「北郷一刀、うぬを巴郡太守に任命する」

 

 正都の城の一室で取り仕切られる簡略化された任命式。

 

 そんな簡略化されたという事実さえ、この城の幼い主――――劉璋こと天栄のその黄金の髪同様の尊大な雰囲気により霞んでしまう。

 

「慎んで、拝命つかまつります」

 

 その事実を霞ませているのは劉璋――――天栄だけではなく、跪いている一刀に因るところでもあった。

 

 端から見て、充分に立派な任命式。

 

 しかし、護衛である星はそれ以上にこの部屋に居る者たちの反意をひしひしと感じる。

 

 そう。

 

 この場に居る群臣たちのほとんどが一刀の太守任命に反発していた。

 

「余のため、何より民のために、尽力してくれ」

 

「はっ、この身命に代えても、必ずや劉璋様の御期待に添えられる様に尽力致します」

 

 しかし、そんな場の空気も、この二人の荘厳さの前には何ら意味をならなかった。

 

 そんな二人を妬み、嫉みといった負の感情ではなく、喜色といった感情を――表情には出さないが――抱く者が数名いた。

 

 そんな者もいたが、やはりそれは少数派であり、ほとんどの者は負の感情をある者は表情にすら露にする。

 

 群臣たちのほとんどが反意を抱きつつも、任命式は何事もなく終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二十七話:変革の序曲

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間は遡る。

 

「なりませぬぞ!!」

 

  劉璋こと天栄が一刀との深夜の密会を終えて三日後。漸く、一刀の論功行賞が行われていた。

 

  その朝議の場で、長身で白髪混じりの壮年も幾つか越えてきた男性――――張粛(ちょうしゅく)は主――――劉璋こと天栄の提案を大声で却下する。

 

「そうです。あやつは“天の御遣い”などと名乗っていますが、実際のところはドコの馬の骨か解ったものではありませぬ。 そんな者に巴郡の太守を任せるのは私も反対です」

 

  一刀と同年代ぐらいであろう肩まであるオレンジ色の髪の女性――――黄権はそれに同意する。

 

「だ、だが、あやつは多数の賊を退けるという大功を為した。その大功には報いる必要があるであろう?」

 

 劉璋――――天栄は概ねの群臣が反対の意を示す中、先日の密会で一刀に見せた偉そうな態度とは違い、おずおずといった擬音が似合う態度で発言する。

 

 いつもは群臣の意見を鵜呑みにするばかりの天栄が見せた、自分の意見を貫こうという姿勢に張粛は忌々しそうに眉をしかめ、その張粛の年の離れた弟――――張松(ちょうしょう)は兄とは違い感心といった感情を抱く。

 

「確かに、その大功は認めます」

 

 そのどちらでもなく、オレンジ色の髪の女性――――黄権が一つ頷きながら答える。

 

「ならば――――」

 

「しかし、そのたった一度の大功で、太守という大役を任じるのはその他の功臣に不快感を与えます」

 

 天栄の細やかな抵抗も虚しく、黄権はバッサリと斬り、天栄の意見を退ける。

 

  張粛の己の権力を誇示するという、言わば自己顕示欲からの反対とは違い、黄権は純粋に――賊を追い払ったとはいえ――ぽっと出の者に太守といった要職を易々と与えることはそれ以上の功を上げている者に不快感を与えかねないという不安故の進言である。

 

  それぞれの胸の内はともあれ、ある者は反対の意見に賛同し、ある者は無言でそれを静観する。だが、ざっと見渡す限り、劉璋の提案に同意する者は見当たらなかった。

 

「先日、江東へ送った諜報員が帰ってきました」

 

  そんな一方的に反意が飛び交う中、今まで静観の構えを取っていた張任が重低音の声で呟く。

 

  その声が聞こえると、群臣たちは皆一瞬で静かになる。

 

  その事実が、張任という男の発言力、重要性を示していた。

 

「張任殿、またその様な勝手を…」

 

  皆が静まり返る中、発言したのは張粛である。しかし、その内容は全くないに等しい。

 

 張粛は己の力が張任と――――いや、君主である天栄にも及ぶと自負――というか勘違い――しているため、自分より上にあるかの様な――実際、張任の方が名も実も上である――態度をとる張任に度々反発する。

 

「劉璋様の許可は頂いている。敢えて貴殿等に申す必要はなかろう…」

 

  そんな中身のない張粛を視界の端に収める程度で軽くいなす。

 

  そんな張任の態度に張粛は忌々しそうな表情を浮かべながら「ちっ…」と舌打ちまでしたが、張任は気にせず話を再開する。

 

「その諜報員の話によれば、丁度一月前に“天の御遣い”と呼ばれていた男がいた。その者の名は、北郷一刀だ」

 

  張任の言葉に、ざわざわと騒がしくなる。

 

 張任の言う事ならば本当なのだろう。皆の考えは同じだった。

 

「しかし、その者が同一人物とは限らん。いや、そもそもその北郷一刀が、本当に“天の御遣い”だとは限らん…」

 

  兄――――張粛とは違い、身長の低い弟――――張松が張任に問いかける。

 

  張粛は張松の言葉をまるで自分の言ったモノかの様に「どうなんじゃ!」と詰問する。

 

「諜報員に本人かどうかを確認させた。だが、かの者が本当に“天の御遣い”かどうかは判らぬ…」

 

「そら、やはりウソっぱちじゃ!」

 

  張粛は水を得た魚の様に生き生きとした目で張任を追及する。

 

  弟の張松はそんな年の離れた兄を若干の軽蔑を感じさせる眼差しで見るが、肝心の兄はそれに気付かない。

 

「しかし、かの者が“天の御遣い”だと言い始めたのは呉の孫策殿である」

 

「な………っ! あの“江東の小覇王”が!?」

 

  発信源を知り、終始クールを装っていたオレンジ色の髪の女性――――黄権が驚愕といった表情を浮かべる。

 

  今まで皆の保守的な行動をつまらないといった表情を浮かべていた厳顔も、思いもよらないビッグネームの登場に表情を驚愕といったモノに変える。

 

  しかし、それは先に述べた二人だけではない。ほとんどの者――天栄までも――が一様に驚愕を露にする。

 

「つまり、かの者を登用すれば、孫策殿とのよしみが幾らか望めるという訳だ…」

 

「しかし、北郷殿がその孫策の息がかかっていないとも限らない。その件に関してはどうお考えか?」

 

  張任の言い分は理解した。

 

  だが、張松は有り得ないとは言い切れない危険を口にする。

 

「な〜ら、オイラたちに目付け役をごめーじくだサぁーい」

 

  協議を行うこの場には似つかわしくない間延びした女性の声と言葉遣いが響く。

 

  その声を放った女性は腰まで伸びた淡い紫色の髪を先の方で結び、豊満な胸を揺らしながら前へ歩み出る。

 

 その女性の名前を孟達(もうたつ)という。

 

「オイラたち?」

 

  オレンジ色の髪を揺らしながら黄権は前へ歩み出た孟達に疑問の視線を投げ掛ける。

 

 黄権が疑問を持つのも当然だろう。『オイラたち』と言っていたにも拘らず、前に出てきたのは孟達一人だったからだ。

 

「あら〜…? ってー、法正! アンタも出で来なよー」

 

「ん〜……? なぁに…?」

 

  孟達の呼び掛けに、孟達とはまた違った意味で間延びした声が応える。

 

  その声と共に肩胛骨辺りまで伸びた少々色素の薄い黒髪をふわふわと靡かせながら小柄な女性――――法正が声同様にのんびりとした歩みで奥から前に出る。

 

  前に出で孟達と並ぶと、孟達が女性としては平均程度の身長にも拘らず、肩より下に法正の頭があった。

 

「アンタ〜、話聞いてたー?」

 

「う〜ん…。大体は…」

 

  法正は薄く開いた目を擦りながら孟達の言葉に頷く。

 

  そんなマイペースな法正の様子に溜め息を吐きながら、やれやれといった様子で首を左右に振る。

 

  そんな法正の言葉に孟達だけではなく他の者――あの張粛――まで仕方がないといった表情を浮かべる。

 

「と、とにかく〜…オイラたちに〜、監視をごめぇじくだサーい、劉璋〜様ぁ〜」

 

「え……? あっ、と…」

 

  孟達もそんな法正を仕方がないといった表情を浮かべつつも、劉璋に間延びした声だが、形は臣下の礼を取りながら一刀の監視を自らに命じるように頼む。

 

  しかし、劉璋はそんな孟達の提案にどうしたモノかといった表情を浮かべながら左右に視線を行き来させる。

 

  元々家臣に一方的に支えてもらいながら政策を行ってきた劉璋が、一刀を太守に任命すると言い出したこと事態がこの場に居る群臣には不思議だった。しかし、これは為政者として心構えを改めたのかと思い、孟達は初めて劉璋――――天栄に直談判を行った。

 

  だが、事態は既に天栄の手を離れてしまっていた。天栄にはもう判断のつかないところになっていた。

 

  そのため、天栄はどうしたモノかとあたふたといった表情を浮かべるしかなかった。

 

「某も監視に関しては考えがある」

 

「ふ〜ん…? どーんな?」

 

  困った表情を浮かべる劉璋の間に張任が割って入る。

 

  孟達も心構えを改めたといっても所詮その程度か、と若干の失望も抱きつつも張任に孟達は向き合う。

 

「ふむ…。某は監視の役目を厳顔殿に申し付けたいと思っておる」

 

「ん? 私?」

 

  使命された厳顔は何か話が自分とは関係ない方向に向かっていたために、話を軽くながし、さらに酒まで煽ろうとしていた。

 

  そんな油断しきった状況でいた厳顔はいきなり呼ばれたことに厳顔にしては珍しく少々驚いたといった表情を浮かべる。

 

「そうだ。孟達、法正では正直な話、実績が足りぬ」

 

 言われた孟達は少々ムッとした表情を浮かべる。

 

 だが、法正はどこか遠い目をしているばかりで、話を聞いているかどうかすら怪しい。

 

「だが、お主ならば実績も実力もある」

 

「ん〜…。そういう事なら構わないけど…」

 

  唸りながら首を捻る厳顔。

 

  最初は面倒くさそうだなと思い悩んだが、ふと頭を凡庸そうな顔立ちだが、その実態は凡庸とは程遠い男――――一刀の顔がよぎった。

 

  あの何とも形容し難い魅力を持つ面白い男――一刀を傍で見るのも悪くはない。

 

  そう思い厳顔は張任の提案を了承した。

 

「ならば、皆の者。今回の件はこれにて終了で宜しいですかな?」

 

  張任は一同を軽く見渡す。

 

  長身で白髪混じりの壮年の男――――張粛だけは場を張任が取り仕切っていることに嫌悪感を抱きつつ、不安な表情を浮かべる。

 

  しかし、隻腕の男――――張任はそれを無視して言葉を続ける。

 

「では、この件は終わりである。昼から簡易の任命式を行う。各自、準備に取り掛かるように」

 

  一同はそれに頷き、返事をする。

 

 

 

 

 

 

 

 

  任命式が終わると、天栄は張任に連れられ、職務室に戻った。

 

「すまぬ…」

 

  机の隣で待機する張任に呟く。

 

  張任は視線を主に向ける。

 

「余は、議題を投げ掛けるだけで何もできなかった。結局、うぬに全てを…」

 

  顔を俯せているために張任には解らないが、天栄は悔しさ、不甲斐なさ、何より無力で無能な自分に怒りを覚えた。

 

  隻腕の男――――張任は視線を天栄に向けつつも、ポーカーフェイス故に表情からは察することはできないが、表情は見えぬが天栄が落ち込んでいるこという事実にどうしたモノかと必死に頭を回転させる。

 

  が、長年生きていたがやはりこういった経験が致命的に少ない張任にはいい答えが出てくるはずがなかった。

 

  しかし、こんな状態の主をどうにかできる人物をつい最近、張任は知った。

 

「北郷殿は、もうすぐ赴任地の巴郡に向かわれるはずです。その前にお会いになられてはいかがですか?」

 

  正直、自分を不甲斐ないと思う。

 

  張任は内心、そう嘆く。

 

  張任は十数年前、今の主――天栄――の父――――劉焉(りゅうえん)から後事を託された。

 

  しかし、結局のところ年頃の娘相手に自分できることは限りなく無いに等しかった。

 

  今はただ、一刀に会いに行く、幼い主を見送るしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「はあ…。漸く帰れる…」

 

  帰りに乗る馬を引きながら一刀は深々と溜め息を吐きながら出口に向かう。

 

  物珍しそうに自分を見る人々。それだけではなく、敵意すら籠めてくる者も数名いた。

 

  一刀本人からしてみれば、敵意を向けられる理由は全く解らない。ただでさえ、人に必要以上に視線を投げ掛けられて、無駄に肩肘張っていたのに意味の解らない敵意まで向けられ、疲れは溜まる一方だった。

 

「主、これからは毎日そういった視線に曝(さら)されるのですぞ。この程度で疲れてもらっては困りますぞ…」

 

「う……ヤだなぁ……」

 

  星は一刀が数日間ずっと肩身狭そうにしていた理由を直接聞いていた。

 

  ために一刀にこの程度でその反応では困るといった様子で一刀に事実を話す。

 

  そんな星の言葉に一刀は思わず本音をポツリと呟く。

 

  星はくすり、と一刀を笑う。一刀もそれにつられて微笑を浮かべる。

 

「一刀!」

 

  そんな和やかな空気が流れる中、幼さの残る声が一刀を呼ぶ。

 

  一刀が振り向くと黄金の髪を風に靡かせ、小さい歩幅ながら一生懸命に走り、一刀の方へと向かってくる幼い少女――――劉璋こと天栄が見えた。

 

「天栄!?」

 

  思いもよらない人物の登場に、一刀は驚きといった表情を浮かべる。

 

  こちらに向かってくる天栄を一刀は確認すると、星に馬の手綱を預けると一刀の方から急いだ様子で天栄に近付いていく。

 

  星はそんな一刀の後ろ姿をちょっとした嫉妬を籠めた視線を投げ掛ける。

 

「見送りに来てくれたのか?」

 

「はあ、はあ…っ……当然だ…。一刀は余の信頼すべき友だ…」

 

「はは、ありがとう」

 

  優しそうな笑みを浮かべながら一刀は天栄に話しかける。

 

  天栄は切らした息を必死に調えようとしながら一刀に応える。走ったためにか、頬は赤くなっていた。

 

  そんな必死な様子の天栄に一刀は喜色を浮かべながら礼を言う。

 

「また……またすぐに、会えるな?」

 

  一刀に見せる態度にしては珍しく、尊大で傲慢な態度ではなく、まるで懇願する様な態度で天栄は一刀に訊ねた。

 

  先日の態度とは一変しているその様子に一刀は驚きを覚える。その驚きに加え、一刀の答は今の天栄に対しては非常に伝え難いモノだったため、僅かな間が置かれる。

 

「そうか…」

 

  その僅かな間に、天栄は答を察して、目線を逸らしながらポツリと呟いた。

 

  その表情は歳相応の女の子であり、その歳に似つかわしくない程寂し気であった。

 

「統治体制とか、軍の再編、それに前任者が持っていった食糧をどうするか、とか…課題が山積みで……」

 

  知っている。

 

  政務に対して、いまちい経験のない天栄でも、前任者が職務をまっとうせず、その上兵糧まで持ち逃げしたことも知っている。そして、それに伴い、諸問題が出てくるというのも解っている。

 

  それでも、それでもだ。天栄はやはりまだ十歳そこそこの女の子だ。

 

 真の意味での味方が張任しかいない天栄にとって、初めてできた友達と中々会えないという事実を受け入れるのは、些か無理がある。

 

  一刀もそれを理解している。故に、どうしたモノかといった表情を浮かべている。

 

「だが……また、いつか会えるのであろう?」

 

「……当たり前だ。俺は天栄の信頼すべき友なんだから…」

 

  ポツリと呟いた天栄の言葉に、そう一刀は答えた。

 

  天栄は一刀の回答を聞くと、逸らした目線を一刀に再び合わせる。

 

  その一刀の嘘偽りのない優し気な表情に天栄は安堵の表情を浮かべる。

 

「…? 」

 

  すると、すぐに表情を疑問というか、不思議といったモノに変える。

 

「? どうかしたか?」

 

  一刀もそんな天栄を不思議に思ってか、疑問を投げ掛ける。

 

「な、何でもない…」

 

「何でもないって……何かあるだろ?」

 

「何でもない! 余が何でもないと言っているのだから、何でもないのだ!!」

 

「………判った」

 

  一刀は天栄の答に当然納得などしていない。

 

 しかし、天栄のその何者も寄せ付けない、まるで覇者の放つオーラの様なモノに流石の一刀も追及を断念せざるを得なかった。

 

「ほら、うぬの護衛が待っておるぞ! ささっと行け!」

 

「……………わ、判った…」

 

  何だ、その態度の急変は?

 

  一刀は一変した天栄の態度にそう思わずにはいられなかった。

 

  一刀は渋々といった様子で踵を返して、星のいる場まで行くと、星に一言、二言からかわれ、それを軽くながしながら馬に股がる。

 

「じゃ、またな!」

 

 一刀は後ろを振り向きそう言うと、既にそこに天栄はいなかった。

 

「あれ?」

 

 一刀はてっきり最後まで見送りをしてくれるものだと思っていただけに、間抜けな声でそう呟いてしまった。

 

 一刀は最後に見せた天栄の不思議な対応に首を傾げつつも、その場を去って行った。

 

  星が一回振り返ってみると、天栄が自分たち――――というか一刀の方を木陰から覗いているのが見えた。

 

  しかし、自らの主は全くその事実に気付いておらず、そのまま城外へと馬足を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

「何だ…?」

 

  木陰に隠れながら天栄は、ポツリとそう呟いた。

 

  天栄の手は僅かに膨らみ始めた胸の辺りで、ギュウっと握られていた。

 

「何だ…? この胸の高鳴りは……?」

 

  一刀の顔を直視したら、急に高鳴り始めた…。

 

  一刀が去れば、この動悸も収まり始めた…。だが、何故か…寂しい…。

 

  早く収まって欲しいと思っていたのに、いざ収まると寂しい…。

 

 苦しいのに、心地良い…。

 

  何なのだ? 何なのだ、これは?

 

  余は、余は……いったいどうなっておるのだ…?

 

  しかし、いくら思案しても、答が出てくることはなく、動悸が収まり始めた胸を押さえながら天栄は自分の部屋に戻ろうと木陰から姿を現し、城内へと向かう。

 

  その天栄には理解できない身体の異常と気持ち。

 

  それが天栄にとっての初恋だと気付くのはまだ先の話だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あんたら、どうゆうつもりで監視など申し出たんだ?」

 

  すぐに来るはずの一刀はなかなかこの場には来ず、一刀たちを待つ厳顔は時間潰しの意味も併せて孟達と法正に訊ねる。

 

  ただ、法正に関してはどうせ訊いても無駄だろうと考えているので、半ば孟達だけに対しての質問であった。

 

「ん〜……? どうゆーってぇ、どうゆー意味ですかぁー?」

 

「惚けるな。監視など、あんたらが散々欲しがっている“実績”に加味されたとしても、雀の涙程度のもんだ。なのに、どうしてこんな貧乏くじを自ら引く?」

 

  正直な話、厳顔も監視の対象が一刀でなければ監視などというモノは断っただろう。

 

  しかも、一刀たちの赴任する巴郡は、以前から大規模な賊が拠点を構えている上、すぐ近くの漢中は黄巾党に類似した宗教集団が治めており、この宗教集団は五斗米道(ごとべいどう)と呼ばれ、その教祖たる張魯(ちょうろ)は先代の頃からの対立関係にあり、先代が亡くなってからはより動きが活発化してきていた。

 

  つまり、巴郡は文字通り激戦区なのだ。

 

  そんないつ戦いが起きてもおかしくない様な状況にある場所に行くこと事態異常なのに、その上、そこに向かう理由は“実績”としての評価にはあまり重視されない監視という名目で、だ。

 

  張任が法正、孟達の二名だけでの監視を退けた理由は「実績が足りない」だけだった。つまり、彼女らに足りないのは実績――――名だけだ。

 

  彼女らの手腕は厳顔も張任も十二分に解っていた。が、彼女らには本拠地である成都での勤めある程度果たし、名を得て、しかる後に重職に着けるのが周りの反発も少なくベストであろうと考えていた。

 

  なのに、彼女らはそれを自ら拒否したに等しい行動を取ったのだ。

 

  それが厳顔には不思議でならなかった。

 

「そこでなら……戦功を上げられる……」

 

  今までうとうと、としていた様に見えた法正がいきなり話始めた。

 

 珍しくきちんとした会話を試みようとする法正に厳顔は若干の驚きを覚えつつ、自分ゆり幾分か小さい身長の法正を見下ろす。

 

「戦功…?」

 

「あ〜あぁ〜、法正、言っちゃたぁー」

 

  法正の言葉をおうむ返しすると、法正ではなく孟達が間延びした声はそのままで、しかしやっちまた感を漂わせる言葉を口にする。

 

「実は〜、巴郡で戦功を上げてぇー、あわよくば北郷一刀の戦功もー、掠め取ろうとか考えてましたぁー」

 

  テヘヘ、と笑いながら頭を自分の手で撫でる孟達。

 

「あんたら………んなこと考えてたの?」

 

  そんな不正を働こうとしていたのに悪びれた様子もない孟達に、怒りを通り越して呆れを厳顔は覚えた。

 

  確かに監視ならば、戦などの報告も行う。

 

  その時に文書を改竄すれば、その戦功の幾つかを自分のモノとして掠め取ることも当然可能だ。事実、戦功を賄賂で買い取った輩を厳顔は何人か知っていた。

 

「でも〜、厳顔殿が御一緒じぁームリですねー」

 

「当たり前だ!」

 

  相も変わらず、テヘヘと笑う孟達に一喝を入れる意味も籠め、怒鳴る様な声で厳顔は孟達の言葉に答えた。

 

 その一喝に孟達はひん、と怯(ひる)む。

 

  その後、厳顔は「まったく」と、呟きながらなかなかこの場に来ない一刀を迎えにその場から歩き出した。

 

  厳顔と僅かに距離ができると、孟達はしゃがみ込み、小柄な法正の耳元に口を寄せる。

 

「……ありがとぉー、誤魔化してくれて〜」

 

  そのままの状態でそう囁いた。

 

  囁かれた法正は首を左右に振るだけで、言葉は発しなかった。しかし、その行動の意味が「気にするな」というモノだと孟達には容易に解った。

 

「おい、何してる!? あんたらも付いて来い!」

 

「あ、は〜い……」

 

  そうこうしていると、先行していた厳顔は孟達たちが動かないのに漸く気付き、孟達たちを呼び寄せる。

 

  孟達は上司に当たる厳顔の行動に素直に従い、法正の腕を引っ張りつつ厳顔の後を追った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  一刀が巴郡太守に任命されたのと同日。洛陽の政庁に天下を揺るがす大事件が起きた。

 

  第十二代目皇帝――――霊帝、逝去。

 

  黄巾の乱を引き起こした暗愚な皇帝と、醜名を世に残した彼だが、彼は一つだけ世に誇れるモノを残した。

 

  皇帝直属の常備軍――――“西園軍”。そして、その“西園軍”を率いる八人の校尉――――世に言う、“西園八校尉”である。

 

  その西園八校尉の中には、袁紹、そして曹操の姿があった。

 

  宦官を疎んじる彼女らだが、霊帝の意向により、その西園八校尉のトップには宦官の蹇碩(けんせき)という者が選ばれた。

 

  世に誇れるモノと言ったが、宦官をトップにしたのはマズかった。この西園八校尉のトップは大将軍――――つまりは何進より上とされていた。

 

  これには、何進の妹が霊帝の皇后であったことが関わってくる。

 

  そもそも、何進は今でこそ大将軍だが、元々はただの肉屋だった。しかし、妹が霊帝の皇后――――何皇后となったために、大将軍になれた。

 

 言うなれば、妹の七光りである。

 

  そして、何皇后は霊帝の息子を一人産んだ。それが劉弁である。

 

  長男である劉弁は当然の様に後継者として育てられたが、宦官連中は元々ただの肉屋を営んでいた彼らが後に皇帝の外戚――母方の親戚――として権力を持つのが許せなかった。

 

  そして、宦官たちは劉弁の誕生から八年後に産まれてきた子――――劉協を後の皇帝にするべきと霊帝に進言した。

 

 劉弁は長男。伝統的に見るならば、劉弁を後の皇帝に使命すべき。しかし、信頼する宦官たちからは長女の劉協を後継者とするべきと言う。

 

  それらの理由から霊帝は後継者を決めかねていた。

 

  だが、霊帝は西園八校尉のトップに宦官である蹇碩を任命し、しかも、その権力は大将軍より上としたことで、後の皇帝は長女の劉協にといった考えではないかという説が有力になっていた。

 

  しかし、霊帝は結局、正式に後継者を発表せず逝去してしまった。

 

 権力的には蹇碩が優位であるが、派閥の力量は大差ない。

 

  つまり、霊帝は最期の最後まで、後継者争いという火種を残した。

 

  そして、その火種に火が着くのはすぐであった。

 

  霊帝の葬式から僅か三日後。

 

  西園八校尉のトップにあった宦官――――蹇碩が謀殺された。

 

「袁紹、蹇碩が我を暗殺を企てていたことを報せてくれたこと、感謝するぞ。お主には、後に三公の座が待っておろう…」

 

「おーほっほっー! 名門袁家出身のわたくしならば、そんなこと言われなくとも当然ですわ!」

 

  蹇碩暗殺の理由は、元々蹇碩が先に目障りな何進を暗殺しようとしていたからだ。

 

  そして、それを知らせたのが、同じ西園八校尉に所属する袁紹であった。

 

 僅か数本の蝋燭が光源となっている部屋。そこで壮年の男性――――何進は礼を述べ、その礼に袁紹は高笑いをしながら応じた。

 

  その高笑いの度に、金髪の巻毛が揺れる。

 

  何進は口を開けば高笑いか名門がどうだのと言う、ワンパターンな袁紹に内心呆れつつも不思議に思う。

 

  袁紹は名門出身であるが、能力はハッキリ言って無い――――いや、下手したらマイナスに値する。

 

  これを報せたのが曹操なら解るが、袁紹がこの報を掴み、しかもいち早く何進に報せたという一連の手際が袁紹にしてはあまりに良すぎる。ハッキリ言って有り得ない。

 

  袁紹が金髪の巻毛を揺らしながら高笑いを続ける中、何進はその不可思議なことを一人思案していた。

 

「何大将軍」

 

  すると、袁紹のすぐ傍に控えていた眼鏡をかけている、長いグレーの色をした髪を二本纏めている小柄な少女が何進に話しかけた。

 

「む?」

 

  何進はその小柄な少女を直視すると些か顔を歪めた。

 

  顔は暗くて見えないが、グレー――――灰色の髪が酷く醜く見えたからだ。

 

 まるで、どぶねずみの様だ。

 

  何進が彼女の髪を見て抱いた第一印象だった。

 

「お主は?」

 

「私は、袁紹様に仕える軍師の一人――――沮授(そじゅ)と申します」

 

  そんな露骨に嫌悪感を顔に露にする何進を全く気にした様子もなく、沮授は深々と頭を下げながら自らの名を名乗る。

 

「して、何用か…?」

 

  袁紹の軍師とあっては無下にはできない。

 

  何進は先程同様、嫌悪感を露にしながら沮授に訊ねる。

 

「はっ…。恐れながら、何大将軍に進言致します。このまま、宦官たちを皆殺しにすべきかと……」

 

「な、に……?」

 

  まるで、子どもにお使いを頼むかの様にさらりと沮授は宦官の虐殺を進言した。

 

 これには先程から高笑いを続けていた袁紹も、自分の部下のあまりに過激な発言に流石に驚きといった表情を浮かべる。

 

  そんな周りを他所に沮授は進言を終えて、顔を上げる。

 

  その顔は決して醜いモノではなく、寧ろ、丸眼鏡の奥にある目は非常に凛々しく、また顔も非常に整っていた。

 

  こうして見ると、灰色の髪も、別に汚いわけでもなく、寧ろ手入れが行き届いており、非常に綺麗であった。

 

  しかし、何進には最初のどぶねずみの様だという印象が強く、また宦官を皆殺しにせよという残虐な発言によって、彼の目には世にまたといない醜女に見えた。

 

「そ、その様なことできるか!」

 

  結論から言えば、沮授の判断は悪くない。

 

  敵対組織の尻尾を漸く掴んだのだから、それを利用しない手はない。

 

  しかし、皆殺しとなると流石の何進といえども抵抗があった。

 

「今やれねば、後悔することになりますぞ……?」

 

  凛々しく大きな目を細めながら何進に最後通告だと言わんばかりに沮授はその小柄な身体に似つかわしくない威圧感を放ちながら何進に言う。

 

  元々胆力の欠片もない何進はその威圧感に一歩引く。

 

 

「だ、黙れ! 袁紹、この者を摘まみ出せ!」

 

  胆力のない何進は自分ではこの者を論でも覇気でも勝てないと本能的に悟り、袁紹に命じる。

 

  袁紹も沮授が相手では何進同様に論も覇気も見劣りする。だが、仮にも袁紹は主。主の言うことならば従わざるを得ないと踏んだのだろう。

 

「ええ…解りましたわ」

 

  そう言うと袁紹を何進に背を向けた。

 

  そんな袁紹の行動を理解できず、何進は疑問といった表情を浮かべる。それは、表情には出さなかったが、沮授も同じだった。

 

「帰りますわよ、沮授さん」

 

「え?」

 

  沮授は袁紹の言葉を理解できなかったらしく、彼女にしては珍しく驚いたといった風な感情を表にする。

 

「ま、待て、袁紹! 儂のまだ話は終わっておらぬぞ!」

 

「わたくしにはありませんわ。さ、沮授さん、帰りますわよ」

 

  以外にも沮授よりも袁紹の突飛な言動を理解した何進は、慌てた様子で袁紹を引き止めようとする。

 

  袁紹はそんな何進を視界の端にもとめず、あくまで優美さを装いながら軽くあしらう。しかし、その心には溢れんばかりの怒りしかなかった。

 

  そうして、袁紹は今度こそ部屋を出ていった。

 

「あ…! 姫様…!?」

 

  呆気にとられていた沮授だが、流石に袁紹が退室を実行したとなるとボケッとしてもいられず、袁紹の後を追う様な形で退室する。

 

  薄暗い部屋には、何進がただ一人取り残された。

 

「ひ、姫様、お待ち下さい!」

 

  沮授がそう言うと、袁紹は漸く歩みを止めた。

 

  その背中からは普段感じさせる――作ったモノだが――優雅さは微塵もなく、怒気の様なモノを感じさせていた。

 

  その怒気は走り寄る沮授を止めてしまう程だ。

 

「姫様…お戻り下さい……」

 

「イヤですわ」

 

  即答だった。

 

  袁紹を心の底から慕っている沮授だったが、時々――――いや、しょっちゅう見せる我が儘には呆れることが多々ある。

 

  だが、今回はただの我が儘ではないと感じた。

 

  沮授を躊躇させる程の、あの怒気。何か理由があるはずだ。

 

「理由をお教え下さい…」

 

  故に、単刀直入に沮授は訊ねた。

 

  そこで漸く袁紹は沮授の方へと振り返った。その顔には最早、怒気はなく、あったのは呆れといったモノだった。

 

「貴女、本当に解りませんの?」

 

「え……?」

 

  そう言われると、沮授は考え込む。

 

  しかし、沮授の優秀な頭脳を以てしても、袁紹が怒りを感じた理由が全く解らなかった。そんな様子の沮授に、益々袁紹は呆れといった感情を強める。

 

「まったく……。これでは、誰のために怒ったのか判らなくなりますわ…」

 

「…………もしかして、私が原因ですか…?」

 

  袁紹の物言いに、全く見当はつかなかったものの、沮授の優秀な頭脳は一番確率の高そうな解答を導き出した。

 

「原因は何進さんですわ。でも、貴女も原因の一つです」

 

  何進が原因?

 

 沮授の思考では袁紹の思考に追い付ける気配が全くしなかった。

 

「何進さんは、貴女をまるで汚物でも見る様な目で見てましたわ……」

 

「た、たかがそんな理由、ですか?」

 

  今までもそんなことはしょっちゅうあった。

 

  沮授はそのネズミを連想させるグレーの髪のせいで、何度となく奇異の視線を――――酷い時は悪意のある言葉を浴びせられたこともあった。なので、何進が蔑む風な目で見ていようと、それは沮授にとってみれば、悪意のレベルとしては低いモノだったのだ。

 

「『たかが』……ですって?」

 

  しかし、沮授の『たかが』という言葉に袁紹の表情は再び怒気といったモノへと戻った。

 

  袁紹からしてみれば、自分の部下をバカにされたことは、自分をバカにされることと同意だった。

 

「わたくしは貴女が美しいから臣下にしているのですわよ?」

 

「美しいって……。姫様、大事なのは能力です。天下に挑むならば、容姿にとらわれてはなりません」

 

  美しいと言われたことに、沮授は戸惑いを覚えるものの、間違った基準で臣下を選んでいる自らの主を諌める。

 

「天下なんて、興味ありませんわ」

 

「姫様……」

 

  沮授の諌めに、袁紹はさらりと答えた。

 

  袁紹は常々言っている。

 

  天下などには興味がない。

 

  何故なら、袁家の嫡子たる自分はそれだけで偉い。皇帝だろうが何だろうが自分という存在に比べるまでもない。

 

  故に、天下に興味はない。そう豪語して止まないのだ。

 

「さ、帰りますわよ」

 

  結局、沮授の諌めを聞き入れることはなく、袁紹は再び帰路に着く。

 

「………」

 

  その後ろ姿を見て、沮授は目を細める。

 

  ああ、やはり姫様こそが、天下人たるべきだ。

 

  沮授はそう思った。

 

  沮授は謀略家だ。目的のためにはどんな冷酷な手段も厭わない。

 

  だが、沮授は確かに、袁紹の忠臣だった。

 

  彼女の全ては、袁紹のために。

 

  その全てを捧げた自らの主――――袁紹の後ろ姿を見つめる内に、一つの謀略が、沮授の明晰な頭脳に浮かんだ。

 

  それは、袁紹の天下のための、謀略だった。

 

 

 

 


あとがき

 

一刀の出番が少ない…。

 

ども、冬木の猫好きです。

 

次回は霊帝死後の宮中争乱が主な話になります。つまり、今回、出番の少なかった一刀ですが、次回も少ないです。

 

宮廷争乱は董卓がごつぁっん、棚ぼた的に権力を手に入れた、史実的に見ても割と重要なイベントなのでどうしても書きたかったので、次回はほぼ――当然、多少脚色はしますが――史実通りに描きます。そのために、劉協(真名:一葉)をかなり前に出しましたからね…。

 

あと、劉璋(天栄)麾下に張任と同じ『張』姓の二人の兄弟――――張粛、張松とは全く血液関係はありません。

 

たくさん出てきた武将の紹介は、今回ちょっと多すぎるンで省かせて頂きます。知りたい人はググってみて下さい。

 

今回はこの辺で。でわ、次回の更新の時にお会いしましょう。




袁紹の元にいる軍師、沮授。
彼女の思いついた事はなんだろう。
美姫 「どうやら、袁紹に対する忠誠心は高いみたいだけれどね」
さてさて、彼女がどんな策略を巡らせて何をしでかすのか。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。



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