『とらいあんぐるハート〜無想剣客浪漫譚』
CXU コンサートを守れ! 〜夕凪と志野
その差は圧倒的であった。
武術の基本は打撃である。
素手で打ち、蹴り上げ、相手を沈黙させる。
もちろん実家の寺が何故か伝えていた二重の極みは、どんな苦境すらも打開できる強烈な破壊力を持ち合わせていた。
錬金術師・佐渡島兆冶の反転宝珠を簡単に打ち破る威力は、生半可な大砲よりも遥かに信頼性に富む技だ。
だがそれは当たれば。である。
つまり二重の極み以外、基本的な身体能力はあれど武術の基本すらあまり習っていない夕凪にとって、今目の前に無傷のまま息一つ乱さぬ天美志野は途轍もない恐怖の対象となりかかっていた。
「何だ何だぁ? あれだけ威勢よくかかって来た癖に、こんなもんで御終いか? つまんねぇ……。つまんねぇ! だったら最初から邪魔すんじゃねぇ!」
ベリーショートの髪に迷彩色のバンダナ、更には狐目を完全に言い表している釣り上がった目が、床の上に膝をつき、体中の至る所に青痣を作っている夕凪を一喝した。
思わず肩がびくりと反応してしまうのを、心に張った堤防が最小限に抑える事に成功した彼女は、じわじわとすでに半分以上侵食した恐怖を振り払うようによろめく足に力を込めた。
(このままじゃ……駄目……だね)
唯一痣ではなく裂傷となった額から、顔のラインを辿って落ちてきた血を手の甲で拭うと、最後の抵抗ではないがキッと目を引き締めた。
今、自分が両膝を折ってしまえば、間違いなく上の二人は天美志野に連れて行かれてしまうだろう。客席で楽しげに聞き惚れている友人達のためにも、中止だけはさせられない。
(結局のところ、相手は格闘技のプロでこっちは素人同然。使えるのは御先祖譲りのとんでもない耐久力と二重の極み。さて、この手駒で勝つには……)
間違いなく効いていて、膝は笑っているにも関わらず、床を踏みしめる足の感触とまだ握り締められる拳の感触を改めて実感すると、ずっと頭に残っていた最後の手段がむくむくと鎌首を擡げてきた。
「……それしか……ないか」
「アン? 何をぶつぶつ言ってやがる。女らしくねぇなぁ」
普通は男らしくない。じゃないのかな? と思いながらもヘタなツッコミは逆効果と判断して、唯一実家で習っている、空手で言うところの中段の構えをとった。
それに対して志野は無造作に両手を広げて、一見無防備ともとれる構えを見せた。
だが夕凪にはわかっている。
そう思って自ら攻勢に出たたった二回で、自分はここまで痛めつけられた。
正拳を繰り出してはカウンターで顎目掛けて足が飛んできて、受けながら突き進めば拳ではなく額が目頭に火花を散らした。間合いを取るべくいったん離れたが追いすがるように志野が詰めて来た。慌てて拳を繰り出すが意図も簡単に手首を掴まれると、合気道に似た投げで頭から床に叩きつけられた。
そこで冒頭の状態に行き着く訳だが、夕凪の心はまだ恐怖に完全に屈した訳ではなかった。
改めて志野を見ると、今度は隙が見当たらない。
なるほど。自分が素人同然になるのも無理はない。
いくら大砲を持っていても当てる技術がないのだから、拳銃を打・蹴・投と三つも持ち合わせている彼女とは元々が違いすぎるのだ。
だからこそ夕凪も賭けにでなければならないのだ。
(おそらく相手も大砲は持ってるから……)
中段をすっと解くと、右腕をだらりと力なく落とした。
だが左手だけは未だに腰の位置に固定してある。
そんな奇妙な構えに、志野は一度眉を跳ね上げた。
「バカにしてんのか?」
「そんな余裕はありません」
「ド素人でもそれくらいはわかるか。俺とお前に実力さってやつがさ。後できるコトと言えば、さっきから狙っている大砲を当てるために相打ち覚悟ってところか?」
読まれている――。
いや、それはわかりきっている。
「なんとかその拳を俺に当てようと頑張ってたからな」
言いながら志野の体が沈んだ。
(問題は……)
頭を駆ける考えがまとまるより早く、志野が動いた。
様々な機材が、壁に寄せられているとはいえ、散乱している舞台下をまるで這う様に、それでいてスムーズに夕凪に向かってくる。
その姿はまさに獣。
獲物を狙う肉食獣を思わせる志野に、夕凪の顔に汗が張り付く戦慄を覚えた。
「シャア!」
アッパー気味に振り上げられる拳を、だらりと垂らした右腕の肘で弾く。
その際にほんの少しであるが回転を加えて、力強い拳を遠のける。構えからそれは予測済みだったのだろう。志野は表情に浮かべた闘いを楽しむ笑みをそのままに、乱打が襲う。もちろん、全てを弾ける訳ではない。いくつもすでに悲鳴を上げている体に命中していく。
それでも左手を使う訳にはいかなかった。
頬が弾かれる。
右腕が完全に形を変えている。一撃一撃が必殺を誇るため、腫れ上がってしまった。
激痛が鈍痛へと変わり、そのまま感覚が麻痺してくる。
無意識に顔が苦痛に歪んだ。
直後、志野の眼差しが一層切れ味を増した。
「うおるらぁ!」
若干大振り気味の、腰の入ったフックが夕凪の左顔面命中コースに入る。それについに理性ではなく反射が働いた。
「しま……」
「だから甘いんだ!」
左手が顔の真横まで上がったのを見て、フックが軌道を脇腹に変更する。
脇腹は人体急所の一つで、どんなに鍛えた人間でも打たれると肺に残った酸素を全て吐き出してしまい、一瞬の呼吸困難に陥る。
「は……あぅ」
それは夕凪とて例外ではなかった。
酸素を求めるあまりに、舌先が唇を跨いで飛び出す。嗚咽するかの如く苦悶する彼女を他所に、志野は右腕をぎりぎりまで引き、腰も捻り上げる。
「これで、おっしまいだぁ!」
体の影に隠れて夕凪には見えなかったが、志野の右腕は纏っていた服の一部を破る程に筋肉が肥大化した。
無敵流!
腰が高速で左と右腕を交換する。
だが飛び出したのは拳ではなく、青筋が立つほどに膨れ上がった二の腕だった。
剛斧爆!
それはプロレス技でいうアックスボンバーと同じであった。
だが突進技ではなく、激しい回転を加える志野独特の剛斧爆は、まさにどんな状況でも覆す必殺技であった。
夕凪の腰に近づいた二の腕が、柳の枝のような首にヒットした。
瞬間、彼女の体内に小さな烈音が響いた。だがそれが何なのか確認する間もなく、凶悪な力の激流に、夕凪の長身が吹き飛んだ。室内なのに風を感じ、そしてものの一秒もかからずに後頭部からコンコリートの壁に激突した。
一緒にひっかかったのだろう。
様々な大道具が崩れる夕凪の上に落ちる。
蒸気した機関を冷却するように、志野の唇から細く息が吐き出される。その目は楽しげに強さを誇示できた事に満足そうでもあった。
「だから素人が首つっこむなってんだぁ!」
使い終えた関節のマッサージを兼ねて骨を鳴らしながら、満足げに頷く。
「さって、んじゃそろそろCSSをもらいうけると……」
「ま……て……」
踵を返し、不適に見える筈のない舞台上に視線を上げて、歩き出そうとした瞬間だった。後ろで機材の崩れる音に混じって、聞き漏らさないしっかりとした言葉が志野の耳朶を打った。
「へぇ。あれ喰らって死んでねぇのか」
「が、頑丈さが売り……なのよ……」
息も途切れ途切れでいう台詞じゃない……。心の中で自嘲気味に笑いながら、体内に聞こえた音の正体を調べるために首元に手をやる。触れただけで激痛が走った。いや、元々響いていた痛みが、触れた事によって新たに自己主張を始めたらしい。
「皹……かな」
ポタポタと髪を伝って赤い液体が流れてくるところを見ると、頭も大きく切ったようだ。視界の半分以上が多い尽くされる
「それ以上、やると本当に死ぬぜ? 最後通告だ。大人しくしてな。これ以上は、な」
それまで獣を思わせる雰囲気が揺らぎ、殺気が薄らぐ。
しかし夕凪にそれを感じる余裕など全くなかった。
無言のまま再度先ほどと同じ右腕をだらりと落とし、左手を腰に据える構えをとった。「そうか……。なら……」
再び、志野の殺気が膨れ上がった。トドメを刺すべく全力を右腕に集約させる。
(体には……無理。だったら……狙うは一点のみ……)
剛斧爆の準備を見つめ、流れすぎた血のために薄らいできた意識を繋ぎとめて、狙うべき部分だけをしっかりと見つめる。
「後悔しな!」
「あ、貴方こそ……」
言葉の交わしあいが、そのまま交差の引き金になった。
夕凪の言葉が終わるや否や、志野が走り出した。密着状態であれだけの威力を誇るのに、プラスアルファで助走も加わっている。おそらく当たれば間違いなく死は訪れる。
(だから……失敗はできない)
しかも後ろは壁で、威力が逃げる隙間は少しも存在していない。
「くらぇぇぇぇ! 剛斧爆!」
二度目の、本気の強固な斧が迫り来る。
(だけど、このまま……)
初めての上級レベルとの戦闘に、意識が負けを認めかける。
(ああ、それだと楽だね。もう悩まなくても……)
意識が限界に近かった。
体を支えるだけで、生命力が足から抜け落ちていくのを実感できる。それを支えている精神力と理性も、何を求めていたのかを失いかけていた。
――あはは。夕凪ちゃんかぁ。ならウチの後輩さんやね〜。
――うんうん。恭也の後輩だぁ。
舞台で人々のために心を込めて歌を歌い続ける二人の笑顔が、浮かんだ。
「まけ……られない……んだぁ!」
失いかけるという過程ではなく、半ば失っていた意識をゆうひとフィアッセの笑顔で取り戻した時、すでに剛斧爆は眼前に迫っていた。
「こ、ここぉ!」
力を溜め込んだ左手が、剛斧爆の中心に向けて発射される。
どんな技であれ、足は動いていても攻撃を加える部位は、繰り出される瞬間に直線運動へと移行する。それは受ける人間にとって自分に向かってきている状態だ。
最初、夕凪は志野の読み通り相打ち覚悟のつもりだった。
だがたった二回の拳の交わりと身のこなしで難しいと考えた。
そこで狙いを相手の牙に絞ったのだ。
それが剛斧爆にも使われ、腕という牙に。
二重の極み!
普通であれば細腕の打撃など剛斧爆に通用する筈もない。しかし夕凪の拳は佐渡島兆冶の反転宝珠すらも破壊する奥義と言っても過言ではない技があった。
「な、何!」
「ああああああああああああ!」
人を殺す破壊力を持つ技が正面衝突し、びりびりと空気が震える感触を二人は同時に味わいながら、それでも衝撃は互いの皮膚と皮膚へと亀裂を走らせる。
鮮血が舞った。
それだけではなく震動が干渉して即座に霧状になる。だが二人の衝突は僅か数秒。互いの前方に向かっていた技の破壊力の反発が始まる。
「くわぁぁぁ!」
先に飛んだのは夕凪だった。
二重の極みによってただの打撃レベルになっていたため、壁に軽く体をぶつけるに留まったが、打ち込んだ左手は剛斧爆という爆弾を真正面から受けた結果、完全に砕けていた。
壁に背を預けたままずり落ちいてく中で、自分の左手の惨状をちらりと見やってから、視線を志野に向けた。
「……ぐおぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
それと同時に、志野の左腕の筋肉が破裂した。
どうやら彼女もまた二重の極みの破壊力に、右腕を使えなくなったようだ。遠のく意識の中でそれを確認すると、夕凪は完全に意識を闇のそこへと追いやってしまった。
「ふ、二重の極みだって……? 俺の先祖をぶっ倒したっていう……あの……? こんなところで会うなんて……」
軽く傷口に触れると繊維一本一本が千切れ、このままでは危ういのが明白であった。
しかし志野は倒れている夕凪を見据えたまま動かなかった。
「そうか……。くく、おもしれぇ! 二重の極みの女! お前は俺が殺す! 絶対にだ。こんな中途半端じゃねぇ! 鍛え直して、強くなったところを完全に殺してやる!」
それは宣言だ。
明治初期。
彼女の先祖は人斬り抜刀斎と、そして二重の極みを使う相楽左之助に敗北を喫した。何時か復習を誓って、二人の消息はわからなくなってしまっていたが、まさか気まぐれではじめた兆冶の策略の手助けの途中で出会うとは思ってもみなかった。
そう。
彼女の目的と共に、もう一つ、行うべき理由が生まれたのだ。
「今日のところは見逃してやる。だが、次は覚悟しな」
聞こえている筈はない。だが志野はそう言い捨てると、舞台下を後にしたのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
外は明るかった。
今まで闇の中にいたので、瞼が反射的に光量を調節する。
使える左手で影を作りながら、会場の周囲を見回すとすぐに目的の人物は見つかった。全く傷一つつかずに二本の小太刀を持った彼女は、すぐに志野を発見した。
「どうした?」
「いや、兆冶の手伝いは止めだ。今日はこのまま帰る」
一瞬訝しげに眉を顰めたが、すぐに咲那は使えなくなっている右腕に気付いた。
「それは?」
「あ? ああ、これが撤収する理由だ。俺のもう一つの目的が出てきやがった」
そう言い放った志野が本当に楽しそうなので、咲那もそれ以上は何も言わずに小太刀を鞘に納めた。
「ま、待ちなさいよ……」
その時、咲那達の丁度正面。会場の壁からか細い声が聞こえた。
そちらを向くと、そこには切り傷だらけになり、壁に小クレーターを作った状態の紅美姫が、こちらも小太刀を杖代わりにして立っていた。
志野はつまらなそうに鼻で笑うと、きっと美姫をにらみ付けた。
「うるせぇ。俺はいい気分なんだ。邪魔するんじゃねぇ」
「あ、アンタに言ってないわ。私はそこの最狂に言ってるのよ」
「紅美姫、今は勝負をつける場じゃない。また次、刃を交えよう」
「逃げるの?」
「いや、今日の自分は志野の付き添いだ。彼女が戻るのであれば、ここに留まる理由がない」
「く……」
何とか体を堪えさせるべき力を入れるが、余程の痛手を負ったのか、すぐに膝を折ってしまう。
それを見て、二人は背を向けた。
「ま、ま……」
「じゃあな。お前も次まで強くなっておきな」
ずり置いた体で、追えない事に歯軋りしながら、それでも不適に浮かべた笑みからこう言い捨てた。
「次は殺す『最狂』」
「楽しみに待ってる『最凶』」
少し離れて、志野は咲那に問いかけた。
「最凶って何だ?」
「ああ。私と彼女が使う剣術だ。私が『最狂』で彼女が『最凶』」
「ふん。あの程度でか?」
そういう志野に、咲那は腕をまくった。
そこには二の腕どころか、手首の上まで押し寄せた氷に侵食された腕があった。
「私はここまで開放した。だが彼女は最低レベルすら開放してない」
それが何を意味するのか志野にも即座に理解できた。
「……次が楽しみだな」
「ああ」
こうしてコンサートは一応の解決を見る事となった。
そして舞台はもう一つの闘いの場、高尾山へと移る――。
おお!
美姫 「コンサートの方は無事みたいね」
うんうん。良かったな。
しかし、敵の方にも色々とあるみたいだな。
美姫 「本当に。さて、次回はいよいよ高尾山の方ね」
こっちはどうなるのだろうか。
美姫 「次回も非常に楽しみにしてます」
待っています。