『とらいあんぐるハート〜無想剣客浪漫譚』
CV]U 擦れ違い、漣が満ちるこの場所で
雪代巴が眼を覚ましたのは、冷気が満ちる小さな部屋だった。
ゆっくりと冷え切った体を起こし、室内を見渡すがそこには何もなかった。ただ空調用のダクトと外へと出るための扉が一つあるだけだ。
何故こんなところにいるのか? と疑問に思った瞬間、すぐに回答が浮かび上がった。
「……ルシード=クルプスと……」
そうだ。
私は佐渡島兆冶から命令を受けていた。
二百年前に志々雄真実の計画を防いだ緋村剣心。その子孫が先祖と同じ容姿だと分かった時点で、彼の弱点を探し出せと命令されたのだ。
段々と思い出す記憶に、少し頭を振ってぼんやりとしていた意識を明確に呼び戻す。
そうすると今度は長時間冷気の満ちる部屋に居たせいか、体の底から沸き起こる震えが心身を支配した。
口から吐き出される吐息も真っ白で、あのタイミングで目を覚ました事に本当に安堵した。
巴は、そのまま体を抱きしめたまましばし思案を行ってから、冷え切った体を温めるためこの小部屋を出ようと唯一存在している扉に手をかけようとして――。
「お? 目を覚ましたか」
外から扉が開けられ、そこからルシードが生理的に気持ちの悪い、卑下た笑みを浮かべて顔を覗かせていた。
「ルシード……」
思わず巴の口から相手の名が毀れた。
瞬間!
巴の右頬に激しい衝撃が走った。衝撃はそのまま彼女の体を宙へと浮かび上がらせる。無重力感に意識が追いついた時には、今度は背中を壁に激しくぶつけていた。
息が詰まる。
視界がホワイトアウトし、上下の感覚すら失った。
そんな状態が数秒続いた後、ようやく巴は床に顔を叩きつけるようにして落ちた。
「ルシード様だろうが! 志々雄が警戒する緋村抜刀斎を探るだけしか能が無い屑が、人の名を呼び捨てにするんじゃねぇや! 今すぐ俺の鉤爪でギタギタに切り裂くぞ! この雌豚がぁ!」
ルシードは床の上でもがく巴に、そう塵を捨てるように言い捨てると、扉の対面にある床にどかりと座り込んだ。
「……まぁ、お前をグチャグチャにするのはこっちの用事を終えてからだ。おら、さっさと緋村抜刀斎の弱点を言いやがれ」
ようやく上半身を起き上がらせた巴に投げかけられた視線に、同情など微塵もない。そこにあるのは侮蔑と嘲笑のみだ。
しかし巴はそんな視線に微塵も動じず、一度俯いた。
自分はただそれだけに生まれた。
最初に彼女が目にしたのは水の中で揺れる研究室の様子だった。口元にはマスクが施され、酸素が供給されていた。何事かと視線を巡らせ、彼女は自分がどうやら水槽のようになっている円柱の中にいるのだと理解した。そしてそんな自分を満足そうに見つめる二人の男――佐渡島兆冶とクリス=チャンドラ――がいた。
その後、水槽から出された巴は、己が所属する組織の説明を受け、そのまま兄として雪代縁を紹介された。
概要として受けた説明では、志々雄が気にかけている緋村抜刀斎なる人物に近づき、戦闘力の分析と弱点の探索を行うため、龍が人工作成した人工生命が巴であった。縁はそんな緋村抜刀斎に近づくためのスケープゴートである事も説明された。
最初は、「ああ、そういう存在なんだ」と己の生まれの悲運を諦観していた。
しかし、たった半年ではあるが緋村抜刀斎――剣心や夕凪達と行動を共にしていたおかげか、自分の人生に疑問を感じるようになっていた。
人工生命体だから諦めていいのか?
人工生命体だから命令に従うだけでいいのか?
人工生命体だから好感を持てる人達を騙していてもいいのか?
疑問は次から次へと浮かんでは消えていた。
(……そうやって結論を先延ばしにしていた罰、なんでしょうか)
今の状況に、巴は心の中で嘆息した。
「おら! 何黙ってやがる!」
思考時間は僅か数秒にも満たないのに、ルシードが痺れを切らした様子で、背後にある壁に鉤爪を突き立てた。長い間霜がこびり付いた壁に亀裂が走った。
「さっさっと話せ! オラ!」
壁に突き刺した鉤爪の甲の部分で押し黙っている巴の腹部を殴打した。
カハ。と体内に残っていた空気が吐き出され、その場に蹲った。
「次はこっちだ。エグラれたくなけりゃさっさと言えや」
そんな巴の横に腰を落とし、今までの残虐性を一瞬で隠して見せて、どこか同情を浮かべた表情で彼女の頭をポンポンと叩いた。
何て酷い……。苦しい体とは正反対に、心で一人ごちた。
先に散々相手を痛めつける、もしくは恐怖を与えておき、次の瞬間唐突に表情を変化させる。自分には目的があり、それ以外は興味ないから命までとらない。そう無意識に思わせるのだ。結果修羅場に慣れていない一般人はあっさりとルシードが望むものを提供する。
――そして、その後待つのはルシードの快楽道具としての道だけだ。
巴は一瞬だけ氷漬けの床を見つめてから、唇をきゅっとかみ締めて、それから改めて開いた。
「緋村……抜刀斎の弱点は……」
「弱点は?」
「睡眠中……。基本的に……現代に生きていて、最近まで修羅場を知らなかったせいか……睡眠時はまるで無防備に……」
嘘である。
夏休みに志々雄と会ってから、剣心は時々実家である神谷道場に連絡しながら日々の鍛錬を行ってきた。時には高町兄妹と共に実践さながらの状況に身を晒す事もあるほどだ。だからこそ、最近の剣心は授業中の居眠りでさえ、チュークを受け止める余裕があるくらいだ(但し、その後唯子のお説教が待っているのだが)。
だから、どれだけルシードが屈強の兵だとしても、剣心に強襲をかけられない。恐らくその結果巴は始末されるだろう。
それは結果に関わらず確定している事項だ。
ならば巴は剣心を守る道を選んだ――!
「嘘だな」
決意は、次の言葉で一瞬にして凍結させられた。
何時の間にか強く引き締められた瞼が開き、自分を覗き込んでいるルシードの顔を凝視した。
「ほんっとに兆冶のインテリバカの言うとおりになったな」
立ち上がり、この場にいない兆冶の事を感心しながら何度か頷いてみせた。
「お前がそういう報告するのはわかってたんだよ」
「……え?」
「気づいてなかったのか? お前が緋村抜刀斎に探りを入れるのと同じく、雪代縁はお前を監視していたんだよ」
声にならない悲鳴が零れた。
「そ、それは……」
「つまぁぁぁぁぁぁり! てめぇが抜刀斎の女になったのも筒抜けだってことだよ!」
下卑た笑みを浮かべるルシードの足元で、巴の元々白い肌から完全に色が消えた。
「くっくっく。すでに抜刀斎がこっちに向かってるのも確認済みだ。これで決定。任務完了。ラクショーラクショー。てめぇの女を助けにきた緋村抜刀斎は、てめぇの女を人質に取られ、何もできずに臓物を晒して死んじまいましたっと!」
「ま……!」
「安心しな、抜刀斎を始末したら、てめぇも送ってやるからよぉ〜」
止める間もなく移動したルシードは、初めて感情を露にした巴を楽しげに眺めながら、部屋を出て行った。
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「何故、そのまま助けにイカナカッタ?」
神咲薫が運転するジープに乗って巴救出へと向かう中、同乗していた雪代縁は、助手席に座っている神咲那美に問うた。
「簡単な話です」
その話を大欠伸しつつ繋いだのは零だった。
「剣心君を指定してたんだよ」
「俺を指定ですか?」
「そ。『緋村抜刀斎を連れて来なければ、雪代巴の命の保障ははしない』ってね。それが嘘だったらいいけど、嘘じゃなかったら巴ちゃん、殺されちゃうってことだろ?」
「そんなの嘘ダ。あいつらの目的はコノ男を殺すことダ」
何故そんなにあっさりと言い切れるのか? と疑問に思ったが、今はそれよりも巴の安否が重要だ。剣心はあえて口を挟まずに零の説明に耳を傾けた。
「それをノエルさんが襲撃された現場で判断して、突撃ー! とか言って中に入って救い出せってか? できる訳ないだろ」
その通りだと、夕凪は内心で頷いた。
正偽の判断は難しい。縁のように言い切れるだけの判断材料があればいいが、何もない夕凪達から見れば人質となっている巴の命を危険に晒す真似はできないのだ。
縁もそれは理解しているのだろう。一度大きく舌打ちすると、そのまま拗ねる様に苛立った視線を流れていく景色へと向けた。
「さて、とりあえず私達が迎えにいった理由は説明したけど、他に質問はある?」
「そうですね……」
「あ、それじゃ一つだけ」
口にしたのは夕凪だった。
「珍しく横島さんが静かなんですけど?」
しかも内容が全く関係なかった!
「……夕凪、それ、今聞くことか?」
思わずジト目になってしまった剣心の問いに、身じろぎしつつ、乾いた笑みを少し大きめに上げながら、
「だってさ! いつも寮にいる時はお風呂は覗くし着替えは覗くし、下着ドロはするしフラれてもナンパは諦めないしさ。そんな人がノエルさんが傷つけられたって知ったら、激怒するんじゃないかって普通は思うだろ?」
「……零君。さざなみ寮に戻ったら覚悟しとき」
「ああ! 関係ないところで地獄が確定!」
どうやら那美の弁解がないところを見ると、毎日そんな様子で迷惑をかけていたらしい。ちらりと見ると小声で「やっぱり実家にご連絡した方がいいかしら? あ、でも血の涙を流されてお願いされちゃったし……」とぶつぶつ言っていた。
必死になってすでにルシードに対して怒りを表したんで、今は力をためているだけなんだ! と説明しながら、薫に弁明をしている零を横目に、何やら深い事情があるんだなぁ。と剣心が思っていると車はようやく海の博物館前に到着した。
ドア側に座っていた剣心が一番に車を降りると、すぐに潮の香りが鼻腔を擽った。周囲も木々に囲まれていてその場にいるだけでリラックスできる空間が広がっている。
「どうせならデートで来たい場所だよな」
「世間一般の高校生は博物館をデートコースになんかしないよ」
「うっせ。どうせ夕凪だってした事ないだろう」
「……ノーコメントで」
そんなやりとりをしながら入り口へと歩いていくと、そこに見知った二人が立っているのが視界に入った。
「あれ? 恭也さんに美由希さん?」
「ウチが頼んで来てもらった。中で何があるのかわからないから、実戦経験の多い二人がいた方が確実だろう」
待ち人が現れて、恭也は背を預けていた博物館から離れると、実戦でしかみせない引き締められた眼差しでジープから降りた六人を見た。
「雪代縁」
そして仇を睨み付けるが如く博物館を見上げている縁を呼んだ。
「何ダ?」
「話は薫さんから聞いた。君にその気がなくても、救出の手助けは勝手にやらせてもらう」
「恭ちゃん?」
普段の兄の物言いとは違う言い方に、美由希は眉を顰めたが、縁もまた何も言わずにさっさと博物館の内部へと入っていってしまった。
「あの手のタイプはストレートに言っても反発するだろう。だからあれでいいんだ」
幸運にも高町家の周囲には素直な人々が多く集まっていた。だからこそ美由希にはどんな人であれ誠意を持って当たれば答えてくれると思っている節がある。それが悪い事とは言わないが、少々世間知らずにしてしまったかな? と今後の修行方針を改めるべく恭也は心の中で一つ誓っておいた。
「さて、まずこれからの事だが」
そんな二人のやり取りも終わったと見たのか、薫が口を開いた。
「内部は地上三階、地下三階の計六フロアからなっている。敵には巴さんという人質かいる以上、下手に時間をかけると命が危ない」
説明しながら、薫はアスファルトのひかれていない地面の上に木の枝で簡単な内部地図を描いていく。
「これは那美とウチが式神を飛ばして確認した博物館内の略地図だ。地上は基本的に入り口すぐからホールが三階までの吹き抜けになっていて、廊下がホールを囲むように円形に備わっている。各設備はそ廊下の端からぐるりとホールを迂回するように観覧コースが作られている」
説明しながら博物館入り口からすぐに繋がっているホールと、入り口に入って右手からホールを迂回するようにコースを描いて、入り口左手側に出口と書いた。
「事務関係はホールの奥。コースの中をつっきる形で正面に進んでいくと関係者以外立ち入り禁止のドアがあり、その奥に設備がある」
続いてホールの奥に真四角の建物を書き、廊下の左右に小さな部屋を描いた。
「二階以降も基本的に作りは同じ。だから問題になるのは地下なんじゃ」
ホールの出口付近に階段を描いた。
「ここは全ての階に繋がっている非常用階段になっていて、地下にはここからしか行けないようになっている」
「何故です? このような施設なら他にいくつか避難経路があってもおかしくないはずですが」
「うん。多分、なんじゃけど、地下の施設に関係あると思う」
「地下の施設?」
言って書いたのはホールの大きさの円形の地下施設だった。しかし、その中に書かれた言葉に全員がなるほど。と頷いた。
『人工流氷作成施設』
つまり、常に氷点下を維持し続けなければならないため、入り口などを減らしているのだろう。
「でも、稚内にあった流氷博物館はもっと違ったと思ったけど」
そう口にしたのは北海道出身の夕凪だ。稚内――正確には日本最北端の宗谷岬の近くに、流氷博物館なる公共施設がある。そこはオホーツク海に流れ着いた流氷の展示を行っているのだが、冷蔵庫のように頑丈な扉で区切られていて、中は防寒具がなければ滞在できない寒さだ。
「ああ、普通はそうだろう」
「と、言う事は、普通じゃない?」
「式神に探らせたところ、どうも地下は研究施設になっているみたいだ」
簡潔に説明すると、海鳴大学の海洋学の別施設がこの場所になっており、そのため一般人が入り込めないようになっている。
「中は大きな冷蔵庫のような部屋が大半で、その他管理室に事務室といったところだ」
しかも、この冷蔵室も吹き抜け状になっています。と那美が追加説明をしてくれた。
どうやら室内の広さを利用して、なるべく実際の環境に近いものを再現する目的があったらしい。
「それで? 巴はどこにいるんスか?」
「式神を飛ばした時はここ――二階奥にある警備室にいた」
そう指し示したのは二回の一番奥にある一室だ。
「しかし、今もここにいるかは判断つかないし、雪代縁が先に施設に入ってしまったため、式神を飛ばして確認している時間もない」
「なら一つしかないな」
恭也が地図から視線を上げると、その場にいた全員が大きく頷いた。
「那美さんはここで連絡を受けるために待機してください。後横島君はその護衛に残ってくれ」
「え! 何で! 俺のノエルさんをあんなにした馬鹿をぶん殴りに……」
「俺のノエルさん?」
「は! い、いや、違う! 決して『仇をとりましたよノエルさん』『まぁありがとうございます。お礼に私をいただいてください〜』『うっは〜! いいんですね〜!』とか言って、牡丹の花がポトリと落ちるなんてことは、考えてもいないですー?」
「薫ちゃん、私はここで零さんと一緒に待ってますね」
「ああ、しっかりと指導しておくように」
どうやら車の中で静かだったのは、邪な妄想をしていたためらしいと判明し、耳を引っ張られながらジープへと去っていく二人を見送りつつ、残った五人は地上階に恭也と薫、地下に剣心、夕凪と美由希の三人に手分けして探索する事にした。
そして誰からともなく博物館へと入っていった。
そこに待ち構えているのは、鬼か邪か? それは時間のみが知っている――。
いよいよ救出作戦開始か。
美姫 「それにしても、横島はある意味凄いわよね」
確かに。この状況下でなお、ああ言えるとは。
美姫 「他の面々とはある程度連携できそうだけれど、縁とは連携できしょうもない感じよね」
それが影響するような事にならなきゃいいけれど。
美姫 「さてさて、どうなるかしらね〜」
切迫した事態。気になる次回は……。
美姫 「この後すぐ!」