第四幕 アドリアーナ邸
アドリアーナの家は意外と質素である。演劇と恋の事のみを想う彼女は贅沢というものにあまり興味を持ってはいないのだ。
三月のある日のことである。アドリアーナはその質素な自宅で休んでいた。この日は舞台も無くゆっくりと束の間の休みでその身体を休めていた。
ここは客室である。数個の椅子と机が置かれている。椅子は安楽椅子や肘掛け椅子もある。そしてかざり棚には彼女が今まで貰った記念品やトロフィが飾られている。
もう夕方になっている。赤い日が窓から差し込めている。まだ寒いが暖炉に火は無い。
そこへミショネがやって来た。この家の使用人に案内され部屋に入って来た。
「アドリアーナさんは?」
彼は尋ねた。
「奥様でしたら寝室におられますよ」
彼女は謹んで彼に答えた。
「そうか、彼女は休んでいるのか。それはいいことだ。休んでいる時位はせめて演劇の事を忘れた方がいい。さもないと疲れきり倒れてしまうからな」
彼は使用人の言葉を聞き満足気に心の中で呟いた。
「起きていれば否が応でも騒がしいこの世の中だ。女優に戻り演劇を考えなければならなくなる。しかし」
彼は寝室を見た。
「起きたら言って欲しいな。私を待っていた、と。儚い夢だが」
力無く微笑んでそう呟いた。その時寝室の中から鈴の音が聞こえて来た。
「はい」
使用人は寝室のドアの前へ行きノックした。そして中に入り後ろ手でそのドアを閉めた。
「起きていたのか。何だか嬉しいな」
彼は使用人が入って行くのを見届けて言った。
「心臓が激しく鳴っているな。年甲斐も無く」
彼は胸を押さえて独白した。
「鎮まるんだ。今さらどうにでもなるものではないしな」
そしてチョッキのポケットから懐中時計を取り出した。
「時計みたいに大人しく動くんだ。そして何時までもその想いを秘めておくんだ、いいね」
そう言って時計をポケットに戻した。
「しかし彼女が出て来るのが少し遅いような。着替えているのかな」
その時ふと気が付いた。
「いや、違ったな。彼女は今病気だった」
彼はそう言うと表情を暗くさせた。
「それも恋の病だ」
彼は顔を俯けた。
「心の病気はじわじわと苛む、それにもっと早く気が着いていればな」
彼の顔はさらに暗くなっていく。机の前に腰掛けた。ふとそこに紙とペンがあることに気付く。何か書きものをした。そこに使用人が戻って来た。
「マダムが今こちらに来られます」
彼女は微笑んでそう言った。しかし何処か事務的な声である。
「教えてくれて有り難う」
ミショネは彼女に対し礼を言った。そして立ち上がり彼女に今書いたものを手渡した。
「済まないがこれを買って来てくれないか。お金は渡すから」
そう言ってお金も手渡した。
「薬だよ」
「わかりました」
使用人は紙とお金を受け取るとその場を後にした。彼女はどうやら字が読めるらしい。
「ふう、これで良し。彼女が字を読めるのが幸いしたな」
彼はそう言って席に戻った。そこへアドリアーナが入って来た。
白い部屋着を着ている。顔色は良くない。表情も暗い。ミショネの言葉通りやはり何かしら心に悩みを持っているようだ。
ドアの端のところで立っている。動かない。それはまるで額縁の中の肖像画のようであった。
「ミショネさん、よく来て下さいました」
彼女は微笑んで言った。
「ええ。たまには顔を見せようと思いまして」
ミショネは席を立ち一礼して言った。
「あまり気分が優れないようですね。何故そのように顔を暗くさせているのです?」
その訳はよくわかっている。だがあえてそれを尋ねた。それは彼女の事が心配でならなかったからだ。
「眠れなかったもので」
彼女は答えた。力無い声であった。あの公爵夫人に見せた気丈さは何処にも無い。
「まだ忘れられませんか?」
マウリツィオが政治的事情で故郷に帰ってしまったのだ。彼女にとってそれは大きな痛手だったのだ。
健康を害した。そして舞台も休演し今こうして床に着いていたのだ。
「はい。忘れられるものではありません」
彼女は青い顔でそう言った。ミショネはその顔を見て言った。
「それはよくありません。早くふっ切れた方がいいです」
「それはわかっているのですが・・・・・・」
そうは出来ないのだ。それが人の心というものの難しさだ。
アドリアーナも忘れてしまいたかった。そうすれば楽になれるのだから。だがそれは忘れられる程想いの弱いものではなかったのだ。
想いが強ければ強い程人はそれを忘れられない。そしてその想いに悩まされ苦しめられるのだ。それも又人が人である由縁なのだ。アドリアーナはそういう意味でもあまりにも人間的であった。
「劇の事は?」
ミショネは話題を変えた。彼女が命を捧げるもう一つのものに。
「考えられません」
アドリアーナは頭を振って答えた。
「名声は?女優としての」
「そんなもの・・・・・・。砂上の楼閣ですわ」
事実であろう。この世にあるありとあらゆるものはそうである、という人もいる。
「芸術家としての・・・・・・」
ミショネはまだ言おうとする。どうしても彼女を振るい立たせてあげたかった。もう一度、あの女優として。
「自覚、ですか?それももう・・・・・・」
彼女はそう言って力無く笑った。彼女の沈んだ心はやはり起きなかった。
「・・・・・・・・・」
ミショネは沈黙した。どうしてもアドリアーナを起き上がらせたい、最後の手段に出た。
「もう一度舞台に戻って下さい。貴女を愛する人達もそれを待ち望んでいますよ」
「私を愛する人ですか?そんな人達が一体何処に・・・・・・」
「それは・・・・・・」
ミショネは次の言葉を言おうとする。だが中々言えない。口ごもってしまう。だが言った。
「今この場に」
「貴方がですか?」
「はい」
彼はここで先程の言葉を後悔した。言うべきではなかった、と思った。
「父親の様な、その暖かい気持ちで」
無難な言葉だった。そうとしか言えなかった。だがこの言葉こそ自分が言うに相応しい言葉だと思った。
「有り難うございます。貴方はいつも私の味方をしてくれます。けれどもう私はあの時から一時も動けないのです」
「あの時?それは何時ですか?」
ミショネは尋ねた。
「あの夜です。公爵のお屋敷で遺恨を晴らしたあの夜」
「あの時ですか。またえらい事をしたものだと思いましたよ」
彼もあの時のことを思い出した。
「あの時の怒りと憎悪に震える彼女、唇を噛み締め身体を震わせる彼女が。私がフェードルに例えたあの女が」
序々に感情が昂ってきた。
「けれどあの女は私からあの人を奪った!それが許せないのです!」
彼女はそう言うと部屋着を放り捨てた。そして安楽椅子に架けられていたショールで肩を包むと部屋を出て行こうとする。
「お待ち下さい、何処へ行くつもりですか?」
その突然の行動に驚いたミショネが彼女の前に立ちはだかった。
「あの女に思い知らせてやるのです!」
アドリアーナは激昂した表情で言った。
「駄目です」
ミショネは目を閉じ首を横に振って言った。
「何故ですか!?」
「それはいけません。自重して下さい」
「いえ、嫉妬と憎悪で苦しむよりはマシです」
アドリアーナはまだ言おうとする。ミショネはそんな彼女を安楽椅子に座らせた。最初は激昂していた彼女も次第に落ち着いてきた。ショールを外す。その時使用人が戻って来た。
「お帰り。頼んでいたものは買って来たかい?」
「はい、こちらに」
彼女はそう言うと薬を差し出した。
「有り難う。おつりは取っておいて」
彼はそう言うと薬を茶碗に入れた。そしてそれを水に溶かしてアドリアーナに差し出した。
「これをどうぞ」
「それは?」
ミショネが差し出した茶碗にふと気付いた。
「お薬ですよ。きっと良くなりますよ」
「いえ、私は・・・・・・」
「いいから。今はこれを飲んで落ち着かれるべきです」
「けれど今の私にはどんな薬も・・・・・・」
「いいから。一人で悩むのはよくありません。それにこうした事は誰もが一度は経験している事ですよ」
「というとミショネさんも!?」
「と言ったら驚きますか?」
彼は微笑んで言った。
「愛の女神というのは気紛れなものでしてね。どうしようもないのに」
「貴女も失恋されたのですか」
「・・・・・・いえ、違います」
彼はあえて真実を覆い隠して言った。
「私の誤った想いだったのです」
アドリアーナは気付いてはいない。ならばこれは自分の心の中にだけ留めておこうと思った。
「それでもとても悩まれたでしょう」
「はい。・・・・・・けれど私は今こうしてここにいます」
「そうですか。けれど私は耐えられないかも・・・・・・」
「いえ、大丈夫ですよ」
沈みきりそうな彼女をミショネは必死に慰める。
「何故ですか?」
「貴女はもう一度舞台に立ち芸術の神にその魅力を捧げなければならないからです」
彼がそう言った時使用人が新たな客人達を家に入れた。
「おお」
ミショネはその客人達を見て思わず喜びの声をあげた。見れば彼女と競演したあの俳優達である。
まず高官と庶民が前に出た。そしてアドリアーナの前で跪きその手に接吻した。
「これはお見舞いの言葉に替えて」
「有り難うございます。けれど何故言葉を替えましたの?」
「それは貴女のお誕生日をお祝いに来たからです」
姫君と女神がそう言って微笑んだ。
「そうです」
男優達も立ち上がって言った。
「まさかご自身のお誕生日を忘れてしまったわけではないでしょう?」
「いえ、完全に忘れていました」
アドリアーナは嬉しさと寂しさ、そして哀しさを混じえた笑顔で言った。
「それは残念。これでも召し上がって思い出して下さい」
女神はそう言うと持っていた紙袋を手渡した。
「ボンボンです。お好きでしょ」
「は、はい」
アドリアーナはそれを受け取った。姫君は箱入りの包みを手渡した。
「これはレースよ」
「私はこれを」
高官は大きな金のメダルを手渡した。
「僕はこれを」
庶民は一冊の書を。ルネサンス期のイタリアの悲劇だ。
「参ったな。皆に先を越されてしまった。ここぞという時に手渡そうとしたのに」
「あれっ、ということは監督も何か持って来ていたんですか?」
ミショネのその言葉に俳優達とアドリアーナが尋ねた。
「ええ、勿論。これですよ」
彼はそう言うと懐から小箱を取り出した。
「それは・・・・・・」
「これです。アドリアーナさん、どうぞ。私からのささやかな贈り物です」
それはダイアの大きな首飾りであった。
「綺麗・・・・・・」
アドリアーナも俳優達もその首飾りに見とれた。実に美しい首飾りであった。
「王妃様のものにそっくりね」
姫君がうっとりとした眼差しで言った。
「ええ。まさか本当にそうだったりして」
女神が言った。彼女もその首飾りに見とれている。
「まさか。そんな事したら私はこんなところにはおれませんよ」
ミショネは少し慌てて言った。
「そうだね。監督がそんな事するわけないし」
「そんな事をする度胸が無い」
高官と庶民が囃し立てる様に言った。
「からかわないで下さいよ」
ミショネはその言葉に対し困ったような顔で言った。
「けれど本当に綺麗・・・・・・。ミショネさん、有り難うございます」
アドリアーナは首飾りを受け取り彼に深々と頭を下げた。
「いえいえ、そんなに感謝されたらかえってこっちが畏まってしまいますよ」
彼は謙遜して言った。
「けれどこんなものを一体どうやって手に入れたの?」
「そうよねえ。ちょっとやそっとじゃ買えないわよ、こんなの」
女優達が少し首を傾げて言った。
「それは簡単です。ブュヨン公爵に譲って頂いたのです」
「公爵に!?」
ミショネの言葉に一同思わず声をあげた。
「叔父の遺産を使いましてね。それで譲って頂いたというわけです」
彼は少し芝居がかった調子で言った。
「けれどあの遺産は結婚資金にされるおつもりだったのでしょう?ご結婚は・・・・・・」
「そのお話は綺麗さっぱりとなくなりました。まあ私の柄ではないですし構いませんよ」
彼はアドリアーナに対し笑って言った。だが密かに心の中では泣いていた。
「私の為にそこまでして頂いて・・・・・・」
アドリアーナは彼の両手を握って言った。
「有り難う、本当に有り難うございます・・・・・・」
「いえ、本当に構いませんから。私は私の気の済むようにしただけですから」
彼は彼女のその言葉だけで充分だった。それこそが彼の生きがいなのだから。
「ところでアドリアーナさん」
男優二人が彼女に話し掛けて来た。
「はい」
アドリアーナは彼等の方へ顔を向けた。
「同僚としてお話があるのですが」
「私達も」
女優達も入って来た。
「何でしょうか」
アドリアーナはそれに対して尋ねた。
「是非舞台に戻って来て下さい。皆貴女を待っていますよ」
彼等は口を揃えて言った。アドリアーナはそれに対し微笑みで返した。
「そうですね。皆さんが私を待っていて下さるのですから」
彼女は半ば自分自身に言い聞かせるように言った。
「もう一度舞台に戻り、そして皆さんに私の演技を見てもらいましょう」
彼女は言った。これは自らへの決心の言葉であった。
「ええ、是非そうすべきです。パリの皆が貴女をお待ちですよ」
ミショネが笑みをたたえて彼女に言った。
「はい。ところで私がいない間に何かありましたか?」
彼女はふと気付いて皆に尋ねた。
「ええ、一つ大事件がありまして」
「大事件?」
庶民の言葉に対し彼女は尋ねた。
「はい、デュクロの事で」
「彼女の?」
「そうです、公爵と別れたんですよ」
高官が真剣な表情で言った。
「えっ、本当ですか?」
「はい、まあ公爵が飽きられたと言う方が適切でしょうかね」
「あの公爵も女好きですし」
「もういいお年だというのに」
女優達もその話について言う。
「それで今彼女はどうしていますか?」
「変わりありませんよ。そんなヤワな人ではありませんし」
「はい。今は新しいパトロンを見つけちゃいまして」
「それも美男のオルレアン公爵」
「こちらの方がお若いしいいかも」
「それはまた・・・・・・。彼女は相変わらずみたいですね」
アドリアーナはそう言って苦笑した。デュクロとはライバル同士だが同時に友人でもあるのだ。
「はい。歌ではやされているのに全く気にしていませんしね」
「そこら辺は本当に凄いというか流石というか」
「歌、ですか?」
アドリアーナは男優達の言葉に反応した。
「ええ、今パリで流行っているんですけれどね」
「知りませんか?」
「生憎。どんな歌ですか?」
「お聴きになりたいの?」
「ええまあ」
姫君の言葉に答えた。
「それでは」
「さん、、はい」
女神が音頭を取った。そして四人は歌いはじめた。
「昔々一人のお年寄りの公爵がおられました。もういいお年なのにケチでとても女好きでした。女の子を口説くのにいつもお薬と魔法を使う悪い魔法使いでもありました」
「公爵の歌みたいですね」
「まあ最初の方は」
「面白くなるのはこれからです」
男優達はアドリアーナの言葉に答えた。そして歌を再開した。
「嘘の恋には偽の金、魔法が欲しい遊び好きな女の子は公爵に近付きましたがスカートの下の若い恋人を見つけられてしまい魔法を手に入れられませんでしたとさ」
彼等は明るいリズムに合わせてその歌を歌った。ちょうど歌い終えた時使用人が部屋に入って来た。
見れば銀の盆を持っている。そしてその上に暗赤色のビロードの小箱を乗せている。
「あらっ、その小箱は?」
まずアドリアーナがその小箱に気付いた。
「ちょっと失礼」
仲間達に断って使用人の方へ向かう。
「あ、私が」
だがミショネが先に行った。そして小箱の前に来た。
「多分これもお祝いの贈り物ですよ」
彼はそう言うとそれを手に取った。
「どうぞ」
そしてそれをアドリアーナに手渡した。
「はい」
彼女はそれを受け取った。箱の上には名刺がある。
「ええと・・・・・・」
かなり小さい字である。彼女はそれを手に取り読んだ。
「マウリツィオより・・・・・・。嘘っ、あの人から!?」
アドリアーナの顔が急に明るくなった。そしてミショネにそっと囁いた。
「すいません、一人になりたいのですが」
「わかりました」
彼は微笑んで頷いた。
「皆さん」
ミショネは俳優達の方を向いて言った。
「喉は渇いていませんか?」
「ええ、とても」
酒好きな連中である。笑顔で答えた。
「それではどうぞあちらへ。ボルドーの年代ものがありますわよ」
アドリアーナはそう言うと食堂へ繋がるドアを指し示した。
「それでは」
彼等は満面に笑みをたたえてそちらへ向かった。
「すぐに私も行きますわ。それまでごゆっくり」
彼等は使用人に招き入れられ食堂へ入って行った。全員は入るとドアが閉じられた。
「さて、と。それでは中を見ましょう。・・・・・・うっ」
アドリアーナは箱を開いた瞬間急に顔を青くさせた。
「どうしました!?」
ミショネはその様子に驚いた。
「いえ、何か不吉なものを感じましたので」
彼女は箱の中身をまだ見てはいない。しかしそれでも何かを感じたのだ。
「馬鹿馬鹿しい。そんなものは杞憂ですよ」
ミショネは彼女を励ますように言った。
「それで箱の中は一体何なのですか?」
「はい。これは・・・・・・花ですね」
彼女はその花を箱の中から取り出した。それを見た彼女の顔が再び蒼白になった。
「そんな・・・・・・・・・」
それはすみれの花であった。そう、あのすみれの花である。
「あの時あの人に差し上げたあの花・・・・・・。捨ててしまうならまだしも突き返すなんて・・・・・・。そんな、酷い、酷過ぎるわ。こんな事って・・・・・・・・・」
アドリアーナはその場に崩れ落ちた。そして泣き伏してしまった。
ミショネはそれを見て呆然としている。どうすべきかわからなかった。
「あ、あのアドリアーナさん・・・・・・」
何を言って良いかわからない。だが必死に言葉を探して彼女に言う。
「これは彼がした事ではありませんよ。伯爵はこの様な事をなさる方ではありません」
それは彼もわかっていた。彼もマウリツィオとは何度も会っている。だからこそわかったのだ。
「こういった事をするのは・・・・・・おそらく女性ですよ」
彼はそう思った。こうした発想を持ち出来るのは女性だと直感したのだ。それは彼が長い間舞台に携わり女性というものをよく見てきたから言えるのだ。
「けれど一体誰が。しかもこんな残酷な方法で」
普段の彼女ならそれが誰かすぐにわかっただろう。しかし今の取り乱している彼女にはそこまで考えが至らなかった。
「そんな事はどうでもいいわ・・・・・・」
彼女は呻く様に言った。奥の食堂からは四人の騒ぐ声が聞こえて来る。
「ただこの花は私の・・・・・・」
再びそのすみれの花束を手に取った。そして撫でる。
撫でるうちに涙が溢れてきた。止まらない。止めようがなかった。
「可哀想な花、昨日野原に咲いたばかりなのに今日にはもう朽ち果てていく花。信頼出来ない恋の誓いのように」
彼女は泣きながら語った。涙がすみれを濡らす。それがすみれを一層艶やかで儚げにしている。
「これは最初の口付けだろうか。いや、最後かも知れない。けれどこの哀れな花に口付けするわ。優しく、強く。私の終わった愛の為に」
そう言って涙で濡れた花に口付けした。すみれの香りが彼女を覆う。本来なら芳しい筈のその香りも今はもう死の、全ての終わりの香りのようであった。
「これでもう全ては終わったわ。この花の香りが全てを消してくれる。過ぎ去りし日々も何もかもこの花と共に終わるのよ。そう、もう二度と繰り返すことはないわ」
花を暖炉の中に入れた。涙で濡れた花は今炎に包まれその中に消えていった。
「さようなら、何もかも・・・・・・」
アドリアーナは肘掛け椅子の前に来るとそこに崩れ落ちた。もう立てなかった。
ミショネは彼女の側に来た。そして優しく声をかけた。いたわる様に。
「アドリアーナさん、それは違いますよ」
言葉を出すその顔も優しかった。まるで娘をいたわる父の様に。
「彼は・・・・・・伯爵は来られますよ」
「いいえ、そんな事・・・・・・。ありえない、ありえないわ」
アドリアーナは椅子に顔を埋めたまま言った。それはまるで自分の心に灯ろうとする微かな希望を打ち消そうとするかのようだった。
「いえ、絶対に来られます」
彼はまた言った。優しいが毅然とした声で。
「もうすぐ来られますよ。そして全てが明らかになります」
「そんな奇跡みたいな事が・・・・・・」
「アドリアーナさん、奇跡は誰が起こすと思います?」
彼はアドリアーナに尋ねた。
「この世の全てを司る神が」
「いえ、それは違います」
彼はその言葉に対して反論した。アドリアーナは見ていなかったがその顔は真摯なものになっていた。そして正面を向いていた。まるで哲学を語る若者の様に。
「奇跡は人が起こすものです。人が願うからこそ奇跡は起こるのです。神はそれを手助けされるだけです」
「人が起こすもの・・・・・・」
「そうです、奇跡も、喜劇も、悲劇も全て人が作るものです。現に貴女は舞台でそれを全て作り出しておられるではありませんか」
「・・・・・・・・・」
アドリアーナはその言葉を聞いて沈黙した。ミショネは自分の劇を最も診てきた人である。その彼が今こうして彼女に語っているのだ。それは彼女の心を強く打った。
この時ミショネは喜劇と悲劇も出した。これは彼女が女優だから出したのである。しかし彼は劇を出した事を後にどう思ったであろうか。喜劇も悲劇も人が作り出すというのは事実である。そしてそれがもたらす喜び、そして悲しみもまた現実なのである。これは非常に残酷な話であるが。
「・・・・・・そしてその奇跡とは?」
アドリアーナは彼に尋ねた。
「私は伯爵に手紙を書きました」
先程使用人に持たせたあれである。
「手紙を?」
「はい。いらぬお節介でしたか?」
「いえ・・・・・・」
アドリアーナはその言葉に対し首を横に振った。
その時屋敷の玄関の方から馬の嘶きが聞こえてきた。
「お、来られましたよ」
彼はあえて彼女にも聞こえるように声を弾ませて言った。
「そんなことが・・・・・・」
彼女は顔を起こした。その瞳はまだ涙で濡れている。
「ところが起こるのです。それが奇跡というものです」
ミショネはそんな彼女の顔を見て微笑んで言った。
「アドリアーナ!」
マウリツィオの声がした。
「聞こえましたね。あの声は忘れられた事はない筈ですよ」
「いえ、違うわ。これは私の幻聴なのだわ」
彼女はまだ信じられない。
「ではこれから貴女が見るものは幻覚ですかな?」
ミショネはそんな彼女を少しおどけた調子で言った。しかしその顔はやはり優しいままである。
足音が近付いて来る。それはアドリアーナにも聞こえている。
一歩一歩近付いて来る。そしてそれは扉の前に来た。
「あの人が来られるのね!」
「そう、やっと信じる事が出来ましたね!」
ミショネはそれを見て満心の笑みで言った。
「はい、もうこうしてはいられません!」
彼女は立ち上がった。そしてドアの方へ向かいそのドアを大きく開いた。その向こうにはマウリツィオがいる。
「これでいい、これでいいんだ、これで」
ミショネはそう言うとその場を去った。そして一人食堂へと入って行く。
マウリツィオが部屋に入って来た。息は大きく弾んでいる。
ドアの前で待っていたアドリアーナは彼を抱き締めようとする。だがハッとして立ち止まった。
「何故ここに・・・・・・!?」
アドリアーナは恨みを込めた声と眼差しでマウリツィオに言った。
「・・・・・・許してくれ」
マウリツィオは罪悪感に捉われ下を向いて言った。
「・・・・・・・・・」
アドリアーナは沈黙した。だがその眼は恨みを込めたままである。
「気の迷いだった。僕が馬鹿だった」
「あちらであのお方がおられてもそれが言える?」
アドリアーナはそう言って彼を見た。問いかける眼で。
「今の僕は君だけが全てだ。信じてくれ」
「それは前にもお聞きしました。もう何度も何度も」
「それは謝る、だから許してくれ」
「けれどまたあの人のところへ行ってしまわれるのでしょう!?また今度も」
「それは無い、僕のこの軍人としての誇りに誓って」
「私は女優です、女優に軍人の誇りと言われても」
「では言い替えよう、君を愛する一人の男としての気持ちに誓って」
マウリツィオは全てをかなぐり捨てた。そのうえでアドリアーナに言った。
「一人の男として・・・・・・」
その言葉はアドリアーナの心を刺激した。あまりにも純粋な言葉だったから。時として装飾は真実を覆い隠してしまうのだ。
「そう、誓って言う。今の僕は君を愛する一人の男だ」
「・・・・・・・・・」
彼の瞳を見た。曇りなく彼女を見ている。
「・・・・・・信じてよろしいのでしょうか」
「お願いだ、信じてくれ」
それは懇願であった。それを拒絶出来るアドリアーナではなかった。
「・・・・・・わかりました。信じます」
彼女は静かにそう言った。
「・・・・・・有り難う」
マウリツィオは彼女を抱き締めた。ようやく二人は再び心を重ね合ったのだ。
「ザクセンに来てくれないか?そして一緒に暮らそう」
「けれど貴方は王位に・・・・・・」
彼の夢を知っていた。だから彼女は踏み切れなかったのだ。
「そんなものはもうどうでもいい。僕は君だけが必要なんだ」
「いいえ、そうはいかないわ」
アドリアーナは彼の言葉に対し首を横に振った。
「私の王冠は劇で刺繍された作り物。王座は舞台にある虚のもの。けれど貴方も王冠と玉座は違うわ。本物なのよ」
「それが何だというんだ」
マウリツィオはアドリアーナの言葉に少し激昂して言った。
「僕にとって君は何よりも価値あるものなんだ。王冠や玉座など君と比べたら何の価値も無い。あれこそ虚のものだ」
彼はアドリアーナを見て言った。
「しかし今君はここにこうしている。それは真実だ。僕にとっては君が側にいるこのことこそ王冠であり玉座であるんだ」
「マウリツィオ・・・・・・」
まだ信じられなかった。王位という永遠の夢を捨てて自分の所に来たということが。
「だから・・・・・・来て欲しい。そして何時までも、永遠に二人で暮らそう」
「・・・・・・・・・ええ」
アドリアーナは彼の手を握った。マウリツィオもそれを握り返す。
二人はヒシ、と抱き合った。アドリアーナは顔を紅潮させ泣いていた。
マウリツィオは彼女をソファのところに導いた。その時彼女は急に顔を蒼くさせた。
「!?どうしたんだい!?」
それはマウリツィオにもわかった。
「喜びのあまり・・・・・・」
最初はそう思った。だが違った。ふとあの花の事が思い出された。
「花!?」
「ええ、貴方にあげたあの花。貴方が私に突き返したあのすみれの花」
「あのすみれの花!?おかしいな。僕は君にすみれを贈った事なんてないのに」
マウリツィオは顔を顰めて言った。
「えっ!?」
アドリアーナはその言葉に驚いた。ではあの花は一体誰が。
だがそれはアドリアーナにはわからなかった。彼でないとすれば。しかし今の彼女にはわからなかった。次第に苦しくなってきた。
「そしてそのすみれは?」
彼は尋ねた。
彼女は暖炉を指し示した。そして言った。
「もう燃やしてしまったけれど。見ているとあまりにも辛いので」
腕の動きが鈍くなりだしている。
胸元が苦しくなった。その苦痛を庇う様に両手を胸に置いた。
「大丈夫かい?」
「ええ」
彼女は答えた。口ではそう言っても次第に苦しさが増してきている。
彼を見つめた。その黒い瞳が次第に潤んでくる。
「何故そんなに僕を見ているんだい?」
「いえ・・・・・・」
急に目の前が暗くなった。何も見えなくなった。
「え・・・・・・今私は何処にいるの!?」
「な、何を言ってるんだい!?」
マウリツィオはその言葉に驚いた。
目の前が再び明るくなった。しかし何かが混乱している。
「私・・・・・・今何を話していたのかしら」
「アドリアーナ・・・・・・一体何を言ってるんだい!?」
マウリツィオはそんな彼女を落ち着かせようとする。だが彼女はそんな彼を見て言った。
「貴方は何を言っていたの?・・・・・・いえ、その前に」
アドリアーナの視界が再び暗転した。
「貴方は・・・・・・何処にいるの!?」
「待ってくれ、僕は今ここにいるじゃないか、君のすぐ側に!」
「いえ、いないわ」
視界が戻った。だがそこに映るのは別のものだった。
「貴方はあの桟敷にいるのよ」
彼女はそう言って微笑んだ。
「桟敷・・・・・・。君は何を言っているんだ」
「この大変な混雑した席に。折角だからボックスに入ればいいのに。・・・・・・けどいいわ」
彼女の視線は虚ろである。既に目の前には何が映っているか自分でもわかっていないのであろうか。
「側で私を見たいのなら」
「アドリアーナ、アドリアーナ!」
彼女の両肩を掴んで必死に揺さぶる。だが反応は無い。
ただ虚ろに何処かを見ているだけである。
「大変だ・・・・・・」
彼女から手を放し机の上に置かれていた鈴を鳴らした。そして使用人を呼んだ。
「陛下も宮廷の方々も皆来ておられるわ。けれど私はあの人だけが見てくれればそれでいいの」
「待ってくれ、頼むから落ち着いてくれ!」
だが彼の言葉は届いていない。再び彼女に近寄りその肩を揺さぶる。しかし反応は無い。
「一体どうしたらいいんだ・・・・・・」
そこへ鈴に呼び出された使用人がやって来た。彼はそれを認めるとすぐに言った。
「ご主人が大変だ。すぐにお医者様を呼んでくれ」
彼女はそれに頷きすぐに走り去った。アドリアーナはそれに気付かず虚ろな声で言った。
「あの女が!」
「僕の声が聞こえていないのか!?」
彼は絶望的な気持ちになった。だが諦めなかった。
「あの女は私からあの人を奪った・・・・・・。私の愛しいマウリツィオを」
「君は今そのマウリツィオの側にいるじゃないか!」
彼はそう言って彼女を抱き締めた。
「こうして君を今抱き締めている、これでもわからないというのか!?」
「いえ、違うわ!」
アドリアーナは彼の腕の中から離れて言った。
「いや、違わない!」
彼は彼女を再び抱き締めた。しかし無駄だった。
「違うわ!」
「そんな・・・・・・。僕がわからないというのか・・・・・・。一体どうしたというんだ・・・・・・」
彼女は辺りを見回す。そして気付いた。
「ここにいたのね、私の愛しい人」
「気付いてくれたのか・・・・・・!?」
「マウリツィオ!」
「アドリアーナ!」
二人は抱き合った。そして彼女は倒れた。
「アドリアーナ・・・・・・」
彼は名を呼んだ。しかし返って来る言葉は無い。
「アドリアーナ!」
同じであった。彼はそれに顔色を失った。生死を賭けた戦場でもなかったことだ。
「誰か、誰か来てくれ!早く!」
彼は叫んだ。
ミショネがやって来た。彼の叫び声を聞いて部屋に入って来た。
「どうしたんですか!?」
気を失っているアドリアーナを見た。それを見た彼も顔色を失った。
「おお、神よ!」
「来て下さい!」
「は、はい!」
彼はアドリアーナの側へ駆け寄った。
「一体どうしたんですか!?」
「急に何か錯乱しだして。・・・・・・そして気を失ったんだ」
「気を・・・・・・。一体何故・・・・・・」
「それがわからないんだ。顔が青くなってそれから苦しみだして」
「顔が・・・・・・」
ミショネは考えを巡らせた。その時アドリアーナの息が戻った。
「息が戻りましたよ」
ミショネはそれを見て喜んだ。
「ああ、そうみたいだね」
マウリツィオはそれを見て喜んだ。
「良かった・・・・・・。一体どうなるかと思いましたよ」
ミショネはホッと胸を撫で下ろした。
「しかしこれは一体どうしたんですか?」
「それが僕も・・・・・・」
マウリツィオは首を傾げて言った。
「いや、さっき花がそうとか言ってたな。すみれの花らしいけれど」
「すみれの!?」
ミショネはそれを聞いて顔を再び蒼白にさせた。
「うん、何か心当たりがあるのかい?僕が贈ったとか言っていたけれど」
「はい。・・・・・・そうか、わかりましたよ」
ミショネは小箱を取った。そしてそこにある手紙を見せた。
「この文字に心当たりはありませんか!?」
「これは女の人の字だね」
マウリツィオはその字を見ながら言った。
「これは・・・・・・確か・・・・・・」
彼は丹念にその字を見る。そして思い出した。
「ブィヨン公爵夫人の字だ!」
「まさか・・・・・・!」
ミショネはその言葉にハッとした。
「そうだ、全てはわかったぞ!彼女はすみれの花に毒を仕込ませていたんだ!」
「何と・・・・・・。何と怖ろしい事を・・・・・・」
ミショネは愕然とした。彼女の残忍さと憎悪の凄まじさに身震いした。
花が消えた暖炉を見る。憎しみを染み込ませた恐ろしい花はもうそこにはなかった。
「とすると彼女は・・・・・・」
アドリアーナを見る。マウリツィオの腕の中で目を覚まそうとしている。
「ああ、おそらく・・・・・・」
マウリツィオは唇を噛んで言った。顔には苦渋の色が滲み出ようとしている。
「そんな・・・・・・・・・」
ミショネはその言葉に絶望した。それはマウリツィオも同じであった。
「・・・・・・・・・」
マウリツィオはただアドリアーナの顔を見ている。彼女はゆっくりと眼を開けた。
「マウリツィオ?それに監督も」
「良かった、目は見えているみたいだ」
二人はその言葉に少し胸を撫で下ろした。
「頑張ってくれ、もう少しでお医者様が来るから」
マウリツィオは彼女を励ます様に言った。
「お医者様って・・・・・・。私は死ぬの?このまま」
アドリアーナはゆっくりと頭を振った。
「嫌、それは嫌・・・・・・」
彼女は言った。そしてその黒い瞳から涙を流した。
「貴方と一緒になるのだから。そして最後まで二人でいるのだから」
「そうだ、僕達はこれからもずっと一緒にいるんだ」
マウリツィオは彼女に対し言った。
「そう、一緒にいるのだから。・・・・・・私は死にたくはないわ」
「そう、貴女はこれからも伯爵とずっと一緒にいるのです」
ミショネは彼女を慰め、励ます様に言った。
その時激しい痙攣がアドリアーナの身体を襲った。彼女はそれに苦悶した。
「ああ・・・・・・」
その声は弱々しかった。それが全てを物語っていた。
「もう駄目みたいね・・・・・・」
彼女は力無く微笑んで言った。
「そんな筈はない!」
「そうです、それは思い過ごしです」
二人は必死に励ます。しかしアドリアーナの顔を見てそれが事実であることもわかっていた。
「身体から力が抜けていく・・・・・・。それがわかるわ・・・・・・」
立ち上がろうとするが出来ない。マウリツィオとミショネはそんな彼女を懸命に支える。
「有り難う、最後まで」
アドリアーナは二人に言った。その顔にはまるで幻影の様な優しい微笑みがたたえられていた。
「けれどもう駄目ね。ミューズの声が聴こえてきたから」
彼女はそう言うと右手を上へ差し伸べた。
「光が私を誘うわ。その光が私を苦しみから解き放ってくれるーーー−。私は愛をこの胸に抱いて天へ行くのね。今光が私を包んだわ。・・・・・・・・・マウリツィオ、ミショネさん」
「うん」
「はい」
二人は名を呼ばれて答えた。
「また・・・・・・・・・お会いしましょう。今度は天界で」
彼女はそう言うと瞼をゆっくりと閉じた。そして二人の腕に重みをかけ眠りについた。
そしてそのまま息をしなくなった。
「アドリアーナ!」
「アドリアーナ!」
二人は叫んだ。しかしもう返事はなかった。
二人はアドリアーナの亡骸を抱いて慟哭する。しかし彼女の死に顔は穏やかに彼等に微笑んでいた。
アドリアーナ=ルクブルール 完
2004・2・8
……うーん、こういう最後か。
美姫 「これもまた一つのお話」
最後に穏やかな笑みを浮かべれたのなら、ある意味幸せなのかも。
美姫 「いやいや、恐るべし公爵夫人」
とりあえず、アドリアーナのお話はこれでお終い。
美姫 「お疲れ様でした〜」
面白かったですよ〜。
美姫 「次回作も既に決まっているみたいだし」
そちらも楽しみにしてますね。
美姫 「それでは」
ではでは。