『魔弾の射手』




           第二幕   狼谷の儀式


 クーノの家である。ここはその先祖が領主より褒美として貰い受けた城であり外見は古風であり内装も質素である。壁には鹿の頭や古い壁掛けがあり、カーテンも白い質素なものである。クーノの趣味であろうかその内装は実に穏やかなものであった。椅子もテーブルも樫の木で作られた頑丈なものであった。扉もそれに同じである。
 今その扉の前に一人の少女がいた。小柄で麻色の髪に緑の目を持つ可愛らしい少女である。その頬にはソバカスまである。青い服を着ている。
「よいしょっと」
 彼女は壁に絵を掛けるとそれに釘を打っていた。カンカンと音を立てながら絵を取り付けていう。
「やれやれ。こうも壁が厚いと」
 彼女は打ちつけながらぼやいていた。
「絵を取り付けるのも一苦労だわ」
 ぼやいていると扉が開いた。そしてそこからもう一人少女が入って来た。
「あら、お帰りなさいませ、アガーテお嬢様」
「只今、エンヒェン」
 アガーテはその少女の名を呼んで挨拶を返した。白い服を着た長身の少女である。豊かな金髪に湖の色をした澄んだ瞳、まるで森の妖精の様に清楚で整った顔立ちをしている。この家の主であるクーノの娘でマックスの婚約者でもあるのだ。
「隠者様はお元気でした?」
「ええ」
 アガーテはエンヒェンの問いに答えた。
「いつもとお変わりなかったわ。そして私を祝福して下さったの」
「それはよかったですわね」
 エンヒェンは絵を取り付け終わり下に降りてきてそう言った。
「そして隠者様からこう言われたの」
「何て?」
「銀の後に渡される薔薇が私を守ってくれるだろう、って。そして幸せは少し遅れるかも知れないと。どういう意味でしょう」
「ううん」
 エンヒェンはそれを聞いて少し考え込んだ。
「エンヒェン、貴女にはわかる?私はそれがどういう意味かよくわからないの。悪い意味じゃないでしょうけれど」
「私も悪いことではないと思います」
 エンヒェンもそう答えた。
「悪い意味でないならそんなに心配することではありませんよ。人間ふさぎ込むのが一番駄目ですから」
「ええ」
「ですから努めて明るくしましょう。そうすれば幸せなんて自分からやって来ますよ」
「有り難う」
 アガーテはその言葉を受けて感謝の言葉を述べた。
「いつも貴女にはそうやって励ましてもらってるわね」
「いえいえ」
 だがエンヒェンはそれには手を横に振った。
「私は明るいのだけが取り柄ですから。お気になさらないで下さい」
「けれど」
「けれども何もありませんよ、お嬢様」
 彼女はまた言った。
「もうすぐ結婚、だったら明るくならない筈がありませんよ。ですから明るくなりましょうよ」
「そうね。けれど」
「けれど?」
「やっぱり不安なのよ。あの人のことが心配で」
 アガーテは俯いてそう言った。
「マックス様のことが?」
「ええ」
 彼女は答えた。
「ほら、最近何か調子がよくないらしいし。明日もしものことがあれば」
「あれば?」
「結婚できなくなるかも知れないのよ。そうなったら私」
「またそうやって塞ぎ込まれる」
 エンヒェンはふう、と溜息をついてそう言った。
「あの方に限ってそのようなことはありませんよ」
「けど」
 だがアガーテは不安を禁じえなかった。エンヒェンはそんな彼女に対してこう語った。
「あの方がお好きなのでしょう?」
「ええ」
「でしたら」
 彼女はここで絵を取り付け終わった。
「とりあえずこちらはこれでお終い。御先祖様はやっぱり上におられないと」
「そうね」 
 アガーテもそれに同意した。
「ところで」
 そしてエンヒェンは話を戻しにかかった。
「あの方のことですけれど」
「マックスの」
「そうです。綺麗な金髪に青い瞳に整ったお顔、ご不満はおありで?」
「まさか」
 アガーテはそれに首を横に振った。
「私なんかには勿体ない程だわ」
「そうでしょう。おまけにスラリとしておられる。容姿は問題なし」
 ここで彼女は下に降りて来た。
「それだけでなく猟師としても言うことなし。人柄も素晴らしい、と非の打ち所がありませんわ」
「そうだけれど」
「それなのに何が不安でして?」
「隠者様の御言葉が」
「あら、隠者様の」
「そうなの。エンヒェン、これを見て」
 彼女はここで一輪の花を取り出した。それは白い薔薇であった。
「薔薇」
「そう、薔薇よ。隠者様が下さったの。これを忘れるな、って」
「何故ですの?」
「この薔薇が私を守ってくれるからって。どういう意味かわからないけれど」
「守って下さるのですね」
 暗い顔のアガーテに対してやはりエンヒェンは明るいままであった。
「でしたら問題はありませんわ」
 そしてやはり明るい声でこう言った。
「そうかしら」
「お嬢様」
 エンヒェンはアガーテに微笑みながら話をはじめた。
「私の父が軍人だったのは御存知ですわね」
「ええ」
「その父が言っていましたわ。恐怖を嘲ろと」
「恐怖を」
「そうですわ。そうしたら恐怖は逃げて行くと。わかりましたわね」
「貴女がそう言うのなら」
 それを効いてアガーテの顔色は少しよくなった。それを見たエンヒェンは続けた。
「その薔薇を大切にして下さいね。それがお嬢様を御守りするのでしたら」
「ええ」
「とりあえず今は夜の新鮮な空気に当てておきますね」
 ヘンヒェンはアガーテの手からその薔薇を受け取ろうとする。だがアガーテはそれを止めた。
「待って」
「どうしました?」
「もうちょっと持っていたいの。マックスに会うまでは」
「そうですか。ではわかりました」
 エンヒェンはそれを受けて手を引いた。
「御免なさいね」
「いえいえ」
 エンヒェンは笑顔で引いた。
「では私は隣の部屋に」
 そう言って出て行こうとする。
「何かあるの?」
「あちらにも用事がありまして。それでは」
「はい」
 彼女は出て行きながら心の中でアガーテを見て微笑んでいた。
(あてられるわね)
 そう思いながら部屋を出た。後にはアガーテだけとなった。
 彼女は窓の方へ歩いて行く。そしてそれを開ける。明るい星達が目に入って来た。
「星は綺麗に瞬いているけれど」
 しかし彼女の顔は晴れなかった。
「私の心は晴れない。そしてあの人のことが胸を締め付ける。明日もしかすると・・・・・・。どうしてそんなことばかり考えてしまうのかしら」
 星を見上げながら言う。だが星達は答えない。彼女の憂いはさらに深まっていく。
 森に目を移す。星達が瞬く空と違い深い闇の中にあるようであった。
「あの静かな森の中にあの人は今もいるのかしら。獣や魔物が潜むあの森に」
 森も沈黙していた。やはり何も語らない。それがかえってアガーテの心の中の不安を増大させていく。
「彼等が息を顰めるあの中にあの人がいるのなら私はどうすればいいの?私には待つことしかできないのかしら。何という辛いことなのでしょう、魔物に誘われるあの人に何もできないなんて」
 手にある薔薇を見る。その薔薇は闇夜の中でも白く輝いていた。そしてその光がアガーテの心を照らした。
「隠者様の下さったこの薔薇が私を守って下さるのなら」
 今度は薔薇に囁いていた。
「あの人も守って。お願いだから」
 やはり薔薇も答えない。だが微かに光を増したように見えた。
 ここで扉をノックする音が聞こえてきた。
「誰?」
「私です」
 それはエンヒェンのものであった。
「どうぞ。何かあったの?」
「お客様ですよ」
 彼女の声は先程のものよりも明るいものであった。
「お客様」
「はい。是非お嬢様に御会いしたいと。如何なされますか?」
「どなたなの?それによるけれど」
「お嬢様が最もよく御存知の方ですよ」
 エンヒェンの声は笑っていた。それを聞いてアガーテの警戒が解かれた。
「誰かしら」
 そう思いながらも悪いようには思えなかった。そしてこう言った。
「是非こちらに迎えて」
「わかりました」
 するとすぐに扉が開いた。
「どうぞ」
 エンヒェンが扉を開けるとそこから長身の若者が部屋に入って来た。アガーテは彼の姿を見て思わず喜びの声をあげた。
「マックス!」
「アガーテ」
 彼は微笑んでいた。そして笑顔で彼女の側に来た。
「起きていてくれたんだね」
「ええ。貴方のことを思って」
「そうだったのか、有り難う」
 彼はそれを聞いてさらに笑った。
「では君にこれを捧げるよ」
 そう言って自分が被っている帽子についた羽根を取った。そしてそれをアガーテに差し出した。
「これは」
「今日撃ち落した鳥の羽根さ。是非受け取ってくれ」
「喜んで」
 アガーテはそれを笑顔で受けた。
「貴方の下さったものですから」
「有り難う」
「けれど本当に大きな羽根ね。私こんな羽根見たのはじめてよ」
 彼女は窓から入る月と星の光でその羽根を見て言った。
「何処でこんな羽根を持った鳥を撃ったの?よろしければ教えて」
「いつもの森さ」
 彼は答えた。
「いつもの」
「そうさ、けれど特別な方法でね」
「特別な!?」
 それを聞いたアガーテは思わず首を傾げた。
「そうなんだ。そしてもう一つ獲物があるんだ。その特別な方法で捕まえた幸運がね」
「それは何!?」
「十六叉角の大きな鹿さ。今からそれを家まで引っ張っていかなくちゃならないけれど」
「鹿を」
「そうなんだ」
「それは何処にあるの?その鹿は」
「かなり遠い場所さ」
「何処なの?」
 アガーテはさらに聞いた。
「狼谷さ」
 その谷の名を聞いたエンヒェンとアガーテは顔色を失った。
「狼谷!?」
「ああ」
 マックスはそれに頷いた。
「何かあるの?」
「何かって」
「あの谷のことは知っていますよね!?」
「勿論だよ」
 マックスは素っ気無い様子でそう答えた。
「では何故」
「アガーテ」
 しかしここで彼はあえて強い声を出した。
「狩人が恐れてはならないよ」
「けど」
「僕は大丈夫だ。夜中に何度も森の中を歩いてきている。時にはくまや狼に襲われたり囲まれたりしたこともある」
「それなら」
「だからこそだよ。だからこそ僕は恐れはしないんだ」
「けれどマックス」
 アガーテはそれでも言わずにはおれなかった。
「あの谷にいるのは熊や狼じゃないのよ」
「魔物か」
「そう」
 アガーテは答えた。
「あの森だけでなく夜の世界を司る魔王がいると言われているわ。そんな場所に行ったら」
「だから大丈夫だと言っているじゃないか。魔王?そんなものを恐れはしない」
 彼はアガーテを安心させるように話した。
「樫の木が嵐に唸り、烏や梟が空を覆っていても僕は恐れなかった。今更魔王なぞ」
「マックス様」
 見かねてエンヒェンも入って来た。
「お嬢様の御言葉をお聞き入れ下さい」
「気持ちは有り難いけれど」
 それでも彼は行かねばならないのであった。
「わかってくれ。これは君の為なんだ」
「鹿なんて何時でも手に入るわ。それよりも私は」
「鹿なんかじゃないんだ」
 だが彼はここでこう言い放った。
「もっと大事なものの為に。そう、君の為に」
「私の・・・・・・」
「それは明日わかる。だから・・・・・・行かせてくれ」
 そう言うと彼は足早にその場を去った。そして部屋を後にした。
 アガーテは不安に満ちた顔でそれを見送った。もう何も言えなかった。エンヒェンはそんな彼女を励まし、元気付けることしかできなかった。彼女の顔にも不安と恐怖が浮かんでいた。

 深い山の中にその谷はあった。険しく、高い山々に囲まれている。側を流れる滝も高く、清明というよりは恐ろしさを感じさせる滝であった。
 その谷の中は左右から嵐が雪崩れ込んでいた。荒れ狂う風とその音で支配されている。所々に雷で潰された岩や木の跡が転がり、残る岩や木々も禍々しい形をしている。そしてその上の月は無気味な程青白かった。
 梟や獣の鳴き声が遠くから聞こえる。それ以外の存在の囁く声も聞こえる。
「フーーーーフイ!フーーーーフイ!」 
 それは地の底から、若しくは風の中から聞こえてくる。一つではなく無数に聞こえてくる。そして何やら人に似た声も聞こえる。
「月の乳は草に落ちたか?」
「うむ」
 それに応える声もする。
「では蜘蛛の巣はどうなった?」
「血に染まっておる」
「そうか。ならば問題はない」
 哄笑も混じる。
「では次の日の夕方までには」
「ああ、美しい花嫁は死ぬ」
「それはよきかな」
 やはり風の中や地の底にあるような声であった。
「明日の夜の帳が世界を覆うその時までには」
「生け贄は我等の下に捧げられるのだ」
「よきかなよきかな」
「クックックックックック」
 やがてその笑い声も聞こえなくなった。見れば谷の中に一人の男がいた。猟師の服を着ている。カスパールであった。
 彼は黒い石を使い闇の中で円陣を描いていた。細部に奇怪な呪文が書き込まれている。どうやら魔術のものらしい。
 そしてその中央には髑髏が置かれ側に鷲の翼が置かれている。同時に釜と弾丸鋳型もある。何かを作ろうと考えているようだ。
「これでよし」
 カスパールは陣を描き終えると顔を上げてそう呟いた。
「後は」
 そう言いながら腰の鹿刀を取り出す。そしてそれを髑髏に突き刺して叫んだ。
「ザミエル!」
 その名を叫ぶと場に何か得体の知れないものが漂った。
「ザミエル!」
 もう一度叫ぶ。その得体の知れないものが見えてくる。それは黒い霧であった。
「出て来い魔王よ悪魔の髑髏の側に!」
 見ればその髑髏は人のものとは微妙に異なっていた。角等こそないものの異様に大きい。そしてその歯は尖り、まるで獣のそれであった。
「ザミエル、来たれ!」
 谷が沈黙に支配された。そして地の底が割れた。中からマックスを見ていたあの大男が姿を現わした。
「呼んだか」
 その男はカスパールの前に立ってそう問うた。
「魔王ザミエルよ」
 カスパールは彼を見上げてその名を呼んだ。
「俺の期限がもうすぐなのは知っているな」
「知らない筈がない」
 彼は地獄の奥底から聞こえてくるような低い声で答えた。
「明日だ」
「そうだ、明日だ」
 カスパールはそれを聞いてそう呟いた。
「もう少し伸ばせないか」
「それは出来ない」
 ザミエルはそれに対して首を横に振った。
「契約は絶対だ。それは最初の契約の時に言った筈だ」
「しかし」
「しかしも何もない」
 ザミエルはあくまでそれを拒否した。
「魔界においても法は絶対だ。それは覚えておけ」
「・・・・・・わかった」
 カスパールはそれを受けて苦渋に満ちた声でそう答えた。
「ならば新しい生け贄を持って来る。それでいいな」
「それならばな」
 ザミエルはそれには首を縦に振った。
「契約違反ではない。よいだろう」
「おお、それは有り難い」
 カスパールはそれを聞いて顔を少し明るくさせた。
「そしてそれは一体誰だ?周りの者の声によると花嫁だというが」
「フーーーーフイ!フーーーーフイ!」
 それを聞いたか声がまた響いてきた。カスパールはそれを聞いて内心身震いを感じた。だがそれは決して顔には出さない。魔王を前にしてそれは出来なかった。
「俺の狩り仲間もだ」
「ほう」
 それを聞いたザミエルの眉が少し上がった。
「では二人差し出すのだな」
「都合そういうことになる。これならどうだ」
「悪い話ではない。では生け贄を手に入れてからな」
「ああ、わかった」
 カスパールはそれを聞いて安心したように頷いた。
「ところでだ」
 ザミエルはここで質問を変えてきた。
「何だ?」
 カスパールは一瞬ギョッとした。やはりそれは顔には出さない。
「その仲間は何を望んでいるのだ?」
「ああ、それか」
 それを聞いて彼は胸を撫で下ろした。無理難題を言われたならばどうしようかと思っていたのだ。
「魔法の弾を望んでいるのだ」
「御前と同じか」
「ああ、全く同じ弾だ」
 彼はそう答えた。
「七発の魔法の弾だ」
「そのうち六つは当たるが」
 ザミエルはそれを聞いて呟く。
「七つ目は外れるあれだな」
「そうだ」
 カスパールは頷いた。
「七つ目はあんたのものとなっているあの弾だ。それで花嫁の魂もあんたのものだ」
「そういうことか」
 ザミエルは表情を変えずに頷いた。
「どうだ、これならいいだろう」
「それは後になってからわかることだ」
 ザミエルの言葉は呆気ないものであった。しかしカスパールはそれでも引き下がった。
「しかし期限を延ばすのにはいいと思うが」
「御前の魂の身代わりとして」
「そういうことだ。三年分はあると思うが」
「確かに」
 ザミエルはそれを認めた。
「ではそれは約束しよう。三年の延長をな。地獄の門にかけて」
「おお、それは有り難い」
「しかしだ」
 だがここでザミエルの声が鋭くなった。
「それは明日の期限までに二人の魂が私の下に入ったならだ」
「それはわかっている」
 カスパールはその言葉に顔を一瞬青くさせて答えた。
「しかし安心してくれ。俺が約束を破ったことがあるか?長い付き合いで」
「いや」
 ザミエルはそれには首を横に振った。
「だろう?なら安心してくれ。いいな」
「わかった」
 ザミエルはそれを認めた。
「しかし念を押しておこう」
 それでも彼はこう言った。
「明日の期限・・・・・・決して忘れぬようにな」
 雷が鳴った。そして鈍い雷鳴が谷の轟く。その光がザミエルの禍々しい顔を映し出した。
 雷鳴が消えるとザミエルもまた姿を消していた。後にはカスパールだけが残っていた。
 見れば刀を差した髑髏は何処かへ消えていた。そのかわりに今まで髑髏があった場所に小さな窯があった。その中では灰火が燃えていた。
「消えたか」
 カスパールはそれを見て呟いた。だが辺りはまだ怪しげな気配に支配されている。
「だがいい。ことは俺の望む通りに進んでいる。今のところはな」
 彼はここで腰にある水筒を手に取った。中には酒が入っている。
 それを飲む。そして気を昂ぶらせた。
「だが問題はこれからだ。マックスの奴、果たしてここまで来るか」
 窯の中の火を見る。見れば弱くなっているので薪をくべる。するとその周りに梟やその他の魔性の鳥達がやって来て翼を動かした。それで火が起こった。
「手助けしてくれるか」
 カスパールはそれを見てニヤリと笑った。
「有り難い。どうやら俺は魔物にも助けられているらしい」
 そう言う彼の顔はそこにいる梟や他の鳥達と同じ顔になっていた。それは完全に魔性の者の顔であった。ここで上から何か物音がした。
「ムッ!?」
 それを聴いた彼は上を見上げた。するとそこにはマックスがいた。
「遂に来たか」
 カスパールは彼を見て笑っていた。だがマックスはそれには気付いてはいない。
「地獄の沼を見下ろすようだ」
 マックスはそのカスパールがいる谷を見下ろして呟いた。
「雷の音がして黒い霧と雲が覆っている。月の光すら届いてはいない。まるで魔界だ」
 そう、そこはまさに魔界だったのだ。
「梟が時折姿を見せ赤い木の枝が私を誘うように蠢いている。風に揺られているのだろうか」
 確かに谷の中は二つの流れの風が吹き荒れていた。マックスはそれを見てさらに顔を青くさせた。
「恐ろしい、だが行かなければ」
 それでも行かなければならないのはわかっていた。
「アガーテの為に」
 全ては彼女を手に入れる為に。彼は谷への入口に一歩踏み込んだ。
 彼の心は不安と恐怖に揺れ動いていた。だがカスパールはそんな彼の心を見透かしたうえで笑っていた。
「そうだ、来い」
 彼は言った。
「来て俺の身代わりとなるのだ」
 彼の心にあるのはあくまで身代わりのことであった。マックスをものとしてしか見てはいなかった。
 だがそれはやはり顔には出さない。マックスが側に来るとあえてにこやかな顔を作った。
「よく来てくれた」
「ああ」
 マックスは青い顔をして答えた。
「しかしとんでもないところだな」
「ここのことか」
「ああ。噂には聞いていたが」
 マックスはそう言いながら谷の底を見回した。
「まるで魔界だ。上から見下ろすより余程恐ろしい」
「そうか」
 しかしカスパールはその言葉を笑い飛ばした。
「だが俺はここで御前さんを待っていたのだぞ」
「済まない」
「まあいいさ」
 あえて許した。
「時間がない、早くはじめよう」
「わかった」
 マックスは頷く。それを見届けたカスパールは彼を円陣に誘い込んだ。
「これは」
「見ればわかるだろう」
 カスパールはそう彼に答えた。
「魔法の陣さ」
「それはもしかして」
 一体何に使うのかは彼も知っていた。
「驚く必要はない」
「しかし」
 カスパールに宥められても彼の心は平穏ではいられなかった。
「恐いのか」
「ああ」
 彼はその恐怖心を抑えることができなくなっていた。
「あれを見ろ」
 マックスは森のある場所を指し示した。
「あそこにいるのは母さんだ」
「?俺には見えないが」
「僕には見えるんだ。死んだ時の姿で僕に帰れと言っている」
「馬鹿を言え」
 だがカスパールはそれを否定した。
「御前さんの幻覚だ。怯えているからそんなものを見るんだ」
「いや、違う」
 だが彼はそれを否定した。
「あそこにアガーテが見える。見えないのか!?」
「ああ、見えないな」
 カスパールはそんな彼を一旦突き放した。
「いい加減に落ち着け」
「これが落ち着いていられるか。死人の様に青い顔をして死に装束を着ているのに」
「そりゃそうだろうな」
 カスパールはそれを聞いて独白した。
「明日死ぬのだからな」
 やはりこれはマックスには聞こえなかった。マックスはまだ言う。
「ここは一体何なんだ!?何故僕だけがこんな幻覚を見るんだ」
「それは御前さんが怯えているからだ。さっきも言っただろう」
 やはりカスパールの声は冷たいものであった。
「違う、絶対に違う」
「じゃあそう思っておけ。だが気持ちは落ち着けろ。いいな」
「・・・・・・ああ」
 マックスはそれには同意した。そしてカスパールは彼に酒の入った水筒を差し出した。
「飲め」
「わかった」
 言われるままにその酒を飲んだ。そしてとりあえずは酒の力で気持ちを抑えさせた。
「ではそろそろはじめるぞ」
 水筒を返してもらい、それからマックスに言った。
「ああ」
 マックスはそれに頷く。そしてカスパールは彼に対して囁いた。
「まず最初に言っておく。これからのことは誰にも言うな」
 マックスにそう念を押した。
「わかった」
「それならいい。もしそれができないのなら忘れろ、いいな」
「ああ」
 マックスは頷いた。
「よし」
 カスパールはそれを見てようやく作業にかかった。
 狩猟袋から次々と取り出す。暗闇の中だというのに手早い。
「まずは鉛だ。そして教会の壊れた窓ガラスを粉にしたもの」
 次々に出す。
「そして水銀だ。一度撃って当てた弾」
 その弾丸には赤い血が着いている。
「ヤツガシラの右目に山猫の左目。これでよし」
 その目は何も語らない。ただガラスの様に輝いているだけである。それ等を全て窯の中に入れた。
「そして次は」
「次は」
「弾への祈祷だ」
「わかった。弾への祈祷だな」
「ああ」
 マックスはカスパールに言われるまま彼に従って動きを続ける。
 まずカスパールは地面に三回お辞儀をした。そして詠唱した。
「闇を守る狩人よ」
「闇を守る狩人よ」
 マックスもそれにならって詠唱する。
「ザミエルよ、偉大なる堕天使よ」
「ザミエルよ、偉大なる堕天使よ」
 その名を口にした時マックスの全身に寒気が走った。
 恐ろしかった。だが今更にげだすことができないのもわかっていた。
「この夜、魔術が行われる間我を護ってくれ」
「この夜、魔術が行われる間我を護ってくれ」
 ここで窯の中が沸騰をはじめた。
 マックスはそれを見て驚いた。しかしやはり逃げられはしなかった。
「草と鉛に香油を塗ってくれ」
「草と鉛に香油を塗ってくれ」
「七と九と三を祝福せよ」
「七と九と三を祝福せよ」
 窯の沸騰はさらに激しくなる。カスパールはそれに構わず詠唱を続ける。
「弾に威力を与えよ!」
「弾に威力を与えよ!」
 窯から白緑色の不気味な光が溢れ出て来た。あたりはさらに暗くなる。窯の火と梟の黄色い目、そして朽ち果てた木の洞の中の青白い鬼火の様な光だけが見える。
「ザミエル、来たれ!」
「ザミエル、来たれ!」
 詠唱はそれで終わった。カスパールは窯に手を突っ込んだ。そして弾を取り出す。
「一つ!」
『一つ!』
 山彦が繰り返す。谷に棲む無気味な鳥達が降りて来て魔法陣を取り囲んだ。
「二つ!」
『二つ!』
 黒い猪が藪の中から出て来てこちらに来た。まるで火の様に爛々と輝く目を持っている巨大な猪であった。
「三つ!」
『三つ!』
 嵐が起こった。木の枝が折れ、火の粉が散る。
「四つ!」
『四つ!』
 今度は蹄の音がした。鞭の音も轟き、四台の炎の車が通り過ぎた。御者は見えなかった。影に包まれていたからだ。だがそれが異形の者達であることはわかった。
「五つ!」
 カスパールの声はさらに恐ろしくなっていく。
『五つ!』
 それを繰り返す山彦の声も。まるで怪物の様であった。
 天から猟犬の吠える声が聞こえる。そして狩人達が駆ける。暗い天をだ。馬もいた。青白い、炎の鬣を持つ馬であった。その狩人達が叫んでいた。
「山を越えよ、谷を越えよ!」
 天にいる筈なのに地の底から聞こえてくるようであった。
「淵や山峡を越え、霧も雲も越えよ!」
 明らかに人の声ではなかった。
「空も沼も、裂け目も問題ない。火も岩も我等を阻むことはない。海や空も越えよ!」
「ヨーーーホーーー!ホーーーーー!ホーーーーー!ホーーーーー!」
 気味の悪い叫び声まで聴こえてくる。だがそれで終わりではなかった。
「六つ!」
『六つ!』
 カスパールの声は続く。彼は周りのことには目はいっていなかった。
 空がさらに黒くなる。谷の中を荒れ狂っていた二つの嵐は一つとなり、恐ろしい雷光と雷鳴が轟く。激しい雨、青い火が天と地を覆う。木々は雷に打たれて燃え上がり、嵐やその木や岩を砕き宙に運ぶ。大地も揺れた。
 マックスは一歩も動くことができなかった。ただその荒れ狂う様を見るだけであった。そしてカスパールは遂に最後の言葉を叫んだ。
「七つ!」
『七つ!』
 それで終わりであった。だがカスパールは最後に絶叫した。
「ザミエル!」
『ザミエル!』
 山彦も一緒に絶叫した。嵐が天空に舞い上がり、魔法陣の周りにた者達が消え去った。そして青い炎に包まれた魔界の住人が二人の前に姿を現わした。
「我を再び呼ぶか」
 青い炎が消えていく。中から先程カスパールが会っていたあの魔王が姿を現わした。
「ああ」
 カスパールはそれに答えた。
「約束通り頼むぞ」
「わかった」
 ザミエルはそれに頷くとマックスに顔を向けた。
「そなたか」
「はい」
 マックスは青い顔で答えた。
「その弾をカスパールより受け取るがいい」
「わかりました」
 彼は答えた。その言葉に従いカスパールから弾を受け取る。
「これでよし」
 ザミエルとカスパールは同時にそう言った。だがその表情が異なっていた。
 ザミエルは無表情であった。青い顔からは何も読み取れない。だがカスパールは酷薄な笑みを浮かべていた。だがマックスはそれには気がつかなかった。
「さらばだ」
 ザミエルはその弾丸がマックスに渡ったのを見届けると姿を消した。それを見たマックスは力尽きたようにその場に倒れ込んだ。
「恐怖に最後まで耐え切ったか。だがそれに力尽きたようだな」
 立ち上がったカスパールは彼を見下ろしてそう言った。
「息はあるな。もっともこの程度で死ぬ筈もないが」
 マックスは息はしていた。だがその顔は恐怖のせいか蒼白なままであった。
「もっとも今日までの命だ。明日になれば貴様は魔王の下だ」
 やはり酷薄な笑みを浮かべていた。
「貴様の愛しい花嫁と共にな。そして俺は」
 また姿を現わした月を見上げた。青白い月を。
「また命を授かる。そして永遠に生きるのだ」
 月を見上げて笑っていた。その顔は完全に夜の世界の住人のそれであった。





本当の悪魔との取引か。
美姫 「でも、マックスは騙されてるのよね」
みたいだな。しかも、自分だけじゃなく愛しい人まで。
美姫 「一体、どうなってしまうのかしら」
次回が気になる所。
美姫 「続きを待ってますね〜」
ではでは。



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