『フィデリオ』




 第一幕  監獄へ


 高い塀に囲まれた刑務所であった。門は固く閉じられ中は一切見えないようになっている。それだけでこの刑務所が唯ならぬ存在であることがわかる。その奥深くの仕事部屋で声が聞こえていたがそれは誰にも聞こえはしなかった。
「おい」
 若い茶色の髪の青年がその部屋に入ってきた。緑の目をして顔にはソバカスがある。背は高く筋肉質であった。それを見ると彼が肉体労働に携わっているのがわかる。
「そろそろ休まないかい、マルツェリーナ」
「ヤキーノ」
 それを受けて部屋でアイロンをかけている少女が顔を上げた。見れば小柄で少しくすんだ蜂蜜色の髪をした可愛らしい少女だ。茶色の大きな瞳を持っている。
「お昼だしさ」
「もう少し待って」
 しかし彼女はまだ休もうとはしなかった。
「これが最後だから」
「そんなの後ですればいいのに」
 ヤキーノはそう言って渋い顔をした。
「休み時間は決まっているんだから」
「それはそうだけれどね」
 しかし彼女はそれでも手を休めなかった。
「お仕事は最後まできっちりやらないと」
「ちぇっ、真面目なんだ、マルツェリーナは」
「それが仕事だからね」
 いささか不真面目な様子のヤキーノの対して彼女は本当に勤勉であった。最後の一枚を今終えた。ヤキーノはそれを見届けてからまた声をかけてきた。
「ねえ」
「お昼御飯なら外で食べましょう」
「いや、それもあるけれど」
 彼はもじもじしだした。
「どうしたのかしら」
「あのね、マルツェリーナ」
「ええ」
「ちょっとだけ聞いて欲しいんだ」
 顔を赤くして言う。
「何かしら」
「僕と君はもう長い付き合いだよね」
「そうね。何年経つかしら」
「それでね、言いたいんだ」
「何を?」
「僕とね、結婚してくれないかな」
「それ前にも聞いたわね」
 マルツェリーナはそう言って微笑んだ。
「これで何度目かしら」
「何度でも言うよ」
 ヤキーノも退くつもりはなかった。
「僕と結婚してくれ、お願いだから」
「貴方と」
「そうなんだ。いいだろう?」
「それは」
 だが彼女は言葉を濁した。
「駄目なのかい?」
「いえ」
 それには首を横に振る。
「そうじゃないけれど」
「じゃあどうしてなんだい、僕じゃ駄目なのかい?」
「貴方のことは嫌いじゃないわ。これは本当に」
 彼女はそれは認めた。
「けれど今は」
「またそんなことを言って。これで何度目なんだ」
「何度目だっていいでしょう」
 マルツェリーナの口調がきついものになった。
「貴方には関係ないもの」
「そんなことを言うのか」
「ええ」
 彼女は答えた。
「とにかく今はそんな気分じゃないの。わかった!?」
「クッ」
「おおい」
 そこで外から年配の男の声がした。
「!?」
「ヤキーノ、いるかい?」
「?何だろう」
「行った方がいいわよ、ヤキーノ」
「ちぇっ」
 マルツェリーナは逃れられたと見た。ヤキーノはそれを残念に思った。彼は仕方なくその場を後にした。
 こうしてマルツェリーナは一人になった。そしてほっと安堵の息をついた。
「とりあえずは行ったわね」
 だがすぐに戻ってきた。マルツェリーナはそれを見て心の中で溜息をついた。だがあえてそれを隠して彼に尋ねた。
「で、何だったの?」
「ちょっと午後の仕事のことでね」
 彼は答えた。
「ちょっとした打ち合わせだ。けれどすぐに終わったよ」
「そうだったの」
 彼女はそれに頷いた。
「それでまた聞きたいんだけれど」
「また!?」
 今度は露骨に嫌な顔をした。
「そうさ、さっきも言っただろう?僕は何度も確かめるって」
「あのね、ヤキーノ」
 彼女はたまりかねて言った。
「今は言えないわ、すぐに」
「それも何回も聞いたよ」
「それでもよ」
 彼女は言い返した。
「これもさっき言ったわね」
「じゃあ答えは変わらないんだね」
「ええ」
 彼女は答えた。
「とにかく今すぐは駄目よ」
「そうか、わかったよ」
 彼はそれを聞いて止むを得なく頷いた。
「じゃあ今はいいよ。それじゃあね」
 そう言って昼食を手に取って部屋を出ようとする。
「けれど僕は諦めないからね」
 マルツェリーナはそれに答えなかった。彼女はそれを聞き流していた。
 ヤキーノはその場を後にした。そしてマルツェリーナは今度こそ一人になった。
「やっとね」
 ふう、と一息ついた。
「何を言っても駄目なのに。馬鹿な人」
 彼女の心は彼にはないようであった。では誰のところにあるのか。
「前までだったら受けられたのに」
 だが今は駄目なようだ。それは何故か。
「フィデリオがいるから。あの人には心を動かされなくなってしまったわ」
 フィデリオとはこの前新しく来た看守である。ヤキーノの同僚にあたる。銀色の髪に青い目をした凛々しい若者である。背は高くスラリとしている。いつも物憂げな顔をしている。彼女は彼に心を奪われてしまったのだ。
「あの人が私の夫となるのだったら」
 彼女は呟いた。
「甘い喜びを以って希望が心を満たすのに。朝から夜まで」
 もう彼と結ばれた時のことに想いを馳せていた。まるで夢見る少女のように。いや、その時の彼女の心はまさに少女のそれであった。
「休む時も。一切の苦しみもあの人の側だと癒されるでしょうに」
 しかしそれはまだ夢の中だけであった。そして永遠に夢の中のものとなるのではないかと内心心配していた。だがここで別の声がした。
「おうい」
「お父さん」
 彼女の父である看守長ロッコが部屋に入って来た。白髪頭の壮年の男である。髪は白いが髭は黒かった。白い頭と黒い顔で実にコントラストであった。厚い看守の服を着ていた。
「フィデリオは帰って来たか?」
「いいえ」
 彼女は首を横に振った。
「まだよ」
「そうか」
 彼はそれを聞いて頷いた。
「用事があるのだがな」
「何かあるの?」
「うむ。わしは総督様にフィデリオを寄越すよう手紙を書かなければならんのだ。それで探しているのだが」
「そうだったの」
「もうそろそろこっちに来る頃だと思ったのだがな。昼飯を受け取りに」
「じゃあここで待ったらどうかしら」
「そうだな。それがいいか」
 そう言いながら昼食を手に取った。するとそこで扉が開いた。
「おっ」
「帰って来たわね」
 マルツェリーナの声がはしゃいだ。開かれた扉から一人の青年が入って来た。
「どうも」
 高いが鋭い、それでいてツヤのある声でその若者は応えた。何処か女のそれに似た声であった。見れば美しい顔をしていた。
「ああ、フィデリオ」
 ロッコは早速彼に声をかけてきた。
「何でしょうか」
「鎖の方はもういいのか」
「はい、大丈夫です」
 彼は凛とした声で答えた。
「どんな囚人でも断ち切ることのできない鎖ばかりですよ」
「そうか、それならいい」
 ロッコはそれを聞いて顔をほぐれさせた。
「御前は本当によくやってくれているよ。御前みたいな若者がいてくれて本当に助かる」
「有り難うございます」
「何時かこれに報いなくてはな」
「報いとは」
 マルツェリーナはそれを聞いて顔を明るくさせた。
「まさか」
「まあそれはいずれな。ところでだ」
「はい」
「総督様がこのセヴィーリアから御発ちになられるのは知っているな」
「勿論です」
「なら話は早い。わしは総督様に御前のことについて手紙を書かねばならんのだ」
「どうしてでしょうか」
「決まっている。御前の立派さについてだ」
「いや、それは」
 ここで彼は謙遜した。
「私なぞはとても」
「いやいや、御前程立派な若者はそうはおらん。ここは是非申し上げておかねばならんからな」
「申し上げたらどうなるの?」
「まず御金が貰える」
 ロッコは誇らしげにそう述べた。
「世の中まずお金がないとな」
「それはそうだけれど」
「お金があればどんな苦しみも乗り越えられるだろう?懐にあの音がするだけでな」
「それはそうですけれどね」
「あらヤキーノ」
 ヤキーノがここで帰って来た。
「食べ終わったんで戻ってきました」
「そうなの」
「おう、御前も聞け」
 ロッコは彼に対しても声をかけた。
「御前も御金は好きだろう」
「そらやまあ」
「お金があれば力も湧いてくるし幸福も訪れるんだ。何もかもお金がんくては話にもならない」
「それでフィデリオさんのことを総督様にお願いするのね」
「そうだ。働きに見合ったお給料を渡してもらうようにな」
「有り難うございます」
 フィデリオはそれに対して恭しく頭を垂れた。
「ですが私は看守長にも申し上げたいことがあります」
「何だい、それは」
「御金よりもさらに重要なものがあるのです」
「?何だ、それは」
 ロッコはそれを聞いて首を傾げた。フィデリオはそんな彼に対して言った。
「信頼です」
「信頼」
「はい。何故私が御供をするのを認めて下さらないのですか」
「わしの仕事の補佐か」
「そうです。信頼して下さるのなら是非」
「気持ちは有り難いが」
「では何故」
 どういうわけかロッコはここで言葉を濁したのであった。他の者にはそれが極めて不自然であった。
「お父さん、どうしてなの?」
 マルツェリーナが父に問うた。
「フィデリオさんを御供にすればいいのに」
「そうだな」
 彼は娘に対して応えた。
「そうすればわしの負担も減る。わしも歳だ」
「ええ」
 黒いのはもう髭だけであった。それからもわかる。
「総督様もそれを認めて下さるだろう」
「では何故」
「一つ問題があるのは」
「それは何?」
「うむ、これは内緒だがな」
 彼はここで三人を見回した。
「あまり大きな声で話すことじゃない。こっちへ来てくれ」
「ええ」
「わかりました」
 彼等はそれを受けてロッコの側に集まった。ロッコはそれを見届けてから話をはじめた。
「この牢獄の奥にな、一人の囚人がいるのだ」
「奥に」
「そうだ。その囚人はどうもかなりの重罪人のようなのだ」
「何をしたのかしら」
「そこまではわからんが。そこに入ってもう二年になる」
「二年」
「そうだ」
 声をあげたフィデリオに答えた。
「二年だ。かなり長いな」
「ええ」
(まさか)
 フィデリオはそれを聞いて何やら思うところがあるようだ。しかし顔にも口にも出さない。
「それでその人は何処の人なの?」
「それはわからない」
 娘に対してそう答える。
「何て名前ですか?」
「それもわからないのだ。一切不明だ」
 ヤキーノにもそう答える。看守長であるロッコですら知らないということに三人は何やら重大なものを感じ取っていた。
「わかるだろう、それだけ言えば」
「はい」
 三人はそれに頷いた。
「フィデリオよ。それでもいいか。知れば何やら厄介なことになるぞ」
「構いませんよ」
 しかし彼はそれでも言った。
「看守になった時からその覚悟はできていますから」
「そうか」
 ロッコはそれを聞いて頷いた。
「御前さんは勇気もあるようだな。さらに気に入った」
「目的を達成する為なら」
 彼は言った。
「勇気は欠かせないものですから」
「うむ」
「フィデリオさん」
 マルツェリーナが声をかけてきた。
「頑張って下さいね」
「はい」
「そしてその囚人の方にも神の御手を」
「わかっています」
「それだけの思いやりの心があれば大丈夫だな」
 ロッコはそこまで聞いて決心した。
「では総督様にそれもお願いするとするか。御前さんをわしの補佐役にすることもな」
「ええ、お願いします」
「お父さん、絶対よ」
「わかっておる」
 娘に対してまた答えた。
「ではな」
「はい」
 ロッコは部屋を後にした。フィデリオがそれに続く。ヤキーノはここにいても今は無駄だと悟ったのか仕事に戻った。マルツェリーナはそれを見届けた後でアイロンがけに戻った。彼等はそれぞれの仕事に戻ったのであった。

 この刑務所の門は壁のそれと同じく高く、そして厚い。しかも鋼でできていた。悪魔の装飾が施された漆黒の門であり、それが開かれることはないようにすら思われた。まるで地獄の門であった。
 しかし今その地獄の門が開かれた。入口から一人の男が取り巻き達を引き連れ中に入って来た。
 黒い服とマントを身に着けている。厳しい顔をした大きな身体の男でありその目の光は黒く鋭い。まるで魔物のようであった。髪は黒く後ろに撫で付けられている。黒々と不気味に光っている。
 その周りにいる男達もまた不気味な者達であった。彼と同じく不気味な黒い服を着ていた。だがマントは羽織ってはいない。また黒い服といっても彼等のそれは軍服の様な制服であった。男の豪奢な貴族のそれと比べると明らかに差があった。まるで魔王とその従者達のようであった。
 男の名はドン=ピツァロという。この刑務所の所長である。かってはスペイン警察の重役であった。そこで酷吏として知られていた。罪なき者達を陥れ、苛烈な拷問により無理矢理自供させ、その財を巻き上げるのを得意としていた。だがそれをとある貴族に追求され、刑務所の所長に左遷されていたのである。狡猾にして残忍、貪欲な男として知られている。
「少ないな」
 彼は壁を見上げてそう言った。
「歩哨の数はもっと多くしろ」
「ハッ」
 その声に後ろにいる黒服の男達は頷いた。
「橋にもだ。この程度では警護とは言わぬぞ」
「わかりました」 
 彼等はそれに頷いた。そして左右に散り周りの者にピツァロの言葉を伝えたのであった。ピツァロはそれを不機嫌そうな顔で眺めていた。
「この程度のこともわからぬとはな。無能共が」
 そう言いながら橋を渡り刑務所の中に入った。取り巻き達も入ると門が閉じられた。その時重い音が刑務所の中に鳴り響いた。
「お帰りなさいませ」
 ロッコが彼を出迎えた。後ろにはフィデリオもいる。
「うむ」
 ピツァロはそれに対し傲慢に返した。
「御苦労であった。ところで手紙か何かは届いているか」
「はい」
 ロッコはそれに頷いた。そして手に持っているものを差し出した。
「こちらに」
「ふむ」
 ピツァロはそれを受け取った。そしてそれの表をまず見た。
「まずは紹介状か。そして詰問状」
「はい」
「見たことのある筆跡だな」
 そう言いながら封を切る。そしてその中身を見た。
「これは大臣のものか」
「大臣の!?」
 フィデリオはそれを聞いて呟いた。
「!?ロッコよ、そちらにいる者は」
 ピツァロも彼に気付いたそしてロッコに尋ねてきた。
「最近新しく入った看守の一人ですが」
「そうか」
「フィデリオと申します。お見知りおきを」
「うむ」
 鷹揚に答え手紙に戻った。見ればこの刑務所の囚人の扱いについての詰問状であった。囚人の虐待の噂を聞き、大臣自ら視察に来るというものであった。
「まずいな」
 彼はそれを見て呟いた。そして心の中で思った。
(大臣は今までフロレスタンが死んだものと思っていた。しかしこの刑務所に彼がいると知れば。厄介なことになるな)
 彼はこの時自分の首が寒くなったのを感じていた。大臣とフロレスタンという男の関係について知っているうえでそう思った
のであった。
(ここは一思いに)
 そしてこう思った。
(やってしまうか。思い立ったが吉日だ)
 急に決意を固めた。
(戸惑っていては駄目だな、毒を食らわば皿までだ。よく考えてみると今まで生かしておくこともなかった)
 誰かを殺そうと決意したらしい。
(誰かに任せては駄目だな。私でやろう。私自身で方をつける)
「所長」
 黒服の部下達が彼に声をかけてきた。
「どうした?」
「そろそろ中に入られませんか」
「中に?」
「はい。ここでいても仕方がないでしょうし」
「そうだな」
 ここでようやく我に返った。そして辺りを見回した。
「ここにいても寒いだけだ。では中に入ろう」
「それが宜しいかと」
「だが楽しみだな」
「?何がでしょうか」
「いや、焦るだけ無駄だと気付いたのでな」
「焦るだけ?」
 部下達はそれを聞いて首を傾げさせた。
「どういう意味でしょうか」
「何を考えているのだ?」
 それはフィデリオも同じであった。ピツァロの話を聞きながらその心を探っていた。
「自分で決着をつければいいと気付いたのだからな」
「ご自身で」
「いや、それはいい」
 彼は部下達にそう言って誤魔化した。
「御前達には関係のないことだ」
「左様ですか」
「そう、彼等には関係ない」
 フィデリオはそれを聞いて呟いた。
「だが私には関係があることかも知れない」
「ロッコ」
 ピツァロはロッコに声をかけてきた。
「はい」
「ラッパ手を見張り台に登らせておくようにな」
「わかりました」
「大臣の馬車が見えたら、すぐにラッパで合図するように伝えておけ。よいな」
「はい」
 ロッコはその指示に頷いた。
「頼むぞ。これはボーナスだ」 
 そう言って懐から袋を取り出した。
「遠慮なく受け取るがいい」
「これは」
 手に取ると何やらジャラジャラとした音が聞こえてきた。それから彼はこの中にあるものが金だとわかった。
「とっておけ」
「ラッパ手を手配するだけでこれだけも」
「無論それだけではない」
 ピツァロはそう断った。
「これからまた一つ仕事をしてもらう」
「どのような仕事ですか?」
「処刑だ」
 彼は冷たい声でそう言い放った。
「処刑!?」
「そうだ、この偉大なるスペイン王国に反逆した愚か者を処刑するのだ」
「まさか」
「本当だ。だからこそそれだけの金をやるのだ」
 言外に圧力をかけてきた。
(さもないとわしが破滅するからな)
「よいな」
「あの男ですよね」
「そうだ、わかっているではないか」
 ピツァロはそれを聞いて顔をほころばせた。
「ならば話は早い。わかったな」
「しかしあの男はもう殆ど死んでいますし」
「止めをさすのだ」
 ロッコはそれをしなくてもいいようにと言い逃れをする。だがピツァロはそれを許しはしなかった。逃げ道を塞ぎにかかってきたのであった。
「よいな」
「私はそのようなことをしたことはないですが」
「何!?」 
 ピツァロはそれを聞いて顔を前に出してきた。
「今何と言った」
「私は人を殺したことはないです」
「馬鹿な。そなたは看守長だろう。長い間ここにいてもか」
「死刑執行人にはなったことがありません」
 弱々しい声でそう答えた。
「そうなのか」
「墓掘りならありますが」
「ではそれでいい」
「はあ」
「実際には私が手を下そう。よいな」
「わかりました」
「うむ」
 これで決まりであった。ピツァロは納得したように頷いた。
「では行くとしおう。スコップは出しておけよ」
「はい」
 ロッコは頷いてからまたピツァロに尋ねた。
「あの」
「何だ?」
「本当にやるのですね?所長」
「勿論だ」
「長い間苦しんできた罪人を」
「二年もな」
「二年」
 フィデリオはピツァロのその二年という言葉を聞いて眉を動かせた。そこに何かがあるのであろうか。
「もう充分苦しんでいるのではないでしょうか。少なくとも罪の分だけは」
「罪は永遠に消えるものではない」
 ピツァロは冷厳にそう返した。
「人間の犯した罪は最後の審判まで消えることはないのだ」
「ですが」
「ですがもこうしたもない」
 彼はまたロッコの言葉を遮った。
(わしを脅かした罪は重いぞ)
「罪人は必ずや裁かれなくてはならないからな」
「はあ」
「わかったな。では用意しておけ」
「わかりました」
「私の方も用意をしておく。遅れるなよ」
「はい」
 ピツァロは部下達を引き連れその場を後にした。ロッコもその場を去った。だがフィデリオは何故かその場に残っていた。そして彼は言った。
「悪辣な者、何処へ行くつもりか」
 立ち去ったピツァロを見据えていた。
「荒々しく猛りながら何処へ行くか。御前の心には怒りと憎しみしかないというのか」
 だが当のピツァロはいない。彼はそれでも言った。
「しかし私の心は違う。暗雲の前の明るい虹が照らしている。それが私を勇気付けてくれる。あの人を助ける為に」
 そして決意した。ピツァロのそれとは全く違う決意であった。
「来たれ、希望よ。苦しむ者の最後の星となれ、それが私を導いてくれる」
 言葉を続ける。
「私は希望に従う。そしてあの人を救う。希望がある限り私は諦めはしない。そして必ずや目的を果たす」
「おい、フィデリオ」
 語り終えたところでロッコが戻ってきて彼に声をかけてきた。
「何か」
「御前さんも来てくれないか」
「墓掘りにですか?」
「ああ」
 それを聞いた時心の中で会心の笑みを浮かべた。
「宜しいのですか?」
「ああ」
 彼はそれを認めた。
「有り難うございます。ところで一つお願いがあるのですが」
「何だ?」
「囚人達のことです」
 彼は言った。
「彼等にお慈悲を与えてあげてはどうでしょうか」
「?美味い食事か?」
「そうですね。日の光を」
「獄長の許可なしでか?」
「事後承諾ということで宜しいでしょうか」
「よいことだがお許しになられるかな」
 ロッコは首を傾げた。
「責任は私が取りますから。ですからお願いします」
「そこまで言うのなら。では頼むぞ」
「はい」
「わしは獄長にお願いしてくる。ではな」
 ロッコはピツァロのところに向かった。こうして囚人達は狭く、暗い監獄から日の光が照らす緑の庭に出ることができた。彼等はその眩しい光を見上げて喜びの声をあげた。
「本当に久し振りだ、日の光を見られるなんて」
「ああ、全くだ」
 彼等は口々に言う。
「新鮮な空気に緑の世界。前に見たのは何時だったか」
「もうそんなことすら覚えてはいない。それだけ昔だったな」
「監獄は墓場だ。だがここは違う」
「自由だ。そして命がある。それに触れられることの何という幸せよ」
 身体全体で喜びを噛み締めていた。フィデリオはそんな彼等を見守りながら何かを探していた。
(いないのか、ここには)
 何を探しているのであろうか。はたまた誰かか。彼はそれを囚人達の中から必死に探そうとしていた。しかしそれは中々見つからないようであった。
「おい、フィデリオ」
 そんな彼にロッコが声をかけてきた。
「来られたのですか」
「うむ。上手くいったよ。獄長は快諾して下さった。いいことだと仰ってな」
「それは何よりです」
 彼は笑顔を作ってそれに応えた。
「そして御前さんにもいい知らせだよ」
「何でしょうか」
「今日からずっとわしの仕事を手伝ってくれ。牢獄にも入っていい」
「本当ですか!?」
 それを聞いて喜びの声をあげた。
「うむ。その奥にいる男だがな」
「はい」 
 話を聞くその顔が真剣なものになった。
「与えられる食事は次第に減らされている」
「そうなのですか」
「そしてな、殺されることになった」
「何と!」
 さっきピツァロが話していたことだ。彼はそれを聞いて愕然とした。
「後一時間程もすればな。こっそりと殺されるのだ」
「死刑は朝の筈ですが」
 この時代の欧州においても死刑は朝早く行われるのが普通であった。そういうしきたりとでも言おうか。ちなみにこの時代人の血は滋養の効果があると言われていた。その為フランスの貴族達は朝まで遊んだ後で処刑場に向かったりもしていた。そこで死刑囚の血を飲んでいたのである。着飾った、目の下にクマを作った紳士淑女達が先を争って美味そうに人の血を飲む姿はさながら吸血鬼のようだったという。
「予定は変わるものだ。急に変わったのだ」
「どうしてですか?」
「所長の御考えだ」
「そうですか」
 それを聞いてやはり、と思った。
「だからですか」
(ではやはりピツァロ自身が)
 彼は話をしながらそう考えていた。
(私は自分の愛する人の墓を掘らなければならないのか?何という恐ろしいことだ。それだけはさせない)
「だからあの男に食べ物をやるのは許されないのだ」
「わかりました」
「ではすぐに来てくれるな。そろそろ行くか」
「はい」
「墓掘りにはコツがあってな」
 彼はそう言った。
「壊れた水溜りの後に掘るのが一番いいのだ。それは知っているか」
「いえ」
 そこまでは知らなかった。墓掘りなぞやったこともなかった。
「はじめてですから」
「まあそうだろうな。嫌な仕事だが我慢してくれ」
「はい」
「何なら一人で行くが」
「いえ、行かせて下さい」
 だが彼はそれを引き受けることにした。
「是非共」
「よいのか」
「承知のうえです。だからこそ側において頂きたいと申し上げたのです」
「わかった、では行こうか」
「ええ」
 二人は行こうとする。しかしそこにヤキーノとマルツェリーナが血相を変えてやって来た。二人共かなり焦っていた。
「どうしたんだ、二人共。そんな顔をして」
「お父さん、大変よ!」
「所長が!看守長をお探しです!」
「わしをか?」
「何があったのでしょうか?」
「しまったな」
 彼は何かに気付いたらしく困った顔をした。
「所長に囚人のことを申し上げるのを忘れていたわ」
「獄長の許可は得たのでしょう?それなら大丈夫では」
「実はそこから上があってな」
 彼は言った。
「実際は所長の許可が必要なのだ」
「そうだったのですか」
「まずいな、これは」
「早く囚人達を中に入れましょう」
「さもないと大変なことになるわ」
「いえ、もう少しいいのではないでしょうか」
 だがフィデリオは囚人達を庇った。
「久し振りのことですし。責任は私が持ちますから」
「しかしな」
「そんなことを話している暇じゃないわ」
「早く何とかしないと」
 そうこう話しているうちにピツァロがやって来た。あの黒服の男達を引き連れている。厳しい顔を更に厳しくさせている。
「看守長、これはどういうことだ!?」
「所長」
 ロッコは彼に身体を向けた。
「私はこのようなことを許可した覚えはないが。説明してもらおうか」
「囚人達に恩恵をと思いまして」
「何故だ?」
「今日は王様の命名日だからでございます」
「そうだったか?」
「はい」
 後ろに控える部下の一人がそれに答えた。
「確かそうだったと記憶しております」
「そうだったのか。忘れていた」
 ロッコはそれを聞いて胸を撫で下ろした。実は咄嗟に言った言い逃れだったのである。そうした意味でも彼は運がよかった。
「ですから彼等を出したのです。この者達は構いませんよね」
「そうだな」
 見ればあの男はいない。それでピツァロは少し機嫌を取り戻した。
「ではいいだろう。この件に関しては不問に処す」
「有り難うございます」
「だがすぐに仕事にかかれ。あの男のことは覚えているな」
「はい」
「ならばよい。ではすぐに取り掛かれ」
「所長」
 ピツァロにマルツェリーナとヤキーノが言った。
「何だ?」
「囚人達はどうなるのでしょうか」
「私の許可なく外に出すことはできん。すぐに中に戻せ」
「わかりました。それでは」
 ヤキーノが合図をする。すると鐘が鳴り囚人達はそれを聞くとうなだれて牢獄の中へと入って行った。皆非常に悲しそうな顔をしていた。
「折角外に出られたのに」
「これが牢獄なんだ」
 囚人達を見て悲しそうな顔をするマルツェリーナに対してヤキーノがそう声をかけた。
「それはわかっているだろう?」
「けれど」
 それでも彼女は不満そうであった。それは彼女の心根故であった。
「それでは短い間だったが」
 フィデリオが囚人達の誘導をはじめた。
「早く戻れ。いいな」
「わかりました」
 囚人達は力なく牢獄の中へと戻って行った。皆項垂れ、沈んだ顔で中に入って行った。
 ロッコはピツァロに従い牢獄の奥深くへと向かった。そしてフィデリオにも声をかける。
「早く来い」
「わかりました」
 彼女はそれに頷き彼の後について行く。その途中意を決して呟いた。
「待っていてね、貴女」
 一瞬だが女のような顔になった。
「必ず救い出してみせる」
 そして牢獄の奥深くへと入って行った。まるでそこにいある何かを取り出そうというように。





今回は刑務所での話みたいだな。
美姫 「あの奥にいる囚人ってのがポイントかしら」
一体、どんなお話になるのだろうか。
美姫 「フィデリオの目的や正体も気になるわね」
うんうん。次回も待っています。
美姫 「待ってますね」



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