空気を変えた蛍火にエスカは僅かばかり、足を止めた。
エスカの行動は当然とも言える。立ち居振る舞いに変化は見られないというのに、今は圧倒的に存在感が異なる。外側は同じだというのに中身だけそっくり替えてしまったかのようにエスカに襲い掛かるプレッシャーが異なる。戸惑いを覚えない方が可笑しいともいえる。
同時に、傍観せざるを得なかったイムニティとロベリアは本気となった蛍火を見たことがあるので同様はエスカに比べて薄い。だが、それでも驚愕は受けた。今までとは何かが決定的に異なる蛍火に畏怖すら覚えかねない震えが二人を支配している。
中身が変ってしまったと感じるのは当然だ。今の彼は、『新城蛍火』でありながらも『彼』でもあるのだから。いわば、二つを同時に内包しているも同然の不可思議な存在に成り果てているのだから。
第八十話 黒白と薄紫
蛍火を中心として世界が極々僅かな変化をしていた。世界が歪むのでもなく、世界が塗り替えられるのでもなく、あるべきものを配置する。たった、それだけ。だが、あるものを配置する事こそが蛍火の実力を発揮するのに相応しい空間となる。
そう、目に見えない足場であり、障害物を作成する事だけによってだ。
蛍火はそもそも白兵戦よりも暗殺の方を得意としている。それも、壁や木などを使った飛行とは異なる三次元空間での活動こそが彼の力を発揮できる。
蛍火とエスカが無言で対峙する。相手の隙を見出そうと、隙を生み出して相手を引き込もうとする虚実の交じり合った見えぬ戦いのぶつかり合い。蛍火は経験から、エスカは自らに宿る直感に身を任せて。
視線と視線のぶつかり合いという濃密な時間が数分ほど過ぎ去ったころに、ふと月が翳った。夜空全てが塗りつぶされて、闇色に世界が染められたかのような暗闇。それは、蛍火に天が味方したかのようなタイミングだった。
瞬間、エスカの目から見ても、傍から二人の戦いの行く末を見守っていたロベリアとイムニティの眼からも蛍火が消えた。当たり前のように、自然であるかのように、蛍火が視界から消えた。
蛍火が視界から消えた瞬間にエスカは悪寒を感じた。今まで感じた事もないような悪寒。それは正しく命が刈り取られる前兆を示した悪寒。なまじ、エスカは強すぎた為に経験したことの無いものだった。
その為、悪寒に対して迎撃ではなく前方に転がり、地面に体を密着させて回避する事を選んだ。
地面に伏せる寸前、黒光りにも似た銀閃がエスカの首があった空間を薙いだ。
そこに、新城蛍火が確かに居た。無機質な眼をした、命を刈り取る狩猟者が。
銀閃が闇夜で輝く。数十のナイフの群が地に転がるエスカ目掛けて解き放たれる。起き上がるには距離が近すぎるナイフ、エスカは地を転がりながらナイフを避けるしか術を持たなかった。
鋼を砕けるとはいえ、それは薄紫の衣の力が大きい。幾ら闘争の精霊といえども、全身が金属で出来ているわけでもなく、ナイフが肌に突き立てられれば、肌を蹂躙する。
厭らしくもナイフはエスカが移動する方向を理解しているかのように追いかけてくる。ナイフを投げているであろう蛍火から距離を取っているというのに、ナイフは追従してくる。
小石が皮膚に食い込み、鋭い痛みがエスカに襲い掛かる。氣とて有限で、常に体に纏っている事は出来ない。勝機を逃すような氣の使い方をエスカは出来ない。
だが、ナイフは尽きる事はない。すでに百本近く消費されているはずだというのに終りが見えない。
地に拳をたたきつける。普通の人間であれば、地面を殴った程度では方向転換ぐらいしかできないだろう。だが、エスカは普通ではない。薄紫の衣を纏った拳が地面を叩き付けた瞬間、爆音が鳴り響き、エスカの体が空へと逃げ出す。
そう、空へと。
「いいのか?」
エスカの行動に暗がりに消えたままの蛍火が不気味に呟く。その声は憐憫すら混じった嘲り。その声にエスカはまたしてもゾクリと背筋に悪寒が走った。
「空は地面よりも更に、俺の領域だぞ?」
いまや、この場は篭。エスカという小鳥を逃さないための篭の中。小鳥は幾ら足掻いたとしても、篭の檻よりも高く飛べることは出来ない。羽ばたけど、羽ばたけど、囲いの外へと飛び立つ事は出来ない、束縛の身。
エスカは悪寒に従い、体を捻って拳に薄紫の衣を纏って振り上げた。金属音にも似た悲鳴が空間とエスカの拳によって鳴り響く。
そう、ここは新城蛍火の領域。ありとあらゆる見えない場所にエスカにとって障害と成りえるモノが転がっている。それは空ならばより顕著に存在している。
金属音と共にエスカに発生した地面へと向かう力がエスカの自由を更に奪う。所構わず空に向かって拳を振り回せば、軌道修正は可能ではある。だが、あまりにも危険を孕んだ行動。
唯の障害物として設置されている程度ならばまだ、いいとエスカは思考する。エスカの周囲にある何かは魔力で出来た結晶。救世主候補と程近いエスカにもそのぐらいは分かる。故に不用意に触れる事は出来ない。魔力の結晶であるのなら、遠隔操作で魔法を発動できる可能性がある。先ほど叩いた時は蛍火が油断を誘うために爆発させなかった可能性すら存在する。
ならば、不用意に触れるべきを注意するべし。
「!?」
だが、その認識も甘かったとエスカは痛感する。
地面に接地する数秒前と体感で感じ、体勢を整える。幾ら頑丈な体とはいえ、衝撃によってダメージを受けないわけではない。故に人と同じように身体操作を行い衝撃が可能な限り発生しないように姿勢を整える。
接地直前、足が可笑しな方向へと曲がり、足から太ももから通じて脳髄に痛覚が生じる。エスカの体勢が崩れた。未だ、地に足をつけていないというのに、足に負荷がかかった。
唯の障害物。爆発しなければそれでいいとエスカは考えていた。だが、それは大きな間違い。
着地地点のほんの二十センチほど上空に存在した、ソレ。それは着地によって衝撃を逃そうと姿勢を整えていたエスカの全てを崩壊させた。たった、一つの障害。されど、それが存在した事によってエスカは目測よりも僅か上空で、体勢が整っていない状態で地面へと無理やり接地させられた。
人体の構造とはとても複雑で柔軟に出来ている。例え、ビルの五階の高さから落ちたとしても姿勢制御さえ出来ていればその後に走ることすら出来る。だが、それはあくまでも姿勢制御を完全に行えた場合に限る。
それが途中で崩されれば、人体は脆く崩壊する。
例え、それが三mほどしかない高さから落下したのだとしても。
体勢を崩したまま地面へと体を転がせて落下する。思わぬ障害物。空を支配される事の恐ろしさを、見えない障害物を自由に設置される事の恐ろしさをエスカは身をもって体感した。
故に次の行動は迅速。痛む足に活を入れて起き上がる。
銀閃が足元を通り、脛に一筋の浅い切傷が生じる。その部位は、一秒前には頭があった場所だとエスカもすぐに気付き顔を僅かにしかめた。
続く銀閃。頚動脈を狙った鋭い一撃をエスカは薄紫の衣を纏った拳で弾き飛ばす。キンという金属音と共に風斬音が耳に届く。今の一撃で蛍火の武装のどちらかを弾き飛ばせた事をエスカは確かに感じ取った。
続いて感じる頬に迫る風。小太刀とはいえ、戻して斬るにはあまりにも速すぎる風斬音。
馬鹿なと思考するよりも早く、拳を振り上げて刃の軌道を逸らす。逸らしきれなかったのか、二の腕部分の布が裂ける。
雲間から僅かに星が煌めいた。
さらに続く風斬音。続く金属音と刃物が地面と接触する音。
何度も何度も繰り返される。尽きる事無く繰り返される。小太刀が幾度も弾き飛ばされているというのに、一秒後には蛍火の手に戻ってきていなければ出来ないほどの音の連続。
本来ならありえない戦闘方式。だが、それを非常識の一言で片付けて諦められるはずもない。幾度も幾度も刃を弾く。
刃の合間。銀閃の合間に前方を凝視するもエスカから蛍火は見えない。この闇全てが、この世界全てが蛍火を援護しているかのように蛍火の姿が、息遣いが、足音が聞こえない。草を踏み分ける音よりも風で揺れる木立のざわめきの方が大きい。
一体どれ程の暗殺のスキルを持ち合わせれば、こんな平原とも言える場所で暗殺時と全く同じ行動が出来るのかエスカには想像もつかない。
またも、雲間から幾つかの星が輝いた。
この状況を抜け出そうと思い、使用できる技を脳裏に浮かべどれもが実現不可能だとエスカは思い知る。氣を爆発させて自ら周囲一体を吹き飛ばす技、上空へと駆け氣弾を大量に生み出してランダムに打ち出す技、氣を螺旋状に纏い突き進む技、氣を大量に収束して地面に叩きつける技。ざっと考えてこの籠から抜け出すための技を思い浮かべても、全てが氣を使っているが故にタメが必要となってくる。
時間にすればきっと些細な時間。されど、それは目の前の暗殺者に対して無防備な時間を作り出すという致命的な隙。使えるはずも無い。
だが、それで、負けてやる道理は何処にも無い。
見えずとも、聞こえずとも、それでも敵が居るという事実に変化は無い。魔法ではなく斬撃を使っているのだから確実に近くに居る。目視は出来ない。聴覚は当てにならない。
「そこぉっ!!」
だが、それでもそれ以外の何かを頼りにエスカは拳を振るった。最小限にして、その後すぐに行動できるように威力を込めていないジャブにも等しい攻撃。
だが、拳が何かに触れた。蛍火が用意した障害物ではなく、何か。柔らかい、空気を孕んだ、触れた感触はあれど攻撃が命中した感触ではなかった。
それは、確かに衣類に接触したという事実だった。
回避するだけで相手の影すらつかめなかった状況の中で掴み取った反撃。それがエスカの功名だった。
エスカ自身、己が人間では無い事を知っている。ならば、第六感と呼ばれるあやふやな器官もきちんと存在している。それに身を委ねて反撃を開始する。
キキンと金属音が鳴り響いた。だが、それは武器を弾き飛ばした音ではなく、武器によって防御させた音。
反逆の時が来た。氣を拳に纏い反撃する。相手の位置をさぐり、相手の攻撃を探り、相手を捕まえる。
勘だけに頼ると言ってもいい戦い方。されど、その博打じみた戦いが何故か酷くエスカには楽しかった。
強すぎたが故に競い合う相手が居なかった。襲撃であろうとも一撃の下に叩き伏せてしまえるだけの力があった。故に、見えないとは言え、拮抗して戦える相手が居るという事にエスカは酷く喜悦を浮かべていた。
だが、同時に不満もある。力があるが故に真正面から戦えない。力と力をぶつけ合うわけでもなく、隙間隙間を狙ってくるだけのこの戦いは自らの全力を出せないという酷くストレスが溜まる戦い。
エスカは強すぎるが故に、戦いの本質を知らない。戦いの本質は決闘や、試合の様に華麗なものではなく泥にまみれたモノ。相手の隙をうかがい、相手を策に嵌め、相手の力を出させない。これこそが戦いにおける本来の有り方。エスカは強すぎるが故に知らなかった。
音の瀑布。それは両者を陵辱する殺意と殺撃の塊。どちらも必殺の一撃は文字通りとなりえる。首筋を薙ぐだけで死が襲い掛かり、薄紫の衣を纏った拳が人中に当たれば死しかなく、二の腕に刃が触れれば腕は使い物にならず、薄紫の衣の脚が肩に当たれば弾ける。
致死と必殺が織り交ざる惨劇。殺し合いによって生じる力場は周囲を抉り、地形を変える。その中で唯一つ変化がないのは、雲間から覗く、星の煌めきのみ。
「凄い」
自ら生み出した光の中で唖然としていたイムニティの口から漏れた一言にロベリアも同意した。暗殺のスキルが洒落にならないレベルで高い。そして、それに対応しているエスカの勘の高さも凄いとしか言いようが無い。
救世主候補としてはかなり異質な戦い。それが蛍火の戦い。
本来、救世主候補とは破滅と戦うために前線に出て、相手を真っ向から叩き伏せる。それ以外のスキルが必要なく、それが最も最小限の無駄しか生まないから召喚器を持つ人間は必然と真っ向から戦う。
何よりも召喚器を持つ人間は光と成らなければならない。先導する役目を持ち、人々を鼓舞せねばならない。故に、闇の技を覚える必要は欠片も存在しない。
だというのに目の前では覆されている。
闇を纏い、闇と共に戦う。光によって照らされ、自らも輝く救世主候補と正反対の行き方。闇の中で蛍のように僅かに煌めくだけ。
いつか、闇と共に消えるのではないのかと不安すら覚える。
「真っ向から戦っても強いっていうのに…………」
ロベリアの不満の声にイムニティも僅かに頷いた。確かに蛍火は他の救世主候補のように真っ向からも戦える。ダルトとの戦いなど、その極地ともいえる。だが、それでも彼は光に照らされないように戦う。
光の中で生きられないかの様に、光から逃げるように戦う。
「それで、蛍火があいつをどうしようとしているか分かるかい?」
「無理よ。私がマスターの思考をトレースするなんて不可能に決まっているじゃない」
「それで、よくあいつを選んだね」
僅かな呆れを含んだロベリアの声にイムニティも契約の時を思い出す。守護者相手に諦める事をしなかった蛍火の事を。
今にして思えば、蛍火とはかなり扱い辛い人物だ。操っているつもりであっても操られているという事が大半で、いう事を聞いているのは利害が一致しているからに過ぎない。
白の精としての役割を考えるのならば蛍火でなくともいい。否、蛍火を選ぶ方が不便な事が目立つ。白の主として論理のみに従事する為に、心を壊しやすい未亜の方がよっぽど扱いやすい。だが、それでもイムニティは彼を選んだ。
「そうね。きっと……………………………………………………一目惚れしたから、かな」
はぁ? と呆れた声が返ってくるが、同時にイムニティも自らの発言に呆れていた。論理を優先する白の精が主を選ぶのに論理ではなく感情を優先した。目的を果す為に主を選んでいたというのに……
「本当に、今回の救世主戦争は可笑しな事ばかりだよ」
「あら、いいじゃない。それに……………………付いていくだけでしょう? マスターに」
「女は黙って従って、かい?」
「嫌な時はひっぱたけばいいわ。それぐらいで怒るような狭量なら、マスターになんて選んでいないわ」
「そうかい。まっ、私も負けるのは嫌だしね。最後まで付いていくとしよう。あいつに」
二人はただ、彼が負けるとは欠片も考えずに見守り続けた。
幾度、刃を振るったのか。幾度、刃を弾いたのか。幾度、拳を振るったのか。幾度、拳を防いだか忘れるほどに時間は推移していた。されど、二人の息はいまだに荒くなっていない。日の出までずっと戦えるほどの余力が余っているとすら見られる。
その中で、状況はもう一度流転する。
月を覆っていた分厚い雲が徐々に晴れて、満月が世界に顔を見せだした。
闇だけが世界を覆っていた時間が終る。それは同時に蛍火の時間が終る事を意味している。
闇に紛れられない、姿が見える暗殺者など恐れる事はない。
月が現れる。星が不自然なまでに輝いていた。
「恐ろしい物だな。人型でありながら、救世主候補よりも強い力を持つとは」
月明かりに照らされた蛍火の服はよれていて、所々破れている。服に隠れて見えない部分では青あざが出来ていることだろう。エスカの拳や脚を受け止めて無事で居られるはずも無い。
同時に、エスカも無事ではなかった。服は部分部分で切り裂かれていて、肌にも赤い筋が生まれている。女の命である髪すらも僅かに不揃いになっている。短時間ではありながら濃密な時間を過ごした代償とでもいえよう。
「貴方こそ、強い」
心からの賞賛。人でないが故に強すぎたエスカと相対してこれほどの時間を過ごした人間はかつていない。また、これほどまでに窮地に追いやられた記憶もエスカにはなかった。
純粋に、人ではないエスカからの賞賛。
「俺は弱いさ。きっと、誰よりも。そうだな、戦ってみるか? 俺が認める本当に強いと思う人間と」
薄い笑みを浮かべた蛍火の言葉にエスカの鼓動は確かに高鳴った。これまで拮抗していた戦いを繰り広げた蛍火が認める強い人間。その人間なら己の全力を受け止めるかもしれないという、歓喜が浮かんでしまった。
誰よりも強すぎたが故に満たされなかった心が蛍火の言葉に期待を抱いてしまった。
「だけど、その前に」
「あぁ、決着だ」
蛍火は小太刀を握りしめ体を引き絞った。己の体を弦に見立てるかのように捻り、引き絞った。
エスカも会話の間に練った氣を開放して、身に纏う。全力を込めた一撃を繰り出すために脚に力を込める。
風が吹いた。
「これが、受けきれる?」
エスカの内に込められていた氣は体外へと放出され、螺旋を描き始める。薄紫が白くなるほどに氣は回転し、破壊力を増す。
エスカの足元に有った草が千切れ飛び、細切れと成る。当たればパック詰めで売られている挽肉のようになりかねない。
エスカが一歩、踏み出した瞬間、蛍火は確かに引き絞っていない手で、何かを握り締める形を取った。
「あぁあああああああああ!!! えっ?」
白くなった螺旋を纏い先に進もうとした矢先にエスカはその場に拭いとめられた。足が、意思が前に進もうとしているのに、体が一歩も動かない。
金縛りにあったのではなく、何かに引っ張られている。
「なっ、何?」
何か分からない力によって拭いとめられている。まるで、決して切れることのないワイヤーに引っ張られているかのように。
事実、冷静に眼を凝らしていればエスカも気付けただろう。己の身に幾十どころか幾百も巻き付いている黒い糸に。この戦場を見渡すまでもなく巡らされている障害物から己に向かって伸びている糸が。
「気付くのが遅いな。戦いとは、常に、鬼道也」
引き絞られた矢が解き放たれる。エスカが繰り出そうとした技と同じく螺旋を描く小太刀が、肩に吸い込まれるように抉りこまれた。
続いて襲い掛かる蛍火の左拳による、腹部への衝撃。
その二つの力によってエスカは意識を闇に落とした。
Interlude out
戦いが終わり、俺は地面に盛大に座り込む。正直疲れすぎました。
だって、俺の全力も全力で本気も本気で戦ったんですよ? その上で殺し無しなんて、かなり辛すぎる。
黒夢がある程度なら遠隔操作が出来ると気付けてよかったよ。障害物として設定した黒い板から板へと張り巡らされた魔力の糸。そう簡単に引きちぎれる物ではない。一本でも十分に拘束力を持った糸が幾百にも絡まれば流石のエスカも動けない。
いやぁ〜、動き回らせた甲斐があるものだ。無論、最後の一瞬まで気付かせないように、伸縮自在なのだがな?
しかし、まぁ。ある意味で当然の勝利でもあるか。なぜなら、エスカは最初から選択肢を間違えた。彼女の敗因は唯一つ。逃げなかった事だ。彼女は逃げるべきだった。自らの使命やその他諸々があるはずだというのに、エスカは俺を倒して先に進む事を選んだ。
別に俺を倒さなくとも良かった。この空間が俺に有利に運ぶように設定したとはいえ、エスカが全力で逃げに徹すれば俺とて捕らえきれない。俺の勝利はエスカを捕らえる事唯一つだが、エスカの勝利条件は俺に勝つ事と逃げる事の二つがあったというのに。
生まれもって強すぎたが故に、経験が乏しいが故にエスカは初めの選択肢を間違えてしまったのだ。
だが、戦闘力と精神力は比例していないな。いうなればエスカは子供だ。人は周囲の環境と共に成長する。同年代と共に、その場所にいる人間と共に。年齢に見合った扱いをされて成長していく。
だが、エスカはその周囲が少なかったのだろう。だから、彼女は精神的に随分と幼い。
きっと、エスカが戦うのは相手が欲しいからだろう。強すぎるが故に対等な存在を持たずにいる。故にそれを手に入れる為に元からある強さにさらに磨きをかけてしまった。
やれやれ、世の中というものは中々にままならんものだな。尤も、そのお陰で有望な駒が手に入るのだが。
「毎度毎度お疲れ様ね。それで、アレはどうするの?」
イムニティの言うアレとは無論、エスカの事だ。ここまで派手に戦闘をかましておいて、聞くという事はイムニティもエスカを危険視しているのだろう。
それは当然だ。有望で有能な駒であったとしても、扱いきれなければ危険でしかない。それは反逆の目となり、何時か牙を突きたてられる。有能すぎるというのは殊更厄介なのだ。
「無論、使いますよ。使わない程、こちらに人材は揃っている訳ではないですから」
本当に、人材がいない。正確に言うと救世主候補級の人材がいないだけなのだが。ついでにいうと、セル達を抑える人材も本当は欲しいんだがな。というか、学園長とかダリアを抑える人物が欲しい。あの二人を抑えきれる人材がこちらにいない。
アルスロトメリアとか閃光のソニアとか鉄爪のクランとか復活しないだろうか? 本気で、人材不足です。どっかから派遣してくれないかなぁ〜。こぅ、最低限でも達人クラスの…………うん、やっぱり達人クラスはいいわ。梁山泊クラスの達人が出てきたら対処が出来ません。
ちなみに、何で歴史書にも残っていないような閃光のソニアとか鉄爪のクランを知っているかというと目の前の二人に教えてもらったのだ。この数日間、ベッドに押し込められていて余りにも退屈だったので二人に過去を色々と記した本を作ってもらって読んでいた。いや、日常も記されていて、学園長とかルビナスとかリコの恥ずかしい秘密を僅かながらに知ってしまった。使えないけどね。
「これ以上いるのかい? お前なら、その気になれば一人で倒せるだろ?」
訝しげなロベリアの言葉に実質頷いてしまう。救世主候補や王国軍を倒すだけなら俺独りでもできる。毒を使い、甘言を使い、名声を使えば、勝てなくも無い。本当に手段さえ選ばなければ、召喚器使いとて人や人に準ずる存在なのだ。倒せないはずが無い。
人を殺すのは以外と簡単だ。どれだけ肉体的に強くとも、どれだけ強大な力を持っていたとしても。命が狙われているという危機感を持たない人間を殺すのは本当に簡単だ。
だが、俺の目的はソコではない。
煙草を取り出して一服する。煙が肺まで沁みこみ、脳髄の酸素が僅かに奪われる。思考がほんの僅かに理性的になる。
煙を吐き出すのと同時にため息を盛大につく。やっぱり、この二人を利用するには話すしかないか。
「そうだな。いい加減話すとしよう。俺の目的を」
唯一言。だが、それだけで二人の雰囲気は変化した。無理もないといえよう。秘密主義である俺から目的を告げられるという事は大きな信頼を得ている証と受け取れる。
秘密を共有するという事はそれだけで、人は心の距離を近づけさせる事ができるのだから。
まぁ、話すにしても色々と小細工は必要か。これから話すのは知れるはずの無い言の葉。誰もが納得できないある意味で壮大すぎる話にして怨念の集大成。悲しいすれ違いの話なのだから。
隔絶結界よりも強固なモノをごにょごにょと言いながら設置する。これで、使い魔や監視の類は誤魔化せる。尤も、学園長の監視はすでにここに来る前に撒いているし、ダウニーが行うような事はない。それでも、やはり念には念を入れなければ成らない。
俺の念入りな行動に二人も居住まいを正す。さすがにここまでやられたら重要な話をするとは気付くよな。
「さて、俺の目的は――――――神を殺す事だ」
単純な言葉の羅列。されど、二人は息を呑んでいた。二人は神の実在する事を知っている。そして、神がどれ程強大な存在なのかを完全な意味でなくとも知っている。
一度は救世主になりかけたロベリア、神から生み出されたイムニティ。この二人が神の大きさを知らないはずが無い。そして、神を殺す事がどれ程無謀なことであるかも知っている。
当たり前だ。世界を管理し、世界の理を司る書の精霊を生み出し、破滅を使役する神がどれ程大きいのかなど、物語りの事実に近づけば近づくほど知ってしまう。故に戦うことを諦める。
神の強大さを知って尚、挑むのは大河のように選ばれ、その為の力を持ち合わせるモノか、神に対して尽きる事を知らぬ憎悪を燃やすトレイターや観護達ぐらいだろう。
本来なら挑む事すら愚か。
二人が息を呑みながら思案顔になる。さすがにこの程度の情報では二人は納得はしないだろう。少しでも俺を知っている者ならば、絶対に納得しない。なぜなら、例え、神を俺が殺したとしても俺にはメリットが一つも存在しないのだから。いや、まぁ、あるといえばあるんですけどね?
「マスターらしく、ないわね」
「あぁ、義憤に燃えるような人間じゃないだろ? もし、本気で神殺しを狙おうとしても、それは手段に過ぎないだろ?」
二人の伺うような視線に俺も笑ってしまう。この二人は俺をよく理解している。
俺が笑ったことで二人も安堵の笑みを浮かべていた。二人はきっと、こう思っていたのだろう。真実を話すのに、この程度も見破れない程度では俺に何時か切り捨てられると。
全く、俺は自称フェミニストだというのに。誰かに向かって言った事はありませんがね。
「まぁ、そうだ。俺もその先にある物を目指している。何かはいえないが、神を殺さない事には手に入らない。故に、俺は神を殺す。いつかはダウニーとは袂を別つ。破滅の民に関しては何とかするが、あいつの本当の目的には付き合いきれない」
ダウニーの目的はこの社会への復讐。破滅の民をおいやり、傲慢な貴族を作り出してしまうような社会体制への復讐だ。それは、観護の望むところではない。
まぁ、正直に言えば社会体制なんて崩れてしまっても構わない。崩れたところで、人は生きていける。便利だったモノがなくなるから困るだけで、生きていけない訳じゃない。
それでも、義理はあるからな。
「今はまだその先にある、俺が求めているモノが何かは言えないが…………一緒に見てみるか?」
笑みを浮かべて二人を見てみると、二人は呆然としていた。予想外の言葉だったのか二人して咽喉で言葉がつまっているらしい。
自分でもらしくない言葉だとは分かっている。俺は独りだ。何処までいっても独りでしかない。そんな俺が手を差し伸べ、手を必要としているなんて俺が第三者として俺を見ているのなら確実に信じないだろう。
それ程に、ありえない行為だ。
俺は知っていてこの行動を取っている。卑劣な事と知りながら手を差し伸べさせようとしている。俺に好意を持ってしまっているこの二人に秘密を共有させる事で俺により縛りつけようとしている事を。そんな行動で相手の好意を利用している事を。
だが、俺は俺の本当の目的の為に、二人の好意を使う。
二人は先程よりも純粋な喜びを表す笑みを浮かべて…………
「えぇ、一緒に見届けるわ」
「面白そうだし、付き合ってやるよ」
そう、口にしてくれた。
謝りはしない。赦され様とも思わない。だから、全てが終わった後に、存分に俺を罵ってくれて構わない。
俺は、この日。忠実な二人の部下を手に入れた。世間一般で言う下種なやり方で。
後書き
今回はエスカとの決着と二人の引き込みが主な話。
蛍火が魔力で出来た黒い糸を周囲に張り巡らせて勝負を決めるかなりエゲツナイ勝利方法ですが。尚、戦闘途中の文中にこっそりと暗示するような文字を入れています。満月の夜で、周囲が暗闇になるほどの中で、雲間から星が見えるわけないじゃないですか。あれがヒントでした。僅かな明かりの中で刀が光る中、暗闇に程近い黒い糸が光っていたのです。無論、イムニティが照らした光によってですがね。
とまぁ、ここまで一方的にやっておいてなんですが、前回も書いたように蛍火の身体能力は黒夢を手に入れる前と後では一切変りませんw 暗殺をしていただけなので、本当に。
エスカは身体能力だけなら現時点では蛍火と大河を含む救世主候補を抜いて、アヴァターの世界一です。ですが、強すぎたが故に、経験が偏っているという評価をしています。
ちなみに、今回の凄い事になったのは無音戦闘。五千字以上ある戦闘シーンをほぼ台詞無しで書くという無謀ぶり。
黒夢の詳細は戦争が始まる前に更新する予定の設定に乗せます。今知りたいという方の為に、少しだけ情報を口にすると、かなりの夢のような武器。シュランゲフォルムができるたりする漢の浪漫を実現可能なのですw
では、次回で。