『とらいあんぐるハート〜無想剣客浪漫譚』




XXXV・静かなる水面

 水面は静かだった。
 何者にも侵されず、ただそこに佇むように、池は見つめている十人を素直に受け入れているようだった。
 そんな名も無き小さな池の辺にひっそりと作られた小さな社に向かって、那美は瞳を固く閉じて彼女独特のピンク色した霊気を放出していた。
「やっぱり……ここには誰もいないですね……」
 ゆっくりと体に浸透していく霊気に合わせて開かれた瞳に申し訳なさを交えて、後ろで真剣な面持ちの真一郎に那美は頭を下げた。
「そう……ですか」
「でも、つい最近までここに居たのは間違い無いようです。まだ僅かですが霊気が残ってます」
 霊気は魂が発する力の形だ。
 普通の人であれば、力は身体を動かす生命となって現れるが、霊能者や退魔士は自らの意識で霊気を放出し、操る事ができる。那美が使用する治癒能力も霊気の力の一つだ。そして霊気には個人の色が存在し、一度使用すると使った場所に霊気の一部が残る事がある。那美はそんな残り香のように薄い霊気を探索した結果、氷那以外の純白の粉雪のような霊気を発見した。
「一部強烈に霊気が残ってますし、どうも戦闘したんじゃないかと……」
「戦闘……か。あののんびりとした嬢ちゃんが自分からって事はないよなぁ」
 真雪と同意見なのか、真一郎と耕介が頷いた。
「あの、美緒ちゃん」
「ん? 何なのだ?」
 つんつんと脇腹を突付かれて、美緒は隣に居た舞振り向いた。
「ここって何かあるの? ぼくだけじゃなくて奈緒ちんもさとみ姉さんも夕凪も剣心君も少々話についてけないんだけど」
 物見遊山でついてきただけの四人と氷那の拾い主は、どうやら深刻な話をしているのを雰囲気で感じとり、一人鼻をひくつかせている美緒に聞いてみた。
「ん〜っと、昔、ここにザカラってものすごい妖怪が封印されたのだ」
「それってさっき那美ちゃんが話してた御伽噺?」
「そうなんだけど、実はそれ御伽噺じゃなくて事実だったって事」
 とんでもない言葉に、詳しく知らない五人は一瞬疑心暗鬼を含んだ表情を浮かべるが、氷那や那美の存在がすぐに頭に映し出され、一斉に真剣な面持ちになる。
「その時にザカラを封印したのが真一郎に抱かれている氷那と……真一郎の恋人だった雪……」
 小さかった自分を儚くも優しく会話を交わしてくれた、もう死んでも会えないと諦めていた純粋な笑顔を思い出し、美緒の目に涙がたまった。
 そこに遠目に見ていた瞳が近付き、ポケットから水色のハンカチを差し出した。
「う〜……。アリガト……」
「気にしないで」
 ハンカチを受け取り、高揚してしまった気持ちを落ちつかせるために場を離れた美緒を見送って、瞳は突然泣き出した彼女に呆然とした五人に視線を向けた。
「雪さんは人ではなかったの。ザカラを封印するために自分を鍵にして、氷那という扉を閉めていた。今から大体十年前位に一度封印が解け掛けて、その時……ほんの一瞬だけ私達と時間を共にしてくれた雪女の女の子」
 そう。今ならまるで昨日のように思い出す。

 さざなみに来た彼女は、本当に楽しそうで、数百年も一人で、そしてこれからも未来永劫一人で居なければならない孤独を必死に覆い隠そうとしていた笑顔は、深く関らなかった瞳にも楔を打ち込んでいた。
 それは少なからずあの事件に触れた人であれば、全員が抱えてしまった心の傷。
 大地に触れる前に溶けてしまう五月の雪のように、健気な少女の思い出だ。
「真一郎さん、そんな素振りなんてまるで見せなかったのに……」
「そうでしょうね。常に笑顔で夢を追いかける……。相川君ができる最大限の雪さんへの思いでしょうから」
 野々村家で小鳥と仲良く台所に立つ姿を思い出し、剣心はバツが悪そうに俯いた。
 昔話を神妙な面持ちで聞いていた剣心達を横目で見て、瞼の裏に浮かぶ雪の笑顔に唇を噛み締めた。
 そんな苦い思いを振りきるように耕介は池の辺に歩いた。
 長い年月を何も語らずに全てを受け入れていた池は、何の気配も発せず集まっているさざなみ寮生を見守っている。
「何も……感じない?」
 そこで耕介は気付いた。
 氷那がいるのであれば雪がいるのは当然であり、二人が現世に存在すると言う事は封印されていたザカラも復活している筈だ。しかし、池には普段よりも静謐な雰囲気だけが漂い、自然界に溢れている霊気や妖気の一欠けらも感じられない。
「那美! ちょっとこっちに来てくれ」
「はい?」
 呼ばれて那美は社前から耕介の側へ移動した。
「なんですか?」
「うん。ちょっと池の霊気を感じて欲しいんだけど」
「池の霊気?」
「ザカラなんていう大妖が封印されていたのに、不自然な位に霊気が感じられないんだ」
「そういえば……」
 耕介に指摘されて、那美ははっと弾かれたように池に集中した。
「ここまで霊気が無いと……何かありますね」
「ああ。それでちょっと手伝って欲しいんだ」
 遠く那美と久遠に細かく指示を出す耕介を見て、真雪はしばし考えるように空を見上げた。
 間違いなくザカラは外に出ている。だけど前のような素人にもはっきりとわかる巨大さをまざまざと見せつけた。でも今回はそんな様子はまるで感じられない。猫があの大きな妖怪を見逃すとも思えない。
 無意識に火をつけていた煙草を地面に擦りつけて消し去ると、九人を置いて先に寮へと戻る決意をした。未来のもしもを想像した時点で打てる手を打つべく、無言でその場を立ち去った。
「それじゃ那美はあっち。久遠はあっちな」
「はい」
「くぅん」
 耕介は社の前に立つと、那美と久遠は池の辺を移動して正三角形を描くように立ち止まった。そんな二人を確認すると、耕介は精神統一するために深く呼吸を行った。清と微風によって鳴る葉音だけが、三人を見てるメンバーの間に広がった。
「神気……発勝……」
 耕介が祝詞を口にした瞬間、金色の湯気のような光が薄らと体を覆っていく。同時に那美と久遠からも金色の光が立ち上った。
「え? 耕介さんから……?」
 それは呟いた剣心に限らず、舞や奈緒、さとみと夕凪も同じ感想だった。
 明らかに耕介の体からで出ているソレは、那美が使っている霊気と同じ物であり、色以外に相違点が見受けられない。
「それに何で久遠まで?」
 それは剣心のみだったが、ただ少なくとも耕介が霊気を使っている事実は四人に衝撃を与えていた。
 そこに答えを与えたのは、ようやく気を持ち直した美緒であった。
「耕介は愛と結婚しなければ間違いなく那美の義兄さんになってたのだ。それに久遠はあたしと同じ妖怪の一種なのだ」
 すでに剣心達には教えているが、美緒は妖怪である。一言で言えば猫娘なのだが、実際はようやく尻尾が三つに増えた猫の変化の一つの形、猫又が彼女の正体だ。黒と見間違う濃い紫色をした髪と同じ猫耳と尻尾を持つ彼女は、妖気や霊気には敏感だがそれを操る術を持たない。
そんな彼女と同じ妖怪と言い切られる久遠も、狐が変化した妖狐の一種である。室町時代に起きた大きな病によって暴走した村人に、妖怪と知りながら久遠を受け入れた少年を惨殺され、強大な妖気で雷を操る大妖と化して神咲の当代を含めて何百と言う退魔士を惨殺してきた久遠は、那美の力によって魔の箇所――神咲はタタリと呼んでいる――を消滅させられ、今は四段変身で狐耳の女の子や大人の姿に変身できるマスコットのような存在になっている。
そして耕介は生まれながらに内に秘めていた霊力の高さを薫達との接点から表面にし、愛と結婚しなければ神咲の一員になれる程の退魔士となっていただろう。
その説明を受けている間に久遠は人型になり、三人は金色の霊気で三角形が浮かび上がる。
三人の霊気は次第に三角錐の天を向く頂点に集まり、限界を超えた霊気は一気に池の中に吸い込まれた。
 池は霊気と同じ金色を発した。
 途端に倒れる那美と久遠。耕介も倒れはしないが膝をついて激しく呼吸を繰り返した。
「那美さん!」
 久遠にさとみが走り、耕介の大きな体に美緒と奈緒が走ったのを見て、剣心は那美の元へと駆けた。
 那美は額に脂汗を浮かべながらも、自らの力で体を起こしていた。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ……。久遠と……耕介さんは?」
「大丈夫です。二人とも那美さんよりは元気です」
「そ、そうですか……」
 剣心の肩を借りてようやく経ちあがる事ができた那美は、小さく息をついた。ゆっくりと呼吸が整っていく様に剣心も安堵した。
「ちょっと! みんな! 池を見て!」
 しかし現象はまだ終わっていなかった。三角錐は今だ存在し、池は金色に染まっている。その水面を見て、舞は大声を張り上げた。
 全員の視線が水面に集まった。
『どかねばどうなるかわからん。鍵よ。我等の思いを汲んでくれぬか?』
 ローブの男が一人の少女に通告した。
「何だこれ?」
 誰が呟いたかはわからない。
 だが水面は今ではない『何処か』を映し出していた。
『……できません』
 少女ははっきりとした拒絶の言葉を口にした。
 ローブの男は悲しげに眉を下げ、男の隣にいたスーツ姿の男はそれまで浮かべていた絶対優位な表情から遊びを破棄した真剣さを叩きつけてきた。
『なれば……さらばだ』
 ローブの男の宝石が急激な光を放ち、スーツの男も少女も全てを光で覆い隠した。
『キャァァァァァァァァ! 氷那! ザカラ! ……真一郎さぁぁぁぁぁぁん!』
 光は全てを覆い、少女の体を白い光の塊と化して北へと飛ばした。
「雪さん!」
「待て! まだ続いている!」
 思わず劇場に駆られて池に飛び込みかけた真一郎を、体力も限界であろう耕介が何とか引き止めた。
 水面は耕介の言う通りまだ続いていた。
 映像は一気に成層圏付近まで昇り、そして光となった雪を追うように再度下降していく。それは海鳴から離れ、北海道の中央部より少し上部へと吸い込まれた。
「あそこは……富良野? 違うかな。旭川……?」
 奈緒は場所を吟味するように口の中で言葉を転がした。
 映像はそこまでだった。
 だが金色の三角錐は消えず、そこに残っている。
「どうやら……ザカラが残した残留思念を引き出せたみたいだ」
「残留思念?」
 もう全てが呆気に取られていた夕凪が、ようやく言葉を捻り出した。
「ああ。霊気が完全に消えていたのも誰かに気付いて欲しかったための苦肉の策ってところかな。池に異変があればさざなみの誰かが気付いてくれるっていう……」
 人外を心優しく受け止め、笑顔を向けてくれるさざなみ寮の人々。ザカラは十年前に雪と氷那が社を離れた時に感じた心の安らぎと、かつて骸と呼ばれた一人の武士が残したたった一言が、一つの鍵を残した。
「そんな……そんな事はどうでもいい!」
 しかし、耕介の言葉を遮って、真一郎は叫んだ。
「俺は……北海道に行く!」
 強くもあり、そして脆くも感じさせる瞳を空に向けて、その場の全員が呆然と彼を見つめていた。

 これは操とみなみが出会う数時間前の出来事だ。
 しかし二つの出来事は物語を大きく展開させる。だが全てが一つに繋がるのはまだ先の事である。



おお!真一郎、北海道へ。
美姫 「じゃあ、次回は北海道になるのかしら」
それはどうだろう。
次の舞台がどこになるのかというのも、かなり楽しみの一つになってるしね。
美姫 「次回を待っている間にアレコレと考える訳ね」
そのとおり。さて、次回はどんなお話かな〜。
美姫 「それじゃあ、また次回をお待ちしてますね〜」



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