『アドリアーナ=ルクヴルール』




   第一幕 コメディ=フランセーズ脇の控え場所


 フランスはよく芸術の盛んな国だと言われている。文学も音楽も美術もそうである。そして演劇もまた盛んである。
 フランスが文化に魅せられてから演劇は親しまれてきた。太陽王ルイ十四世もモリエールの喜劇に主演することを好んだし誰もがオペラや舞台劇に熱中した。豪華で派手なグランドオペラもフランスで生まれた。
 そのフランスで有名な一座としてコメディ=フランセーズがある。前述のモリエールにその基礎が作られ彼の後継者であるラ=グランジュの手により正式にこの名となった。時に一六八〇年のことである。
 その演目は多岐に渡った。一座の名が示すとおり喜劇を演ずるがそれだけではない。コルネイユやラシーヌの悲劇も上演する。もっとも一番よく上演されるのは創設者であるモリエールの劇であるが。
 そのフランセーズ座が創設されて何十年か経った頃であった。既に太陽王もこの世を去り彼の曾孫でありフランス一の美男と謳われたルイ十五世の時代となっていた。文化は円熟期にありそれを味わう貴族達の目は肥えたものとなっていた。彼等は日々舞台を楽しみそれを批評していた。その為舞台関係者達は一舞台一舞台に必死に取り組んでいた。
 この日もそうであった。フランセーズ座脇の控え場所は上演の準備でてんてこまいであった。
 控え場所といってもその内装は豪華である。ルネサンス調の部屋であり洒落た暖炉まである。そしてその上にはモリエールの胸像が置かれている。
 そして四つの扉がある。そして棚に鏡と小道具で散りばめられている。衝立や金色のテーブル、花模様のダマスコ織りの肘掛け椅子や腰掛が並んでいる。ゲームテーブルやチェスもある。
 扉の一つから黒い髪と瞳の背の高い女優が入って来る。東洋的な美しい顔立ちをしており均整のとれた身体をしている。そしてトルコ風の衣装を身に着けている。
 彼女は鏡の前の席に座った。そして最後の仕上げに取り掛かっている。
 もう一人入って来た。あだっぽい服を着た紅い髪と茶色の瞳をした小柄な女性である。小柄であるが胸は大きい。彼女は大鏡の前でしきりに仕草を気にしている。
 そして二人の男優が入って来た。一人はトルコの高官の服、もう一人は庶民の格好である。二人共背が高く顔立ちも整っている。高官の服を着た男は棚からターバンを取り出してそれを頭に巻いた。庶民の服の男は将棋台が置かれている席で鏡を見ている。
 そこへ年老いた男が入って来た。
 見ればやや小柄で背の曲がった老人である。服は立派だが何処か服に着られているという感じである。頭は少し禿げ上がり顔には深い皺が刻まれている。どうやら今回の舞台の裏方の一人のようだ。
「監督!」
 トルコ風の衣装を身に着けた女優が彼を呼んだ。彼はどうやら今回の舞台で監督を務めているようだ。
 監督といえば地位が高そうだが当時はそうではなかった。俳優、とりわけプリマ=ドンナと呼ばれるトップ女優の地位が最も高く舞台監督は雑用に過ぎなかった。だが雑用なくして舞台が成り立たないのも事実である。雑用を馬鹿にする者は何事においても大成しないものである。舞台においてもしっかりした縁の下の力持ちなくしてはいい舞台は無い。
「白粉は何処!?」
「あの上ですよ、マドモアゼル!」
 彼はそう叫ぶと棚を指差した。
「監督!」
 今度は庶民の服を着た男優が彼を呼んだ。
「紅は何処ですか!?」
「そこに引き出しですよ、ムッシュ!」
 彼はその男優が座っている台を指差した。
「監督、私の扇は何処へいったの!?」
 赤髪の小柄な女優が尋ねた。
「僕のマントは!?」
 高官の格好をした男が叫んだ。
「はい、扇もマントもこちらにありますよ!」
 箪笥を開けて扇とマントを取り出す。そして二人に走りより手渡す。
「監督手伝って!」
 白粉と紅で化粧をしている二人が彼を呼んだ。
「ちょっと、私の手は二本しかないんですよ!」
 監督は思わず悲鳴をあげた。
「そんなのいいから錠剤持って来て!」
 四人共聞いてはいない。それどころではない。赤髪の女優がまた叫ぶ。
「付けほくろ!」
 トルコ服の女優の催促。
「バンドは!?」
「剣を持って来て!」
 男優二人が監督を呼ぶ。
「早く、早く!」
 四人は催促する。もうたまらない。
「はい、全部ここに!」
 四人に満足してもらう為に箱をぶちまけ引き出しを抜いて装飾品をよりだし化粧品を手渡す。そして呟いた。
「監督、監督、って私は神様じゃない。そんな何でもすぐに出来る筈もないじゃないか。何でも私に押し付けて面倒は全て私持ち・・・・・・。もう我慢出来ない」
 はああ、と溜息をつく。
「監督どうしたの?」
 庶民服の男優が首を傾げた。
「舞台監督とは名前はいいがとんだ仕事だ。毎日毎日朝から晩までお喋りのお相手に喧嘩の仲裁、演出に設定、そして打ち合わせ・・・・・・。私は一人だよ、なのに何故何人分もの仕事をいつもしなくちゃならんのだ!?」
「またいつものぼやきね。さてと、最後の仕上げね」
 トルコ服の女優は彼から視線を外し化粧に取り掛かる。
「役員か劇場主にでもならないと休みなんか取れそうもない。一体何時までこんなことをしなくちゃならないんだろう」
 そんな彼をよそに俳優達は自分のことに余念が無い。
「怖れよ、卑怯者!」
「おっと!」
 高官の刀を庶民がよける。
「ほくろもう一つ必要かしら」
「いっそのこと顔全体に付けたら?」
「それじゃあかえって変よ」
 トルコ服の女優に赤髪の女優が言った。
「別にそれでいいんじゃないか?」
 庶民服の男が話に入って来た。
「そうそう、あそこにいるモリエール先生もそう仰っているよ」
 高官が悪戯っぽく言った。118
 その時左手の扉が開いた。そして二人の男が入って来る。
 一人は豪奢な服で着飾った五十前後の伊達男、そしてもう一人は若い男前の僧侶である。二人は並んで部屋に入って来た。
「あ、ヴィヨン公爵にシャズイユ僧院長ではないですか」
 監督が二人に挨拶した。俳優達もそれに続く。
「あの方が?」
 高官が庶民に囁いた。
「ああ。デュクロのパトロンで化学がご趣味の当代きっての趣味人のヴィヨン公爵」
「それじゃああのハンサムな僧院長は?」
 高官は再び庶民に尋ねた。
「公爵の奥方のお遊びのお相手だろうね」
 彼はそう言うと悪戯っぽく笑った。
 僧院長は彼等の話を聞いてはいなかった。何かしきりに匂いを嗅いでいる。
「何の匂いですか?」
 彼は監督に尋ねた。
「ステージの匂いですよ」
 彼は答えた。
 公爵は僧院長の横で女優達を見ながら言った。
「また優雅な御休息ですな」
 少し皮肉混じりである。だがそこに悪意は無くほんのからかいであることは一目瞭然である。
「公爵ようこそ」
 高官と庶民が彼の前に進み出て一礼した。やたら大袈裟に一礼する。
「おお、これは親愛なる友人達よ」
 公爵もそれは心得ている。茶目っ気たっぷりに挨拶をする。どうも彼は二人の顔見知りのようだ。
「僧院長様もようこそ」
 高官がトルコ式の挨拶をする。これに対し僧院長も親しげに返す。
「どうも、トルコのスルタン」
 公爵はその横でトルコ風の衣装を着た女優に話しかけている。
「マドモアゼル、今宵はどうお呼びしたらよろしいですかな?」
「ザティムとお呼び下さいませ、公爵様」
 彼女はしなを作って答えた。ザティムとは彼女が今日演じる役の名前である。
「ほう、まるで本物のトルコの後宮のお姫様ですな」
 公爵は微笑んで言った。
「貴女は?」
 僧院長は赤髪の女優に問うた。
「リゼットですわ」
 艶やかに答えた。これも役の名前である。
「ほう、まるで春の女神のようだ」
 あえて大袈裟に言った。その言葉を楽しむように。
「公爵様、このほくろどうですか?」
 姫君は自分の肩に付けているほくろを指差して公爵に語りかけてきた。
「キューピットの的に見えるね」
 彼はその肩に口付けしそうな距離まで近付いて答えた。
「公爵、少し遊びが過ぎますぞ。まだ夜には早いかと」
 僧院長が公爵を窘める言葉を口にした。だがそれはからかいであり窘めではなかった。
 その証拠に横目で春の女神を見ている。
「僧院長様には私の扇を」
 女神はそんな彼に自分が持っている扇を差し出した。
「おお、これはこれは」
 彼はそれを満足気に受け取った。
「実に素晴らしい贈り物だ。有り難く受け取らせてもらいましょう」
「私は後で姫君のほくろをいただくとしよう」
 公爵は微笑んで言った。好色な笑みではなく遊びを楽しむ笑みであった。
「まあそれは夜に、ですぞ公爵」
「それは存じておりますよ、僧院長」
 公爵は彼に切り返した。
「ところで監督」
 その言葉を受けた後僧院長は彼に問うた。
「マドモアゼルデュクロは?」
 デュクロはこの一座でも有名な女優である。実は公爵は彼女のパトロンでもある。
「今衣装を着ているところですよ」
 監督は素直に答えた。
「監督、そこで脱いでいる、と言えばいいのに」
 姫君が彼をからかうように言った。
「そう、そのほうがお美しいのに」
 女神がそれに合わせて言った。
「そう言ったら劇が始まらないでしょうが」
 監督は二人に口を尖らせて言った。
「あらあら、監督ったらそんなに怒って」
「怒るのは健康に悪いわよ」
「一体誰のせいでそうなってると思ってるんですか」
 彼はさらに口を尖らせて反論した。
「まあまあ落ち着いて」
 公爵は彼を宥めた。54
「ところで劇は何時始まるのですかな?」
 彼は幕が開く時間を尋ねた。
「最初の劇はもうすぐです。それから二番目です」
 彼は答えた。
「会場はもう満員ですな」
 僧院長が客席を先程女神から貰った扇で指し示しながら言った。
「そうでしょうとも、今日はデュクロとアドリアーナが同じ悲劇に共演いたしますから」
 彼は満面に笑みを浮かべて言った。
「おお、それは豪華ですな」
 公爵と僧院長は顔を綻ばせて言った。
「デュクロを女王とすれば」
 公爵がまずデュクロを例えた。
「アドリアーナは女神といったところですな」
 僧院長がそれに合わせてアドリアーナを例えた。
「ミーズといったところかしら」
「天界から落ちちゃった」
 姫君と女神が悪戯っぽく言った。
 その時左の奥の扉が開いた。
「おや、噂をすれば」
「そのミーズ女神のご登場だ」
 高官と庶民がそちらに顔を向けて言った。
 扉が開いた。そこから一人の美しい女性が入って来た。
 長身のスラリとした容姿をしている。黒く長い髪は縮れてはいるが艶やかに輝いている。肌は白く透き通るようである。爪と唇は紅くまるでルビーのようである。
 瞳は黒くそれは翡翠のように輝きそれでいて夜の深い紫のように人を惹き付けてやまない哀しみを含んでいた。
 整った顔は気品と艶めかしさを同時に漂わせている。それはギリシアの芸術の女神そのままの美しさであった。
 右手に黒い鳥の扇を斜めに持っている。右手には劇の台本の台詞が書かれた巻物がある。衣装は劇の役の東洋風の衣装を身に着けている。首にはダイアモンドのネックレスが白く輝いている。それはまるで無数の星の瞬きであった。
 俳優達は思わずそれに見惚れた。ライバルなのに、である。公爵と僧院長は恭しく一礼した。監督は彼女に眼を奪われている。そこまでの美しさであった。彼女こそアドリアーナ=ルグヴルール。このコメディ=フランセーズ座きっての
美貌と演技を知られた女優である。
 フランスシャンパーニュに生まれた。彼の家は帽子屋をしていたが父が一旗あげんとパリのサン=ジェルマン通りに移り住んだことが彼女の運命を決定付けた。
 新しく移り住んだ家のすぐ近くにフランセーズ座があったのである。彼女はフランセーズ座の舞台を覗き見るようになった。
 元々芝居が好きだった。子供達を集めて子供の劇団を作った。近所のお菓子屋の親父が店を稽古場に提供してくれ練習を積んだ。その芝居は子供のものとは思えぬ程の出来栄えであった。
 評判は高まりとある貴族の奥方の耳にも入った。彼女は自分の屋敷の中庭を劇場として提供した。アドリアーナはここでコルネイユやラシーヌの悲劇を上演した。
 その素晴らしい演技と美貌に見惚れた奥方は彼女に対して言った。
「貴女は素晴らしい女優になるわ」
 その顔は素直な賞賛であった。彼女は誰よりも早くアドリアーナの女優としての素晴らしさに魅了されたのであった。
「けれど・・・・・・」
 だが奥方はここで表情を暗くさせた。
「女としては不幸になるかもしれないわ」
 彼女は哀しい顔で言った。アドリアーナの純真で一途な心が男にとって実に都合良く弄び易いものであるかを知っていたからだ。そしてこの言葉は不幸なことに的中する。神とは時として何か素晴らしい力を授けるとともに哀しい運命を授けるものなのである。これは神に悪意があるのではないだろう。運命という神でさえあがらう事の出来ぬもののせいである。
 それから洗濯屋で働いていたがそこでフランセーズ座の名優ルグランに出会った。彼女を見て一目で気に入った彼は彼女のパトロン兼先生となった。これがアドリアーナの女優としての本格的な活動が始まった。
 ストラスブールの劇場でデヴューしやがてフランセーズ座からも声がかかる。タイトルは『エレクトル』であった。
 そのデヴューは大成功であった。彼女はたちまち観客達の心を掴んだ。そしてすぐに国王付の女優となった。ルイ十五世も彼女の演技と美貌に心を奪われたのであった。
 彼女は悲劇も喜劇も見事に演じきった。性格的、情念的な悲劇も人間の真実を深く抉り出す喜劇も見事に演じたのである。彼女はまさに天才であった。
 その彼女が今部屋に入って来たのだ。それを見ずにおれぬ者がいるであろうか。
「サルタン=アムラットはその権力で私に降伏を強いる」
 彼女は右手に持つ巻物を見ながら劇の台詞をゆっくりと練習している。
「皆出でよ!全ての出口は向こう見ずな者に対して閉ざされなければならない」
 ここで彼女は練習を中断した。
「これでは駄目ね」
 そう呟くともう一度読み直した。口調や細かい演技を変えている。
「皆出でよ!全ての出口は向こう見ずな者に対して閉ざされなければならない。そして光輝ある平和が再び後宮に戻って来るように」
 それを聞いた一同は思わず言葉を呑んだ。
「素晴らしい・・・・・・」
 まず公爵が賞賛の言葉を述べた。
「まるで女神みたいだ」
 僧院長も思わず呟いた。
「あの、それはちょっと・・・・・・」
 その言葉に気付いたアドリアーナは顔を思わず赤らめた。
「大袈裟ではないですか?少し調子を見ただけですし」
 美しく澄んだ声である。物腰も謙虚である。
「いえいえ、そんなことはありません」
 公爵が言った。
「そうです、私共の言葉は真実を述べておりますよ」
 僧院長も口を揃えて言った。
「いえ、違います」 
 アドリアーナは静かに口を開いて言った。
「私は創造の神の僕に過ぎません。神は私に言葉を授けて下さいました。私はその言葉を私の前にいる人達に伝えます」
 彼女の言葉は続く。それはまるでミーズの語らいであった。
「私が語る言葉のリズムは劇の木霊です。手で奏でる儚い楽器でもありましょう。それに喜怒哀楽を織り込む私を人々は『真実』と呼んで下さいます。それは日が変われば消えてなくなる私に対するほんの一時の慰めです」
 言い終えた彼女に対し公爵が尋ねた。
「貴女は何を探し求めておられるのですか?」
「私が探しているもの、それは真実です」
 彼女は慎ましげに答えた。
「名のある芸術家によって貴女の素質は練られたのでしょうか」
 僧院長が尋ねた。
「はい、それは・・・・・・」
 彼女はその質問にも答えようとした。その時側にいる監督に気付いた。
「多くの方がいらっしゃいましたが、私にとって最も素晴らしい師はこの方ですわ」
 そう言って監督を手で指し示した。
「えっ!?」
 一同はこの言葉に驚いた。
「いつも私に親身になって頂き豊かな才能を持たれた方・・・・・・。このミショネ監督をおいて他にございません」
「マドモアゼル、そのようなご冗談を」
 それを否定したのは他ならぬミショネであった。
「そんなことを言ってこの老いぼれを苦しめないで下さいよ。驚いて息が詰まりそうです」
「いえ、そのような」
 アドリアーナはそれを否定しようとする。だがその時舞台の奥から呼出しが表われた。
「お、もう時間か」
 ミショネはこれ幸いとその場にいる俳優達の方を振り向いた。
「皆さん、準備は宜しいですか?」
「いえ、私はちょっと・・・・・・」
「私も・・・・・・」
 女優二人はその言葉に驚いて最後のチェックをはじめた。その横では男優達が何時の間にかチェスに興じている。
「おっ、はじまるぞ」
「じゃあこの勝負はお流れということで」
 二人は勝負を中断してチェスを収めた。
「ところでデュクロは?」
 公爵はミショネに尋ねた。
「楽屋におられましたよ。何か書きものをしておられました」
「書きもの?手紙かな」
「どうやらそのようでしたが」
「だったら誰だろう」
「僕だったりして」
 そこで庶民が茶々を入れてきた。
「そんなわけないでしょ」
 それを姫君が笑って否定する。
「じゃあ私だな」
 高官が誇らしげに胸を張った。
「それならデュクロさんこっちに来てるわよ」
 女神がそれをからかう。
「皆さん、そんなこと言ってないで早く舞台へ!」
「おっと、そうだった」
 ミショネの言葉に驚いて彼等は笑いながら舞台へ向かった。公爵は彼等が去ると僧院長に顔を向けた。
「僧院長、その手紙だが」
「はい」
 彼はその言葉に答えた。
「どうにかして手に入れられないかな」
「どうやってですか?」
 彼は素っ気無く答えた。だがそれは暗に何かを求めているのである。
「これと引き換えに、というのはどうだろう」
 公爵はそう言うと彼に皮の袋を手渡した。皮の中は言うまでもない。
「わかりました。お手紙は必ず公爵の下へ飛んで来るでしょう」
 僧院長はそれを受け取ると静かに答えた。
「有り難い、これも神の思し召しだな」
 少し、いやかなり、それでも足りない。全く違うと思われるが公爵は満足して言った。
「では私は神の祝福に対して感謝するとしよう」
「はい。神は公爵に必ずや祝福を与えられることでしょう」
 公爵と僧院長はそう言うと部屋を出た。公爵は観客席へ戻り僧院長はデュクロの楽屋へと向かった。
 部屋に残ったのはミショネとアドリアーナだけとなった。ミショネはほっとした顔で練習を続けているアドリアーナを見た。
「ようやく二人きりになれたな。ほんの一瞬だが」
 彼はアドリアーナに聞こえないようにそっと独白した。
「ずっと想い続けて溜息ばかりついているが。言うべきか。いや・・・・・・」
 彼はその言葉に対し頭を振った。
「彼女は若くて美しい。だが私はこんな老いぼれだ。彼女に私は釣り合わない。だが言うべきだろうか、それとも言わないでおくべきか」
 彼は思案した。
「明日言うべきか。いや、明日になると私はもっと爺さんになってしまっている」
 考え続けた。アドリアーナはその間も練習を続けている。
「いや、やはり言おう。迷っていてもはじまらない。当たって砕けろだ」
 彼はアドリアーナの方へ顔を向けた。
「アドリアーナ」
 彼はアドリアーナに声をかけた。
「はい」
 彼女は練習を続けながら答えた。
「ええと・・・・・・」
 彼は頭の中で言葉を選んだ。
「ちょっとしたニュースなんだけれど」
「良いニュースですか、それとも悪いニュースですか?」
「そうだね、考えようだが・・・・・・」
 彼はためらいながらも言葉を探す。
「カルカッソンヌの私の叔父さん・・・・・・薬屋をやっているのだがね」
「その方が?」
 アドリアーナはここで顔を向けた。ミショネはその顔をみて一瞬ギクリ、とした。
「死んだんだ・・・・・・」
「それはお気の毒に」
 彼女は哀しげに答えた。
「しかし私に遺産を残してくれたんだよ、一万リラも」
「それは良いニュースですね。叔父さんはお気の毒ですが」
「うん、しかし・・・・・・」
 彼はここで再びためらいながらも言葉を続けた。
「この一万リラをどう扱えばいいのだろう。正直扱いに困っているんだ」
「それの方が私にとっては余程不思議ですけど」
 アドリアーナは首を傾げた。ミショネはそれを見て言葉を続けた。
「だがいい考えが浮かんだんだ」
「その考えとは?」
「おかしな事なんだが・・・・・・」
 アドリアーナに悟られぬよう、だが少しはにかみながら言った。
「おかしな事?」
 アドリアーナはその言葉を不思議に思いながら尋ねた。ミショネの様子は変だとは思っていない。
「うん、結婚をしようと思うんだ」
「いいことですよ、それは」
 アドリアーナはその言葉に喜んだ。素直に祝福した。
「そう思うかい?」
 ミショネは彼女に優しく問い詰める様に尋ねた。
「ええ」
 アドリアーナはそれに対して答えた。
「私も早く結婚したいのですけど」
「えっ、貴女もですか!?」
 ミショネはその言葉に声を弾ませた。だがアドリアーナはそれには気付いていない。
「はい。その事で少し考えているんです」
 アドリアーナはだんだん沈んできた。だがミショネは逆にうきうきしている。両者共互いのことには気付いていない。
「神よ、感謝いたします」
 ミショネはボソッと独白した。
「私も最近色々と考えることが多くなってしまいまして」
「それはどのようなものですか?」
 ミショネは親切に尋ねた。何とか告白する機会を探っているのだが困っている人を見捨ててはおけぬ彼の人柄もそうさせていた。
「昨夜貴女が演じられた劇は素晴らしいものでしたよ」
 自然と慰めの言葉が出る。
「はい、有り難うございます」
 それまでいささか躊躇していたアドリアーナだがその言葉に元気付けられた。
「戦争の話が広まっていますね。確実な話はありませんけれど。それが凄く気になっていたのです」
「どうしてですか?」
 ミショネはその言葉にさらに尋ねた。
「あの方が無事かどうか」
「あの方とは?」
「私のナイト・・・・・・」
「ナイト・・・・・・?」
 ミショネはその言葉に不吉なものを感じた。
「けれど今日帰って来ました」
「今日ですか?」
「はい、今日です」
 アドリアーナは話すうちに次第に明るくなってきた。ミショネはその逆であった。
「それでもずっと心配だったんです。これからもそうですが。けれどミショネさんにお話して胸の怯えが消えました。あの人は今生きているから今のあの人を愛せばいいと。そう思いました」
「そうですか・・・・・・」
 ミショネはその言葉を聞いて肩を落とした。だがアドリアーナはそれに気付いていはいない。
「彼はサクソニア伯爵の旗手を務めているんです。そして彼はポーランド王、ザクセン選帝候の勇敢なご子息・・・・・・」
 当時ザクセン選帝侯はポーランド王も兼ねていた。そして欧州において権勢を誇っていたのである。
「彼が戦いに出た後行方が途絶えていましたの。ところが昨日あの方にお会い出来て・・・・・・」
 アドリアーナの顔はそれだけ言うともう恍惚としていた。
「そうですか・・・・・・」
 彼は肩を落としたまま呟いた。アドリアーナは恍惚としたままなのでまだそれに気付いていない。
「それで今日私の舞台を見に来るんです」
「それはよかったですね」
「そう思うでしょう!?」
「はい・・・・・・」
 彼はそう言うと後ろを振り向いた。
「結局私の運命はこんなものさ」
 彼は自嘲気味にそう呟いた。
「ミショネさん、私は幸福だと思いませんか!?」
「はい・・・・・・」
 彼女は上機嫌でミショネに問う。彼はそれに対して力無く頷くだけである。その時奥から合図の音がした。
「合図か・・・・・・」
 彼は肩を落としたまま戸口の方へ向かった。そしてその向こうへ消えていく。その時頬を服の袖口で拭いたがアドリアーナはそれには気付かなかった。
 アドリアーナは暫く練習を続けていた。すると役者用の戸口から一人の若者が姿を現わした。
 ザクセン軍の将校の軍服を着ている。引き締まった長身の若者だ。豊かな金髪に青い瞳を持つ美男子である。彼こそザクセン選帝候の子でありアドリアーナの想い人であるマウリツィオである。
 子といっても庶子である。ザクセン候には多くの庶子がおり彼もその一人であった。だが武勇に秀で父に愛されザクセン伯に任じられていた。戦場においてはその知略で知られている。
「アドリアーナ」
 だがそんな彼も戦場を離れては恋をする一人の男に過ぎない。恋人の姿を認め駆け寄る。
「マウリツィオ」
 彼女もそれに気付いた。そして彼を迎え入れ抱き締める。
「やっとここまで来れたよ」
 彼はアドリアーナを抱き締めながら熱い声で言った。
「ここへ来るつもりだったの?」
 彼女はそれに対して問うた。
「うん。だが遅れてしまった、御免」
「どうして遅れたの?」
「階段で君のことを尋ねたら足止めされてしまったんだ」
 彼はそう言いながら視線をほんの僅かな間だがアドリアーナから逸らした。心の中に何かやましいものでもあるのだろうか。
「軽率過ぎるわ」
 彼女はそれを窘めた。彼の目の動きには気付いていない。
「そうだろうか?僕はそうは思わないが」
 彼は恋人の言葉を否定した。
「僕は君とどうしても会いたかったんだ。懐かしい母の面影を残す君に」
「まあ、そのような」
 アドリアーナはその言葉に頬を赤らめた。
「君の心は僕に祖国の芳しい香りと想いを思い出させ、そしてそれにかられる心を癒してくれる。戦場にあっても僕は君を忘れたことはない、君のことが心にあるから僕は勝てたんだ」
「またそのようなお世辞を・・・・・・」
 アドリアーナはさらに顔を赤らめる。だがマウリツィオは言葉を続ける。
「君への想いは僕を詩人にさせてしまう」
「そして戦場でのご活躍は?」
 アドリアーナは戦場での話を聞こうとした。
「それはまた今度話すよ。ところで今日の調子はどうなんだい?」
「今日の調子はとてもいいわ。だって貴方とお会い出来たんですもの」
「それは・・・・・・」
 マウリツィオはその言葉に喜んだ。
「今日は貴方の為だけに演じるわ。今夜は貴方だけを見て、貴方の心まで全て読み取ってみたいわ。もし私を心から見たならば・・・・・・。貴方は感動で涙を流してしまうでしょうね」
「そうか、それじゃあ心を込めて観させてもらうよ」
 彼は恍惚として言った。
「そう、私が欲しいのは貴方のその想いだけ」
 彼女も恍惚とした表情で言った。
「どんなプレゼントや尊敬よりも、宝石よりも貴方のその想いだけが欲しいの。私が欲しいのは貴方の心だけなの」
「では僕もそれに応えよう。君の想いを受け取らせてもらうよ」
 二人はそう言い再び抱き締め合った。そしてアドリアーナは彼に尋ねた。
「貴方の席は?」
「右から三番目のボックスだよ」
 彼は答えた。
「そう、ではそこを見ているわ。そして劇の後で貴方のお屋敷へ行きましょう」
「うん、楽しみにしているよ」
 彼はその言葉に頷いた。
「そしてこれは私からの贈り物」
 彼女はそう言うと胸元に飾ってあったすみれの小さな花束を取り外した。そしてそれをマウリツィオの上衣のボタン穴に取り付けた。
「これは私が貴方に預ける想いの証。劇が終わったら出口で待っていて」
「うん、そうさせてもらうよ」
 彼はそのすみれの紫の花をまさぐりながら答えた。
「約束よ、必ず待っていてね」
 アドリアーナはそう言うと舞台へと向かった。マウリツィオは客席へと向かった。控え室には誰もいなくなった。
 だがすぐに誰か入って来た。左手から公爵が入って来た。何か案じているようである。
 そしてそれとほぼ同時に右の奥から僧院長が入って来た。彼はいささか誇らしげである。
「僧院長」
 公爵は彼の姿を認めて声をかけた。
「こちらにありますよ」
 彼はそれに対して一枚の紙を手にヒラヒラとさせて答えた。
「それはもしかして」
 公爵は彼に尋ねた。
「そうです。デュクロの貞節の証です」
 しかしその声には皮肉がこもっている。どうやら何かあるようだ。
「もう一袋でどうですか?」
 僧院長は公爵に対して悪戯っぽい顔で言った。
「う〜〜む、まあいいだろう」
 公爵は顔を顰め考えながら答えた。
「それではどうぞ」
 手紙は公爵に手渡された。彼は手紙の封を切って読みはじめた。
「どうです?デュクロの字ですか?」
「筆跡を変えてあるな」
 公爵は手紙の中を読みながら言った。
「随分汚い字だな。これはデュクロの字じゃないぞ」
 彼はそう言うと僧院長へ手紙を返した。
「私にはちょっと読めそうにない。悪いが読んでくれないか」
「はい」
 彼はそれに従い手紙を読みはじめた。そこに左の戸口から姫君が、右の戸口から女神がそれぞれ顔を出してきた。
「あら、何か面白いことやってるわね」
 二人はそう言うと顔を隠した。そして様子を見守ることにした。
「今夜十一時にいつものセーヌ川のほとりの別荘で」
「私の別荘だよ、そこは」
 公爵は彼に言った。
「政治工作打ち合わせの為に・・・・・・政治工作、ですか?」
 僧院長はそこで顔を顰めた。
「いいよ、私にはわかるから。続けてくれ」
「はい、それでは」
 公爵に促され僧院長は読み続けた。
「待っております。他言ご無用。ピリオド」
「そしてサインは?」
「親愛なるコンスタンスより、とあります」
「やれやれ、とんだコンスタンスだな」
 コンスタンスとは女性の名であるが貞節という意味もある。
「これはもしかして彼女の仮名ですかな?」
 僧院長は嬉しそうに尋ねた。
「まあね。だが私に見つかったのが運の尽きだ」
「おやおや、デュクロもドジなことだ」
 僧院長は道化て言った。
「僧院長、止めてくれ。何か不愉快になってきた」
「はい。しかし『貞節』とはまた皮肉な仮名ですな」
「うむ。私はどうやらとんだ道化役者というわけか」
 公爵は顔を顰めて言った。
「そしてその手紙の届け先は何処になっているのかね?」
「この劇場内ですね。右側三番目のボックスです。・・・・・・あれっ、これはもしかすると」
「浮気相手が誰か知っているのかい?」
 公爵は彼に尋ねた。
「ええ。確かザクセン伯の筈ですよ」
「ザクセン伯?ああ彼か」
 公爵も彼のことは知っているらしい。
「さっき彼があのボックスに入っていくのを見ましたし」
「成程、では間違いは無いな」
「ですね」
 二人は顔を見合わせた。そして目と目で相談する。
「どうする?」
 まず公爵が僧院長に尋ねた。
「そうですね、どうしましょうか」
 僧院長はそう言うと考えはじめた。公爵もそれに続く。
 女優達はそれを戸口の裏から聞いている。何かワクワクしてきているようだ。
「別荘にそのまま行かせてはどうですかな」
 僧院長は公爵に提案した。
「いいな。小さな宴が行なわれている丁度その時に役者達も招く。どうかな」
「それはいいですね。下手に公爵だけ行かれるよりずっと効果的ですよ」
 僧院長はその提案に同意した。
「さて、これで二羽の山鳩を捕まえるとしよう」
「はい。何かヴィーナスとマーズの逢引のようですな」
 ギリシア神話のエピソードの一つである。美の女神と軍神の浮気話。
「そしてヴァルカンが私というわけだな」
 公爵は胸を張って言った。
「そしてパリ中がその小さな宴の中身を知ると」
「そうだ。今から楽しみだな」
 公爵は笑って言った。普通ならこうしたことは暗い情念の笑みが漂うものだが不思議に彼の顔は明るい。何かうきうきとさえしている。
「では今からその準備に取り掛かるとしよう」
「はい、今すぐに」
 二人はそう言うと控え室を後にした。すると奥から姫君と女神が出て来た。
 二人は公爵達が出て行った方を見て笑っている。そして言った。
「あらまあ、何と滑稽なこと」
「ほんと、まさかデュクロが自分の奥方と思ってるんじゃないかしら」
 二人は公爵の様子を笑いものにしながら話している。
「もういいお年なのに公爵様もお元気よね」
「ええ、若い奥様もいらっしゃるし」
「何の話をしているんだい?」
「僕達にも教えてよ」
 そこに大臣と庶民が入って来た。
「ええ、いいわよ。ちょっと公爵様がご自身の贔屓の女優のお遊びに焼き餅焼いていらっしゃって」
「それで浮気相手と一緒のところを踏み込んでやろうと僧院長様とご相談してたのよ」
「えっ、何それ」
「それでご贔屓の女優とその火遊びのお相手は?」
 二人はそれを聞いて目を輝かせて尋ねてきた。
「知りたい?」 
 女優達は二人に尋ねた。
「勿論」
 二人は即座に返答した。
「じゃあいいわ。ちょっと耳を貸して」
「うん」
 女優達はそうして二人の耳元でゴニョゴニョと説明した。説明が終わると男二人は目を見開いて驚いた。
「それ本当!?」
「嘘じゃないよね」
「嘘でこんなこと言わないわよ」
「嘘だと思うならあそこへ行ってみたら?」
 女優達は二人の顔を見て笑いながら言った。
「ううむ、何か面白くなりそうだな」
「しかしこれはかなり入り組んだ話みたいだね」
 庶民は口に手を当てながら言った。
「それどういうこと?」
 庶民の言葉に姫君が尋ねた。
「うん、実はザクセン伯って公爵の奥方の愛人だって噂があるんだ。実際二人でよくお会いしているしね」
「あ、その話聞いたことがあるわ」
 女神がその話に突っ込みを入れた。
「何でも公爵夫人がハンサムな伯爵にえらくお熱だとか」
「へえ、そうだったんだ。僕は伯爵とアドリアーナのことは知っていたけどね」
 大臣がその話に頷いた。
「あ、皆隠れましょう。誰か来たわよ」
 四人はサッと部屋の片隅に身を隠した。見れば公爵と僧院長が部屋に戻って来たのだ。
「別荘に行ったのじゃなかったのかしら」
 女神がそれを見て首を傾げる。
「見て。もう一人誰かいるわ」
 姫君が公爵と僧院長の後ろについてきている男を指差して囁いた。
「いいな、ではこれを右から三番目のボックスにいる殿方に手渡してくれ」
 公爵はその男に対して手紙を手渡して言った。
「あれは照明の新入りじゃないか」
「あいつまた頼まれて断れなかったな」
 男優二人が苦笑しながら言った。
「わかりました」
 新入りは少しオドオドしながら応えた。どうもあまり気の強い男ではないらしい。
「よし、ではこれはチップだ」
 公爵はそう言うとひとかけらのエメラルドを彼に手渡した。気前はいい。
「あ、有り難うございます」
 彼はそれに頭を垂れるとすぐにその場を去った。そして観客席へ向かって行った。
「これでよし。まさか途中で思わぬ協力者が出てくれるとはな」
「公爵、買収は協力者と言わないのでは」
「おっと、そうだったかな。ハハハ」
 彼はそう言うとカラカラと笑った。そして二人はその場を後にした。
「どうやら本格的に面白い事になりそうね」
「一体どうなるのかしら」
 女優達は楽しそうな顔で言った。
「これは凄いことになるかもね」
「お二人にとっては可哀想なことになりそうだけれど」
 男優二人も彼女達と同じく楽しそうな表情で言う。
「一体どうなるでしょうね」
「それは明日になればわかるわよ」
「小さな宴の結末は」
「明日パリ中の噂話と」
 四人が楽しそうに話しているとそこにミショネがやって来た。
「皆さん、そろそろまた出番ですよ」
「はあ〜〜〜〜い!」
 四人はそれに従い舞台へ向かった。デュクロは部屋の隅の舞台の袖に控え舞台を見ている。
 彼が見ているのはアドリアーナである。彼女の姿をまるで食い入るように見つめている。
「やっぱりいい、最高だ」
 彼はその演技を見ながら一人呟いている。真摯な目で。
 彼の言葉通り舞台で演ずるアドリアーナの姿は素晴らしかった。それはまるでミーズのようである。
「そう、そうだ。素晴らしい。素直さが人間像を描いて忠実さが真実を表現している」
 彼は頷きながら舞台を見ている。目は完全に舞台に釘付けだ。
「あそこにいるのはもう一つだな。だから台詞を覚えてくれと言ったのに」
 途中他の役者が目に入る。そして顔を顰める。アドリアーナの演技が終わると観客達は一斉に拍手をした。
「うん、完璧だ」
 彼も観客達と一緒に拍手をしていた。
「何時見ても素晴らしい。本当にこれ程の女優は今まで見たことがない」
 彼は満足した顔で頷きつつ言った。
「だが彼女の目は私には向けられてはいない」
 彼はそう言って肩を落とした。
「彼女が見ているのは他の男だ。決して私を見てはくれない。いや、そもそも最初から私の気持ちに気付いてすらいない」
 彼は落胆した声で一人呟く。
「私は彼女を振り向かせる事は出来ない。ただこうやって見ているだけだ。どうする事も出来ない。ただ一つ出来る事は彼女の姿を見て心を癒すだけだ。例えさらに心を沈ませようとも」
 彼はそう言うと舞台から目を離した。
「さて、と。次の舞台の台詞の変更を書いたメモは何処かな」
 彼は右側の棚の引き出しをかきまわした。
「無いな。一体何処だ」
 彼は部屋中の道具の中を探し回りはじめた。そこへマウリツィオが入って来た。
「参ったな。よりによってこんな時に」
 彼は困った顔で呟いた。どうやら彼にとってまずい事態が起こったらしい。
「折角のデュクロのとりなしだというのに。よりによって今日か」
 彼はそう言うと溜息をついた。
「あの引き出しかな」
 ミショネはまだメモを探していた。マウリツィオが部屋に来たのには気付いていたが彼に構っている暇はなかった。彼の独り言も聞いてはいなかった。それどころではなかったのだ。
「彼女があの方に陳情する機会を設けてくれたのだ。今でないと我が祖国の未来にも暗い影を脅かしてしまう」
 どうやら複雑な国際情勢も絡んでいるらしい。彼の悩みは深刻である。
「ふう、やっと見つけたぞ」
 ミショネはメモをようやく見つけ出した。ホッと安堵の息を漏らす。
「もうあの方は大僧正にお話しているだろうな。・・・・・・だとすれば行くしかない」
 彼は決心した。そして次の難問について考えを巡らせた。
「アドリアーナだが・・・・・・。とりあえずは出口で待つか。そして説明しよう」
 そう決めると側にあった席に座った。部屋に庶民が入って来た。
「あ、いいところへ」
 ミショネは彼の姿を見て喜びの声をあげた。
「僕ですか?」
 庶民のほうもそれに気付いた。自分を指差して尋ねた。
「はい、ちょっと頼み事をしたいのですが」
「今は面倒なのは出来ませんよ」
「わかっますよ。このメモを演出の方に渡して欲しいんです」
「そういうことなら」
 彼はあっさりと答えてそのメモを受け取った。そしてその場を後にした。
「これでよし、と」
 彼は一息ついて舞台の方へ目を移す。マウリツィオはふとミショネが彼の座るテーブルの上に置いた一枚のメモ帳に気が付いた。
「ん、紙か」
 彼はふとそれを手に取った。
「何も書いてないな。よし」
 丁度インクとペンもテーブルの上にあった。実に都合がいい。
「よし、ここに書けばいいな。さて、と」
 彼はアドリアーナへ向けての断りの返事を書きはじめた。その時観客席の方から拍手が沸き起こった。
「デュクロの出番だな」
 ミショネは舞台を見ながら呟いた。見ればアドリアーナに優るとも劣らぬ美しい女性が舞台にいた。
「しかし今日の役はやっぱり彼女には合っていないな」
 彼は顔を顰め首を捻りながら言った。
「あまりそうやってしゃがれ声を出すのはなあ。喉に負担がかかる。やはり今度からこの役は別の役者にしてもらうか」
 彼は腕を組んで呟いた。そこへ姫君が戻って来た。どうやら出番の間の小休止らしい。
「ええと、持って来てくれと言われたメモは何処かしら」
 何か頼まれ事があったらしい。
「あちらですよ」
 ミショネがマウリツィオが座るテーブルの上を指差した。
「監督、有り難う」
 彼女はそのテーブルのところに来た。マウリツィオはふと彼女に気がついた。
「あ、マドモアゼル丁度いいところに」
「?私ですか?」
 彼女は彼の言葉に少しキョトンとした。
「これもお願いします」
 そう言って自分が今書いたメモを彼女に手渡した。
「こちらはアドリアーナへ」
「はい」
 彼女はその場の勢いで彼の頼みを引き受けた。
「早く、出番も近いですよ!」
 ミショネがそこで彼女を急かした。彼女はそれに驚いてすぐにその場を後にした。
「これでよし」
 彼はその後ろ姿を見送りながら呟いた。
「アドリアーナは僕の言葉を受け取ってくれる」
「ふう、何とかこの場は切り抜けたか」
 ミショネは再びデュクロへ視線を移していた。彼が良く思っていなかった場面が終わり安堵している。
「あとは彼女なら問題は無いが。それでもあの場面は危なっかしくて見ていられない」
 彼は首を傾げて言った。マウリツィオもそれにつられるように呟いた。
「時としてこうした危ない橋も渡らなくてはならないとはね。因果なことだ」
「さて、とそろそろ行くか」
 マウリツィオは懐から懐中時計を取り出して言った。
「あの方も美しく白い首を長くしてお待ちだろうし」
 彼はそう言うと部屋を後にした。
「よし、無事終わったな。いつもながら凄い拍手だ」
 ミショネは舞台を見て会心の笑みで言った。
「あとはアドリアーナの最後の愁嘆場だな」
 程無くしてアドリアーナが舞台から出て来た。そして最後の場面を演じはじめた。
「うん、まさに神技だ。素晴らしい」
 彼はそれを見て満足気に頷く。そして先程のそれを凌駕する程の凄まじい拍手が場内に鳴り響いた。
 劇は終わった。カーテンコールを終え俳優達が控え室に戻って来る。
「皆さん、お疲れ様です」
 ミショネは彼等を迎え言葉をかけた。
「はい」
 彼等は皆疲れた顔でそれに応えた。だが疲れたとはいっても満足した顔である。
「難しい役だったけれど無事演じきれたわ」
 姫君がほっとした顔で言った。
「私の艶姿、殿方を悩殺してしまったみたい」
 女神は媚惑的な笑みを浮かべて言った。
「私の剣は見事な冴だっただろう」
「今度それの扱い方教えてね。次は僕がやる役だし」
 男優二人は仲良く話している。皆劇が終わり胸を撫で下ろしている。
「皆さん、今日の演技は素晴らしいものでしたよ。次の舞台も頑張りましょう」
 ミショネは彼等に再び声をかけた。
「ええ。けれど次って明日よ」
「一息つく暇もないわよねえ」
 女優二人が愚痴をこぼす。それを男優二人が宥める。
「まあまあその分報酬も増えるし」
「それにファンがまた増えるよ」
 女優達もその言葉に宥められ愚痴を止めた。そこへどうやら準備を終えて戻って来たらしい公爵と僧院長、そして貴族や紳士達が入って来た。
「やあお疲れ様。皆実に素晴らしい演技だったよ」
 まずは公爵が彼等を褒め称えた。彼は演劇通としても知られているようだ。
「本当に。ただデュクロは・・・・・・ここにはいないか」 
 僧院長が部屋を見回して言った。
「デュクロがどうかしましたか?」
 ミショネが彼に尋ねた。
「うん。あの役は彼女にかなりの負担を与えているのではないかと思ってね。演技はともかく喉にかける負担が大き過ぎると思うんだが」
「僧院長もそう思われますか」
 ミショネは彼の言葉に頷いた。
「いや、これは私の主観に過ぎないんだけれどね」
 僧院長はミショネにそう言って断った。
「いえ、それは私も感じていました。やはりあの役は彼女のレパートリーから外すよう提案します」
「うん、確かにそのほうがいいね。彼女にはもっと相応しい役があの劇にはあるし」
「それもアドリアーナと重ならない役で。丁度今演じている役者がミラノへ行ってしまうしいい時期でしょう」
 公爵の言葉に僧院長も相槌を打った。この僧院長も演劇に関してかなりの目利きであるようだ。
「ところでアドリアーナは?」
 公爵はハッと気付き彼女の姿を探した。
「あ、まだこちらには」
 ミショネも探して言った。丁度そこに彼女が姿を現わした。
「おお、ミーズのご帰還だ」
 公爵が微笑みながら言った。彼女は奥の扉からゆっくりと入って来る。ミショネも彼女を満足気に見る。
 競演した役者達や貴族達も彼女を見る。だが当の彼女の顔は晴れない。何か絶望しきったような顔である。
 だが皆それには気付かない。舞台の後で疲れているのだと考えた。
「アドリアーナに敬意を!」
 誰かが言った。そして皆それに従い彼女を取り囲み褒め称えた。
「有り難うございます・・・・・・」
 彼女は笑顔でそれに応えた。だがその顔は青い。
「さて、皆さん」
 ここで公爵は一同に向き直って話しはじめた。
「私は今宵皆さんを別荘の小さな宴に招待したいのですが」
「お、いよいよか」
 公爵のこの提案に僧院長とアドリアーナ以外の役者達はニンマリと笑った。
「貴女は勿論主賓としてです」
 公爵はそう言ってアドリアーナの方を見た。
「如何ですか、皆さん」
 彼は一同に向き直り彼等に尋ねた。
「公爵の別荘ですか?」
 アドリアーナはふと気がついて彼に尋ねた。
「はい、そうですが」
 彼はアドリアーナの突然の態度にいささか驚きながらも答えた。
「そうですか。それでしたら是非私も。宜しいですか?」
「ええ、勿論ですよ。主賓なのですから」
 公爵は再び笑みに戻って答えた。彼はアドリアーナとマウリツィオとの間にどういうやりとりがあったかは知らなかった。
(あの方もあの別荘にいるのだから)
 彼女は心の中でそう呟いた。
「では今日の夜半に。宜しいですね?」
「ええ、勿論」
 一同は公爵の言葉に喜んで答えた。
「では楽しみにしておりますぞ」
「こちらこそ」
 一同はウキウキした顔でその場を後にした。公爵と僧院長は含み笑いで、役者達はこれから起こるであろう事を予想してニヤニヤしながら。
 アドリアーナは期待に満ちた顔でその場を後にした。そして控え室には誰もいなくなった。



さて、これからどんな風に展開していくのかな〜。
美姫 「今回のお話もオペラらしいわよ」
へ〜。オペラって、結構、面白いな。
美姫 「ええ。早く、続きが読みたいわね」
うんうん。
美姫 「次回も楽しみにしてますね」
ではでは。



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