「ん…」

 

沈滞していた意識がゆっくりと浮上していく。そうすると、暗闇に覆われていたかのように真っ黒だった周囲に光が差し込んできた。俺はその光に向かって意識を浮上させる。

 

「う…うぅ…」

 

小さく呻き声を上げながらゆっくりと目を開ける。開いたその目に飛び込んできたのは、木でできたどこかの建物の天井だった。

 

「?」

 

見たことのない光景に不審に思いながらもゆっくりと身体を起こす。しこたま全身を打ったせいかまだ身体に鈍痛が走っているが、どうにも身動きできないほどの痛みではない。そう思って身体を起こすスピードを上げようとしたときだった。

 

「!」

 

頭に鈍い痛みが走る。

 

「くっ!」

 

慌てて額を押さえようとしたところで、俺の額から何かが落ちた。

 

「?」

額を押さえながら目を向けると、それは女物のハンカチだった。痛みを出さないようにゆっくりと上半身を起こすと、それを拾い上げる。と、

 

『お目覚め?』

 

という声が横から聞こえてきた。驚いて振り返ると、そこには俺を遠巻きに見ている女子高生と思しきお嬢ちゃんたちの集団がいた。

 

 

 

 

 

時間は少し遡る。校舎裏で正体不明の気絶した青年を発見した山百合会の乙女たち。発見した直後は気が動転していたからかいつもの彼女たちらしくない、オタオタ・オロオロした様子だったが、時間の経過と青年が気を失っているのを確認するといつもの落ち着きを取り戻した。

 

「とりあえず、どうしよっか?」

 

口を開いたのは異変に気付いたとき、いの一番に走り出した聖だ。

 

「そうねぇ…」

 

蓉子が顎に手を置いて考える。

 

「先生か、あるいは警備員の人を呼んでくるのが一番手っ取り早いけど…」

「そうしましょう! 私、行ってきます」

「待って!」

 

駆け出そうとした由乃を止めたのは、意外にも今まで見ていることだけしか出来なかった志摩子だった。

 

「どうしたの? 志摩子さん」

 

祐巳が訊ねる。

 

「あの、引き渡すのはいいんですが、その前に一応手当てをしてあげたほうがいいんじゃないかと。気を失ってるみたいですし、怪我とかしてたら…」

「でもねぇ…」

 

優しい志摩子らしい意見だったが、それに難色を示したのは江利子だ。

 

「どんな目的があってのことかはわからないけど、状況から考えるにうちに忍び込んで来たっぽいじゃない? そんな人にそこまでしなくてもいいと思うけど…」

「で、でも黄薔薇さま、もし深刻な怪我とかしてたら…」

「大丈夫じゃない? 見たところ血は出てないようだし、手足が変な方向に曲がってるわけでもないから」

 

江利子はそう切り捨てる。この場合、正しいのは江利子の方だろう。女子高にどう見ても学校の関係外の人間がいたらまず不審に思うのが当然のことだろう。それを考えれば教師なり警備員なりに連絡をして身柄を引き渡すのが当然といえる。志摩子とてそれはわかっているが、彼女本来の性格なのか気を失っている人を放っておけないという慈愛の精神が先に立っているのだ。が、やはりそれに同調するものはいなかった。

 

「志摩子は相変わらずいい子だねぇ♪」

 

姉である聖が可愛くて仕方がないといった感じで志摩子を撫でる。

 

「お、お姉さま」

 

突然のことにビックリして聖の手から逃れようとした志摩子だったが、

 

「でもね」

 

と、聖が自ら手を放したので逃れることをせずに姉をジッと見上げた。

 

「私も江利子の意見に賛成だよ。何かが起こってからじゃ遅いでしょ?」

「それは…そうかもしれませんけど…」

 

姉の意見は十分理解できるが、かと言って志摩子はまだ諦めきれない様子だった。しかし、

 

「私も江利子や聖の意見に賛成ね」

 

と、まず蓉子が同調し、

 

「私も」

「私も」

「私も」

 

と、令、由乃、祐巳もその意見に同調した。さすがにそう言われては志摩子も自分の意見を押し通すことは出来なかった。

 

「決まりね。それじゃあ…「待って下さい」」

 

誰かに近くの教師か警備員を呼ばせに行こうと蓉子が口を開く。だが、その蓉子の言葉を止める者がいた。

 

「祥子…」

 

自分の言葉を遮った妹の名を呼ぶ。

 

「どうしたんだい、祥子?」

 

令が訊ねると、祥子は全員の視線を真正面から受け止め、そして、

 

「お姉さま、私も志摩子の意見に賛成です」

 

と、信じられない言葉を口にした。

 

「え…?」

 

妹の口から出た、あまりに信じられない言葉に虚を突かれたのか、呆けたような口調で蓉子が驚きの意を表した。が、それは何も蓉子だけに限ったことではない。揃いも揃って、同じような表情をしている。味方をした志摩子ですら、祥子から賛同を得られるとは思っていなかったのか、同じような表情をしていた。

 

「お、お姉さま大丈夫ですか? 熱はないですよね?」

「どういう意味かしら、祐巳?」

 

祐巳の口から思わず出てしまった言葉に祥子は過敏に反応すると、鋭い視線を自分の妹に向けた。姉の視線を受け、祐巳の落ち着きがなくなる。

 

「え、えっと、その…」

「ま、まあまあ祥子、落ち着いて」

 

四苦八苦している祐巳に助け舟を出したのは意外にもいつもは祐巳をからかう立場の聖であった。

 

「祐巳ちゃんがそう言うのも無理はないと思うよ?」

「何故です? 白薔薇さま?」

「だって…ねえ?」

 

聖が蓉子たちを見渡すと、互いに通じ合っているのか皆うんうんと頷いていた。

 

「祥子の性格からして、不審者を庇うようには思えないもの」

「ええ。それに不審者が男の人だし」

 

江利子が言葉を継いだ。

 

「熱でもあるのかって祐巳ちゃんが聞いたのは、あながち失礼なことでもないと思うけど?」

「令、あなたまで…」

 

遠慮なしにズケズケと物を言う先輩と同級生に、さすがの祥子も頭を抑えた。

 

「一体皆さん、普段から私をどんな目で見ていたんです」

「どんな目って…」

「それは、ねえ…」

 

聖と江利子が言葉を濁す。令や由乃たちも気まずそうに視線を外すだけで敢えて自分から何かを言おうとはしなかった。

 

「はあ、もういいです」

 

祥子が疲れたような表情で溜め息をつく。が、すぐに顔を上げ、

 

「とにかく、取り敢えずは手当てをしてあげた方がいいと思います。その後、必要なら尋問をして、それから引き渡しても遅くはないと思いますけど?」

「でもねえ、祥子」

 

蓉子が苦い表情になった。

 

「さっき聖が志摩子に言ってたけど、そんな真似をしてもし何かあったらどうするの?」

 

そう訊ねる姉に祥子は、

 

「そのときは、私が責任を取ります」

 

と、はっきりと言い切った。そして、軽くだが頭を下げる。

 

「お願いします、お姉さま」

 

そう真摯に頼み込む祥子に、さすがの蓉子もこれ以上何も言えなくなってしまった。蓉子は自分の左右にいる聖と江利子にアイコンタクトで訊ねる。

 

(どうする?)

 

それに対し返ってきたのは、溜め息をつきながら顔を左右に振る江利子と、肩をすぼめて両手を挙げ、『お手上げ』のポーズをする聖の姿だった。そこから汲み取れる二人の思いに、蓉子ははーっと大きく溜め息をついた。

 

「祥子」

 

蓉子が口を開く。

 

「はい」

 

頭を上げ、祥子が答えた。

 

「一つ教えてちょうだい」

「何でしょう、お姉さま?」

 

祥子が訊ねると蓉子は、

 

「何であなたはそこまでしてこの男の人を庇うの?」

 

と、質問した。

 

「それは…」

 

言い淀む。だが、それも一瞬だった。口を開くと、

 

「わかりません…」

 

と、答えた。

 

「でも、この人は覗きとか盗撮とかする性犯罪者ではないのではないかとは思います」

「何故?」

 

今度は令だ。

 

「確証は何もないわ。…強いて言えば、勘…かしら」

「勘…ねえ…」

 

納得のいかない表情で令が答えた。令は祥子の勘が特別悪いとは思っていないが、だからといって特別良いとも思っていなかった。それなのに勘が理由では、祥子の言葉に納得するにはあまりにも弱すぎる。

 

(とはいえ…)

 

自分の友達が意外に頑固なのをよく知っている令としては、上手く説得できる自信はなかった。ということで、令も蓉子に視線をやり、その判断を任せた。

 

「やれやれ…」

 

はーっと大きく息を吐くと、諦めたような表情になる。そして、

 

「仕方ないわね」

 

と、祥子の意見を聞き入れることにした。

 

「それじゃあ!」

 

蓉子のその言葉を聞いた祥子の表情がパーッと明るくなった。志摩子も嬉しそうな顔をしている。

 

「あなたたちの好きにしなさい」

「ありがとうございます、お姉さま!」

「ありがとうございます、紅薔薇さま」

 

嬉しそうに祥子と、そして元々そういう意見だった志摩子が微笑んだ。二人の姿を見た蓉子が苦笑する。

 

「…全く、頑固な妹を持つと苦労するわ」

「あら、私を選んだのはお姉さまですわよ?」

「わかってるわよ…」

 

蓉子は顔を上げると、祥子と志摩子に

 

「取り敢えず、薔薇の館に運びましょう。二人で担架を持ってきてくれる?」

 

と、お願いした。

 

「わかりました。志摩子、行くわよ」

「はい、祥子さま」

 

祥子は志摩子を引き連れると、担架を取りに薔薇の館へと向かった。

 

 

 

「ふう…」

 

二人の背中が見えなくなったところで蓉子が溜め息をついた。

 

「お疲れ、蓉子」

 

聖がポンと肩を叩く。

 

「ありがと」

 

疲れた顔で蓉子が微笑んだ。

 

「…しかし、どうしたのかしらね」

 

そう口を開いたのは江利子だった。

 

「何が? 江利子」

 

蓉子が訊ねる。

 

「何って、祥子のことよ。普段なら絶対あんなこと言わないのに、どうしたのかしら?」

「それは、そうですね」

 

令も頷く。

 

「男の人のことが苦手で嫌ってる祥子が男の人を、しかも素性の知れない人間を庇うなんて、どう考えてもありえないことです」

「うんうん。どう考えたっておかしいですよ」

「私もそう思います」

 

由乃と祐巳も令の言ったことに賛同した。

 

「確かにね」

 

蓉子が呟く。

 

「聞いてみたいところだけど、でも素直に話してくれる子じゃないからねえ…」

「そうね」

「頑固だから。…姉に似て」

「せ〜い〜?」

 

蓉子が軽く睨んだが、聖は素知らぬ顔でそっぽを向いていた。

 

「まあ、それは仕方ないわね。その代わり…」

 

蓉子が青年に視線を落とす。

 

「こちらが起きてから色々聞くことにしましょう」

 

蓉子が呟いたところで、祥子と志摩子が担架を持って戻ってきた。その後、一同は青年を担架に乗せると皆で協力してなんとか薔薇の館に運びこんだ。そしてソファーに寝かせて特に目立った外傷がないのを確認すると軽い手当てをして、青年が起きるまでティータイムに興じていたと言うわけだ。

 

 

 

 

 

(ひの…ふの…八人か)

 

数を数える。それから眠気を吹き飛ばすようにゆっくりと頭を左右に振った。警戒しているのか、それとも男が珍しいのか全員が俺の一挙手一投足をジッと見ている。まるで怪しい行動は少しも見逃さないぞと言う意思表示であるかのように。

 

「ふう…」

 

さっきまで身を預けていたソファーに座り直すと溜め息をつく。なんとも身体がだるい。そうしながら、目を覚ます前のことを思い出してみる。

 

(確か…)

 

そうだ。仕事が終わって戻ろうと、『跳んだ』んだ。そうしたら、見知らぬところに出て、おまけに空中で。で、木の枝をいくつか折りながら真っ逆さまに落っこったんだな。

 

(それから先が思い出せないってことは、そこで気絶したってわけか)

 

そう推論を立てたが、実際もあたらずとも遠からずってとこだろう。

 

(…ったく、なんだってあんな中途半端な跳躍になったんだ)

 

内心で悪態をつきながら、首を捻ったり、肩を回す。と、腕や顔など、肌の露出している数箇所に絆創膏や包帯が貼ってあるのに気付いた。

 

(これは…)

 

気絶していながら自分の手当てをするっていう器用な真似が俺に出来るはずない。となると、さっきから俺をジッと観察しているお嬢ちゃんがたがやってくれたってことになるんだろう。

 

「……」

 

ふっとお嬢ちゃんがたに顔を向ける。それは予想してなかったのか、明らかにビクッと身体を震わせたお嬢ちゃんが何人かいた。気丈にも、こっちを睨みつけているお嬢ちゃんもいたが。

 

「…これは」

 

ゆっくりと口を開く。

 

「お嬢ちゃんたちがやってくれたのか?」

 

身体に貼ってある絆創膏や包帯を指差しながら訊ねた。

 

「ええ」

 

黒髪でおかっぱのお嬢ちゃんが答えた。内心では俺のことをどう思ってるかわからないが、表情には一切出さず、また俺の質問に即座に受け答えしたことからこのお嬢ちゃんがこのお嬢ちゃんがたのリーダー格と言うか纏め役なんだろうなとあたりをつける。

 

「そうか、ありがとよ」

 

変な警戒心をいだかれないために、軽く微笑んで礼を言った。二人ぐらい表情が緩んだので、効果はあったかな?

 

「どういたしまして」

 

さっきのお嬢ちゃんが答えた。

 

「さて、それじゃあお兄さんに聞きたいことがあるんだけど、いいかな〜?」

 

違うお嬢ちゃんが口を開く。西洋の彫刻みたいな容姿の整った美人だ。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 

手を出してそのお嬢ちゃんを押し止める。

 

「何? どしたの?」

 

そのお嬢ちゃんが俺に訊ねてきた。言葉を交わしたからだろうか、ずいぶん口調が砕けている。かなりフランクな性格かもしれない。

 

「頭がハッキリしないんで状況を整理したい。すまねえけど、こっちの質問に先に答えてくれるか?」

「どうする? 蓉子」

 

ヘアバンドをしたデコっぱちのお嬢ちゃんがさっきのおかっぱ黒髪のお嬢ちゃんに訊ねた。…成る程、あのお嬢ちゃんは蓉子って言うのか。

 

(あのお嬢ちゃんの名前は蓉子…っと)

 

取り敢えずこの場だけでも忘れないように、心に刻む。

 

「いいんじゃない? お楽しみは後にとっておくほうが楽しいから」

「それもそうね」

 

デコっぱちのお嬢ちゃんが頷くと、俺の方に向き直った。

 

「それじゃお兄さん、何が聞きたいの?」

 

さっきの、西洋の彫刻みたいなお嬢ちゃんが訊ねた。

 

「ここはどこだ?」

「リリアン女学園」

「リリアン女学園〜?」

 

腕を組んで考え込む。

 

(リリアン女学園…リリアン女学園…!)

「ああ!」

 

ポンと手を叩いた。

 

「あの、正真正銘のお嬢様学校って噂のリリアン女学園か?」

「正真正銘のお嬢様学校っていうのはどうかわかりませんけど、多分貴方が思ってるリリアン女学園で間違いないと思います」

 

そう答えてくれたのは、この中で一番髪の短い凛々しい感じのお嬢ちゃんだった。宝塚あたりにいたら人気が出そうだ。

 

「そうか。それじゃあ、今日は何年の何月何日だ?」

「え…1998年の910日ですけど?」

 

今度答えてくれたのは三つ編みのお嬢ちゃんだった。その答えを聞き、俺は『現在の』時間に戻ってきていることを知ってホッと胸を撫で下ろす。

 

「ああ、そうかい」

 

安心してはーっと大きく息を吐いた。その後、少しの間だけだったが奇妙な沈黙が室内に流れる。

 

「あ、あの…」

 

遠慮がちに話しかけてきたのはウエーブがかった髪のお嬢ちゃんだった。その話し方からして、あまり前に出るタイプというよりは引っ込み思案なタイプなんだろうなと思う。

 

「何だい?」

「それで、終わりですか?」

「ああ」

 

俺は頷いた。

 

「これだけ聞けりゃあ十分だからな」

「は、はあ…」

 

納得いってるんだかいってないんだかわからないから返事でそのお嬢ちゃんが答えた。

 

「へっへっへ〜、それじゃあ、今度はこっちから質問させてもらうよ」

 

さっきのノリの良さそうなお嬢ちゃんが本当に楽しそうに話しかけてきた。手をワキワキさせてそうな表情だ。

 

「あ〜…一応言っておくが、お手柔らかにな」

「さてね」

 

…返す返すも、本当に楽しそうだ。その表情を見て、俺は半ば覚悟を決めた。

 

「…で?」

「何であそこで倒れてたの?」

 

いきなり核心を突く質問だ。とはいえ、女子高に男が気絶して倒れてりゃあ、まずはそこにいくのは仕方のないことだろう。とはいえ…

 

(弱ったな…)

 

俺は内心で頭を抱えていた。正直に話してもいいのだが、信じてもらえるとは思えない。とはいえ、何か言わないことには余計な警戒心を与えてしまう。ただでさえ場所が女子高という女の園なのだ。跳んだ場所が最悪すぎる。問答無用で教師だの警察だのに突き出されていないだけ感謝すべきだろう。

 

「あー…うー…その…」

 

何もいい言い訳が浮かんでこない。出てくるのは唸り声ばかりだ。そして、それを見ていたお嬢ちゃんがたの視線の温度は当然の如くどんどん低くなっていくわけで。

 

「どうしたの?」

「早く教えてよ」

「当然、ちゃんとした理由があるんですよね」

「ここは女子高なんだからね」

 

お嬢ちゃんがたの責めも当然厳しくなってくる。何も言わないお嬢ちゃんもいるが、そのお嬢ちゃんたちも当然、視線は冷たいものだった。その言葉責めと冷たい視線に晒された俺はとっさに、

 

「…不可抗力」

 

と、絞るように言った。

 

「え? 不可抗力?」

 

両脇の髪をリボンで結んだお嬢ちゃんが確認するように呟いた。

 

「そう、不可抗力だ」

 

頷く。が、その言葉に納得しているお嬢ちゃんが皆無なのはその表情から窺うことができた。

 

「あのね…」

 

呆れたようにデコっぱちのお嬢ちゃんが口を開いた。

 

「どこの世界に不可抗力で女子高に入ってくる人がいるの?」

「ここ」

 

親指で自分を指す。が、それで得たのはますます冷える視線の温度だけだった。呆れたように黒髪おかっぱのお嬢ちゃん…蓉子が溜め息をつくと、今度は彼女が口を開いた。

 

「じゃあ、貴方のお仕事は?」

「ノーコメント」

「住所は?」

「都内のホテルを転々と」

「家族は?」

「…爺さんと母親と妹が一人」

「年齢は?」

「想像に任せるよ」

 

矢継ぎ早に続くお嬢ちゃんたちの質問を次々に裁く。とはいえ、彼女たちが望んでいるような納得できる回答はほぼないのだろう。明らかに不信感が広がっているように見えた。

 

(やっぱ、そうなるよなぁ…)

 

内心で臍をかむ。俺だって見ず知らずの人間に質問してこんな答えが返ってきたら、疑いこそすれ信用なんてするわけがない。

 

(とはいえ、本当のことなんぞ話せるわけねえし…)

 

どうしたものかと悩んでいると、嬢ちゃんがたがゆっくりと俺から距離をとり始めた。そして、これまたゆっくりと扉の方へ向かっている。なるべく俺に気付かれないようにと思ってのことなのだろうが、ゆっくりとはいえさすがに八人の人間が動けばいやでも視界の中に入ってくる。俺は慌てて立ち上がると、急いで扉のところに走りその前を塞いだ。

 

『!!!』

 

突然の俺の行動にビックリしたのだろう。お嬢ちゃんがたは慌てて俺から距離をとった。そして、年上と思しき人間が年下と思しき人間を背中に隠している。その目が皆不審と疑惑に彩られているのは良くわかった。

 

「あー…」

 

上手く言葉が出てこない。とはいえ、こっちとしては別にお嬢ちゃんがたをどうこうなんてことははなから思ってないわけで。が、今の不審と疑惑に凝り固まった視線を考えればそんなこといったところで到底信じてはくれないだろう。だから、

 

「すまん」

 

とりあえず、そう言って頭を下げた。いきなり頭を下げられたことに驚いたのだろうか、お嬢ちゃんがたが驚いた顔をしている。

 

「怖がらせるつもりはなかったんだ。が、ちと事情があってな。言えることと言えないことがあるんだよ」

 

そう言うと、俺は懐に手を忍ばせた。その行動を見てお嬢ちゃんがたが再び身を固くする。

 

(拳銃でも出すとでも思ってるのかもしれねえな)

 

苦笑しながら懐から出したのは、一つのマッチ箱だった。

 

「助けてくれたし、手当てしてくれたし、警察に突き出さないでくれた。色々と借りが出来ちまったな」

 

ポーンとそれをテーブルの上に放る。

 

「借りは返す。最後にもう一度、怖がらせて悪かったな。それと、傷の手当ありがとう」

 

それだけ言うと、俺は扉を開いた。そして、

 

「じゃあな、お嬢ちゃんがた」

 

そう言い残し、扉を閉めてこの部屋を後にした。

 

 

 

 

 

「…はーっ」

 

盛大に息を吐くと、聖がヘナヘナと床に腰を下ろした。他の者も、そこまでの者はいなかったが皆一様に安堵の溜め息をついている。

 

「よかったぁ…」

 

由乃がつぶやくと、自分の席に座った。それに続くように三々五々、全員が自分の席に着いた。

 

「ふぅ…」

 

蓉子が溜め息をつく。

 

「あー、緊張した…」

 

江利子も、彼女にしては珍しくホッとした様子で息を吐いていた。他の者も、似たりよったりと言った感じである。

 

「すみません、皆さん」

 

一息ついたところで突然そう謝ったのは志摩子だった。

 

「ど、どうしたの? 志摩子さん?」

 

祐巳が驚いて志摩子に訊ねた。

 

「私があの時あんなことを言わなければ、こんなことにはならなかったのに…」

 

そう自分を責める志摩子だったが、

 

「気にすることはないよ、志摩子」

 

令がそう慰めた。

 

「そうそう、結局何も起こらなかったんだし」

「そうね。それどころか、私たちを怖がらせたことを謝って、傷の手当てをしてくれたことを感謝してたもの。悪い人ではなかったと思うわ」

「うんうん。ただ、それがわかるまでは判断のつけようがなかったからね。でも、それはしょうがないでしょ」

「ま、いいんじゃない? どうせもう二度と逢うこともないんだろうし」

「一応、先生方に話しておきますか?」

「そうねえ…」

 

皆でわいわいと奇妙な闖入者のことについて喋っている中で、一人だけ一言も喋らない人物がいた。祥子である。いやそもそも、祥子は青年が意識を取り戻してから一言も喋っていない。ただジッと青年を見ていた。何かを確認するように、そして何かを思い出すように。しかし…

 

(ダメだわ、わからない…)

 

自分が望むような結果にはならなかった。ふうと溜め息をつく。と、視線が不意にテーブルの中央に向かった。そこにあるのは、先程の青年が去り際にテーブルの上に投げたマッチだった。

 

「……」

 

ゆっくり手を伸ばしてそれを取る。その行動に、全員の視線が釘付けになった。マッチを顔の前に持ってくると、そこに書いてある文字を読む。

 

「なんて書いてあるんですか、祥子さま?」

 

横から由乃が割り込んできた。が、それに構わずマッチに書いてある文字を読む。そこには、らーめん『火の車』と書いてあった。

 

 

 

 

 

「ふう、やれやれ。エラい目に遭ったぜ」

 

リリアン女学園から脱出して近くの公園までやってくると、青年は一息ついた。自動販売機でコーヒーを買うと近くにあったベンチに腰を下ろす。そして、プルタブを開けると一気にそれを流し込んだ。程よい甘味と苦味が一気に咽喉を走りぬける。

 

「んっ…んっ…んっ…プハーッ」

 

極度の緊張からだろうかよほど咽喉が渇いていたのだろう、一気にそれを飲み干した。そして、近くにあったゴミ箱に投げ入れる。

 

「ま、仕方ねえか、なんてったって女子高じゃあなぁ…」

 

苦笑いを浮かべると青年は頭を掻いた。女子高に学校と関係ない男がいたら、それこそどんな目にあってもおかしくないわけだ。それを考えれば、緊張した程度で無事に脱出できたのだから、良しと思わねばならない。

 

「しっかし、美人ぞろいだったな…」

 

余裕が出てきたのか、そんなことを口走る。そして、山百合会の少女たちの顔を一人一人思い出す。タイプは異なるが八人が八人ともかなりの美人ぞろいだった。

 

「と、そういやぁ…」

 

青年はその中に一人、明らかに他のお嬢ちゃんがたとは違う視線を向けているお嬢ちゃんのことを思い出した。髪の長い、恐らくはどこぞのいいところのお嬢さまではないかと思われる、唯一一言も喋らなかったお嬢ちゃんだ。

 

「あの目…」

 

なんとも気になった。が、いくら考えてもその視線の意味がわからない。

 

「! チッ、やめだやめだ!」

 

首を左右に振ると、立ち上がって上着のポケットに手を突っ込む。と、何かの感触を感じた。

 

「ん?」

 

驚いてそれを出してみる。それは、目を覚ますまで自分の額に置かれていたであろうあのお嬢ちゃんたちのうちの誰かのハンカチだった。

 

「……」

 

しばらくそれをジッと見る。やがて、そのハンカチを無造作にポケットに突っ込むと青年は静かに歩き出した。





謎の青年の正体は分からずじまい。
美姫 「果たして、この先再び出会う事になるのかしらね」
いやはや、次回が楽しみですな〜。
美姫 「本当よね」
次回も待ってます。
美姫 「待ってますね〜」



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