午後三時。

 電車に揺られること約四時間。

 叶和人と迷子の子狐、久遠の二人は、何回かの乗り換えを経て、ようやく海鳴市へと到着した。

「着いた〜〜!」

「たぁ〜」

 海鳴駅のプラットホーム。

 電車を降りた和人と久遠は思わず万歳三唱した。

 周囲からの視線がなにやら生温かったり、冷たかったりするが気にしない。

 和人は久遠との約束のうち半分を果たした達成感に、迷子の子狐さんは懐かしい故郷の匂いに嬉々とした。

「それで久遠ちゃん、どうかな?」

 和人は駅のホームから覗ける街並みに見覚えがないか、久遠に訊ねた。

 久遠はしばらく辺りをきょろきょろとして、嬉しそうに笑った。

「うん。久遠、この場所、知ってる」

「いよっし!」

 久遠の返答に満足げな笑みを浮かべて、和人はガッツポーズを取った。

 やはり、彼女の言った海鳴市は、ここで間違いないようだ。

 海鳴駅に到着した二人は、早速、駅の窓口で市の観光案内とバスの路線図を貰った。さらに駅内のコンビニで、地元の情報誌も購入する。必要な資料を揃えた和人は、最後に久遠を連れて、駅の公衆電話の並ぶコーナーへと足を運んだ。タウンページを手に取り、か行に目を通す。

 四十万の自宅で久遠から聞いた話によれば、彼女の飼い主は“神咲”なる苗字の人物で、その家は海鳴市の国守山に所在しているという。

 神崎や、神埼といった名前は世の中に数多いが、神咲という字面の苗字は珍しい。

 もし、タウンページの一覧に名前が載っていれば、それが久遠の口にした“神咲”の可能性は高い。

 しばしタウンページに目線を落としていた和人は、やがて渋い表情で分厚い本を閉じた。

 タウンページのか行の欄には、神咲、という名前はなかった。

 ――もしかしたら、寮住まいという可能性もあるな。

 和人は苦い表情を浮かべて呟いた。

 もし、件の神咲なる人物が寮住まいだとしたら、これは探すのに少し骨が折れそうだ。最近は個人情報の問題が取り沙汰される世の中、正直に訊ねても、文字通りの門前払いをもらってしまう可能性が高い。

 ――ベレッタで脅しながら……って、そりゃ犯罪だ。

 一瞬、頭の中によぎった暗い考えに、和人はかぶりを振った。どこの映画だ、と自嘲気味に笑う。

 愛用のベレッタM92Fは、ロングコートの下に吊るしたショルダー・ホルスターに入れて携行している。万が一、自分を狙うGRUの手の者が襲ってきた場合にもすぐに反撃出来る状態だが、電車や店の中でもコートを脱げないのが、不便といえば不便だった。

 あまり考えすぎても良いアイデアは浮かばない。

 とにかく、行動することから始めよう。

 さしあたってすぐにでも取るべきことは……

「……とりあえず、腹ごしらえかな」

 電車の旅は四時間ばかり続いた。途中、駅弁を口にはしたが、若い――それも激しい運動に慣れている――身体には、明らかに量が不足していた。

 また、せっかく買った資料をゆっくり読む時間も欲しい。そのためにも、どこか腰を下ろせる場所に行きたかった。

「くぅん」

 和人の言葉に、久遠が同意とばかりに頷いた。

 幸いにしてここは駅。そして駅周辺には、大小様々な飯処、喫茶店が軒を連ねている。

「何が食べたい」

「んと……おうどん」

「うどんか……いいな、それ」

 和人は莞爾と微笑んだ。うどん屋はないが、近くには蕎麦屋があった。

「よし。それにしよう」

「くぅん」

 久遠は嬉しそうに頷いて、和人の手を取った。

 子どもが親の引っ張るように、元気よく和人の手を引く。

 掌から与えられた幼い活力を胸に、和人は蕎麦屋へと足を向けた。

「久遠、きつねうどん、好き……」

「…………」

 隣で呟かれた小さな声に、和人の足が、ぴたり、と止まった。

 一瞬、頭の中に映じた、“共食い”の文字列。

 慌ててかぶりを振った直後、また隣から呟きが発せられた。

「あと、たぬきうどんも好き……」

「…………」

 何も突っ込むまい、と和人は心に誓った。





古代種×とらいあんぐるハート・クロスオーバーストーリー

『迷子の迷子の子狐さん』

第4話「子連れ燕は海鳥となる」





 和人と久遠が入店した蕎麦屋は、いかにも老舗といった風情の店だった。

 店の構えは古く、店内はそばつゆの良い香りで満たされている。

 入店した和人がまず最初にやったのは、品書きに目を通すことではなく、店内に怪しい人物がいないか視線を走らせることだった。

 自身何度も受けたGRU機関からの襲撃の経験が、彼にそうさせていた。食事中の無防備なところを一気呵成に襲われては、さしものAクラス“古代種”もたまらない。懐のベレッタで反撃しようにも、相手はそんな暇すら与えてくれないだろう。怪しい人間は事前にチェックしておかねば。

 店内には四〜六人掛けのテーブル席が九と、座敷が四つ、それからカウンター席が八人分あった。そのうち埋まっているのはまずテーブル席が三つと座敷が二つ。ともに家族連れでの来店で、怪しげな様子は微塵も感じられない。

 他方、カウンター席には二人、それぞれ三十代前半と思しき外人の男性が座っていた。肌が浅黒い。アラブ系の外国人労働者らしく、時折アラビア語が聞こえてくる。

 和人は二人の外国人に油断のない視線を向けながらテーブル席に着いた。店の全体の様子をよく把握できる位置で、襲撃があったとしてもすぐ逃げられる場所だった。相手が街中に重機関銃でも持ち込んでくれば話は別だが。

 早速、二人の席に店員がオーダーを取りに足を運んできた。

 「ご注文はお決まりでしょうか?」とお決まりの文句を口ずさみつつ、愛想の良い視線を二人に向けてくる。

 はたして、いまの自分と久遠は、彼の目にはどう見えているだろうか。他の家族連れと同じく、兄妹にでも見えているだろうか。そうだったら良いな、という嬉しい感情と、久遠に悪い、という思いが彼にどっちつかずの冷笑を浮かべさせた。

「きつねうどん♪ きつねうどん♪」

「……きつねうどん一つと、山かけそば一つ。山かけは麺大盛りで」

 また頭の中によぎった“共食い”の単語をかぶりを振って否定して、和人は注文した。

 山芋は栄養価の高い食物だ。元兵士の彼は、食事を味や栄養バランスよりも、カロリーの高さで選ぶ癖があった。

 注文の品が来るまでの間に、和人はトイレに向かうことにした。

 用足しのためではなく、逃走経路の確認のためだ。トイレから逃げるというのは意外な盲点で、ちょっとしたコツさえ知っていれば、速やかに窓から外へ飛び出すことが可能だった。

 トイレットルームには大人一人が十分に外に飛び出せるサイズの窓が一つ設けられていた。窓を開けると、外は店の裏路地に繋がっていた。左右に広がる一本道だが、どちらを進んでも表通りに行くことは可能らしい。

 これなら、万が一の時にはここから逃げ出すことも可能だろう。

 ――今回の旅では久遠ちゃんが一緒なんだ。俺に対する襲撃に、彼女を巻き込むわけにはいかない。ちょっとの油断も出来ないからな。

 窓の鍵を閉めながら和人は小さく呟いた。

 普段の彼であればここまでの警戒はしない。寄る店寄る店でこんなことを繰り返していてはとてもではないが気が休まらないし、最悪不審者扱いされて警察に通報しまう。すべては、テーブル席で待っている迷子の子狐さんのためだった。

 トイレを後にした和人が席へ戻ると、テーブルからは食欲を誘う湯気が香ってきた。

 少し念入りに調べすぎていたらしい。注文した料理がもう到着したらしい。

 腹の減っていた和人は意気揚々と席に戻って、見た。

 見て、しまった。

 瞬間、和人は立ち眩みを覚えた。

 冗談ではなく、目の前が真っ暗になった。

 よろめく身体をテーブルに寄りかかることでなんとか支え、和人は震える声を発した。

「く、久遠、ちゃん……?」

「和人、お帰り」

 久遠はにこやかに微笑んで、和人を迎えた。

 小さな胸を、エヘン、と張り、和人が注文した山かけそばの器を示す。

 器の中では、卵とよく馴染んだ黄色いとろろが、麺と程よく絡まっていた。

「混ぜておいた」

 久遠は呟いてはにかんだ。

 和人は頬を引き攣らせながら、がくり、と項垂れた。

 彼は卵は最後に残して、ちゅるん、と吸い上げる派の人間だった。

 和人は久遠を見た。

 褒めて褒めて、と主張する微笑み。

 叱ってはいけない。

 相手は子どもで、これは一〇〇パーセント善意からの行為なのだ。

 たとえ許せないことであっても、徒に語気を強めてはならない。

 和人は作者の稚拙な文章力では到底表現しようのない凄絶な表情を浮かべ、唇を噛み締めて苦悶の呻きを漏らしつつ、久遠の頭に手を載せた。

「あ、ありがとうね、久遠ちゃん」

「くぅん」

 頭を撫でてやると、久遠は嬉しそうにはにかんだ。

 その笑顔を眺める和人の胸中は、かつてなく複雑な気分だった。






 かつてないショッキングな事態と遭遇しながらも、するべきことはしておくのが叶和人という男だった。

 久遠の善意からの行為によってちょっぴり味気なくなった蕎麦をすすりながら、和人はバスの路線図に目線を落とした。

 久遠の家探しで取るべき行動方針は主に二つあった。

 一つは、人の出入りが激しい場所に赴き、とにかく彼女の知り合いを探す作戦だ。これには、先ほど買った情報誌が役に立つ。繁華街などへ出向けば海鳴市の観光も出来て一石二鳥の作戦だが、確実性に欠けるという欠点がある。久遠の知り合いに会えるかどうかは、多分に運が関係してくる。

 情報誌によれば海鳴市の総人口は約三〇万四〇〇〇人。狐というだけでも都会では珍しいご時世に加えて、久遠の場合は妖狐という特殊な存在だ。いくら休日とはいえ、この中から久遠の知り合いに会える可能性はかなり低いだろう。

 もう一つは、久遠が口にした国守山を目指し、そこで彼女の知り合いを探す作戦だ。これは先の案よりも確実性が高い。和人は迷わずこちらの方針を選んだ。

 駅の事務所で貰った路線図によれば、国守山へ行くバスの路線は一本。駅からは二十分置きに出発するという。

 和人は時計を見た。次のバスまであと十分ほどあった。

 蕎麦屋で腹を満たした和人と久遠は、早速、駅のバス停へと足を運んだ。

 停留所には和人達の他にも何人かの乗客がバスの到着を待っていた。

 和人はこの中に久遠の知り合いがいないかと期待したが、結果ははずれだった。

 バスの到着を待つ人々は久遠と自分にまったく関心を向けてこなかった。

 僅かに腰の曲がった老婆が、自分と手を繋ぐ久遠に微笑ましげな視線を送ってくるのみだ。

 ――まぁ、最初からそんな上手くいくわけないか。

 和人は油断のない視線を方々に散らしながら溜め息をついた。

 警戒の眼差しは勿論、自分を狙うGRUの襲撃を未然に防ぐための予防線だ。

 不審な外国人がいないか、邦人でもこちらを覗うような素振りを見せる人間はいないか。鋭い視線が、駅前の其処彼処を這う。

「……ん?」

 不意に、和人の視線がある一点で留まった。

 青年の眼差しに、襲撃に対する警戒とは別な険が宿る。

 視線の向く先には、一見したところごくごくありふれた光景があった。

 和人達のいるバス停から十メートルほど離れた場所。駅前の三車線の交差点。そこで行われている、ガス管の工事。黄色いガードで囲われた工事現場は歩道と隣接しており、白いガードレールを余裕で飛び越える高さのミキサーやトラックが停まっている。そのうちのダンプカーの一台に、和人の視線は釘付けとなった。

 ダイハツのハイゼットの七代目モデルだった。路肩にはギリギリまで寄っており、カーゴには砂利が満載されている。そのカーゴの歩道側に面した壁の留め金が、一箇所はずれていた。運転手も他の工事スタッフも気が付いていない様子だった。勿論、バス停にいる人間で気付いているのは和人だけだ。古代種の視力であればこそ、気が付けた異変だった。

 ――危ないなぁ。

 和人はしかめっ面で呟いた。

 工事現場のすぐ側にはコンビニがあり、駅の近くとあってそれなりに繁盛している様子だった。しかし、人の出入りに反して、駐輪スペースは狭い。駐輪場からあぶれた何台かは、工事現場と隣接したガードレールの側に停められていた。いまのところダンプのすぐ側に自転車を置こうとする者はいないようだが、危険な状況には違いなかった。うっかり、が重なれば、大惨事になりかねない。

 バスの時間が迫っていた。

 和人が注意を促すべきかどうか判断に迷っていると、運悪く、コンビニの方へ小学校低学年と思しき少年が三人、自転車に乗ってやって来た。

 やたら甲高い黄色い声が、和人の耳朶を撫でる。

 不味いな、と思った。

 件の小学生達はおしゃべりに夢中で、ダンプのカーゴの留め金がはずれていることに気付きもしない。また子どもであるがゆえに、常識ある大人ならば普通はしないような行為も、平気でやってしまう。

 少年達はあろうことかダンプが停まっているすぐ側のガードレール脇に、自転車を停めてしまった。

 タイミングが悪かった。

 ちょうど子ども達が自転車を停めたのと時を同じくして、ダンプの運転手が車を移動させようと、エンジンに火を点けた。ハイゼットは軽自動車に分類される車両だが、それでもダンプモデルとなれば車体は大きい。白いボディが、ぶるる、と震え、カーゴの留め金が悲鳴を上げた。無理もない。本来なら何箇所かの留め金で抑えているものを、規定よりも少ない数で押し留めねばならないのだ。その分、負荷が掛かるのは当然のことだ。

 ――ああっ。くそ。

 和人は胸の内で吐き捨てた。

 久遠のことといい、先ほどの痴漢騒動といい、どうしてこうもトラブルの女神様は自分にばかりアプローチをかけてくるのか。

 和人はダンプの方へと歩き出した。

 直後、道路側に面したカーゴの壁がはずれた。

 支えられていた砂利が、落下を始める。

 その下には、小学生達の姿があった。

 カーゴに積載された全部が落ちたわけではなかったが、なかなかの量だった。子どもの小さな身体を、十分に傷つけるほどの。

 ――ああっ。くそ。

 和人はもう一度吐き捨てて地面を蹴った。

 古代種として卓越した身体能力を持つ彼は一〇〇メートルを十秒・二で走ることが出来た。スプリンターとしての正式な訓練を受ければ、九秒を切ることも可能だろう。

 しかしその和人の足を以ってしても、間に合いそうにない。

 砂利の落下は僅かな一瞬。

 和人が十メートルの距離を詰めるのに必要な時間は一秒と少し。

 採るべき手段は、一つしかなかった。

 和人は左手を前へと突き出した。

 瞬間、和人の双眸に灰色の光芒が灯った。突き出した左手も、灰色の光輝を纏う。五指を広げた掌の上で、暗い光の粒子が繚乱していた。

 古代種能力『略奪』。

 かつて神が、古代妖魔と戦う武器として人間に与えた、異能の力。
 
 叶和人は灰色の手を翳すことで、対象物の持つエネルギーを奪うことが出来た。ここでいうエネルギーとは、運動エネルギーや位置エネルギーに代表される力学的エネルギーであり、熱エネルギーや電気エネルギー、光や音の持つエネルギーのことを示す。ニュートン力学やアインシュタインの相対性理論を引用するまでもなく、この世の中には常にエネルギーが存在している。和人の異能の力とは、このエネルギーを奪い、我が物として自在にコントロールすることだった。

 和人が左手を前へと伸ばした瞬間、砂利の落下速度が急激に減速していった。和人が落下する砂利から、運動エネルギーを略奪したためだ。

 彼の『略奪』の能力では、上から下へと垂直に落下する物体を完全に静止させることは出来ない。地球には重力がある。重力は、地球が存在する限り永続的にはたらく力だ。さしもの和人も、重力の加速によって生み出される運動エネルギーのすべてを奪うことは出来ない。

 ――だが、それで十分だ。

 略奪した運動エネルギーを、和人は自らの下肢に落とし込んだ。筋肉が発熱し、その熱量が、彼の走りを爆発的に加速させる。

 叶和人の略奪の能力は、単にエネルギーを奪うだけの力ではない。奪ったエネルギーをより使い勝手の良いエネルギーに変換し、再利用することこそ、彼の特殊能力の真の実力だった。

 古代種の筋繊維や骨格の強度は、ノーマルの人間をはるかに上回る。馬や鹿といった四つ足の動物の速度を発揮しても、耐えることが出来る。

 奪ったエネルギーを使って一気に加速した和人は、少年達のもとへとひた走った。

 砂利は減速しているとはいえ、着実に落下を続けている。

 急がねばならない状況に、変わりはなかった。

 和人は思いっきり地面を蹴った。

 煉瓦を敷き詰めた歩道に、亀裂が走る。溝を埋めるコンクリートさえもが割れた。

 前進。

 子ども達を間合に捉えるや、右腕で一人を抱え、左腕でもう一人を抱え上げた。

 最後の一人を体当たりで突き飛ばした時、和人の前髪を、砂利の一粒が撫でていった。

 緊張が、和人の背筋を駆け上った。

 両脇に抱えた二人分の重みが、彼を前へと進ませた。

 上を見るな。振り返るな。立ち止まるな。僅かに一瞬、たった一度の余分な動作が、いまの自分達には命取りになる。

 走る和人の背後で、砂の落ちる大きな音がした。

 間一髪。

 ようやく、窮地を脱したか。

 足を止め、背後を振り返った和人は、砂利の黒い山を見て、安堵の溜め息をついた。

 幸いにして自分も、子どもにも、怪我らしい怪我はなかった。

 事ここに至って、何が起こったのか気が付いた工事スタッフ達が、顔面を蒼白にした。

 砂利の落ちた原因は明らかに運転手の過失にある。責任問題が追求されるのは必至だ。これでもし怪我人が出ていたら、賠償金の請求など問題はさらに面倒なことになっていただろう。

 その意味でいえば、工事スタッフはみな和人に感謝の言葉を述べて然るべきだった。

 しかし、ガス管工事に従事する男達は、誰一人として和人に礼を言ったり、彼の英雄的行動を讃えようとはしなかった。

 それどころか、彼に対して怯えた眼差しを向けてくるばかりだった。一人二人ではない。工事現場のスタッフ全員から、彼は震えた視線を注がれた。

 のみならず、恐怖の視線は、四方八方から注がれた。

 事故の一部始終を目撃していた通行人達。バス停でバスを待つ人々。少年達が向かおうとしていたコンビニの店員。そして、他ならぬ和人が助けた子ども達。彼らは明らかに、和人の存在を恐れている様子だった。

 そのうち、古代種の鋭敏な聴覚が、「化け物」という、震えた声を拾った。

 和人は小さく、また溜め息をついた。寂寥感漂う溜め息だった。

 子ども達を助けるためとはいえ、自分は古代種としての身体能力を発揮し、特殊能力を使ってしまった。自分が“古代種”である事実は、事故を目撃した者全員に、知れ渡ってしまっただろう。

 古代種に限らず、人間社会において、自分達異能の力を持った人間は、異端だ。そして人間は、元来保守的な動物である。かつてガリレオ・ガリレイが地動説を唱えた時そうだったように、従来の常識から外れた存在は異端とされ、一度異端とされたからには徹底的に排斥されてしまう。

 不当な差別と、いわれない迫害。羨望や嫉妬を通り越した憎悪。

 和人達古代種の人類史とは、そんな差別や迫害から逃れる日々の記憶であり、人間の持つ暗い感情との戦いの歴史に他ならなかった。

 子ども達を抱える彼の双眸は、いまだ灰色の光輝を宿していた。

 しばしの瞑目。

 そして開眼。

 再び瞼を開いた時、そこには黒檀色の瞳があった。

 両腕の力を緩める。

 少年達は、逃げるように和人から離れていった。

 停留所に、国守山へ行くバスがやって来た。

 しかし、もうあのバスには乗れないな、と和人は感じていた。

 彼がバス停の方へ戻ると、乗客は揃って彼から距離を取った。

 久遠が、そんな周囲のみなの反応を不思議そうに眺めている。

 妖狐の彼女にとっては、和人の特殊能力もさして珍しいものではないのだろう。むしろ人間に化け、人間の言葉を介するほどの知性を持った彼女のことだ。自分の正体には、とっくの昔に気が付いていたと考えるべきかもしれない。

 和人が近付くと、久遠は、可憐な笑みを浮かべて彼を迎えた。

 黄色いオンシジウムのような可愛らしい微笑みは、子ども達を救った自分に対する賞賛か。

 釣られて微笑む和人だったが、その胸中は暗澹たる思いが支配していた。自分の勝手な行動のせいで、このバスには乗れなくなってしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「……ごめん、久遠ちゃん」

 和人は久遠の頭を撫でた。帽子越しに金色の髪を撫でさすりながら、少女に謝罪の言葉をかけた。

「バス、乗れなくなっちゃった」

 少なくとも、この駅前でバスやタクシーを拾うことは、もう出来まい。派手に動きすぎたし、顔を知られすぎた。国守山へは別の交通手段を使うしかない。そしてそのためには、一度この場を離れねばなるまい。

 和人は久遠の手を取った。

「ごめんな。もう少し、歩かないといけないみたいだ」

 和人はもう一度謝罪の言葉を口にして、久遠の手を引き、歩き出した。






 東京都立川にある立川駐屯地は、陸上自衛隊東部方面航空隊の司令部が置かれている基地である。

 東部方面航空隊は、陸自東部方面隊に所属する航空部隊で、立川駐屯地には、東部方面航空隊本部付隊の他に、東部方面ヘリコプター隊が常駐していた。

 このうち東部方面ヘリコプター隊は、OH-6観測へリ、UH-1多用途ヘリ、UH-60多用途ヘリの三機種を擁し、有事の際には東部方面隊を様々な形でサポートすることを任務としていた。

 秘密結社ノーデンスの鷹・吉田信一は、立川駐屯地に足を運んでいた。

 組織からの連絡で叶和人が四十万市を離れたことを知った彼は、早速、陸自の航空部隊に協力を要請した。四十万市を離れた和人の目的地が不明だったため、足が速く離着陸の場所を選らばないヘリコプターの発進を依頼したのだ。

 和人の動向については組織の人間が逐一監視している。彼の行き先が判明し次第、信一はヘリを使って、かつての親友の後を追うつもりだった。

 秘密結社のエージェントたる信一に対し、航空隊が貸与を決定したのはOH-6J観測ヘリコプターだった。米国ヒューズ社が米陸軍の軽観測ヘリコプターとして開発した機体を、陸自仕様に改修したヘリで、最大速度は時速二四四キロ。自重一トン以下の小型へリとしては長い足を持ち、最大航続距離は五一五キロを誇った。コンパクトにまとまった、非常に使い勝手の良いヘリだ。

 立川駐屯地のヘリ・ポート。

 着々と進むヘリの発進準備の様子を眺めながら、信一は携帯電話を耳に当てていた。話し相手は勿論、ノーデンスの人間だ。和人を監視している一人で、彼は信一に新たな情報を届けてきた。

『叶和人の目的地が判明した。場所は関東S県、海鳴市だ』

「海鳴市?」

 信一は渋面を作って呟いた。

 聞いたことのない街だ。和人はその街に、いったい何の用があるのだろう。

『さてな。目的は不明だ。だが、気になることはある』

「なんだ?」

『海鳴市に到着した叶和人だが、小さな子どもを連れている』

「子ども?」

『ああ。小学校低学年くらいの、可愛い娘だ』

 信一は訝しげな表情を浮かべた。自分の理解力が足りないのか。いまいち状況がよく分からない。

「……あいつの周りに、それぐらいの歳の子どもっていたか?」

『いや。いちばん若いので、あいつの隣に住んでいる片倉舞くらいだ。……我々としても奇妙に思っている。この娘、ある日突然、叶和人の前に現われ、彼と行動をともにしているのだ』

「ある日突然に……って、そんな馬鹿な話が……」

『あるんだ。現にいま、俺達の目の前で、二人は手をつないで歩いている。相当、仲が良さそうだ』

「…………」

 仲間からの報告に信一は押し黙った。

 これまでの話から察するに、和人が海鳴市を訪ねた目的に、件の少女が関係しているのは間違いない。はたして、この少女はいったい何者なのか?

『この娘の正体については不明だ。我々監視チームとしては、引き続き叶和人の監視を続けるのと並行して、この娘についても調査を進めていこうと思っている。……こちらから報告することは以上だが』

「了解した。俺も、いまからそっちに向かう。……どうも電話越しじゃ詳しい状況がつかめない。自分の目で見ることにするよ」

 信一は通話を切った。

 携帯電話を懐のポケットにしまうと、ちょうど、作業服を着た男が彼の側にやって来た。

「ヘリの準備が整いました。すぐにでも飛べます」

「了解」

 信一は頷くと小型へリの方へと歩き出した。

 パイロットの二人は、すでにコクピットに搭乗していた。

 後部座席に乗り込む。小型へリとはいえ、OH-6はもともと米国製だ。一九〇センチを超える長身の信一が乗り込んでも、まだ余裕があった。

 後部座席のドアが閉まる。

 すでにエンジンは温められ、ローターも回転を始めていた。いつでも、離陸出来る状態だ。

「飛んでください」

 信一は前の席の二人に言った。

 メイン・パイロットの隊員が頷き、ヘリが離陸した。

 その時、信一の内懐で振動が起こった。携帯電話がメールを受信したらしい。

 そういえば電源を切り忘れたな、と反省しつつ、画面に目線を落とす。

 液晶ディスプレイに映じた文字の羅列を見て、信一は溜め息をついた。

 メールは、組織からのものだった。

〈例のスペツナズ出身のロシア人四名が、四十万市に向かった。叶和人が不在なことはいずれ敵も知ることになるだろう。海鳴に向かう鷹は、十分に注意されたし〉





To be continued   第5話『海燕、狂戦士とすれ違う』



作者の一言

 ダンプの荷台から砂利が振ってきた云々はタハ乱暴が実際に経験した実話です。




無事に目的地である海鳴へと到着〜。
美姫 「したまでは良かったけれどね」
仕方のない事かもしれないとはいえ。
美姫 「周りの態度に久遠は気付いていないみたいだったけれど」
まあ、ちょっと暗いお話はこの辺にして、とにもかくにもようやく海鳴。
美姫 「このまま久遠を送って、と行きそうにもないような雲行きもちらほら」
実際にどうなるのか。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。



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