――一言でその者の容姿を表すならば、彼はあまりにも美しかった。

ルネッサンス期の彫刻を思わせる顔立ちからは高い知性と気品が感じられ、完璧と形容しても差し支えのないプロポーションバランスの肉体は逞しく、純然たる力強さが感じられる。

その美しさは、人が持ち得られるものではなかった。彼は人間ではなかったのである。その証拠に、彼の肉体は眩いばかりに光輝いていたし、その背からは2対の光り輝く“猛禽”の翼が生えていた。

彼自身の輝きに反して、その身を覆う衣は鈍い輝きを秘めていた。彼は鎧を着ていた。究極にまで機能性を追及して創造された鎧には一切の装飾もなく、ただ静かに、闇色の輝きをたたえていた。

彼はその身を“守り”の鎧で覆うと同時に、“攻める”ための刃をも手にしていた。両刃の片手剣は、刀身に創世の炎の力を宿し、彼自身の輝きにも負けぬ神々しい光を放っていた。

彼は軍服たる鎧を纏い、武器である剣を持った戦士だった。

そして、戦士は戦場にいた。

眼下に広がるは多くの屍で編まれた“死の絨毯”。編み込まれた糸は人であり、獣であり、そのどちらともとれぬ異形であった。

眼下に広がるは荒涼たる広大な大地。圧倒的な“負の波動”に冒され、圧倒的な暴力によって傷つけられた大地は、すでに星の再生能力ですらどうしようもないほど荒れ果ててしまっていた。

眼下に広がるは……蠢く、異形の何者か。屍の山々を築き、大地を汚した“負の波動”を放出している、張本人達。

堕落と混沌の申し子。平穏を乱へと変え、希望を絶望へと変える者。純然たる悪にして、混在したる悪――――――その数、数百。

彼は、そんな悪意の塊達に、優しく説き伏せるように言う。

「――我が頭上に太陽が昇ること幾数千万……貴公らとの数十万年に及ぶ戦闘の末、我らの軍勢はかの邪神を大地の奥底へと封じ込めるのに成功した。貴公らの崇める神はもうこの世には存在しない。最後の一兵まで戦って散ることもあるまい。おとなしく投降してはくれまいか?」

人間の心を揺さぶり、至福で魂を震わせるかのような美しく深い声。

だが、彼の提案は、人間の心を恐怖で縛り上げるかのような声によって、遮られてしまう。

「フンッ! 敵に情けをかけ、あまつさえ救いの手まで差し伸べるなどとはな……甘く、傲慢な奴らめ。何様のつもりだ? 他人の命を、自分の思うが侭に出来るとでも思っているのか!?」

「違う! 私はただ……」

「聞く耳持たんな。貴様らは俺達を悪と呼ぶが、俺達からすれば貴様らの方がよっぽど邪悪だ。やはり、貴様らのように軟弱で傲慢な者達に、この星の……この宇宙の支配など、やらせん!」

異形達から、怒りのオーラが放たれる。それだけで空気は淀み、ひび割れた大地はさらに崩れ去る。一体一体が、強大な力を持っている証だった。

「違う! 支配などではない!!! 我々は……」

なおも訴えかける彼の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

「このうえはクトゥルフの封印を我らが解き、この地球を再び戦乱の世に!!!」

異形達の攻撃が、始まったのである。

異形達から次々と放たれる闇色の光線。一発で小さな山をも粉砕するほどの威力を持ったソレが、一条の太い光となって、彼を襲う。

「うッ!」

放たれた強大すぎる光。彼は光が命中せずとも、射線上にいるだけで自らの肉体を構成する物質が崩壊していくのを感じていた。

暗黒の光。

瞬間最大数億度という熱量を持ちながら、マイナス2百度という熱量をも持った、矛盾の破壊。

自然の摂理に反した攻撃は、命中して即死、命中せずともよくて廃人という、悪魔の閃光だった。

だが、彼はその光に対して、真っ向から立ち向かった。

彼は光の進む速さに反して、ゆっくりと剣を持っていない方の掌を、襲いくる暗黒の光の前に晒した。

 

破ッ――――!

 

たった一言、彼の唇から言霊が爆ぜた。

その刹那、彼の掌底は燐光を放ち、受け止めた暗黒の光と拮抗した。

「ぬっ!」

異形の1体が、忌々しげに呻く。

続いて別の異形が、愕然として言った。

「馬鹿な! 我らの攻撃をたった1人で受け止めるだと!?」

「うろたえるな!」

また別の異形が、驚愕する異形を叱責した。

「忘れたか!? 奴は我らが戦う天使達の中でも、最も力強く、最も猛き者……生半可な攻撃では、奴の薄皮一枚焦がすことも出来ん」

「では、どうすれば?」

「己の命を賭けよ! 全生命力を投じて、我らの力を爆発させよ!!」

『応ッ!!!』

異形達は、奮起した。

己のすべての命を燃やし、彼に向って暗黒の光を放った。

光はいつしか異形達の崇める邪神の姿へと変わり、彼を襲った。

「見事な決意だ……」

それまでとは比べ物にならないほど、掌底で受け止める力が膨張していくのを感じながら、彼は静かに言った。

その額からは薄っすらと汗が流れ、表情からは微塵の余裕も感じられない。

「争いは決して好まん。だが、貴公らの、主のために命を賭してまで戦おうとする心に、私も応えよう……」

彼の戦士は、それまで遊ばせていたもう片方の腕を、ゆっくりと振り上げる。

創世の炎を宿した刃が炎上し、彼自身の肉体すら灼熱で焼き焦がす。

その一種異様な光景に――正確には、自らを焼き焦がしてなお、増大していく彼の力を感じて、異形達は戦慄した。

「受けよ、創世の炎と、我が力の合成獣の一撃を……!」

突如、天空に炎が出現した。

異形達は動きを止め、己が眼を疑って天空を見上げる。

空に浮かぶ炎は不定形ではなく、暦とした形を持っていた。

 

“レッド・ドラゴン”

 

業火。

この世のすべてを舐め尽くし、焼き焦がす“赤い龍”が、異形達へと飛び込んだ。

 

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!

 

異形達は絶叫した。

業火によって喉が干からび、溶かされるまで叫び続けた。皮膚が沸騰し、肺に吸い込まれた熱気が内から肉体を焦がし、崩し去っていく。

赤い龍はすべてを、灰にして奪い去った。

彼らが命を投じて生み出した、暗黒の光さえも……

赤い龍がすべてを焼き尽くした時、荒野には光り輝く戦士しかいなかった。

 

 

 

――赤い龍がすべてを焼き尽くして、どれほどの時間が経っただろう?

数分? 数時間? あるいは幾日?

虚ろな視線で荒野を見つめる戦士の名を、そっと呼ぶ者がいた。

「ルシファー様……」

「ベルゼブブか……」

振り返ると、そこには戦士同様至高の輝きを放つ男がいた。

体はルシファーと呼ばれた戦士よりも1回りほど大きく、そのマスクは万人受けする精悍な顔立ちである。

ベルゼブブと呼ばれた男は、ルシファーの虚ろな表情を気にしながら、事務的な口調で言った。

「西部方面隊のガブリエルから連絡が入りました。どうやら、西部地区における戦闘は無事、終了したようです」

「そうか……残るは、ミカエルのいる南部方面隊のみだな」

「はい。現在、南部地区には北西東の各地区から逃げ延びたクトゥルフの残党が集い、南部方面隊は苦戦しているようです」

「そうか……では、我々も援軍として行くか」

「ルシファー様の、お言葉のままに……」

ベルゼブブはルシファーに向って、慇懃に頭を下げた。

しかし、顔を上げた時、ベルゼブブの表情は先刻から一転していた。

そこにいたのは、天使軍きっての敏腕参謀ではなく、上司であり、親友である男の憂いの表情を気遣う、1人の天使がいた。

「ルシファー……」

ベルゼブブが「どうしたのだ?」と言うよりも早く、ルシファーはポツリと、

「戦いは、虚しいな……」

と、誰に言うわけでもなく呟いた。

ベルゼブブは沈痛な面持ちで親友の横顔を見た。

「そうだな……」

そして、ベルゼブブもまた、ルシファーの言うことに同意した。

「たまらなく、虚しい……」

自分と彼らが根源を別とする存在であることは、分かりきったことだった。決して交わることはなく、ただ背反し、戦い続けるのみ……それが自分達に架せられた宿命であることは、なによりも理解しているつもりだった。

だがそれでも、ルシファーは彼らを……異形の悪・クトゥルフの眷属達を救いたかった。

『善』と『悪』との違いがあるとはいえ、自分も彼らも、同じ宇宙より生まれた、生命なのだから……

「お前は優しすぎるんだよ、ルシファー……」

ルシファーを気遣うベルゼブブの言葉も、今の彼の耳には、届くことなかった。

それでも、いくつも重ねていく言葉が、戦いで疲れ果てた彼の心を癒しになると信じて、彼は言葉を続けた。

 

 

 

この日、最後まで抵抗を続けていた南部方面クトゥルフ達は、援軍に駆け付けた天使・人間の連合勢力に破れ、ついに戦闘行動を停止した。

ここに天帝軍とクトゥルフとの数万年に及ぶ闘争……『古代妖魔大戦』は、終結したのである。

 

 

 

閑章「光の父」

 

 

 

開けた場所に、幾万、幾十万の人々が集まっていた。

皆一様にして天空を見上げ、何かを待つようにして身じろぎ一つしないでいる。

彼らは、皆服を着ていなかった。頭頂から足のつま先、それどころか生殖器すら露出していた。

――もしこの光景を、後世の人々――20世紀の初頭から中盤にかけて起きた、あの大戦争後の人々――が見たら、異口同音にして言うだろう。

『あれはまるでガス室に放りこまれた囚人のようだ』と……。

だが、彼らの表情を一目見れば、誰しもがその意見を撤回するに違いない。

彼らの表情は、至福に満ちていた。期待の眼差しで天空を見つめ、全員の顔には歓喜の色がありありと浮かんでいた。

やがて、どれほどの時間が経っただろうか、不意に、天が裂け、光が爆ぜた。

……現れたソレは、地球でいう生命体の概念からは遠くかけ離れた存在だった。科学的な専門用語を用いて説明するのは容易でなく、あえて人間の感性に頼ってイメージを伝えるなら、『意志を持った光』とでもいうべきか。

見た目以上に膨大なエネルギーの集合体は、実体を伴なっていなかった。しかし、濁りのない白い輝きは神々しくも地上を照らし、見上げる人々を、両腕で優しく包み込んだ。

光は、慈愛に満ちていた。

そして、人々の表情は満足げであった。

――待ちわびた時がきた。

人々の心は、この瞬間に立ち会えたことを喜ぶ、歓喜で満ちていた。

―――この後、自分達に降りかかる悲劇も知らずに……

 

 

 

「一体どういうことだ!?」

その知らせを聞いた時、誰よりもまず憤怒したのはルシファーだった。

その日、ルシファー、ベルゼブブといった、智天使以上の選ばれた数十名の天使たちは、『古代妖魔大戦』の戦後処理を話し合うべく、天界・天球の間に集まっていた。

天球の間には、1脚の円卓があった。ゆうに100人は座れるほどの巨大なものだったが、その半分近くは空席だった。

どういうわけか、人間の代表者が出席していないのだ。先ほどからルシファー達天使の代表者達はそのことでしきりに首を捻っていたが、そんな時に、その報せは舞い込んできたのだ。

『主は人間を滅ぼすことを決定せり』

「どういうことだこいつは!?」

ルシファーに続いて激昂し、報告を届けてきた連絡係に詰め寄ったのは、他の天使達と同サイズまで身を縮めたビヒモスだった。

ビヒモスの強腕に締め上げられ、怯える係官。しどろもどろで答えようとする彼だったが、ビヒモスに首を絞められて、答えようにも声にならない。必死に手足をばたつかせ、首を振って息が出来ないことをアピールするも、猛り狂う巨象は、逆にソレを返答拒否と見なし、さらに怒りを露わにして、万力を篭める。

――無慈悲な悪循環。

このままでは埒があかないと見たベルゼブブは、ビヒモスをいさめるべく声をかける。

「まぁ、お待ちください、ビヒモス様。そのように首を締め上げられては、答えられるものも答えられません」

『そうだ』とばかりに、必死に首を縦に振る連絡員。

だが、猛り狂う巨象は格下の天使の言葉など気にもせず、さらに腕に力を篭めた。

「……仕方ない」

ベルゼブブは、ベヒモスの両腕に向って念を篭めた。

すると、いかなる術をもってしたのか、ビヒモスの両腕が脱力し、本人の意志とは間逆に、ダラリとぶら下がる。

圧迫から解放された連絡員が、激しく咳き込んだ。

「ベルゼブブ、テメェ……!」

「落ち着いてください、ビヒモス様。その者を痛めつけたところで何もなりますまい。……ルシファー様、現状の確認を」

「う、うむ……」

いくらか落ち着きを取り戻して席に座していたルシファーが、連絡員の天使に問う。

「主が人間を滅ぼすとはどういうことだ? 何故、数万年にわたって共に戦ってきた同胞達を今更……」

「そうだぜ! あの『古代妖魔大戦』で俺達が勝ったのは、人間のおかげじゃねぇかッ!!」

「ビヒモス……あなた、ちょっと黙っていなさい」

荒々しい剣幕でなおも詰め寄ろうとするビヒモスを、美麗のレヴィアタンがたしなめる。

格下のベルゼブブの言葉には従わないビヒモスだったが、同格の――しかも自分と同等の力を持っているレヴィアタンに睨まれては、さしもの彼も従わざるをえない。まるで子供のように不満気な表情を浮かべて、ようやくビヒモスはその大声量の声を紡ぐ口を閉じた。

力だけならば全天使最強のビヒモスがようやくおとなしくなって、連絡員はほっと安堵の息をついた。

「…な、何故、主が人間を滅ぼそうと思われたのか、く、詳しくは……。ただ、私はこのことを皆様に伝えるようにと」

「主は、いつ人間を滅ぼされるおつもりなのだ?」

「本日、正午……」

ルシファーは立ち上がった。

そして、連絡員の胸倉を掴んで叫んだ。

「場所は!? 場所はどこだ!?」

「ご、ゴルゴダの丘……」

連絡員のその言葉を聞いて、天球の間にいた全ての天使達の顔色がサッと変わった。

「ゴルゴダの丘だと!?」

「クトゥルフとの最終決戦の場ではないか!」

「主も一体、何故そのような呪われた場所で……?」

周りの天使達が口々に疑問を並べ立てる中、知将・ベルゼブブは冷静だった。

冷静に、天に浮かぶ太陽と星々の位置を観て、正午までの時間を算出した。

「正午まではあと23分17秒。この場にいる天使ならば、全魔力を移動することのみに注げば、ゴルゴダの丘までは5分とかかるまい」

ルシファーは無造作に連絡員を放り投げ、天球の間を飛び出した。

「待て、ルシファー!」

上司に対しての呼び方も忘れ、ルシファーが放った連絡員を抱きとめたがゆえに、一瞬遅れてベルゼブブはルシファーの後を追った。

しかし、極音速(マッハ5)以上の速度で動くことの出来る上級天使――それも、熾天使と智天使という絶対的な差がある2人にとって、その一瞬の差はあまりにも大きかった。

ベルゼブブが、さらにそれに遅れてビヒモス達他の天使が廊下に出た時、すでにルシファーの姿はどこにもなかった。

 

 

 

(―――何故だ!?)

実際は極音速どころか、限りなく光速に近い速さで、ルシファーは天界より地上へと向っていた。

(―――何故なのだ!?)

ルシファーのその疑問は、いつはその一報を聞かされた全ての天使の疑問でもあった。

『古代妖魔大戦』において、最も活躍したのは天使ではなく人間だった。

天帝が地球に辿り着いた時、すでに惑星の7割を占める大海はクトゥルフの支配下にあり、残された広大な大地と大空を守るべく、天帝はそれぞれ人間と天使を創造した。

海より侵攻してくるクトゥルフ達はなによりもまず陸地を求め、大地を蹂躙しようとした。

その際、大地を守るために創造された人間達は、襲いくる邪神の群れに対して勇猛果敢に奮戦し、天空の守護者たるルシファー達天使は、終始支援に徹していたのだ。

先の『古代妖魔戦争』において、最も活躍したのは人間である。

それは全ての天使が認めることであり、だからこそ、ルシファーには何故人間が滅ぼされねばならないのか、分からなかった。

(主よ……あなたは一体何をお考えなのですか!?)

眼下にはようやく地上の風景が見えてきた。

――と、その時、彼の目の前の空間が一瞬歪んだかと思うと、なにやら小さな光が出現し、彼の進行を阻むように爆発した。

「ッ!」

小規模な爆発である。たとえ直撃を受けたところで、どうということのない威力だ。

しかし、ルシファーは今、限りなく光速に近い亜光速で飛んでいた。

地球上ではたらく様々な制約は、たとえ超常の存在たる天使といえど、簡単に無視できるものではない。無視できなくはないが、それは本来あるべき世界の理を乱すもの。クトゥルフとの戦いといった非情事態でもない限り、無闇矢鱈に理を乱しては、世界に無用な負荷をかけてしまう。

亜光速で飛行している物体にとって、どんなに小さな物体、あるいはエネルギーであったとしても、それは脅威以外のなにものでもない。

ゆえに、ルシファーは爆発を避けるべく減速せざるをえなかった。

空中で不自然な制動をかけ、ようやく静止したルシファーは必然的に、上空を見上げる体勢となった。

「……ッ!」

すべては計算ずくであったのだろう。

彼は……見た。天空に太陽が2つ、輝く光景を垣間見た。

その太陽のうちの1つ……急激なスピードでルシファーに接近してくる濁りのない白い光に向って、ルシファーは空中で跪き、頭を垂れた。

「主よ……」

――古来、神というものは姿形なく、ただ光輝くもの……絶対なる光源・太陽の姿をとって現されてきた。

意志を持った光、天使と人間から主と呼ばれる、旧神達の中でも最強の存在……天帝。

彼の君子はルシファーの前で静止すると、穏やかな声で語りかけた。

「ルシファーよ…面を上げなさい」

ルシファーは恭しく、言われた通りに顔を上げ、その姿を真剣な眼で見つめた。

視界を通して、慈しみ、そのものの意志が、ルシファーの心に舞い降りる。

「ルシファーよ…呪われた地……ゴルゴダへ向う途中、お前の思念を感じた。……私に、訊きたいことがあるようだな?」

ルシファーは無言で頷いた。

「……よかろう。お前は最高位の天使、私に対しての直接の質問を許可しよう」

やっと言葉を口にしてよいと許可が出され、ルシファーは猛る心をいさめながら、舌で言葉を探すようにして、ゆっくりと言った。

「……主よ、何故あなたは、かのような所業……人間を滅ぼそうなどと、考えたのですか?」

「…………」

いきなりの核心を突いた質問に、天帝はしばし沈黙した。ルシファー同様、天帝もまた言葉を探すように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「強力な魔術を行使するには、なんらかの代償が必要だ」

「は?」

「それは、魔術の規模や質が上がるほど、代償は大きくなる」

「はぁ…」

「――あの『古代妖魔戦争』において、我々はクトゥルフを完全に倒すことは出来なかった……」

『封印』とは、なんのために行うのか?

それは、現時点の力では到底倒せないからこそ行う行為である。人間の戦争ではないのだから、敵を倒すことが出来れば、それに越したことはない。

『封印』とは、未来、いずれ来るであろうさらなる強化を期待しての、やむをえない処置なのだ。

「クトゥルフの力は強大だ。先の大戦で私が行った封印ですら、100年も保つまい」

「たった、100年……!!」

『古代妖魔大戦』の間に過ぎた歳月・数万年を思えば、なんと短いことか。

「100年では新たに軍備を強化することすら叶うまい。……せいぜい、失われた戦力の1割を回復させることが限界だ。…………我々は、新たなる戦いのために、より多くの時間が必要なのだ」

「そ、それはわかりました。しかし……」

『それと、人間を滅ぼすのとどう繋がるのか?』、ルシファーはそう訊きたかったに違いない。

しかし、天帝が最初に言った、「強力な魔術を行使するには、何らかの代償が必要だ」という言葉を思い出して、彼は愕然とした。

ワナワナと震える声で、天帝に言う。

「ま、まさか…まさか……主よ!?」

「そうだ。クトゥルフに架した『封印』をより強固なものにするために……限りなく恒久に近い時を、奴らに歩ませぬために……」

「そのために、人間を犠牲にするというのですか!?」

天帝は首を横に振った。実際は意志を持った光そのものである天帝に首などないのだが、ルシファーにはそう感じられた。

「犠牲……ではない。彼らは糧となるのだ」

それは言葉を言い換えただけの、ただの詭弁だった。

「――そのことを、人間達には……?」

「伝えておらん」

「何故?」

「…………」

天帝は押し黙った。言うべきか言うまいか、迷っているような沈黙だった。

「主よ、失礼ですが、私に何か隠し事はこざいませんか?」

「…………」

「お答えください、主よ……」

ルシファーは再び頭を垂れた。

1分、2分と時が過ぎていく。

無常にも日は天へと昇っていき、正午は近付こうとしていた。

天帝は、ついに沈黙を破った。

「ルシファーよ…明けの明星よ……お前は最高位の天使。その美しさは究極の域にあり、その知性はこの地上に住む何者にも勝る……。ゆえに、お前にだけは教えよう」

「教える? 教えるとは何を……?」

「何故、私が生贄に天使ではなく、人間を選んだか……その理由は、私が人間を創造する際に組みこんだ、ある因子による

「ある…『因子』」

「そうだ。私はお前達天使にはその因子を組みこまず、地上で、実際にクトゥルフと戦う人間にのみ、その因子を組みこんだ。……いかなる状況に陥っても、その高い知性を最大限に発揮し、より柔軟に戦って、敵を倒せるように、と……」

「その、因子とは……?」

「『自由意志』だ」

「自由、意志……?」

「うむ……。クトゥルフは強大で、狡猾だ。圧倒的なパワーを、高い知性を持って操る。……ゆえに、奴らと戦う兵士は、単に優秀であるだけでなく、時としてマニュアルにないことを行う、柔軟な発想力が必要なのだ。それにはまず、クトゥルフ同様高い知性が必要となる。その点、私は始めから人間にも、天使にもそれを与えた。しかし、ただ発想するのと、実際に行動するのとでは、話は別だ」

「たしかに……」

「そこで必要となるのが、自由意志。自らの意志で状況を把握し、とるべき行動を仮定して、実際にそれを行える“能力”が必要なのだ」

「なるほど」

「…………だが、自由意志は諸刃の刃でもある」

「?」

「自由意志とは正常にはたらけば良いが、そうでなければはなはだ厄介なものだ。自らの意志で自由に行動出来るということは、『善』たる我々の側につくのも、『悪』たるクトゥルフの側につくのもまた、自由ということなのだ」

「…………!」

「幸いにして、『古代妖魔大戦』のおりには、そのような者はただ1人として現れなかった。だが、この先、そうした人間が現れないとも限らない」

「――だから、人間を滅ぼすと……。ですが主よ、それは可能性の話に過ぎませぬ。まだ起こってもいないことを恐れて、あの戦いの英雄達……いえ、いずれ来るであろう邪神達の戦いにおいて、重要な戦力である彼らを……」

「ルシファーよ…明けの明星よ……お前は優しいな。しかし、これはすでに決定したこと。私の意志は、誰にも止められん」

「…………」

「……それと、重要な戦力という意味では、すでに策を講じてある」

天帝は一旦言葉を区切ると、悪意のない意志のまま言った。

「お前達天使の強化、ならびにかつて私が生み出した兵器達の復活」

「かつて、主が生み出した兵器……?」

ルシファーにとって、それは初耳だった。

最高位の天使であるルシファーですら知らない事実が、今、天帝の口から明かされる。

「クトゥルフと戦うための戦力として、かつて私は“恐竜”という兵器を生み出した。……高い戦闘能力を誇っていたが、クトゥルフとの戦いに必要な知性が伴なわず、処分した者達だ。しかし、人間と、お前達天使のデータを得た今ならば、それも可能だろう」

「しょ、処分…」

「そうだ。お前達を創造する際の材料となってもらった。……さすがに、骨格は使えなかったが、な」

―――一度創造したものを滅ぼし、その残骸を使って、新たに別のものを創る。

「それではまるで……」

「そうだな。人間と同じだ」

ルシファーは愕然とした。

それはこの世に生を受けて数万年の間に覚えた、どの驚愕よりも大きなものだった。

そのため、彼は今までに感じたことのない“何か”が、自分の内でふつふつとくすぶり始めているのに気付かなかった。

その、彼の内なる変化に、最初に気付いたのは誰であろう、天帝だった。

「ルシファー?」

「………何故…………」

「む……?」

「ならば何故彼らを創ったのですか!?」

ルシファーは叫んだ。

喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

ベルゼブブ曰く『優しすぎる男』は、明らかに怒り昂ぶっていた。そして、悲しんでいた。

「お答えください、主よ! 戦うためだけに生み出し、今更捨てるというのならば、何故、彼らを…私達を主の下僕たるべく創りたもうたのですか!?」

ルシファーの問いに対し、天帝の答えは沈黙だった。

天帝は、驚愕していた。

全知全能の力を持っているはずの彼は、驚愕のあまりわなないていた。

沈着冷静にして大局を見据える能力を持ち、すべてのものに慈愛の手を差し伸べる最高位の天使……『善』たる自らが生み出したソレは、兵器としては第一級品であり、自分同様『善』たる存在であるはずだった。

しかし、今、彼が表現している感情は、どうしたことか?

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

光り輝く者(ルシファー)』の名の通り、ルシファーの感情の情報は素粒子レベルのミュー粒子となって放出することが出来る。

無意識のうちに放出されたミュー粒子に触れた天帝は、流れこんできた情報の凄まじさに、知らず悲鳴を上げていた。天地を揺るがすかのような、絶叫だった。

流れてきた感情――あまりにも純粋であるがゆえに強大な、『憤怒』の感情……

『善』たる存在であるはずのルシファーが、『悪』の象徴たる“負の感情”を放っている事実に、天帝は純粋に驚愕し、そして恐怖した。

「主よ、何故なのですか!?」

「寄るなッ!!!」

なおも『憤怒』のままに詰め寄ろうとするルシファーを、天帝は拒絶した。

天帝は、腕を振り上げた。……少なくとも、天帝自身はそんなイメージを思い描き、ルシファーに叩きこんだ。

「……ッ!!」

拳を振るえば、炎が大地を灼熱させる。

拳を振るえば、雷が天地を舐めまわして、焼き焦がす。

地を蹴れば颶風が巻き、カマイタチが狂奔する。

―――絶対なる、震天の神の力。

そのイメージを無条件で叩きこまれたルシファーは、その場に留まることすら叶わず、万有の法則に従って地上へと落下した。

(気を失ってしまう)とも、思わぬうちに、彼の意識は別の衝撃とともに、闇に堕ちた。

 

 

 

目覚めたルシファーは、天空に浮かぶ太陽の位置を観て絶望した。すでに偉大なる光球は降下を始め、正午はとうに過ぎてしまっていたのだ。太陽の位置から判断して、2時間ほど、過ぎてしまっただろうか。

2時間あれば、天帝が人間を全滅することは可能であると、ルシファーは考えていた。

なにせ相手は自分達を創造した存在である。力の差は、歴然としていた。

「ぐ…い、急がねば……」

しかしルシファーは、限りなく可能性は零に近かったが、一縷の望みに賭けた。

震天の力に打ちのめされた肉体は未だ完全には回復しておらず、悲鳴を上げていた。しかし、彼は己を一喝し、精神力で痛みを堪えた。

ヨロヨロと力なく立ち上がり、弱々しく両翼を動かす。

まるで自分の体が、自分のものではないように重たかった。どうやら先刻の一撃には、彼の身体機能を狂わせる効果があったらしい。

しかし、ルシファーは構わず羽根を動かしつづけた。

徐々に速く…徐々に大きく……やがて彼は、“タンッ……”と、地面を蹴った。

ふわり、と、彼の体は宙に躍り上がった。まともに自由の利かぬ体に鞭打って、一路、ゴルゴダの丘へと向う。その速度は先刻の亜光速に比べれば格段に遅かったが、それでも、時速数百キロメートルは出ていた。

ルシファーがゴルゴダの丘に辿り着いたのは、飛び始めてから十数分後のことだった。

彼はそこで、思わず目を覆いたくなるような光景と対面した。

「ああ……あああ…………」

ルシファーは本日何度目か分からぬ絶望を感じた。

彼は静かに慟哭し、その場に跪いた。

……とても言葉では言い表せぬような、凄惨な光景だった。

封印式の材料に使われたのだろう、滅ぼされた人々の骨肉は一片の細胞も残されていなかったが、彼らの思念は未だ強くその場に残留していた。

ルシファーは、そのうちの1つの残留思念に触れてみた。さらなる絶望が、彼を襲った。あらゆる科学や論理を超越して伝わってくるのは、これ以上ない『至福』の感情。一方的に滅ぼされた彼らは、そうあってなお、天帝が恐れた自由意志に従って彼を崇拝し、滅ぼされたことを神からの恵みと捉えていた。

「すまない…すまない……」

ともに戦ってきた同胞だった。

ルシファーは彼らのことを尊敬していたし、人間もまた天使のことを尊敬していた。

同じ主によって創られ、主が与えた同じ目的のために戦うパートナーだった。

そのパートナー達を……掛け替えのない親友達を……ルシファーは、失ったのだ。

彼の絶望、そして悲しみは、山よりも高く、海よりも深かった。

「なんだったのだ……?」

ルシファーは慟哭した。

「彼らの生は、なんだったのだ……?」

最高位の天使の涙は止まらなかった。

「戦うためだけに生み出され……」

やがて流す涙も尽きたのか、

「それで、今更滅ぼされるなど……」

いつしか、ルシファーの瞳より流れる涙は、赤く染まっていた。

 

 

 

「……?」

異変が生じたのは、ルシファーが慟哭に打ち震えている、まさにそんな時だった。

不意に、彼の耳に何かが近付いてくる、足音が聞こえたのだ。

天使や獣の類でないことは、すぐに分かった。翼を持つ天使達は歩かずとも飛ぶことが出来るし、耳膜を打つ足音は明らかに4足歩行のそれではなかった。――とすれば、この時代、2速歩行が出来る動物など、限られてくる。

「まさか……!」

ルシファーははやる気持ちを抑え、足音のする方向へと身を翻した。

果てしない暗闇の中、一筋の光明を見つけたような希望に満ちた気分で、彼は足音の主を探すべく歩き出した。

……100メートルほど歩いて、彼は実際に光明を手にした。

「おお……」

血の涙で瞼が腫れ上がった彼の双眸は、大きく見開かれた。

「おお……!」

形のよい唇から漏れる声は、言葉にならなかった。

彼の目の前には、赤子を抱いた少女がいた。

年齢はまだ10歳にも達していないようだったが美しい娘で、突如目の前に現れた天使に、驚いたような表情を浮かべていた。

ルシファーは、少女と視線を合わせるべく屈んだ。

そして、優しく少女に語りかけた。

「私の名はルシファー、見ての通り天使だ。君達の名前は?」

少女は、ちょっと戸惑ったように身をよじらせ、やがて穏やかな口調のルシファーに、自分の名前を明かした。

「私はリリス。この子はアダム……」

少女は、抱きしめた赤子を指して言った。赤子は、安らぎに満ちた表情で眠っていた。

「リリスに…アダムか……」

ルシファーは、歓喜の表情で2人の幼子を眺めた。その視線は、慈愛と救済に満ちていた。

やがて彼は、少女に向って質問した。

「リリス…君達はどうしてこんなところを歩いていたんだい?」

「お父さんとお母さんの後を追っていたの」

「お父さんと、お母さん?」

「うん。今日は特別な日だから、皆で一緒にお出かけしてたんだけど……」

「“特別な日”?」

「うん」

「それはどんな風に特別なんだい?」

「おじさん、天使なのにそんなことも知らないの? お父さん、言ってた。『今日は神様と直接会える大切な日だから、皆ちゃんとした恰好でお昼までにゴルゴダの丘まで行かないと』って」

ルシファーの瞳が、悲しみで翳ると同じに、ギラリと鋭い光を放った。

「皆でお出かけしたんだ。村の皆、一緒に。途中から他の村の人達も一緒になって、ゴルゴダの丘まで言ったの。でも、私は子供だから途中で足が痛くなっちゃって」

「君の村までは遠いのかい?」

「うん。両手を広げた大人の人が、2万人(2万ヤード=約18.3キロメートル)。 ……お父さんは『おんぶしてあげる』って言ってくれたんだけど、昨日のお父さんの嬉しそうな顔を思い出したら、早く神様に会ってもらいたくて」

「……それで、君達は後からこうして歩いてきたんだね」

「うん。『必ずお昼までには間に合うように』って」

「もうお昼は過ぎちゃったみたいだけど」と、リリスは沈んだ表情で言った。

「天使のおじさんは、私のお父さん達、見なかった?」

ルシファーは鎮痛そうに首を横に振った。

「――残念だけど、お父さん達には会わなかった」

「そっか……」

「――でも、お父さん達がどこへ行ったかは分かる」

「え、どこかって……お父さん達はゴルゴダの丘に行ったんじゃないの?」

「ああ、そうだよ。リリスのお父さん達はゴルゴダの丘に行って、その後、神様と一緒に別の場所へ行ってしまったんだ」

「別の場所? それってどこ?」

ルシファーは天を仰いだ。

「……遠いところだよ。名前もないぐらい、遠いところ……」

ルシファーの沈痛な面持ちに何かを感じ取ったのか、リリスは彼のその言葉に、不安そうな表情を浮かべた。

「……それって、もう会えないってこと?」

「…………」

「そんな……」

沈黙は肯定の証。

10歳にも満たない少女は、目尻一杯に涙を浮かべた。

「お父さん…お母さん……」

リリスは、泣きじゃくった。弟が眠っているためか、声を殺した、啜り泣きだった。

彼女の辛そうな表情、悲しそうな涙。それを見て、ルシファーは己が心が鷲掴みにされ、良心が悲鳴を上げているのに気付いた。

彼はほとんど本能的に、リリスを優しく抱き締めた。鍛えられた厚い胸板に伝わってくる、涙の冷たさと、少女の温もり……

ルシファーは、自分の中で何か言い知れぬ“もの”が鎌首をもたげつつあるのを感じていた。それは人間でいうところの『父性本能』であったが、彼はそのことを知らなかった。ゆえに、彼はそれが、真に驚愕に値することであると気付かなかった。

そもそも、外見上の違いを除けば、天使に『性』の差はない。天使は基本的に『中性』で、一応生殖行為は出来るものの、互いの遺伝子を認め合い、互いの遺伝子で複製を作ることは出来ない。つまり、彼らは子供を作ることが出来ないのだ。彼ら自身、ただ天帝から生み出されるだけの存在である。

父にも、母にもなれないはずの存在が、『父性本能』を発揮する……これを驚愕せずして、何に驚くというのか。

意識なき驚愕はそれだけではなかった。

ルシファーは、リリスを抱きしめながら、なんと、

「安心しなさい。――君達は、私が育てるから……私が君達の、父親になるから……」

滅びたと……もう会えないと思っていた人達との再会に、ルシファーは冷静な判断力を失っていたのだろう。

喜びに打ち震える彼は、全ての天使の中で、初めて『父になる』と宣言した、事の重大さに、まったく気付いていなかった。

 

 

 

 





おおー、遥か昔にこのような出来事が…。
美姫 「このお話が、どのように本編へと絡んでくるのかしらね」
いやはや、非常に楽しみだな〜。
美姫 「本当に楽しみよね」
本編の方も楽しみに待ってますね。
美姫 「それじゃ〜ね〜」



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