『とらいあんぐるハート〜無想剣客浪漫譚』
CV]W そして粉雪は縁となりて
肩にそれまで響いていた衝撃とは違う、向こう側に抜けるような痛みが走り、それまで衝撃後は寄りかかっていたドアが慣性の法則に従って勢いよく開かれた。
ルシードが部屋を出た後、施錠された個室から巴は必死に出ようとした。しかし、この地下階は常に低温に晒されていた関係で、ドアを代表とする鉄製部分が凍りつきやすくなっていた。鍛え上げられたルシードならば問題なく開くドアも、女性でか細い巴では鍵がかかっていても開くのは難しかっただろう。
だがそのドアも開き、巴はそのまま床の上に倒れこんだ。
床の上も冷たく、倒れた巴は痛む体を擦りながら立ち上がった。見ると掌に赤い擦り傷が出来ていた。視線を落とすと床の上は、低温で出来た霜が、長い時間をかけて完全な氷となっていた。
倒れただけでこんなになるのなら、戦っていては――。
ぞくりと背筋に寒気が走った。
剣心は強い。
強いがそれでもまだ高校生だ。どこかに甘さがあり、それを殺人狂のルシードに突かれるとも考えられてしまう。
急いで剣心の元に行かなければ。と、廊下を走ろうとして、ふと視界の隅に何かが映った。
それは黒塗りの鞘に収められた短刀だった。
短刀は廊下に設置された小さなテーブル――ドアの真横に置かれている事から、荷物置き場として使われていたのだろう――の上にぽつんと一つだけ置かれていた。
何故、こんなところに?
当然の疑問が頭に浮かぶが、それよりも巴には剣心の事が気がかりだった。
彼女は短刀を無意識に手にすると、廊下を駆けていった。
妙に手に馴染む短刀に違和感を感じず、誰もいない姿のない廊下の奥から、巴を悲しげに見つめる視線にも気づかないまま……。
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普段であれば無行の位という、左右どちらかの片手で持ちながら剣先を落としている構えを取る。だが、流氷を保存研究するために作られた施設に吹き荒ぶ冷風と、左右を固める分厚い氷の壁のせいで麻痺した体は、逆刃刀を片手で支える握力すら失っていた。そのため一応経験はあるものの、剣心は両手で逆刃刀を正眼に構えていた。
昔神谷活心流の鍛錬を少しでも齧っていて助かった。
心の中でそうごちて、刀から伝わってくる衝撃で、麻痺した両腕に小さい痛みが走るのを唇を噛み締めながら堪えた。
「ハッハー! どうした緋村抜刀斎! まさかこの程度で死んでくれるなんて、勿体無い事してくれるなよなぁぁぁ!」
両手を延長したかのように縦横無尽にルシードの鉤爪が大気を切り裂く。
その都度、剣心は身をかわし、また逆刃刀で受け止めた。そしてその度に削られた氷の粒が空気中に飛散し、きらきらと不釣合いに煌いた。
「くっ……」
思わず呻きが口から毀れる。
普段の飛天御剣流ならばルシードクラスの敵は瞬時に倒す事が可能だろう。少なくとも改心の一撃を叩き込む事は出来るはずだ。だが視覚が奪われ、身体の動きも封じられ、そして聴覚すらも満足に働かない状態では、そうもいかない。
ルシードは己の欲望を満足させるために生きてきた。そのため一般人よりも身体能力や戦闘志向、もしくは戦闘本能は上だが、それもまともな武術を嗜む人間の前では児戯に等しい。だがそれはまともに体が動く時の話だ。視覚・聴覚・触覚の戦闘に必要な三つの感覚が削られている今では、そんな児戯ですら体中に響く。
汗が凍りついた睫はそれでなくても視界のない視界を更に狭め、至近距離から受けてしまった爆発で、鼓膜が完全に破裂している。止まらず熱い液体が耳の中を伝って床に落ちていくのが、肌から伝ってくる。その上寒さと出血で全身が麻痺しているのだ。例えそれが児戯だとしても、この状態では動けない。
(いや、それがわかってるから力任せなのか……?)
一撃一撃に込められている力は重く、今は何とか左右に威力を分散させているが、まともに受ければすぐに膝をついてしまっているだろう。
しかし、そのような事ルシードは考えていなかった。
彼が考えるのは如何にして獲物を心地よく壊すか。そして己が好きな芳醇な鉄の匂いを醸し出す赤い液体を撒き散らすか。それだけを考えている。そのための方法は本能が理解していた。
弱っている獲物は痛ぶるのが良い。
じわじわと追い詰め、瞳に恐怖しか映らない状態になってから指一本ずつ拷問を咬まして行くのが一番の楽しみだが、今回は生きたまま臓物を芸術的に飾り付けるのも捨てがたい。
そう言えばここは低温な場所だ。氷の芸術に合わせても面白いかもしれない。
ふと頭に浮かんだ光景に、口の中いっぱいに唾が広がる。
鉤爪が剣心の右の二の腕を切り裂いた。少量ながらも飛び散った鮮血が何とも目に心地よい。
「くぅ!」
再び剣心の口から呻き声が聞こえた。
その声が耳朶を打ち、これまた彼の脳に官能を満たす。
これだ。これだこれだこれだ……! やっぱり殺しは、弱者より強者の方が気持ち良い!
ルシード自身、自分の技など本格的な武術を習った人間には通用しない事など当にわかっている。だからこそ、姑息と言われ様が蛇蝎と言われようが、相手を追い込んで殺す手法を考え出してきた。
その結果、弱者は初手から恐怖に彩られ、全身から液体と言う液体を垂れ流して命乞いをするのに対して、強者は己の腕を使い、必死にその場を切り抜けようとする。そして抜け出すのが無理だとわかると唇を噛み切るほどに悔しがる。命乞いをする者も中には居るが、それでも課程が違う。この反応の違いが、ルシードを更に昂ぶらせる。
剣心の左足が全て鮮血に染まった。
すでに凍り付いていたズボンをまだ熱を持った血が一時的に解凍した。
だがこんなに面白い殺しはなかった。
と、言うより、ここまで策を凝らして殺すという、これまでの殺しの経歴に新たなる一ページを記載するに至った行為をした事がなかった。
なるほど。とルシードは思う。
普段から十二神将の佐渡島兆冶の策略論を馬鹿にしていたが、こうやって一歩一歩、出現する全ての事象が真綿で首を絞めるように獲物を追い詰めていく感覚は、ただの殺しよりも楽しみがある。そして溜めに溜めた殺しへの衝動をトドメの瞬間に放出できる。まさに一石二鳥だ。
(俺もこういう策略ってのが性に合ってたって訳か!)
ルシードはこの仕事を行う前に、緋村剣心のデータを全て見た。真っ向勝負をしても絶対に勝てないのは、剣の振りを一回見た瞬間に理解した。それと同時に、どこまで手間をかければ面白い殺しになるのか必死に考えた。
その結果がこれだ。
体が小さく、体力に問題があるのは身体的特長から見て取れる。そしてその短所を埋めるように敏捷性が異常なほど高い。どうやったら両方同時に封じられるか。
その結果がこの超低温地獄だ。
戦闘技術に必要な五感を全て同時に封じる。通常空間ではある程度時間を置けば視界も聴覚も治癒するが、この低温の中では治癒能力自体が低下する。そんな状況下に追い込めば、こいつも面白い獲物になる。
そんな事を考えながら、鉤爪を剣心の鎖骨に打ち込んだ。
体内から骨が削り折られる音が聞こえ、剣心は声にならない悲鳴を唇から発した。逆刃刀を支えていた左腕がだらりと垂れ下がった。
拙い!
そう思った瞬間、ルシードが攻撃の手を緩めた。
「おやおやおやおやぁ〜? もう御終いかぁ? 何だ何だ何だぁ? こんだけの設備を使って御終いかぁ。残念残念」
「ま……まだまだだよ……。巴を助けるまでは止まらないさ……」
強がりだ。
にやにやと嫌らしい笑みを浮かべているルシードに対して、意地を張っただけだ。
診断しなくても解る。
全身に小さい傷があり、血が止まっているのは自然治癒ではなく、低温による血液内の水分が凝固しただけ。その上大きい傷が二桁。視界は九割方塞がり、耳は何とか右は回復してきたが、左は鼓膜が破裂している。更に鎖骨が折られ、逆刃刀を右手だけで持っているだけ。一度でも振りぬけばすっぽ抜けてしまいそうだ。
この状態で打てる手など限られている。『刀を振る』系統の技は全て危険だ。逆刃刀が無くなれば、最悪の結果しかなくなる。
(そうすると刀を体に固定できる突進技か)
飛天御剣流の突進技は龍巣閃か九頭龍閃の二種類。だが龍巣閃は突進技よりも乱打技だ。そうすると選択肢は一つとなる。
だが、今の身体能力で九頭龍閃がまともに放てのか? その疑問符が脳裏を過ぎる。しかしそれ以外に打つ手が思いつかないのも事実だ。
剣心は、ルシードの戯言を意識の外に追いやって、しばし心を落ち着かせると、決意の満ちた瞳を敵に向けた。
「……へぇ」
それを感じ取ったのか、口に浮かんでいた笑みの種類が変化した。ルシードは剣心から距離を取ると、姿勢を低く肉食獣が狩りを行うかの如く構えた。
その様子に、内心舌打しながらも、剣心は動く体の範囲を確認する。
まず逆刃刀を振る箇所は肘より先に限定。効果範囲が狭くなるが、肩から上を使うと遠心力に握力が負けてしまう。次に足は捨てる。突進技ではあるが、今の体ではまともな突進力は得られないだろう。ならば最初の一歩に力を注いでその後のバランス調整は無視するべきだ。
垂れ下がっていた腕を持ち上げ、再度正眼に構える。視界にはぼんやりと影が映っているしかないが、向けられている殺気から、ルシードの位置に大よその検討をつけた。
「ほ〜。来るか。ケケケケケケケケ! そんな体で来るってか! 馬鹿だねぇ〜! 正中線すら保てない体で技使ったって、俺に届くわきゃねーだろーがぁ!」
言葉とは裏腹に、ルシードの理性は冷静だった。
この状況で放たれる技は、身体より精神が重要になる事を、これまでの殺しの経験から知っていたからだ。そんな時は必ず肝を冷やされる。だからこそ冷静に、それでいて己が満足するように受ける必要があるからだ。だからこそ、冷静に受け止め、跳ね返し、二度と歯向かう気力を持たないよう実力を見せ付ける!
互いの思惑を乗せた視線が、それでなくとも冷たく張り詰めた空気の中を彷徨う。
剣心の体が立っている事すら満足に出来ず、左右にふらふらと揺れる。
だが視線は確実にルシードを捕らえ始めていた。
揺れながら少しずつ敵の視線と相対するべく動いていく。
そして――。
飛天御剣流!
視線が交差した瞬間、二人は同時に動き出した。
九頭龍せ――。
「おせぇ」
九撃目である突きを放つべく、体重をかけた逆刃刀の柄をルシードに向けた瞬間、剣心の視界が完全に黒に覆われた。そして耳元であの背筋を怖気させる声が聞こえたかと思うと、次の瞬間剣心は氷の床に叩きつけられていた。
「ガッ!」
「動きがおせぇ。技がおせぇ。読みがおせぇ。全てがおせぇぇぇぇ!」
床の上でのたうつ事も出来ず、苦悶の声を洩らした剣心の髪を掴み、ルシードは強引に体を持ち上げた。打ち所が悪かったのか、持ち上げた髪を滴って血が氷を赤く染めた。
「何だぁ? あんな程度の技が最後の一発ってかぁ? オイオイオイオイィ! ふざけんなよぉ?」
言いながら剣心の頬を叩き、盛大に溜息をついた。
「これまではこういう時は命張っていくのによぉ〜? 期待外れも甚だしいぜ」
そして再び盛大に溜息。
自分で剣心の身体能力を削り取っておきながら、その態度は剣心の心に火をつけた。
力の入らない手で逆刃刀を強引に振りぬいた
「おおっとぉ」
だがルシードは仰々しく手で剣心を止めるようなジェスチャーをしながら回避した。
「危ないなぁ。おい! 怪我したらどうするんだよぉ?」
「う、煩い……。巴を返せ……」
「けっ。さっきから巴、巴……。てめぇはマザコンかってか?」
逆刃刀を杖代わりにして、剣心はようやく立ち上がった。だがすでに足に力が入らないのだろう。杖をついていてもふらつき、そのまま氷の壁に背を預けた。
呼気が荒い。
鼓膜が破裂して音が聞こえない筈の耳にも、はっきりと整っていない呼吸音が響いていた。いや、これは頭蓋骨に響いた呼吸が反響しているだけか。
手を持ち上げる。
両手とも肘までは辛うじて動くが、それ以上は力を振り絞る必要がある。
足は完全に死んだとみていいだろう。一歩でも動かせばそのまま倒れてしまうのは確実だ。
視覚と聴覚は完全に潰れた。元々潰れていたのにも関わらず、頭からの出血で目に血が入り込んだ。こうなっては洗わない限りは視界の復活はできないだろう。聴覚は今しがた床に叩きつけられた影響で、頭全体にがんがんとした鈍痛が響き続けている。まともな音はこの鈍痛に紛れてしまう。
(これは……本当に打つ手なし……かな)
じわじわと体から抜けていく力を実感しながら、剣心は冷静に自分の体の状態を把握した。
恐らく残された力は後一撃。
しかも技ではなく、一度刀を振り切るだけの力だ。
剣心は、ほんの少しだけ呼吸を整えるため瞼を閉じた。
異常な鼓動を打っていた脈を落ち着かせ、残った力を腕に集約させていく。そして開かれた瞳を見てルシードは嬉しげに口を歪ませた。
「お? 何か企んでやがるなぁ? いいぜ、いいぜぇ! 付き合ってやるよぉぉぉ!」
再び体が低く落ち、肉食獣へと気配が変化する。
血に飢えた鉤爪がゆらゆらと揺れ、剣心の至るところを抉ろうと的を選んでいる。
そんなルシードに、剣心の発する剣気が肌に突き刺さり、その感触が心地良い。
やはり女を餌にして正解だったと内心でほくそえんだ。この手の手合いは、身近の人間を餌にすると何度でも向かって来てくれる。
(いや……もう立ってるのが精一杯か?)
精神が体を支えていても、それを動かす体力が残ってないのだろう。
つまらないと思ったが、それならそれで何時まで心が折れずに保つかという楽しみがある。
なら狙うべきは両手足の腱か。
飛天御剣流のような速さはないが、それでも数瞬で断ち切れる。そしてその後……。
思わず舌が唇を舐めまわし、固唾が喉を鳴らす。
とうとうお楽しみの時間が迫ってきたという喜びが、体の芯から湧き上がる。
「さぁフィナーレといこうぜぇぇぇぇ。緋村抜刀斎ぃぃぃぃぃぃ」
あの志々雄が興味を持つ相手だけあって、ここまで持ったのは賞賛に値するが、勝つのは俺だった。
志々雄への対抗意識も織り交ぜた感傷を呟いて、ルシードはトドメの一撃を撃つべく駆け出した。
来る!
その動き出しを感じ、剣心は柄を握る手に力を込めた。今までの戦闘から、ルシードは戦闘とその後のトドメを楽しむタイプだ。ならば狙ってくるのはこちらの動きを完全に封じる箇所だ。しかも意識を残すのであれば腱を狙うだろう。
そう見当をつけ、肌に鉤爪が突き刺さる瞬間を待つ。その瞬間に逆刃刀を叩き込む。トドメとはならないが、少なくともみんなが辿り着くまでの時間稼ぎにはなる筈だ。
後は任せればいい。
例え……。
「例え俺が死んだとしても……」
紅に色塗られた世界を見据え、剣心は全ての力を込めて刀を振り上げた。
「おおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
――そして香るは白梅香――。
「……え?」
全身全霊の雄叫びが力の抜けた呟きに変化した。
紅染まった世界に一輪の白い花が浮かび、その花が段々と紅に染め上げられていく。
何故なのか、その瞬間、その一瞬、その刹那、剣心の視界は光を取り戻していた。
顔に掛かる暖かな雫を浴びながら、光が戻った瞳に映ったのは――。
「巴ぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
降りしきる氷の粒が幻想的に舞い散る中、剣心の逆刃刀でルシードと共に切り裂かれた巴の姿だった。
過去の焼き直しのようにまたしても悲劇が。
美姫 「何ていう事かしら」
決死の想いで放った最後の一撃が、まさか巴もろとも切り裂くなんてな。
美姫 「巴はどうなってしまうのかしら」
うわぁ、滅茶苦茶気になる所で次回に。
美姫 「続きが早く見たいわね」
ああ。次回も楽しみに待っています。
美姫 「待ってますね〜」