久遠はかつて“祟り狐”と呼ばれ、国中の退魔師や陰陽師から恐れられた妖狐である。
古来より、わが国では狐という動物には神聖な力、あるいは霊的な力が宿るされ、お稲荷さんとして親しまれてきた。その一方で、狐は雷の化身ともされ、“九尾の狐”や、“妖狐玉藻”に代表されるような畏れの象徴ともされてきた。
どうやら古代の日本人は、狐に霊的な力が宿ると、他の動物よりも群を抜いて強力な妖になる、と考えていたらしい。
久遠の場合も例外ではなく、“祟り狐”となった彼女の力は、数百年前、強力な京の陰陽師達が一〇〇人の手勢をもってして、ようやく“封印”出来たというものだった。“退治”ではなく、“封印”でなければならなかったことからも、その力が如何に強大であったのか窺える。
今年の春から夏にかけて、様々な紆余曲折の末その力を制御するにいたった久遠は、生来の温厚な性格を取り戻した。
自身の力との折り合いもつけ、今は大切な親友達と一緒に、海鳴の街で平和に過ごしている…………その、はずだったのだが……。
「……ここ、どこ?」
気がつくと、彼女は見知らぬ街にいた。
見知らぬ街で、彼女は道に迷ってしまった。
こんなときに頼りになる親友は、姿を探せど何処にもおらず、彼女は困ってしまった。まさか人間の姿になって人に道を聞くわけにもいかない。
途方に暮れながらも、彼女はとにかく歩かなくてはと、思った。
そうだ、歩かなきゃ何も始まらない。しかし、彼女の場合はそれが仇となった。
久遠はますます迷子になってしまった。
しかも、悪い状況に追い討ちをかけるように、雨まで降り出してしまった。
当然、傘など持っておらず、見知らぬ土地だ。雨宿りの場所など、思うようにはなかなか見つからない。
久遠はびしょ濡れになってしまった。
不運にも季節は秋も去ろうとする十一月の寒い時期。
体温はどんどん低下していき、久遠はどんどん弱っていった。そして、とうとう彼女は歩く足を止めてしまった。
まがりなりにも久遠はかつて“祟り狐”と呼ばれた大妖である。普通なら雨に濡れた程度でそんなにも弱るわけがないのだが、見知らぬ街で独りという孤独な状況のためだろうか。彼女のメンタル面でのダメージは肉体にも大きな影響を与えていた。
とにかく家に帰りたかった。
帰って、暖かい部屋で、耕介の美味しいご飯を食べたかった。
しかし、現実は残酷だった。久遠を取り囲む空気は冷たく、彼女の目の前にあるのは大きな水溜りのみ。
悲しかった。
“やーた”を失った時と同じくらいの悲しみが、久遠を支配した。
周りに誰も居ない、世界中に、ただ自分独りが取り残されてしまったような孤独感。
ついには雨も本降りへと豹変しようとしていたとき、彼女はとうとう泣き出した。
それも大声で泣いていれば誰か通る人がその存在に気付いてくれたかもしれない。しかし、彼女の泣き方は声を押し殺したものだった。普通の人間には、その泣き声の意図する事を感じることも、泣き声を聞き取ることすら出来なかった。
◇
そう、普通の人間には。
「……どうした?」
やって来た青年は、久遠のことを心配そうに見つめていた。
「捨て犬……じゃない。捨て狐……か? それとも、ただの野良狐なのか?」
青年は久遠のことを見つめながら、困ったように唸っていた。
「えっと、こういう場合は、どれすればいいんだ? 獣医の所に連れていく……って、そんな金ないし、保健所は……可哀想だし……」
悩んだ末に青年は、持っていた買い物袋から油揚げの入ったパックを取り出し、その場で破って、パックを皿に中身を置くと、それを久遠に差し出した。
「ゴメンな。こんなものしかなくて。それにウチ、アパートだから動物は連れて行けないんだ」
本当に申し訳なさそうに謝りながら、青年はそれまで自分を雨露から守っていた傘を、そっと久遠の屋根になるように地面に置いた。
たちまち、青年の顔が、服が、びしょ濡れになっていく。
「それじゃ、な…」
青年はそう言い残すと、その場から走り去っていった。
残された久遠は、油揚げを頬張りながら、いつまでも青年の後姿を見送った。青年姿が完全に見えなくなっても、なお、しばらくの間。
◇
不思議な人間だった。
自分は声を押し殺して泣いていたはずなのに、どうして彼には自分の声が聞こえたのか。
灰色の雨に濡れて、薄汚れているはずの自分に、どうして彼はあんなに優しい眼差しを向けてくれたのか。
全部の油揚げを食べ終えた久遠は、青年が残していった傘の取っ手の部分の臭いを嗅いだ。プラスチックの嫌な臭いに混じって、青年の汗の匂いがした。
ほのかに鉄と、火薬の混じった……けれども、不思議と安心の出来る匂い。恭也や薫と、同じ種類の、匂い。
彼ならば自分を家へ連れて帰ってくれるに違いない。
根拠のない確信が、久遠の心の中で大きくなっていった。
彼ならば自分の“秘密”を知っても受け入れてくれるに違いない。
根拠のない確信が、久遠の小さな体を、動かしていた。
気が付けば久遠は、特に青年の匂いを強く感じる建物へと足を運んでいた。
古代種×とらいあんぐるハート・クロスオーバーストーリー
『迷子の迷子の子狐さん』
第2話「子狐さんと燕のお巡りさん」
蛇は、一匹の蛙に睨まれていた。
「あ、あの……舞、ちゃん?」
時に敵から身を守り、時に獲物を狩るための牙を持った蛇は、身を守るための盾もなく、敵をくびり殺すための剣も持たぬ蛙のひと睨みで、慄然としていた。
「た、たしかに今朝、起こしにいかなかったのは謝るよ。けど、なんで俺、椅子の上で正座させられてるのかな?」
蛇は蛙のご機嫌をとるため、愛想笑いを浮かべながら言った。ビクビク、と身を震わせ、萎縮するその様子は、哀愁漂うものがある。
蛇の問いに、蛙は、ギロリ、と鋭い視線を蛇に向けた。継いでその隣の椅子へと視線を向ける。
牙持たぬ蛙……片倉舞は、視線を、牙を持つ蛇……叶和人へと戻すと、にこり、と朗らかな笑みを浮かべた。「お兄ちゃん……」と、静かに切り出す。
「な、なに……?」
「そりゃさ、お兄ちゃんだって男の人なんだからHな本とかビデオとか、仮に部屋にあったとしてもしょうがないと思うし、お兄ちゃんが夜な夜な布団の中で何をしていようが、舞は何も言わないよ。……お兄ちゃんがどんな性癖を持っていたとしても、舞は気にしない。……そりゃ、ちょっとは気にするけど」
「いや性癖って……」
舞の言葉に呆れた声を出す和人だったが、しかし再び向けられた舞の鋭い眼光に黙らされる。
「いいんだよ、お兄ちゃん。例えお兄ちゃんがロリコンで小さな女の子が大好きで毎月『幼女萌え〜』な雑誌を定期購読していたりあまつさえ夜な夜な歓楽街を徘徊してはアダルト・ショップで旧型のスクール水着とか今やほとんど絶滅危惧種のブルマとかを仕入れてそれを深夜の布団の中で繰り広げられる壮大な妄想の中に取り入れているとしても、舞は全然気にしないから……。けど、さ…………」
「いや、むしろそこは気にしてほしいです。はい」
そこまで一息で言葉を紡いでいた舞は、一旦そこで話を区切ると、“ビシッ!”という擬音が似合いそうなほどにキレのある動きで、人差し指を和人の左隣の椅子へと向けた。
「……んう?」
それまで和人の隣でお茶を啜っていた久遠(子供Ver)が、舞の意識が自分に向けられたことに気付いて顔を上げた。その装いはいつも通りの巫女服である。
「けど、さ……やっぱり誘拐は犯罪だよ!!!」
「誰が誘拐犯だ!?」
“ダンッ!”と、テーブルを両の拳で叩いて舞の意見を否定する和人。しかし、舞は首を振って言った。
「嘘つき! 今のご時世どこに自ら進んで巫女服を着てあまつさえ獣耳と尻尾まで付けるような見た目小○生の女の子がいますか!! この娘はお兄ちゃんが連れてきたんでしょ!? それで無理矢理巫女服を着せて耳と尻尾を付けたんでしょ!?」
物凄い剣幕で一気にまくし立てる舞。
ベレッタを持たせれば、よく訓練された数人を相手にしても負けない和人も、このマシンガンの如き言葉の猛襲には付け入る隙を見つけられない。
一方、舞の激しい剣幕にも動ずることなく茶を飲み終えた久遠は、そのまま椅子から降りて台所へと湯呑みを持っていく。
「お兄ちゃん、どうして妄想だけで我慢できなかったの? 言ってくれれば舞だって協力したよ? お兄ちゃんが小○生にしか反応しないっていうんだったら、ランドセルだって背負ったよ?」
「こら、なに勝手に俺をロリコンにしてるんだ!?」
「あ、でも見た目のインパクトからいったら体操服を上回る物はないよね。胸のところに大きく平仮名で『まい』なんて書いたら、お兄ちゃん間違いなく飛びついてくるよ。よし! 今度体操服着て寝よ」
「人の話を聞け〜〜〜〜〜!!!」
叫ぶ和人にクネクネと不気味に身を踊らせる舞。どうやら彼女は、多分に妄想系だったらしい。
珍しく戦うこと以外で大声を張り上げた和人は、息遣いも荒く頭を抱えた。
いったいどうすれば目の前の妄想娘を退けられるのだろうか。一瞬、このまま放って自分達はさっさと海鳴市に向かおうか、という考えが浮かぶが、頭を振ってその考えを否定する。もし、誤解を解くことなくこのまま舞を放っておいたままにすれば、自分は間違いなく“幼女誘拐犯”のレッテルを貼られることになるだろう。問答無用で。間違いなく。
そうなれば自分は社会的に終わりだ。テームズ川に身投げする他なくなる。GRUも読者もビックリの結末だ。
百戦錬磨のAクラス古代種・叶和人、もしかするとここにきて人生最大のピンチかもしれなかった。
「はぁ……」
深く溜め息をついた和人は、とりあえず茶を飲んで気分を落ち着けようとして、自分の湯呑みが空になっていることに気付いた。
と、その直後、和人の頬を温かい空気が撫でた。
視線をやると、久遠が自分の使っていた湯呑みに、新しいお茶を注いで、自分に差し出している。
和人は優しい目つきで「ありがとう…」と、礼を言って、熱い湯呑みを受け取り、久遠の頭を撫でた。
「……♪」
嬉しそうに笑みを浮かべる久遠。和人の手の動きに連動して大きな耳がピクピクと動き、バサバサと尻尾が揺れ動く。
「……ん?」
ふと、場が静まり返っていることに気が付いた。
振り向くと、舞は唖然としてこちらを見ている。先ほどまで間断なく言葉を繋いでいた唇はわなわなと震え、まだ幼さの残る表情にはなにやら絶望の色が覗えた。
やがて彼女は、震える唇を動かして、やっとの思いで声を出した。
「お……」
「お?」
「お兄ちゃんのバカ〜〜〜〜〜!!!」
突如として悲鳴を上げる舞。
その声に驚いた和人は一瞬の虚を衝かれ、テーブル一脚を挟んだ状態から猛烈なストレートを顔面に喰らった。クラッシュの瞬間に拳を握った、どこまでも基本に忠実な、お手本のようなパンチだった。
「うわ〜〜〜〜〜ん!!」
ドップラー効果とともに泣きながら部屋を出て行く舞。
彼女が踵を返し、脱兎の如く駆け出したのは、突然顔面を殴打されてバランスを崩した和人が椅子ごと倒れたのとほぼ同じタイミングだった。
ガタン! と、椅子の倒れる音が鳴り、継いで、バタン! と、ドアの閉まる音がする。
後に残されたのは、
「うぅ……なんで俺がこんな目に…………」
「和人、大丈夫?」
自らを兄と慕う少女の一撃を受けて床に沈む和人と、それを心配する久遠だけだった。
◇
ジョニーは挟まっていた。
挟まってからもうかれこれ三時間。そろそろ我慢の限界だった。
親友のフラウニーが医者を呼んでくれたが、状態は一向に快復へと向かない。
弟のジョナサンが、心配そうに自分を見つめている。まだ幼いジョナサンの手をしっかりと握り、ジョニーは額に大粒の脂汗を流しながら「大丈夫だよ…」と、優しく言ってやった。
その、直後だった。
「!?」
麻酔の影響でそれまで収まっていた痛みが、突然ぶり返してきた。
医者が看護婦に向かって、必死に檄を飛ばす。ジョニーもまた、必死にジョナサンの手を……そして、相棒のフラウニーの手を握り締めた。
脳裏に、これまでの出来事が走馬灯のようによぎる。5歳の誕生日のときに池に落ちた事。愛犬のジョンが始めて投げたボールを咥えてきてくれた日の事。父さんが死んだ日。フラウニーと喧嘩して、お互いに血だらけになった事。母の再婚。ジョナサンが生まれた瞬間……それまでの楽しかった思い出や、苦しかった思い出などが、一度にして彼の頭の中に去来する。
すべての打つ手を使い果たしたのか、医者が絶望した表情で静かに、「これだけは使いたくはなかったが……」と、看護婦に指示を飛ばす。
「ドリルを!」
ドリル。その単語を聞いて、フラウニーが医者に食ってかかる。
「ドリルだって! あんたジョニーを殺す気か!?」
「しかし…それ以外にジョニー君を助ける方法はない!」
「けど……!」
二人の会話が、やけに遠くの方で聞こえた。ジョニーはフラウニーの手をぎゅっと握り締めた。
「ジョニー……?」
「大丈夫、だから……」
医者の沈痛そうな面持ちから、彼がこれまで数時間、自分のために必死に頑張ってきてくれたことは明白だ。そして今、彼は辛い決断を自分に強いている。自分を助けるために……自分を傷つけなければならない決断に、自らも苦しんでいる。
「俺は…大丈夫だから……」
なら、自分は彼の意思を汲み取ってやらねばならない。
ジョニーは、涙で瞳を潤ませながら、力なくフラウニーに言った。
滲んだ視界で、フラウニーが泣いている。見ると、ジョナサンも泣いている。二人が、自分のために泣いている。ジョニーはそれだけで幸せだった。
「先生……」
ジョニーは、自分を助けるために数時間付き合ってくれた医者に向かって、言った。
「お願いします」
「……分かった」
医者は、意を決したようにドリルの電源を起動させた。
そして高速で回転する鉄の矢を、ジョニーの元へとやり……
「抜けた〜〜〜〜〜〜!!!」
喝采が、周囲で湧いた。
感極まったのか、医者が大声で叫んでいる。
フラウニーは泣いていた。ジョナサンも泣いていた。当事者であるジョニーは、激痛に気を失っていた。
看護婦のゴム手袋には、ジョニーの歯の間に挟まっていた魚の骨が、しっかりと握られていた。
◇
「――っていう関係ない話はまぁ置いといて」
はるか遠方の地にて起きている冒険活劇(だったのか?!)の事など露知らず、和人は商店街のブティックの試着室の前に立っていた。愛用の黒いロングコートの下にグレイのセーター、藍色のジーンズという恰好で、その傍らには大きめのスポーツバッグが鎮座している。
ちなみにジョニーは魚の骨が歯の間に挟まって三時間以上苦痛の時を過ごしたが、和人はまだこのポジションについてから三分ほどしか経っていない。周囲からの視線は確かに痛いし、試着室の中の人物は着替えに相当苦労しているらしいが、ジョニーに比べれば苦痛の時間は、六〇分の一にすぎなかった。
旅支度を整えた和人は、近くのブティックに寄っていた。自分の服を買うためではない。久遠の服を買うためだ。
舞の例からも示すように、久遠の耳や尻尾、巫女服という恰好は周囲の人間に多大な誤解を与えかねないと考えた和人は、せめて巫女服をなんとかし、あわよくば尻尾と狐耳を隠すための服を買いに来ていたのだ。一人暮らしの学生にとって、それは大変痛い出費であったが、和人の部屋に久遠のサイズに適合する子供服があるわけがなく、かといって、“幼女誘拐犯”のレッテルを貼られるわけにもいかない。ならば狐状態で海鳴まで連れて行けばよいだろうと人は言うかもしれないが、電車に動物は乗せていけないし、スポーツバッグの中に入ってもらうのは窮屈だからと久遠に嫌がられた。
背に腹は変えられない。そう思うことで和人は、わずかに軽くなった財布を手にしても涙を流すことはなかった。ブティックによる前、彼は本屋で海鳴市を含むS県の道路地図を買っており、それには漱石さん二名が天に召されることとなってしまった(「古代種」本編の年代設定では千円札はまだ漱石先生)。
子供用の服となれば、おそらく漱石さん二名では済まないだろう。一体何人の諭吉さんの犠牲を必要とするのやら。
暗澹たる気持ちになる和人。しかしそんな気分を吹き飛ばしてくれるかのように、彼が溜め息をついた直後、カーテンから顔だけを出した久遠が、「和人……」と、彼の名を呼んだ。
「ん? 着替え、終わった?」
「うん」
その言葉を合図に、久遠は自分からカーテンを開いて、その姿を露わにした。
灰色のズボンに黒のロゴ入りのシャツ。その上に、やはりグレイのジャケットを羽織っている。さすがに尻尾は隠しきれなかったのかズボンの隙間から出てしまっていたが、これはあとでズボンに穴でも開けて、『飾り』と、誤魔化すしかなかろう。全体として若干シンプルな印象は逃れられないが、久遠の自然な金髪に、よく似合っている。
久遠は、まるでそこがファッション・ショーの会場であるようにくるりと一回転をして、和人に自らの姿を見せた。
「……どう?」
期待に満ちた視線。和人は、にっこりと笑うと、
「うん。よく似合ってる。可愛いよ」
と、服と一緒にコーディネートした赤い帽子を、彼女の頭に被せた。やや不恰好であるが、これでなんとか狐耳は隠し通せるだろう。
和人に褒められたのが嬉しいのだろうか、久遠ははにかみながら試着室の鏡の前で何度もターンを回った。何度目かによろめき、慌てて和人が支える。
和人は、そのまま会計に向かった。彼の財布の中から、何人の諭吉さんが天へと昇ったかはわからないが、店を出る時の彼の表情は、悲しみに満ちて……というより、泣いていた。
「和人、大丈夫?」
「……うん、大丈夫。……久遠ちゃん、後でトイレ行こっか? ズボンに尻尾用の穴、開けないと…」
「…………」
「……ん? どうしたの?」
「……和人、トイレで久遠を襲う気?」
「誰が襲うかッ!」
和人は、さらに瞳から大粒の涙を流しながら叫んだ。
どうやら舞に“幼女誘拐犯”呼ばわりされた事は、意外に深いトラウマとなっているようであった。
◇
駅に電車が来て、和人達は乗り込んだ。
両手に抱えきれないほどの駅弁を抱えた和人の表情は、先刻までとは打って変わって楽しげだった。
真っ先に窓際のポジションに着いた久遠は、早速まだ電車が動いてもいないのに、窓の外を眺め出した。苦笑しながら和人はその隣に着席し、スポーツバッグを頭上の籠に載せて、早速買ったばかりの道路地図に目線を落とした。
所々赤ペンで印を付けていると、ほどなくして電車はゆっくりと発進した。
窓の外の景色が動き始め、久遠が無邪気にはしゃぎ出す。微笑ましげに眺めながら、和人は自分もまた窓の外に視線をやった。
「そういえば……」
不意に、ある事実に思い至った。
そういえば、三年前に四十万市に来てからというもの、自分は一度たりとも市の外に出たことがなかった。正確には舞に連れられて何度か四十万の外には出ているが、自分の意思で外出したことはここ数年皆無だったのではないか。
そう思うと、目の前で窓の景色の変貌に一喜一憂する少女に対して、感謝の気持ちが湧いてくる。自分を連れ出す機会をくれて、ありがとう、と。
「ありがとう……」
和人は、久遠には聞こえないよう小声でそっと呟いた。
視線をガイドブックに戻し、再び赤ペンでチェックを入れる。
「和人……」
不意に、隣で名前を呼ばれた。
ガイドブックに掲載された“翠屋”なる喫茶店に印を打った和人は、声に反応して彼女の方を向く。久遠は、真っ直ぐな瞳で、彼を見つめていた。
「……ありがとう」
和人は一瞬きょとんとした。久遠の口にした言葉は、先刻自分が呟いた台詞と同じものだった。
久遠は微笑みながら、「久遠を連れて行ってくれてありがとう」と、さらに言葉を重ねた。
自然と、和人の表情に笑みが宿った。偽りの笑みではない。心からの微笑みだ。
「それを言うのはまだ早いよ。……けど」
「?」
「どういたしまして」
疑問の表情を浮かべていた久遠の顔が、ぱっと明るくなる。彼女は、「うん!」と元気良く頷くと、
「そのときはもう一回お礼、言うから」
と、言った。
和人はその時、改めてもう一度彼女を家に帰してやろう、と決意した。
To be continued 第3話『子連れ燕の電車旅』
作者の一言
こ、こんなの和人じゃないやい!
和人「書いているのはお前だ!」
2010年3月追加
更新再開に当たって作者の一言
そうか! ジョニー・サクラザカの原点はここにあったのか!?
柳也「な、何だってぇ!?」
和人「おい、何でお前がここにいるんだ?」
ようやく、海鳴へと向けての第一歩。
美姫 「しかし、和人も災難だったわね」
舞から、よりによってロリコンよばわりだもんな。
美姫 「……合掌」
さてさて、次回はどうなるのかな?
美姫 「次回も楽しみにしてますね」