『ホフマン物語』
第五幕 ホフマン
「これで終わりさ」
三つの話を全て語り終えたホフマンはここでこう宣言した。既に泥酔し、前後不覚となっていた。
「どうだった、この話は」
「実に面白い話だったと言うべきでしょうな」
リンドルフはもっともらしい顔をしてこう言った。
「中々ためになりました。女というのは複雑なものです」
「貴方が言うとはね」
ホフマンはそれを受けてリンドルフに顔を向けた。
「何故かはじめて御会いした様には思えなかったですが」
「いや、それは気のせいでしょう」
彼は笑いながらそれに返した。
「少なくとも私は。ここで会ったのははじめてですぞ」
「ここでは」
「左様。それでは舞台もあがったようなので」
「おっ」
ホフマンの話に聞き惚れていた学生達はリンドルフのその言葉に我に返った。聞けばもう拍手と喝采の声がオペラハウスの方から聞こえてきていた。
「終わったのか」
「気付かなかったな」
彼らは口々にこう言い合った。
「まあいいか、ホフマンさんの話を聞けたし」
「今度の話も小説のいい題材になるだろうな」
「そうだな」
「それでは私はこれで」
リンドルフはそっとそこから立ち去った。そして扉を開け酒場を後にする。
「女はわしのものになったしな。後はこの詩人殿が自分のものを見つけるだけ。違いますかな」
そう言ってニクラウスの方へ目をやった。
「女神様」
「女神!?誰のことでしょう」
ニクラウスはその言葉に涼しい顔をして返した。
「僕はニクラウスですが」
「ではニクラウス君」
「はい」
「後は任せましたぞ、契約通り」
「ええ、御苦労様です」
彼はリンドルフにこう言葉を返した。
「ただ、後でちょっと協力を願いますよ」
「やれやれ、仕事とはいえ辛いことだ」
彼は笑いながら言葉を返した。
「ではお金は割り増しということで」
「はい」
「私だけで足りますかな」
「皆にも来てもらいますよ」
「わかりました。それでは」
「また御会いしましょう」
こうしてリンドルフは酒場から消えた。ホフマンはそれに目も向けずまた黒ビールを一杯飲み干した。それからある名を口にした。
「ステッラ」
「ステッラ!?」
それを聞いた学生達の目の色が変わった。
「どうしてここでステッラの名前が」
「わからなかったかな、さっきの三つの話で」
ニクラウスはここで学生達に対して言った。
「さっきの話で!?」
「そうさ。あれに出て来た三人の女性達はね」
「うん」
「皆一人の女性だったのさ。あれは女性の持つそれぞれの顔を表わしたものだったんだ」
謎は解けた。三人の女性は一人だったのだ。
「そうだったのか」
「じゃあ彼はステッラを」
「そんなことはもうどうでもいいさ」
ホフマンは酔い潰れる寸前の状態でこう言った。
「酒さえあれば。さあ飲もう」
そう言って学生達にも酒を勧める。
「美味いぞ、今日の酒は」
「まだ飲むのか」
「ああ、今日もとことんまで飲んでやるさ」
杯を手にしたままこう宣言した。
「だから皆も飲もう、とことんまでな」
「それじゃあお付き合いしますか」
「有り難う」
ホフマンはそんな学生達に対して礼を述べた。
「それじゃあ頼むよ」
「了解」
「マスター、どんどん持って来て」
「おいおい、大丈夫かね」
マスターはそれを聞いて笑いながら返した。
「お金の方は」
「お金なら持ってるよ」
「それじゃあ身体の方は」
「何、酔い潰れたらそれまでさ」
ホフマンと学生達は笑ってこう言った。
「酔い潰れた奴は床の上だ」
「そしてそのまま寝てしまえ」
彼らは口々にこう言う。
「最後の一滴まで飲んじまえ」
「後のことなんて知るもんか」
「そうさ、今は酒さえあればいい」
ホフマンはまた言った。
「飲んでやる、とことんまでな」
「ホフマン」
ニクラウスがそんな彼に声をかけてきた。
「何だい?」
「それでいいんだね」
「ああ、構わないさ」
彼は自暴自棄気味にこう言った。
「どうせ僕には酒しかないんだからね」
「そうなのか」
「ああ。酒は全てを忘れさせてくれる。嫌なことも何もかも」
やはり三つの話をしたことは彼にとってこたえることであったのだ。苦渋を込めた声で言う。
「オランピアもアントニアもジュリエッタのことも何もかも」
「それは誰のことなのかしら」
ここで突如として声があがった。女の声であった。
「聞いたことのない名前だけれど」
そこには絹の赤いドレスで着飾った貴婦人がいた。黒い髪に緑の目を持っている透通る様な白い肌の女性であった。細面の顔に紅の小さな唇をしている。まるでルネサンス時代の絵の中から出て来た様な美女であった。
「誰のことなのかしら」
「ステッラ」
それを聞いた学生達が彼女に顔を向けた。
「どうしてここに」
「ちょっとここに来る様に言われたから。それで来たのですけれど」
彼女は答えた。その声は美しくまるで天使のそれであった。
「そうでしたね、アンドレ」
「はい」
アンドレはそれに頷いた。
「そうして来たのだけれど。ホフマンさんは酔い潰れているし」
「あれが彼の最も好きなものなのですよ」
ここで酒場の扉がゆっくりと開いた。そしてリンドルフが何事もなかったかの様にすうっと姿を現わしてきたのであった。
「リンドルフさん」
「彼は飲んでいる間ずっと言っていました。今までのことを」
「今までの」
「そう、それは全て貴女にまつわる話でもあります」
「私に」
ステッラはそれを聞いてホフマンを見る。しかしそれは一瞬のことであった。
「全ての女性は様々な一面を持っている。貴女も然り」
「そうなのですか」
「ですが彼はその全てに振られてしまったのです。正確には振られたわけではありませんが結果的にはそうなった」
「はい」
「この意味がおわかりでしょう」
「わかりました」
彼女はそれを聞いて俯いて頷いた。
「私は。あの人には相応しくないのですね」
「芸術家と時として恋愛を必要としないもの」
リンドルフは言った。
「必要としながらそれに身を任せることが許されない時もあるのです。今の彼がそれです」
何故か耳元で囁くのではなく語り掛けてきた。今までとは全然違っていた。
「おわかりでしょうか」
「はい」
彼女はまた頷いた。
「では私はこれで」
「お送りしましょう」
リンドルフはそう言って彼女の手をとった。
「宜しいですね」
「はい」
これが最後の頷きであった。こうしてステッラはリンドルフに連れられ酒場を後にした。その後ろをアンドレがついて行く。ニクラウスはそれを静かに見送っていた。
だがホフマンは相変わらず飲んでいた。もうステッラのことはどうでもよかったのである。
「まだあるかな」
「まだ飲むのかい」
ニクラウスも学生達も流石に驚いた。
「ああ、飲んでやるさ」
彼は言った。
「幾らでも。さあ、持って来てくれ」
「いいけれどステッラさんはどうするんですか?」
ナタナエルが聞いてきた。
「もう行っちゃいましたよ」
「ステッラ。誰だい、それは」
「誰だいって」
こう言われては言葉を失うしかなかった。
「歌姫の」
「アントニアのことかい」
「まさか」
「じゃあオランピアだ。人形だけれどいい歌だった」
ホフマンは言うがナタナエルはそれを否定する。
「違いますよ」
「そうか、わかったぞ」
「はい、それは」
ナタナエルはやっとわかってくれたかと喜びの声をあげた。
「そう、その歌姫は」
「ジュリエッタだ。折角もう少しで心を取り戻せたのに、残念だよ」
「・・・・・・駄目だこりゃ」
もう完全に酒に溺れていた。ナタナエルはそれを聞いて完全に匙を投げてしまった。
「こうなってはもう話をしても無駄だね」
「じゃあどうしよう」
「とりあえず俺達はお開きにしよう。今のホフマンさんには何を言っても無駄だよ」
「どうやらそうみたいだね」
仲間の学生達も頷いた。ホフマンはその間にも飲んでいた。
「ルーテルはいい奴さ」
飲みながら一人で唄っていた。
「酒場にはいつも人がいて」
唄を続ける。
「素敵な仲間がうんといる。こんな酒場は他にない」
「ホフマンさん、じゃあこれで」
ナタナエルと学生達はそんな彼に声をかけた。
「おやすみなさい」
「また明日」
「明日には酒倉は空になってるさ」
彼はまだ歌っていた。
「そしてまた飲もう」
そして飲み続けた。もう誰もいないというのに。
いや、いた。ニクラウスだけがそこにいた。
「ねえ」
彼は声をかけた。だがそれはホフマンに対してではない。
「わかっているわ」
女の声がした。それは彼の影から聞こえていた。
「もういいんじゃないかな」
「そうね」
影は彼の声に頷いた。
「それじゃあ交代ね」
「うん。とりあえず僕の仕事は終わりか」
「後は私に任せて。今まで御苦労様」
「いやいや」
ニクラウスは床に沈んでいった。そしてそのかわりに影が浮き出る。それは影から色をつけ、女性の姿へとなっていった。
ニクラウスはそれに対して徐々にその身体を黒くしていった。そして影になっていく。こうして両者は完全に逆転してしまった。
「ホフマン」
今まで影だった女性がホフマンに声をかける。ニクラウスと同じ顔のその女性はミューズであった。
「酔い潰れてしまったのね」
「いや、まだだ」
だが彼はまだ潰れてはいなかった。その手に杯を持ってミューズに顔を向けた。
「ニクラウス、君も一杯」
「私はニクラウスではないわ」
ミューズはそんな彼に対して言った。
「私はミューズ。貴方の守り神を」
「僕の」
「ええ。詩人であり音楽家である貴方のね」
「何時から僕の側にいたんだい、貴女は」
「ずっと前から」
彼女は言った。
「ずっと貴方を見ていたわ。そして見守ってきたの」
「ずっとかい」
「ええ」
ミューズは頷いた。
「ずっと。そして今も」
「そうだったのか」
「三つ、いえ四つの恋の時も私は側にいたわ」
にこりと笑って告げてきた。
「じゃあ貴女は」
「けれどそれはどうでもいいこと。その恋から貴方は大きなものを得たのだから」
「それは一体」
「芸術よ」
優しい声でこう語った。
「それを手に入れたことに比べれば今までのことはほんの些細なこと」
「些細なことなのか」
「ええ」
ホフマンの言葉に頷いてみせてきた。
「けれどずっと僕の心に残り続ける。傷として」
「傷として」
「そうだ。これは現実のことなのだから」
「それを疑ったことはないの?」
「えっ!?」
ホフマンはミューズのその言葉に顔を向けた。
「それは一体。どういうことなんだい?」
「現実の世界と幻想の世界なんて境は曖昧なもの。あれは幻の世界でのことだったのよ。そしてステッラのことも」
「嘘だ、それは」
ホフマンはそれを否定した。正確に言うならば否定したかった。もう何が現実で何が幻想なのかわからなくなってきていた。酒のせいだけではなかった。
「嘘だと思うのなら後ろを御覧なさい」
「後ろを」
「ええ。そうすればわかるわ」
見ればその通りであった。そこにはステッラがいた。アンドレもナタナエルも。そして今まで会ってきた人達が。いないのはあの三人の女と三人の黒服の男だけであった。それが何故なのかもうホフマンにはわかっていた。
「皆・・・・・・」
「皆貴方の世界の中にいたのよ。だから今こうしてここにいるの」
「では今僕がここにいる世界は幻の世界」
「いえ、それもまた違うわ」
彼女はそれも否定した。
「違うのかい?」
「ええ。今いるのは現実の世界」
「どういうことなんだ」
ホフマンにはもう訳がわからなくなってきていた。
「僕はどっちの世界にいるんだ」
「両方の世界に」
「現実と幻想の両方にか」
「言ったでしょう。現実と幻想の境なんて曖昧だと」
「しかし」
ホフマンはそれに異議を述べようとする。しかし相手の方が早かった。
「これが芸術の世界なのです。貴方が手に入れた」
「現実と幻想を行き来出来る世界」
「ええ。それが貴方に無限の才能をもたらすわ。芸術家としての貴方に」
「それじゃあ今までの苦しいことは」
「試練だったのです」
また優しい声で言った。
「試練」
「ええ」
「人は成長するものですから」
「そう」
それにステッラもリンドルフも頷いた。皆が頷いた。
「人は愛によって大きくなり」
「涙によってさらに成長するのだから」
「じゃあ僕が今まで経験してきたことは」
「その礎だったのです」
そういうことであった。失恋の痛みもまた。
「芸術を得る為の」
「そう、そして貴方は本当の意味での芸術家になったのです」
「そうか、そうだったのか」
「これからは貴方は自分の意思で道を開くことがあります」
「芸術の道を」
「それこそが貴方の道。さあお立ちなさい」
「うん」
彼はミューズに言われるがままに立ち上がった。
「そして歩いていくのです」
「僕の道を」
「そう、貴方の道を。これからも多くのことがあるでしょうが」
「立ち止まることは許されないね」
「はい、音楽家として」
「そして詩人として」
そういうことだった。ホフマンを芸術に導く為だったのだ。全ては、
「貴方は今その道の入口に立ったばかり」
「戻ることはできないね」
「戻りたいのですか?」
ミューズはそれを聞いて問うてきた。
「貴方は」
「まさか」
だがホフマンはそれを一笑に伏した。
「僕はこのまま歩いていくよ、ずっとね」
「そう、そして」
「何処まで行けるか行ってみる。一人でね」
「任せていいのですね」
「うん」
「それじゃあホフマン」
ミューズはこれまで以上に優しげな笑みを浮かべた。そして言った。
「さようなら」
「さようなら」
ミューズは消えた。ホフマンはそれを見届けた後で後ろにいあるステッラやリンドルフ達にも声をかけた。
「君達にも御礼を言わないと行けないね」
「何故に」
リンドルフは今までとは全く違う笑みを浮かべてホフマンに尋ねてきた。
「少なくとも私は違うと思いますが」
「君が完全に現実の世界の人間だったらね」
ホフマンはそれに対してはこう返した。
「けれど違うから」
「左様ですか」
「ステッラは一人じゃなかった。君もまた一人ではなかった」
そういうことだった。彼もまた。
「はい」
「どうやら僕は君とニクラウス、いやミューズに案内されていたようだね。今のこの道の入口に」
「その通りです」
「道を案内するのは神だけじゃないのか」
「私共も致しますよ」
リンドルフははじめてにこやかに笑って応えた。
「少しやり方は違いますが」
「おかげでえらい目に遭い続けてきたけれどね」
「それは何故かおわかりですね」
それをホフマンに問う。顔にも声にも悪意はない。
「それは君も言ったね」
「はい。人は愛によって大きくなり」
「涙によってさらに成長する。そういうことだね」
「そういうことです。では私の目的は果たされましたので」
「これでお別れか」
「はい。またいずれ御会いしましょう」
心地よい別れになる。その時のホフマンの言葉は。
「今度会う時は手加減してくれよ」
「さて、それはどうでしょうね。ははは」
彼は笑い声と共に姿を消した。同時にステッラも他の者達も姿を消してしまっていた。
「行ったか、皆」
ホフマンはそれを眺めた後で一人呟いた。
「ステッラは彼のものになったが僕は他のものを手に入れた。ミューズと彼に教えられた」
呟きながら顔をあげる。
「行くか、その道に」
そう言いながら前に進み酒場の扉の前に行く。金はテーブルの上に置かれていた。
ホフマンは扉を開けた。そこがはじまりであった。
今彼は現実と幻想の狭間にある世界に足を踏み入れた。その先にあるのは何かわかっている。
彼はその中を歩きだした。扉はゆっくりと閉じられ彼の後ろを守っていた。
ホフマン物語 完
2006・1・2
三人の女性は全て一人の事を。
美姫 「全ては幻想と現世の狭間で」
うーん、ホフマン自身がこれで納得したという事は、一良いエンドだったのかな。
美姫 「芸術家としては良かったのかもね」
中々に予想外のお話だったな〜。
美姫 「面白かったわね」
うんうん。投稿ありがとうございました。
美姫 「ありがとうございました〜」