『ホフマン物語』




               ジュリエッタ


 大晦日のヴェネツィアは冬だというのに暖かい。イタリア特有の南国の気象もあることながらその開放的な空気と青い空が人にそうした心を与えているのであろうか。この街は冬だというのに晴れやかであった。ドイツの寒く、重い冬空とは全く異なっていた。それと比べるとまるで楽園の様であった。
 大晦日であり着飾った人々が街の中の至るところにいた。この街の名物であるゴンドラにもこの年最後の日、そして去りゆく年を懐かしむ人達が多くいた。ホフマン達もその中にいた。寒いドイツの冬を避けてこの街に保養に来ているのである。この時ホフマンはかなり前にドレスデンで見掛けたとある作曲家のことを考えていた。
「あの小柄で大きな頭をした男」
 鋭い光を放つその男のことが頭から離れなかった。
「彼もこの街が好きだったそうだな」
 一度酒屋で出会い、その時は意気投合して飲んだのである。話してみればかなり独特な男で尊大で自意識過剰であったがどういうわけか惹かれるものがあった。
「今はどうしているかな」
 風の噂ではドレスデンでもあった革命騒ぎで逐電したらしい。
「どうにも個性的な奴だったがそのうち名前を挙げるだろう」
 彼は直感でそれを感じていた。
「あれだけの才能があれば。出て来れない筈がない」
 そう思い終えたところでその考えを別のものに移した。赤いワインにである。
 ホフマンは水路に面した洒落た酒屋の外で飲んでいた。青い空に水色の水路を眺めながらそこでパスタと赤ワインに舌鼓を打っていた。見れば店の外のテーブルは何処も満員であった。
「おおい、ホフマン」
 その水路から彼を呼ぶ声がした。
「そこにいたのか」
「その声はニクラウスか」
 ホフマンはその声に気付き顔を水路の方に向けた。するとそこには一隻のゴンドラがあった。ニクラウスと情熱的な黒い髪を持つ豊満な胸の女性がそこにいた。
 見れば一目で心を奪われる様な美貌の持ち主であった。白い絹の服からもはっきりわかる豊かな胸に細身の身体。顔は気品があり一見すればそれは貴婦人のものである。だがその身体全体から漂わせるけだるささえ混じった妖しいまでの色気が彼女を貴婦人ではないと語っていた。その琥珀にも似た大きな目も紅く小さな唇にも濃い化粧が施されていた。それを見てホフマンは彼女が何者かわかった。
「娼婦か」
 そう、その雰囲気はまさに娼婦のそれであった。何よりもその物腰が彼女が娼婦であることを物語っていた。仕草の一つ一つに男を惑わせる何かがあるのだ。
「こんなこともわかるようになったんだな」
 ホフマンは自嘲めかしてこう呟いた。
「今までのことで。わかりたくはなかったのに」
 ローマ、そしてミュンヘンでの辛い経験が彼に女性とは何であるかを僅かながらであるが教えたのだ。だがそれは僅かであり彼は完全にはわかってはいなかった。わかるまでにはまだ相当の苦しみが必要だったのである。しかし彼はそれをまだ知らないでいた。
「そちらの方は」
 彼は呟くのを止めニクラウスに問うた。
「こちらの方かい?」
 ニクラウスはそれを受けてホフマンに聞きなおした。その女性を手で指し示しながらである。
「ああ。君の知り合いかい?」
「このゴンドラでたまたま一緒になったんだ」
 ニクラウスはそう語った。
「ジュリエッタと申します」
 彼女の方から名乗った。
「ジュリエッタ」
「はい。宜しくお願いしますね」
「え、ええ」
 ホフマンはその声を聞くと何故か声を上ずらせた。
「こちらこそ。宜しくお願いします」
「今宵は綺麗な夜になりそうです」
「綺麗な夜に」 
 ホフマンはそれを受けて顔を見上げた。
「雲一つありませんから」
 彼女はまた言った。
「楽しみですね。いい夜になりますよ」
「そうですね」
「今日という日は二度と来ませんから」
 ホフマンに囁く様にして言う。
「美しい、忘れられない夜であれば何よりです」
「はい」
 ホフマンは頷いた、もう彼女から目を離してはいなかった。
「ホフマン」
 ゴンドラが側までやって来た。ニクラウスはそこから降りながら彼に声をかけてきた。
「何だい?」
「それはイタリアのワインだね」
「ああ、そうだけれど」
 ホフマンはそれに答えた。
「飲むかい?美味いよ」
「ああ、是非」
 ニクラウスは答えながら彼の方に歩み寄ってきた。そしてジュリエッタにも顔を向けた。
「貴女もどうですか?」
「宜しいのですか?」
「ええ、どうぞ」
 ホフマンはにこやかに笑ってそれに頷いた。
「飲むのなら人が多い方がいいですから」
 少し寂しげな顔でこう言った。するとジュリエッタもそれに気付いた。
「あの」
 彼女は何も知らないといった顔でニクラウスに尋ねてきた。
「何でしょうか」
 ニクラウスは小声でそれに応えた。
「何かあったのですか?あの方は。深酒の様ですが」
「ちょっとね」
 ニクラウスは苦笑いを浮かべて答えてきた。
「ミュンヘンで婚約者を亡くしたばかりで」
「そうだったのですか」
「はい。そのショックからまだ立ち直れていないんですよ。それで酒浸りになっています」
「何て可哀想な方」
「元々酒は好きな方でしたけれど。最近は特に」
 ニクラウスは困った様な顔をして述べる。
「僕も困っているんですよ。どうしたらいいか」
「そうだったのですか」
「おおい二人共」
 二人の会話はホフマンには届いてはいなかった。彼はそんなことよりも今は酒の方が大事であった。その酒を二人にも勧めてきたのだ。
「飲むんだろう?早く来いよ」
「ああ、わかった」
「それでは御言葉に甘えまして」
 二人はそれに誘われる形でテーブルに就いた。そして乾杯の後でワインを口にした。
「へえ、これがヴェネツィアのワインか」
 ニクラウスはその赤いワインを飲んでまずは目を丸くさせた。
「美味いね、君の言う通り」
「そうだろう。いい気分になれる」
 ホフマンは赤い顔でそれに応じた。
「酒はやっぱりいい。飲んでいる時が天国だ」
「天国か」
「そうさ。僕にはやっぱり普通の人の様な幸せは望めない」
 恋愛のことを言っているのは言うまでもない。
「じゃあ酒だ。酒こそが僕にとって幸せであり天国なんだ。他に何があるっていうんだ」
「こんな調子なんですよ」
 ニクラウスはジュリエッタに小声で囁いた。
「何もかも酒で忘れようとしているんですよ。どうしたものか」
「どうにかならないのでしょうか」
「なるかも知れないですが。案外強い男ですから」
 ニクラウスは囁き続ける。
「時間が経てば」
「今は無理ですか」
「まあ当分こんな有様でしょうね」
「やあやあ」
 その時店の中から誰かが出て来た。見れば豊かな金色の髪をたなびかせた大柄な男であった。緑の瞳を持ち、赤いチョッキに黒いズボンを身に着けている。イタリア人らしい男伊達であった。
「大晦日はこれだけ楽しまないとね。皆さんどうも楽しんでおられるようで何よりです」
「あれは誰だい?」
 ホフマンは気になってニクラウスに尋ねた。
「誰だろうな、ヴェネツィアじゃ名の知れた男みたいだけれど」
 ニクラウスはそれを男の大袈裟な態度とそれを見て微笑む店の客達から感じ取っていた。
「シュレーミルさんですわ」
「シュレーミル」
「はい。この街の由緒正しい家の方でして。ちょっとした有名人ですの」
「そうだったのですか」
 二人はジュリエッタの言葉に頷いた。
「はい。この街きっての洒落者として通っています」
「じゃあドン=ジョヴァンニみたいなものかな」
 ホフマンは彼の声が低音なのを見てそう言った。
「女性が好きでもありますわよ。私も声をかけられたことがありますし」
「貴女が」
「はい」
 それを聞いてホフマンの顔が暗くなった。ニクラウスはそれを見て彼が戻ってきているのを感じていた。だがそれをあまり喜んではいなかった。
「またか」
 彼は心の中で舌打ちした。しかしそれは見せることなくワインを飲み、パスタを食べ続けたのであった。
「おや」
 シュレーミルはここでジュリエッタに気付いた。
「これはこれは」
 そしてジュリエッタに歩み寄って来た。ホフマンはそれを見て更に不機嫌な顔になった。
「ジュリエッタさん、今晩は」
「はい、今晩は」
 職業柄であろうか。ジュリエッタはにこやかに笑って彼に挨拶を返した。
「今日は素晴らしい大晦日になりそうですね」
「そうですね。ここのワインも美味しいですし」
「ここの酒は絶品ですぞ」
 彼は上機嫌でこう語った。
「何故なら私の家が経営しておりますから。味は私が保証致します」
「それはどうも」
「そしてこちらの方々は」
「どうも」
 ホフマンとニクラウスは彼に顔を向けて挨拶をした。
「見たところこちらの方ではないようですが」
 二人の彫が深く、そして白い顔を見てこう言った。ラテン系の顔ではないのがすぐにわかったからである。
「ドイツから来られた方々ですわ」
「ホフマンです」
「ニクラウスです」
 二人はジュリエッタの仲介を受けてそれぞれ挨拶をした。
「ホフマンさん」
 シュレーミルはそれを聞いて何かに気付いた様であった。そして彼に問うてきた。
「若しかして」
「何か」
「貴方はあの詩人のホフマンさんでしょうか」
「ええ、そうですが」
 彼はそれを認めた。
「あの有名な」
「有名かどうかはわかりませんが僕は詩人です」
 彼は答えた。
「そしてそれが何か」
「いやあ、こんなところで御会いできるとは」
 シュレーミルは満面に笑みをたたえて言葉を返してきた。
「貴方の砂の男と顧問官クレスペルは拝見させて頂きましたよ」
「あれをですか」
 それを聞いて何故か顔色を悪くさせた。
「素晴らしい作品でした、どれも」
 言葉を続ける。
「ちょっとあんなのは。想像もつかないですね」
「僕個人の経験をモデルにしたのですけれどね」
「貴方の」
「はい。まああまりいい思い出ではないですが」
 口を濁してこう述べる。
「色々とありましたから」
「そうだったのですか」
「そしてシュレーミルさん」
 ジュリエッタが彼に声をかけてきた。
「はい」
「今宵の予定はありますか?」
「とりあえずは騒ぐつもりです」
 彼は屈託のない顔でそう述べた。
「今年最後の日ですからね。名残惜しむ意味も含めて」
「左様ですか」
「マダムはどうされますか?」
「私もまだ決まっていません」
 ジュリエッタはにこやかに笑ってこう返した。
「けれど。楽しく過ごしますわ」
「そうですか」
「それでは暫しのお別れですね。残念ですが」
「何処に行かれるのですか?」
「ちょっとね」
 ウィンクして答える。
「遊びにですよ」
「それでは」
「はい」
 そして客達に声をかけた。
「皆さん、今日は私の奢りです。パーティーに如何ですか」
「パーティーに」
「はい。是非おいで下さい」
 シュレーミルは上機嫌で言う。
「御客様は多い方が宜しいですから」
「それでは。マダムもどうですか」
「そうですね」
 また声をかけられたジュリエッタは少し考えてから言葉を返した。
「それでは少しだけお邪魔させて頂きますね」
「少しと言わず何時までも」
「ふふふ」
 こうして客達とジュリエッタはシュレーミルに誘われて酒屋を後にした。後にはホフマンとニクラウスだけが残った。
「行かないのか」
「今はかなり酔っているんでね」
 ホフマンはニクラウスにこう答えた。
「少し醒めてから。それでも遅くはないだろう」
「まあそうだけれどね。おや」
 彼はここで運河の方を見た。
「どうしたんだ?」
「いや、ゴンドラが一隻こちらにやって来る」
「ゴンドラが」
「ああ。見てくれ」
 見ればその通りであった。立派なゴンドラが一隻こちらにやって来る。そこには黒い髪を後ろに撫で付けた背の高い痩せた男がいた。吊り上がった目を持っており、黒い服に全身を包んでいる。ホフマンはそれを認めて嫌な顔をした。
「似ているな」
「似ているって?」
 ニクラウスがそれに問うた。
「今まで会った博士や医者にさ。そっくりだとは思わないか」
「気のせいだろう」
 ニクラウスはそう答えた。内心はどうかわからないが表では何もわからないといった様子であった。
「だといいけれどな」
 ホフマンはまだ懐疑的にこう述べた。
「僕の気のせいであれば」
「気にし過ぎだよ」
「そうかな」
「そうさ。じゃあ行こう」
「パーティーにか」
「見たところ醒めてきているじゃないか。後はおしゃべりや賭け事をしながら酔いを醒ましていこう」
 ここで不意に勝負事を口に出してみせるのであった。
「賭け事か」
「得意じゃないか、そういうことは」
「まあね」
 ホフマンはここでニヤリと不敵に笑った。
「伊達に今まで遊び歩いたわけじゃない。昼の僕と夜の僕は別人さ」
「じゃあ夜の君の出番だ。見てくれ」
 そう言って空を指差す。
「もう夜の帳が覆おうとしている。昼の君の出番は終わった」
「夜の僕の出番か」
「そうさ。夜の君を皆が待っている。さあ行こう」
 そう言って促す。
「仕方ないな」
 ホフマンは苦笑した。そして彼も立つ。
「じゃあ行くか」
「ああ。今夜位は気軽に楽しもう」
「そうだな。それじゃあ皆で」
「今年最後の日を祝おう」
 こうして二人はシュレーミルのパーティーに向かうことにした。道と場所は店の者に聞いた。そして二人は店を後にしたのであった。
「あの男、よいかもな」
 先程のゴンドラが店の側にまでやって来た。それに乗っていた黒い男はホフマンの後ろ姿を見ながらニヤリと無気味な笑いを浮かべて呟いたのであった。
「女を求めておる。表ではどう言い繕っていてもな」
 ホフマンの失恋の痛手を見抜いていた。恐るべき眼力であった。
「ジュリエッタを使うとしよう。そしてまたわしの手に魂が入る」
 呟きながら上着のポケットに手を入れた。そして異様に大きなダイアを取り出した。
「鏡が回れば雲雀はそれに惹かれて罠にかかる。命を失うと知っていてもそれにかかる。だがそれは人も同じことじゃて」
 悪魔的な言葉であった。ダイアには彼の邪な笑みが映っていた。
「狩人はそれを承知で罠を張るのじゃ。雲雀の命を、そして人の魂を狙ってな」
 無気味な呟きは続く。
「人には鏡を使う。さあダイアを回るがいい」
 そう言い終えるとその場を後にした。ゴンドラに乗り何処かへ去って行った。

 ホフマンもニクラウスもシュレーミルの豪華な別荘でのパーティーに参加していた。そしてその中にはジュリエッタもいた。彼女はホフマン達と楽しく談笑していた。
「そうだったのですか」
「はい」
 彼女はホフマンの話に聞き惚れていた。少なくとも表の顔ではそうであった。
「クラインザックさんは。その様な方だったのですか」
「あれは本当の話でして」
 ホフマンは上機嫌で語る。
「面白いものでしたから詩にしようかと考えております。傑作になると思いますよ」
「期待していますね」
「有り難うございます」
「ただ、どうも貴方の作品は怪奇的なものが多いですね」
 ホスト役であるシュレーミルがそう話を振ってきた。
「そうでしょうか」
「先にお話させて頂いた二つの作品も。他の作品にも多いですよね」
「よく御存知で」
「印象に残るのですよ、どうにも独特で」
「現実的でない、と」
「いえ、逆に現実味を感じます」
 彼は言った。
「だからこそ怖い。本当に側にあるように思えましてね」
「実際にあったことを元にしていますからね。先程も申し上げましたが」
 彼はこう答えた。
「それならばそうも感じられるでしょう。僕にとっては思い出したくもなかった話でしたが」
「おや」
「まあ今度は軽快な作品を書きたいですね」
「そのクラインザックさんの作品ですね」
「はい」
 ジュリエッタの言葉に応えた。
「きっと傑作になりますよ。楽しみにしておいて下さい」
「わかりました。それでは」
「マダム」
 ここで手足が長く、腹だけが出た虫に似た外見の男がジュリエッタに声をかけてきた。
「あら」
「ダペルトゥット船長が来られましたよ」
「船長が」
 彼女はそれを聞いて妖しげな笑みを浮かべさせた。
「何の御用かしら」
「それは御自身でお確かめ下さい。離れの部屋でお待ちです」
「わかったわ。申し訳ないですが」
 ホフマン達に顔を戻して言う。
「少し席を外させて頂きますね」
「ええ、それでは」
「失礼します」
 頭を下げてその場を後にする。そしてジュリエッタは賑やかなパーティー会場を後にして離れの静かな部屋に向かった。そこにあのダイアを持っていた黒い服の男がいた。
「何の御用件ですの?」
 ジュリエッタは妖艶に微笑みながら彼の声をかけてきた。
「頼みがあってな」
 彼は笑いながらそれに応えた。
「ここに一人背の高い若者が来ているな」
「詩人のホフマンさんかしら」
「そう、あの男だ。今度はここにいる」
 彼は思わせぶりにこう述べた。
「ここで会ったが何とやらだ。あの男の魂を欲しい」
「魂を?」
「そうだ。協力してもらえるか」
「報酬次第ね」
 ジュリエッタは妖しげな笑みのままこう言葉を返した。
「安くはないわよ」
「それはわかっているさ」
 ダペルトゥットも笑いながらそれに返した。
「当然報酬は用意してある」
「何かしら」
「これじゃ」
 そう答えながら懐からあの大きなダイアを取り出してジュリエッタに見せてきたのだ。
「これでどうじゃ」
「悪くはないわね」
 ジュリエッタはそのダイアを見てにこやかに微笑んだ。
「それじゃあ頼めるな」
「ええ」
「これでよし。また魂が手に入る」
「魂が手に入ったらどうなるの?」
「わしがか?」
「いえ、魂を奪われた人よ。どうなるのかしら」
「シュレーミルを見てみよ」
 彼はここでこう返した。
「よくな。影がなくなるのじゃ」
「影が」
「そしてその姿が鏡に映らなくなる。それが何よりの証拠じゃ」
 悪魔的な笑み共に言葉を出した。
「そうだったの」
「気付いていなかったのか」
「鏡はともかく影は。気付かなかったわ」
「仕方ないのう。夜の世界にいるせいか」
「まあ人の心なんて必要ない世界なのは事実ね」
 ジュリエッタはこう返した。
「そんなものよりうわべだけ。娼婦はそれが全てよ」
「それを考えると儚いものじゃな」
「どうせ人間の世の中なんて全部そうだから。特にそうは思わないわ」
「恋をしようとか思ったことはないのじゃな」
「恋!?娼婦が!?」 
 ジュリエッタはそれを聞いて自嘲を込めて笑った。
「そんなこと。ある筈ないじゃない」
「左様か」
「だから貴女に協力してるのよ。報酬だけでね」
「他の者はどうなってもよいのじゃな」
「娼婦は人に春を与えるけれど時として毒も与えてしまうものだから」
 寂しい目をしてこう言う。
「自分の身にある毒で。知っているでしょう」
「フランスから来た病のことか」
「今までそれでどれだけのお友達が死んだか。知らないとは言わせないわ」
「うむ」
 梅毒のことである。娼婦とは切っても切れない病だ。ジュリエッタも娼婦であるからこの病のことは嫌になる程知っている。身体が腐り、ただれて死んでいく。娼婦はそれにより死んでいくのが運命であるとさえ言われていた。それは客にも染ることがあるのだ。それで多くの者が腐って死んでいる。
「それで。どうして恋だなんて言えるのかしら。不思議だとは思わないかしら」
 彼女は達観した様に言う。
「そんな私達だから。信じられるのはお金と贈り物だけ」
「だからこそわしに協力するのじゃな」
「そうよ。それでわかってくれたかしら」
「うむ。では前もって渡そう」
 そう言って彼女にダイアを差し出してきた。
「よいな、これで」
「ええ」
 そしてジュリエッタはそれを受け取った。これにより契約は成立した。
「ではホフマンの影を頼むぞ」
「わかったわ」
「では会場に戻ろう」
 ジュリエッタに声をかける。
「いいな。そしてホフマンを」
「ええ、わかったわ」
 こうして二人はパーティー会場へ戻った。二人別々にである。怪しまれない為の用心であった。
 会場に帰ってみると皆賭け事に熱中していた。ホフマンとシュレーミルがポーカーで激しいやりとりを展開しているところであった。
 ジュリエッタはここでチラリとシュレーミルの足下を見た。確かにダペルトゥットの言った通りであった。
(やっぱり)
 そこには何もなかった。どうやらダペルトゥットはジュリエッタとは別の女を使って彼の魂を手に入れたらしい。本人はそれに一切気付いていないのであった。恐ろしいと言えば恐ろしいことであった。
「もし」
 ジュリエッタはシュレーミルから目を離しホフマンに声をかけてきた。
「何か」
「御機嫌麗しいようですね」
「ええ、まあ」
 彼は如何にも気分よさげにこう返した。
「調子がいいですから」
「左様ですか」
「全く。こんな手強い方ははじめてですな」
 シュレーミルは苦笑してこう返す。
「私もポーカーではかなりの自信がありますが。その私が今まで一つも勝てないというのははじめてですよ」
「そうなのですか」
「ええ。おかげでこちらの方にえらく貢いでおります」
「ふふふ」
 ホフマンはそれを聞いて面白そうに笑う。
「奥方はともかく殿方に貢ぐ趣味はないのですけれどね。困ったものです」
「貢がれるというのも悪くはないですね」
「まあそうでしょう。今までは私が貢がれる側でしたが最高の気分でした」
「はい」 
 その言葉に頷いてみせる。
「ですが勝利の女神というものは気紛れなもの。今度こそ勝ちますぞ」
「勝てますか?」
「勿論。私には勝利の女神がいますから」
 不敵に笑ってこう返した。
「ではまたやりましょう」
「はい」
「最後に勝っていればいいのですからな、こういうものは」
「確かに。ところで」
「何でしょうか」
 シュレーミルはホフマンの言葉に応えて顔を彼に集中させた。
「その勝利の女神のことですが」
「はい」
「ニケのことですか、それは」
 ギリシア神話の勝利の女神である。アテナの従神の一人であり翼を持った美女である。アテナの意志に従い人に勝利をもたらすのである。
「残念ですが違います」
 彼は笑ってこう返した。
「では一体」
「本当の勝利の女神ですよ」
「本当の」
「はい。この前熱を入れている娼婦に言われたのですよ。心をくれるのならば類稀なる幸運を授けてくれると」
「幸運を」
「それね」
 ジュリエッタはそれを聞いて呟いた。
「それで私は彼女に心を捧げました。どのみち私は彼女に心を奪われていましたし同じことでしたから」
「そうだったのですか」
「それで影を失ったのね」
 ジュリエッタはまた呟く。
「そして私は得たのですよ。勝利の女神の加護をね」
「それは面白い話です」
「小説の種になればいいですね」
「確かに小説向けの話ではあります」
 ホフマンとシュレーミルは切られるカードの音を聞きながら話をする。
「それでははじめますか」
「あの」
 だがここでジュリエッタがホフマンにまた声をかけてきた。
「はい、何か」
「少しお時間があるでしょうか」
「ええ、少しなら」
 そう言いながらシュレーミルにをチラリと見る。
「私は構いませんよ」
 シュレーミルは余裕を以ってこう返した。
「勝つことは何時でもできますから」
「左様ですか」
「それではその間は僕が」
「ええ。喜んでお相手を」
「はい」
 ホフマンのかわりにニクラウスが入り二人は勝負をはじめる。
 ホフマンはそれを後ろ目に見ながらパーティー会場を後にした。ジュリエッタに誘われて離れの部屋に向かった。
「さて、どうなるかな」
 ニクラウスはそれを見送りながら呟いた。勝負よりもそちらに目がいっていた。
「ニクラウスさん」
 そんな彼にシュレーミルが声をかけてきた。
「はい」
「貴方の番ですよ。どうされますか」
「おっと、それでは」
 ニクラウスはカードに戻った。そして勝負に入る。ホフマンは離れの部屋に入った。ジュリエッタと二人で話に入ったのであった。
 先程ジュリエッタとダペルトゥットが話をしていた部屋だ。だがホフマンはそのことを知らない。知っているのはジュリエッタだけであった。彼女はそれだけでなく全てを知っていた。だがホフマンは何も知らない。二人の話はそうした関係からはじまったのであった。
「ホフマンさん」
 ジュリエッタは彼に声をかけてきた。
「ようやく二人になれましたね」
「はい」
 ホフマンは何気無い声でこう返した。
「まさか貴方の方から声をかけて下さるとは思いませんでした」
「では私に声をかけて下さるおつもりだったのかしら」
「ええ、まあ」
 彼は答えた。
「そのつもりでしたが」
「何と嬉しい御言葉」
 娼婦、いや恋の手練を知っている女性ならではの演技で言う。そしてその身体をホフマンの腕に預ける。
「私なぞに声をかけて下さるおつもりだったのですか」
「それは謙遜です、マダム」
 ホフマンはそんな彼女に対して言った。
「貴女に魅了されない者がいるでしょうか、貴女を知って」
「それは買い被りですわ。女なぞこの世には幾らでもいるもの」
 彼女は言葉を返した。
「それは」
「私は一介の娼婦に過ぎません」
 ここでわざとホフマンから顔を背ける。
「ですから。その様なことを仰られても」
「娼婦が何だというのですか」
 これが罠であった。そして若いホフマンはそれにかかってしまった。
「貴女が例え何者であろうと。声をかけて下さったからには」
「どうされますの?」
「何があっても貴女の傍におります」
「何があっても?」
「はい」
 そしてホフマンはまたしても罠にかかった。
「例え何があろうとも。そして」
「そして?」
 ジュリエッタは彼を上手く導いていた。気付かれぬ様に。娼婦、いや女の妖しい一面をまだわかっていなかったホフマンはまたしてもそれにかかってしまった。
「何とあれば全てを捧げましょう。お金でも何でも」
「心もですか?」
「勿論です」
 これで全ては決まってしまった。ホフマンはまんまとジュリエッタの、ダベルトゥットの罠にかかってしまった。しかしやはりと言うべきか。ホフマンはそれには気付いていない。
「そう」
 ジュリエッタはそれを聞いて呟いた。顔を背けている為ホフマンからは見ることができない。だがその顔は悲しさに覆われていた。ホフマンには見せないようにしていた。そしてそれがどうしてかなぞ当然若いホフマンにはわかる筈もなかった。全てはジュリエッタの腕の中にあった。
「それじゃあ私は貴方の心を」
「喜んで」 
 彼は言った。
「僕の全てを捧げましょう。これで宜しいですか」
「ええ」
 ジュリエッタはホフマンの腕の中で頷いた。抱いているのはホフマンであるが抱かれているのもまたホフマンであった。彼は悪魔の腕を知らなかった。
「けれど」
 だがジュリエッタはここで言った。
「けれど・・・・・・何でしょう」
「いえ、何でもありませんわ」
 言いかけたところで止めた。
「何でも。宜しいです」
「左様ですか」
「貴方・・・・・・心はいらないのですね」
「先程も言いましたが僕の心は貴方のものです」
 彼はまた言った。
「それなのにどうして。必要だと言えましょう」
「わかりました」 
 そこまで聞いて頷いた。
「それなら」
 ジュリエッタは躊躇いながらも決心した。そしてホフマンにさらに顔を近付けた。
 そっと彼の背に手を伸ばしその左の背から何かを抜き取った。するとそれまで鏡に映っていた彼の姿がすうっと消えた。消えたその瞬間であった。
「ホフマン、ホフマンは何処にいる」
 ここで部屋の外からニクラウスの声がした。
「あれは」
 ホフマンはその声に我に返った。友が自分を呼んでいるからだ。
「ニクラウスの声だ」
「遅かったわ」
 ジュリエッタはそれを聞いて残念そうに呟いた。
「ダイヤは私のもの。けれど私を思ってくれるこの人の心は」
「ここにいたか」
 ニクラウスは慌しい様子で部屋に入って来た。そして開口一番こう言った。
「すぐにここを去るぞ」
「一体どうしたんだ」
 ホフマンは友のそうした慌しい様子に戸惑いを隠せなかった。そしてこう問うてきた。
「そんなに慌てて。何があったんだ」
「何があったんだじゃない」
 彼は言い返した。
「このままここにいたらとんでもないことになるぞ。すぐにここを去ろう」
「だからどうしたんだ、そんなに」
「あの黒い服の男が御前を狙っているんだ。僕は見たんだ」
 ニクラウスの顔が強張っていた。
「何をだい」
「あのシュレーミルって男がいるだろう」
「ああ」
「彼には影がないんだ。彼は魂を奪われたんだ」
「そんなことあるわけないじゃないか」
 ホフマンはそれを一笑に伏した。しかしジュリエッタはそれを聞いて青い顔になった。
「魂を奪われるだなんて。悪魔じゃあるまいし」
「君は以前二回も悪魔に会っている筈だけれどね」
「それは」
 ローマとミュンヘンで。それを言われると弱かった。
「今度もだ。悪魔が君の魂を狙っているんだ」
「どうしてそんなことがわかるんだい?」
「彼の話を偶然聞いたのさ」
 彼は言った。
「席を立った時にね。そして君を探していたんだ」
「そうだったのか」
「魂を抜かれたならば恐ろしいことになる。まずは影がなくなる」
 予言めいた言葉であった。
「そして次には」
「鏡に映らなくなる。そう、鏡に」
「鏡に」
 ここでホフマンは鏡を見た。ニクラウスもである。
 驚愕した。驚いたニクラウスの顔は鏡にはっきりと映っていた。まるで地獄の中を覗いた様な顔であった。
 だがそこにホフマンの顔はなかった。ただそこにはニクラウスだけが映っていたのであった。
「な、何てことだ!」
「僕が、僕がいない!」
 二人は同時に驚きの声をあげた。
「これは一体」
「まさかもう」
「ええ、その通りよ」
 驚くホフマンに対してジュリエッタが語った。見れば彼女の姿も鏡には映ってはいなかった。そう、そこには三人いる筈であるのに一人しかいなかったのだ。魂を持っている者は。
「私も。心がないから」
「馬鹿な、そんなことは」
 ホフマンはそれを必死になって否定しようとする。
「君の心は僕が知っている」
「いいえ」
 だがジュリエッタはその言葉に首を横に振った。
「私は娼婦よ。心なんて」
「嘘だ!」
 ホフマンは叫んだ。
「そんなことは有り得ない!僕は君の心を知っている。君は・・・・・・」
「では何故鏡に姿が映らないの?」
 そんなホフマンを黙らせるようにして言い返した。
「私の姿が映らないのは何故?それは心がないからよ」
「けれど」
「けれども何もないわ」
 遮るようにして言う。
「鏡が全てを語っているわ。それだけよ」
「そんな・・・・・・」
「ホフマン」
 ニクラウスが項垂れる彼に声をかけてきた。
「彼女の言う通りだ。今の君は悪魔に魂を奪われたんだ」
「じゃあどうすれば」
「取り返すしかない。僕に考えがある」
 彼はここで提案してきた。
「シュレーミルも魂を奪われている。ジュリエッタもだ」
「うん」
「多分奪ったのは同じ奴だ。そうだね、ジュリエッタ」
「ええ」
 ジュリエッタは頷いた。
「貴方の心を奪ったのは私だけれどそれを手にするのは違う人よ」
「それじゃあ」
「そう、ダペルトゥットだ」
 彼は言った。
「あの男が君達の魂を持っている。彼から取り返すしかない」
「けれどどうすれば」
「勝つしかない」
 ニクラウスは強い声で言った。
「あの男に勝つしか。違うだろうか」
「けれど何をやるっていうんだい?」
 ホフマンは強い声で語る友に対して問うた。
「僕は法律家だ。生憎剣もピストルも得意じゃない」
「カードだ」
 彼はまた言った。
「カード」
「そうだ。ポーカーで賭けるんだ、君達の心を取り戻す為に」
「ポーカーか」
「そうさ。それなら得意だろう・君が負けるのを見たことがない」
「わかった」
 ホフマンはそれを聞いて頷いた。
「じゃあ賭けよう。金ならある」
「いや、今回賭けるのは金じゃない」
 ニクラウスはそれを否定した。
「もっと別のものだ」
「それは一体」
「僕だ」
 ニクラウスは自分自身を右の親指で指し示して言った。
「僕を賭ければいい。それなら奴も乗ってくる」
「君をか」
「そうだ。何か不都合があるのかい?」
「ある」
 ホフマンは言い返した。
「君を賭けるなんて。そんなことが出来る筈がない」
 友人を賭けることなぞ出来ようか。ホフマンはむべもなく拒絶しようとした。
「大丈夫さ、君は勝つ」
 だがニクラウスはそれを許そうとはしなかった。
「だから。賭けるんだ、いいね」
「しかし」
「負けたらその時は死ぬ時だ」
 ニクラウスは言った。
「僕も君も。君をピストルで葬って僕も死のう」
「本気だな」
「僕が嘘を言ったことがあるかい?」
 彼はまた言い返した。
「それなら話はわかる筈だね」
「ああ、わかった」
 ここまできてホフマンはようやく頷いた。
「じゃあ賭けよう。それでいいな」
「ああ」
 ニクラウスも頷いた。これで全ては決まったのであった。
「行くぞ」
「うん」
 今度は二人で頷き合った。ホフマンはその後でジュリエッタに顔を向けた。
「じゃあ行って来るよ」
「いいの?私は貴方の心を」
「さっき言った筈だよ。僕の心は君のものだと」
 ニコリと笑ってこう返した。
「けれど私の心まで」
「何、いいってことさ。どのみちカードは得意なんだ」
 彼は笑いながら言う。
「まあ見ていてくれよ。きと君の心も取り返すから」
「ええ」
 ホフマンの強い言葉と目の光に頷くしかなかった。そこまで言われては流石の彼女も信じることにした。
「じゃあお願いね」
 彼女は最後に言った。
「そして貴方の心も」
「わかってるさ。それじゃあ」
「ええ」
 こうしてホフマンはパーティー会場に戻った。後にはジュリエッタだけが残った。そしてカードでの勝負がはじまろうとしていた。
「おや、お帰り」
 まずはシュレーミルが声をかけてきた。ニクラウスの顔を見て勝負相手が帰って来たと思ったのである。
「待っていたよ。それじゃあ勝負を再会しようか」
「悪いけれど僕達の勝負は後にしないか?」
 ニクラウスはそんな彼に対してこう提案してきた。
「何故だい?」
「実は特別な勝負をしたい者がいてね」
「誰だい?」
「僕さ」
 それに答えてホフマンが姿を現わした。
「ほう、貴方でしたか。では一勝負」
「悪いけれど君との勝負は後にしてくれないか」
「これはまた」
 それを聞いたシュレーミルはおどけた動作をしてみせた。
「急に。一体どうしたのですかな?」
「僕は先に勝負をした人がいるんです」
 そう言ってシュレーミルの側に立っていたダペルトゥットを見据えた。
「ダペルトゥットさん」
「おや」
 彼はそれを聞いてニヤリと無気味な笑みを浮かべた。
「私ですか」
「ええ。賭けるものはわかっていますね」
「如何にも」
 彼もそれに頷いた。
「それでははじまたいのですが」
「ええ、わかりました。それではシュレーミルさん」
 ダペルトゥットはシュレーミルに声をかけてこう言った。
「席を拝借したいのですが」
「ええ、どうぞ」
 シュレーミルはそれを快諾した。そしてその空いた席に座る。
「それでははじめますかな」
「はい」
「言っておきますがそう簡単にはいきませんぞ」
「それは承知のうえです」
 ホフマンは真剣な顔で言葉を返した。
「こっちも賭けるものがありますから」
「賭けるもの」
「はい」
 これにはニクラウスが答えた。
「おわかりだと思いますが」
「殊勝なことですな」
 ダペルトゥットはそれを聞いて不敵に微笑んだ。
「友人の為に。ですがこちらもこれが仕事なのでね」
「そうでしょうね」
 ホフマンはこれに頷いた。
「貴方にとってはね。ですが今の僕の仕事は」
「心を取り戻すこと」
「そういうことですね。ではいきます」
 勝負がはじまった。二人はそれぞれ配られた五枚のカードに目を通す。
 ダペルトゥットはそのカードを見てから表情を変えずに一枚替えた。だがホフマンは動かない。
「宜しいですか」
「はい」
 ホフマンは頷いた。そして双方それぞれカードを前に出した。
 ダペルトゥットはフォーカードであった。十三が四つ並んでいた。
「フォーカードですか」
「そして貴方は」
「僕の勝ちですね」
 それを見た彼はニヤリと笑って返した。勝負の間は笑わなかったがここではじめて笑った。
「ほら」
 そして自分のカードを指し示す。そこには十一の四枚のカードとジョーカーがあった。
「ファイブカードですね。僕の勝ちです」
「ふむ」
 それを見たダペルトゥットは少し顔を歪めさせたがそれは一瞬のことであった。すぐに顔を戻してホフマンに対して問うた。
「では何をお望みですか」
「彼の心を」
「わかりました。それでは」
 頷くと右手の親指と人差し指を鳴らした。それで終わりであった。
「これで宜しいですかな」
「はい」
「心を!?」
 客達はそのやり取りを見て首を傾げさせた。
「彼等は何を賭けているんだ?」
「女じゃないのか?」
「だったら彼なんて言うか?」
「何なんだ、一体」
「面白い勝負だけれど変だな」
 シュレーミルもそれを不思議に思っていた。
「お金を賭けているわけでもなし。心って何なんだろう」
「どうやら彼は気付いていないみたいだな」
 ニクラウスはそれを聞いて呟いた。
「自分のことには」
 見れば彼の影がシャンデリラに照らされて映っていた。それが何よりの証拠であったが彼は気付いてはいない。むしろ気付いていない方が幸福だったかも知れないが。
「それでは次ですな」
「はい」
 二人はまた勝負をはじめた。ダペルトゥットはカードが配られる間にホフマンに対して問うてきた。
「次に賭けるものは」
「僕です」
 彼は言った。
「僕のことは僕で決めます。それでよいですね」
「わかりました」
 ダペルトゥットはそれを聞いて笑った。口の端と目の端を吊り上らせた無気味な笑いであった。その口はまるで三日月の様になっていた。
「それでは」
「はい」
 またカードが配られてきた。やはり五枚ずつである。
「まずは私が」
「ええ」
 ダペルトゥットがカードを交換する。今度は三枚だ。
「ふむ」
 カードを見てから一言漏らす。だが表情は変えない。
「それでは次は僕が」
「どうぞ」
 ホフマンは二枚交換した。それから二人は一枚ずつ交換した。
 ダペルトゥットはもう一度交換した。今度は二枚であった。
「ストップ」
 彼はここで止めた。そして互いにカードを見せ合う。まずはダペルトゥットが見せた。
「フラッシュ」
 見ればクローバーのフラッシュであった。三、五、八、十一、十三が並んでいた。彼は不敵な笑みを浮かべていた。
「私の勝ちですな」
「さて、それはどうでしょうか」
 だがホフマンはそれに対して全く動じてはいなかった。
「というと」
「僕のカードです」
 そう言って自分のカードを見せる。見ればそれはフルハウスであった。
 ニのスリーカードに八のワンペア。どちらが勝ったのか、言うまでもないことであった。
「これで宜しいですね」
「ええ」
 ダペルトゥットは憮然として答えた。ホフマンはそれを見てホッとした様に一息吐いた。
「これで二つ目か」
「そうだね」
 ニクラウスはそれに頷いた。見れば彼の影が戻っていた。ダペルトゥットの顔はあからさまに不機嫌なものとなっていた。
「これで最後ですな」
「はい」
 ホフマンは彼の問いに頷いた。
「次に賭けるのは」
「おわかりだと思いますが」
「確かに」
 ダペルトゥットはそれに頷いた。
「では貴方は貴方御自身ですね」
「ええ」
 ホフマンもそれに頷いた。
「それで宜しいですね」
「私の方は構いません」
 彼は言った。
「自分の手にあったものがわざわざ帰って来てくれるのですから」
「自信がおありなのですね」
「私は最後には勝つのが常ですから」
「ほう、それは」
「最後には、ね。おわかりでしょうか」
「ですがそれは何時かは終わるもの」
 ホフマンはしれっとして返す。
「それが今なのです」
「それはやってみなくてはわかりませんよ」
 ダペルトゥットは笑いながら返した。
「勝負をね。では宜しいですか」
「はい」
 ホフマンはまた頷いた。
「でははじめましょうか。最後の勝負を」
「はい」
 二人はそれぞれ五枚のカードを手に取った。そしてまずはカードを見た。
 ホフマンは動かない。ダペルトゥットはそれに対してしきりにカードを換える。どうやら口とは裏腹に内心かなり焦っている様であった。
 ダペルトゥットは何度も換えるがやはりホフマンは動かない。ダペルトゥットはそれを見てさらに焦りを感じている様であった。
「宜しいですか」
 ホフマンはそんな彼に冷やかに声を浴びせた。
「もうこれで」
「ええ」
 彼は憮然としながらもそれに応えた。
「ではこれで」
「ストップ」
 それを合図に二人はそれぞれカードを見せた。ダペルトゥットは九のスリーカードであった。
 対するホフマンはストレートであった。八、九、十、十一、十二が見事に並んでいた。最後の勝負もホフマンの勝ちであった。
「運がよいようで」
「僕には幸運の女神がついておりますから」
 ホフマンはにこやかに笑ってこう返した。
「幸運の女神ね」
「はい。それが僕に全てをもたらしてくれました」
「彼女の心も」
「そうです。ではそれを」
「わかりました」
 ダペルトゥットは憮然としながらもそれに応えた。そして懐から一個の女性のガラスの像を出して来た。
「これで宜しいのですね」
「有り難うございます」
 ホフマンはにこやかな笑顔のままそれに頷く。
「お見事でした」
 ダペルトゥットは憮然とした顔を作って言う。そしてそう言いながら席を立った。
「私がカードで負けたのははじめてでしたよ」
「そうだったのですか」
 ホフマンは涼しい顔を作った。そして言葉を返した。
「全く。今までは勝ってきたというのに」
「誰でも敗れる時はありますよ」
 慰めの言葉ではあるがそれは慰めではなかった。
「悪魔でもね」
 鋭い目でダペルトゥットを見据えながら言う。横目でジロリと見ていた。
「悪魔でも」
 何も知らないシュレーミルがそれに問う。
「思わせぶりな言葉ですね」
「何、ほんのジョークです」
 ホフマンはそれにはしれっと何も知らない様子で返す。
「ほんのね」
「それにしては言葉が鋭かったですが」
「そうでしょうか」
「何はともあれ大晦日の勝負はこれで終わりですな」
 ダペルトゥットは会場を後にしようとする。そして去り際にこう述べた。
「カードの勝負は」
「ええ」
 ホフマンは誇らしげにそれに応える。
「御苦労様でした」
「ではよいお年を」
 最後にこう言い残して去った。だが彼は会場を去る時に誰にも知られない様に呟いた。
「だが最後に勝つのはわしだ」
 あの悪魔の様な笑みを浮かべて。そして懐から何か黒いものを取り出した。
 だがそれにはやはり誰も気付きはしない。彼は一人その場を後にするのであった。
「これで終わりだな」
「とりあえずはな」
 ニクラウスはダペルトゥットが消えたのを確認してホッとするホフマンに対してこう言った。
「とりあえずって」
「日本の諺だったかな。勝って兜の尾を締めよ」
「どういう意味だい、それは」
「最後まで油断するなってことさ。最後が肝心だからね」
「最後ってもう終わったじゃないか」
 友に対して問うた。
「そう思うんだな、君は」
「ああ。それじゃあジュリエッタのところに行こう。彼女は何処かな」
「彼女なら外のゴンドラ乗り場で待っているよ」
「丁度いいな、それは」
 ホフマンはそれを聞いてにこりと笑った。
「一緒に新年も祝える。船の上で洒落込んでね」
「気楽だな、君は」
「もう彼女の心を手に入れたんだ、何も心配することはないしね」
「君の心は戻ったが彼女の心は戻ってはいないよ、まだね」
「もうこの手にあるのにかい?」
 そう言いながらあのガラスの像をニクラウスに見せる。
「それじゃあバッカロールの用意してしておこう」
 舟歌のことである。このヴェネツィアの名物の一つともなっている。この街の舟乗り達はバッカロールを口ずさみながら働く。それがこの街の風景であった。
「レクイエムにならなければいいけれど」
「いい加減にしないか、さっきから辛気臭いことばかり言って」
 友のそうした言葉に腹に据えかねてきた。
「嫌なら帰ってくれ。僕とジュリエッタだけで新年と心が戻ったことを祝うから」
「いや、僕も連れて行ってもらうよ」
 だがニクラウスはそれを断った。
「新年は祝いたいからね」
「じゃあいいけれどもうそんなこと言わないでくれよ」
「ああ、わかったよ」
「それじゃあ行こう。皆さんこれで」
 別れの挨拶になる。
「それでは」
「よいお年を」
「それではホフマンさん」
 一同を代表してシュレーミルが声をかけてきた。
「また御会いしましょう」
「はい」
 こうして彼等は別れた。会場を後にしたホフマンとニクラウスはそのままゴンドラ乗り場に向かった。そこにはもうジュリエッタが待っていた。
「来てくれたのね」
「うん」
 ホフマンは彼女に笑みを向けて答えた。
「僕が来たってことはどういうことかわかるね」
「ええ」
 ジュリエッタはその言葉に頷いた。
「貴方の心が戻ったのね」
「そして貴女の心も。ほら」
 そう言って胸からあの像を取り出してきた。
「ホフマン、今は出すな」
 だがそれはニクラウスが制止した。
「どうしてだい?」
「危ないだろう。何かあったらどうするんだ」
「何かって。何が起こるんだよ」
 ホフマンはムッとした顔で友に問うた。
「今更何も起こる筈がないじゃないか」
「いいのか、後悔しないんだな」
「後悔って。彼女にこれを渡さない方がずっと後悔するよ」
「わかった。本当にそれでいいのか」
「ああ」
 彼は言った。
「何があっても後悔はしないよ、絶対に」
「じゃあ出すといい」
 ニクラウスは見放した様に言った。
「何があっても知らないからな。だが僕はそれでもここにいるからな」
「また変なことを言うな。まあいいさ」
 気を取り直してジュリエッタに顔を向けて言う。
「ジュリエッタ」
「はい」
「受け取って。これで君は自由だ」
「自由」
「そうさ。もうあんな無気味な男に従うことはないんだ」
 彼は優しい声でこう言った。
「これからは。自由に生きられるんだ」
「自由に」
「僕と一緒にね。来てくれるかい?」
「ええ」
 彼女はこくり、と頷いた。
「喜んで」
「よかった。それじゃあこれを渡すね」
「はい」 
 ジュリエッタは自分の心を受け取ろうとする。だがその時であった。
 突如として二人の間に何かが飛んで来た。それは一羽の烏であった。
「烏!?」
「それもこんな真夜中に」
 真夜中であろうと烏はやって来た。そして一直線にホフマンの手に向かう。狙っているのは彼ではなかった。彼が手に持っているものであった。
「あっ!」
 ホフマンは叫んだ。だがそれは遅かった。烏はガラスの像を嘴で突いた。そしてそれを粉々に砕いてしまった。
 砕けたガラスがホフマン達の足下に散らばる。それはもう原型なぞ留めてはおらず完全に破片となってしまっていた。その破片がそれぞれ光を照らしていた。夜のヴェネツィアを照らす様々な色の光を。砕けたガラスはそれでホフマン達に何かを語ろうとしているかの様であった。
「そんな・・・・・・」
 ホフマンはその砕けたガラスを見下ろして呆然としていた。
「何でこんなことに」
「ホフマン・・・・・・」
 横からジュリエッタの声が聞こえてきた。それは話す側から急激に弱ろうとしていた。
「結局、これが私の運命なのね」
「ジュリエッタ」
 見れば顔が青く、そして蒼白になろうとしている。弱々しくなっていく顔からは生気がなくなってきていた。
「結局、娼婦は何処までいっても娼婦なのよ」
 弱々しく微笑む。そして前に倒れていく。ホフマンはそれを受け止めた。
「心なんて。必要なかったのね、私には」
「そんなことはないよ」
 ホフマンはそんな彼女を必死に元気付けようとする。だが冷たくなっていく彼女の身体がそれは無駄なことだと教えていた。
「そんなことは・・・・・・」
 言っても空しく聞こえるだけであった。自分でもうわかっていた。だが言わずにはおれなかったのだ。
「有り難う、ホフマン」
 ジュリエッタは生気のない顔で彼に礼を述べた。
「最後にいい夢を見せてもらったわ」
「そんな・・・・・・」
「けれど。これでお別れね。心が砕けてしまったから」
「嫌だ、そんなのは嫌だ」
 ホフマンは必死になってそれを拒もうとする。
「僕はもう。僕だけ生きているのは嫌だ」
「貴方は一人じゃないわ」
「えっ!?」
「それも。何時かわかるから。私も一人じゃないし」
「それは一体」
「人は皆様々なものを持っているということだよ」
 ニクラウスがここで彼にこう述べた。
「色々なものを」
「そうさ。君が今まで会ってきた人達もね」
「あの人達が」
「そうだよ。それがわかった時君は」
「僕は」
ホフマンは友の声に応える。
「何かになれるだろうね」
「なれなくてもいい、今は」
 だがホフマンはそれを拒んだ。
「今は。ジュリエッタと永遠にいたいんだ」
「御免なさい」
 だがジュリエッタはそれをできないと言った。
「私はもう」
「そんなのは認めないよ」
「ホフマン、気持ちはわかるけれど」
 ニクラウスは彼の肩に手を置いた。そして言う。
「もう彼女は」
「そんな・・・・・・」
「さようなら」
 彼女は遂に別れの言葉を口にした。
「また・・・・・・何時か」
「何時かなんて・・・・・・」
 ホフマンは最後までそれを拒もうとした。
「僕は・・・・・・認めたくはない」
 ジュリエッタは静かに目を閉じた。そしてホフマンの腕の中で倒れた。それで終わりであった。
「ジュリエッタ!君まで!」
「これもまた彼の運命なんだ」
 ニクラウスはそれを見て沈痛な声を述べた。
「それから何を手に入れるか。それが問題だ」
 ホフマンはジュリエッタの冷たくなった身体を抱きながらその年の最後の時を過ごした。彼とニクラウスがいる運河はもう夜の闇に包まれていた。その中を無気味な哄笑が響き渡っていた。それが誰のものであるか、地の底から響く様な声が全てを物語っていた。





三人目の女性まで。
美姫 「これでホフマンが詠う三曲は終わるのね」
次はまた最初の場面に戻るって事かな。
美姫 「一体、そこで何が待っているのかしら」
次回も待っています。
美姫 「待ってますね〜」
ではでは。



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