先の黄巾党との戦いにより、幽州に巣くっていた賊徒の大半を殲滅する事に成功した。無事だった残党達もほとんどが幽州を去り、しばらくは黄巾党の侵略を心配する必要が無くなったのである。
それまで黄巾党討伐で幾度も出陣し、戦ってきた兵たちにとっては、嬉しい知らせであり、嬉しいのは俺たちも、そして街の人々も一緒だった。
そして嬉しい誤算と言うべきだろうか?
もう一つ、俺たちの周囲に変化が起きた。
それは、幽州にある他の県の街などが次々と、俺たちの陣営に庇護を求めてきたのだ。どうやら黄巾党を排除した事で俺たちの力を頼ろうと言う事らしい。結果として、幽州の大半の領土が俺たちの陣営ということになってしまったのだ。
また一歩、大望に近づいたと愛紗達は喜んでくれたが、俺自身としては、守らねばならないモノが大 きくなった事で、比例するように責任が大きくなっていくのを感じていた。
しかし逃げ出すわけにはいかない。
愛紗や鈴々、そして朱里。彼女らをはじめ、俺を慕ってくれる人間のためにも、俺は“天の御遣い”として最善を尽くさなければならないのだ。それに──今も精進しているであろう、再会を約束した趙雲のためにも。
そんな決意と共に、俺はまた今日も、領土を治めるための仕事に汗を流す。
これは、そんなある一日のこと──。
『恋姫†無双異聞 〜高町恭也伝〜』
第十章
幽州の太守となった俺の一日は、朝日もまだ登りきらないうちから始まる。
まだ薄暗いうちに自然と目を覚ました俺は、まず手早く動きやすい服へと着替えた。
この世界へは、聖フランチェスカの制服姿でやってきた俺に、当然の事ながら他の着替えなどはない。そのため、当然着替えなどはこの世界で用意していた。だが、あの制服は愛紗曰く、天の御遣いの象徴、とのことなので、戦場に出る時や、外交で他国の使者と向かい合う時、さらには街の実力者と会う時など。それらの場合にのみ、着用するようにしているのだ。
ちなみに今着ているのは上下黒のシャツとズボン。動きやすいようにと、街の服屋に頼んで作ってもらった一品だ。他にも何着か普段着るための衣服はあるのだが、例によって全てが暗色系である。
朱里なんかは俺の服の種類を見て、
「……出来れば、もう少し明るい色の服もお召しになってみたらどうでしょうか?」
と控えめにすすめてくるが、こればかりは好みの問題なので、勘弁してもらった。
話が横道に逸れたので、元に戻そう。
まだ他のみんなが眠っているこの時間、俺が目を覚ました理由は一つ。
あっちの世界でも日課だった早朝の鍛錬を行うためだった。
御神流の剣士として完成していない俺としては、このパラレルワールドに迷い込んだとはいえ、それを休むわけにはいかない。いやむしろこの世界が乱世であるのなら、尚更自分を鍛えておく必要があるのだ。
俺は着替え終わると、小太刀を模した木刀と鉄製の飛針──これらのモノは街の武器屋と鍛冶職人に作ってもらった──を手に、気配を消してあてがわれた自室を出る。
これはもちろん、今もなお寝静まってる他の人間への配慮でもあるが、特に愛紗を警戒してのことだった。俺としては仲間と思っている少女は、完全なる主従関係である事を望み、俺を主として敬愛してくれる。だが、それが強すぎるきらいがあり、どうにも過保護な一面があるのだ。
「お一人で街に出るなど……御主人様には太守たる自覚が足りません! 御主人様がお強いのは存じてますが、それでも不測の事態に備え、護衛をお連れ下さい!」
以前、復興した街の様子を見に行こうと、ふらっと外に出ようとした時の彼女の言葉である。
まあ、素直に心配してくれるのは嬉しいし、彼女の言い分ももっともなのだが、少しはこっちを信頼してくれてもいいと思うのだ。彼女から見れば、俺はどうにも太守としての心構えが出来ていないということが不安なのもわかるが。愛紗や鈴々が単独で街の警邏に出ているのを見ている俺としては、もう少し、その……放任してくれてもいいと思うんだが。
「まあ……そんな事を言った日には、愛紗の雷が落ちるのは目に見えてるから、言えないんだがな」
俺はそんな独り言を呟きながら、県庁を後にする。
朝晩の鍛錬に関しては、当然愛紗にも秘密だ。こんな事がばれたりしたら、愛紗自身が俺の傍をずっと張り付きかねない。
そんな状況を脳裏で想像して、怖くなってしまったのは、絶対に秘密だ。
鍛錬場所として俺が利用しているのは、街のそばにある森の中だ。
街の外周を囲んでいる城壁には、外敵の侵略に備えて常に見張りの兵士が立っているので、俺はこっそりと街を抜け出す。こういった街からの脱出や、帰ってくる時の潜入があっさり出来ている現状は、太守としては憂うべき問題だったりするが、ここで見張りを強化されても困るので、ここはあえて見て見ぬフリだ。
街を出た俺は、城壁の上からの兵の監視の目を盗むようにダッシュで森まで向かう。この行為が図らずも前の世界における走り込みと同等のトレーニング効果をもたらしているのだから、なんとも複雑だった。
森の中に入ってしまえば、さすがに視線を気にする事もなく、俺は気に入っている場所へと向かう。それは、小さな清流の脇にある川辺だ。
そこで俺は素振り代わりの型稽古やイメージトレーニングなどをしたあと、傍の小川で汗を流してから街へと戻る。定められた朝食の時間までに帰らないと、この朝晩の鍛錬がばれてしまうので、時間に関しては相当に気を遣っていた。
鍛錬から戻ってきた俺は、愛紗、鈴々、朱里と一緒に朝食を取り、その後は早速政務の時間となる。俺が自室として使わせてもらってる部屋は、仕事部屋も兼ねているので、自室で待っていると朱里なり愛紗なりが今日中に目を通さなければならない書簡を持って来てくれる手はずになっていた。俺は食後のお茶を飲んだ後、自室に戻り、書簡が来るのを待っていたのだが、
「む……少し汗くさいか?」
小川で水浴びをして汗を流したとはいえ、衣服に染みた汗はさすがに洗濯しないとならない。しょうがない……着替えるか。
「着替えるのは上のシャツだけでいいか」
とりあえず汗くさくなったシャツを脱ぎ捨て、新しいシャツ──勿論黒の──を用意していると、
こんこん
軽いノックの音が鳴った。俺はとりあえず、着替え中なので少し待ってもらえるか、と戸の向こうに声を掛けようとしたのだが、
「失礼します〜。本日お目通ししてもらう書簡をお持ちしま…………ひああああ〜っ!」
それより先に戸を開けてしまった朱里の悲鳴に俺の方が驚いてしまった。
朱里は両手に抱えていた書簡を全て落として、部屋の前で顔を両手で覆い、こちらを見ないようにしながらも混乱している。
「はわわっ、ふわ……っ、そ、そのわざとではないんですっ! てっきりその、御主人様がお仕事をでも裸が……あの、書簡をでもビックリで」
……もう、言葉もメチャクチャで収拾がつかない。
俺はとりあえず新しいシャツを着てから、
「……まあ、今回は俺にも落ち度があるから。とにかく、落ちた書簡を拾い集めよう」
「はわわわわっ!? そ、そうでした〜っ」
真っ赤な顔のままで慌てる朱里と二人で床に落ちた書簡を拾っていくのだった。
そして全てを拾い終わり、集めた書簡を部屋の中にある執務用の机の上に乗せてから、朱里は相変わらずの真っ赤な顔のままで、何度も何度も頭を下げる。
「あう〜……その、申し訳ありませんでしたっ。しっかりとお返事をもらってから戸を開けるべきでしたっ!」
あまりにも必死な謝罪に、今度は俺の方が申し訳なく思ってしまう。だから、
「いや……悪いのは朱里だけじゃない。そろそろ政務が始まろうという時間に着替え始めた俺にも落ち度はあったんだし」
お互いの不注意という形で終わらせようとした。しかし朱里が納得しない。
「そ、そんな……やっぱり私のせいなんです〜っ。私っていつもドジで……」
「そんなことはないぞ? 朱里はいつも良くやってくれている。なのに、今日は俺の方が間が悪かったんだ。朱里にも見たくもないモノを見せつける形になってしまったし……」
「そ、そそそそんなことありませんっ!」
「ぬおっ!?」
突然、語気を強めて反論する朱里に、俺の方がのけぞってしまった。
「御主人様のお体はとても素晴らしかったですから! 普段のお姿からは想像出来ないくらいに引き締まった身体だで、私も思わず見とれて──」
「…………」
……なんというか、そう言われると恥ずかしいんだが。というか、
「……さっき、顔を手で覆ってこっちを見ないようにしていたかと思っていたが……実はしっかりと見ていたのか」
「っっっっっ!?」
つまりはそういうことなのだろう。図星を指された朱里は真っ赤な顔のまま絶句している。こうなってくると、少しくらいはからかいたいと思うのが人情だ。
「なるほどなるほど。朱里も異性の裸に興味津々なお年頃なのだな……」
「はうあっ!? あのっ、その……ち、違……」
すでにもう、朱里は顔どころか耳までも、そして首筋までも真っ赤にして、頭の上からは煙が出そうなまでになっていた。羞恥の感情が限界に達したのか、ぐるぐると目を回し、
「あうぅぅ〜……」
足下もおぼつかないほどにフラフラとなってしまうのだった。
「………………」
「いや、本当に済まなかった。だから、そろそろ機嫌を……」
「ぷん、ぷんっ、ぷーーーーんっだ」
俺の部屋には机が二つ。
一つは当然俺が仕事で使うモノだが、その隣にはここで俺の他にもう一人仕事が出来るようにと、予備の机が用意されていた。
黄巾党や野盗の襲撃などがなければ、午前から夕方までは政務を行う事になっている俺だが、午前中は朱里、もしくは愛紗あたりと一緒に仕事をする事になっている。それには理由があった。
この世界にやってきた俺は、出会う人間全てが日本語で意志の疎通が出来ている事に驚いていたのだが、だからといってこちらで使ってる文字や文章までもが日本語かと思ったら大間違い。こちらは見事なまでな漢文による文章構成となっていた。自慢ではないが、中学高校と授業中を睡眠時間としていた俺が、そんな暗号じみた文章を解読したり、使いこなす事など出来るはずがない。つまり、言葉は話せるが読み書きが出来ないと言う奇妙に状況になっていたのだ。
ゆえに、県令となった頃は愛紗に。そして最近は朱里にも読み書きを教わりながらの政務ということになったのである。とはいえ、この世界に来てからもう随分な時間が経った。いくら頭の悪い俺でも、愛紗、朱里の献身的な教えのおかげで、基本的な文字の意味と、文章解読、書取などは出来るようにはなっていた。しかし、全てをマスターしたというわけではないので、今でも午前中は一緒に政務をしてもらい、分からない文字や文章があると、それを質問する、という形を取らせてもらってるのだが。
「いや本当に頼む朱里。この文の意味が、前後繋がらないんだ。違う解釈なんだろう?」
「…………」
先ほどからかいすぎて、すっかりへそを曲げてしまった我らが軍師殿。仕事を始めると、こちらとは目を合わさないというわかりやすい「怒ってるんですからねっ」オーラを発し、黙々と自分の仕事をこなしていく朱里。俺もさすがに反省し、ここは真面目に仕事をこなす事で機嫌を窺おうと思ったのだが、チェックしていた書簡の中で、途中に難解な一文にぶちあたってしまったのだ。
そこで、朱里先生に質問してみたのだが、先ほどの通りである。
……まあ、頬を膨らませながら拗ねている様子も、年相応に可愛らしいとは思うが、これを素直に口にした日には、火に油を注ぐ結果となるだろう。どうにもうちの軍師殿は子供扱いされる事をよしとしないようだからな。
とはいえ、このままではまずい。
「……朱里、俺も反省しているから。そろそろ許してくれないか? このままでは他の書類に目を通す時間がなくなってしまうんだ」
「…………」
「頼むっ! 俺に出来る事ならなんでもする! 俺に、誠意を見せる機会をくれ!」
太守としては情けないのだろうが、背に腹は替えられない。とにかく謝り倒した。すると、
「ふぅ……わかりました」
「朱里……」
「お仕事を滞らせるなんて、色々な人たちにも迷惑がかかりますから……でも、まだ怒ってるんですからねっ」
許したわけではないと強調した上で、
「この文章はですね──」
ようやく朱里は俺にご教授してくれた。
俺は安堵の息を漏らしながらも、彼女の説明に耳を傾ける。
そして、その後は比較的スムーズに政務は進んでいくのだった。
そして、午前中のうちにチェックしておかなければならない書簡はどうにか片づき、ようやく一息つく事が出来た。
朱里はいつものようにニコニコと笑顔を見せたりはしなかったけど、それでもこちらからの質問にはしっかりと答えてくれたので、仕事そのものはスムーズだったが、やはり雰囲気はあまり良くない。
……思った以上に怒りが持続しているな。これは長期戦か?
そんな事を考えながら、県庁で働いてくれている侍女が用意してくれたお茶を飲んでいると、
「あの……御主人様?」
「ん……?」
仕事中、政務に関する事以外は一切言葉を交わそうともしなかった朱里の方からこちらに声を掛けてきた。
俺は内心で驚きつつも表情には出さず、応対する。
「どうかしたか? もしかして仕事で何か不備が──」
「先ほどのお言葉、間違いないですか?」
「先ほどの言葉……?」
はて? それはいったいどれを指してるのか、と首を傾げた。
「御主人様が、自分の出来うる限りのことで謝罪していただける、と」
「ああ……それか」
まあ、朱里が機嫌を直してくれるのなら、出来る限りの事をする、と言うのに偽りはない。とは言っても俺に出来る事など限られてはいるが。
「間違いないし、二言もない。俺が出来る事なら、だがな」
「でしたら、よろしいでしょうか? 一つ、お願いを聞いてもらっても」
「とりあえずは言ってみてくれ」
「では、その……」
朱里は少しだけ口ごもっていたが、意を決するようにお願いを口にした。
「天のことを……御主人様の世界の事を聞いてもいいですか?」
「俺の、世界?」
「はい……」
……なるほど。何とも朱里らしいお願いだ。
朱里は学問に精通し、ありとあらゆる知識を取り込もうとする貪欲な一面もある。その彼女からすれば、天の御遣いと呼ばれている俺の元いた世界というのは未知の塊だ。興味がないはずがない。
朱里は上目遣いで、「ダメでしょうか?」と不安げに見つめてきた。謝罪する立場なのは俺なんだがな。
俺は苦笑しつつ、不安そうな朱里の頭を撫でた。
「……まあ、俺は口下手なんでな。出来れば、そちらから質問してもらえると、こっちは助かる」
「あ……はいっ。わかりましたっ」
朱里は頬をわずかに赤くしてから頷く。
そして、朱里の質問が始まった。
やはり以前から異世界から来たという俺の存在が間近にある分、興味は尽きなかったのだろう。
今いるこの世界と比べ、どんな技術が発達し、どんな文化が根付き、そこに住む住人たちはどんなことを考えているのか。
そんな問いがメインだった。
それに対しての、答えだが……出来る限り本当の事を語ろうと思ったが、同時に出来る限り朱里を驚かせたいという気持ちもあって、俺はあえてこの時代の人間では考えつかないような技術を説明する。
「俺の居た世界には、空を飛ぶ乗り物があってな。一度に数百人をも乗せる事が出来る大きさの鉄製の乗り物が、雲の高さまで飛び上がる事も出来るんだ」
「はわわ……もはや仙術みたいです」
嘘ではない。だが、朱里は信じられないといった表情で目を丸くし。
「他には、百里離れた場所にいる相手に対し、まるで隣に居るかのように会話をする事が出来るという伝達技術があるんだ」
「凄い……夢のような……」
携帯電話のことを自分なりに説明すると、朱里は夢物語を聞いてるかのように陶然としていた。
他にもテレビなどの映像機器や、車や電車などといった馬などを使わずとも、それ以上の速さで移動出来る乗り物など。
今居るこの時代ではあり得ない技術を説明した。
それらの話を聞いていた朱里が、ぽつりと呟く。
「そのような卓越した技術があっても……御主人様の世界でも、争い事は絶えないのですか?」
「朱里……?」
「その……朝、御主人様のお着替えを見てしまった時から気になっていたんです。御主人様の身体……傷だらけだったから。あれは、こちらに来てからの傷ではないんですよね?」
……なるほど。
一番気になっていたのは、俺の身体に無数ある傷の事だったのか。
「……そうだな。実際、俺の住んでいた国には戦争はなかったが、世界のどこにも戦争がなかったかと言われれば、そんなことはない。やはりどこかで必ず戦争は起きていたはずだ」
「え……? 御主人様の近くには戦争はなかったんですか?」
「ああ」
「では、どうして……?」
傍には戦争がなかったのに。
しかし俺の身体には、明らかに戦いで付いたと思われる無数の傷跡。
そして、この時代に来てからも前線で戦える戦闘技術を有している。
それは、朱里でなくても不思議だろう。
「確かに俺の国には戦争はなかったし、正直この世界に来るまで軍と軍が衝突する戦争を経験した事はなかった。だが、俺には強くなる理由があったんだ。この体中に刻まれた傷跡は、強くなるための鍛錬の中で付いたモノや──」
俺は一瞬だけ──元の世界の家族達の事を思い出す。
かーさん。
なのは。
美由希。
レン。
晶。
フィアッセ。
そして親しい友人達も。
忍。
那美さん。
フィリス先生。
「──守りたい、大切な人たちを体を張って守り通した時に受けたモノなんだ」
「そう、なんですか──」
こちらに来てからは、意識的に遠ざけていた……元の世界の、大切なひとたちの事。
それを思い出してしまい、俺の中に郷愁の思いが膨れあがる。だが、今はそれに支配されるわけにはいかないのだ。俺にはこの世界でも役目があるし、どちらにしろ帰る方法など今はまったく見当も付かないのだから。
俺はそんな弱い自分の心を振り払おうとしていた──そんな時。
「……ありがとうございました御主人様」
朱里は笑みを浮かべながら、立ち上がった。
「もうそろそろお昼ご飯の時間ですから、私はこれで。御主人様も午後に備えてしっかりと休んでくださいね」
「あ、ああ……」
そう言い残して、朱里は俺の部屋を後にする。
もう、今朝の一件に関しては怒っていないのは間違いない。そのはずなのに──どうしてだろうか?
部屋を去る時の彼女の笑顔が寂しそうに映ったのは。
朱里との話で時間を忘れていたらしく、俺は若干遅めの昼食をとった。それでも元々食事時間が他の人間よりも早いため──もっとも鈴々には負けるが──午後の政務に入るまでには多少の時間がある。俺は満腹になった腹を落ち着かせるためにも散歩がてら県庁の中を彷徨う事にした。
そして、中庭に足を向けた時、興味深いモノを発見する。
それは──
「うりゃりゃりゃりゃーーーっ!」
ぎっっぎぃぃぃぃぃぃぃんっ!
「はぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
きぃぃんっ! きんっっ!
俺たちの軍が誇る二人の勇将、張飛──鈴々と、関羽──愛紗の一騎打ちだった。
とはいえ、これはあくまでも二人の鍛錬だ。
それでも二人はしっかりと自らの得物──青龍偃月刀と蛇矛を手にして、打ち合っていた。
その迫力たるや、鍛錬だと分かっていても息を飲むほど。
鈴々は、己の身長の倍以上ある蛇矛をその小柄な身体のどこにあるのかと問いただしたくなる程の膂力で自由自在に操り、次々と愛紗へ攻撃を仕掛ける。
しかし愛紗もまた自分の背よりも長い青龍刀を苦もなく振るい、力と技を駆使して鈴々の攻撃を捌いていた。
抜群の運動能力と、動物的とも言えるカンとセンスの鈴々。
その細身の身体からは考えられないほどのパワーと、若くして熟練した技術の愛紗。
そして互いに、己の武器を手足と変わらないほどに使いこなしている。
その二人の戦う姿は、まさに一騎当千。
二人の刃がぶつかると火花が飛ぶと同時に、その場の空気まで歪み爆ぜるような錯覚まで起こしてしまうほどだった。
中庭の傍の木陰で二人の打ち合いを見ていた俺は、ついつい想像してしまう。
──自分ならば、鈴々と……あるいは愛紗と刃を交えたとすれば、どう戦うか? そしてどういった決着がつくか?
「…………」
頭の中で、いろんなパターンで勝負を挑む。しかし、
「今の俺では……まあ、無理だろうな」
結果は惨敗。
恐らくある程度は苦しめる事は出来るだろう。だが、それでも……膝に爆弾を抱えている俺では限界はある。一日三度の『神速』では、あの二人に肉薄は出来ても追い詰めるには届かないはずだ。
自分に都合のいい想像も出来ない自分。そして勝手に想像した結果に対し昏い感情を抱こうとする自分自身に、呆れ気味の苦笑を浮かべながら、
「……さて、バカな事を考えてないで、仕事に戻るか」
俺は足音を立てないように、静かにその場から立ち去るのだった。
そして午後の政務は一人でこなす。
幸いにも書簡の内容はどれも俺に分かる範囲だったので、その全てに目を通して必要な許可を出し、諸問題の解決方法を考え、朱里の元へと提出。
いつも通りの夕食の時間前には今日のノルマを終わらせる事が出来た。
昼食こそはみんなバラバラだったが、夕食はみんな顔を揃えての食事となった──のだが。
気になる事が一つ。
朱里がどうにも元気がなかったように見えたのだ。
大体はいつも通りなのだが、ふとした時にどこかその表情に影が差す瞬間があるような。
それはもしかして、午前中のやりとりに関係するのか、と思い、声を掛けたが、なんでもないの一点張り。
結局何も分からないまま、夕食の時間は終わってしまった。
「ふぅ……」
夜になり、深夜の鍛錬に出る前。
俺は普段なら鍛錬前は体を休める意味でも部屋で大人しくしてるのだが、今夜ばかりは気分転換をしたいと気まぐれを起こし、この街で一番高い場所で夜空でも眺めようと、城壁の上へとやってきた。
一応護身用として小太刀を背中に隠し持ち、右手には徳利を提げ、「少しの時間だけでいいから、見張りを変わってくれないか?」と兵の一人にわがままを言って、見張り場所を貸してもらった。まあ……もっとも見張りをするような格好ではないから、兵士も訝しげに首を傾げていたが。
城壁の見張り場所へと腰を下ろした俺は、夜の涼しい風をその身に受けた。
それがとても心地よく、気分が多少なりとも良くなった俺は徳利を直接あおるようにして、その中身を口に運ぶ。その時に俺の視界に夜空が入った。科学技術が発達した元の世界に比べ、その星空の鮮やかさは息を飲むほど。大きな満月と、その満月の光に負けないほどに瞬く無数の星たち。
この世界にとっては当たり前で、だけど俺には贅沢な自然の天蓋を楽しみながら、また一つ大きく息を吐いた。
「はぁ……」
俺がこんな気まぐれを起こした理由は二つ。
一つは勿論朱里の様子について。
そしてもう一つは──
「……見張りを変わるにしては、あまりにらしくない姿ですね……」
「ははっ……確かにな。だが、勘弁してくれ。なにも酒を飲んでるワケじゃないんだ」
「そう、なのですか?」
「実はこの徳利の中身は……お茶なんだよ。なんなら、飲んでみるか? さすがに温いけど」
酒ではない事を証明する意味でも俺は徳利を掲げ、彼女に差し出す。が、
「いえ、むしろ納得です。御主人様は元々、すすんで酒を飲む方では無い事を思い出しましたので」
彼女はそれを疑ってはいないとばかりに、丁重に断った。
「で? もしかして何か問題が起きたり──」
「いえ。ただ……宜しければ、おつきあいさせてもらえないものかと思いまして」
「……夜の見張りを、か?」
「はい。見張りを、です」
俺たちは二人顔を見合わせ、
「くすっ」
「ふふっ」
小さく吹き出した。
そして、
「好きにしてくれ」
「はい、ではお言葉に甘えまして」
愛紗は少しだけ遠慮がちに俺の隣へと腰を下ろした。
夜の涼しい空気の中、肩が触れ合うか触れあわないかくらいの距離に座る彼女の体温がかすかに感じられ、それがまた不思議な安心感をもたらしてくれる。そんな中で俺はただ無言で夜空を眺めていた。するとしばらくして、
「御主人様は……不思議ですね」
「不思議?」
ようやく愛紗の方から話しかけてくる。
「どこにでもある夜空をまるで尊いモノを見るような眼差しで見ていますから」
「なるほど……確かに愛紗からすれば、俺の様子はおかしく映るよな」
「もしかして……天界には、空がないのですか?」
「いや……ないこともないんだが、ここほど美しくはないな」
「美しい……ですか?」
「俺の世界は……星が少ないのさ」
「はあ……」
俺の言葉の全てを理解出来たわけではないが、とりあえずは頷く愛紗。
この世界の空がスタンダートな彼女にとって、俺の言う“星の少ない夜空”というモノが想像出来ないのだろう。
俺はそんな彼女の様子に苦笑しつつ、そろそろ本題を切り出す事にした。
「すまないな、愛紗」
「……御主人様?」
「俺の様子を気にしてくれて、ここへ来たんだろう?」
「…………」
否定の言葉はない。
無言の肯定。
以前、一度愛紗の前で弱音を吐いた事があった。年下──と思われる──少女の前で弱音を見せるなんて、自分としては情けない限りだったのだが、これに関しては不覚だったと言わざるを得ない。
そんな事があって以来、愛紗は以前よりも注意深く俺の様子を見るようになっていた。そして俺にちょっとした変化があれば、こうして俺の話を聞こうとしてくれるのである。
とはいえ、俺にも一応年上の男としての意地もあり、あれ以来一度も彼女の前で弱音を吐いた事はないのだが。
「しかし……今日の俺はおかしかったか?」
ここで一つの疑問。
少なくとも俺は、表面上はいつも通りにしていたという自信はあった。それだけに、こうして愛紗がこの場にやってきたのは意外でもある。
しかし、愛紗はそこでは首を振った。
「いえ。少なくとも今日の御主人様を見ている限りは、いつもと違いは感じませんでした。ただ……」
そこで一旦言葉を切った愛紗は、少しだけ間を空けてから続ける。
「……朱里の事で少し話がありまして。それでお部屋を伺ったところ、御主人様の姿もなく。そこで初めて、ですね。御主人様の様子もおかしいと思ったのは」
「なるほど……」
納得出来たし、安堵もした。
少なくとも、俺の様子がおかしい事を隠していたのを見抜かれはしていなかったようだ。
「じゃあ、その朱里の話ってのを聞こうか?」
「はい。では、その前に一つ質問をさせてください。今日、御主人様は朱里のせいで気分を害されたということはありましたか?」
「俺が朱里にされたこと? 朱里が俺に、ではなく、か?」
それは素直な疑問。
今朝、確かに朱里をからかいすぎたことはあったが……などと考えていると、
「ほぉ……?」
──愛紗の目がすっと細くなった。
そして、周囲の空気が一気に5度くらい下がったような錯覚──。
「よもや、朱里に何か邪なちょっかいを……?」
「よ、よこしまっ!? ちっ、違うぞ! 俺は決してやましい事は何も! 本当だ! なんなら朱里に言質を取ったっていいから!」
「……まあ、そこまで言うのならそうなのでしょう」
……なんとか空気が元に戻った。
「後でしっかりと調べておきます」
……信じてくれたわけではないのか。
どうにも愛紗はここのところ、俺が異性と接触するたびに殺気にも似た独特の雰囲気を持ってこちらに睨みを利かせるという事が多くなった。
まあ……トップの人間が男女関係のトラブルなんて起こせば、民衆達や兵たちの心が離れてしまうから、それを危惧しているのだろう……と思う。
ただ、その視線が一層厳しくなったのは……間違いなく、趙雲との一件があってからだ。
俺は今も旅を続けているであろう少女の、クールな中にも悪戯心を感じさせる顔を思い出し、心の中で文句を言う。
「まあ、それはともかく」
そこで愛紗は話を戻す。
「実は夕食後、朱里から相談を受けまして」
「ふむ」
「自分の無神経な行いで、御主人様を傷つけてしまったかも知れない、と」
「朱里が……か?」
「はい、朱里が、です」
今の愛紗の話からして、朱里はどうやら俺に対しての罪悪感で様子がおかしかったらしい。
しかし、なんで彼女が罪悪感を持っているのかがわからなかった。
朱里と顔を合わせたのは、朝食の時、午前の政務、そして夕食時。その中でも夕食の時はほとんど会話を交わす事もなかったし、あの時にはすでに様子がおかしかったので、その場ではないはずだ。そして朝食時はまったくもって様子はいつも通り。
となれば、残るは当然午前の政務だが。
俺はあらためて午前の政務の時のやりとりを思い出してみた。
最初は着替えを見られて互いに驚き、俺が朱里をからかいすぎて機嫌を損ねてしまい、最後は朱里の要望を聞いて元の世界の話をして──
「あ……」
「何か思い出しましたか?」
「ああ……多分、間違いない」
無神経な行い。
俺を傷つけた。
──そして、あの時部屋を出る時に見せた、違和感のある笑顔。
そこに、歳不相応に聡い朱里の性格を考えれば、答えは自ずと出てくる。
「迂闊だった……愛紗。朱里は何も悪くないんだ。悪いのは俺だ」
「……と、言いますと?」
失敗を説明するのは正直恥ずかしいが、仕方がない。悪いのは俺なのだから。
俺は今朝の顛末を簡単に話した。
着替えの一件。そして朱里を怒らせた事。政務が一段落付いたところで、朱里に俺が元いた世界の話をした事を。
「……少なくとも、私には朱里の言った“無神経な行い”というのが見えないのですが?」
「だろうさ。俺だって朱里がそんな事をしたなんて思ってないんだから」
「ですが、御主人様は朱里が何を気にしているのかは気づいたのですよね?」
「ああ……」
朱里はしっかりと見ていたんだ。
俺が、家族や親しい友人達を思い出した時の表情を。
俺の中に、今は眠らせている元の世界へと戻りたいという心を。
それを見透かした朱里は、自分のせいで俺に寂しい思いをさせた、と考えたんだ。
だからこそ、あんならしくない笑みを見せたんだろう。
それを説明すると、ようやく愛紗も納得してくれた。
「なるほど……そうでしたか」
「俺としては、これは虚勢でもなんでもなく、気にしていなかったんだ。だからこそ、朱里の様子がおかしい事には気づいていたけど、その原因がわからなかった」
それは、彼女の聡明さと優しさが原因だったのである。
いや、原因は俺の鈍さか。
「……愛紗。ここで俺が“なんでもないから気にするな”と言っても、朱里は信じないかも知れないから、そっちの方で言い聞かせてもらえるか? 愛紗に相談したんだから、きっと聞き入れてくれるだろうし」
「わかりました。お任せ下さい」
愛紗は俺の頼みを快く引き受けてくれた。
よかった……朱里が落ち込んでる姿なんて、出来る限り見たくはないからな。
俺は再び夜空を見上げながら、徳利の中のお茶を飲んで、呟いた。
「ふぅ……よかった。これで問題は解決だな」
気になっていた事がなくなり、俺は肩の荷が下りたとばかりに息を吐く。しかし、
「話はまだ終わってません」
「え?」
「確かに朱里の一件は片づきました。しかし、まだ御主人様の件が残ってます」
「あ……」
「先ほどの様子からして、朱里の事とは別件で御主人様の中には憂うべき事柄があるのでしょう?」
「そ、それは……」
図星だ。
確かに朱里の事も気にしてはいたが、その他にもう一つ。
俺の中には問題……と言うほどでもないが、スッキリしない事があった。だが、それは──
「……話してはもらえませんか?」
「いや、その……こればかりは、誰かに言ってどうにかなる問題ではないんで……」
「話すだけでも楽になると思いますよ? ただでさえ御主人様は自らの中に消化出来ない悩みを溜め込むようですし」
「そ、そんなことは……」
真っ直ぐに見つめてくる愛紗の視線に耐えきれず、目を逸らす俺。その弱気の姿勢がさらに愛紗からの圧力を増大させてしまう。
「お話ください! それともなんですか? 御主人様にとって私は信頼出来ませんか?」
「……その言い方は卑怯だぞ愛紗。俺がこの世界で、君以上に信頼出来る人間なんているはず無い事を知っていて」
「そ……それは、その……光栄ですが……」
愛紗の方から、俺にそう言わせようとしていたのに、いざ言葉にしたら照れるなんて。言ってしまった俺の方も照れるじゃないか……。
「ならば、御主人様の問題を打ち明けてくださいませ! 私は少しでも、御主人様の背負うモノを分かち合いたいのです!」
「き、気持ちは嬉しいけど……だが、これはそう言ったモノじゃないんだ!」
「む〜っ」
「うう……」
どんなに拒否しても、愛紗は一向に退く気を見せない。
彼女が俺の事を気遣ってくれてるのはわかるが、今回ばかりは言えるはずがないのだ。
愛紗には特に、だ。
──昼間の、彼女の戦う姿を見て、その強さに嫉妬していたなんてことは。
結局、愛紗の執拗な追及は寝るまで続き、深夜の鍛錬はこの日に限っては諦めざるを得ないのだった。
あとがき
……ま、何事もない平和な一日、ということで。
未熟SS書きの仁野純弥です。
とりあえず原作とは別の、恭也の一日を追ってみたのが今回のお話です。ちょっとしたおまけエピソードって感じでした。
ちなみに、次の話からは新たな展開へ……となりますが、原作を知ってるなら特に驚くこともないお話になるので、期待は禁物です(爆
では最後に、ここまでこのお話を読んでくださってる読者の皆様と、SS公開の場をくださった氷瀬さんに最大級の感謝を。
では〜。
平穏(?)な一日〜。
美姫 「こういうのも良いわよね」
うんうん。慌しい戦乱の世の中でほっと一息吐ける瞬間。
美姫 「ほのぼの〜」
次回はそろそろ大きな動きがあるのかな。
美姫 「どうなるのかしらね」
次回も楽しみにしてます。
美姫 「待ってますね〜」