな」
 そしてかなりわざとらしく催促した。だがおかみはそんな二人にも気前よく頷いた。そして言った。
「それじゃあちょっと待っていて下さいね」
「はい」
 二人はにこりと笑って頷く。
「お酒を持って来ますから」
 そう言って店の裏にある蔵に向かった。二人はそれを見送った後で顔を見合わせて笑い合った。
「なあワルアラームの」
 赤い髪の男が黒い髪の男の名を呼んだ。
「何だ、ミサイールの」
 黒い髪の男はそれに応えるように赤い髪の男の名を口にした。
「親切なおかみさんだな」
「そうだな。まさか酒までくれるなんて。いいロシアとの別れになりそうだな」
「そうだな。修道院から逃げ出した時にはどうなるかと思ったが」
「うん」
「全く。どうやら運が向いて来たわい」
「全くじゃ」
 どうやらこの二人は修道院でよからぬことをして逃げ出してきたらしい。実はこの時代は二人の様な聖職者がロシアでは多かった。
 実はこの二人はあまり字は読めない。そして酒を好み素行もよくはない。こうした聖職者が多くなり、当時のロシアにおいて深刻な問題の一つとなっていた。彼等はまさにそうした素行と識見に問題のある聖職者達なのであった。酒を愛し、女を愛する。だが信仰は仮だけである。こうした僧侶がいるのは何時の時代でもそうであるがこの時代のロシアにおいてもそれは同じであった。
 二人が酒を楽しみに待っているとそこに若い僧侶がやって来た。見ればグリゴーリィであった。
「おい、そこの若いの」
 ワルアラームが彼に声をかけた。
「今からリトアニアに行くのかい?」
「ええ、まあ」
 グリゴーリィは彼に顔を向けて答えた。
「それが何か」
「奇遇だな、わし等もそうなんだ」
「旅は道連れというやつだ。一緒に行かないか?」
 ミサイールも声をかけてきた。
「けれど私は」
「細かいことは言いっこなしだ。ここで逢ったのも何かの縁」
「まあ一杯やってけ」
「酒ですか」
 思えば身体がかなり冷えていた。ここに来るまで碌に何も食べていなかったからそれも当然であった。グリゴーリィはごくりと喉を鳴らした。
「少しいいですか」
 二人の方へ歩み寄って尋ねた。
「ああ、いいとも」
「ロシアとの別れに一杯やろう」
「一杯でなくてどんどんな」
「はい」
「おや、もう一人おられたんですか」
 おかみが戻って来てこう言った。見ればグリゴーリィは二人と一緒に木のテーブルに座っていた。
「どうも」
 グリゴーリィはペコリと頭を下げた。
「今通り掛かった若い僧侶でしてな」
 ワルアラームがおかみに説明する。
「ここで会ったのも何かの縁。それで誘ったのですよ」
「そうだったのですか。まあ人数が多い方が楽しいですからね」
 気さくなおかみはミサイールのその言葉にも頷いた。二人のいささか図々しいと言えるような態度にも全く眉を顰めさせはしない。懐の広いおかみであった。ロシア女の気質と言うべきか。
「それじゃまずは一杯」
「どうも」
 木の大きな杯に酒を入れる。おかみも入れての乾杯の後ワルアラームはその大きな杯の中にある酒を一気に飲み干した。そして顔を赤らめさせて立ち上がった。
「それでは酒の御礼に一興」
「何をしてくれるのですか?」
「歌を。宜しいですかな」
「歌?」
「はい、イワン雷帝の歌です。宜しいでしょうか」
「悪くないねえ。それじゃあそれを」
「では」
 ワルアラームは恭しく頭を垂れた。そしてミサイールが手で拍子をとる。彼はその手拍子に合わせて歌いはじめた。
「その昔カザンの街であったこと、イワン雷帝祝宴張って上機嫌」
 彼は朗々とした声で歌いはじめた。調子のいい歌でミサイールの手拍子は絶妙だった。ワルアラームの歌も中々見事なものであった。
「街を牛耳るタタールを、見事に破って上機嫌」
「タタールを」
「そう、タタールを」
 歌の合間におかみに応える。これはサービスであろうか。
「大砲を持って来てドカンと派手にぶっ放した。そしてタタール共を吹き飛ばし」
「タタール共を吹き飛ばし」
 ミサイールも乗ってきたのか歌いはじめてきた。
「四万と三千も倒してやった」
「四万と三千も倒してやった」
「これがカザンであったこと。雷帝はその街をロシアに下された」
「雷帝はその街をロシアに下された・・・・・・ん!?」
 ここで二人は黙り込んでいるグリゴーリィに気付いた。
「おい若いの」
 そして彼に声をかけてきた。
「ノリが悪いな。どうしたんだ?」
「いえ、何でもないです」
 だが彼はそれに答えようとはしなかった。
「そうか。何か顔色がよくないぞ」
「そうでしょうか」
「まあもっと飲め。人が飲んでいる時は自分も飲む。それで楽しくやろうじゃないか」
 ワルラアームはそう言って自分が酒を飲んだ。ミサイールもである。二人の顔はさらに赤くなった。見ればおかみも二人程ではないが酒を口にしていた。
 だがグリゴーリィはそれ程飲んではいない。身体を温める程度なのかチビリ、チビリとやるだけであった。そしておかみに顔を向けて尋ねてきた。
「あの」
「何ですかな」
「リトアニアまではもうすぐですよね」
「はい」
 おかみはにこりと笑って答えた。
「今から歩いたら晩までには着けますよ」
「そうですか」
 それを聞いて少しホッとした様な顔になった。だがそれは一瞬であった。
「関所で時間を取られるかも知れませんがね」
「えっ、関所」
 それを聞いて顔がまた白くなった。
「関所があるんですか」
「はい、何かモスクワから誰か逃げているそうで」
「まさか」
 顔に不安げな色が漂いはじめる。
「おかみさん」
 彼が不安な顔をしている間もワルアラームとミサイールは酒を楽しんでいた。そしておかみにも酒を勧める。
「もう一曲歌いましょうか」
「ああ、もういいですよ」
 おかみは笑ってこう応えた。
「一曲で。充分楽しみました」
「そうですか。それじゃあ」
「わし等は引き続き酒を楽しみましょう」
「はい、ごゆっくり」
 こうして二人はまた飲みはじめた。相変わらず酒を水の様に飲んでいる。酒はとにかくあるだけ、飲めるだけ飲む。ロシア人に今でもある酒の愛し方であった。
「関所ですか」
 グリゴーリィはもう一度尋ねた。
「ええ、結構大きいのがね。あるんですよ」
「そこを通らなければ駄目ですよね」
「リトアニアに行くことですか?」
「はい。道はそれしかないですよね」
「いやいや、それが違うんですよ」
 だがおかみはここで笑ってこう言った。
「違うって?」
「あんなのね、只の飾りなんですよ」
 関所のことをさして笑っていた。
「あんなとこ無視しても構いません」
「そうなんですか」
「そうですよ。だって道は一つじゃありませんし」
「一つじゃないって?」
 グリゴーリィはその言葉に身を乗り出した。
「他に道があるんですか?」
「勿論ですよ」
 おかみは答えた。
「こっから左に折れて礼拝堂から。そして小川の側の道を行ってね。そこからはもう誰でも行けますよ」
「そうなんですか」
「あれはお役人が自分達の懐を暖める為の関所ですから。あたし等は近寄りもしませんよ」
 そして笑いながらこう言った。
「今ここにいる役人はがめつくてね」
 ロシアでは昔から役人が大きな顔をしていた。ロマノフ王朝やソ連時代だけではない。もっともこれもまたどの国においても言えることであったが。
「何も知らない旅人を待ち構えて何だかんだと言ってはお金をせしめるんですよ。本当にがめつくてね」
「はあ」
「それに馬を使って足が速いから。ほら」
 言っている側から馬に乗った黒い服の男達がやって来た。
「見回りですよ。気をつけなさい」
「はい」
 見ればその役人達は宿屋の方にやって来て馬を止めた。
「待て」
 酔って騒いでいるワルラアームとミサイールを呼び止めた。
「御前等は何者だ?物乞いか?」
 馬の上から彼等を見下ろして問う。
「申してみよ」
「旅の僧でございます」
 彼等はそれに対してわざと憐れっぽく、そして慎み深く答えた。
「村々を回って寄付を集めております」
「そうか。ではそちらの者は」
「ここで知り合った若い僧侶です」
 ワルアラームが答えた。
「若い僧侶か。見たところその方等と大して変わらんな」
「同業者ですから。苦労も同じなのです」
「服はボロボロ、けれど心は清らかです」
「ふん」
 役人はミサイールのわざとらしい言葉は半分以上聞いてはいなかった。まずは馬を下りた。
「修道僧には用はない」
 彼は呟いた。
「どうせ何も持ってはおらん。まあ一応聞いてみるか」
 袖の下を欲していたのだ。見るからに何も持っていなさそうであるがそれでも、と期待したのである。
「ところで坊さん方」
「はい」
 二人が応えた。
「どうかね。寄付は集まりますかな」
「いやいや、苦しいものです」
 ワルアラームがそれに答えた。
「何しろ今は飢饉ですから。誰も何も持っておりませんで」
「そうだな」
 この時ロシアは大規模な飢饉の最中であった。皇帝であるボリスはこれに対して早速貧民救済に乗り出したがそれも焼け石に水といった有様であった。その為ロシアは絶望的な有様に陥っていたのである。
「お寒い状況です。どうしていいものやら」
「では何も持っていないのだな」
「はい」
 今度はミサイールが答えた。
「このおかみさんが寄付して下さった僅かばかりの小銭ばかりです」
(小銭なぞ取っても仕方ない)
 役人はそれを聞いて心の中で呟いた。
(何もない。帰ろうか)
 そう思った時であった。後ろにいた同僚が彼に声をかけてきた。彼と違って真面目な顔をしている。どうやら本当に真面目な人物であるらしい。
「異端者のことは」
「おっと、そうだった」
 彼は同僚に言われてようやく思い出した。そしてまたワルアラーム達に尋ねた。
「ところでな」
「はい」
 また質問がはじまった。
「モスクワから一人異端者が逃げ出したのを知っているか」
「異端者が」
 おかみはそれを聞いて顔を暗くさせた。
「ここにですか」
「うむ。リトアニアの方にな。逃げようとしているらしい」
(まずいな)
 グリゴーリィはそれを聞いて顔を顰めさせた。
(気付かれるか)
「それでその異端者だが」
「はい」
 役人はグリゴーリィの様子には気付かず話を続ける。
「決まり通り縛り首にせよとのお達しじゃ」
 当時異端者は縛り首にされていた。ロシア正教での決まりである。これは十六世紀に定められ、長い間続いていたものである。
「ここに命令書があるのだが」
 彼は同僚が出して来た命令書を前に出す。
「御主等読めるか?」
「いえ」
「神が御召しにならなかったので」
 二人は字には疎かった。
「そうか。ならば仕方がないな」
 実はこの役人も同僚も読めはしない。当時のロシアでは貴族や役人であっても位が下ならば碌に字が読めない者が普通にいたのである。
「そこの若いの」
「はい」
 困った彼はグリゴーリィに声をかけた。
「読めるか」
「はい、読めますが」
 彼は答えながら考えていた。
(若しかしたら)
 それは自分のことが書かれているに違いない。どうするべきか。そう考えていた。
「では読んでみろ」
 役人は彼が字が読めるのを聞いてそう言ってきた。
「よいな」
「はい」
 それに従い彼は命令書を受け取った。そして読みはじめた。
「チュードフ修道院の不徳の僧グリゴーリィ=オトレーピエフ」
(やはり)
 自分のことであった。読みながら顔が青くなる。
「どうしたのか」
「いえ、何でもありません」
「そうか。では続けよ」
「はい」
 何とか誤魔化した。そして読み続ける。
「この者悪魔に唆され誘惑と非法を以って修道院を乱そうとし、逃走した。この者は今リトアニアへの国境に向かっている」
(ここからだな)
 グリゴーリィは頭の中で考えた。
(さて)
「続きは?」
「はい」
 彼はまた読みはじめた。
「この者を」
「縛り首に処すと書いているだろう」
「いいえ」
 だがグリゴーリィは首を横に振った。
「そんなことは書いていませんが」
「嘘をつけ!」
 だが役人はそれを聞いて怒った。
「絶対書いてある筈だ」
「はい」
 まずはそれに頷いてから答えた。
「書いてありました」
「そうだろう」
「縛り首に処す」
 彼は読むことを再開した。
「この男」
 読みながらワルアラームをチラリと見る。
「今年で五十になり」
「五十か」
 役人はそれを聞いて呟く。
「わし等と大体同じだな」
「うむ」
 ワルアラームとミサイールも頷き合う。グリゴーリィはそれを聞いてしめた、と思った。
「黒い髪と髭で」
「黒い髪と髭」
 役人はそれを聞いてワルアラームへ目を向けた。
「そして」
「はい。太鼓腹で」
「太鼓腹か」
「ど、どうしたんですかお役人様」
 ワルアラームは役人の目の色が変わったのを感じていた。
「そんな目で見て」
「いや。読むのを続けろ」
「赤い鼻で」
「間違いないな」
「ああ」
 同僚もそれに頷く。
「御前だな、その異端者は」
「め、滅相もない」
 ワルアラームは慌てて首を横に振る。
「わしは確かに酒も女も好きですが異端者ではありませんや」
「そうですよ、それはわしも保障します」
「フン、そんなものあてになるか」
 仲間を庇うミサイールの言葉にも納得しない。
「ちゃんと書いてあるではないか。神妙にいたせ」
「確かにわし等はモスクワから来ましたが」
「ほれ見ろ」
「御聞き下され。ではどうしたら納得できますか」
「では御前が手配書を読んでみろ」
 役人はワルアラームがあまりにも抵抗するのでこう言った。
「それで読んで、そうでなかったら許してやろう」
「本当ですね?」
「金も無い者には嘘はつかぬ。さあ、読め」
「わかりました、それでは」
 ワルアラームはそれに従いグリゴーリィの手から手配書を取った。そして読みはじめた。
「綴りを辿りながらなら何とか読める」
「こんなことならもっと真面目に勉強しとくんだったな」
「ああ」
 ミサイールに相槌を打ちながら読みはじめた。
「首が懸かってるからな。絶対に読んでやるぞ」
「やってみせよ」
「はい。まず歳は」
(まずいな)
 グリゴーリィはワルアラームが読みはじめたのを見て内心舌打ちした。
(かろうじて読めるか。このままでは)
 密かにおかみが言った宿屋の左手の入口に位置した。
「中背で?だな」
「何か危なっかしいな」
 役人はワルアラームの読み方があまりにもたどたどしいので思わず呟いた。
「大丈夫なのか」
「だから必死に読んでるんですよ」
 彼は額から汗を流しながら答えた。とにかく必死なのがわかる。
「髪は赤茶色」
「これで御前さんではないのはわかったな」
「そら御覧なさい、わしがそんな悪人に見えますか?」
「如何にも戒律は破ってそうだがな。違うか」
「まあそれは置いておいて」
 その通りであるからこそ誤魔化した。誤魔化した後でまた読みはじめる。
「鼻の上に・・・・・・」
「鼻の上に」
「ええと・・・・・・」
 ワルアラームはここで詰まってしまった。
「これは何て読むんだ?」
「ん!?」
 それを見てミサイールが覗き込んできた。
「ここか?」
 そして彼はワルアラームが首を捻っている部分を指差した。
「ああ、そこだ。何て読むんだ?」
「そこはイボだろ」
「ああ、イボか。悪いな」
「いやいや」
「そうか、イボか」
 役人はそれを聞いて頷いた。
「それでは分かり易いな」
「そうですね、これ程になく」
(不味い)
 グリゴーリィにはそれが自分のことであるとわかった。もう悠長なことは言っていられない。すっと姿を消した。宿屋の左手へとその身を消してしまった。
 だがここにいる者達はまだそれには気付いていない。ワルアラームが読むのをまだ聞いていた。
「そして額にも一つ」
「額にもか」
「はい、そうなんです。ん!?」
 ここで彼はあることに気付いた。
「どうした」
「いえ、それでですね」
 気になりさらに読み続けていく。
「次に書いているのは」
「次は」
「一方の手が」
「今度は手か」
「はい、もう一方より短い。以上で終わりです」
「そうか・・・・・・待て」
 役人もここで気付いた。
「おい、それは」
「はい、今ここにいる」
「若い僧侶ではないか!ちょっと来い!」
 役人はグリゴーリィを呼んだ。
「この異端者が!縛り首にしてくれる!」
「そうだ、捕まえろ!」
 ワルアラーム達も叫んだ。
「異端者だ!異端者が逃げたぞ!」
「すぐに追え!そして処刑しろ!」
 彼等は口々に叫ぶ。だがもうグリゴーリィの姿は何処かへと消え去ってしまっていた。彼の姿はもうロシアにはなかった。そしてロシアの、同時に彼の運命もまた暗転がはじまった。





グリゴーリィは、何で修道院から逃げたんだろうか。
美姫 「しかも、異端者として手配されているわね」
むむ、一体何が。
美姫 「これは気になるわね」
うんうん。次回を待つしかないか。
美姫 「次回を待っていますね〜」
ではでは。



▲頂きものの部屋へ

▲SSのトップへ



▲Home          ▲戻る