休暇二日目は、朝から妙に疲れていた。
昨晩の星との晩酌では、星の酒豪っぷりに辟易し。
朝起きてからは、何故か昨晩から様子がおかしかった愛紗に昨日の昼から夜までの行動について執拗な取り調べを受け。
まったくもって休暇中という実感が湧かないでいた。
さて……今日は何をして過ごそうか──。
『恋姫†無双異聞 〜高町恭也伝〜』
第五十五章
やることがないと悩んでいた昨日とは違って、実は今日はある程度やることを決めていた。
それは──他の面々の仕事ぶりの見学。
誰かの仕事を手伝うのは休暇にはならないと朱里に怒られそうだが、ただの見学ならば咎められることもないだろう。それに、一度他のみんなの仕事ぶりはみておきたいと思っていたので、これはいい機会だ。
……そこでふと、どうして自分はこの歳になってもまだ、誰かに怒られることに警戒して行動を決めているのか、という情けない考えがちらついたが、それはあえて考えない方向で。
普段は自分の仕事にかかりきりでなかなか見られない他の仲間達の仕事を見ると言うのも悪くないなと考えだ。そして今回、誰の仕事ぶりを見に行くか。それもある程度決めていた。
誰の仕事ぶりを見に行くかというと──
「御主人様? どうなさったのですか、こんなところまで」
啄県の街の城壁の外。
顔良さんと文醜の連合軍とも戦った開けた場所。
そこで第一軍の軍兵達の訓練を行っていた愛紗が俺を出迎えてくれた。
「いや、実はこっちで訓練をしていると聞いたから、見に──」
「言っておきますが、御主人様は現在休暇中の身のはず。よもやここで訓練に参加するとでも」
「──落ち着いてくれ愛紗。俺はまだ、そんなことは一言も言ってないじゃないか」
やれやれ、愛紗にも随分と警戒されているな。サボることを咎められるならわかるが、働くことを禁じられるのも不思議な話だ。まあ、それだけ大事に思われてるのは、決してイヤではないんだがな。
俺は相変わらず過保護な愛紗に苦笑しつつ、ここに来た理由を告げた。
「今回、俺がここに来たのは見学するためだ。俺は何もしないから安心してくれ」
「……見学、ですか? どうしてまた?」
「考えてみれば、ここ最近は政務ばかりで他のみんなの仕事を見る機会もなかったからな。幸い長い空き時間も出来たことだし、ここでみんなの仕事ぶりを見ておこうと思ったんだ」
「なるほど……」
俺の言い分に納得してくれたらしい愛紗。もっとも、
「本来なら、仕事そのものを忘れて休んで欲しいところですが……御主人様の性格を考えれば、それも無理ですか」
「さすが愛紗。わかってくれてるじゃないか」
「嬉しそうに言わないでください。呆れているのですから」
「悪い悪い」
「……もう」
納得しただけで、俺の行動自体は強く賛同出来るモノではないようで、愛紗は呆れていた。しょうがないとばかりに苦笑する愛紗に、俺も誤魔化すように笑いかける。
今朝の尋問の時とは違い、愛紗の目は優しく、俺たちの間に和やかな空気が流れる。
そんな時だった。
「おっ、誰かと思えば大将じゃんか。どったの?」
──今回の見学でもっとも見ておきたかった人物の一人が声をかけてきたのは。
現在は愛紗が率いる第一軍で副官を務める少女……文醜である。
ちなみに、現在の高町軍は兵力の増加により軍を五つに分け、それぞれの軍のトップに将軍を据えている。
第一軍の将軍は愛紗。
第二軍の将軍は鈴々。
第三軍の将軍は星。
第四軍の将軍は紫苑。
そして第五軍は恭也が指揮し、そこには朱里も付き従う。
ちなみに翠と流夏の名前がないが、それは恭也の信が足りないと言う理由ではない。彼女らはあくまで客将であるため、軍を与えるという行為は臣下扱いになるので、あえて避けたのである。
それまでは比較的機嫌の良さそうだった愛紗だったが、相変わらずの軽い口調で俺に話しかけてきた文醜を見て、眉間にしわを寄せた。
「文醜……貴様、何度言えばわかる? 御主人様は我らが敬愛すべき君主なのだぞ! もう少し敬意を払え!」
「えー? あたいとしては敬意なんかよりも友好的な方がいいと思うんだけどなー」
「何が友好的かっ!?」
「まあまあ。いいじゃないか愛紗。俺としては文醜みたいに気軽に話しかけてもらうのも悪くないと思うぞ?」
「御主人様まで……」
叱責する中で俺が文醜の口調を認めてしまったことで、愛紗の恨めしそうな目がこちらに向いてしまう。ただ、こればかりはしょうがないだろう。俺としては周囲のみんなを“仲間”だと思っているんだから、文醜の接し方の方が気が楽だし。
愛紗の雷に拗ねていた文醜だったが、俺の賛同を得たと見ると途端に表情を明るくした。嬉しそうに俺の隣にやってくると、ばんばんと背中を叩いてくる。
「やっぱし、大将は器がでかいよねー。うんうん。さすがに話が分かるっつーか」
「調子に乗るな!」
そこで再び愛紗の怒声。
そんな二人の様子を見て、知らず知らずのうちに苦笑している自分に気づいた。
なんとも……本当に正反対の二人だな。
先の戦後処理で文醜の処遇を決める時、愛紗の副官にしたのは流夏の意見だったが、こうして見ていると実に面白い人選をしたと感心する。
生真面目で融通の利かない愛紗と、楽観主義で緊張感のない文醜。水と油とも言うべき二人だが、この二人がしっかりと噛み合えば、きっといい結果が付いてくるはずだ。
……あくまで“うまく噛み合えば”だが。
「関羽は堅すぎなんだよなー。もうちょっと気楽に構えればいいのに」
「お前がお気楽すぎるんだ!」
「ずーっと気ばかり張ってたら疲れるじゃんか。そもそも大将がいいって言ってるんだしさ」
愛紗のお堅い発言にさすがの文醜も辟易しているが、それ以上に愛紗も文醜の緩い発言が許せないらしく、彼女の形のよい眉が更に釣り上がった。
「御主人様は気さくな方ゆえにさほどうるさくは言わないが、それでもお前は今はもう高町軍の家臣なのだぞ! しかもまだここに来て間もないのだから、誠意を見せるのが当然──」
「いや、そこまでしなくてもいいとは思うが……」
「──ごーしゅーじーんーさーまーっ!?」
思わず出た本音に、愛紗の鋭い視線が今度はこちらに突き刺さる。とはいえ、こればかりはなぁ。
しかも、これ幸いと言わんばかりに文醜も俺の言葉に乗ってきた。
「やっぱ大将もそう思うよなぁ? やっぱ関羽が堅いんだって。あたいは以前からこんな感じだし」
愛紗の視線がさらに厳しいモノに……あなたがそんなことを言うから文醜も調子に乗る、とでも言わんばかりに。
やっぱり、この二人を“うまく噛み合わせる”のは難しいらしい。
とりあえず、このままだと愛紗から恨まれてしまうので、一応のフォローは入れておく。
「まあ、でも愛紗の言うことも間違ってるワケじゃないからな。あまり困らせないでやって欲しい」
「へーい」
どこか気の抜けたような返事の文醜の態度にも愛紗は目くじらを立てていたが、そこは抑えてもらって、兵たちの訓練指導に戻ってもらう。
俺はとりあえず、予定通り二人の──いや、文醜の仕事ぶりをチェックすることにした。
「しっかし、変わってるよなー。大将って」
恭也に促され、仕事に戻った二人。
それぞれが部隊長たちに指示を送り、指示通りの動きが出来ているかを二人でチェックしてる際に、ぽつりと文醜が零した言葉がそれだった。
それを当然聞き逃さない愛紗。
「御主人様に対して失礼だろうが……少しは控えろ」
「えーっ、いいじゃんか。悪口じゃないんだしさ」
「悪口じゃない?」
「だってさー。仕事休みだって言ってるのに、わざわざ空いた時間使って他のヤツの仕事の見学って……どんだけ仕事好きなんだよ、って話じゃんか? 少なくともあたいはそんなに仕事好きな太守ってのは見たことないからさ」
二人は視線こそ訓練中の兵士たちに向けたままで、言葉を交わしていた。
「……袁紹と比べられたら、大抵の太守は働き者になるのではないか?」
「ま、それは否定しないけどねー。だって姫が政務してるのなんて見たことないし」
「…………」
愛紗は文醜の話を聞いて思わず渋面になる。
どうしてそんな顔をしているのかと言えば、ここにはいない顔良という少女のこれまでの苦労を垣間見た気がしたからだ。南皮に攻め入った時に袁紹の配下の文官なども捕らえたが、高町軍で言うところの朱里のような、内政を仕切れるほどの人間はいなかったことを愛紗は覚えている。そして、袁紹は完全に仕事は投げていたらしいことから、誰が政務を仕切っていたのかがうっすらと見えてきたのだ。
──もっとも、顔良は軍務にも顔を出さなければならず、両方を仕切ることは無理だったので、政務に関しては郭図という男が顔良を補佐していたのだが、郭図の存在を知らない愛紗ではその事実を知ることは不可能である。
愛紗は顔良の苦労の多さを考えると気の毒になるのと同時に、恭也という君主を得た自分がいかに幸せだったのかを再認識した。
「ちなみに……お前は政務には関わらなかったのか?」
「あたいがそういうの出来るように見えるか?」
「……愚問だったな」
「そーそー」
愛紗としては呆れにも似た言葉をぶつけたつもりだが、文醜はまったく堪えた様子もない。文醜は自分に出来ないことでは意地を張らない、サッパリとした性格の持ち主だった。
「……話を戻すが。御主人様は決して仕事が好きというわけではないぞ?」
「へ? そーなの?」
「ああ。むしろあの方もどちらかと言えば政務などの机仕事は苦手としているくらいだ」
「でも──」
おそらくこの軍の中では一番恭也を理解しているであろう愛紗の言葉である。そこに嘘はないということは文醜にも分かった。しかし、だからこそ今の言葉は文醜には意外に聞こえる。
「あの方はただ、成さねばならぬ事を理解しているからこそ、休まず働いていたのだろうさ。領土も広がり、戦力も整いつつある今だからこそ……その先にある戦いのために、やっておくべきことは出来る限り終わらせておこうと」
「その先にある……戦い、ね」
それが、後にぶつかるであろう二大勢力──魏と呉であることくらいは文醜にもわかっていた。恭也が仕事に没頭していることが、魏や呉との直接対決が近いことを予感させていると言うことである。それを聞いて、ここ一ヶ月休みなく働いていた理由は納得出来た。
しかし、
「でも、今は休みなんだろ? だったら見学なんてしなくてもいいんじゃないの?」
こうして貴重な休みの時間を使って仕事の見学をしている恭也にはいまいち納得がいってないらしい。そんな文醜の問いに、
「…………」
愛紗は殺意に近い眼差しで文醜を一瞥。その視線に気づいて、
「お、おい……関羽?」
「……すまない。ついつい腹が立ってしまってな」
思わず恐れおののいた文醜。愛紗は愛紗で自分の感情が上手くコントロール出来てないことを自覚し、あらためて視線を訓練中の兵士たちへと戻した。
愛紗の視線が戻ったことに安堵した文醜は、あらためてその視線の理由を問う。
「で、なんで今あたいは睨まれたんだ? なんかまずいこと言ったか?」
「別に……と言いたいところだが、納得はしないだろう?」
「まあね」
「しょうがない、か」
愛紗は一つ後悔の溜息を漏らしてから、言葉を続けた。
「御主人様はお前を見に来たんだ。私や兵たちの訓練状況を見に来ているわけではない」
「あたいを? なんでさ?」
「御主人様は新しく高町軍の人間となったお前のことを気にかけてくれているんだ」
愛紗は知っている。
袁紹戦の後、恭也は仕事で忙しい中でも、新しく高町軍に入った面々──紫苑や星たちの仕事ぶりを見ながら彼女たちのことを気にかけていたことを。新たな職場で不自由してないか、と恭也なりに気を遣っていたらしかったことを。
だから、彼女はこの場に恭也が姿を見せた時にある程度の予測は付いていたのである。今回は、先の処遇が下ったことで高町軍の戦力として加わった文醜たちを見に来たということを。
そのことを簡単に説明してやると、文醜はあらためて感心した様子を見せた。
「ほへぇ……なんというか、ホントに偉いひとなんだなぁ。大将って」
「今頃気づくな………………というか、前から一度聞いておきたいことがあるんだが」
「なんだよ、急に?」
「文醜、お前なんで御主人様のことを“大将”って呼ぶんだ?」
それはいつからだったか。文醜は恭也のことを“大将”と呼んでいた。そのことに関して恭也も特に不満は口にしていなかったので、愛紗としても聞き流していたのだが。ちょうどいいとばかりにその疑問をぶつけてみた。
「なんで、って言っても……大将じゃん、あのひと」
「いや、確かにそうだが……」
「別に関羽たちみたいに“御主人様”でもいいんだけどさ、そーゆーのはどうもあたいのガラじゃないから。実際、麗羽さま──袁紹ん時も“姫”って呼んでたし。だから、あたいらしくってことで“大将”って呼んでんの」
「……まあ、御主人様も別に気にしてないようだから、いいんだが……」
「それよか、あたいとしては気になることがあるんだけど?」
とりあえず愛紗の疑問が解決したところで、今度は文醜の方が違う問いを返す。
「大将があたいのことを気にかけてくれたことは分かったんだけどさ……なんであたいは関羽に睨まれなきゃならなかったわけ?」
「ぐ……っ、そ、それは…………」
文醜の問いに、言葉を詰まらせる愛紗。
文醜の疑問はもっともだ。恭也が君主として文醜のことを気にかけていると言うことは、立派な行いなのである。そこに怒るような要素は何一つない。しかも、あの時愛紗は文醜を睨んだのだ。つまり、怒りの矛先が文醜に向いていたこと言うことである。と言っても文醜にはそこまで睨まれる覚えがないからこその疑問だ。
だけど、その疑問に対する答えを愛紗が口に出来るはずもない。
「おーい、なんでなんだよー。教えろよー」
「そ、それはまた後で答えるから、今は訓練に集中を……っ」
「そう言って誤魔化す気だろ? ずりーぞー。ちゃんと教えろよなー。部下の疑問に答えるのも上司の仕事だぞー」
「うぐっ……貴様、なんでこんな時だけ正論を……」
ここが攻め時とばかりに絡んでくる文醜。その文醜が正論を言ってるだけに愛紗としても強く拒否出来ずにいた。
……そう。答えられるはずがなかった。
(御主人様が文醜を気にかけていることに嫉妬したなど……誰が言えるか!)
そんな二人の様子を遠目から見ていた恭也は、思った以上にあの二人がうち解けている(と見えている)ようで安心した。
「まあ、なんだかんだで面白いコンビになるかもしれないな、あれは」
生真面目な愛紗とマイペースな文醜のコンビは性格的に正反対だが、お互いに無いモノを持っているだけに、互いを補い合えるだけに相性は悪くないようだ。そんな感想を抱きながら、恭也はその場を後にした。
続いて恭也が向かったのは──
城内に戻ってきた恭也は、とりあえず耳を澄ました。
彼が探している人物の場所を探すのは実は簡単なのである。ここ最近の城内で一番“騒がしいところ”を見つけだせば、大概そこに──
ばっしゃぁぁぁぁんっ!
「うっきゃぁぁぁぁっっ!?」
「あんたは一体何をしてんのよっ!」
──彼女らはいるのだから。
恭也は相変わらずな様子の面々に会いに、先ほどの音と声のする方へ向かうのだった。
そして向かった先の廊下では……清掃用に使っている木桶(現代で言うバケツの代用品)の水をひっくり返してずぶ濡れになったらしい袁紹と、そのとばっちりを受けてやっぱりずぶ濡れになったらしい詠が激しく口論──いや、口げんかをしている。そしてその二人の間でオロオロしている月(彼女は巻き込まれなかったらしく濡れてはいない)もいた。
「あんたねっ! 毎日毎日毎日毎日っ、何度ひっくり返せば気が済むのよっ!」
「わたくしだってわざとやってるわけではありませんわよっ!」
「じゃあ、なんで段差も何もないような平らな廊下ですっ転ぶのよ!?」
「足がもつれたんだと何度言えばわかりますの!?」
「〜〜っっ! ボクもある程度ドジだとは思ったけど、あんたはドジどころじゃないわ! 無能……いや、超無能よ! あんたみたいな使えない人間は初めてよ! 人間の最下層ねっ!」
「な、な、な、なんですって〜っ! 人が下手に出ていれば……このメガネチビっ!」
「誰がいつ下手に出てたって!? 言葉の意味もわからずに使ってんじゃないわよっ!」
「言葉を違えているのはそっちでしょうが! この私をつかまえて無能などと……っ」
「無能じゃないわよ! あんたは超無能だって言ってるのよ! 無能の中の無能だっつーの!」
「むきーーーーーーっっっっっ! もう許せませんわ!」
「ふ、二人とも……お、落ち着いてよ……」
袁紹が侍女見習いになってから、もはや日常になりつつあるのがこのやりとりである。
袁紹がミスをする。詠がキレる。袁紹もキレる。口げんかに発展。なんとか月が仲裁に入る。これの繰り返しだ。ただ、今回のケンカはいつも以上にエキサイトしているらしく、月の仲裁の声も二人には届いていないらしい。
どうやら廊下の清掃中の揉め事のようだ。
その様子を見て、とりあえず状況は確認出来た恭也はやれやれと肩をすくめた。
「月」
「ふぇ……? あ、ご、御主人様……」
「その……毎度のことながら苦労をかけているな」
「い、いえっ。そんなことは……」
「ないか?」
「えっと……」
ない、と断言出来ないだけに返答に困ってしまう涙目の月。そんな月に苦笑しながら恭也は、彼女の頭を軽く撫でた。
「意地の悪い質問をしてしまったな。すまない」
「そ、そんなことは、ない、ですけど……」
「まあ、お詫びというほどでもないが、ここは俺にまかせてくれ」
「あ……はい」
恭也は仲裁役を買って出ると、一つ呆れたような溜息を漏らしつつ、二人の元へ。そして今にもつかみ合いになりそうな状況の二人のうち、まずは、
「──詠」
エキサイトしすぎている詠の襟首を掴むと、まるで猫のようにひょいとつまみ上げる。小柄な詠は自分の足が地面から離れてしまってる状況に驚き、慌てて振り向く。
「ちょっ、誰よ………………って、げっ!? 高町!?」
「げっ、って……それが女の子の上げる声か?」
「う、うっさいわね! それより何よ!? 下ろしなさいよっ」
突然の恭也の出現に驚いた詠ではあったが、すぐにジタバタしつつ恭也を睨む。しかし、
「……二人のケンカがうるさすぎて、他が迷惑してるぞ?」
「う……」
その恭也の一言で、詠の恭也にすら向きかけていた怒りは急速に萎んでいった。自分がエキサイトしすぎていたことを自覚したようである。詠は元々意地っ張りな面はあるが、基本的には優秀で自らを客観的に見られる少女だ。恭也という人間を快く思っていなくても、自分に落ち度があればしっかりと反省するくらいの分別をわきまえている。
「……悪かったわよ……だから、下ろして」
「ん」
詠が渋々ながらも謝ったのを見て、恭也は詠を下ろした。詠がようやく冷静になってくれたと判断したからだ。
しかし、
「ふっ、ざまあないですわね!」
ここにまだ分別をわきまえていない人物も残っていた。あからさまに詠を蔑むような言葉を浴びせる袁紹に、
「なんです…………って?」
「詠」
再び怒りの炎が点火しかけた詠だったが、それを恭也が手で制す。普段の詠ならば、そんな恭也の手くらいははね除けそうなモノだったが、今回に限っては恭也に従っていた。
何故なら……詠を制しながら袁紹を見る恭也の顔──いかなる感情も読みとれないような能面のような表情──を目撃してしまったから。恭也は何も言わずに袁紹に近づいていく。
そして、詠が反論してこないのをいいことに、さらに口撃を強めようとする袁紹だったが、
「…………」
ごすっっっっっ!
無言で近づいてきた恭也の、ほとんど手加減抜きと言っていいほどの拳骨が袁紹の頭頂部に落ちたため、
「〜〜〜〜〜っっ!?」
その場に膝から落ちてうずくまり、拳骨の落ちた頭を抑えて悶絶してしまうのだった。
その、あまりに大きくて鈍い音に、さすがの詠も呆気にとられているし、月も酷く驚いている。
「うわぁ……」
「ご、御主人様……?」
これまで二人は恭也という人間を見てきて出来たイメージが覆るような、そんな光景だったのだ。戦場では男も女もなく戦う恭也ではあったが、戦場を離れれば女性には優しい……そんなイメージを持っていただけに、現在は侍女見習いという立場になっている袁紹に拳骨を落とすという行為は意外と言えたのである。
不意に、振り返った恭也が詠に声をかけた。
「詠。そのままでは風邪を引くぞ? とりあえず着替えてきた方がいい」
「え、あ……うん。そうするわ」
振り返った恭也の顔はいつも通りの表情──無愛想ながらも瞳には優しさが宿る──だったので、詠は安堵と戸惑いが入り交じったような表情で頷き、足早にその場を後にする。
月も、恭也の目にいつもの優しさが戻ったことでようやくショックから立ち直ると、今度は拳骨を浴びて悶絶する袁紹を心配するが、それは無用だった。
「っっっっっっっっっっっっったいですわねっ! いきなり出てきてなにをするんですのーっ!?」
月が声をかける前に悶絶状態から脱した袁紹は、あまりの痛みに涙目になりつつも柳眉を逆立てて恭也に噛みつく。しかし恭也はまったく表情を変えず、袁紹へと向き直る。詠や月に見せていた優しい眼差しはそこにはなく、瞳はあくまで冷淡だ。
「何をする、じゃない。詠は君の指導をしている上司だ。その詠に迷惑をかけたのだから、まずは詫びるのが最低限の礼儀だろう? なのにそれも出来ない上に、反省する様子もないから、あえて身体で分からせただけだ」
恭也としては紛れもない正論で聡そうとしたが、それが通じる相手ならば詠も苦労はしてはいない。
「迷惑、ですって? はん、冗談も顔だけにして欲しいですわね! あのメガネチビの指導がなってないからこんな事に──っ!?」
ごんっっっっっっっっっっ!
再び拳骨一閃。
「〜〜〜〜〜〜〜っっっっっ!?」
そして悶絶。先ほどと同等の威力の拳骨に再びうずくまる袁紹。そんな袁紹を見下ろしながら、恭也は事も無げに言う。
「……言葉で言ってわからなければ、身体で分からせるだけだ、と言ったはずだ」
そしてあらためて肩をすくませた。
文醜に続いて袁紹の様子を見に来た恭也だったが、こちらに関しては袁紹よりも、袁紹の指導を担当している詠と月の二人のことが心配になっていた。袁紹はまったくもって変わりなく、心配すること自体が馬鹿らしいくらいである。しかし、その袁紹の面倒を見る月と詠の二人の負担は随分と増えているようだ。
紫苑の決めた処遇──袁紹を侍女見習いとして扱う上で決めたことがある。
袁紹は“自分に出来ないことなどない”と豪語しているが、その言葉を信じる者などいるはずもなかった。生まれてからこの方、ずっと名門の跡継ぎとして扱われ、ワガママ放題に生きてきた彼女に侍女の仕事が勤まるはずがないと。
……まあ、そういう意味では月も同じような立場だったはずだが、彼女は袁紹と違って“ワガママ放題”ではなかったので。
そうなると、袁紹の面倒を見ることになった詠──袁紹の面倒を見るのは詠の仕事だったのだが詠一人ではもめ事に叱らないのは目に見えていたので月も二人に付くことになった──には大きな負担がかかるのは目に見えていた。そこで発案者である紫苑は詠にも多少は“旨味がある”ルールを作ることにした。それが、詠による直接査定制度である。
常に袁紹の側に付く詠には、袁紹の仕事ぶりを逐一チェックして彼女が仕事をミスするたびにその月に彼女がもらえる給料を減らしていくというシビアな減点方式を採用したのだ。更に言えば、減らされた分の袁紹の給金はそのまま詠への報酬へとなっていくという形を取ることで、詠にも多少の得があるシステムを構築した──少なくとも紫苑はそう考えていた。
しかし、紫苑はまだまだ甘く見ていた……袁紹の無能っぷりを。
ルールを決めた上で、袁紹が侍女見習いとして仕事に入った初日の夜。詠は紫苑に相談したという。
「……本当にこのままでいいわけ?」
「どういうこと? 詠ちゃん? この紙は?」
「今日の分の袁紹の行動とその結果をまとめたモノなんだけど……今日一日で、あのバカの月給……なくなっちゃったわよ?」
「…………」
「言っておくけど、これでもかなり甘くしたつもりよ? それでも……この有様なんだから」
「それはまあ……これを見る限り、随分と詠ちゃんに苦労をかけたのが分かるけど……確かに困ったわね」
「スッカラカンになった今、明日からは何を引けばいいわけ?」
「……やっぱり、来月のお給料……しかないわよねぇ」
「これだけははっきりと言えるわ。あいつ、間違いなく近いうちに一生ただ働きになると思うのだけど?」
「……あははははは…………はぁ、笑い事じゃないわねぇ」
そのやりとりも耳にしていた恭也としては、実際に袁紹の無能さとそれに反比例するくらいの傍若無人っぷりを見てしまった以上、このままにはしておけないと判断したのである。
当たり前のように失敗し、それでいてまったく悪びれる様子がないという袁紹の扱いは、確かに厄介極まりなかった。なにしろ、この袁紹という人物は“反省”という言葉を知らない。
「こっ………………この野蛮人! わたくしに向かってなんということを──っ!?」
ごんっっっっっっ!
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ!?」
「……君には学習能力もないのか……」
再び噛みついてきた袁紹に、またしても拳骨を落とす恭也。懲りるということを知らない袁紹の態度には、さすがの恭也も呆れるばかりだ。
この後も、詠が着替えて戻ってくるまでの間に──
袁紹が恭也に噛みつく。
恭也が拳骨を落とす。
袁紹悶絶。
立ち直って再び恭也に噛みつく。
──このやりとりが五度も続くことになる。
「……ボクがいない間になにがあったのかが、一目瞭然ね……」
ずぶ濡れになった服を着替えて戻ってきた詠は、五重のコブを頭にこさえて悶絶している袁紹を見て溜息を漏らした。
「しかも、まったくもって同情の余地もないし。あんたの拳は大丈夫?」
「まあ、それなりに鍛えてはいるからな。しかし……本当に大変なんだな」
「……わかってもらえて何よりね。で、どうすんの。これ」
「ふむ……」
結局口で何を言ってもダメで、体罰では即効性があっても持続性がないという手詰まりである。袁紹の、骨の髄まで染みついた高慢さは修正不可能に思えるほどだ。
それに体罰にしても、詠では恭也ほどの威力は求められない。詠の膂力は愛紗たちと違ってごく普通の少女程度のモノしかないのだ。
「いっそのこと、恋を付かせるか? 拳骨要員として」
「それも悪くはないと思うけど……あのコはあれで嫌いな人間はとことん嫌うから。下手すると力加減を忘れる可能性があるわよ?」
「それは……危険すぎるな」
「ええ。アレが死ぬのは文句ないけど、恋の教育に悪影響を及ぼしかねないでしょう?」
「そうだな……出来る限り恋を殺生から遠ざけてきた意味がなくなってしまう……」
「詠ちゃんも、御主人様も……袁紹さんが死ぬのを前提で話すのはよくないですよ〜」
月がまともなツッコミを入れるも、恭也も詠もそれを反省する気はさらさら無かった。それくらいに袁紹の扱いは厄介なのである。
元々は、誰よりも気位の高い袁紹を低い身分にすることで、屈辱を受けてもらう……という処断だったのだが、これではむしろ詠たちの方が罰を受けてるような状況だった。
それに、袁紹が侍女見習いになってから数日。これまでは袁紹と詠のやりとりは口論で収まっていたが、これまでのやりとりでお互いに溜まった鬱憤が爆発しかけているのだろう。詠も袁紹も掴みかからんばかりの勢いにまで発展していた。
この状況を見てしまった以上、恭也としては見過ごすわけにはいかない。
「しょうがない……あまり体罰を奨励するのは良くないと思っていたんだが、これでは埒が明かないからな。詠には袁紹への体罰用に“武器”を持ってもらうことにするか」
「まあ、体罰って案は問題ないけど。でも、ボクはこれでも知能派なんだから。愛紗の青龍刀や恋の方天画戟みたいなのは振るえないわよ?」
「……そんなモノを振るう前提で考えるな。体罰どころか一撃必殺じゃないか」
「それくらいにボクも気が立ってるのよ……」
剣呑な眼差しの詠。
もう詠も限界に来ているのがわかるだけに、恭也も苦笑するばかりだ。すでに殺る気満々らしい。しかし、恭也の考えは詠とはちょっと違っていた。
「ただ、勘違いするなよ詠? 俺は確かに“体罰”と言ったが、痛みに訴える“体罰”じゃない」
「はぁ?」
先ほどまでの苦笑と違って、恭也にしては珍しく邪気の混じった笑みを浮かべる。そんな恭也の表情と言葉に、詠は首を傾げるばかりだ。
恭也には一つの考えがある。
痛みでさえ折れない袁紹の過剰なまでのプライド。それを自分がいなくても──詠たちだけでも、それをへし折る事が出来る方法。恭也はそれを思いついていた。
袁紹のこれまでの言動や性格を考えて……
「月」
「あ。はい?」
「一つ、頼まれて欲しいことがある──」
恭也は袁紹への“体罰”に必要なアイテムを用意すべく動き出した。
恭也はあえて、詠やうずくまる袁紹には聞こえないように、月に耳打ちで必要な物を教える。それを聞き終えた月は意外そうな表情を見せた。どう考えてもそれは“体罰”とは無関係そうだったからである。
「えっと……本当にそれでいいんですか?」
「ああ。頼むぞ」
「は、はい」
月もまた頭の上に疑問符を浮かべながらも、恭也の頼んだ『お使い』を果たすべく、その場を後にした。
「お、お待たせしましたー」
月はモノの数分で恭也たちの元へ戻ってきた。
そもそも、今回恭也が頼んだモノは全て城内で調達出来るモノだったからである。
「それって……何? 墨を入れる瓶に筆? それに……手鏡?」
詠は月が抱えて持ってきたモノを凝視して、更に首を傾げた。それは明らかに武器とは言い難いシロモノである。
二本の(大きさは日本の徳利よりもやや大きいくらいの)墨入れと、筆。そして手鏡。
「ありがとう、月」
恭也は月の頭を優しく撫でてから、持ってきたモノを受け取る。詠は最初、月が恭也の言葉を勘違いしてまったく違うモノを用意したのかと思ったが、恭也の反応を見る限り、そうではないらしい。だとすれば──
「……で? このわたくしをどうするつもりですの?」
不機嫌そうな袁紹の声で詠の思考は中断した。
まあ、不機嫌なのは今に始まった話ではないが、今の状況からすれば大抵の人間は不機嫌にもなるだろう。
袁紹は縛られた状態で廊下に座らされていた。
月が恭也に頼まれたことを果たすべく、この場を離れた後、やはり袁紹は悶絶状態から立ち直ると懲りずに恭也に噛みついたのである。さすがの恭也も辟易したらしく、今度は拳骨を落とすというやり方ではなく、掴みかかってきた袁紹の腕を取って関節を極めて、身動きを取れなくしたところで鋼糸を用いて袁紹を縛り上げたのである。縛られた袁紹は、まあ当然のように大騒ぎを始めたのだが、恭也が人睨みすると、びくっと体を震わせた後、渋々ながら沈黙して今に至るというわけだ。
恭也は、ふてぶてしくこちらを見上げる袁紹へと視線を移す。
「君はどうにも立場を理解してないフシがあるからな。しかもこっちが何を言っても、拳骨を落とそうとも聞こうとしない。なので、こちらとしては不本意ではあるが……より厳しい形で君に接していく」
「ふんっ、大した脅し文句ですこと。この袁本初、そう簡単には屈しませんわよ!」
「相変わらず……か。しょうがない」
この状況でもなお強くある袁紹を見て、恭也は嘆息した。
そして取り出すのは……先ほど月が持ってきてくれた墨入れのうちの一本と、筆。
「詠」
「……何よ?」
「袁紹の頭を押さえてくれ」
「は? 押さえるも何も、身動き取れないでしょ、あいつ」
「でも、縛っているのは身体だけだ。首は動かせるだろ?」
「……わかったわよ」
そして詠に頼んで、袁紹の頭──正確には顔を固定させた。
恭也はそれを見て、墨入れに筆を浸し、袁紹へと近寄る。
「ちょっと……何を…………する、つもりですの?」
「動くなよ。動いて目に入ったりしたらさすがに保証は出来ないからな」
「ちょ……っ」
背後から両手で挟み込むようにして袁紹の頭を固定している詠のおかげで、袁紹は完全に無抵抗。その袁紹の顔に……恭也の筆が走る。
そして──
「……出来た」
「──ぷっ、くすくすくすくす……っ」
「ちょっと月? なんで笑って…………………………ぶわはははははははははははははははははっっっっっっ!」
「ちょっと!? なんでそんなに爆笑してますの!?」
筆が離れた袁紹の顔を見て、恭也はちょっとした達成感。
月は、“それ”の完成を見て、さすがに笑いを堪えることが出来ない様子。
そんな月の反応を気にしてか、袁紹の背後にいた詠は慌てて袁紹の正面へと回り込んで……腹を抱えて大爆笑してしまった。
月と詠の尋常ならざる反応に、さしもの袁紹の表情にも不安の色が見える。何しろ二人は……袁紹の“顔”を見て笑っているのだから。
狼狽える袁紹に、恭也はすっと差し出したモノがあった。
それは、手鏡。
「これで確認すればいい」
恭也が差し出した鏡に映る自分を確認する袁紹は、
「な………………なんですのこれわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!?」
この日一番の絶叫を上げるのだった。
驚愕に歪む袁紹の表情。
そんな袁紹の顔が面白くて、吹き出す月と、さらに大爆笑する詠。
袁紹の顔の下半分は……無数の黒い点が描かれている。それはまるで古いコントで見る泥棒のメイクにある無精髭のように。そして目の周囲を黒く塗られていて、それはまるでくまのように。
そしてひたいには数本の波線が横に引かれている。まるで、皺のように。
そこに出来上がったのは……完全無欠の“おっさんフェイス”だった。
それは“墨のようなモノ”で描かれた悪戯書きである。
一応袁紹は、性格はともかくとして、顔立ちそのものは整った美人顔だ。そんな顔立ちだからこそ、その“おっさんフェイス”は実に滑稽で、爆笑を誘っていたのである。
「とりあえず、袁紹が反省するまでは、この顔で過ごしてもらうぞ」
これこそが、恭也が考えた“体罰”だった。
身体にダメージを与えても堪えないのなら、心にダメージを与えるしかない。そういう意味で言えば、彼女のプライドを傷つける妙案と言えた。
とりあえずの処置が終わり、恭也は鋼糸を解いて袁紹が動けるようにする。
すると、
「冗談じゃありませんわよ! 誰がこんな顔で──っ!」
袁紹は脱兎のごとくこの場を逃げ出す。行き先は、想像には難くない。おそらくは水場で顔を洗いに行ったのだろう。
それを別に咎めるでもなく見逃した恭也を見て、ようやく大爆笑状態から抜け出した詠が、当然の疑問を口にした。
「まあ……あれはなかなかいい罰だとは思うけど。でも、顔を洗われたら意味ないんじゃないの?」
詠の言う通り。いくらその場で笑いモノにしたとしても、今みたいにスキを見計らって顔を洗われてしまえばそれまでだ。これが体罰以上の効果をもたらすとは思えなかった。
しかし、その指摘はもっともだと認めた上で、それでも恭也は余裕を崩さない。
「詠の言いたいことは分かる。だがな……俺はそこまでお人好しではないぞ?」
「え……?」
意味深な恭也の言葉に、詠は思わず『それはどういうことか?』と問いただそうとした、その時だった。
「なんで落ちませんのよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっ!?」
再び遠くから袁紹の絶叫が聞こえてきたのは。
そして、徐々に大きくなってくる、誰かが廊下を駆ける足音。そして程なくして足音の主が詠たちにも見えてくる。まさに鬼の形相──なんだけど、変わらずの“おっさんフェイス”のためにまったく怖くない顔の袁紹だった。
袁紹は人を殺しかねないくらいに目を血走らせて恭也に掴みかかる──が、所詮は袁紹。恭也はそれをあっさりといなしてしまう。
「……随分と穏やかじゃないな。どうかしたのか?」
そして、とぼけた問いかけ。
怒りをぶつけたいのに、あっさりといなされた袁紹は涙目になりつつも、恭也を強く睨め付けた。
「どうかしたではありませんわっ! どうして、いくら顔を洗ってもこのふざけた悪戯書きが落ちませんのよ!? これは墨ではありませんの!?」
「そうだな。そもそも俺はお前さんの顔に塗ったモノが墨だとは一言も言ってないだろう?」
「な、なんですのこれは!?」
自分の顔に塗られた、墨のようで墨ではない“何か”の説明を求める袁紹。だが、その説明は詠や月も聞きたいようで二人も恭也に視線を集めていた。そんな三人の様子を見て恭也はその“何か”について簡単に語り始める。
実はコレ、高町軍の軍師である朱里が作ったモノだった。
朱里は以前から仕事の効率化を考えて様々な案を模索していた。そのうちの一つとしてあったのが、墨の改良案である。
書簡に墨で筆記していく仕事が多い朱里にとって、墨の乾きの早い遅いは地味ながらも深い悩みであった。筆記し終えた書簡をまとめて積み重ねていく時に、墨の乾きが遅いと書簡そのものが汚くなってしまうし、書いた字が滲んでしまうこともたまにある。
もっとも、そんな悩みを持つのは朱里くらいなのだが。
他の人間は書簡を積み重ねる前に墨くらいは乾いてしまうので、さして問題とも思っていないのだが、ことデスクワークにかけては無双の速さを誇る朱里には大きな問題だったのだ。
そこで朱里は墨を改良して速乾性の高いモノにしようと、暇な時間をみては新たな墨の開発にあてていたのである。そして生まれたのが──
「──これというわけだ。ただ朱里曰く、速乾性を重視した結果として非常に落ちにくいという欠点も生まれてしまったため、手に付いた汚れなどを落とすのに苦労するので実用化はしないらしいが」
「なるほどね……朱里らしいと言えばそれまでだけど」
「朱里ちゃん、頑張ってるんですねぇ……」
そのエピソードがあまりに朱里らしくて納得する詠と月。
しかし、
「しみじみと感心してんじゃありませんわよっ!」
被害者(?)である袁紹がそんな話を聞いてしみじみと出来るはずもなく。
「では……なんですの? よもやこのふざけた悪戯書きは消せない……とでも言うつもりですの!?」
それどころか、恭也の説明の中にあった“非常に落ちにくい”という言葉を聞いて顔面蒼白になっていた。
ゴージャスな黄金の巻き毛と、端麗な容姿。
袁紹は自らの美しさにも強い自負と誇りを持っていた。
だが、今の顔は……誰がどう見ても美しくなどない。それこそ、先ほどの詠のような爆笑を誘うのがオチだし、実はここから水場への往復の間に、数人の兵士や侍女にこの顔を見られ笑われていたのを彼女は当然気づいていた。
つまり……彼女はプライドの一つを完全に失うこととなるのである。
「じ、じょーだんじゃありませんわ! こんなの酷すぎますわよっ! 一生このままなんて……」
さすがの袁紹も、この状況に絶望してか膝を折ってしまう。
顔そのものは相変わらずの“おっさんフェイス”なので滑稽なのだが、膝が落ちてうつむく姿にはやはり悲壮感があり、さしもの詠すらも同情しそうになってしまった。
だが、恭也の次の一言が悲壮感を打ち消すこととなる。
「誰も一生そのままでいろ、とは言ってないだろう。そもそも、それを消す方法ならある」
「ぬぁぁぁぁぁぁぁんですってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっっっっ!?」
袁紹は、恭也の神速にも負けない速さで立ち直り、再び恭也に詰め寄った。恭也の襟首を掴み、これでもかとばかりにガクガクと恭也を揺さぶる。
「吐け! 吐きなさい! どうすればコレが落とせるんですのっ!?」
「落ち着け」
ごんっ!
「あう……っ!?」
恭也は再び袁紹の頭に拳骨を落として、強制的に袁紹を大人しくさせた。どうやら恭也の中で袁紹という人物は拳骨程度はいつでも落としてもいいくらいの扱いをしていいポジションになってしまったらしい。
乱れた服装を正してから、恭也はしれっとあるモノを取り出した。
それは、月が先ほどの速乾性の墨が入った瓶と一緒に持ってきた、もう一つの墨入れ用の瓶。
「朱里はこの速乾性の墨のヨゴレが落ちないので、この墨専用の洗剤も開発したんだ。それが……コレだ」
「寄越しなさいっ!」
洗剤の入った瓶を恭也が披露した瞬間、袁紹が恭也に飛びかかる。しかし、その袁紹の動きは恭也に見透かされていた。恭也は闘牛士が牛をかわすかのようにして袁紹をいなしてみせる。
しかし袁紹も諦めず、再び恭也に飛びかかろうとするが、それを恭也は制止した。
「言っておくが、何度襲いかかってきても無駄だ。袁紹、君程度の身体能力では俺からこの洗剤を奪うことは不可能なことくらいは自分でも分かるのではないか?」
「…………っ!」
そもそも袁紹は元部下の顔良や文醜と違って、それほど武人としての能力に長けていたわけではない。普通の年頃の少女に比べれば多少の素養があったのかもしれないが、努力という言葉を知らない彼女はその素養を一切伸ばすことなくここまできたのだ。そんな彼女に恭也が不覚を取るはずもない。
悔しさのあまり、ぎりぎりと歯ぎしりしつつ恭也を睨む袁紹。そんな彼女に、恭也は冷たく言いのける。
「汚れを落として欲しいのなら、それなりの態度があるんじゃないのか? 袁紹」
「……態度?」
「君が迷惑をかけた相手に謝罪し、その上でこれまでのことを反省する姿勢を見せれば……ということだ」
「っ!?」
つまり、早い話が詠に謝れ、ということだ。
袁紹が高すぎるプライドゆえに、決して折ることのなかった腰を折れ、と恭也は言っているのである。同じ袁紹のプライドである“美”を楯にして。
目には目を。歯には歯を。プライドにはプライドを。
これが恭也の思いついた“体罰”であり、詠のために用意した“武器”だった。
すでに国もなく、君主という立場すらなくなっても、袁紹の“王”としてのプライドはまったく損なわれることなく残っている。立場あってのプライドのはずなのに、彼女は頑なにそのプライドを捨てようとはしなかった。いや、生まれからして高貴だった彼女からすれば、プライドを捨てるという選択肢がないのだろう。ゆえに袁紹はいまだに心は“王”のままなのだ。
だが、紫苑が彼女に下したのは、そのプライドを強制的に捨てさせるための処断。
このままでは意味がないのだ。
だからこそ、恭也はこの罰を断行する。
袁紹は迫られる。
王のプライドを捨て、詠に頭を下げなければ、一生自らの“美”が損なわれる──それは、袁紹にとってはあまりに厳しい脅迫だった。先ほど鏡で見た今の自らの顔はあまりに酷く、美しいなどとは口が裂けても言えないくらいに滑稽。
この顔を一生晒して生きていくなど、出来るはずもない。
それはまさに、袁紹にとっては生き恥だった。
だからといって自ら命を絶つなど出来るはずがない。それは敗者の行為だからだ。
彼女は“王”であり、“王”とは負けぬモノ──いまだに彼女は恭也に負けたという自覚すらない。
だから、彼女は生きるしかなかった。
でも、この顔のままで生きるなど、以ての外だ。
しかし──っ。
袁紹の中での葛藤は五分ほど続く。
そして彼女は……一時の恥をかくことで、一生の恥を消すという決断を下さざるを得なかった。
その後、恭也は詠に例の墨を渡して、使い方を言い含める。
「また袁紹が聞き分けがなくなったら、遠慮なく墨を塗ってやれ。まあ、当然ヤツも抵抗するだろうから、その時は近くにいる兵士や侍女、それに愛紗たち武将の手を借りてでも抑えつけてやっていい。そのあたりはみんなに話を通しておくから」
そして例の専用の洗剤は恭也が所持する。墨とセットで詠に持たせると、袁紹が強奪する可能性もあるからだ。袁紹が墨を塗られた場合、彼女は恭也の前でしっかりと謝罪しない限りは墨の汚れを落とすことが出来ない、というシステムなのである。
「了解。でも……」
詠はおおむね恭也の案に賛成し、墨を受け取る。
しかし、どこか呆れるような、だけど感心するような目を向けて一言。
「……思ったよりもあくどいことを考えるのね。確かにこれはお人好しでは出来ないわ。意外と軍師も出来るんじゃないの? あんた」
「さて……な」
恭也は苦笑を返すしかなかった。
文醜、袁紹とつい最近仲間(?)になった人間の様子を見てきた恭也。
しかし、彼の休日二日目はまだ終わらず、様子を見るべき人間もまだ残っている。
次に様子を見るのは──。
あとがき
……予定通りにはいかないもんだ(汗
未熟SS書きの仁野純弥です。
前回の星に続いて、恭也の休日二日目は元袁紹軍の三人をピックアップ……のはずが、二人で終わってしまった。というか袁紹で文字を使いすぎたのが原因です。本当に厄介なキャラですね、あやつは。
そもそもは文醜、袁紹、そして顔良さんの順で恭也がそれぞれの様子を見に行く……という計画で始まった今回でしたが、さすがに文章量が増えすぎて断念。顔良さんだけを次回に持ち越し、という形になってしまいましたが……次回は恐らく顔良さん一人をピックアップ出来るという、ちょっとした優遇措置を取れたのは、悪い話でもないかと。あのひと、やっぱり苦労人ですしねぇ。
さて、今回書いていて「やっちまった」と思ったのが朱里の某青狸化とも言える便利道具開発。まあ、強引な話だなぁとは思いつつもどうしてもあんな便利なアイテムが必要になってしまい、やってしまいました。最初の案は、体罰用として詠にハリセンを持たせてバシバシと袁紹を叩くというモノだったのですが、書いてる途中で「その程度じゃあのバカは凹まないよなぁ」と思い直して、悪戯書き案へと移行したのでした。原作の袁紹の顔を知ってる皆さんは、あの袁紹に“おっさんフェイス”メイクをした顔を想像して、思う存分笑ってもらえたら、と思ってます(ぇ
まあ、そんなわけで、次回は確実に顔良さんのターンですので、まったりと楽しんでもらえたら幸いです。
では最後に、ここまでこのお話を読んでくださってる読者の皆様と、SS公開の場をくださった氷瀬さんに最大級の感謝を。
では〜。
あははは、またしても割を喰った形となった顔良。
美姫 「まあまあ、次回はちゃんと出番があるみたいだし」
だな。にしても、今回は冒頭の恭也の独白が結構気に入ったかも。
怒られるのを警戒〜とか。いやいや、気持ちは良く分かる。
俺も殴られないように日々、警戒を……ぶべらっ!
美姫 「口は災いの元とも言うしね♪」
ふぁ、ふぁ〜い。
今回も楽しませてもらいました。
美姫 「次回もとっても楽しみよね」
うんうん。次回も首を長くして待っています。
美姫 「待ってますね〜」
ではでは。