『ホフマン物語』
第一幕 ルーテルの酒場
ここはベルリンのとある酒場である。すぐ側に有名なオペラハウスがあるこの酒場ではいつも客でごっががえしていた。そんな賑やかな酒場だがまだ賑やかになる時間ではなかった。
夕暮れにならないと店は開かない。これは何処の酒場でもそうである。だからこの日も夕暮れまでは静かなものであった。フランスでオレルアン朝が倒れ、そして第二共和制からナポレオン三世が立ってから暫く経った時代、ベルリンにおいても不穏な空気はようやく消えてきており庶民達はまた享楽に目を戻そうとしていた頃であった。
その享楽の中には酒が中心にあった。この時代もベルリンでは酒は最も人気のある存在であった。人間というものは酒がなくては何もできないし何も楽しめはしない。酒は全ての享楽の父であり母であるのだ。
それを最もよく知っているのは他ならぬ酒自身である。夕暮れが近付くにつれて彼等はその眠りを覚ましてきた。
「トクトクトクロク」
広い酒場であった。ホールには椅子とテーブルが置かれ木製の洒落たカウンターがある。そこにはボトルが何本も置かれている。
そして酒場の隅々に酒樽が置かれている。そこから声がしていた。
「おいらはビール!」
酒樽の中から声が出て来る。
「トクトクトクトク」
また声がする。今度は別の樽からだ。
「おいらはワイン!」
彼等は口々に言う。
「おいらはその泡でグラスを銀色に輝かす!」
「おいらはその色でグラスを金色に輝かす!」
樽は唄う。
「おいら達は人の永遠の友達。愁いも悩みも消してしまう」
どうやら彼等は酒の精であるらしい。その声で酒場を早速朗らかなものとしていた。
次第に夕暮れから夜になっていく。ベルリンの夜は長い。夕暮れだというのにそろそろ月の姿も見えようとしていた。
「月よ来い!」
精霊達はまた唄う。
「そしておいら達と今日も遊ぼう!」
「夜はあんたとおいら達のものだからな!」
「そして私のものでもありますね」
「おや」
彼等はその声を聞いてまずは声を止めた。
「あんたも来たのかい」
「はい」
白い服に身を包んだ女性が出て来た。茶色い髪を短く切った細い顔立ちの女性である。目は黒く切れ長で何処か中性的な面持ちである。容姿もスラリとしており男だと小柄、女だと普通位の背であった。
「ミューズ、暫くぶりだね」
「ええ」
ミューズと呼ばれたその女性はワインの精の言葉に頷いた。
「今まで何処にいたんだい?」
「少しね」
ミューズは応えて微笑んだ。
「仕事で色々と飛び回っていました」
「それは何より」
「相変わらず勤勉だ」
「私がいなくては。この世の芸術はありませんから」
「確かに」
「そしておいら達もいなくちゃね」
酒の精霊達はまた騒ぎだした。
「トクトクトクトク」
「今日も飲めや騒げの大宴会」
「そこから何が出て来るのか」
「何が出るのか」
「それは飲んでみないとわからない」
「酒は全てを生むけれど」
「飲まない人にはわからない」
彼等は口々に唄う。自然と唄う声が増えていっていた。
「そう、お酒は飲まないと駄目です」
ミューズもそれに同意した。
「飲まないと。特に芸術家は」
「芸術家!?」
酒の精霊達はそれを聞いて言葉を一旦止めた。そしてそれから尋ねた。
「あの詩人のことかい?」
「ええ、その通りです」
ミューズはそれに頷いた。
「彼も。詩人であり音楽家である彼は決して水なぞ飲みません」
「確かに」
「だからこそ彼は芸術家になれた」
「全くその通りです。しかし」
だがミューズはここで言った。
「今彼は道に迷っています」
「道に迷っている」
「はい。愚かなことに」
「そうは言っても仕方ないんじゃないかな」
ビールの精の一人が言った。
「彼も人間なんだしさ」
「僕達精霊でも迷うのにそれはいいんじゃないかな」
「それで一人の芸術家が潰れるとしたら残念なことではないでしょうか」
「それでもね」
「仕方ないと言えば仕方ないよ」
酒の精霊達にとっては他人事でもあった。どうでもいいことのように言う。
「そんなに大事に思ってるのかい、彼を」
「ええ」
ミューズは頷いた。
「だったら貴女が何とかしたらどうかな」
「元よりそのつもりです」
そう応えるとにこりと笑った。
「それではあれをしましょうか」
「ああ、あれね」
精霊達にはあれが何なのかわかっているようであった。
「じゃあやってみたら」
「それでどうにかしたいのならね」
「わかりました。それでは」
ミューズは彼等の勧めに従い腕をさっと動かした。すると彼の影が動き出した。そしてそれは一人の青年となった。姿形が全く同じの一人の青年となったのであった。洒落た服装をしている。
「ニクラウス」
ミューズは青年となった影に声をかけた。
「わかっているわね」
「勿論」
ニクラウスと名付けられた影はそれに頷いた。
「では彼のことは僕に任せてくれ」
「お願いするわね、いつものように」
「うん」
ニクラウスは頷いた。
「それでは私はこれで一先姿を消すわ。そろそろここにも人間達がやって来る頃だから」
「そして彼も」
「そう。だからこそ姿を消さないと。後はお願いね」
「わかったよ。僕は君だし」
「私は貴女なのだから」
こう言い残すとミューズは消えた。そして精霊達も消えていた。後にはニクラウスだけとなっていた。
「さて、と」
辺りを見回したところで扉が開く音がした。
「まずは消えるとするか。彼の側に行こう」
人の気配を察するとすうっと姿を消した。酒場の床の下に潜るように消えていってしまった。こうして精霊達はまずはその姿を消してしまった。後は人間達の時間となった。
扉が開いた。そしてそこから一人の男が入ってきた。
「何だ、まだ誰もいないな」
低く、地の底から響くような声でこう呟いた。黒いタキシードにクロスハットを身に纏った立派な身なりの男であった。
身なりこそはいいが顔は異相であると言えた。眼は細く吊り上がっている。その黒い眼光も鋭い。知的な光も漂わせてはいるがそれは奸智と呼べるものであった。まるで悪魔の目に近かった。
シルクハットを脱ぐとそこからは後ろに撫で付けた髪が姿を現わした。黒く光るその髪はまるで鉄の様に見えた。
顔立ちもやや細長く、引き締まっていた。四十代後半であると思われるが筋肉質に引き締まっており、また険が深いものであった。唇は薄く小さい。背は高いがその身体も細く鞭の様である。それでいて引き締まったものであった。贅肉などはなさそうである。
「全く。時間通りに来たというのに。けしからん奴だ」
懐から懐中時計を取り出してそれを身ながら呟く。そこでまた扉が開いた。
「あっ、もうおられたのですか」
小柄で太った男が入って来た。茶色の髪に赤ら顔をしている。特に鼻は真っ赤であった。まるで酒を飲んでいるようであった。
「もうではないぞ」
タキシードの男は彼を見て不満そうに言った。
「上院議員を待たせるとはどういうことかね」
「申し訳ありません」
「このリンドルフ、時間には五月蝿いのだ。何故なら時間はわしにはどうすることもできないのだからな」
「はあ」
「人にはおよずと限界がある。人ではない者もな」
思わせぶりにこう言う。
「だができることはする。君もそうしたまえ」
「わかりました」
「では早速言うが君のできることは」
「何でしょうか」
「何でしょうかではない」
このタキシードの男リンドルフはそれを聞いてまた低い声を出した。何処か人のものではないような声であった。
「君はステッラの召使だったな」
「はい」
「だからこそ君をここに呼んだのだが。今一つわかってはいないようだな」
「滅相もありません」
赤鼻の男は首を横に振ってそれを否定した。
「そんなことはとても」
「では君の名を聞いておこう」
「はあ」
「これからの為にね。では言ってくれ」
「アンドレと申します」
男は名乗った。
「アンドレというのかね」
「はい」
「よし、覚えた。ではアンドレ君」
「はい」
アンドレは頷いた。
「ステッラはミラノからここに来た。その理由を聞きたい」
リンドルフをアンドレの目を見据えながら問うた。黒い目が無気味に光る。
「どうしてこのベルリンに来たのか。答えてくれたまえ」
「仕事でです」
アンドレはリンドルフと目が合ったまま答えた。
「奥様は歌手ですから。仕事であちこち飛び回っておられて」
「まるで雉鳩の様にか」
「はい」
「人形の様に華麗な姿で」
「はい」
「娼婦の様に美貌をふりまきながら。そうだね」
「仰る通りです」
「わかった。ではそれだけかね」
「といいますと」
「他にもあるのではないのかね。このベルリンに来た理由は」
ここでリンドルフの目の色が一瞬変わった。琥珀からルビーになったのだ。
「それは」
「そう。例えば」
ここで口の右端だけで笑った。
「かっての恋人ともう一度会う為とか。どうかね」
「そこまでは私は」
「いや、君は知っている」
リンドルフは笑った。歯を見せずに。顔だけで目は動かさずに笑った。
「彼女のかっての恋人を。その名は」
「知りません」
「私に嘘は通じないぞ」
笑ったまま言う。また目が紅になった。
「決して。さあ言い給え」
「それは誰かね」
「それは・・・・・・」
「言えば君には祝福が待っているぞ」
「祝福」
「そう、その祝福とは」
それを言おうとしたところでまた扉が開いた。そしてニクラウスが入ってきた。
「むっ」
「おや、失礼」
ニクラウスはこちらに顔を向けて来たリンドルフを見てまずは謝った。
「お話中でしたか」
「いえ、いいです」
リンドルフはすぐににこやかな顔を作ってそれに応えた。
「どうぞ。もう開店の時間ですし」
「わかりました。それでは」
「はい」
こうしてニクラウスは部屋に入った。リンドルフはそれを見届けた後でアンドレに向き直った。
「いや、名は言わなくていい」
そしてこう述べた。
「宜しいのですか」
「誰かはわかったからな。それより」
「はい」
「その誰かは御前さんの奥様に何かをしたかね」
「何かといいますと」
「わかっているだろう。手紙なり何なりを送ったのかどうか。どうじゃ」
「それでしたら」
アンドレはそれを受けて答えた。
「手紙を。一通」
「一通か」
「奥様にあてたものだな」
「ええ。それが何か」
「君はお金には困っていないかね」
リンドルフはここで思わせぶりにこう言った。
「お金ですか」
「さっき君に祝福があるやもと言ったな」
「ええ、まあ」
「それでだ。若しかするとその祝福はお金かも知れないのじゃ。どうじゃ」
「困ってはおります」
アンドレも思わせぶりに返した。
「ちょっとばかり」
「大いに、ではないのかね」
「素直に言うとそうなります」
「わかった。ではこれだけの祝福があるだろう」
そう言って彼に懐から出した札を何枚も握らせた。
「えっ、これだけもですか」
「おや、足りないのか」
リンドルフは驚くアンドレの顔をニヤニヤと見ながら言った。
「足りないのなら」
今度は金貨を数枚彼の上着のポケットに入れた。
「これでどうかな」
「勿体無い程です。それでは」
それを受けて恭しく懐から手紙を取り出した。そしてリンドルフに手渡す。
「どうぞ」
「うむ」
彼はその手紙を受け取った。それからアンドレに鷹揚に顔を向けて言った。
「御苦労。では楽しい一時を」
「はい」
アンドレはうきうきした足取りで酒場を後にした。リンドルフはそれを見届けた後で立ったまま手紙の封を切って手紙の中身を読みはじめた。
「ステッラからあの男への手紙だな」
彼は差出人と宛先を見てまずはこう呟いた。
「鍵まである。どうやら本気のようじゃな」
手紙からステッラがその男に対して本気で恋焦がれていることがわかった。リンドルフは手紙を読むにつれ危惧を覚えはじめていた。そしてまた呟いた。
「早めに手に入れてよかったわい。まだ間に合う」
それから言った。
「わしは詩人でも画家でも音楽家でもない。ましてや恋がああだとかそういうのには疎い。じゃがそれでも知恵には自信がある。今はそれを使うとしよう」
さらに言葉を続ける。
「燃えてきたわい。目が爛々と輝き、心臓に電池が宿ったようじゃ。さあ、プリマドンナを陥落させるにはどうすればよいか」
その筋肉質の顔にエネルギッシュな邪悪が宿った。
「詩人を出し抜く、いや陥れるのは昔から酒と女と決まっておる。ここは酒場。では決まりじゃ」
そこでニヤリと笑った。
「全ては決まりじゃ。ではわしはそれに合わせて動くとしよう」
そう呟き終えたところでボーイ達がホールに入って来た。そしてボーイの一人がリンドルフに挨拶をしてきた。
「リンドルフさん今晩は」
「うむ、今晩は」
リンドルフは鷹揚な仕草でそれに応える。
「今日はお早いですね」
「ここの酒を飲みたくなってな。美味いとびきりの酒を」
「また御冗談を。ここは安酒場ですよ」
「ふぉふぉふぉ」
それに対してわざとじじむさくした笑いで応じた。
「上院議員ともあろう方が飲まれる場所だとは思えませんが」
「何、ここには学生さん達が来られる」
「はい」
「若い人達と一緒に飲む酒というもの程美味いものはないのじゃ。しかもここにはあの大詩人もよく来られる」
「ホフマンさんですね」
「うむ。彼は唄も美味い」
「そうですね。若しかしたら歌手としても通用するかも知れないです」
「それでですじゃ。ここは美味い酒と学生さんとのお喋り、そして大詩人の唄を堪能するところ」
「それは何より」
「今日も楽しませてもらいますじゃ。色々と」
「ところでリンドルフさん」
「はい」
リンドルフはボーイの言葉に顔を向けた。
「一つ忘れ物がありますよ」
「それは何ですかな」
「うちのことですよ。うちはお酒だけが美味しいのではありません」
「といいますと」
「食べ物もです。これはお忘れなきよう」
「おっとと、これは失敬」
ボーイの言葉に顔を崩して笑ってみせた。
「そうでしたな、これはこれは」
「今宵もソーセージにアイスバイン、ベーコンと用意してあります」
「そちらも楽しみにしておりますぞ」
「はい。おや、もう来ましたよ」
扉の向こうからガヤガヤとした声が聞こえてきた。
「学生さん達ですよ。ではどうぞごゆっくり」
そう言って中央の一番いい席を勧める。
「わかりました。では」
「はい。どうぞ今宵もお楽しみ下さい」
こうしてリンドルフは席に座り出された酒や料理を前に佇んでいた。扉が開き若者達が元気よく店の中に入って来た。
「よし、今日も飲むぞ」
「ワインにビールを」
学生達は口々に言いながらそれぞれ空いた席に座っていく。
「リンドルフさん今晩は」
「今夜もとことんまで飲みましょう」
「うむ、待っておったぞ若者達よ」
リンドルフはわざと芝居がかって学生達に対して声をかける。
「ジョッキの用意はできているか」
「今頼んでいるところです」
「ビールにワイン」
「ソーセージにチーズ」
「それが俺達の夜の相棒」
「とことんまで飲もう。朝までな」
「おう、朝までだ」
「潰れた奴はそれで放っておけ」
「残った者が飲み続ける。そしてこの店の酒を飲み干してしまえ」
明るく唄いながら言い合う。そしてその中の一人が今届けられたばかりの錫の巨大なジョッキを片手に立ち上がった。
「さて、諸君」
「おお、ナタナエル」
学生達はその巨大なジョッキを持つ黒髪の男に顔を向けてきた。彼は中央にいるリンドルフの側にまでやって来た。
「まずは乾杯といこうではないか」
「そうだな」
皆ナタナエルの言葉に従うことにした。そしてそれぞれ運ばれてきた杯を手にする。ナタナエルは皆に回ったのを確かめてからまた言う。
「それでは今宵は側のオペラ座でドン=ジョバンニが上演されていることだし」
モーツァルトの有名なオペラである。無類の放蕩児ドン=ジョバンニが繰り広げる恋愛活劇と言ってよい。モーツァルトの天才と言うしかない音楽がそれぞれの登場人物に鮮やかなまでの魅力を与え、動かしている。とりわけ主人公であるドン=ジョバンニのデーモニッシュな魅力は最早伝説ともなっている。
「モーツァルトに乾杯するとしよう。そしてもう一人」
「もう一人?」
「プリマドンナに乾杯」
「ステッラにだな」
「そうだ。我等が栄光の姫君の為に。ステッラに乾杯」
「ステッラに乾杯!モーツァルトに乾杯!」
そう言い合って一気に飲み干す。学生達はそこであることに気付いた。
「あれ、今日は彼がいないな」
「ホフマンがいないぞ」
「彼は丁度今仕事を終えたところらしい」
「仕事を」
ナタナエルが皆に説明した。
「ふむ、そうだったのか」
リンドルフはそれを聞いて呟いた。
「よいタイミングじゃったわけじゃな。何もかも」
「そして今ニクラウスが呼びに行っているよ。さっき酒場に来たけどいなかったので呼びに行ったらしい」
「ニクラウスが」
「よく気が利くな、いつも」
学生達は口々に言う。
「まるで女の子のようにな」
「ははは、それはいい」
学生達はナタナエルの言葉に思わず吹き出してしまった。
「顔もそんな感じだしな」
「そうそう。何かホフマンといるとその筋の関係みたいだ」
「けれどホフマンはそっちには興味がない」
「それは何より」
そこで扉が開いた。そこから背の高い一人の若い男が酒場に入って来た。
「おお、遂に」
「やって来たよ主役が」
「色男のお出ましか」
リンドルフも彼の姿を認めて誰にも聞こえることのない声でこう呟いた。
その男は黒いズボンに茶色の上着、白いシャツに薄茶色のネクタイを身に纏っていた。そしてその上から暗いクリーム色のコートを羽織っている。如何にも、といった感じの詩人の格好であると言えた。
顔立ちは悪くはない。むしろ整っている。ゲルマン系にスラブが入ったような端整な中に精悍さも感じられる顔をしており髪は銀色である。そして同じ色の頬髯を生やしている。それが彼の精悍さをさらに際立たせていた。目は青く、まるで湖のようであった。澄んではいたが何処か哀愁を感じさせる目であった。
「今晩は」
「おお、ホフマン先生」
学生達は彼を認めると彼に声をかけてきた。
「やっと来られましたな」
「ちょっと仕事が長引いてね」
ホフマンは彼等にこう応えた。
「司法官という仕事は。思っていたより大変だよ」
「何なら詩人に専念されては」
「いや、そういうわけにもいかないんだ、これが」
ホフマンは苦笑いを浮かべて言葉を返した。
「音楽や絵もあるしね」
「おっと、そちらでしたか」
「それに酒も飲まなくては。今日はどんな酒があるかな」
「黒ビールのいいのが入っていますが」
「じゃあそれをもらおうかな。さて、と」
「席ならもう用意してありますよ」
学生達はそう言って彼とニクラウスに席を勧める。
「こちらに。さあどうぞ」
「有り難う」
ホフマンとニクラウスは彼等に勧められた席に座った。それからまた口を開いた。
「実は新曲ができたんだ」
「音楽の方ですか」
「うん。詩でもあるけれどね。題名は」
「何でしょうか」
「ほら、この前ちょっと言ったことがあるよね。鼠の歌だよ」
「鼠の歌」
「クラインザックの物語でしたっけ」
「そう、それだよ」
ホフマンは上機嫌でそれに頷いた。
「やっと完成して。それで音楽社には届けたし」
「司法官の仕事以外にも?」
「うん。昼の間にね。かなり喜んでくれたよ」
「そうでしょうね。いい曲ですから」
「この前でどれだけできていたんでしたっけ」
「九割程だったかな」
彼は考えながら述べた。
「九割ですか」
「残る一割も完成したし。それで披露したいんだけれど」
「是非」
「お願いします」
「よし、それなら」
ビールのジョッキを空にしてから応える。そしてすっくと立ち上がった。
「じゃあ行くよ」
「はい」
「いち、にの」
ナタナエルが指揮を採る。指揮棒はないので手で行う。ホフマンはそれに合わせて歌いはじめた。
「昔アイゼナッハの宮廷に」
「アイゼナッハの宮廷に」
学生達もそれに合わせる。だがリンドルフとニクラウスは黙って座っていた。ニクラウスは微笑んで、リンドルフはホフマンを探る目で見ながら。それぞれ黙って座っていた。
「クラインザックというチビがおりました」
「クラインザックがおりました」
「そいつは毛皮の帽子を被り、いつも足をガクガクと鳴らしておりました。ほ、それがクラインザック」
「クラインザック!クラインザック!」
シャンソンに似た歌に学生達が合わせる。
「お腹にはでっかいコブ」
「そしてそれはまるで袋のよう」
「そう、おまけに頭までカクカク鳴っている」
「カクカクカクカク!」
学生達はさらに楽しそうに唄う。
「顔立ちは。そう」
ここでホフマンも本格的に歌に入ってきた。調子が出て来た。
「素敵な顔立ちだった」
「素敵な顔立ち!?」
「そう、彼女が」
「何だ、彼女か」
「一瞬誰かと思ったよ」
この時学生達は気付いてはいなかった。ホフマンがこの時はクラインザックを唄ってはいないということに。
「谷や森を抜け、彼女の父親の家に向かう。そこに彼女はいた」
「どんな彼女だい!?」
「黒々とした髪を編み上げ青い目はみずみずしく澄んでその眼差しを辺りに注いでいる」
「凄い綺麗な人みたいだな」
「そう、しかも首筋は優美でその身体は儚げだ。まるで夢の様な美女だった」
「クラインザックはその美女をどうしたんだい?」
「勝利の歌を贈ったのさ。二人で馬車に乗った時に」
「おお、それは何より」
「その時の言葉が今でも耳に残っている。木霊みたいにね」
「ふむ、そういうことか」
リンドルフはそこまで聞いて頷いた。
「まさかこんなところで聞けるとはな。わしは運がいい」
「ちょっと待った」
ここでナタナエルがまず気付いた。
「ホフマンさん、その唄だけれど」
「うん」
「前に紹介してくれた時と少し違っているけれど。変えたのかい?」
「いや、変えてはいないけれど」
ホフマンはそう答えた。
「そうなのか。けれどそれってクラインザックの唄とは違うような」
「彼女の唄だが」
「彼女の!?」
学生達もそれを聞いていぶかしみはじめた。
「クラインザックじゃなくて!?」
「あ、いや」
ホフマンはここでようやく我に返った。慌てて取り繕いはじめる。
「何でもないよ。何でもね」
「そうなの」
「で、クラインザックの唄はこれで終わりなんだね」
「うん。それじゃあ本格的に飲むとするか」
「それじゃあ」
「ミューズに乾杯」
ニクラウスが温度をとった。
「よし、ミューズに乾杯」
ホフマンも学生達もそれに応えてまた乾杯をした。ホフマンはまたビールを勢いよく飲み干した。
「美味いね、このビール」
「ああ、何かいつもと違うね」
「そうでしょう。とびきりいいのを仕入れてきましたから」
ホフマンの側にいたボーイがそれに答える。
「この黒ビールが」
「はい。仕入れるのには苦労しましたよ。けれど喜んでもらえたようで」
「うん。ソーセージもいいしね」
ホフマンは今度はソーセージを食べながら言った。
「詰まらないことは忘れてね」
「詰まらないこと」
ナタナエルがまた反応を示した。
「やっぱりな」
「どうかしたのかい?」
学生達の中にはそれを聞いてナタナエルに声をかける者がいた。そして彼もそれに応えた。
「ああ、ホフマンのことだがな。彼は今恋をしている」
「ふむ」
リンドルフはそれを聞いてニヤリと笑った。
「やはりな」
「相手は誰かまではまだわからないけれどな」
「面白いことを言うね」
そしてホフマンもそれに乗ってきた。
「僕が恋をしているか、なんて」
「図星ですかな」
リンドルフはここで彼に挑発を仕掛けてきた。
「ですから反応した」
「面白い仮説ですね」
リンドルフはこれを予測したのであろう。ホフマンも乗ってきた。
「そうした洞察がないと政治家にはなれないのですか」
「いやいや」
リンドルフはホフマンの問いに対して笑って返す。
「悪魔の噂をすれば角、といったものですかな」
「それは面白い例えです」
ホフマンも笑みを作って返す。
「流石は政治家であられます。まるで不幸の鳥の囀りの様な御言葉です」
「法律は時として毒になりますな」
政治家であるリンドルフを揶揄するとリンドルフも返してきた。
「ソクラテスもそれで死にました」
「法律はあくまで正義をむねとしておりますが」
ホフマンも負けじと返す。
「政治家の様に言葉遊びもできませんし」
「ですが王の法を弄ぶことはできますな」
「おやおや」
「そしてここでは詩や音楽を語る。結構なことです」
「少なくとも私はお金で美人を誘ったりはしませんよ」
「お金とは失敬な」
リンドルフは不敵に笑って言った。
「私もまた。誘う手段はありますから」
「お金以外にも」
「黄金に頼らずとも幾らでも方法はありますぞ」
「地位は」
「ははは、お互いにそれは止めておきましょう」
政治家と法律家はこの時代のドイツでも仲が悪かった。立法と司法が仲が悪いのは国家として避けられぬ運命であるからだ。これは国王の下にあっても変わりはしない。
「それを言うとお互い気まずいですからな」
「では二人の男としてお話しましょうか」
「ええ」
リンドルフはにこやかな笑みを作ってきた。
「それでしたら」
「わかりました。では」
「はい」
まずは互いに黒ビールを飲んだ。
「先程僕が恋をしているという話が出ましたが」
「そうではないのですか」
「まあお話は最後まで。宜しいですね」
「わかりました。それにしても貴方とは以前にも御会いしたことがあるような気がするのですが」
「気のせいでしょう」
リンドルフはとぼけてきた。
「ベルリンではじめて御会いしたではないですか。それもこの酒場でね」
「いや、確かに」
だがホフマンはそれを否定した。
「以前にも会っています、僕の記憶が正しければ」
「酒の記憶ではなくて」
「ええ。僕が女性と出会う度に」
「おや」
ここで学生達もナタナエルもあることに気付いた。
「ホフマンさん、今は恋はされていないんですね」
「さてね」
ホフマンもとぼけてきた。相手こそ違うが。
「それはどうだか」
「けれど昔はどうなんですか」
「今というのは不思議なものでね」
ホフマンは急に落ち着いてきてこう学生達に応えた。
「すぐに昔のことになってしまうものさ」
「まあ現在は一瞬ですから」
学生達もそれに頷く。
「未来も近付いてきてすぐ過去になる」
「過去は後ろを見れば永遠にあるし未来も前を見れば永遠にある。しかし現在は今そこにあるだけですからね」
「過去僕が見てきた女性は不思議だった」
彼は言う。
「人形と歌手、そして娼婦だった」
「それがステッラじゃな」
リンドルフはそれを聞いて一人呟く。
「ようやく白状しおったわ」
「いや、女性じゃないな」
「何じゃ、違うのか」
リンドルフはそれを聞いて酒気を帯びた目で彼を見据えた。
「では何じゃ」
「女性達は。それは三人いた」
「三人も」
「流石はホフマンさんだ。今まで三人の女性と深い交流があったのですか」
「聞きたいかい?」
「勿論です」
学生達は笑顔で応えた。
「是非共。お願いします」
「君は?」
「勿論です」
ナタナエルもそれに頷いた。
「是非」
「で、どんな話なんだい?」
ニクラウスがホフマンに尋ねてきた。
「まさかとは思うけれどあの話なのかい?」
「ニクラウス、今は静かにしていて」
「わかったよ」
彼はそれに頷くと空いている席に座った。
「じゃあ話すんだね」
「どんな話かな」
「まずは聞いてみるか」
「その前に一杯」
ホフマンはまずはまた一杯所望した。すぐにジョッキに一杯の黒ビールが運ばれて来る。ホフマンは運んで来たボーイに礼を言うとすぐにそのビールを飲み干した。そしてそれから述べた。
「さてと」
リンドルフは学生達が座りホフマンがその中央に座ったのを見てまずは懐から時計を取り出して時間を見た。
「あと一時間あるな。一時間だ」
そう呟いて禍々しい笑みを浮かべた。口が耳まで裂けんばかりの笑みであった。
「それで全てがつく。詩人殿の驚く顔が見ものだな」
見れば彼の席は面白い場所にあった。ホフマンは中央にいた。その彼を左手に見ていた。最後の晩餐においてキリストを見るユダの位置であった。
「皆さん」
ここで店の方から声がした。
「そろそろオペラの幕が上がりますけれど」
「今はいいよ」
学生達はそう返した。
「ドン=ジョバンニは明日もやるんだろ?」
「ええ」
「だったら明日でも見られるし。それに昨日も観たし」
「美人も三日見れば飽きるし。明日でもいいよ」
「そうですか。それでは」
「うん。今はそれより」
「ホフマンさんの話を聞きたいんだ」
そしてホフマンに注目した。彼はまたジョッキを飲み干していた。もう顔が真っ赤になり目は座っている。完全に酔ってしまっていた。だが酒に酔っているのか他のことに酔っているのかまではわからない。
「じゃあそろそろいいかな」
「はい」
学生達は応えた。
「何時でもいいですよ」
「お願いします」
「そしてそれが終われば奴は奈落の底だ」
だがリンドルフの声は誰にも聞こえなかった。しかしこう呟いたのは事実であった。
「全ては。わしの手の中よ」
「それじゃあそろそろ話をはじめるから」
「静粛に」
「はい、静粛に」
学生達はナタナエルの言葉に応えそれぞれホフマンに注目する。ホフマンはそれに応えてまず咳払いをした。それから言う。
「それでははじめるよ」
「はい」
「まず最初の話だけれど」
「それは」
「オランピアの話だよ」
そして話をはじめた。彼は酒を飲みながら話をはじめた。
次回は過去のお話になるのかな。
美姫 「みたいね。それにしても、リンドルフは何を企んでいるのかしら?」
うーん、何だろう。
これからどんな展開をしていくのか楽しみだな。
美姫 「次回をお待ちしてますね」
ではでは。