第二幕 別荘


 ブィヨン公爵はセーヌ河の岸に別荘を持っていた。伊達男の彼に相応しく別荘とはいえ豪奢な造りになっている。
 別荘の横の並木路の脇にはセーヌ河が流れている。新月の蒼白い光は並木路に連なる裸木を照らしそれの向かい側の別荘の大理石像もその光で浮き出させている。
 その大理石像の左手には邸の奥に通じる戸がある。
 邸の中にはサロンも設けられている。装飾はあっさりとしているが優雅である。奥には大きなガラス窓になっておりその先はテラスになっている。そしてそこから大理石の階段で庭に降りられるようになっている。
 そのサロンには幾つかの扉があった。そして中央にはテーブルが置かれその上には燭台もある。その側に肱掛椅子、その左に長椅子と丸い椅子がある。 
 サロンの左奥には大鏡、その横にもう一つテーブルと燭台がある。中央のテーブルに誰かが不安そうに座っている。
 見れば若い貴婦人である。紅い炎のような色のドレスを着ている。そしてその首や手はサファイアで飾られている。
 美しい顔立ちをしている。細長い顔に長い鼻。切れ長で二重の黒い瞳、赤がかった茶の髪。そして身体全体から妖艶な雰囲気を醸し出している。
 彼女は公爵の若い夫人である。ブィヨン公爵夫人、世間ではそう呼ばれている。
 夫とは四十も歳が離れている。所謂政略結婚で夫婦となった。この時代の貴族の家では当然のことであった。当時は結婚も仕事の一つであったのだ。これは何時でもそうなのかもしれないが。
 彼女は落ち着かない様子で椅子に腰掛けている。まるで誰かを待っているかのように。
「あの方はここに来られるのかしら」
 彼女はふと呟いた。
「愛しい人を待つのはいつも辛いわ。何時来られるかわからない。来られないかもしれない。そしてそれを待つ時間のどれだけ長く苦しいか。待っているだけで私の心は締め付けられ揺れ動き燃え上がる。そして凍りつく。ほんの小さな物音や揺れる影にさえ心を乱されてしまうわ」
 ふと時計を見る。もう十一時を指し示している。時計が音を鳴らした。
「もうこんな時間・・・・・・」
 ふと席を立った。そして窓のところへ行き並木路を注意深く見つめた。
「来られるのかしら?それとも・・・・・・・」
 ふと心の中に不安の火が点る。
「いえ、そんなことは。あ・・・・・・」
 ふと何かを見た。
「あの方?違うわ。河の輝きだわ。夜の灯火に照らされた。そして私が見たのはあの星」
 夜空を見上げた。そこには一つ大きな星が瞬いていた。
「私を哀れと思うならあの人をここに連れて来て。お願いだから」
 そう呟いた時サロンに誰か入って来た。彼女は振り向いた。そこに彼はいた。
「奥方、遅れてしまいました。申し訳ありません」
 マウリツィオは申し訳なさそうに部屋に入って来た。
「本当です。私がどれだけ待ち焦がれたと思っているのですか」
 公爵夫人は彼を咎めるような顔で言った。
「全く、人を待たせるのは罪ですよ」
「申し訳ありません」
 公爵夫人の言葉に対して彼は頭をうなだれた。
「けれどいいですわ。来て下さったのですもの」
 彼女はそう言うとニコリと笑った。
「けれどどうして遅れたのですか?」
「実は後をつけられまして・・・・・・」
 彼は表情を暗くして言った。
「一体誰に!?」
 公爵夫人はそれを聞いて顔を引き締めた。
「見知らぬ男二人組です。私が近寄ると彼等は逃げ去りましたが」
「本当ですか!?」
「私が嘘を言うと思われますか?」
 彼は真摯な顔で彼女に言った。
「それは・・・・・・」
 彼女は彼の言う事を肯定しようとする。だがその時彼の胸にあるすみれの花に気付いた。アドリアーナが送ったあのすみれの花である。
「それは芳しい贈り物が証明しておりますわ」
「それは何ですか?」
 マウリツィオはその言葉にキョトンとした。
「これですわ」
 彼女はそう言ってマウリツィオの胸のすみれの花を取って彼に見せた。
「あっ、それは・・・・・・」
 マウリツィオはそれを見てハッとした顔になった。そして内心舌打ちした。
「それは・・・・・・?」
 公爵夫人は彼の顔を見て媚惑的に微笑んだ。
「これは貴女への贈り物です、マダム」
 彼はそう言ってそのすみれの花を彼女に握らせた。花は彼女の手の中で柔らかく握られた。
「あら、本当ですか?誤魔化すのがお上手なんだから」
「誤魔化しているわけではありませんよ、神に誓って」
「私にも誓って下さいますか?」
「勿論です」
「それではわかりました。有り難く受け取らせて頂きます」
 彼女はそう言うとすみれの花を胸にさした。そしてマウリツィオに自分の手を差し出した。
「有り難き幸せ」
 彼は跪きその手に接吻した。公爵夫人はそれを見て満足気に微笑んだ。
「さ、おかけになって下さい。王妃様とは貴方の権利とお考えについて長い間お話しました」
 彼女は彼をサロンの中央の席に座らせ自身もその向かいに座った。そして話をはじめた。
「王妃は貴方のお考えに賛成して下さりました。また枢機卿様も支持して下さるでしょう」
 彼女は彼に対し優しい口調で話した。
「そうですか。それもこれも全て貴女のおかげです」
 マウリツィオはそれを聞いて多いに喜んだ。顔が急に明るくなる。
「でもお気をつけて下さい。貴方の事を快く思わない人達もいますよ」
「やはり」
 彼はそれを聞いて顔を引き締めた。
「彼等は抜け目ありません。今日も国王陛下に彼等の策を提出しました」
「それは一体・・・・・・」
 彼はそれを聞いて考え込んだ。
「貴方の拘引です」
 彼女は彼に対して答えた。
「それは嫌ですね。幾らなんでもバスティーユは勘弁して欲しい」
 この当時この監獄は政治犯の収容所として使用されていた。後にこの監獄への襲撃がフランス革命のプレリュードとなるのはあまりにも有名な話である。もっともその実情は監獄を取り囲んだ市民達の早合点であったのだがそれに対して余裕をもって対処しながらも殺された監獄長たちの方こそいい迷惑であった。
「そしてどうなさるおつもりですか?」
「あそこに入るわけにはいきません。すぐにこの国を発ちます」
「えっ!」
 公爵夫人はそれを聞いて驚いた。思わず席から飛び上がりそうになった程だ。
「何を仰るのです?折角お会いしたというのにもうフランスを発たれるなんて」
 彼女は彼を必死に引き留めようとする。
「お願いです、ここに残って。国王陛下には私がとりなしますから」
「いえ、そういうわけにはいきません」
 彼はそれを振り払おうとする。
「火の粉が迫ろうとしているならが私はそれを払い退かなければなりません。さもないと私は自分の夢を果たせないでしょう」
「しかし・・・・・・」
 公爵夫人は彼を哀願する目で見つめた。
「申し訳ありませんが」
 彼は席を立った。そしてサロンから出て行こうとする。
「伯爵、もう私を愛してはいないのですか!?」
「いえ、そういうわけではありません」
 マウリツィオは彼女を振り返って言った。彼も辛いようである。
「ではここに残って下さい」 
 彼女はそう言うと両手を彼の首に廻した。
「そして私にもう一度あの熱い口づけを」
「すいません・・・・・・」
 彼はその手を静かに解いた。するとその手は力無く下に落ちた。
「私は必ず戻って来ます。それはその時に」
「いえ、その時貴方は別の人を愛しているわ」
 彼女は強い、それでいて今にも壊れそうな声で言った。
「私は貴方の心を全て知っています。貴方にとって私はもう色あせたものでしかないのでしょう?だからフランスを去ろうと考えておられるのです」
(まずいな、私とアドリアーナのことに気付いているのか)
 彼は公爵夫人の言葉を聞いてふと思った。その危惧は心の中で急激に膨らんでいった。
「私よりもっと美しい人を愛していらっしゃるのではなくて?だから去る、と。私の前を」
「そんなことはありません。私の想いは奥方にだけ向けられています」
 マウリツィオは公爵夫人の疑念を必死に打ち消そうとする。だがそれは困難である。何故ならその疑念は真実であるのだから。そう、彼女の疑念は正しかった。
「嘘です、それは嘘ですわ」
 公爵夫人はそれに対し頭を振って否定する。女の勘はここでも恐ろしい程正確であった。
「奥方、それ程私が信用出来ないというのですか?」
 マウリツィオは何とか彼女の疑念を取り払おうと言葉を出した。
「貴女のお力があればこその私だというのに。その私がどうして貴女を裏切るというのですか?」
「それは・・・・・・」
 マウリツィオの言葉と目に公爵夫人も一瞬沈黙した。その時であった。
 不意に物音がした。この別荘の玄関からだ。
「待って下さい、今何か物音がしましたよ」
 マウリツィオは玄関の方を見た。
「ええ、確かに」
 物音は公爵夫人も聞いていた。彼女の顔が強張った。
「聞こえますね」
 マウリツィオは窓の方へ歩いて行った。そして窓から外を見る。
「はい、車の音が」
 公爵夫人も彼の後について窓の外を見る。
「どなたかこの別荘にお呼びしましたか?」
「いえ、貴方の他は誰も」
 公爵夫人は頭を横に振って言った。そこには偽りはなかった。
「だれかここに入って来ますよ」
「あれは・・・・・・主人ですわ」
 当時のフランス貴族の間では浮気や不倫は日常茶飯事であった。彼等はかなり乱れた生活を送っていた。
 だがそれを公にされるとまずいのは今と同じである。男ならまだよいが女に対してはいささか厳しいのは何時の世も変わらないことであろうか。
「私の後をつけていたのは公爵だったのかな」
「だとしたら私は・・・・・・」
 公爵夫人は顔を蒼くさせた。
「私にお任せを」
 二人はサロンを見回した。中は月の光で明るい。マウリツィオは至って冷静であるが公爵夫人はオロオロとしている。彼はそんな彼女を気遣いつつ手前の戸口を開けた。
「ここがいいな。さあどうぞ」
 彼は公爵夫人をその中に入れた。彼女はその中に力無く入って行った。
「さて、と。後は公爵達に対して一芝居だな」
 彼は扉を閉めてそう呟いた。そこへ公爵と僧院長が入って来た。
「今晩は、伯爵。よくぞいらっしゃいました」
 公爵は皮肉を込めて彼に言った。
「まずスペードのキングを引くとは私も運がいい」
「もうすぐハートのエースも引けますよ」
 僧院長が悪戯っぽく公爵に言った。
「それは何かの洒落ですか?」
 マウリツィオはあえてとぼけてみせた。これも演技である。
「いえ、実はね」
 公爵は意味ありげにマウリツィオを見ながら言う。
「ここへ来る途中白い服を着た綺麗な女性を見たのですが」
「それは誰ですか?」
「伯爵、残念ですが私は全てを知っているのです」
「勿論私も」
 僧院長も続けて言った。
「公爵、お望みとあらば私は貴方のご指示に従いますが」
 マウリツィオは彼を見て言った。一歩前へ出る。
「おや、決闘ですか?」
 マウリツィオが白い手袋を握ろうとしたのを見て言った。
「もう真夜中ですよ」
 僧院長がそれを制止した。どうも彼等は決闘をするつもりではないようだ。マウリツィオも手袋を納めた。
「生憎私は伯爵と剣を交えるつもりはありません」
「だったら何故ここに?」
「私達はただ笑うに来ただけです」
「私をですか?」
 マウリツィオは顔を顰めて問うた。
「まあ伯爵は私の債権者ですし」
「そう、公爵は伯爵の債務者なのです」
「?それはどういう意味ですか?」 
 マウリツィオは二人の真意を計りかねていた。
「まあデュクロのことなのですけれどね」
「彼女のことで何か」
 マウリツィオは公爵に尋ねた。
「実はそろそろ飽きてきていたのです。もし伯爵が彼女と交際されたいのならどうぞ」
「公爵は身を退かれると言っておられるのです」
「つまり私の好意のあらわしなのですが」
 公爵は少しニヤニヤしながら言った。マウリツィオもようやく二人の話がわかってきた。
「成程、私も話がようやくわかってきました」
「でしょう?貴方にも悪い話ではないでしょう」
「はい」
 彼は僧院長の言葉に対して頷いた。
「縁切りには上手い口実というわけです」
 公爵が得意げに頷きながら言った。
「では握手を」
「恨みっこなしで」
「わかりました」
 そして公爵とマウリツィオは固く手を握り合った。そして三人で笑い合った。だが三人共まだ腹に一物ありそうである。何処か空虚な笑いであった。
「おや」
 笑い終わると僧院長が外の気配に気付いた。見れば誰か来たようだ。
「おお、ミーズが降臨されましたぞ」
 彼は戸を開いて言った。見ればアドリアーナが来ていた。
「マドモアゼル、ようこそ。伯爵も貴女をお待ちでしたよ」
 公爵がそう言って彼女を出迎える。伯爵、という言葉に彼女は目の奥で喜んだ。
「伯爵、こちらのマドモアゼルが今フランス一の女優です。アドリアーナと申し上げるだけでおわかりだと思います」
 僧院長が彼女の手を取りマウリツィオに紹介する。彼の顔を見てアドリアーナは喜びで息を呑んだ。
(会えた、良かった)
 マウリツィオも彼女の顔を見て思った。
(まさかこんな所で)
 二人の思いは別々だが二人共息を呑んだ。
「この方ですね。ザクセン伯爵閣下。何でも若くして戦場でご活躍だとか」
「はい、その通りです」
 僧院長はアドリアーナに対して答えた。
「・・・・・・・・・」
 マウリツィオはそれに対し沈黙を守っている。
「伯爵、じつはマドモアゼルはいつも共にいてくれる友人を探しているそうですよ、心強い友人を」
「それは初耳ですね」
 マウリツィオはアドリアーナを見ながら興味深げに言った。
「僧院長、ところで」
 公爵はここで二人を見ながら僧院長をそっと呼び寄せた。
「大事な用事はお忘れなく」
「それはもう」
 僧院長もそれに対し笑って答えた。
「では私は夜食の準備をしてきますね」
 彼はそう言うとサロンを後にした。
「どうぞ、楽しみにしていますよ」
 公爵はそう言って僧院長に片目でウィンクして答えた。
「では見張りをしようか。罠にかかった獲物の」
 そう言ってサロンを見回した。
「ここの何処かにいる。さて、何時まで隠れていられるかな」
 そう言って彼もサロンを後にした。二人だけが残った。
「どうしてここに?」
 マウリツィオはアドリアーナに問うた。
「公爵にご招待されて」
 彼女は素直に答えた。
「公爵に、ねえ」
 彼はそれを聞いて頭の片隅で考えた。何か引っ掛かる。
「ところでマウリツィオ」
 アドリアーナは彼に尋ねた。
「何だい?」
 彼は聞き返した。
「私は王様が実は若き将校というような嘘は気にとめないけれど。いずれ実現する夢ならば」
「何が言いたいんだい?」
 彼は再び聞き返した。
「・・・・・・いえ、いいわ」
 彼女は自分の勘を封印した。そして彼に向き直った。
「御免なさい、さっきの言葉は取り消すわ」
「うん」
 彼も内心で彼女が自分がここに来ていて自分以外の女と会っていたのを勘付いていたのだろうと思った。だがそれはあえて心の中で留めておいた。
「おや、また誰か来たみたいだな」
 マウリツィオはサロンに誰かが入って来たのに気付いた。見ればそれは僧院長だった。
 彼は花籠を持っている。そしてサロンを花で飾り付けている。それをミショネが手伝っている。
「あの、僧院長」
 彼は不服そうである。そして僧院長に何か言おうとした。
「諦めて下さい」
 彼はミショネが何か言おうとする前にそれを拒絶した。
「急ぎの用事なのですが」
「申し訳ありません」
 取り付く島もない。
「しかしこれは私には関係ないことです」
 ミショネは今にも帰りたそうな口調で言った。
「ここには誰でも入ってはこれますが出ることは出来ないのです」
 僧院長はわざと厳かな口調で言った。
「仕事の打ち合わせなのですよ、新しい役の事でデュクロと」
「デュクロ?だったらここにいた方がいいですよ、余計に」
 僧院長は笑って言った。
「?どういう意味ですかそれは」
「じきにわかりますよ」
 彼はそう言った。するとミショネは目を見開いた。
「彼女がここにいるんですか?」
「ですからそれはすぐにわかりますよ」
 彼はそう言うと花を取って壁に飾りはじめた。
「デュクロがここに?」
 それを聞いたアドリアーナも首を傾げた。
「本当ですか、それは」
 だが僧院長はミショネの言葉を無視して飾り付けを続ける。そして呟くように言った。
「ヴィーナスとマルスの密かなお付き合いは面白い話だったな」
 その言葉にアドリアーナはすぐに反応した。
「マルスとは誰のことですか?」
 無論彼女もその話は知っている。僧院長に尋ねる。
(デュクロ?彼女も来ているのか?)
 マウリツィオもそれは聞いている。だからこそ考え込む。彼女とはこれといって付き合いは無い。
(先程の公爵の言葉・・・・・・。もしかして私と彼女が付き合っていると思っているのか?そしてこうしてここにアドリアーナや監督を呼んだのか。私と彼女の逢引をパリ中に晒す為に)
 彼は僧院長を見た。見るからに楽しそうな顔である。
(だとすれば完全な的外れだな。滑稽な話だ。しかし)
 彼はサロンの扉の一つをチラリ、と見た。そこには公爵夫人がいる。
(人が違うだけで彼等の企みは成功しようとしている。もし成功したなら私と彼女は破滅だ)
 彼は考え込んだ。そしてアドリアーナの耳元に近付いた。
「アドリアーナ、ちょっといいかい」
「はい」
 彼女は彼の真剣な顔と声に思わず耳を寄せた。
「君に頼みたいことがあるんだ」
「それは?」
 彼は話はじめた。
「実は僕は政治に関する事でここに呼ばれたんだ。僕の国の将来についてね」
「それでデュクロと?」
 彼はそれに対して小さく首を振って否定した。
「彼女はここには来ていないよ。僕は彼女とは何も無い。これは信用してくれるね」
「・・・・・・はい」
 彼女はそれが真実だと見抜いた。だからこそ静かに頷いた。
「そのうえで君に頼みたいんだ。あの扉にある女性の方が身を潜めている」
 そう言って公爵夫人がいる扉を指差した。
「僧院長達があの中に入らないようにして機を見て中の女性を逃がしてくれ。しかしその女性を絶対に見ずに、ね」
 かなり彼にとって虫のいい話である。だがこれしかなかった。
「約束してくれるね?」
「・・・・・・いいわ。約束します」
 彼女は答えた。彼はそれを見て頷いた。
「頼むよ」
 彼はそう言ってアドリアーナの手に接吻した。そして何かを彼女に手渡した。
「有り難う」
 そして彼はその場を立った。
「あの人は誓ってくれた。・・・・・・嘘ではないわ」
 彼女は口の中で、半ば心の中で呟いた。強い口調だった。
「だとしたら私も約束を果たさなくては。あの人の為に」
 そしてその扉を見た。扉は何も語らない。だがそこに何かがあるのだ。それだけはわかった。そして何かを胸元に
しまい込んだ。
「ここにデュクロがいる筈ないんだけどなあ」
 ミショネがサロンに入って来た。そして首を傾げながら呟く。
「私もそう思いますわ」
 アドリアーナも相槌を打った。
「ですよね。大体彼女が自宅に帰るのはちゃんと確認しましたし」
「だそうですわよ」
 アドリアーナは部屋に戻って来た僧院長に対して言った。何処か悪戯っぽいが目の奥は笑っていなかった。しかしそれを彼には気付かせなかった。
「本当にそう思われますか?」
 僧院長はまだそれを認めていない。確信した顔で二人に言った。
「はい」
 ミショネは答えた。
「いい加減おわかりになられたらいかがでしょう」
 アドリアーナも言った。僧院長はそんな二人に対して言った。
「まあそれももうすぐおわかりになりますよ。もうすぐでね」
「またですか?よくもまあお飽きになりませんね」
「では扉を一つ一つ調べてみますか」
 彼は少しムッときたようである。テーブルの上の燭台を手に取り扉の一つを調べようとした。
「あら、それは少し大人気ないですわよ」
 アドリアーナは微笑んで言った。あえて彼の心に訴えるように強く言った。
「それもそうですね」
 僧院長は思い止まった。やはり自分でも大人気ないと思ったのだろう。
「すぐにおわかりになることですし。ちょっと公爵のところへ行って来ますね」
「どうぞ」
 僧院長は再びサロンを後にした。彼が立ち去ったのを見るとミショネはアドリアーナに尋ねた。
「それにしても僧院長も公爵もやけにデュクロにこだわりますね」
「確か公爵は彼女のパトロンでしたね」
 当時は王侯貴族が俳優や芸術家の後見役となったのである。そうすることが彼等のステータスの一つでありまた半ば義務でもあった。ルイ十四世は貴族は何人でもすぐに作ることが出来るが芸術家はそうはいかないと言っている。
「はい。ですが最近少し疎遠だとか。しかし上の方々の考えられることは今一つわかりませんな」
「そうですね。私もあの人達とのお付き合いは長いつもりですけど」
 当時の欧州の階級社会は歴然としたものであった。これは今だに残照が色濃く残り教育にもそれが表われている。顕著に見られる例では貴族と平民では栄養の関係から平均身長まで大きく異なっていた。
「ああした話は極力無視するようにしていますがね。関わりあいになるとろくなことがありません」
 宮廷では陰謀が渦巻いていた。ルイ十四世の時代にはそれがもとで『火刑法廷』という血生臭い魔女狩りめいた騒動も起こっている。この時もルイ十五世の好色がもとでそうした話は絶えなかった。
「アドリアーナも注意したほうがいいですよ。出来るだけ首を突っ込まない。さもないと命がいくらあっても足りませんから」
「はい、よく心得ておきますわ」
「そうです、そうしたほうが身の為です。では私はこれで」
 ミショネはサロンを後にした。途中アドリアーナの方を何回も振り向く。
 しかし彼女は彼の気持ちには気付いてはいない。彼はそれを哀しく思ったが口には出さずその場を後にした。
 そしてサロンには誰もいなくなった。アドリアーナ以外は。彼女はそれを確かめると蝋燭の火を全て消した。
 中は月の光だけが差し込めている。青白い光がぼうっとサロンの中を照らしている。
 アドリアーナは立っている。そしてマウリツィオに言われた扉に近付いた。
「もし」
 彼女は扉を叩いて呼んだ。
「お返事を。お開け下さい。マダム」
 中にいるであろう女性に声をかける。マダムと言ったのはあくまで自分の直感からだ。
「御安心下さい、私は貴女の味方です、マウリツィオの名にかけてそれは誓います」
「マウリツィオの」
 中にいる公爵夫人はその名に反応した。そしてそっとアドリアーナに尋ねた。
「何の御用でしょうか?」
「貴女をお助けに参りました」
 アドリアーナは声を押さえて言った。少し早口になっている。
「私をですか?しかしどうやって・・・・・・」
 疑っている。当然であろう。陰謀渦巻く宮廷の住人なのだから。
「扉をお開け下さい。ほんの少しだけでもよろしいです」
「・・・・・・はい」
 彼女の言う通りほんの少しだけ扉を開けた。アドリアーナはそれを確認すると胸元から小さな鍵を取り出した。そしてそれを持った手を扉の中に入れた。
「この鍵が貴女をこの別荘から出してくれます。これは先程マウリツィオから貰ったものです」
「マウリツィオから」
「はい。この鍵を使ってそちらから出れば貴女は自由です」
「自由・・・・・・」
「そうです。辱めを受けないですむのです」
「有り難うございます。喜んで受け取らせてもらいます」
 彼女はそう言うとアドリアーナの手にあるその鍵を受け取った。
「よろしいですね、私の申し上げたことはおわかりになりましたね?」
「はい」
 彼女は鍵を手にした。それはアドリアーナにもわかった。
「誰にも見つからないようにしたいのですが残念なことに私はこの家の様子をよく知らないのです。ですから自分の言葉にも自信が持てないものでして」
「それはご心配なく。私はこの家のことはよく知っています」
 公爵夫人は悦ばしげにそう言った。
「この鍵はここにある秘密の扉に・・・・・・」
 彼女はそう言って自分のすぐ側にある壁を探った。
「この秘密の扉がありますので」
 どうやらこの別荘は思ったより複雑な構造になっているらしい。それだけ多くの心配があるということか。
「これで逃れられますわ。これも全て貴女のおかげです。有り難うございます」
 そう言ってアドリアーナの手を握った。
「いえ、お気になさらず」
 アドリアーナは慎ましやかに答えた。
「ところで貴女はどなたでしょうか?後程お礼に伺いたいのですが」
「それはお構いなく」
 アドリアーナは素っ気無く答えた。
「いえ、それは。折角助けて頂いたし」
「私は別によろしいので」
 彼女は頑なに拒絶した。それはマウリツィオとの約束だったからだ。
「けれど少しだけそのお顔を」
 戸口からそっと覗き見ようとする。
「軽はずみな行動は謹んで下さい」
 彼女は顔をそむけた。
「しかし・・・・・・。けれどそのお声は何処かで聞いたような」
「・・・・・・・・・」
 アドリアーナはそれに答えなかった。
「侯爵夫人ですか?ブールジュ侯爵夫人」
「違います」
 彼女は答えた。
「それにしても何故そんなにご自身を隠されるのです?」
「早くお逃げ下さい。さもないと取り返しのつかないことになりますよ」
 アドリアーナはそれに答えず彼女に早く逃げるよう促した。
「はい、けれどこれはどなたのお考えですか?私に対してこんなに行き届いた配慮をしてくれるなんて」
「それは無条件に私を信頼してくれるお方です」
「それはもしかして・・・・・・」
 先程アドリアーナはマウリツィオの名を出した。それが仇になった。公爵夫人も女である。すぐにそれを察した。
「その言葉は取り消して下さい。不愉快ですわ」
 キッとした口調でそう言った。
「どういう意味ですかそれは、まるで私が無礼なことを申し上げたかのようなお言葉ですが」
 アドリアーナもそれに気付いた。強い口調で言葉を返す。
「マウリツィオの名前を出したのはそういうことでしたのね!?」
「それがどうかしまして!?まるで彼をご自身の兄弟のように言われる貴女のお言葉の方が不愉快ですわ」
 アドリアーナはそう言って公爵夫人の手を掴んだ。
「この手が震えている。これはどういうことですか!?」
「それは・・・・・・」
 彼女は言おうとする。だがアドリアーナはそれより早く言った。
「あの方を愛しているのですね!」
 強い声だった。問い詰める声であった。
「それは・・・・・・」
 だが公爵夫人はここで開き直った。アドリアーナに負けない強い声で言い返した。彼女の手を振り解いた。
「そうです、私の心はあの人を想う不安と激情で包まれています。彼は私だけのもの!彼の心は私の心とだけ重なり合うものです。彼と私の結び目は誰にも解けないのです」
「それよりも固く熱いもので結ばれたのが私です!」
 アドリアーナは戸口の方を見て言った。
「彼は私の傷付いた心を癒してくれます。夜に私を照らしてくれる月のようなもの」
「彼は私の心の支配者です。天国まで私を導いてくれる太陽なのです」
 二人は言い合った。まず感情を爆発させたのは公爵夫人だった。
「思い知らせてあげるわ!」
「貴女に出来るのですか!?」
 アドリアーナは挑発するように言った。
「出来ますわ、私には!」
「その震える手でですか!?」
 アドリアーナも感情を剥き出しにする。公爵夫人の心はさらに燃え上がった。
「ゆ、許せない!貴女を最後の審判のその時まで憎みます!」
「私は貴女を助けてあげているのですよ!」
「その口でよくもそんな事が!」
 その時だった。大勢の人間が別荘に入って来る音がした。
「来たわ!」
 アドリアーナが叫んだ。公爵が従僕や俳優達を連れて来たのだ。
「主人が!」
 公爵夫人は思わず叫んでしまった。
「!」
 アドリアーナはここで扉の向こうにいる恋敵の正体を知った。だが口には出さなかった。
「早くお行きなさい!」
 彼女はそう言って公爵夫人を急がせた公爵夫人は秘密の扉に入った。
「有り難う、けれど覚えていなさい!」
 彼女はそう言って別荘を後にした。彼女は気配が遠くへ消えていくのを感じていた。
「ブィヨン公爵夫人・・・・・・。私も覚えておくわ」
 彼女はそう言って扉にもたれかかった。ドッと疲れが出て来た。
 そこへ公爵と彼の従僕達、僧院長と俳優達が入って来た。公爵と僧院長は獲物がいないことにがっくりした様子であり俳優や従僕達は結局何でここに連れて来られたかよくわからなかった。かくして騒動は何も起こらず別荘の小さな宴はそのままアドリアーナ達への公爵のもてなしとなった。
 アドリアーナはその中ぐったりとして椅子に座っていた。そして宴が終わるとすぐに自宅へと帰って行った。




修羅場だ……。
美姫 「修羅場ね」
果たして、この先どうなるんだろう。
美姫 「アドリアーナは、相手が誰か分かったけれど」
夫人の方は、相手がアドリアーナに気付いていないみたいだったな。
美姫 「うんうん。一体、どうなるのか、本当に楽しみね」
次回も楽しみ〜。
美姫 「それじゃあ、次回を待ってますね」
ではでは。



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