「むぅ……」
秘密結社“ノーデンス”の鷹……吉田信一は、パソコンのディスプレイを前にして大きく唸り声を上げた。
薄い灰色の機械の前に彼が座ってかれこれ二時間。ひとりキーボードやマウスを操作しながら画面と格闘する兄を心配してか、隣の部屋からその様子を覗う加菜の表情は暗い。
一六四二年にパスカルの計算機『パスカリーヌ』が世に登場して以来、コンピュータは科学の進歩とともに急速な発展を遂げてきた。最初は単純な足し算引き算しか出来なかったコンピュータは、時代を経るにつれてより高い計算能力とより多くの機能を要求された。いまやコンピュータは人類にとってなくてはならない大切な財産だ。特に、より小型で高性能、大量生産が可能でコストの安いパーソナル・コンピュータの普及はコンピュータの活躍の場を大きく拡げ、コンピュータはあらゆる場面での活躍を期待された。
軍事の面においてもまた、コンピュータは重要な存在となった。もとより軍事の世界は、膨大な量の情報が溢れる世界だ。そのことは例え戦闘要員ではない事務員であっても例外ではない。しかし、それらすべての事務仕事にかかる手間隙を、コンピュータは一変させてしまった。かつては数時間を必要とした仕事が数十分という短時間で完了し、何十もの手続きを済ませなければならない事が、ものの数分で出来るようになった。
“ノーデンス”でも無論のこと、この画期的な機械は登場と同時にすぐさま導入された。特に指揮官クラスの“百獣”のメンバーには、組織の方から最新のパソコンが支給されていた。このパソコンは、組織でもごく一部の人間しかその所在を知らされていない“ノーデンス”本部の、スーパーコンピュータを中心に独自のネットワークを形成していた。
いま、信一が操作しているパソコンも、組織から支給された物だった。見た目こそ普通のパソコンだが、そのOSは最新にして最高の性能。CPUやメモリも市販品ではない特別製の物が使われており、その演算処理能力は通常の家庭用パソコンの十倍という仕様だった。ハードディスクの中には当然、“ノーデンス”の大切なデータが記録されている。それゆえ、対サイバーテロ用に、組織が独自に開発した四重のセキュリティ・システムが組み込まれていた。
液晶ディスプレイを見つめ、唸る信一の表情はまさに真剣そのものだった。マウスを動かす指遣いは慎重で、キーボードにふわりと乗せられた左手は、Enterキーの上で迷うような仕草を見せている。
何か、『ノーデンス』の重要な情報でも届いたのだろうか。
“百獣”のメンバーである信一が、それほどまでに選択と決断を迷うような、重大な情報が――――――パソコンのディスプレイには、アニメ調のタッチで描かれた、眼鏡をかけた美少女が、画面いっぱいに映っていた。ベッドに腰掛け、上目遣いに見上げてくる少女の体の上に、二本のバーが浮いている。二本のバーには、それぞれこんな事が書かれていた。
1.
眼鏡をはずす
2.
そのまま唇を奪う
「うぬぅぬぅぬぅ…………」
信一は、頭を抱えながら唸った。
“ノーデンス”の若き“鷹”は、突きつけられた目の前の選択肢に、もてる頭脳のすべてを使って、真剣に悩んでいた。
不意に、それまで心配そうに信一を見つめていた加菜が、何かに気付く。次の瞬間、その顔は能面のような無表情を浮かべていた。どうやら、信一が頭を悩ませているものの正体にようやく気付いたらしい。
――信じていたのに。
加菜の頭の中は、裏切られた気持ちでいっぱいになった。
信じていた。そう、信じていたのだ。二時間もの長時間、パソコンと格闘する兄の姿は、きっと“ノーデンス”のお仕事をしているに違いないと。だから、どんなに頭を抱えていても、どんなに苦しそうな表情をしていても、決して邪魔をしてはいけないと。
加菜は、無言で信一の背後に回り込んだ。それこそ、足音ひとつ、呼吸ひとつ立てずに。
優れた剣士である兄に気配を悟られることなく背後に回った彼女は、それこそ疾風の速さでパソコン本体へと腕を伸ばし、迷うことなく電源ボタンを押した。
「へ……?」
突如として背後より伸びてきた加菜の腕に、信一は背後へと振り向いた。
一拍置いて、ふと耳元で、プツン、と嫌な音が鳴った。
おそるおそる振り向くと、そこにはブラックアウトしたパソコンのディスプレイが鎮座していた。
「…………」
信一は無言で沈黙するディスプレイを見つめた。その表情はどこか虚ろで、一見すると何も考えていないようにもとれる。実際、彼は何も考えていなかった。考えることすら忘れていた。それほどまでに、つい今しがた信一の目の前で起きた出来事は、彼にとってショッキングな出来事だったのだ。頭の中が真っ白になってしまい、何も考えられない。
ただ一言。これはおそらく、彼の本能がはたらきかけたのだろう、乾ききった唇から、掠れるような声が漏れた。
「……あ、セーブするの忘れた」
いまの彼には、その事だけを認識するのが、限界だった。
古代種×とらいあんぐるハート・クロスオーバーストーリー
『迷子の迷子の子狐さん』
第3話「子連れ燕の電車旅」
「……どう見てもお互い合意のうえでのプレイ、じゃないよなぁ」
幸いにして電車の震動が掻き消してくれたのか、低く唇から漏れ出た和人の呟きは、久遠の耳には届かなかった。
窓の外の移り変わる景色を一心不乱に見つめる子狐さんは、相変わらず青年の隣ではしゃいでいる。
道路地図を読み進めていたはずの和人の視線は、本に掲載された写真や図面を捉えてはいなかった。彼の視線は、電車に乗ること自体珍しいのか、隣で無邪気にはしゃぐ久遠でもなく、左斜め前方の席へと注がれていた。心なしか、その表情は複雑そうだ。
休日返上で会社へと向かうサラリーマン達の通勤時間からはずれたこの時間帯、車内は比較的空いており、彼の視界を阻むような障害物はほとんどない。
注意深い視線の先では、三十代半ばほどの男と、やはり休日返上で部活に行くのか、ブレザー姿の少女が並んで座席に座っていた。一見するとなんの変哲もない光景だが、和人の優れた動体視力は、男と彼女の秘め事を見逃さなかった。
「……うぅっ……」
通路側の席に座っている男の手が、少女の腰や胸元に伸びている。一瞬、ビデオの撮影かとも思うが、それらしいカメラはなく、スタッフもいない。
あるいは、ハンディカメラによる自主撮影なのかもしれない。カメラは和人の座席位置からは見えない少女側の方に設置してあり、二人の情事を密かに撮影しているのかもしれない。
しかし、和人にはそうは思えなかった。チラリと覗く少女の顔は明らかな怯えの色を含んでおり、少なくともそれは作られた演技には見えなかった。またそれは、互いに合意のうえでの行為にも見えなかった。
――どう好意的に解釈しても、痴漢だよなぁ。ったく、こんな昼間っから、しかもこんな空いている車両で。
少女の表情には、怯えと同時に明らかな嫌悪の色が覗える。これが合意のうえでのAV撮影や痴漢プレイであれば、もっと別の色が表情には滲むはずだ。
「うぅ……いやぁ……」
安全牌と踏んだのか、大胆にも男が少女の胸を鷲掴む。分厚い制服越しにもはっきりと分かるたわわな双丘が揺れ動き、少女が小さく首を振る。
その気になれば、少女は周囲に助けを求めることも可能だった。比較的空いているといっても、乗客が皆無というわけではない。事実、和人達のいる車両にはいまも二〇人ほどの乗客が乗っている。
しかし内気な性格なのか、少女は彼らに助けを求めようとはしなかった。ただ男のされるがままに身を揺らし、顔を歪めるのみ。
いちばん近くの座席に腰掛ける中年男性は、二人の様子が異常であることに気付いているらしかった。しかし判断に迷っているのか、横目で何度もチラチラと様子を覗ってはいるが、特に注意するつもりはないようだ。
和人はひとつ溜め息をついた。どうやら自分が行くしかないらしい。
極力人前で目立つような行為は避けたかったが、仕方がない。少女が誰にも助けを求めないのをよいことに、男の行為はますます大胆なものへとなっていく。その手が、とうとうスカートの中へと進入していく。
「久遠ちゃん……」
「?」
突然名前を呼ばれ、振り返る久遠。
「ちょっと席を離れるけど……すぐ戻ってくるからさ。おとなしくしていてくれる?」
「うん。わかった」
久遠が頷いたのを確認してから、和人は席を立った。男が自分の存在に気付くよう大振りな動作で動き出し、力強く一歩前へと進む。
ちょうどのその時、和人の視界中で、人影が動く姿が映じた。
「ん?」
それは和人達が乗っているひとつ前の車両でのことだった。
長身の女性が席を立ち、と踵を返すや、つかつかと和人達の車両に乗り移ってくる。
長い黒髪。意思の強さを感じさせる凛とした眼差し。背丈は、すらり、と高く、下手なアイドルなど足下にも及ばぬ美貌が、次第に、はっきり、としてくる。顔立ちから察するに、年齢は自分よりも四、五歳年上か。
女性は肩を怒らせながら二人の方へと歩み寄った。表情には、明らかな憤怒の感情が見て取れる。
少女の反応に気をよくしている痴漢は、その接近にまったく気付いていない。
女性は機敏な動きで二人に近付くと、素早く少女のスカートの中へと伸びた男の腕を掴み、捻り上げた。
「いてててっ――――!!」
「こら! なにしてるのよッこの痴漢ッ!!」
本気で痛がる男の耳元に向かって、女性が怒鳴り上げる。周りの乗客が“ビクリッ”と反応し、一斉に視線をこちらに向けた。一方の少女は、突然のことに驚いている。
「あなた、大丈夫?」
「え!? ……あ、ああ、はい。だ、大丈夫です……」
女性の問いかけに、慌てて頷く少女。さっと着衣の乱れを直し、怯えたように痴漢を見る。
一方の痴漢男は、行為を中断させられたことが腹立たしいのか、それとも女性に手首を捻られているせいなのか、ややヒステリックになっていた。
「な、なんだ君はッ! わ、私が痴漢だという証拠があるのかッ! あまりふざけた事を口にするなら警察を呼ぶぞ! いいのか!?」
警察を呼ばれて困るのはそっちだろうに……心の中でため息をつきながら、和人は歩みを再開する。
「なに? 警察を呼ばれて困るのはそっちじゃないの?」
「わ、私はただ彼女の気分が悪そうだったから心配しただけで……け、決して痴漢行為などはたらいては……」
「ふぅん。あなたは気分が悪い女の子を見たらその子の胸を掴んで、スカートの中に手を伸ばすのかしら。それがあなた流の介抱ってわけ?」
「そ、それは……」
痴漢は二の句がなくなったのか、女性ではなく少女のほうへと視線を泳がせた。
「……ひッ!」
痴漢に睨まれ、怯える少女。苦虫を噛み殺したような表情の痴漢は、とうとうヒステリーに限界がきたのか、
「う、うるさい! うるさい! こ、こうなったら弁護士に電話して……」
と、喚きながら、残ったほうの手を胸ポケットに伸ばし、携帯電話を取り出そうとした。
しかし、男のその行動は未遂に終わった。反対側から伸びた和人の手に、痴漢の動きはあっさりと阻まれた。
「電車内での携帯電話の使用はマナー違反だな。それから、電源も切っておくように」
和人は黒髪の女性に視線を投げかけた。短いアイ・コンタクト。ひとつ頷くと、自らもまた女性と同じように男の腕を捻り上げた。
「ぅつああああ―――ッ!!」
あまりの激痛に男の顔が歪み、捻り上げられた手から携帯電話が落ちる。その痛がりようは、女の細腕が捻り上げたときとは比べものにならない。
「おっと失礼。少し、力が入りすぎたようだ」
Aクラス“古代種”の和人の握力は、ただでさえ常人のそれを凌駕している。そのうえ訓練によって鍛えられた彼の腕力は、一センチまでなら鋼の鉄棒を捻じ切ることが出来た。痴漢男は相手の手を振り解くこともできず、痛みに顔を歪めた。
「さてどうする? このまま俺達の手を振り解いて例の弁護士とやらに相談するか? それとも、駅員さんに来てもらう? 俺としては、次の駅で自主的に降りることをお勧めするが」
「お、降りる…! 次の駅で降りるし、警察にも行く! だ、だから…手を離してくれ!!」
和人は、にっこり、と笑いかけると、ぱっと手を離した。同時に、女性もまた男の腕を離す。
ようやく解放された両腕をさする男の両肩を、女性は掴んだ。彼女は凛とした表情で真っ直ぐ相手を見据えると、
「いい、金輪際あの娘に……いいえ、女性に対してあんな真似をしてみなさい。そのときは――」
「――次は容赦しない。お前のその手を二度と使い物にならなくして、二度と痴漢なんて出来ないようにしてやる」
「は……はひ……」
と、相手が首をぶんぶん縦に振るのを確認するまで、男の肩を揺さぶった。
今度こそ二人の責めから解放された男は、慌てて携帯電話を拾いあげる。それからつい先刻まで柔肌の感触を愉しんでいた少女を恨めしげな視線で見た。その瞬間、またも和人と女性から睨まれ、彼は怯えたような表情を浮かべた。間もなく次の下車駅に到着することを告げるアナウンスに、パッと顔を輝かせる。
電車がゆるやかに速度を落とし、駅に停まった。男は逃げるように二人の間をすり抜けると、最後にもう一度彼らを見てから、出入り口からホームへと跳び降りた。
「……ちょっと、やりすぎたかしら?」
電車が再び発進し、茫然と成り行きを見守っていた少女が振動で“ビクリッ”と身を震わせた。
ようやく女性はその美貌に笑みを浮かべた。その親しみやすい微笑みに釣られて、和人も苦笑を浮かべる。
「いえ。あの手の輩にはあれぐらいがちょうど良い薬でしょう。あまり厳しすぎては怨恨を残しかねないし、かといって優しくしすぎても、また同じ事を繰り返すだけですから」
「そうね。性的欲求を満たすためだけの犯罪っていうのは、普通の犯罪よりもある意味性質が悪いわ」
「俺も男ですから、性欲そのものは否定しませんが……同感です」
生きるために仕方なく盗みを犯す。相手のことが憎いから殺す。ただ性犯罪は、こうした明確な動機がないことが多い。それでいて性欲は人間の生存本能に直結した欲求だから、同じ人間が何度も犯行を繰り返すケースが多い。ために、その防止は困難を極める。そして、被害者へのアフターケアも。
――極端な話、性欲を満たすためだったら誰でもよかったってことだしな。彼女は、大丈夫か?
和人は視線をずらして少女を見た。かける言葉が見つからなかった。和人が視線を送った瞬間、少女はまたも肩を震わせた。ちょっと前まで痴漢をされていたという事実は、彼女の心に男性に対して根強い恐怖心を植え付けてしまった様子だった。
――まいったな……。
こうした場合に、かけてやるべき慰めの言葉が見つからない。いまは側にいない親友だったら、もっと器用に接していくのだろうが。自分の語彙の少なさに、和人は内心悪態をついた。
彼が怯える少女に対してどう対処するべきか考えあぐねていると、隣にいた女性が、ふっ、と柔らかな笑みを浮かべた。正面から、そっ、と少女の肩を抱く。
「あ……」
「大丈夫…もう大丈夫よ。あなたに酷いことをした男はもういないから。……だから、そんなに怯えないで」
肩を抱き、背中をさすりながら、まるで幼子をあやすように、女性は優しく言葉を囁いた。
その様子は子を慰める母親のようであり、女性の手が少女の背中をひと撫でする度、彼女の表情からは少しずつ怯えが消えていった。
――まるで魔法だな。
素直に、そう思った。
優しい調子で紡がれる言の葉を耳にしていると、なぜだか傍観者に過ぎない自分さえも、心穏やかになっていくのを実感する。
女性と目が合った。
微笑まれて、和人も微笑み返した。
「もう、大丈夫だから……」
もう一度、その言葉が弾けた途端、少女は安心したのか、ぼろぼろ、と泣き出した。
◇
痴漢男の下車した駅から四つ先の駅で、被害者の少女は下車した。
何度も頭を下げて礼を述べる彼女を手を振って見送った後、和人は隣に立つ女性を見た。
灰色の視線に知らず畏敬の念が宿る。痴漢に接近し、腕を取り、捻り上げるまでの一連の動作には無駄がなく、どこまでも洗練されていた。和人は、目の前の女性には柔道や合気道の流れを汲む護身術の心得があるのではないか、と感じた。
和人は黒髪の女性に小さな拍手を送った。
「見事なお手並みでした」
「殿方の前で、恥ずかしい真似をしてしまいましたね」
黒髪の女性はそう言って、照れくさそうに肩をすくめた。
何気ない仕草だったが、目の前の彼女がすると何とも言えない色っぽさを感じてしまう。
女性は上品に微笑んで、和人に言った。
「それに、見事と言えばあなたの方こそ」
「いえそんな……。ショーン・コネリーのファンでして。彼のアクションに憧れて、ちょっと勉強したくらいです」
「手を出してから、しまった、と思いました。私が手を出すまでもなく、いずれはあなたが止めに入ったでしょうから」
「いえ。恥ずかしながら、正直、止めてよいものかどうか迷っていました。……最近は、ああいう形で愛を育むカップルも少なくありませんし」
和人はかぶりを振り、さらに肩をすくめた。
「ですから、先にあなたが止めに入ってくれて助かりました。情けないことに、あれで踏ん切りがついた部分がありますから」
「正直な人ですね。普通、そこは見栄を張るものだと思いますけど……」
「自分が弱虫で情けない人間だってことは、自分がよく分かっていますから」
嘘偽りない、叶和人の心からの言葉だった。
自分はいつだって弱虫で、情けない人間だ。世界を変えられるだけの力を有していながら、決して自分からは動こうとしない。いつも誰かが先に動くのを待って、それに追随している。“組織”に所属していた時も、“組織”に所属する以前も、“組織”から除隊したいまも。
和人は自嘲気味に微笑んだ。そして、日本式に腰を折った。
「というわけで、ありがとうございました。俺はもう、席に戻ります」
「そうですか。……ちなみに、あなたの行き先はどちらですか?」
「海鳴です。家で知り合いの子を預かっていまして。その子を返しに」
「そうだったんですか。それは奇遇ですね」
「ということは、そちらも?」
「はい。海鳴です。私は、実家に帰るところですけど」
「もし、向こうでお会いしたら、よろしくお願いします」
「ええ」
にこやかに微笑んだ和人に釣られて、女性も笑みを浮かべる。
二人は軽く握手を交わし、別れた。
◇
「大活躍じゃったね、千堂」
長身の女性……千堂瞳が、元居た車両の座席に戻ると、そこでは親友が意地の悪い笑みを浮かべながら待ち構えていた。
腰まで届く黒髪に柔和な顔立ち。涼しげに整った眉と双眸は切れ目で、鋭い刃を思わせる凛とした気迫を漲らせている。背は決して高い方ではなく、また肩幅も狭く小柄な体格をしていたが、姿勢が良いためか、目には実際よりも大きく映じた。
「男の人を相手にしてもまったく怯みのない威勢の良い啖呵に、素早い身のこなし。まるで風校時代の千堂を見ているようじゃったよ」
「もう、あまりからかわないでよ、薫」
瞳は頬を紅潮させながら強い口調で言った。
それを受けて、神咲薫は「すまん、すまん」と、九州訛りを感じさせる発音で謝った。
千堂瞳と神咲薫の付き合いは、二人が高校生だった頃にまで遡る。鹿児島出身の薫は、高校進学に際して鹿児島の学校を受験せず、関東海鳴市の風芽丘学園を受験した。見事合格を果たした彼女は海鳴へ引越し、そこで瞳と出会った。
高校進学当初の瞳は気性激しく、連日のようにストリートファイトや道場破りを繰り返す乱暴者だった。瞳は護身道という、打撃有り、投げ技有り、間接技有りという武術の有段者で、当時の彼女は他の同年代の門下生よりも上達が早いことを鼻にかけているきらいがあった。そうした険は、やがて多くの人たちとの出会いの中で徐々に取れていったが、薫はそうした自分の黒歴史を知る友人の一人だった。
薫の言う風校時代の千堂とは、そのことを揶揄している。
からかわれた瞳はしばらくむくれていたが、やがて表情を引き締めると言った。
「……それで、久遠ちゃんが行方不明、って本当なの?」
「ああ」
瞳が表情とともに話題を変えたのを境に、薫も真剣な眼差しで親友を見た。
「どうも、那美の話ではそうらしい。一昨日くらいから、久遠の姿が見えんそうじゃ」
話題の中心にある那美とは薫の義理の妹で、久遠とは、那美の親友の子狐のことだった。
「最初は那美も、久遠が高町さんの家のあの子……なのはちゃんのところに泊まりにいった、と考えたらしいんじゃが、なのはちゃんに確認してみたところ、久遠は高町さんの家には行っていない、ということが分かった。それが、一昨日の夜のことじゃ。その後、リスティや愛さんのツテで、迷い狐の情報がないか海鳴市中を探っせーもらったんじゃけど……」
「いまだ見つかっていない、というわけね?」
「ああ」
薫は表情を曇らせ頷いた。
「これで久遠が普通の狐じゃったら、ここまで大騒ぎしなかったじゃろうけど、生憎、久遠は普通じゃないからね……」
「祟り狐、だったけ?」
「そうじゃ。……たぶん、現在関東圏で存在が確認されている妖の中でも、十本の指に入る強力な妖狐じゃよ」
神咲薫は、普段は鹿児島に四百年の歴史を持つ神咲一刀流道場の師範代として、若い門下生達に竹刀を振るう立場にあった。だがその一方で、彼女には人には口外出来ないもう一つの顔があった。
神咲一灯流退魔師、神咲薫。
闇より生まれ、闇に生き、光の世界を憎む魔の眷属達を、古の時代より討ち滅ぼしてきた退魔師の家系。それが、薫の生まれた神咲という家の持つもう一つの顔だった。神咲に生まれた薫もまた退魔師としての修行を続け、現在では国内有数の霊能力者の一人に数えられている。
そんな薫の懸念は、まさに久遠の持つ強い……いや、強すぎる力にあった。
久遠は強い力を持った妖狐だ。かつてはその力が暴走したために、国中の神社仏閣が破壊され、京の陰陽師たちが総出で迎え撃たねばならぬほどの事態を招いた。いまでは久遠もその力を完璧にコントロール出来るようになっていたが、暴走の危険性がまったくなくなった、というわけではない。久遠は繊細な心の持ち主だ。何かのきっかけで、力が暴発してしまう可能性は十分にあった。
「うちが海鳴に行くのは、久遠が心配なのは勿論じゃが、万が一に備えてのことじゃ。……状況はいくつも考えられるけど、もし久遠の力が暴走した場合に備えてのね」
そう言った薫の大振りの瞳には、強い決意の海が、静かにさざなみを刻んでいた。
◇
「むぅ……」
秘密結社“ノーデンス”の鷹……吉田信一は、パソコンのディスプレイを前にして大きく唸り声を上げた。
組織でも自分の上官に当たる人物から一通の電子メールが届いたのはいまから十分前のこと。
メールの文面は特殊な暗号文によって記されており、信一は受信と同時にパソコンにインストールしてある暗号解析ソフトを使った。
その結果明らかになったメールの内容は、信一の表情を硬化させた。
受信したメールには、簡潔に以下のようなことが書かれていた。
〈叶和人が四十万市を出た。これと前後して、関西国際空港に不審なロシア人が四名到着した。組織が独自に調査したところ、この四名は元スペツナズ出身のGRU局員であることが判明した。おそらく、叶和人を狙っての入国と思われる。叶和人の目的地は不明。追って指示を下すので、鷹はいつでも出撃出来るよう待機せよ〉
スペツナズとは、ロシア語で特殊部隊を意味する言葉で、現在ロシアには八個のスペツナズ旅団が存在する。スペツナズ旅団はロシア陸軍最強の歩兵戦闘集団であり、隊員の練度、装備の充実ぶりにおいて他の陸軍歩兵部隊の追随を許さない。これらスペツナズ旅団の作戦統制権は、一九九六年に内務省管轄の下創設された第八スペツナズ旅団を除いて、すべてGRUにある。GRUはソ連時代から続く参謀本部情報局で、メサイア・プロジェクトの実行組織だ。
――元とはいえ、スペツナズ旅団を投入するか。……ロシア熊の連中、とうとう本気で、和人を狙いにきたということか。
規定に従ってメール・データを完全削除した後、信一はパソコンの乗った机の引き出しから黒いボックスケースを取り出した。
強化プラスチック製で長方形型。大きさは横に十インチ、縦に八インチで、ケースには鍵が掛かっていた。
信一は胸ポケットから鍵束を取り出すと、ひときわ小さな鍵を選んで、ケースの鍵穴に差し込んだ。九十度回転。ロックを解除し、ケースを開ける。
ケースの中には、油紙に包まれて一挺の自動拳銃が収納されていた。
パラ・オードナンスP14-45。カナダの銃器メーカー、パラ・オードナンス社が、米軍制式サイドアームとして名高いコルト・ガバメントをコピーした製品だ。単なるコピー品ではなく、グリップを改造して、装弾数に優れる複列式箱型弾倉を装填出来るようにしている。ストッピング・パワーに優れた四五口径の銃弾を一四発も装填出来る。
信一はP14-45を手に取ると、マガジンの中身が空なのを確認してからドライ・ファイアを繰り返した。最後にこの銃を使ったのは四ヶ月前になる。その間、整備は欠かさず行ってきたが、ちゃんと作動するかどうかを確かめる。大丈夫。弾薬に不備がない限り、機械的な故障の心配はなさそうだ。
「……お仕事?」
背後から、加菜の声。
信一は後ろを振り返ることなく頷いた。
「ああ。……どうやら、和人がピンチっぽい。もしかしたら何日か、家を開けるかもしれない」
「わかった。……和人をお願い」
素っ気無い信一の態度にも不満一つこぼさず、加菜は兄の背中に言った。
信一は妹の言葉に、
「まかせろ」
と、力強く応じた。
To be continued 第4話『子連れ燕は海鳥となる』
作者の一言
ようやく更新再開。約三年ぶりに和人と出会ったよ、うん。
おしい所で擦れ違いが。
美姫 「すぐ近くに久遠の知り合い所か家族と呼べる人がいたのにね」
まあ、そう簡単にはいかないという事だよ。
美姫 「皆が心配しているみたいだし、久遠が無事に帰れる事を願いましょう」
次回をお待ちしてます。