『とらいあんぐるハート〜無想剣客浪漫譚 70』
LXX・比叡山潜入戦〜もう一人の不破
「何でここいるんですか! 夏織義姉さん!」
三人しかいない通路の真中で、美沙斗の悲痛な感情を含んだ悲鳴に似た叫びが反響して、延々と通路を走っていく。
そんな木霊が鳴り止むのを真っ白な瞼を閉じて聞き取った夏織と呼ばれた女性は、ゆっくりと瞳を開けると激しくなった呼吸を必死に押し留めようとしている美沙斗を懐かしむように見詰めた。目の端は柔和に曲線を描き、その様子はまるで心を許している親友を眺めているように、斎藤には感じられた。
「い、いや……。夏織義姉さんの筈はない……。あの時……私は……間違いなく……」
「私が死んだのを確かめた?」
気付かぬうちに震えている両手を抑えるように両手で自分の体を抱きしめた美沙斗に、夏織は優しげに、それでいておおよそ似つかわしくない生々しい表現を口にした。瞬間、美沙斗の体がびくりと反応した。
「懐かしいわ……。私が士郎さんに嫁いだあの日。まだ九つだった貴方は、大好きだったお兄さんを私に取られるって、最初は何処行くにしても私を睨んでついてきたわ」
ああ……。覚えている。
あの日は学校で長距離走を走って、体の小さかった私にはそれだけで十分に疲労してしまっていて、自室に戻るやいなやすぐに布団に倒れ込んだんだ。父親は軟弱だと鍛錬を行おうとしていたけど、士郎兄さんは苦笑しながら私の味方になってくれた。でも、夕食の時間になって、いつもは使用人として働いてくれている和芝さんが呼びに来てくれるのに、その日は兄さんが呼びに来てくれて、何かあるのだろうか? と不安になったのを覚えている。
そして、半分寝ぼけたまま、大きな兄さんの背中に着いていった先に、彼女……遠野夏織さんが居たんだ。
『俺、彼女と結婚するんだ』
最初は兄さんが何を言っているのか理解できなかった。夏織さんは正月や御盆等の年中行事の際に、よく御神本家にやってきていた不破の遠縁に当たる分家で、顔を見るたびに遊んでもらっていた。だけど「結婚」という言葉を聞いた瞬間、見慣れた筈の年の離れた親戚の顔が、突然初対面の人間に見えて、酷く嫉妬したものだ。どこに行っても何かヘマをして、兄が愛想を尽かすための情報を求めて追いかけていた。それでも彼女は根気強く私と話をしてくれて、半年後には私は二人の結婚を心から祝福できるようになっていた。
「それとも美沙斗は忘れてしまった?」
「忘れる……訳ない……」
「そうよね。私の最後を見たのは美沙斗ですものね」
その言葉は、深く私の心に突き刺さる。
最後を見た……。
夏織さんを義姉さんと呼べるようになって、一年が過ぎた頃だったか。私は御神不破の一人として初の護衛任務についていた。御神は本来一人で一騎当千を誇る一族だったから、本当は私一人が派遣されて御終いだったのに、初任務という事で、義姉さんが一緒に来てくれた。
任務には上から五つのランクにアルファベット順に分けられ、私の初任務はDランクからとなった。普通は一番低いEランクなのだが、義姉さんが一緒だから一つ上に位置付けられた。内容はとある財閥の会長の護衛だ。よくあるプロジェクトを止めなければ殺すという類の脅迫状めいた投書が為されたとかで舞い込んで来た仕事だった。
御神の剣士は一人でも任務を完全に遂行するのが使命なので、私はがちがちに緊張しながら、任務先に出頭したのを覚えている。そして後ろから苦笑している夏織義姉さんの嬉しそうな顔も……。
だけど、どうしてもその時の私は十歳の子供で、しかも初めての任務と言う事から来る緊張に負けてしまった。静かに眠る護衛対象の会長の横で、船を漕いでしまった。そんな好機を敵が見逃す筈もなく、私は突然に襲撃に対応しきれずに、寝室から会長を連れ攫われてしまった。
できるだけ私の勉強にしようと思ってくれていたのか、夏織義姉さんは通路向こうを張ってくれていたにも家かわらずの、体たらくに泣き出しそうになっていた私の肩をぽんと叩いて、一言大丈夫と言ってくれた。
それから二人で侵入者を追った。
飛騨の奥にある山村の開発の下見で訪れていた山間の小さな村での追跡は想像以上に困難で、何度も顔から山肌の泥に突っ込んだ。
そしてようやく山頂付近の崖になっている場所に敵を追い込んだ時、起きてしまったんだ。
「御神」
そこまで深く過去に囚われ始めた時、隣で静かに事の成り行きを見守っていた斎藤が、膝から崩れかけた美沙斗の腰を抱く形で支えているのに気付いた。
「あ……」
「刀を向けたままだと、これが一番なんでな。悪く思うな」
牙突の構えをしたまま、夏織から視線を外さずに囁くように呟いた彼に礼を述べようとして、下唇が痙攣して上手く動かない。仕方なく小さく頷いてから斎藤の腕から起き上がると、脳裏に渦巻いていたものを振り払うために、大きく頭を振った。
「そうだ。例え記録から暗記したとしても、貴方が夏織義姉さんの筈はない」
「あら? どうして?」
「それは自分で言っただろう。私は義姉さんの最後を見たんだ」
追いかけて飛騨山中に追い詰めた、ただの凡庸な男に同時に高空と低空の同時攻撃を加えるべき駆けだし、見事に敵から会長を取り返した瞬間、美沙斗の足は泥で見事に滑らせた。大きく傾いたバランスはぐらりと彼女を小さな体を崖へと向けさせる。しかし、夏織が居た。すぐに神速を発動して美沙斗と会長の脇に移動すると、力任せに崖の反対方向へ蹴り飛ばした。いくら夏織でも男性と小柄ながら少女の二人分を支える筋力はなかったのだろう。腰の回転を加えた蹴りは、美沙斗達をあっさりと安全圏まで戻す。痛みは残るが、それでも無事であった事にお礼を言おうと、何とか意識を保てた美沙斗は頭だけど夏織に向けて……見てしまった。二種類の斬撃で虫の息の筈の敵が最後に引いた引き金が、鉛の弾を夏織の胸に撃ち込まれる瞬間を。
「そのまま義姉さんは崖を落ちていった。幾ら御神と言えど、あれで生きていられる筈がない。だから貴方は偽者だ」
すっと腰を落として、二刀の小太刀を一本に並べる構えを取る。
「許すものか……。未だ大切な人々を汚す龍を……そして私の前にその姿を曝した貴様を!」
御神流・奥義之三・射抜!
神速と見間違う程の突出力で一息に夏織の前に飛び出した美沙斗は、両手の小太刀を弾丸の如く撃ち出す。
だが――!
「何!」
射抜が夏織を捕えたと思った瞬間、実像は残像に変わり、小太刀の切っ先はただ何もない空間を射抜いただけだった。
「神速?」
「いえ、ただ身のこなしを上げただけです。言ったでしょう? 技を過信すると技に死ぬと」
小さい頃によく聞かされた夏織の小言染みた物言いに、また封じられていた記憶の窓がこじ開けられる。
「斎藤!」
「なんだ?」
「先に行け……。これは私の闘いだ」
「……わかった」
それだけ言うと、何も言わずに斎藤はゆっくりと歩き出した。美沙斗の横を抜け、残像を残す程の夏織の眼前をすっと通り、いともあっさりと斎藤は通路の奥へと消えていった。
「何で止めない?」
恭也と闘っているアルフレッドはカイゼルに心酔していた。恭也が盾にならなければ未だに追い掛け回されていただろう。だが夏織は、足止めもせずに斎藤を先に行かせた。
「私が受けた命令は、御神美沙斗の相手をするだけ。それ以上は、あの御方のためにならないから」
「あの御方……だと?」
「あら? 口が滑っちゃいましたね」
時々やってしまうのは年かしら? と小さく年相応の溜息をつく夏織に、美沙斗は間合いを取りながら立ちあがった。
「……どうやら、恭也を置いてきて正解だった。例え偽者と言えど、記憶が薄らとしかなくとも、自分の母親の名を語る相手と合わせずに済んだ」
左手の小太刀を逆手に持ち替え、御神流の万能型の構えに切り換える美沙斗に、夏織は小さく微笑んだ。そして徐に胸元に手を当てると、ゆっくりと前を閉じていたボタンを外していく。
「何を……?」
やっている? と言葉を繋げようとして、服の下から現れた真っ白な肌を見て美沙斗は絶句した。
その様子を悲しげに眺めて、夏織はぽつりと話し始めた。
「あの時……私は死んだと思ったわ……。胸を打ち抜かれ、崖から落ちて……。深い川でもあればまだ希望は残されていたんでしょうけど、あいにくと下には樹海が広がっていた。手に力は入らず、ただ重力に引かれていく感覚に身を委ねながら、私は気を失った。だけど私は生きていた。いえ、正確には助けられたのね。鋭い木の枝に腹部を貫通されて鵙のはやにえのようになっていた私を、あの御方とカイゼルは助けてくれた。尤も急激な失血による体温の低下と、脳内酸素の急激な減少で、私は数年前まで記憶を失っていたけど」
「な、ならば何故私が知らない? もし同じ龍にいたのならば、話だけでも聞こえてきていた筈!」
「そうね。でも私はあの御方と一緒にカイゼルの手駒の一つだったから。龍でも存在を知られないくらいに闇の中の闇に身を落としていた。技は体が覚えていたから、すぐに人殺しや様々な工作を行ったわ。そして……」
「そして?」
「……いえ、これ以上は意味がないわね。ただ、この傷は調べれば分かるけど、本物よ」
胸に開いた、貫通した弾痕と、左脇腹にひきつったような印象を与える大きく不恰好に縫われた傷痕は、到底薬品や偽者でつけられる規模のものではなかった。長い年月をかけてようやく痛みを失う事ができる心その物を表しているかのようだった。
「それでも! 思い出したなら何故龍に居る! あの……御神を……」
「わかってるわ。だからこそ、私はここにイルのだから」
そこで夏織はするりと小太刀を一本だけ抜いた。急激に困惑した空気が殺気と置き換わっていくのを肌で感じ取りながら、美沙斗もはっと弾かれて小太刀を握り直す。
「カイゼルにはそれ相応の最後を。それが私とあの御方の望み。そのために美沙斗、貴方をここで止めます」
「夏織……義姉さん」
何故か心は有り得ないと叫んでいても、体ははっきりと覚えていた。寸分違わぬ、小太刀二刀の御神の中で、一刀を得意としたその構えを。
二人の不破は、沈黙を持って対峙した。
おおー。何やら、複雑な事態に…。
美姫 「美沙斗と夏織。果たして……」
物語はどんどん綴られていく…。
その先に待つもののは、一体。
美姫 「夜上さん、次回も楽しみにしてます」
それでは〜。