『アルジェのイタリア女』




            第一幕   イタリア女登場


「御妃様御妃様」
 ここはアルジェの太守ムスタファの宮殿の中の一室。丸い屋根の建物の中の豪奢な部屋の中でアラビア風のみらびやかな服を着た若く品のある女性が周りの者達に声をかけられていた。
 見れば侍女や髭のない男達ばかりである。アラビア人もいれば黒人もいる。白人までいる。それがアフリカにあってオスマン=トルコの統治下にあるこの街らしいと言えばこの街らしい。今は十七世紀、オスマン=トルコは爛熟していた。その中でアルジェもまた繁栄を極めていたのである。
 それは御妃と呼ばれるこの女性にも見られた。黒い琥珀の目を持ち黒く長い髪は絹の様である。白い顔は艶やかに化粧されそれが高い鼻と低い目、そしてはっきりとした目を際立たせ彼女を絶世の美女としていた。だがその美女が物憂げに沈んでいたのであった。
「そんなに気を落とされずに」
 男達が言う。誰も髭のないところを見るとどうやら宦官のようである。
「また旦那様の気紛れですから」
「それももう何度目かしら」
 窓を背にしてふう、と溜息をつく。窓からは青い空と宮殿の様々な建物が見える。
「あの人ったら浮気ばかりで。もううんざり」
「まあまあ」
「そんなことは仰らずに」
 侍女達も彼女を宥める。だがそれでも気は晴れてはいなかった。
「ねえズルマ」 
 彼女は侍女の中の一人に声をかけた。
「はい、エルヴィーラ様」
 茶色い髪に青い目の若い女がそれに応えた。そして前に進み出た。彼女はエルヴィーラ、すなわちこの貴婦人の最も信頼する侍女なのである。
「あの人のことは知ってるつもりよ」
「はい」
「嫉妬深くて女好きで。男って皆ああなのかしら」
「残念ながらそうでございます」
 ズルマの返答は身も蓋もないものであった。
「そして女はそれに耐えるしかありません」
「何て酷いこと」
 エルヴィーラはそれを聞いて嘆く顔になった。
「奥さんは四人持ってもよく」
「ええ」
 コーランに書いてある通りである。
「離婚すると三回言えばそれで離婚が可能です」
「勝手ね、本当に」
 なおその際は一生面倒を見なければならないが何故かズルマはそれを言わなかった。だが意地悪ではないようである。
「世の中は男の為にあるのです」
「ちょっとズルマ」
「そんなこと言ったら」
 同僚の侍女達も宦官達も慌てて彼女を止めようとする。しかしズルマは彼女達に対して悪戯っぽくウィンクを返すのであった。
「!?」
「一体!?」 
 侍女達はそれを見て首を傾げる。だがズルマは私に任せて、といった顔を見せるだけでそれに応えはしなかった。
「まあ御安心下さい」
「安心していいの?」
「左様です。アッラーは御妃様を御護り下さいます」
「だといいけれど」
「何、旦那様の気紛れはいつものこと。それに」
 さらに言うと。
「それに?」
「いつも奥様は御妃様だけ。それを覚えておいて下さい」
「よくわからないけれど」
 実はエルヴィーラの夫であるムスタファは妻はこのエルヴィーラだけなのである。四人まで持てるしそれだけの余裕もあるというのに。女好きで知られる彼にしては妙なことだとよく言われている。
「宜しいですね」
「え、ええ」
 何が何なのかよくわからないままズルマに応えた。
「貴女がそう言うのなら」
「そういうことです。最後は御妃様の幸せになりますから」
「わかったわ、じゃあ」
 エルヴィーラはまだ悲しかったが笑顔を作った。
「笑っておくわ」
「はい」
「御妃様」
 そこに別の侍女がやって来た。
「何かしら」
「旦那様が来られましたよ」
「えっ、あの人が」
「笑って笑って」
 ズルマが耳元にやって来てエルヴィーラに囁く。
「私が側にいますから。御安心を」
「ええ」
 何とか気を保って夫を迎える。するとターバンに絹の贅沢な服とマントを羽織った大きな腹の巨大な男がやって来た。威張り腐った顔をしていて口髭は八の字で顎鬚も油で固めている。どうにも尊大そのものの趣きの男であった。後ろに何人もの従者を従えていた。
「ようこそおいで下さいました」
 エルヴィーラは彼に対して恭しく一礼した。この大男こそが彼女の夫ムスタファなのである。
「うむ」
 ムスタファはまずは尊大に応えた。
「今日は何用で」
「何用かではないわ」
 ムスタファはムッとした顔でエルヴィーラに対して言った。
「昨日のことじゃ」
「昨日の?」
「そうじゃ。共に風呂に入ろうとしたのに」
 エルヴィーラを見据えて言う。
「そなただけ侍女達と共に入りおって。おかげでわしは一人寂しく風呂に入ったのじゃぞ」
「それは」
「言い訳は聞かぬ」
 彼は子供じみた声で言った。
「いつもそうじゃ。御前はわしを避けておる」
「そのようなことは」
「だから言い訳はいいと言っておるじゃろ」
 段々感情的になってきていた。
「今度という今度は許せぬ。汝を離婚する」
「えっ」
「汝を離婚する。次で最後じゃぞ」
「旦那様、それは」
「大丈夫ですよ、御妃様」
 真っ青になるエルヴィーラにズルマがまた耳元で囁いてきた。
「次は絶対に仰られませんから」
「けれど」
「ふん」
 エルヴィーラは心配したがズルマの言葉通りになった。ムスタファは言葉を止めた。
「まあよい。最後の言葉は次の機会じゃ」
 エルヴィーラはそれを聞いてほっと胸を撫で下ろす。顔色が戻ってきていた。
「じゃがな」
「はい」
「何かあれば、わかるな」
「勿論でございます」
「ならばよい。ハーリー」
「はい」 
 傍らに控える一人の男がそれに応えた。顔中髭だらけで荒れた服装の如何にもといった感じであったがその顔付きは意外と穏やかであった。
「この前捕らえていたイタリアの者がおったな」
「リンドーロですか」
「何かあればすぐにあれにくれてやれ。よいな」
「あのムスタファ様」
 ハーリーはそれを聞いて小さい声で言う。
「あの男、ムスリムではありませんが」
 イスラムで結婚出来るのは同じイスラム教徒だけである。
「知っておるぞ」
「ならどうして」
「だったら話は簡単じゃ。あやつをイスラム教徒にせよ」
「はあ」
 滅茶苦茶な返答が平然と帰ってきた。
「よいな、あ奴はあれで見所がある」
「そうなのですか」
「そうじゃ、キリスト教徒であってもな。それにわしは寛大じゃ」
 その大きな腹を震わせて言う。
「とりあえず呼んで参れ」
 側に控えていた従者の一人に言う。
「よいな」
「わかりました。では」
 その従者はすぐに動いた。そしてそのリンドーロを呼びにやった。
 
 陽気そうな顔立ちを暗く沈ませた男が緑と水の庭にいた。アフリカの植物を熱い太陽、そして水のせせらぎの音を聴きながらそこにたたずんでいた。
「運がない」
 彼はまずこう言った。見ればこの宮殿の奴隷の服を着ている。意外とみすぼらしいものではない。実はイスラム社会では奴隷はわりかし権利が認められていた。それにイスラム教徒になれば許してもらえるのだ。そこが実に寛容であった。実はイスラムはキリスト教社会より寛容だったのだ。ムスタファにしろ奴隷は自分の大切な財産である。だからそれなりに大事に扱っているのである。
「イタリアを出て海の旅に出たら海賊に捕まって。そして奴隷となりこの地に来て三ヶ月」
 イスラム教徒の海賊達の目的は略奪と奴隷の確保であった。これでかなり儲けていたのである。
「イザベッラは元気でいるだろうか。あの美しい笑顔は今悲しみに沈んでいるだろうか」
 それを思うと気が気でない。イタリアが恋しい。
「遠く離れて暮らすわびしさ。心は痛みに耐え難い。けれど何時か待ち焦がれた日が来る」
 それでも希望は忘れない。
「それまでは絶対に耐える、何があっても。イザベッラの愛を信じて耐えてみせる、何があっても」
「あっ、こちらでしたか」
「ん!?」
 そこにムスタファに命じられた従者がやって来た。
「リンドーロさん」
「何ですか?」
 そしてリンドーロに声をかける。彼はそれに返す。
「御主人様が御呼びですよ」
「御主人様が」
「はい、すぐに来て下さい」
「わかりました。では」
 彼はそれを受けてムスタファのところにやって来た。そして頭を垂れる。
「御呼び頂き有り難うございます」
「うむ、リンドーロよ」
 彼は仕事を済ませた従者に褒美を与えながら彼に応えていた。
「そなたを呼んだのは他でもない」
「はい」
「そなた、まだ妻がおらんかったな」
「左様ですが」
「それでじゃ」
 ここでちらりとエルヴィーラの方を見た。
「妻が欲しくはないか?」
「結婚ですか」
「うむ、その際はそなたは奴隷ではなくなる」
 口髭をこれでもかという程反らせながら言った。
「解放して頂けるのですか」
「悪い話ではないだろう」
「は、はい」
 幾ら扱いが良くても奴隷は奴隷だ。それから解放されることが嬉しくない筈がない。
「是非とも」
「で、好みはどうじゃ?」
「好みですか」
「うむ」
 ムスタファはまたエルヴィーラを見た。何処か好きな女の子に意地悪をする男の子の様な目である。
「美女か。お金持ちか?」
「私の好みは」
「優しい女か?可憐な女か?もっとも全てを兼ね備えている女は」
 またエルヴィーラを横目で見た。
「わしも一人しか知らぬがな」
「私もそれは同じです」
「ほう」
 ムスタファはそれを聞いて面白そうに声をあげた。
「知っておるのじゃな」
「そうです、真面目で親切で」
「うむ」
「二つの瞳は明るく」
「よきかな、よきかな」
「髪は黒く」
「よいのう」
 それを聞いてさらに機嫌をよくさせる。
「頬は赤く」
「さらによい」
 ムスタファはリンドーロの話を聞いて何故かエルヴィーラのことを考える。またしても妻の方を見るのだ。
「可愛らしい顔立ちで」
「ううむ」
 だがそれには納得いかないようである。
「彫刻の様に美しいのではなくか?」
「それが私の理想の女性であります」
 リンドーロは頭を垂れて答えた。
「左様か」
「はい」
「まあよい。恋はよいものじゃ」
 ムスタファは語る。
「美女に金、何よりも生涯の伴侶を得る幸福、いいものじゃぞ」
「全くです」
「では楽しみにしておれ」
「わかりました」
「すぐにそなたは幸福になるからな」
 そこまで言って彼はその場を下がった。そして廊下を進む。その途中ハーリーが彼に声をかけてきた。
「あの、まさか」
「確かにあ奴は奴隷から解放してやる」
「では」
「しかしな」 
 ムスタファは言う。
「わしの考えはわかっておろう」
「それでは」
「わしの妻は一人だけじゃ」
 強い言葉であった。
「よいな」
「わかりました。けど」
「何じゃ?」
「奥方様は」
「言葉は二回までは取り消せるのじゃ」
 ムスタファはしれっとした様子であった。
「わかったな」
「はあ」
 結局彼も彼で素直ではないのだ。だがその臍曲がりが。とんだ惨事を起こすことになるのだ。

 アルジェの港。活気溢れるこの港で今海賊達が積荷を卸していた。
「キリスト教徒から獲って来たのはどれだ?」
 そこにはハーリーも来ていた。彼は今回の略奪には参加していなかったが頭目としてこの場を仕切っているのである。周りいは荒くれ者達が集まっていた。
「そっちにありますよ」
 船の上から一人が下を指差す。そこにはかなりの積荷があった。
「おお、随分あるな」
「へい、大漁でした」
「そうだな。金もあって」
「奴隷もありますよ」
「よし、上出来だ」
 ハーリーはそれを聞いて会心の笑みを浮かべた。
「何処までもいいな」
「その中でも上玉が一人」
「ほう」
 ハーリーはそれを聞いてさらに機嫌をよくする。
「またそれはいいな」
「ムスタファ様も大喜びですね」
「さてな、いや」
 ここでリンドーロに嫁を探してやるといった話を思い出した。
「別にいいか」
「どうかしたんですかい?」
「いや、こっちの都合だ」
「そうですか」
 そんなやり取りをしながら歩いている。その中には小柄で黒い髪に大きな黒く丸い目、少しふっくらとした頬を持つ若い女がいた。擦れ違ったら振り返るような、そうした美しさと印象を持つ女であった。赤いスカートに緑の上着を着ている。靴は白であった。
「ついてないわね」
 彼女はふう、と溜息を吐き出して言った。
「海賊に捕まってこんなところに連れて来られて」
「危害を加えられないだけましだと思いあ、お嬢さん」
 海賊の一人が彼女にこう言ってきた。
「俺達海賊なんだぜ、わかってんのか」
「わかってるわよ」
 女も負けないと言い返す。
「悲しい運命、そして儚い恋ね」
「キリスト教徒共よりずっと優しいと思うけどな、俺達」
「そうだよな」
 海賊達は女の後ろで言い合う。実際にキリスト教徒の海賊よりもイスラム教徒の海賊の方が穏やかであったりする。それに殺し方も彼等はコーランにのっとる。キリスト教徒のように惨たらしく殺すわけではないのだ。
「どれもこれも全部成り行き任せ。恐ろしさも怖さも悲しみも全部忘れてしまいたいわ」
「だから危害は加えてないのに」
「俺達ってそんなにおっかないかな」
 海賊達の言葉は彼女の耳には入らない。彼女は今他のことをかんがえていたのである。
「リンドーロはどうしているかしら。イタリアで別れてそのまま。探しに来たら私が捕まって」
 ふう、とまた溜息をついた。
「神様の御加護があらんことを。そうすればきっと希望が」
「なあ娘さん」
 海賊達がまた声をかけてきた。
「イザベッラよ」
 彼女は海賊達に自分の名を言った。
「前にも言ったじゃない」
「じゃあイザベッラさんよ」
「何かしら」
「とりあえずあんた奴隷になるから」
「奴隷」
「つってもあんた達とこみたいに酷いことはしないさ」
 そこは保障してみせる。
「俺達は奴隷でもそれなりに扱いはいいからよ」
「そうそう」
 ことさらにキリスト教徒達とは違うと言う。だがこれは実際にそうであった。オスマン=トルコは寛容な国であり奴隷であってもかなりの地位に就けたりした。無論ムスリムになれば奴隷から解放される。キリスト教よりも遥かに寛大であったのだ。
「そんなに気を落とさんな」
「今だって何の危害も加えられていないしさ」
「なあ」
「それで奴隷になってどうなるの?」
 イザベッラはあらためて彼等に問うた。
「流し目やにこやかな笑みでも誰かにあげればいいの?」
「まあそういうこった」
 海賊達は言った。
「そこのあんたはまあ召使かな」
「お慈悲を」
「タッデオさん」
 ふっくらとした姿のイタリア風の服を着た中年の男が連れられてきた。何処かひょうきんな顔をしている。少なくとも悪人の顔ではなかった。
「同じ奴隷でな」
「結局奴隷なんですか」
「それが嫌ならムスリムになるんだな」
 海賊達はイザベッラにタッデオと呼ばれたそのふくよかな男に言った。
「そうすればあんたは奴隷から解放される」
「いい話だろ」
「けど私は」
 イタリアのヴェネツィアの人間だと語ろうとした。実はイザベッラも同じヴェネツィアの人間である。
「イタリアのどっかの国なんて俺達には関係ないな」
「そんな」
 そう言われて小さくなってしまった。イザベッラが何とか強がっているのと正反対であった。
「俺達にとっちゃあの長靴にある国はあまり違いがないのさ」
「トルコの前の小国のどれかってとこだな」
「あのヴェネツィアが小国なんて」
「だってそうじゃないか」
 海賊達は言い返す。
「あんたの国なんて俺達の国に比べれば」
「ちっぽけなもんさ。ここの方がずっと大きくはないかい?」
「別にそうは思わないわ」
 イザベッラは彼等の自慢に平然と返した。
「海はやっぱりヴェネツィアよ」
「おやおや」
「気の強いお嬢さんで」
「おい御前達」
 そこへハーリーがやって来た。
「そこにいたのか。早く積荷をおろせ」
「あっ、ハーリーさん」
「こりゃどうも」
「全く。仕事が溜まっているんだからな」
 ハーリーは口を苦くしながら海賊達に対して言った。
「積荷も奴隷達も・・・・・・んっ!?」
 ここでタッデオに気付いた。
「御前は奴隷か?」
「はあ」
 タッデオはハーリーに力ない声で応えた。
「お慈悲を」
「だからこうしてここまで連れて来てやってるんだ、感謝しろって」
「けれど奴隷には」
 また海賊達に対して情けない言葉で応えた。
「全く、男の癖にだらしない」
「イタリアの男ってのは喧嘩は本当に弱いからな」
「女の子には強いのにな」
「全くだぜ」
「とほほ」
「ちょっとタッデオさん」
 あまりにも自国の男がけちょんけちょんに言われるのでイザベッラはたまりかねてタッデオに声をかけてきた。
「ちょっとは言いなさいよ」
「けどさ」
 だが彼にはどうも言い返せない。奴隷にされて落ち込んでいるのである。
「もう、情けないんだから」
「随分の気の強い娘さんだな」
 ハーリーがそんなやり取りからイザベッラに気付いた。
「ええ、それで手を焼きましたよ」
「船の中でもこんなので」
「大変だったんだな」
「まあ」
「しかし」
 彼はここでイザベッラの顔を見た。
「美人だな、えらく」
「有り難う」
 イザベッラはその言葉に気をよくして気取ったポーズをとる。
「これはいい。ムスタファ様に献上しよう」
「ムスタファ様って?」
「ここの領主様だ。知らないのか」
「ええ、残念だけど」
 タッデオとは全く違いしれっとした顔で返す。
「イタリアならともかくね」
「気が強いな。まあいい」
「嫌だって言えば?」
「ここからイタリアまで泳いで帰ってもらう」
 ハーリーも負けじと言い返す。
「運がよくて体力があればそのまま泳ぎ着けるな」
「そんなことができたらそもそも捕まっていないとは思わないの?」
「まあそうかもしれんが。それは嫌だろう」
「つまり断ることは許さないってわけね」
「そういうことだ。聞き分けはよくな」
「やれやれといったところね」
 冗談めかして言ってみせる。
「トルコ人もきついわね」
「あんた達よりはましだと思うがね」
「仕方ないわね。じゃあ行ってあげるわ」
「連れて行ってやろう。これでいいか」
「ええいいわ」
 結局ムスタファのところに連れて行かれることになった。ハーリーはもう一人連れて行こうと思った。
「御前がいいな」
「やっぱり私なんですね」
 タッデオはハーリーの声をかけられて泣きそうな顔になった。
「丁度いいじゃない」
 だがイザベッラはこう言った。
「他人だと思って」
「他人じゃないでしょ、だって姪なのに」
「えっ!?」
「おお、それは都合がいい」
 ハーリーにとってはそれはそれで都合のいいことであったのだ。
「親戚同士だとな。側にいたら寂しくないだろう」
「ちょっとイザベッラ」
 タッデオはこっそりとイザベッラに囁いた。
「何でまたいきなり」
「そうした方がいいでしょ」
 イザベッラもそれに応えて囁いた。
「他人同士よりは」
「そう言われればそうかな」
 何となくだが頷いた。
「そういうことよ。まあ任せて」
 イザベッラはにこりと笑って言った。
「イタリア女は。安くはないのよ」
「それじゃあ頼むよ」
「そっちも合せてよね」
「ああわかったよ、それじゃあ」
「ええ」
「じゃあ行くか」
 ハーリーが二人に声をかけてきた。
「もうですか」
「ここにいても仕方がないだろう?」
 もう積荷はあらかた卸してしまっていた。そして奴隷達の中には要領がいいことにもうイスラムに改宗しようとしている者達までいた。
「いいか、こう言うんだ」
 その時に何と言うべきか海賊の一人が教えていた。
「夢の中に白馬に乗った王子様が現われ」
「王子様が現われ」
「汝は今はキリスト教徒だがムスリムになる為に生まれたのだと言われたのだとな」
「それでいいんですか!?」
 奴隷達はあまりにも嘘らしいその話に首を傾げさせていた。
「そんなので」
「ああ、一向に構わん」
 だが海賊は自信満々であった。
「俺もそう言ってイスラム教徒になったからな」
「そうだったんですか」
「俺だって最初はキリスト教徒だったんだよ」
「何と」
 衝撃の事実であった。
「だが捕まってな。それで奴隷になるのが嫌で改宗したんだ」
「何とまあ」
「だからわかるんだ」
 つまり実経験から語っているのである。
「それだけでいいんだ」
「それでイスラム教徒に」
「その通りだ、イスラムはいいぞ」
 満面に笑みを讃えながら言う。
「皆平等でアッラーが与えて下さるものもいい。奥さんは四人まで持てる」
「四人まで」
「もっとも公平に愛さないといけないけれどな。それでも四人も持てる」
「それはいい」
「しかもレディーファーストだ」
「本当ですか!?」
 女達がそれを聞いて驚きの声をあげる。
「キリスト教よりずっとな。アッラーは女性も護って下さる」
「それは素晴らしい」
「けれどお酒は」
「豚肉も」
「どうしてもそれ等を口にしたいか?」
 それを問うとであった。
「はい」
「やっぱり酒と肉は」
「アッラーよ赦し給え」
 彼は突然そんなことを言い出した。
「何ですか、それ」
「酒を飲む前にこう言えばいいんだ」
「それでいいんですか」
「そうだ、アッラーは心優しき神、赦して下さる」
 こう述べた。
「それなら何の迷いもない」
「一日五回の礼拝もそれだけいいのがあれば」
「是非イスラムに」
「アッラーよ」
 こうして上手い具合にイスラム教徒に仕立てあげていった。実際にイスラムは他の宗教も認めているが同時にムスリムになった場合の特典も見せて勧誘していたりする。しかもそこには嘘偽りはなかった。王侯も乞食も同じイスラムなのだ。しかもムハンマドの考えの影響でイスラムは女性の権利に関してはこの時代極めて進んでいた。ムハンマドはフェミニストだったのだ。酒も豚肉もある程度大目に見られた。そうした宗教であるから爆発的に広まり大きな勢力となったのである。ただ単に大きくなったのではないのだ。
「何かあっちは騒がしいね」
「フン、私にとっては関係ないことだわ」
 イザベッラは改宗する者達に背を向けてこう言った。
「じゃあ行きましょう」
「行くしかないんだね」
「そうよ、行かなきゃどうにもならないのよ」
 そしてまた言った。
「何事もね」
「わかったよ、それじゃあ」
「ええ」
 二人はハーリーについてその場を後にした。荷馬車に入れられて宮殿に向かう。とりあえず港を後にするのであった。

 宮殿の中。エルヴィーラが悲しい顔をして自室にいた。絹のカーテンを握って窓の外を見ていた。
「御妃様」
 そんな彼女にまたズルマが声をかけてきた。
「そんなに悲しまれては」
「そんなこと言われても」
 エルヴィーラの顔は晴れはしなかった。憂いに満ちた顔をズルマに向けてきた。
「悲しまずにいられないわ」
「悲しい顔をされるから悲しいのですよ」
「笑えっていうの?」
「はい」
 ズルマは答えた。
「どんな時でも笑わないと」
「出来ないわ、今は」
 それでもエルヴィーラは今はとてもそんな心境にはなれなかった。
「とても」
「やはり御心配なのですね」
「心配じゃないって言えば嘘になるわ」
「やっぱり」
「このまま。あの人は私を」
「それはないですよ」
「そうかしら」
 そんな言葉は気休めにしか思えなかった。
「私はそうは思えないけれど」
「だって旦那様は」
「おい」
「あっ」
「あの人ね」
 ムスタファの声であった。彼はやたらとにこにこした顔で部屋に入って来たのであった。相変わらずハーリーや従者達を連れている。
「よい話があったぞ」
「何でしょうか」
「先程奴隷が届いたのだがな」
「はい」
 エルヴィーラは夫と正対していた。そして話を聞く。
「その中にとびきりの美女がいたらしいのだ」
「えっ」
 エルヴィーラはそれを聞いて顔を真っ青にさせた。ムスタファはそんな妻の顔を見て内心ほくそ笑んでいた。
(うむ、驚いているな)
 それを見ただけで何か楽しくなってくる。子供めいた楽しみだ。
(それでは)
「ハーリー」
「はい」
 あらためてハーリーに声をかけた。
「してその奴隷は」
「こちらでございます。さあ」
「はい」
 従者の一人がそれに応えて一旦退いた。そしてアラビア風の服に着替えみらびやかに着飾ったイザベッラを連れて来たのであった。
「如何でございましょう」
「そうじゃな」
 ムスタファはまずはエルヴィーラの方をチラリと見た。そのうえで述べた。
「よいではないか」
「有り難うございます」
(あら)
 エルヴィーラはムスタファのその視線に気付かなかったがズルマは気付いた。
(旦那様ったら)
 そしてこっそりとハーリーの方に来て囁いた。
「ねえハーリーさん」
「何だい?」
 ハーリーはそれを受けて彼女に耳を貸す。
「もしかしてまた?」
「わかるだろ」
 ハーリーは何も飾らずにそう返した。
「いつものあれさ」
「やっぱり」
「いつものことじゃないか」
「けれど御后様は凄く心配してらっしゃるわ」
 そう言ってエルヴィーラに顔を向けた。ハーリーもそれに続く。見れば今にも崩れ落ちそうな顔をしていた。
「確かに」
「どうするつもりなの?」
「どうするつもりだって言われてもな」
 ハーリーはムスタファが夢中でエルヴィーラに意地悪をし、エルヴィーラがそれに塞ぎ込んでいる端でズルマと話を続けていた。
「旦那様のあれは殆ど日常だし」
「困ったわね」
 実は二人もムスタファのこの子供っぽさに困っていたのである。
「ではエルヴィーラよ」
「はい」
「そなたはどうするつもりなのじゃ?」
「どうするつもりとは」
「わしは妻は一人じゃ」
 ムスタファはまたしても意地悪そうな笑みを浮かべてエルヴィーラに言った。
「一人。それは知っておるな」
「はい」
 それに力なく頷いた。
「ではここで妻を迎えたとする」
「私は」
「わしが後一回じゃな。あれを言えば」
「それで」
「イタリア男の嫁になる。どうじゃ」
「それは・・・・・・」
 顔が真っ青になって何も言えなくなる。その困った様子を見るのがムスタファの趣味なのである。
「旦那様もね」
 そんなムスタファを見てズルマは言った。
「あれさえなければね」
「そうだよな、凄くいい人なのに」
 ハーリーもそれは同意であった。
「ささ、あのイタリア男を呼んでまいれ」
 二人をよそにムスタファは従者達に言う。
「エルヴィーラに会わせる為にな」
「あれで御妃様がいないと凄く困るのに」
「この前メッカに行かれた時は凄かったんだって?」
「そうよ、もうずっと塞ぎ込んじゃって」
 ズルマはその時のことを言いはじめた。
「何もできなくなって。それで御后様が帰って来られたら大喜び」
「難儀だな。何で素直になれないんだか」
「そういう人だからね」
「それでじゃ」
 ムスタファはイザベッラに声をかけていた。チラリとエルヴィーラを見ながら。
(あら) 
 その目の動きにイザベッラも気付いた。
(この旦那様あの奥方に御執心ね)
 いい加減誰にでもわかるものであった。わかっていないのは当人とエルヴィーラだけである。エルヴィーラにしろ深窓の令嬢なのかどうにも鈍かった。
「して娘よ」
「イザベッラでございます」
 イザベッラはムスタファに一礼して名乗った。
「うむ、ではイザベッラよ」
「はい」
「ここに呼ばれたのは何故だと思うか」
「さて」
 まずはとぼけてみせた。
「旦那様の御加護でしょうか」
「確かにわしは慈悲深い」
「自分で言わなければね」
「完璧なのにな」
 ズルマとハーリーが後ろで突っ込みを入れる。
「コーランにのっとってな」
「はい」
「そしてじゃ」
 またエルヴィーラを見た。悲しさのあまり俯いていた。
(うむうむ、良いぞ)
 エルヴィーラの悲しむ様子を見て満足を覚えていた。
「何で御后様もわからないのかね」
 ハーリーにとってもこれは不思議であった。
「いい加減誰にもわかるものなのに」
「御后様もあれで純情なのよ」
「純情!?」
「そうよ」
 ズルマは答えた。
「それが何か?」
「いや、あれはな」
 鈍感じゃないのかと言おうと思ったがそれは止めた。ズルマはエルヴィーラ一筋の忠誠心溢れる使用人なのである。下手なことを言えばどやされるのはこっちであった。
「まあいいさ」
「そうなの」
「今回も落ち着くところで落ち着くかな」
「落ち着かせるわ」
 ズルマは強い声で言った。
「私がね」
「じゃあ期待させてもらうよ」
「協力してね」
「あらら」
 ハーリーはその言葉にずっこけた。見れば今度はタッデオがムスタファに声をかけていた。
「あの、旦那様」
 おずおずとムスタファに言う。イザベッラと共に釣れて来られてきたのだ。
「何だ、御主は」
「私の叔父です」
 イザベッラは港で創作した設定をムスタファにも述べた。
「叔父か」
「はい」
 イザベッラは頷いた。
「旅行中に囚われまして」
「左様であったか」
「そしてここまで」
「ううむ」
「御慈悲を」
「だから別に悪さをせねば何もせぬ」
 ムスタファはうざそうな顔でタッデオに言った。
「安心してよいぞ」
「はあ」
 それを聞いてもまだ安心してはいなかった。オドオドした様子は相変わらずであった。
「それにしても」
 ムスタファはそんなタッデオとイザベッラを見比べて言った。
「本当に血が繋がっておるのか?姿も似ておらんし」
「そうですよ」
 イザベッラは平気な顔をしてそう述べた。
「信じて頂けませんか?」
「どうにもな」
 彼は答えた。
「似ても似つかん」
「けれど本当なのですよ」
 似ても似つかわないという言葉には正直に返した。
「ふむ」
「旦那様」
 そこへリンドーロを呼びにやっていた。従者が戻ってきた。
「リンドーロを連れてきました」
「うむ」
 それに頷き部屋の中へ入れる。彼を見てイザベッラは思わず声をあげそうになった。
「えっ」
(何と)
 タッデオも。イザベッラは何とか口には出さなかったがタッデオは違っていた。
「お、おい」
 だがここでイザベッラはタッデオの足を思い切り踏んだ。
「痛っ」
「どうしたのじゃ?」
「あら、御免あそばせ」
 イザベッラは平然とムスタファに応える。
「叔父様、足を踏んでしまいましたわ」
「何じゃ、気をつけるがいい」
「申し訳ありません」
 それに謝りながらタッデオに声をかける。
「今は静かにしていてね」
「ああ、済まない」
 足を押さえてヒイヒイ言いながらそれに応える。タッデオにとっては迂闊なことであったが災難でもあった。
「まさか」
 リンドーロの方も気付いていた。
「イザベッラが」
「リンドーロが」
 二人は顔を見合わせている。ムスタファはエルヴィーラを見て得意になっており、エルヴィーラは嘆いて俯いているのでそれには気付かない。だがズルマとハーリーは違っていた。
「あら、あの二人」
 最初に気付いたのはズルマであった。
「面白そうね」
「面白そうとは?」
「ほら、見てよ」
 そう言ってイザベッラとリンドーロを指差す。
「何か変な様子よ」
「確かに」
 ハーリーもそれに気付いた。
「知り合いかな」
「リンドーロさんってイタリア出身だったわね」
「ああ、ヴェネツィアさ」
 ハーリーは答えた。
「で、あの二人も」
「ふうん、じゃあ若しかして恋人同士だったのかも」
「まさか」
「世界ってのは狭いわよ」
 否定しようとするハーリーにあえてこう言った。
「それこそ目と鼻の先にあるようなもの」
「同じヴェネツィアだしな」
「そういうことよ」
「まさかこんなところで」
「何て運命の悪戯」
 リンドーロとイザベッラはお互いを見詰め合っていた。
「遠く離れた異郷の地でまた巡り会えるなんて」
「これこそ神様のお導きなのね」
「ううむ、運がいいと言うべきか」
 タッデオはそれを見て一人呟いていた。
「けれど奴隷じゃな。どうしたものか」
「ふふふ、困っておるな」
 ムスタファはムスタファで自分の奥方を見ている。
「さてさて、困った顔も美しい」
「これで私もお終いなのね」
 エルヴィーラは一番自分の世界に入ってしまっていた。他の誰の様子も目に入りはしない。
「アッラーよ、お救い下さい」
「さてと」
 ムスタファはここで意地悪の最後の仕上げに入った。
「これリンドーロよ」
「は、はい」
 リンドーロはその言葉に慌ててムスタファに応える。顔をイザベッラから離した。
「ここに呼んだのは他でもない」
「どのような御用件でしょうか」
「実はな、そなたを幸せにしてやろうと思ってな」
「私をですか」
「そうじゃ。どうじゃ?」
「はあ」
「何じゃ。嫌なのか?」
 リンドーロの顔が晴れないのにすぐに気が付いた。
「いえ、そうではないですが」
「ふむ。だといいがな」
 そうは言いながらも内心それでほっとしていた。彼もエルヴィーラと別れるつもりはないからだ。
「では何が欲しいのじゃ?」
「何と言われましても」
 これといってはないのだ。
「今のところは」
「ふむ、そちは無欲じゃな」
「旦那様」
 そしてすぐにイザベッラが話に入って来た。
「今度はそなたか」
「私には欲しいものがあるのですが」
 彼女は一礼してから述べた。
「宜しいでしょうか」
「うむ、申してみよ」
 彼は鷹揚な仕草でそれに頷いた。
「何でもよいぞ」
「ではこちらの従者を一人私に」
「従者をか」
「今目の前にいるこのイタリアの若者を」
「あら、考えたわね」
 ズルマはそれを聞いてニヤリと笑った。
「彼を囲おうってのね」
「そうなのか」
 ハーリーはそれを聞いて二人をまた見た。
「ええそうよ。やっぱり恋人同士ね」
「成程、それでとりあえずは手許に置いて」
「そこからまた何かするわよ。面白くなってきたわ」
「何か嬉しそうだね」
 そんなズルマのうきうきとした顔を見て言った。
「どうしたんだい?」
「だって御妃様にとってはいい展開だから」
「そういえばそうか。けれどどのみち旦那様は本当は別れる気はないぜ」
「それでもよ。御妃様に意地悪するのはやっぱり」
 ズルマはここでは顔を顰めさせた。
「許せないわよ」
「相変わらず御妃様一筋ってわけか」
「そういうこと。御妃様の為なら火の中水の中よ」
 それがズルマの心得であった。その心のまま話の流れを見守っていたのである。
「旦那様」
 イザベッラはここで切り札を出してきた。思い切りの微笑をムスタファに見せてきたのだ。
「それでは」
「うむ」
 ムスタファは頷く。その後ろにはズルマとハーリーがいる。
「さて、これで舞台は一つ進んだわ」
「吉と出るか凶と出るか」
「出すんじゃないわ」
 ズルマはハーリーにそう返した。
「するのよ。わかったかしら」
「了解。それじゃあ」
「御礼は後で弾むからね」
「別にいさ、それは」
 だがハーリーはにこりと笑ってこう言うのだった。
「あら、どうして?」
「こっちもこっちであの素直でない旦那様の為に動いてるからな」
「そういうことね」
「ああ、じゃあな」
 意気揚々とリンドーロと共にその場を後にするイザベッラ。そしてその後にはタッデオがついてくる。ムスタファは相変わらず鷹揚な態度は変わらずズルマとハーリーはそれを後ろで見守っている。悲しんでいるのはエルヴィーラだけ。けれど彼女の周りには人が大勢いた。





天邪鬼?
美姫 「かもしれないわね。でも、お后がちょっと可哀相よ」
うーん、この先どうなるんだろう。
ちょっと楽しみ。
美姫 「次回も待ってますね」
ではでは。



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