第二幕 官邸


 シモンは官邸に住んでいる。ここには彼の住居の他に執務室や先程の会議室等がありジェノヴァの政治の中心となっている。豪壮で周りを威圧させるような造りになっている。
 あの事件が起こった刻のことである。シモンは真犯人の捜査をパオロに任せ他の政務に当たっている。当のパオロはその真犯人が他ならぬ自分自身の為ろくに捜査などしてはいなかった。
 その官邸のテラスに彼はいた。ピエトロと一緒である。彼等はそのテラスから市中を見下ろしながらテーブルに着いている。その上には壺が中央に一つ、そしてカップが二つ置かれていた。
「あの二人を使うか」
 パオロは茶を飲みながらピエトロに言った。この時茶はかなり高価なものであった。
「ああ、それしかないな」
 彼もそれに同意した。
「じゃあこれを渡そう」
 パオロはそう言うと懐から一つの鍵を取り出した。
「これであの二人を牢屋から引き出してくれ。秘密の廊下を使ってな」
「あそこか」
 この官邸はいざという時に備え多くの隠し通路や隠し扉がある。そのことを知っているのはシモンの他には彼の腹心であるこの二人だけだ。
「この鍵で廊下への扉は開くからな。頼んだぞ」
「わかった」
 ピエトロは鍵を受け取るとその場を後にした。
「急げよ、一刻も早く高飛びしばくちゃいけないからな」
 パオロは走り去るピエトロの背中に対して声をかけた。
「さて、と」
 パオロは立ち上がりジェノヴァ市内を見回しながら呟いた。
「まさか自分で自分を呪い誓いまでさせられるとはな。恐ろしいことだ」
 彼はそう言うと忌々しげに顔を顰めた。
「すぐにこの街を逃げ出さないとな。さもないと断頭台に上がるのは俺になっちまう。今まで貴族の奴等を難癖つけて片っ端から送った場所に今度は俺が行くことになる」
 そう言うと広場の方を見た。処刑はその広場で行なわれるのだ。
「それだけは御免だ。俺は何としても生き延びてやる」
 テーブルの前に戻った。そしてカップに残った茶を飲んだ。
「その前に総督だけは何とかしないとな」
 壺を手に取った。そしてカップに茶を注いだ。
「追っ手を差し向けられたら厄介だ。それに思い知らせてやらないとな」
 再び茶を口に含んだ。
「一体誰のおかげで総督になれてしかも返り咲けたと思ってるんだ。恩知らずが」
 完全な逆恨みであった。だがそれは彼にとっては当然の理屈であった。
「この中にゆっくりと忍び寄るドス黒い苦しみを注いでやるか」
 彼はそう言うと壺を見た。
「そして殺し屋も用意する。二段の備えだ。さて、どちらにやられるかな」
 そう言うとニヤリ、と笑った。悪事に身を浸す悪魔の笑いであった。
 ピエトロが戻って来た。ガブリエレと老人を連れている。
「早かったな」
「ああ、こちらも急いでいるものでな」
 ピエトロはいささか焦りながら言った。
「ご苦労。それじゃあ先に行っておいてくれ」
「わかった。あの場所で落ち合おう」
「ああ」
 ピエトロは逃げる様にその場から姿を消した。
「また悪事を企んでいるようだな」
 老人はそんな二人を見て言った。
「それがあんたにどういう関係がある?」
 パオロは居直って彼に対し言った。
「ヤコブ=フィエスコ。あんたも本来ならこの街にはいられない筈だがな」
「えっ!?」
 ガブリエレはその名を聞いて驚愕した。彼の名はこのジェノヴァで知らぬ者はいなかった。かってシモンの最大の敵として彼と争った貴族達の領袖の一人であったのだ。
「・・・・・・何処でそれを知った」
 彼はそれを否定することなく問うた。
「流石だな。てっきり否定すると思ったが」
 彼はそれを見て口の左端を吊り上げて笑った。
「わしを馬鹿にしてもらっては困るな。これでもフィエスコ家の主だ」
「もう廃れてしまった旧家のか」
 彼は皮肉を込めて言った。フィエスコはそれには答えなかった。
「まあそんなことは今はどうでもいい。あんた達に頼みがあってここへ来てもらった」
「何だ!?悪事なら一人でやればいい」
 フィエスコは嫌悪感を込めて言った。
「相変わらず頑固だな。それが家を没落させる原因となったというのに」
「誇りと言ってもらうか。卑劣な事や悪事はフィエスコ家にとっては最も忌むべきものだからな」
「やれやれ。あんたにとってもいい話なんだが。ガブリエレさん、貴方にもね」
 彼はそう言うと水を飲んだ。そして二人に対してあえて友好的に微笑んだ。
 だがそれは顔だけであった。その目は憎悪と怨みで燃え盛っていた。
「その目でか」
 フィエスコはその目を見て言った。
「その禍々しい目で」
「フン、まあ落ち着け」
 彼は水を勧める。だがフィエスコはそれを受け取らなかった。
「あんた達が俺を嫌っていようがこの際どうでもいい。まあ俺の話を聞いてくれ」
「何が望みだ?」
 フィエスコは彼を睨み付けて言った。
「そう怒るな。俺はあんたに復讐の機会を与えようというのだ」
「あの男を殺せというのか?」
「そうだ。他ならぬあんたの手でな。どうだ、悪い話ではないだろう?」
「・・・・・・・・・」
 フィエスコはその話を聞き沈黙した。パオロはそれを見て内心ほくそ笑んだ。話を続ける。
「思い出せばいい。あの男があんたに何をしてきたかを。そう思うと自然に怒りが込み上げて来るだろう?」
「・・・・・・確かに」
「ならばわかっている筈だ。あの男が眠っている時にこれでひと思いにやればいい」
 そう言うと懐から一本の短刀を取り出した。
「刃に毒を染み込ませた特別製だ。これならかすっただけでも命を奪えるだろう」
「・・・・・・・・・」
 フィエスコはその短刀を黙して見下ろした。
「さあ受け取るがいい。そしてあの憎っくき男をその手で殺すんだ」
 パオロは言葉巧みにフィエスコを仲間に誘おうとする。だが彼はそれに乗らなかった。
「・・・・・・断る」
 彼は毅然として言った。
「何故だ?折角憎い奴をその手で殺せる絶好の機会だというのに」
「確かにわしはあの男が憎い。だが暗殺しようとは思わぬ」
 彼は言った。
「いずれあの男をこの手で倒す時が来る。それは神の御導きによってな。わしはあの男を正面から向かって倒すのだ」
「では暗殺しようとは思わないのだな?」
「当然だ。わしは刺客などというものは嫌いだ」
 彼はそう言うと短刀から目を逸らした。
「早くその醜いものをしまうがいい。見るだけで汚らわしい」
「・・・・・・そうか、ならば仕方がないな」
 パオロはそれを見て舌打ちして言った。
「とっとと牢屋へ戻れ」
「言われなくとも自分で戻る。わしは貴様を見るよりあそこにいた方が心地良い」
 そう言うと自分で去って行った。
 ガブリエレもそれに従おうとする。だがパオロがその前に立ち塞がった。
「まあ待て」
「暗殺なら僕もお断りだ」
 ガブリエレは顔を顰めて言った。
「フン、お貴族様というのはどいつもこいつも気位が高いな」
 彼は皮肉を言った。
「誇りと言ってもらおうか。少なくとも御前のような卑劣で身勝手な男ではないつもりだ」
「そうか。それは結構。だがいささか鈍感なようだな」
「侮辱か!?生憎貴様の様な男が何を言おうと獣の吠え声として受け取らせてもらう」
「獣か、これはいい」
 パオロはその言葉にクックック、と笑った。
「何がおかしい」
「いや、獣は鼻が利くからな」
 彼は自分の鼻を指差して言った。
「それがどうした?御前が普通の人間より鼻が利こうが僕には関係無い」
「そうだな。ここにアメーリアがいる事を嗅ぎ付けるだけだからな」
 彼はそう言うとガブリエレを見て卑しい笑みを浮かべた。
「それはどういう意味だ!?」
 ガブリエレはその言葉にくってかかった。
「いや何、総督の寝室にいると言ったのだ」
「それは本当か!?」
 彼はその話を聞いて顔を蒼白にさせた。
「俺はもうすぐこの街から高飛びする男だ。今更嘘など言うものか」
 彼はその卑しい笑みをたたえたまま言った。 
 この時フィエスコがいたならば彼の言葉が嘘であると見破っただろう。だがガブリエレはそれを見破るにはあまりにも若かった。そして純真であった。
「そんな、では彼女は・・・・・・」
 彼は声を震わせた。
「そうさ、毎夜総督の快楽の慰み者になっている」
 彼はガブリエレを煽り立てる様に言った。
(上手く毒が回ってきたな。馬鹿な奴だ)
 彼はガブリエレを煽り立てながら見ている。そしてその様子を楽しんでいた。
「おのれ・・・・・・」
 ガブリエレは顔を上げた。その顔は怒りと憎しみで上気し真っ赤になっていた。
「それでどうするつもりだ?」
 パオロはそんな彼に対して問うた。彼は即答した。
「決まっている、あの老いぼれに神の裁きを与えてやる!」
 彼は激昂して言った。
「どうやってだ?」
 パオロはそんな彼を嘲笑する様に言った。
「この官邸の中でか?それこそここが御前の墓場になってしまうぞ。よく落ち着いてからものを言うのだな」
「クッ・・・・・・」
 あからさまな嘲笑であった。だがガブリエレは言い返せない。その通りだからだ。
「まあ誇りは死なぞ怖れないというがな。それでもいいというのなら俺は止めはしないがな」
 それとなく彼を煽動する。
「しかし武器も無いのだぞ。よく考えてから何事も為すのだな」
 そう言うと先程の短刀をさりげなくテーブルの上に置いた。
「だが俺はこれ以上は言わん。もうこの街から逃げ去らわなくてはならんからな」
 彼はガブリエレに背を向けた。
「好きにするがいい。その誇りに忠実にな」
 彼はそう言い残すと姿を消した。その顔は邪悪な笑みで満ちていた。しかしそれはガブリエレには見えなかった。
 テラスにはガブリエレ一人だけが残った。彼は怒りと屈辱に身体を震わせながら立っていた。
「あの男がアメーリアを自分のものにしているというのか」
 彼は声を震わせて呟いた。
「僕の父を殺し今度は僕の愛しい人まで汚すというのか」
 次第にその声がうわずってきた。
「許さん、有さんぞ悪党め!」
 叫んだ。夜のジェノヴァに響く。
「天に座す神に誓おう、たとえ僕がどうなろうとも構わない、貴様だけはこの手で殺す、一撃では楽にはしない、そのおぞましく卑しい所業に相応しい罰を与えてやる」
 その時テーブルに置いてある短刀に気付いた。
「これはさっきの・・・・・・」
 パオロがわざと置いていったものだ。だがそれはどうでもよかった。これで憎い男に報いを与える武器が手に入ったのだから。
「そしてあの愛しい人をこの手に奪い返す。あの天使の様に清らかな人を。しかし」
 彼はそう言うと表情を暗くさせた。
「もし心まで穢れているのならば・・・・・・。最早僕は彼女を愛することは出来ない」
 そう言うと椅子に崩れ落ちた。
「こんなことをしている場合じゃないな」
 彼はふと気付いた。
「行くか。あの男に神の裁きを与えに」
 その時テラスの入口に誰かがやって来た。ガブリエレは短刀を咄嗟に懐へ隠した。
「ガブリエレ」
 それはアメーリアだった。
「誰に牢屋から出してもらったの!?」
 彼女は彼の姿を認めると尋ねてきた。
「それは・・・・・・」
 ガブリエレは口ごもった。
「それよりも貴女が何故ここに!?」
 疑念が現実味を帯びてきたように感じた。
「えっ、私は・・・・・・」
 だが彼女が言うより早くガブリエレは言った。
「まさかあの男に・・・・・・」
「あの男って?」
 アメーリアには話が読めない。
「決まっている。総督だ。君はあいつの寝室に行っていたんじゃないのか!?」
「私が!?」
 彼女はその言葉に驚愕した。
「そんな・・・・・・有り得ないわ」
 彼女はそれを必死に否定した。
「しかし今こうやってこの官邸にいるじゃないか」
「それはわけがあって」
「誤魔化すつもりかい!?自分の淫らな行いを!」
 ガブリエレは激昂して叫んだ。
「ガブリエレ、落ち着いて私の話を聞いて!」
 彼女はそんな恋人を必死に宥めようとする。
「そうして僕に嘘を言うつもりかい!?今までのように」
 だが彼は気が昂ぶっていてどうにもならない。アメーリアはそれでも落ち着かせようと必死だ。
「とにかく落ち着いて!」
「これが落ち着かずにいられるものか!」
 彼は拳を振り回して叫ぶ。そこに誰かがやって来る気配がした。
「誰か来たわ」
 アメーリアはその気配にハッとした。ガブリエレも急激に落ち着いてきた。
「お父・・・・・・いえ総督よ」
「なら好都合だ」
 ガブリエレはニヤリ、と笑った。
「馬鹿な事は止めて」
 アメーリアはそんな彼を窘めた。
「馬鹿な事!?何を言ってるんだ、あいつに神の裁きを与える時が来たんだよ」
 彼は聞き入れようとしない。
「いいからこちらへ」
 彼女はそんな彼を必死に宥める。そしてテラスの上へ隠れさせた。
 そこへ入れ替わる様にシモンが入って来た。
「娘よ、そこにいたのか」
 彼はアメーリアの姿を認めると微笑んだ。
(娘!?)
 テラスの上にいたガブリエレはその声が聞こえた。そして驚いた。
「御父様」
 アメーリアは彼を笑顔で出迎えた。
(それでは総督の消えた娘というのは)
 彼に娘がいたという話はガブリエレも聞いていた。
(アメーリアのことだったのか)
 彼はこの不思議な巡り合わせに驚愕した。
(何という事だ。僕の父を殺した男の娘が僕の愛しい人だったとは)
 だがこれはアメーリアも同じである。またそうだとしても二人の愛の炎は衰えることはなかった。
「どうした、何やら口論していたようだが」
「いえ、何でもありませんわ」
 彼女は先程のガブリエレとのやり取りを誤魔化した。
「そうか。ところで以前聞いた話だが」
 シモンは娘に対し尋ねた。
「はい」
「結婚を約束した相手というのは誰だ?有力な貴族の若者だとは聞いたが」
(僕の事か)
 ガブリエレは上で聞きながら思った。
「御前に相応しい相手なら私も喜んでそれを認めよう。それは一体だれかね」
「はい、それは・・・・・・」
 父に促され話を始めた。
「ガブリエレ。ガブリエレ=アドルノです。アドルノ家当主の」
 彼女は顔を赤らめて言った。
「そうか・・・・・・」
 シモンはそれを聞いてうなだれた。
「残念だがその恋は諦めるのだな」
 彼は娘を諭す様に言った。
「どうしてですか!?」
 彼女はそれに対して問うた。
「これを見なさい」
 シモンはそう言うと懐から一枚の書類を取り出した。
「それは・・・・・・」
 そこにはシモンと敵対する有力な貴族達の中でも過激派と目される人物の名が書かれていた。
 多くの名がある。アメーリアはその中に自分の愛しい人の名があるのを認めた。
「そんな・・・・・・」
 アメーリアはそれを見て絶望の声をあげた。ガブリエレは密かに身構えた。
「許して下さい、彼は私の愛しい人なのです」
 彼女は父に対して懇願した。
「駄目だ、それは出来ん」
 シモンはそれに対して首を横に振った。
「それならば私は・・・・・・」
 彼女は意を決した顔で父を見て言った。
「あの人と一緒に断頭台へ上がります」
「なっ・・・・・・!」
 シモンはその言葉に絶句した。ガブリエレも声だけは何とか抑えたがその言葉に絶句した。
「それ程までにあの男を愛しているというのか!?」
「はい」
 アメーリアは父の問いに対して強い声で答えた。
「私の唯一つの願いはあの人と結ばれ永遠に共に暮らすことです。それが果たせなければ私には生きている意味がありません」
「何ということだ・・・・・・」
 シモンは娘の言葉に絶句した。
(これが私の運命なのか・・・・・・)
 彼は心の中で呟いた。
(長きに渡って捜し求めていた娘と出会えたというのに敵に奪われてしまうとは。神よ、私には孤独しか許されてはいないのですか・・・・・・)
 だが気を取り直した。アメーリアへ顔を向け直す。
「・・・・・・わかった、そなたがそこまで思うというのなら許そう」
 シモンは苦渋に満ちた顔で言った。
「御父様・・・・・・」
 アメーリアの顔が歓喜に包まれようとする。だがシモンはもう一言付け加えた。
「だが一つだけ条件がある」
 彼は娘に対し説き聞かす声で言った。
「彼が己の非を悟り私と和解するのならばな」
「はい・・・・・・」
 アメーリアはその言葉に頷いた。
「彼の父はヴェネツィアと通じ私の命を狙った。だからこそ殺されたのだ。そして今も貴族達の陰にはあの街の者達がその姿を隠している」
(それは本当かっ!?)
 ガブリエレはその話に対し顔を強張らせた。
(確かに以前から金の出所が気になっていたが)
 彼等には首謀者がいる。その者が資金を調達していたのだがあまりにも潤沢であった為に不思議に思っていたのだ。
「彼がそれを知り私の前に現われるなら・・・・・・。私は喜んでそなたの願いを叶えてやろう」
「有り難うございます・・・・・・」
 アメーリアは父に対し頭を深々と下げた。
「それでは休むとしよう。もう遅い」
「はい」
 二人はテラスから去った。ガブリエレは下を覗き誰もいなくなったのを確かめると下に降りて来た。
「とりあえずあの者はいずれ調べ上げるとして」
 彼は官邸の中を見た。
「それでも我が父の仇であることには変わりないのだ。たとえ父が憎きヴェネツィアと結託していたとしても」
 だが内心では迷いが生じていた。彼とてジェノヴァの人間である。ヴェネツィアが憎くない筈がなかった。そして彼等と結託する事がどれだけ恥ずべきことであるのかもわかっていた。
 しかし長い間抱いていた憎しみは別である。その黒い炎はそう簡単には消えはしなかった。
 官邸の中に入る。そして隠れながらその中を慎重に探る。
 奥の部屋に彼はいた。テーブルの上に置いてある茶碗に壺の中の水を注ぎ込み飲んでいる。質素な生活を好む彼は茶を嗜まない。いつも水を飲んでいるのだ。
「ふう・・・・・・」
 彼は水を飲み終えると溜息をついた。
「水でさえ苦いものに思える」
 彼は椅子に座り呟いた。
「これが街を治める者の苦しみか。泉の水でさえ毒のようだ」
 彼は疲れ切っていた。その全身を鈍い疲労が襲う。
「そして全て私のもとを去って行く。恋人も娘も。そして私はいつも孤独だ」
 総督になってから今までの事が走馬灯の様に思い出される。しかしどれも寂しく苦しいものばかりだった。
「娘よ、行くがいい。そして・・・・・・笑顔で私を見てくれ」
 そう言うとまどろみだした。そして椅子に座ったまま眠りに入った。
 ガブリエレは彼が眠ったのを見届けるとゆっくりと部屋の中に入った。そして彼を見た。
「完全に眠っているな」
 彼はシモンを見下ろして言った。シモンは顔を俯け倒れ込む様な姿勢で眠っている。
「今この長年の恨みを晴らす時」
 懐から短刀を取り出した。鞘から抜く。刀身は黒く光っている。
「父上、見ていて下さい」
 身構える。そして一気に振り下ろそうとする。
 だが身体が動かない。急に竦んでしまった。
「どういうことだ・・・・・・」
 ガブリエレは構えを解いた。そして短刀を握る右手を見て呟いた。その右手は震えていた。
「つい先程まで憎しみに燃え上がっていたというのに。一体何故・・・・・・」
 彼はいぶかしんだ。だが気を取り直し再び身構えた。
 その時アメーリアが部屋に入って来た。
「ガブリエレ・・・・・・!」
 彼女は彼を迎えに行くところだったのだ。その近道であったこの部屋を丁度通り掛かったのだ。
「アメーリア・・・・・・」
 彼は短刀を振り上げたままの姿勢で彼女に顔を向けた。バツが悪そうに見る。
「止めて!」
 彼女は彼の身体を抱き止めて言った。
「しかしこの男は僕の・・・・・・」
 彼はそれでも短刀を離そうとしない。だがそれを握る力が序々に弱まっていくのを感じていた。
「テラスで聞いたでしょう、だから・・・・・・」
 アメーリアはそんな彼を必死に止める。
「だが・・・・・・」
 ガブリエレはそれでも短刀を握っている。だが構えを解いた。
 騒ぎにシモンが目覚めた。アメーリアとガブリエレを見る。
「そうか・・・・・・」
 ガブリエレの手にある短刀を見て呟いた。
「刺すなら刺すがいい。私は逃げも隠れもしない」
 彼は椅子に座ったまま毅然として言った。
「言われなくとも」
 彼は再びその手を振り上げようとする。だが出来ない。
「クッ・・・・・・」
 呻く様に言った。何とか振り上げようとするがどうしても出来なかった。
「アメーリア、君に従おう」
 彼は短刀を床に放り捨てた。短刀は音を立てて床に転がった。
「そうか。捨てたか」
 シモンはその短刀を見下ろしながら言った。
「だが一つ聞きたい。どうやって牢屋から出て来た」
「・・・・・・おわかりになると思いますが」
 ガブリエレは顔を顰めて言った。
「私がか!?」
「はい。アメーリアがさらわれた一連の経緯をよくお考えになられれば」
「それよりもそなた自身に聞いた方が早いがな」
 彼は暗に拷問を示唆した。
「お好きなように。ですが僕はこれ以上は決して言いませんよ」
「だろうな。ならば良い。私にも事情は大体察しがつく」
 シモンは短刀を見下ろしながら言った。
「今度はあの連中が断頭台へ行くか。因果なものだな」
 そう呟くとガブリエレへ顔を戻した。
「私が憎いか」
 彼はガブリエレに問うた。
「ええ、勿論です」
 ガブリエレは迷う事無く答えた。
「そうか。だろうな」
 シモンは目を閉じて言った。
「では私は御前に復讐を遂げさせてやろう。アメーリア」
 そう言うと娘を呼んだ。
「はい」
 アメーリアは父の側に来た。
「今からそなたはここにいるガブリエレ=アドルノの妻だ」
 シモンは娘に対して言った。
「えっ、それは・・・・・・」
 その言葉にアメーリアもガブリエレも驚いた。
「復讐を遂げたいのだろう。ならば私は自分の最も大切なものをそなたに与えよう。私がそなたのかけがえのない者を処刑場に送った代わりにな」
「御父様・・・・・・」
 アメーリアは父の名を呼んだ。
「本来ジェノヴァはこうすべきだったのだ。貴族だ、平民だと争わずに同じ街に住む者としてな」
 彼は顔を俯けて言った。
「私もそれはわかっていた筈だったのだ。あの時に」
 ふと二十五年前のことが脳裏に浮かぶ。アメーリアの母マリアとの愛が。
「だが私はそれを長い間忘れていた。愚かにもな。そんな男がどうしてこの街を平和に導けようか」
 彼は嘆息して言葉を出した。
「憎悪・・・・・・。それが全ての災厄だった。私もそれに心を捉われていたのだ」
 あのフィエスコとのいがみ合いを思い出す。無益な、それでいてかけがいのないものを失った憎悪だった。
(あの男も最後にはそれに気付いただろうか) 
 ふと彼のことを思う。あれ程憎み対立したというのに。
(だがそれももうどうでもいいことだ)
 彼は内心そう呟いた。
(これで今までの愚かないがみ合いの幕が降りるというのなら)
 シモンは二人を見て思った。貴族の息子と平民の娘、その二人が今時分の前で愛し合っている。
(フィエスコ、そなたはこの光景を見て何と言うだろうな)
 その時だった。不意に広場の方から不意に騒ぎがした。
「諸君、武器をとれ!」
 パオロの声であった。
「貴族の奴等が総督のお命を狙っている、それを阻むのだ!」
 ピエトロの声もする。どうやらまた煽動しているらしい。
「あの者達は何を考えているのだ!?」
 シモンは立ち上がり首を傾げた。
「この街を逃げる前に一騒ぎ起こそうとしているみたいですね」
 ガブリエレは顔を顰めて言った。
「逃げる!?何故だ!?」
「貴方を暗殺して身を隠す為ですよ」
 彼はシモンに顔を向けて言った。
「私をか!?あの二人が」
 シモンはその言葉に眉を顰めた。
「一体どういう事だ・・・・・・、いや」
 シモンはふと気が付いた。
「成程、そういうことか」
 アメーリアの誘拐の件の黒幕が誰であるか今わかったのだ。
「そしてそれが露呈するのを怖れてか。相変わらず悪知恵の働く奴だ」
 彼は怒りを露わにして言った。
「おそらく自分達は騒ぎに紛れて逃げるつもりなのでしょう。どうなさいますか?」
「決まっている、捕らえて首を刎ねてやる」
 シモンは声のする方を睨んで言った。
「ガブリエレ=アドルノ」
 彼はガブリエレに顔を向けて言った。
「ハッ」
 ガブリエレはその言葉に畏まった。
「そなたは平民の議員及び要人達と共にあの二人に煽動されている民衆を説得せよ。彼等には罪は無い」
「わかりました。そしてあの二人はどうしますか?」
 彼は問うた。
「心配は無い。どうせこの街からは逃げられはせぬ」
 シモンは毅然として言った。
「馬鹿者共が。すぐに逃げればよいものを」
 彼は怒りを込めた声で呟いた。
「所詮は煽動だけが脳の連中か。何時までもそれが通用すると思ってか」
 彼は退室するガブリエレを見送りながら言った。
「煽動は政治とは違う。それがわからぬ愚か者は最後には斧の下で死ぬ」
 やがて騒ぎは収まった。そしてシモンを称える声が聞こえてきた。
「終わったか」
 シモンはそれを聞きながら呟いた。
「アメーリア、いやマリアよ」
 彼は娘へ顔を向けた。
「はい」
「そなたの目は曇ってはいないようだな」
 シモンは娘に対して言った。やがてパオロとピエトロが捕らえられたとの報告が入って来た。



アメーリアとガブリエレ、良かったね〜。
美姫 「ええ、本当に」
そして、遂にパオロとピエトロが捕まった。
美姫 「彼らも遂に最後ね」
このまま終わるのか、それともまだ何かあるのか。
美姫 「一体、どうなるのか楽しみね」
うん。次回も楽しみに待ってます。
美姫 「待ってますね〜」



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